盛夏の季節、天候不順のこの頃

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第37回上尾市美協展開催

元気すぎる母 ! 「老いの構図」

2007-01-31 06:48:12 | 法事
去る、1月28日に父が99歳でこの世を去った。一方、母は大正生まれ、今年の7月の誕生日で92歳となる。
昨年、10月まで父の世話を自宅ですべてしていたような、、、「元気すぎる母親」である。
伊勢崎の鶴谷病院で父が息をひきとった直後は、子供のように病院のベットの横で泣きじゃくり、その後がチョツピリ心配でもあった。

しかし、葬儀の準備をしている子供兄弟に元気よく話しかけてくる。昨年、母は「父ちゃんは耳が聞こえないので困る、もうだめ、、、」と言っていた。

話かけてくるが、話題がぴょんぽこぴょんと飛んでしまう、、、耳が悪いためで「相手との交信」が出来ない状態である。


相手の話を聞くことが大切であると説得して、はじめて補聴器をつけた次第である。補聴器も3万円~28万円の補聴器を沢山持っている様子。
通夜の前日は最後の別れを惜しみ父(故、町田六郎)の横で添えねでもするかと思っていたが、夜になるとお風呂に入りいつもの部屋でゆっくり睡眠をとるようす。いつものライフワークは変えないようである。
今後が見ものである。
自分勝手な行動では同居の家族がとても大変である。(どうにかならないものか、兄弟として頭が痛いです。)
■ことわざ辞典では「老いては子に従え」、、、年をとると体も弱り考え方も古くなる。まず、子供の意見に従うがよいとの意。これは仏教に見える教えで、婦人に対して言った言葉であるが、今日では必ずしも婦人に対してのみとは限らない。

■また、医学書を読むと「老化防止に必要な刺激」では、、、①社会性②未来性③義務制に欠けると身体・精神に悪循環がつくられるとか。

社会性を保つことが、老化を防ぐ、、、「自分のしたい事だけでは禁物」のようである。
人間の身体機能は、中枢の脳の支配を受けており、どんな小さな動きでも、感覚でも、それが脳を動かせ、身体全体の若さを保つことに結びつとの事を言っている。

従って、目や耳の感覚を通じて社会的刺激を受け、手足の動きや感覚を通して身体刺激を受ける点は、程よいバランスを保たねばならないようである。
「自己の意思のままにならないことを持ち続けることかも知れません。義務的な要素も持ち続けることである。」
外の世界との交流を絶たぬことが肝要かも知れません。

こころの老化は、年齢に係わり無くやってくる。その時から、人間は老いに向かうのだ。

■これからは、母に対して91歳だからと言う甘えの言葉はなるべくいわずに、”老いては子に従え”を主軸に、老人教育に努め「辛口で、、、」行きたいものです。
アルベルト譽

人生

2007-01-30 06:50:13 | 個展・グループ展
去る、1月28日98歳の誕生日を迎えた父がこの世を去った。故、町田六郎は明治42年生まれ、群馬の世良田平塚にずーと住み、皆々様のご厚情を賜ってまいりました。
終戦後の食糧難の時代に、6人の子供を母と祖母中心にして一緒に育ててくれました。
当時は、貧乏な生活で世良田小学校・中学校の教科書などは兄の本を貰い授業をうけました。
(すでに改訂版)兄の教科書を読んだときなどクラスの者から笑われ恥ずかしい思いをした記憶が何度もありました。朝の家の仕事をしてから学校へ、、、(ほとんど、遅刻)
小学校・中学校通信簿は、いつも5段階評価(1・2・3のどれか)でした。しかし、不思議に体育と図画工作だけは5の評価でした。

<第20回記念>町田譽曽彦油絵展  東京・三越にて(2000年5月)

学生服もまたしかり、本家と新宅が判らぬような「敷きしがあたり」ぼろぼろな学生服でした。(若い人には理解されません)
今、思うと父は想像もつかぬ大変だったと思います。「到底まねの出来ない凄い事をやって子供を育ててくれた」のだと思います。

しかし、いつもニコニコ笑って家族や近所の人に接してたのが印象に残っています。
そして、特に「礼儀・挨拶」は、馬鹿がつくほど几帳面でした。

きっと、そんなところが6人の子供達に伝わりいまでも続いているのだと思います。
「戦後の貧しい家庭生活の中で貴重なことを子供に教えくれたのだと思うと感謝の気持で涙がでてきます。

いつまでも生きててくれ「オヤジ」と叫んでみたくなるときもあるかも知れません。
父は、昨年10月末ごろから体調を崩して「鶴谷病院」お世話になり28日に息を引き取り永遠の別れとなりました。


鶴谷病院の看護をしてくださいましたナースの方は「明治生まれの人は、心臓が強く昭和生まれの人よりも長生きしているとか、、、」

あと一歩、100歳、まで生きてほしかったと思いますが、これも天命でございましょう。
親爺は頑固なところがあり、皆さまにご迷惑をおかけしたことも多かったかと思われますが、改めて生前賜りました皆さまからのご厚誼に深く感謝を申し上げます。
どうぞ、今後とも宜しくご指導を賜りますようお願いいたします。

99歳(没)父、町田六郎  (群馬・伊勢崎市境)

2007-01-29 07:33:19 | 法事
 2007年1月28日 父、町田六郎が没。享年99歳でした。
昨年の11月に群馬県伊勢崎市の「鶴谷病院」に入院し、3ヶ月でした。
 思えば昨年の新年会では、家族30余人に囲まれてビールを笑顔で
飲んでいたことを思い出します。

昨夜、午後7時5分の死去でした。母親と兄弟が見守る中で息をひき
とりました。
子供と孫にめぐまれて幸福な父であつたと思います。終戦後、食料難の
時代に6人の男を育て更に99歳まで生きてきたのです。

  軽井沢にて  町田六郎








明治生まれの人間はやはり根性が違うとつくずく思いました。
 鶴谷病院の看護をしてくださいました方が言ってました。「昭和生まれの人間、現代の人は入院後、2ヶ月ぐらいの寿命とか、、、明治時代の人は、心臓が丈夫なんですとか、、、」
私はその言葉が今でも残っています。

私は、身内との別れが3人目です。
祖母、93歳。長女、優子18歳。父、99歳です。
諸行無常と言うより、「良くぞ生き抜いたかと、、、92歳の母が泣きじゃくる横で感じたのです」優子と比較してしまうのは仕方ないことです。娘が生きていれば今、35歳である。

私が父の年まで生きるためにはあと、37年です。ただ、生きるだけでも気が遠くなってしまいます。
「今日と言う日を大切にして生きて行きたいです。」

昨晩私は、世良田小学校昭和26年入学の新年会が太田市「明養軒」で開催されました。新年会の乾杯音頭を指名されて、発声を済ませ(記念撮影)後に姉からの電話で鶴谷病院に駆けつけました。

■通夜:1/31(水) 午後6時~  ■告別式:2/1(木)午前11時~ 
 場所:さかい聖苑 ?0270-70-6000  
■喪主:町田一郎(長男)

楽しい逗子マリーナ写生会でした。富士山を描く

2007-01-27 21:53:27 | カルチャー絵画教室
 日頃の心がけが良かった為か26日、27日の両日が天気に恵まれ十分
に絵が描けました。
上尾洋画研究所「絵画教室」の逗子マリーナの写生会が楽しく出来ました。
1月26日は快晴で風もなく、皆さんが朝から油絵で描くことができました。

逗子マリーナの「レストラングランドブルー」でまず、記念撮影しその後、
本館前にイーゼルをたて10号キャンバスで江ノ島鎌倉を遠景にして、ヨツト
ハーバーを描きました。


レストラン グランドブルーにて 2007.1.26 上尾洋画研究所」
本館前で7人が描き始めるとその姿は、観光客やヨットのオーナーなどの注目
を集めました。
何処からきたのですか、、、上手いですね。また、黙って覗きこんでいく姿など、


朝と昼の食事は「リベラプラザ」のシーサイドカフェーでとりました。
天気に恵まれ富士山が丁度、江ノ島鎌倉の右手うえに雪化粧し迎えてくれました。

私は、油絵の6号と水彩2枚描くことができました。
夜は、カトレヤ間の裏の食堂で作品を話題にして食事が出来ました。
二次会は、部屋で行い、遅くまで絵の話や人生について有意義な話が出来ました。
又、来たいですね。とてもよかったです。




帰りには、次回の逗子マリーナ写生会の計画など話しながら上尾に着きました。
遠方、熊谷から参加したTさんを見送り解散しました。

絵で大切なのは、、、空間処理!

2007-01-26 07:25:40 | 芸術論
良い絵を描きたい、、、 
絵は、設計技師が描いた(設計図のような絵は硬く、隙間がなく、絵に欠けてるところがなくて、、、)絵は、面白さは感じられないのです。
良く描けているだけでは物足りないです。

大切なのは、「画用紙の中に、いかに割り切れない部分や可能性・未来の夢などの部分を創ることか、、、」だと信じています。

あまり、割り切れない部分をおおくすると、誤解されることもあります。
幼児の描いたような絵に、、、又は、「へんてこりんな絵のなかに、いかに自分の描きたいものを表現するか、、、しかし、誤解されないようにするかが大切、、、」
多くの人が関心をもって観て、感動が与えられればよいのだと思いながら描いています。

*風景や人を「同じ目線でみると正確によくみることができます。」しかし、面白さは別の次元で「割り切れない部分をいかに加味するかとよいかも、、 
                                                      

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