盛夏の季節、天候不順のこの頃

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
第37回上尾市美協展開催

成人式の決意(日記)から絵を描き45年!

2010-10-29 06:05:33 | 想い出・歴史
私の成人式(ライフプラン)日記、絵を描き45年!
誕生日に思う! 光陰矢のごとし、、、

私は、群馬県新田郡世良田村の世良田小学1年の時、正月の「お餅つきの絵」を描いた絵が金賞なる。親や家族にほめられ絵が好きになったようです。従って、小学時代・中学時代を通して教科のなかでいちばん絵(図画工作)好きでした。兄弟は、男6人みな身体は恵まれていた。(兄弟は、水泳 野球 柔道 マラソン駅伝 バスケットなど)私は、中学時代のクラブ活動が野球部(新田郡大会等駅伝の選手)でした。






   寺泊港より弥彦山(新潟) F15 (2010.10.2)洋画部写生会





 終戦直後、6人兄弟を含め10人家族のため貧乏な生活でした。とうてい、高校入学など困難な我家の経済状態でした。しかし、私の家の隣(親は、早大卒)の中学野球部同級生I君が太田高校に受験とのことでした。私は、母親に何度も高校受験を頼みました。やっと、中学3年の10月頃にわたしの願いが親に受け入れられた。(もちろん、高校を卒業し就職の道だった。)幸い、群馬県立伊勢崎高校に入学できた(授業料、月謝600円ほど)。野球部など経済的にも無理(柔道部入部)。クラスは1年3組だった。(きっと、最後の成績で合格だったかも知れません。クラス50人の教室)




<お誕生日のケーキ>(2010.10.28)
小学時代は、継ぎあての学生服、高校に入学しても小学・中学時代と同じで新しい教科書は無かった。もちろん辞書、参考書など買ってもらえませんでした。
境町に住む先輩のTさんから借りた教科書だった。(小学時代は、兄の使った教科書、いつも教室で改訂版前の古い教科書を読み笑われた。)
しかし、高校2年・3年になるにつれ向学心に目覚め勉強が大好きになりました。自分のような人がきっといるのではと思い大学に入り「教員」になる事を目標になりました。(貧乏な生活の事は、考えていたが大学いきたい、、、)
その後、高校3年間の担任だった岡田実先生(英語)にお願いして日本育英会より奨学金を借りて東京の大学で学ぶことができました。在学中、教職課程を履修(卒業後、聴講生を1年して他資格修得)。そして、どうしても「美術教師」の勉強をと考え武蔵野美術短期大学に入り教員の資格へ動いた、、、。大学卒業時、二科会の斎藤三郎先生に将来を相談したところ「絵描きになりたいなら、教員でないほうが自分の絵を描くことができる」とのことでした。






   海の詩 F4 パステル 町田譽曽彦




 二科展に初入選し、はじめて斎藤三郎の自宅でお会いし話したときの印象は「私とおなじくらい絵を描くことが好きな先生」でした。その後20年余り指導アドバイスを頂き感謝感激です。(斎藤先生は、東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し)




私は、20才の誕生日に人生の生き方を考え決めていました。「人生は限りがあり、いろんな事をやりたいが時間的に無理、そこで好きな絵を生涯描いていくことに、、、エネルギー集中」又、当時の日記に、生涯1回だけでも東京・銀座の一流の画廊とデパートで個展開催する事がわたしの夢だった。
そんな夢のライフプランを暗示してくれたのが大学時代「教育哲学」で学んだ実存哲学者「カールヤスパース」実存哲学でした。人生は一度だけ、出会った人に最善を尽くし悔いの無い人生を送ることがたいせつ、、、親孝行したい時に親がなしにならないように、現在の「在りのままの姿で親に接する」ことを説いています。
私は、成人式を浦和市で向かえた。なぜか、埼玉県庁に呼ばれ大学生・サラリーマン・個人商店の代表3人の一人となり県庁に行きました。(成人式を迎えた3人の喜びの声、、、「ラジオ放送」)
過去を思えば、1967年(22才)で公募展・埼玉県展初入選し、1972年に池袋画廊、サエグサ画廊個展。そして、1979年から東京・三越の美術ギャラリー(画廊)で10年連続の個展が出来たのは夢のようです。「自分の信念」に家族の応援が無ければ実現できません。妻に感謝と健康に感謝(親)です。これから、70才までボランテアを兼ねて各所の団体・洋画研究所(カルチャーセンター)で後進の絵画アドバイスを行って行きたいと考えています。
しかし、70才になったら改めて「自分の絵だけに専念」して人生を過ごして行きたいと考えています。





<誕生日に描いたコスモス>水彩 F5(2010.10.28)


一般に、 人間70才になると①体力の衰え②認知症になりやすい③愚痴を言いたくなる④肩書きで生きようとする⑤プライドは制作によくない⑥依頼心が強くなるなど見られてくるので気をつけて生きていきたいと思っています。
「人間の人生は有限であり、わずか80才です。」あまり他人さまのことは気にせず好きな絵を描き、他人に迷惑をかけないようにと思っています。
これからわずか10年の人生、毎日まいにちを大切に好きな絵を描き生きて行きたいです。
(アルベルト譽)
















斎藤三郎先生 <年 譜>
? 1917年-埼玉県熊谷市に生まれる。
? 1937年-内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
? 1940年-東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数の
             デッサンを描く。
? 1946年-第31回二科展に初入選。
? 1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
? 1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
? 1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
? 1954年-二科会会員推挙。
? 1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
? 1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。
             二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
? 1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
? 1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。
             二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
? 1996年-埼玉県浦和市元町にて死去。享年78歳。


町田譽曽彦、松田正平先生に人体・石膏デッサンと静物画の指導を受ける。

2009-10-27 22:48:14 | 想い出・歴史
私は、昭和40年頃に国画会の松田正平先生に人体・石膏デッサンと
静物画の指導を4年間受け油絵の基礎を学ぶことができました。
 国画会員、松田正平先生(1913-2004)の絵は、とてもユーモアが
漂っていました。静物そして、人物の「べっぴんさん」等、東京藝術大学
卒業生が描いたなど思えない油絵でした。


             

<晩年の松田正平先生>第16回日本芸術大賞受賞


とても、こっけいで面白く、観る人を楽しませてくれました。私は、東京・日本橋
の絵画部で毎週火曜日の夕方から2時間程度のレッスンでした。
レッスンの石膏ビーナスの時など、誰かが、松田先生に「なかなかうまくトーンが
表現できません。
その時先生曰く、笑いながら「芸大では石膏を50枚くらい描いてからでないとその
言葉はいえない」とか。言っていた言葉が思いだされます。


         





         <木炭のよるデッサン風景>
また、「人体裸体デッサン」で卓球台の上に立たせデッサンした時など、何処から
描いてよいやら悩んだことが思いだされます。


休日を利用して、仲間と一緒に千葉県鶴舞の松田正平先生の自宅に数回、遊びに
行きました。自宅は、お寺のようなところにアトリエもあり、山の中で時々蛇やトカゲ
など出てくるとのことでした。
小学生が作ったような変形茶碗でコーヒーを頂いたことなど忘れることはありません。
松田正平先生の人間性がとても感じられました。



50才後半になり、大阪フォルム画廊が先生の作品を紹介はじめ銀座の画廊等で作品
を目にする事がありました。


               

<軽井沢写生会の風景>
70歳を過ぎてから描いた大きな魚など(1984年)は、その人柄がよく表現されていま
した。
松田正平先生は50歳を過ぎて世に認められた、遅咲きの洋画家です。よく、国展に白い犬
を描き出展していた記憶があります。
 






               
<絵画展の風景>先生の影響を受けた人物画・静物画が目立ちました
破顔する自画像もよく描いていていました。自画像というもののなかにあって極めて稀なもの
です。自画像をあえて描いたところに画業一途な眼差しを感じました。

 島根県に生まれ、山口県の松田家に養子に出され、長じて東京美術学校に進み、昭和37年
に卒業するとパリに留学。(岡田真澄の話をよくしていました。)
昭和39年帰国してその後、東京を中心に油絵の作品制作と講師など行い国展に出品「国画会
会員」の画業生活を続けてきたようです。


              


  中軽井沢に宿泊しての写生会 <鬼押し出しにて>

 松田正平先生は、ナイフを駆使しての厚塗りから薄塗りへと転じた洋画家です。初期の作品
「風景」(1929)は後年の軽妙さはなく、ずんずんと真正面から描く対象に迫ってくる強さがあって、
興味深いものがありました。
松田正平先生の作品を思い出してみると、晩年の作品にある悟りを感じます。
若き日の作品が具現しているエネルギー的なものが内包されていて、あらためて松田正平先生
の凄さを感じてしまいました。
私の20代前半がとても懐かしく思いだされます。これからどんな作品が出来るか少年時代を思い
出しながら激しい芸術作品の凄さを出せていけたらと思っています。
 


 松田正平先生<画 歴>

1913   島根県鹿足郡青原村に生れる
1932   東京美術学校西洋画科入学藤島教室
1935   帝展第2部会入選
1936   第1回文展入選
1937~39 渡仏
1941   国画会出品
1950   国画会会員となる
1951~86 国際具象展出品
1978   フォルム画廊(油彩展) 現代画廊(水彩画) 同時開催
1982~93 日本洋画商協同組合82年展出品 以後毎年出品
1983   松田正平画集出版記念展 銀座松坂屋(フォルム画廊主催)
1984   第16回日本芸術大賞受賞
      フォルム画廊(油彩)・現代画廊(デッサン)同時開催
1985   松田正平回顧展 宇部市文化センター
       香月泰男・松田正平二人展 横浜そごう
1986   宇部市特別文化功労賞受賞
1987   松田正平展 山口県立美術館
      フォルム画廊(素描展) `90,`91
1988   個展 フォルム画廊 `93,`96~`99
1989   個展 宇部興産ビル
1992   松田正平・小林和作展 パレット画廊
1994   愛媛県立美術館企画展 出品
1999   「松田正平の世界」山口県立美術館
      個展 パレット画廊
2004   松田正平展 宇部市文化会館
       


                                  (アルベルト譽)

演題「カストロそして、白洲次郎ー食料問題」

2009-02-28 18:30:19 | 想い出・歴史
2008年7月12日(土) 東京・上野の精養軒で14:00~18:00
中央大学学員会白門43会総会・懇親会が開催され出席しました。





ご来賓は、中央大学理事長久野修慈学員会会長はじめ、副会長の
飯塚久子さま、神谷威吉郎さま、佐藤光信さま、並びに42白門会
大木田 守会長、白門44会風間 俊範支部長、松木 茂夫会長、
小林 健一幹事長など来賓8名と会員69名の77名で行われました。





第1部 定期総会 14:30~15:20
開会の辞、司会は、松本光男により行われました。
その後、正野 建樹会長挨拶。議案審議がスムースに行われました。







 


第2部 記念講演15:30~16:40
     演題「カストロそして、白洲次郎ー食料問題」
     講師:中央大学理事長 久野 修慈 様

     「私が薫陶を受けた白洲次郎氏」
     白洲次郎さんとの出会いは、1970年秋。彼が大洋漁業の
     社長相談役した際、私を秘書として指名したことがキッカケ、、、
     以後、白洲さんが亡くなるまで10数年間親しくお付き合い
     させてもらい、多くの薫陶を受けた。戦後の復興交渉でGHQ
     要人相手に一歩も引かず、「従順ならざる唯一の日本人」と言
     われた白洲さんを中心にして1時間余り話してくれました。


     














第3部 懇親会  16:50~18:00
     開会挨拶           会長 正野 建樹
     来賓挨拶
     初回、参加者紹介
     校歌斉唱

     乾杯              副会長 八束 一郎




     


    ー歓談・アトラクションー







     閉会の辞          幹事長 伊藤正敏

久し振りに同窓生の皆さんとお会いでき光栄に思いました。

(アルベルト譽)

①町田譽曽彦の世界公式サイトはこちらから

②群馬県立伊勢崎商業高等学校首都圏同窓会サイトはこちらから










今年もあと二日、2009年の抱負

2008-12-29 22:09:07 | 想い出・歴史
<今年もあと二日、2009年の抱負>


今年もクリスマスがすぎ、あと二日なってしまいました。クリスマスイブは、
ワインで乾杯。鳥のモモ肉と“ラリーブ”店の美味しいケーキを妻と食べました。




<クリスマスの花>
本年は、年初から米、サブプライムローン金融危機の影響をうけて、67億人
の地球人が苦しんでいます。
そして、来年も金融危機の余波がまだつづく可能性が高いです。百年に一度
の金融危機の対策をオバマ新大統領に期待するところです。(近代経済学者、
ケインズの利子と雇用の理論を参考にして)ことしは、世界同時不況の影響の
為か凶悪な殺人事件などがテレビや新聞のニュースで多かったです。


しかし、我家は、長男が東京で結婚式を挙げることができるなど明るいニュース
もありました。我家は、健康に感謝し新しい年を迎えられそうです。



私は、絵画教室と中央での公募展、個展等で多くの作品発表ができ成果を感
じる事もできました。
年末には、上尾市民ギャラリーで今年の締め括りとして上尾現代作家協会展
(作家8人)が開催できました。



<上尾丸山公園>
また、写生会では、丸山公園と逗子マリーナで絵画教室の受講生と一緒に楽しく
描いた油絵が思い出されてきます。





<逗子マリーナ>
今年もあっと言う間の一年間でした。絵画教室の受講生も30名ほどに増えた事
や上尾市美術家協会事業のウェイトが高くなり、白門43会(中央大学学員会)と
上尾伊奈白門会(大学地域同窓会)事業への参加は、思うようにできませんでし
た。




<広瀬会総会>東京・神田 会場:学士会館 (2008/9/28 撮影)
一方母校、群馬県立伊勢崎商業高等学校首都圏同窓会“広瀬会”は、
推進していかなければならなくなってきました。
本年9月、広瀬会総会(東京・学士会館)にて会長就任へ。
そして母校は、来年創立90周年にあたりいろんな記念事業が加わって
来ることが予想されます。



<二科展:国立新美術館>

しかし、私の人生にとって来年はたいせつな年であります。よい作品を描き発表したい
気持が強いです。
自分の時間はありそうでなく、時間は自分で作って作品制作していかなければならない
と思っていました。





<第93回二科展 潮流100号 町田譽曽彦>

自分の目標に向かって進んでいく為には、必要なもの以外はなるべく削ぎ落として
いき、制作に取り組まなければと考えています。



<二科会埼玉支部展:埼玉県立近代美術館>
学生時代に読んだカール・ヤスパース(実存哲学者)の言葉『今日と言う日は、
一生に一回限り、出会った人に最善をつくして接してあげる事が神によって見
守られており、、、』一日を大切に生きて行く事の大切さなどの言葉が懐かしく
思い出されます。





現在は、体調がよく精神的にも安定しており、モノの表と裏側を見る事ができます。
こんな時にポエジーのある大作を描きたいものです。
とにかく、来年は自分の時間を多く作り納得のいく絵を描いていきたいと思っていま
す。
(アルベルト譽)


「街の朝」 20代の二科展作品

2007-03-25 08:23:13 | 想い出・歴史
「街の朝」 20代の二科展作品

 この油絵は、私が主宰する洋画研究所の玄関に架けてある作品です。
1974年の二科展入選作品で東京・駒込の公園で早朝に描いたものです。


作品左側のセピヤの建物がトーア駒込マンション・カメラのドイ氏が所有して
た土地。それ以前は、長州藩出身の木戸孝充「桂 小五郎」が住んでいたお
屋敷とかききました。当時は、マンションから良く見えました。



今も、マンションから美しい庭園がみられると思われます。そして右の遠方が
六義園です。
公園の砂場にイーゼルを立て50号カンバスに東京の朝と都市開発の動き
を描いたものです。(ゴルデンウイーク、三越個展期間中に個展会場に行く
前に制作、、、記憶があります。) 長男は、ペトロ幼稚園の年長時代。



この絵を描いていると時たま、強風が吹き抜け絵の中に砂がまじり素敵な
マチエールのような美しさが生まれました、、、
月日が経つのは夢の如くです。33年前の私が描いた作品と思うと自分が
年をとって来ていることを強く感じました。
いま、思うとやはり20才代から30才の作品には、それぞれの作品に「エネ
ルギーと生命感が溢れていて」気持が良いです。
生きる勇気と元気が出てくればと無意識に玄関に飾っていたのかもしれません。

(アルベルト譽)



公式サイトはこちらから
上尾市美術家協会洋画部サイトはこちらから
伊勢崎商業高校広瀬会サイトはこちらから