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ある認知症親子の物語(実話)

2020-09-13 01:23:33 | 介護生活

ある認知症親子の物語

 京都市中京区の職人の住む一画で○○氏は生まれた。父は西陣織の糊置き職人をして厳しい人物だったようだが、○○氏は父親を尊敬していた。高校卒業後、父の弟子となる。しかし呉服産業の不況により、35歳の時に職人を辞めてホテルの警備員や電気製品の製造工、システムキッチンの組み立てなどに仕事を変えた。結婚はしていない。

 

父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。

母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネが居る」と言って天井を叩いたり。真夜中に外出しようとしたり、○○氏が仕事に行ってる間に徘徊して警察に保護されたことも。昼夜逆転(日中は寝ている)母親の真夜中に15分ごとに起き出す介護生活に○○氏も疲れが出始める。

 

 そんな事もあり、夏頃には介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。

○○氏は懸命に介護し、7月には仕事を休職している。

 

9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じ、自宅で介護しながら出来る仕事を探したが見付からなかった。

12月には失業保険の給付もストップ。区役所には3度相談したが良いアドバイスは得られなかった。

生活が持ち直せる間の生活保護申請は「あなたはまだ働けるから」と断られている。

同じ頃、カードローンの借り入れも限度額の25万になっていた。生活費に窮するようになった○○氏は自分の食事は2日に一回にし、母親の食事を優先させた。

 

 こう言った苦しい状況になると、人は親戚なり友人を頼るものだが○○氏はそれをしなかった。

○○氏の心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。

「人に金を借りに行くくらいなら、自分の生活を切り詰めたらいいのや」

「他人に迷惑を掛けたらあかん」

「返せる宛の無い金は借りたらあかん」

 

2006 年  1月31日 この日迄に支払わねばならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金は7000円。○○氏は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。

○○氏は自宅アパートをきれいに掃除し、親族と大家宛の遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、○○氏は母親に何度も「明日で終わりなんやで」と話しかけている。

最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカーを落とすと、○○氏はリュックサックに死ぬための道具を詰めて、車椅子の母と2人アパートを出る。

2人が向かったのは三条の繁華街だった。母親がどうしても人の多い賑やかなところを希望したからで1人300円の運賃を払い、淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。

駅を出ると鴨川が流れている。2人は暫く川の傍で時間をつぶし、やがて賑やかな新京極通りに向かった。この通りの入口に蕎麦屋がある。○○氏が子供の頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。

しかし手持ちの金が多くないために食事はしなかった。

 

夜、親子は伏見にいた。もう戻る事の出来ないアパートの近く、桂川の河川敷。(次にどこかへ行きたいか?)○○氏に聞かれ、母親が家の近くがええなと答えたから。午後10時の事だった。

 

2月1日、厳しい冷え込み。○○氏は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。

「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」

 

○○氏は泣きながら目を覚ましたばかりの母親に語りかけた。母親は「済まんな」「ごめんよ」と泣きじやくる息子の頭を撫で「○○よ 泣かなくていい」と言った。

 

「そうか、もうアカンか」

「一緒やで、お前と一緒やで」

 

母に呼ばれた○○氏が近づいたところ、額がぶつかった。

「○○はわしの子や。わしの子やで。 お前が死ねないのなら」わしがやったると母。

 

その母の言葉に○○氏は「自分がやらねば、、、」と思った。

そして意を決し、母親を殺害。

○○氏は遺体に毛布を掛けた後、自殺を試みたが失敗した。「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいるのを通行人に発見されたのは朝の8時ころ、、、

 

2006年  7月 京都地裁

冒頭陳述の間、○○被告は背筋を伸ばし上を向いていた。肩を震わせ、眼鏡を外し涙を拭った。

裁判では○○被告が献身的な介護の末に失職などを経て追い詰められて行く過程を供述。殺害時の2人のやり取りや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」供述も紹介。

 

目を赤くした裁判官。刑務官も涙を堪えるようなまばたき。法廷は静まり帰った、、、

 

懲役2年6月 執行猶予3年

 

判決言い渡しの後、裁判官は裁かれているのは被告○○だけでは無い。介護制度や生活保護のあり方も問われている。

 

○○に向かい「痛ましくも悲しい事件だった。今後あなた自身は生き抜いて、絶対に自分をあやめることのないように、母の事を祈り、母のためにも幸せに生きて下さい」

 

裁判官の語りかけに「ありがとうございました」

弁護士には「温情ある判決をいただき感謝しています。なるべく早く仕事を探して母の冥福を祈りたい」と語ったという。

 

その後○○氏は再就職先も見つかり、周囲にも立ち直ったかに映ったが、8年後には自ら命を絶っている。

 

 

認知症の勉強会の資料から

 

 

今まさに介護生活をされてる方も多い

認知症や鬱症状は看る側も健康を失いがち

親が子を 子が親を、、、悲惨な状況にならない為にも

相談して気持ちをほぐし、解決法を探す事は肝要です

老々介護はとても重労働です

頭がハッキリして意思表示が通じ合える介護ならマシな部分があります

親子殺人の境地を体験したから、この物語で涙が溢れました


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4 コメント

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Unknown (ssk1943)
2020-09-13 08:25:14
身につまされるような話で泣けてきます。
昔は人に頼らないようにと教わりましたが、今は「自分一人で抱え込まない」になりましたね。
福祉も充実してきて少し生きやすくなっているような気がします。
でももし自分の生活がどん底の経済状態ならどうなんだろと思います。
自助努力だけではどうにもならない事ってありますよね。世間全体での助け合いは大事と思っています。
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Unknown (607080abcha100)
2020-09-13 21:14:57
ssk1943さんへ
自分は2日で一食 母親には優先した
こんな事は 普通な女性でも困難
私には絶対に出来ませなんだ
凄すぎる 上には上がある事を感じさせられました
母親と自分と言う環境は似ているから感動しましたが 余りにも哀れ過ぎて 世の中に憮然としました
て言うのも 親族が居る筈で アパートの隣室もあるでしょう 洗濯物を干すとか取り込む空気は分かる筈で なんらかのアクションを果たされたのでしょうか? 詫びし過ぎます
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Unknown (y-tanaka425)
2020-09-13 21:16:32
言葉がありません。
現実としてしっかり認識していきたいものです。
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Unknown (607080abcha100)
2020-09-14 00:28:04
y-tanaka425さんへ
ホントに 胸をえぐられる思いです
自分の食べ物は2日に一食で、母親を優先するなんかは、常人の出来る事ではありませんよね❗ 親を殺して2年半の懲役なのは裁判官や検事をしても執行猶予で放免、生きていて欲しい願望があったと思われます。
事実、再就職し傍目からは自分を取り戻せたと感じさせながら、○○氏の良心が母を殺した事に自分を許せなかったのでしょうか?
お母さんを本心から愛していたと感じます

○○氏の猛烈な介護ぶりからは、自分がどれだけの事を出来ているのかと反省します 釣
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