何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

愛という名のワンコ

2017-10-22 19:30:00 | ひとりごと
「ワンコへの愛の手紙&歌」からつづくレポート

伊勢湾台風の再来とかいう台風の影響なのか、先週からダラダラ続く秋雨前線せいなのか、
ともかく大雨のなか衆議院選挙の投票に行ってきたよ ワンコ
ワンコの散歩コースが長かった頃は、
散歩コースの途中にある投票所に、ワンコも一緒に出掛けたもんだね
選挙用(不気味な)スマイルを浮かべる候補者のポスターがズラリと並ぶ掲示板の前に、
男前で美男子で気品があって凛々しくて天才で賢くてか~わいい か~わいいワンコが座っていると、
投票に来た人たちは、殊更に褒めてくれたもんだね ワンコ
そんなことを思い出しながら、雨のなか投票に行ってきたよ ワンコ
何を見てもワンコを思い出すよ ワンコ

さてさて少し遅れてしまったけれど、ワンコのお告げの本のレポートだよ ワンコ
ワンコは、わんこだけど猫ちゃんの本を勧めてくれることも、けっこうあるね ワンコ
今月も、この本が告げられた時は、猫ちゃんかい?と思ったけれど、
ワンコと一緒にお空に行った、ワンコお気に入りのブランケットを思い出しながら読んでいたよ ワンコ
「ブランケット・キャッツ」(重松清)

本書はね、生まれた時から馴染んだ毛布と一緒に二泊三日レンタルされる猫の話なんだよ ワンコ
レンタル猫をしているペットショップの店長は、借りにきた客に必ず、こう言うんだよ
『ちょっと短すぎるとお感じになるかもしれませんが、三日を過ぎると情が移ります。
 猫のほうは逆に、もうここ(ペットショップ)に帰れないんじゃないかと不安になる。
 それはお互いにとって不幸なことだと思うんですよ』(『 』「ブランケット・キャッツ」より)

もうね、 これだけでワンコには無理な話だろう ワンコ
ワンコは、自分が生まれた実家に、
私たちが旅行に出かけている間の、ほんの数日お里帰りするだけでも、飲まず食わずの行で抵抗していたもんね

まぁワンコと私達は前世からの縁で結ばれていたので話は別として、
一般論として、三日で情が移って離れがたいと思う人間と、
三日ぐらいでは(新たな人・場所には馴染まず)前の場所を忘れがたい猫とでは、
どちらが本当のところ情が深いんだろう? ワンコ

そんなことを思いながら七つのレンタル猫物語を読み始めたんだよ ワンコ

二泊三日だけレンタルするというくらいだから、借りる側にはそれぞれ事情がある。
子供がいない休日の静けさを紛らわせるため、一人旅のお伴が必要なため、父の過大な期待とイジメ問題の悩みを相談したいため、老人ホームに入ることになっている猫好きのおばあちゃんのため、’’ペット厳禁’’のマンションの大家さんの ある事情のため、リストラされマイホームを手放さざるをえなくなった父が家族の思い出を作りたいと願うため・・・・・。

上記のような個々の事情に縁がなくとも、本書を読む者は誰しも、そこに身につまされるものがあると思うのだが、そう感じるのが、作者の上手さ故か、人の感情は多かれ少なかれ似たり寄ったりだからなのかは、分からない。
だからこそ、読むタイミングによって共感のツボが変わりそうな本書の全体像については触れず、今気になるものだけを記しておこうと思っている。

<助手席に座るブランケット・キャッツ>
いつも黒猫をレンタルする人がいる。
彼女は、いいことが何もなかった不幸な自分には、縁起が悪いと云われる黒猫が合うと信じ、いつも黒猫をレンタルし、その猫に寺山修司の詩の一節から引いた あだ名をつけている。
『ふしあわせと言う名の猫
 がいる
 いつもわたしのそばに
 ぴったり寄りそっている』
だが、最後の最期、彼女に ふしあわせ ではないという気付きを与える ’’ふしあわせ’’という名の黒い猫。

<尻尾のないブランケット・キャッツ>
人が自分に望んでいる姿と あるがままの自分の気持ちとのギャップに苦しむ少年が、尻尾がない猫を選び、その猫に自分の名前をつけ、誰にも言えない本心を打ち明ける。
猫としては不完全に見える猫だが、それは、ノアの方舟に最後に飛び乗ったため、閉まりかけていた方舟の扉に挟まれちぎれたからだという。
尻尾を失ったことを不幸とみるか、方舟に乗れたことを幸運とみるかは人によるが、そんな猫をレンタルした直後に危機に陥った少年に、店長がかける言葉が印象深い。
『いろんなこと、なんでも、まだ間に合うんじゃないかな。
 尻尾がちぎれちゃっても、方舟に乗っちゃえば勝ちだもんな』

ねぇワンコ
七編の短編のうち六編は、レンタルする側の視点で描かれているのだけれど、
一編だけレンタルの途中でその役目を放棄した猫の視点で書かれたものがあるんだよ
それについては、ちょっと思い出す本があるから、
又つづくとするね ワンコ

追伸
ワンコは色々な愛称を持っていたけれど、本名は勿論それらのどれもココに記せないのは何故だろう?
自分でも、その理由が明確には分からないのだけれど、
ワンコの17年と2か月の人生で、
ワンコが自分に触れることを許したのが、家族と実家両親とワンコ病院の方々だけ(総勢15人ほど)だったことも、
理由の一つのような気がするんだよ
だからさワンコ、ワンコというのも愛称の一つだと思ってね ワンコ

ワンコへの愛の手紙&歌

2017-10-20 09:51:25 | ひとりごと
ワンコ ワンコに触れることができなくなって1年と9か月
二度目の秋は、神経痛もちのワンコなら一枚重ね着をしている寒さだよ
だから、ワンコの柔らかい温もりに触れることができないことが一層 堪えるよ ワンコ

でも最近は、ワンコがお勧めの本をお告げしてくれるから、
ワンコの声に耳を澄ませながら、本屋さんや図書館を歩くという密かな愉しみもあるんだよ 
ありがとうね ワンコ

今日20日ワンコの日には、お告げ本のレポートを書きたかったけれど、
「仕事人の使命②」で記した言葉から、ある短歌を思い出し、それがワンコに繋がったのだから、
ワンコの お山からワンコへ宛てた葉書について触れねばならないだろう ワンコ
 

「検事の死命」(柚木裕子)には、こんな言葉があったんだよ ワンコ
『私たち(郵便局員)が扱っているのは単なる紙切れではありません。
 人の気持ち、心です』

ワンコがこれを読めば、私がどの歌を思い出したか分かるだろう?

手紙には 愛あふれたり その愛は 消印の日の そのときの愛「サラダ記念日」俵万智より)

左上の蝶の切手は、ベルギー出張中の友人が9月に送ってくれたものだけど、
思い返せば、合宿で同部屋だったこの友人が、自分宛てに葉書を書いている姿を見て以来、
私にも、旅先から自分宛てに葉書を出すという習慣がついたんだよ ワンコ
だから、私は旅に出ると、せっせとワンコに葉書を送ったね ワンコ
特に、ワンコの縄張りのお山の消印がある上高地からの葉書は、
今でもワンコの写真と一緒にコルクボードに飾っているんだよ ワンコ
そこに あふれる愛は、「消印の日のその時の愛」ってなものでは、ないんだよ
永遠なんだよ ワンコ

尤もさ、ワンコ
この歌を初めて知った時は私は未だほんのガキんちょ だったから、
「消印の時のその時の愛」という切なさが分かっていなかったし、
正直なところ今でも、こんな切なさは分かってないような気もするんだよ
そして、分からないまま、こんな歌を口にしていそうな気もするんだよ

夫婦仲 犬はかすがい 子は火種  (詠み人知らず)
来世も 一緒になろうと 犬に言い (「シルバー川柳3」ポプラ社編集部より)

こんな私だからさ、ワンコ
これからもワンコへ宛てて、気持ちを綴っていこうと思っているんだよ ワンコ

一枚の葉書きを君に書くための 旅かもしれぬ旅をつづける(「もうひとつの恋」俵万智より)

ところでさ ワンコ
昨日、お里帰りしてくれていただろう ワンコ
ワンコの足音を、久しぶりに聞いたよ ワンコ

うり²が一昨日 何の前触れもなく、学校から大量のメダカをもらって来たものだから、
大慌てで、先住黒メダカがいる庭の睡蓮鉢にも放したんだけど、
睡蓮鉢の容量に収まらないメダカが、たくさんいたから、
物置から出してきた水槽に、メダカを放して、室内に置いたんだよ
もう何年も金魚もメダカも、庭の睡蓮鉢の住魚だったから、
室内に水槽を置くのは本当に久々なんだけど、
身近に 小さな生き物がいるっていうのは、やっぱりいいものだね ワンコ

でもだから、ワンコは確認をしに来たんだろう ワンコ
ワンコは相変わらず やきもち焼きだし、野次犬なんだな ワンコ
6年前に睡蓮鉢で金魚ちゃんを飼い始めた時、
ワンコはやきもち焼いたもんね
餌を食べる金魚に「いい子だね」と話しかける私を、ワンコは窓越しに睨め付けていたし、
我慢ならない時は、庭に飛んで出てきて、睡蓮鉢の中を一緒に覗き込んだものだもんね

そんなワンコだから、今回も確認せずにはおれなかったんだろう ワンコ
それとも少し元気のない私に、メダカちゃんを贈ってくれたのかい ワンコ
大丈夫だよ ワンコ
私のなかの季節が動き、少し元気になったし、
今は、ワンコの「戌年にはいいことがあるよ」というお告げを楽しみに頑張っているよ
ねぇ ワンコ
6年生金魚ちゃんと新入りのメダカちゃんと一緒に待っているから
還っておいでよ ワンコ






仕事人の使命 ②

2017-10-19 19:00:00 | 
「仕事人の使命①」より

『罪をまっとうに裁かせることが、己の仕事だ』という信念のもと、どのような案件にも真摯に向き合う検事・佐方を主人公とするシリーズの三作目である「検事の死命」(柚月裕子)
タイトルにもなっている後半の二本「死命を賭ける(刑事部編)」「死命を賭ける(後半部編)」は、事件そのものは満員電車の痴漢行為という(許されることではないが)アリがちなものだが、容疑を否認している男が地元の名士の家系である為、国会議員や地検トップから担当検事である佐方に圧力がけられる、というストーリ。

本書は四編からなる短編集だが、そのうちの二編を「死命を賭ける」が占めていることや、それがドラマ化されていることから考えれば、本書の見せ場は「死命を賭ける」なのだろうが、私が気に入ったのは第一編「心を掬う」だった。
  
<心を掬う>
佐方と検察事務官・増田は行きつけの酒処の親父から、「投函した手紙が届かない」と愚痴っていた常連客の話を聞いたのだが、検察庁内でそれを話題にすると、意外なことに同様の話がアルという。
これにピンときた佐方は、増田に「紛失した郵便物が。いつ、どこの郵便局またはポストに投函されたのか調べよ」と指示しただけでなく、郵政監察官に連絡を取るように命じた。
が、呼ばれるまでもなく現れた郵政監察官は、「同様の郵便物紛失は頻繁に起っており、犯人は郵便物の仕分け人と目星はついているのだが証拠がないため手を出せないでいる」「犯人は、普通郵便から現金を抜き取った後、封筒と手紙は細かくちぎって、便器に流しているのだろう」と言う。
そこで佐方がとった手段は、犯人が便器に流した封筒と手紙を、糞尿あふれる浄化槽から自ら’’掬う’’という、驚くべきものだった。
佐方と郵政監察官が、糞尿に塗れながら’’掬いだした’’証拠により、刑事事件として立件され、被害者の心が’’救われた’’という物語。

さて、前回の「仕事人の使命①」に続き今回も、本書とは無関係とも思える大正池&焼岳の写真を掲載したのは、上高地で手紙を投函すると押してもらえる ご当地消印(大正池の立ち枯れの向こうの焼岳)を載せたかったからだ。
「心を掬う」には、大切なことは手書きの手紙で届けたい私にとって、心強い言葉があった。

『私たち(郵便局員)が扱っているのは単なる紙切れではありません。
 人の気持ち、心です』

佐方と共に、糞尿の中から証拠物を掬った郵政監察官の この言葉で思い出した短歌に、消印と気持ちが詠われていた為、写真を掲載したのだが、そのあたりは又つづく

仕事人の使命 ①

2017-10-18 12:00:00 | 
個人的心情においても、ここ数年の世情から見ても今更という感が強いのだが、帯びに踊る文句があまりに大仰だったので、読んでみることにした。
「検事の死命」(柚月裕子)

本の帯より
『この裁判に負ければ、地獄の釜の蓋があく――
 国会議員、地検トップまで敵に回す「死命」、
 郵政監察官とタッグを組む「心を掬う」他、
 読む者の心を激しく揺さぶる傑作検事ミステリー』

本書は四編の短編集からなるのだが、その後半の二本「死命を賭ける(刑事部編)」「死命を賭ける(後半部編)」がタイトルになり、帯で『地獄の釜の蓋があく』云々とされる作品だ。

<死命を賭ける>
2月の寒い朝、主人公である検事・佐方に配点されたのは、満員電車で「この人、痴漢です」と被害者から突き出された男の案件だった。
「満員電車での痴漢行為(迷惑防止条例違反)」は、現逮で犯人が明確で被疑者が容疑を認めていれば起訴猶予や略式での対処を含め判断はしやすいが、容疑を否認している場合 一般に捜査が長引き起訴不起訴の判断が厄介なものとなる。
だが本件の容疑者は、痴漢を認めていないだけでなく、佐方の勤務地を代表する名士の家柄であったため、国会議員や地検トップから圧力が掛かり『地獄の釜の蓋があく』という騒ぎになる。
しかし、ここで’’忖度’’やら斟酌やらをしたのでは お話にならない。
佐方が『ここで屈したらーたとえ検察にいられたとしても、検事としては死んだも同然です』と覚悟を示せば、直属の上司も『秋霜烈日の白バッヂを与えられている俺たちが、権力に屈したらどうなる。世の中は、いったい何を信じればいい』と応え、見事正義はまっとうされるというストーリーだ。
めでたし、めでたし

別段オチョクッているわけではないが、いつの頃からか佐方の信念である『罪をまっとうに裁かせることが、己の仕事だ』という言葉が虚しくなるような世の中を見せつけられているので、少々鼻白んでしまったというわけだ。
尤も だからこそ、『罪をまっとうに裁かせることが、己の仕事だ』との信念のもと全ての事件に真摯に向き合う愚直な男を主人公とした本シリーズが世に受け入れられるのだろうとは思う。

ところで、冒頭の写真は数年前槍沢・天狗池からの帰路、大正池から焼岳を撮ったものだ。
「検事の死命」とは無関係に思える この写真が、四編のなかで一番気に入った短編に(私的に)繋がり得るので載せることした。
そのあたりは、又つづく

青に響くチェロの言の葉

2017-10-16 05:55:55 | ひとりごと
この一年ほど毎日、’’海’’に向かって奏でられる’’チェロ’’の音色を味わうことを楽しみにしてきたが、奏者が入院されるため、しばらくの間 含蓄ある味わい深い音色を聞くことが出来ないことが、寂しい。
そこで、チェロが描かれた本など読みながら無事のご帰還を待とうと、図書館の検索語彙に「チェロ」と入れてみた。

「青のフェルマータ」(村山由佳)
検索語彙に「チェロ」と打っただけにも拘らず、「海」が舞台の物語に出会えた不思議に感謝しつつ読んでみた。(『 』「青のフェルマータ」より引用)

表紙裏の紹介文より
『両親の不和、離婚から言葉を失った里緒は、治療に効果的だというイルカとのふれあいを求めて、オーストラリアの島にやってきた。研究所のイルカの世話を手伝って暮らす彼女に島に住む老チェリストJBが贈る「フェルマータ・イン・ブルー」の曲。美しいその旋律が夜明けの海に響いたとき、海のかなたから野生のイルカが現れて―。心に傷を持つ人々が織りなすイノセントでピュアな愛の物語。』

主人公・里緒が言葉を失ったのは、単に両親が離婚したという理由ではなく、それが自分の言葉によるものだったからだ。
母の浮気を、父に告げ口した。
それにより両親は離婚し、母はノイローゼのため言葉が聞こえなくなり、自らは言葉を失った。

だから里緒にとって、言葉は否定的な要素となる。
『例えば、六色しかない色鉛筆ー言葉というものは、そういうものじゃないか』、自分の気持ちに何となく似た色はあり、色どうしを混ぜ合わせたりすれば、かなり近いところまで辿りつけることもあるが、でも、そこまでであり、100%正確に表せる色は、結局自分の心の中にしかない、と里緒は思っている。
心の動きは本来、言葉なんかで表されるような単純なものではないはずなのに、世の中は、心の方が言葉に縛られてしまっている、と里緒は信じ込んでいる。
だから、言葉ではなく体を通ってゆく感覚だけに導いてもらうために、海に潜る時やチェロを弾き始める前には、頭のスイッチを切るようになる。

そんな里緒に、かつての名チェリストは、自らが作曲した楽譜を手渡すのだが、そこには夥しい数のフェルマータが記されていた。
チェロのための無伴奏の変奏曲「フェルマータ・イン・ブルー」
本書には、『通常、フェルマータ記号がついている音符や休止符は、それを普通の二倍から三倍「伸ばす」ことになっている。あるいは、楽譜の一番最後に記してあれば、その曲がそこで「終わる」ことを表す』とある。
最近はピアノを弾くこともほとんどないが、フォルテとフォルティッシモで鍵盤を叩くことが常だった私にとって、フェルマータとは「無い」ようなものだった。
だが、山のようにフェルマータを記した変奏曲をつくった老チェリストは、それを「永遠」だという。
その「永遠」を里緒は、『(フェルマータが夥しい数あるために)どの休止符を、それぞれ何拍まで伸ばすかによって、時には旋律までが違って聞こえてくる。演奏者の解釈によって、無限の弾き方が可能になる』、その弾き方の無限さ故だと考える。

音楽におけるフェルマータの意味を考える能力は、勿論私にはないが、無限の弾き方を可能にする(楽譜や音の)解釈は、最終的には言葉によるものだと、私は思う。
心を突き動かす力の全てが言葉ではないとしても、言葉でなければ理解できなものも伝わらないものもある。

だからこそ、言葉によって言葉を失った里緒を直接的に救ったのはイルカやチェロだとしても、それに引き合わせて繋いでくれたのが’’言葉’’だったことに気付いた時に、里緒に声が戻ったのだと思う。

なぜ、これに拘るかというと、海に向かい様々な音色を響かせていたチェロの言葉を、しばらく聞くことができないことを寂しく思っているからだ。が、それを埋めるために読んだ本に、海とチェロと「永遠」が書かれていることは、素直に嬉しかった。

チェロの音(言葉)に一時休止符が置かれても、それまでの音色は褪せることはないわけで、寧ろ伸ばされた音の余韻と意味を考えながら、次の音(言葉)が奏でられる時を待てば良い。
けれど、また海に向かってチェロの音色が響く日が早いことを願っている。


ところで、雲海にお目にかかる僥倖はあっても、海の「青」というものを、この数年自分の目では見ていない。
私にとって自然界の美しい青というと、お山の上に広がる果てしない青い空だ。


海に向かって響くチェロの余韻に浸りながら、私にとっての青を思い浮かべ、本書で印象に残った言葉を考えみようと思う。
『大事なものは、そのとき奪い取らない限り、二度と手に入れることはできないんだよ。
 あとになって後悔しても遅い。二度目はないんだ』