気候の良い春となりましたが、雨と風が強く外に絵を描きにいけませんでした。
しかし、待ちきれず2008年4月19日に綾瀬川を描きに行って来ました。
60号のカンバスを車に積んでの作業で現地でセットするまで時間がかかりま
した。
風も強く、カンバスが飛ばされそうにもなりましたが、今回は大丈夫でした。
3年前は、50号のカンバスが風により道隣の荒川用水路に飛ばされてしまった
こともありました。「今回は、ブロックにイーゼルを固定し」(埼玉県展の作品)
<綾瀬川の歴史>
戦国時代の頃は利根川と荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と南埼玉郡
菖蒲町の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。
今の元荒川下流は、当時星川のものであったという。
戦国時代にこの間を西東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるように
なり、綾瀬川が分離したとのこと。
綾瀬川は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた。
江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であり。大雨が降る
たびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」
と変わっていったと伝えられています。
まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するた
めに武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)~葛飾郡小菅
間に平行して新綾瀬川が開削された。(現在の綾瀬川はこの新しい流路)
当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って
松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっており。
寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年
(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。
これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになったとのことです。
<春の綾瀬川 > 油絵 町田誉曽彦
(アルベルト譽)
しかし、待ちきれず2008年4月19日に綾瀬川を描きに行って来ました。
60号のカンバスを車に積んでの作業で現地でセットするまで時間がかかりま
した。
風も強く、カンバスが飛ばされそうにもなりましたが、今回は大丈夫でした。
3年前は、50号のカンバスが風により道隣の荒川用水路に飛ばされてしまった
こともありました。「今回は、ブロックにイーゼルを固定し」(埼玉県展の作品)
<綾瀬川の歴史>
戦国時代の頃は利根川と荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と南埼玉郡
菖蒲町の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。
今の元荒川下流は、当時星川のものであったという。
戦国時代にこの間を西東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるように
なり、綾瀬川が分離したとのこと。
綾瀬川は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた。
江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であり。大雨が降る
たびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」
と変わっていったと伝えられています。
まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するた
めに武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)~葛飾郡小菅
間に平行して新綾瀬川が開削された。(現在の綾瀬川はこの新しい流路)
当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って
松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっており。
寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年
(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。
これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになったとのことです。
<春の綾瀬川 > 油絵 町田誉曽彦
(アルベルト譽)