生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

山田百合子戯言集『死体病理解剖 × ・・・・・ノオト』の稲川方人氏による詩集評

2011年07月31日 21時18分23秒 | 詩 poetry
2011年7月31日-3
山田百合子戯言集『死体病理解剖 × ・・・・・ノオト』の稲川方人氏による詩集評

 
 山田百合子戯言集(1979)『死体病理解剖 × ・・・・・ノオト』
http://www.k4.dion.ne.jp/~rainbow3/yamada/zaregoto.htm
について、『現代詩手帖』の詩書月評者であった稲川方人氏によって書かれた、ほぼ1頁にわたる文章を以下に掲げる。

 
**********************************************
なぜ、空しさの上に立たないのか
稲川方人

 〔略〕
 なぜ、空しさの上に立たないのか。〈現
実〉がないのなら、ないというその認識にふ
みとどまりたくはないのか。詩への不信が行
き渡り、その結果、新しい回路が見出されつ
つあるというわけでもないだろう。ないだろ
うが、しだいに詩が(仮りにそう呼んでのこ
とだが)、反動と保守の和平的展開をみせは
じめているのではないか。そのようなにぎわ
いから、どこまでも遠くに去って行かねばな
らないと思うようになっている。
 そんなとき、たとえば山田百合子『死体病
理解剖・・・・・ノオト』
(あれふ工房)の大
胆な行為と、小長谷清実の『玉ネギが走る
れんが書房新社)の、小さくつみ重ねられた絶
望の心象をみることは、とくべつに距ったこ
とではない。
      何かのいたずらか爆弾かと思っ
                、 、 、
     たほど、山田百合子の造型物は、
     異様である。高さ三〇センチ、直
     径一〇センチの筒に、巻き紙状の
     印刷物が入れられ、都合二〇枚の
     その長い紙はそれぞれ分離して、
     スミ、アイ、アカの三色の活字に
     よって区別され、あるいは統一さ
     れてたばねられている。ノンブル
     はなく、二〇枚の巻き紙が、読み
手の情況によって可変的な空間をつくり出す
仕組みになっている。どれか一枚をとり出し
て、それを読めば、あらかじめ著者がおそらく
何かの基準でたばねただろうこの筒状の詩集
が、そこからはじまることになっている。実
験とか試みとかいってみるにも気がひけるほ
どの、大胆さである。一枚を抜きとってみる。

  破滅的冗談は遁走する。笑いをこらえ
  切って転落する。無い冗談は快楽的に
  闘争する。勝利的闘争は後退しつつ昇
  華する。消化されるあたしは暴発する
  。あなただって破滅的だ、おとなりだ
  って冗談だ。あたしは暴発を爆笑的に
  組織する。憎しみを徐行武装させる。
  無数の頂点を目刺して、正座を解除し
  、発狂を自覚させる。無力自堕落自暴
  自棄を輝かしき糞塊につみ上げよ。つ
  ぶやきよ、泥となり、岩となれ。眠り
  よ、夥しく集結せよ。あたし、そして
  あたしたちは不断に、夢の金銀を投げ
  散らし、汚染を倍増させよう。しがら
  み的きずなを除去的に糊塗しつつ、一
  心不乱に卑猥さを愛でよう。愉快な斗
  いを無残悲惨に遂行しよう。かくて、
  あたしたちはバラ色に進歩する。

「破滅的冗談」の三分の二である。このよう
なコンディションで、みじかいもので三〇セ
ンチ、長いもので一メートルの紙に、著者の
   ざれごと
いう「戯言」が書きとめられているのであ
る。全篇、言葉のもつ風俗性との直接的な交
感に、おのれの感性を投げ捨てるアイロニカ
ルな覚醒にあふれている。それは勇気だと思
うが、著者があらかじめ自覚していただろう
〈沈黙〉の質も、じつは読みたいと思った。
解放を摸した饒舌と形の破壊だけでは、とう
てい隠しきれないこの著者のほんとうの資質
を、気負いのうしろにみるのは親切すぎるだ
ろうか。そうでもないだろう。自己の感受
性、すなわち世界と自己の関わりへの、一途
な態度を、山田百合子は破廉恥さの中心に据
えて、ままならぬ言葉の解放を試みているの
である。本としては前代未聞に属する外装を
経て、山田百合子が透した詩の態度はけっし
て奇抜ではない。むしろ、わたしなどには親
しいものだといってもよい。そして、この詩
集が以後の著者によって、どのように捨てら
れてゆくかに興味がある。つまり、この破廉
恥さを支えた〈沈黙〉がどのように再生して
くるかに興味がある。
 〔略〕

**********************************************
(引用部分は、203頁上段1行目から、中段を経て、下段の後ろから4行目まで。
 引用された戯言部分は、原文では5行目先頭に位置する句点が、4行目の最後に送られていて、以降の文も字詰めがずれていたので、先頭原文のものに変更した。)

  
[I]
稲川方人.1979.7.[詩書月評]なぜ、空しさの上に立たないのか.現代詩手帖 22(7): 202-205. 思潮社.



生気論と機械論の相互変容1

2011年07月31日 12時53分56秒 | 生命生物生活哲学
2011年7月31日-2
生気論と機械論の相互変容1

 巴陵宣祐『生物學史 下巻』の第五章(86-98頁)は、「ビシャーと彼の組織説」と題されている。

 「十八世紀の初期には生命の問題に関して二つの相対踵する学説が行はれてゐた」(86頁。旧漢字体は新字体に変換した)。その二つとは、「生命現象を純粋に機械学の立場から説明しようとする」機械説と、「生命の真の実在は霊魂の中にありとみなし、肉体的身体はたゞ霊魂のために存在し、また霊魂によつてのみ存在し得るものだと考へ」(86頁)る生気説である。
 スタールの学説は当時の生気説のなかでもその傾向が強いものであった(86頁)。モンプリエ[→モンペリエ] Monpellierの医学校の学者たちが興味を寄せたのは、スタール説の霊魂に関する部分ではなくて、

  「一、身体は複雑な化学的構成からつくりあげられているものであり、
   二、且つ、身体のかかる化学的構成は容易に分解しやすいものであるといふ考、
   三、及び、個々の生物ではその化学的構成の構造がそれぞそに〔→それぞれに〕特殊的[ルビ:スペシアル]な性質を持ち、従つて個々の生物によつて異なつてゐるものだといふ考
の点であつた。そして、彼らは、生命或は生命力とは身体を構成している化学的成分を分解、解体から喰ひとめてゐるところの一種の『結合する力』であるとみなすようになつた。〔略〕
 ところが、十八世紀の末頃になると、機械説、生気説の対立は以前ほどには顕著なものではなくなつてきた。化学の発達が身体の純運動的な現象以外の他の機能の考究をも必要にさせ、また、電気及び磁気などといふ能動的な自然力が新しく発見されてきたので、従来の生命の機械論者、生気説論者の態度も変化してきたのである。」(巴陵 1942 『生物學史 下巻』,86-87頁)。

 「機械説、生気説の対立」→「機械説と生気説の対立」である。「機械説、生気説」といったように列記するのは、比較的最近の流行りかと思っていたら、少なくとも敗戦前に用法があったとは。なんであれ、「、」の意味は特定しにくい場合があるから、やめよう。とりわけ、「かつ and」なのか「あるいは or」かがわからなければ、その大きく異なることの多い外延 extensionがどちらなのかがわからなくなる。


[C]
Chang, Ku-ming?(Kevin). 2011.6. Alchemy as studies of life and matter: reconsidering the place of vitalism in early modern chymistry. Isis 102(2): 322-329. [
http://www.jstor.org/stable/10.1086/660127
からpdfが入手できる。]

[H]
巴陵宣祐.1942.3.生物學史 下巻.594pp.山雅房.

[M]
百崎清美.2002.十八世紀的生理学から近代的生命科学への移行についての一考察:バルテズからビシャへ.メタフュシカ(大阪大学文学部哲学講座紀要) 33: 41-53.
[「バルテズの「生命原理 principe vital」という概念からビシャの「生命特性 propriete vitale」概念への以降〔→移行〕が、近代的な生命科学への移行への決定的な契機となった、という趣旨。」
http://d.hatena.ne.jp/clair-de-lune/20060826


百崎清美.2005.4.ビシャにおける生命体の構成要素-『諸膜論』から.生物学史研究 (74): 27-39.

百崎清美.2005.12.18世紀フランス『百科全書』における「繊維」の項をめぐって ??生命の学の近代化を促した一要因??.メタフュシカ 36: 15-28. [
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/web/METAPHYSICA/volume/036.html
からpdfが入手できる。]




Bunge 哲学辞典:アニミズム animism、汎心論 panpsychism

2011年07月31日 11時20分46秒 | 生命生物生活哲学
2011年7月31日-1
Bunge 哲学辞典:アニミズム animism、汎心論 panpsychism

アニミズム animism [Bunge (1999) 哲学辞典初版 p.18]
 すべての物は、あるいは或る種類のすべての物は、生き物のように動かされている〔animated〕という教義。つまり、非物質的な↑【霊たち 〔spirits〕】によって宿られており、支配〔rule〕されている。例:魂は身体を統治〔govern〕するという見解〔考え方 view〕。同義語:↑汎心論〔panpsychism〕。

 
汎心論 panpsychism[Bunge (1999) 哲学辞典 初版 p.205]
 あらゆるものは心的である、あるいは或る程度に心的プロセスを経験する能力を持つ、という教義。同義語:アニミズム〔animism〕。

 
*******
 トランスヒマラヤ密教とも呼ばれる秘教の文献での関連するところは、下記の通り。『魂』とは、どのように定義されたり、使われたりしているのだろうか?
 ただし、われわれが概念を媒介として理解をする場合、その内容を表示するために言葉を使う。<言葉は真理を隠すものである>といったことが、『トランス・ヒマラヤ密教入門第1巻』のどこかに書いてあった。
 この秘教体系では、<すべてはエネルギーである(とみなされる)>(『トランス・ヒマラヤ密教入門第1巻』164頁["Telepathy and the Etheric Vehicle", p.177])が公理となっている。すると、より具体的な存在者を捉えることは、様々な観測をして、エネルギーの種類と程度を内部整合的に分類し、結果としての分類体系を提示することとなるだろう。

 
  「1. 魂は、大宇宙的で小宇宙的であり、普遍的で人間的であるが、それは、霊様相〔aspect〕と物質様相が互いに関係するときに存在へともたらされる〔brought into being〕存在者〔entity〕である。
   a. 魂は、したがって、霊でもないし物質でもなく、霊と物質の間の関係である。
   b. 魂は、この二重性の間の媒介者〔調停者 mediator〕である。それは中央原理〔中間原理、中央素因 the middle principle〕であり、神と神の形態の間の連結〔link〕である。
  〔プログレッシブ英和中辞典。middleは空間時間期間, またものごとできごとのまん中. 点というより部分. centerは円球または円球的なものの正確な中心点, また二極間の中間点:the middle of the line A B線ABの中間点. heartは内部深く存在し全体を左右する中枢をさす〕
   c. したがって魂は、自然界においてであれ人間においてであれ、キリスト原理に対する別名である。
  2. 魂は、創造された宇宙の誘引力〔attractive force〕であり、(機能するとき)すべての形態をまとめ、そうして神の生命が顕現したり、形態を通して神自身を表現することが可能になる〔may〕。
   a. したがって、魂は形態を建設する様相であり、また宇宙、惑星、自然王国と人間王国(人間は自身においてすべての様相を要約する)でのあらゆる形態における誘引的要因である。この誘引的要因は、形態を存在へともたらし、内在する〔宿る indwelling〕生命がより適切に住まうように発展し〔発達し〕成長することを可能にする。〔略〕
  3. 魂は進化〔開展 evolution〕自体の力である。このことは、聖パウロが「あなたのうちのキリスト、栄光なる希望」について話したときの心のなかにあったものである。」(Bailey, Alice A. 1934. "A Treatise on White Magic", pp.34-35.)[20110731試訳]。

 
[B]
Bailey, Alice A. 1934. A Treatise on White Magic or The Way of the Disciple. xiv+705pp. Lucis Publishing Company.

Bailey, Alice A. 1950. Telepathy and the Etheric Vehicle. xi+219pp. Lucis Publishing Company.

Bailey, Alice A. [Djwhal Khul](アート・ユリアーンス(編))(土方三羊訳,2002.2)トランス・ヒマラヤ密教入門 第1巻 [人間の本質].236pp.アルテ.[Jurriaanse, Aart. Ponder on This.]

[J]
Jurriaanse, Aart. (ed.) 1971. Ponder on This [From the Writings of Alice A. Bailey and The Tibetan Master, Djwhal Khul]. [14+]431pp. Lucis Publishing Company.

*******
 心の哲学まとめWiki、の「汎経験説対創発説」への網繋(link):
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html

  「参考
   汎経験説、創発説ともに精神現象の由来を説明しようとするものであるが、上記のようにそれぞれ難点を抱えており、意識のハードプロブレム〔→意識についての難問〕の最大の問題となっている。」
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html

 日本版ウィキペディアの「意識のハード・プロブレム」への網繋(link):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0


欧州放射線リスク委員会(ECRR)と国際放射線防護委員会(ICRP)のモデル

2011年07月31日 00時05分16秒 | 生命生物生活哲学
2011年7月31日-1
欧州放射線リスク委員会(ECRR)と国際放射線防護委員会(ICRP)のモデル


 欧州放射線リスク委員会のクリス・バズビー博士による来日講演の竹野内真理さんの訳とまとめた内容が、
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/f909e5b3b77108a472302119b2c5d072
に掲載されている。
 日本政府が引き合いに出す国際放射線防護委員会(ICRP)の基準は過小評価だと主張している。大きな違いは内部被曝の評価であるらしい。

  「欧州放射線リスク委員会(ECRR) はICRPとは異なる、放射線リスクに対する新たなモデルを構築した。というのも、ICRPのモデルは内部放射線に対する考慮が欠落しているからである。ご存知のように放射線というものは、がん、白血病、先天性異常のように、突然変異を引き起こすものである。

そしてこの放射線というものは、吸収線量(ラド、グレイ)という、エネルギーの単位で表すことができるが、この単位では、放射線の生体内における密度を示すことができない。というのも、体全体に当たる放射線量、つまり平均化した値しか考慮せず、局所的な影響を考慮に入れていないからである。これはあたかも、暖炉の前で暖まることと、その暖炉の中にある炭火を口の中に入れるのとでは、体に対する影響がまったく異なることと同じ原理である。

広島長崎のヒバクシャの線量は、吸収線量だけが考慮された。つまり、核爆発によるたった一回放射されたガンマ線による放射線、すなわち、体全体で平均化されたエネルギー密度のみが考慮されたことになる。

これは、体内被曝の観点からすると、有効な考え方ではない。大事なのはDNAに対してどのような密度で放射線が作用したかという点であり、この密度は体のどの部位に放射性物質が入ったかによっても異なる。ここが一番大事な点だ。平均化してしまっては、生体への真の影響は測れない。

ECRRは、外部被曝のみでなく、内部被爆の影響にも対処するため、独自のモデルを構築した。このモデルは次のサイトにおいて無料で参照することができる。英語http://www.euradcom.org/2011/ecrr2010.pdf 日本語訳http://www.jca.apc.org/mihama/ecrr/ecrr2010_dl.htm

モデルを構築するために、我々は実際に放射線に被曝した人々を対象に調査を始めた。ホットパーティクルがどこにあるかという問題だけでなく、ストロンチウムやプルトニウムといった物質は、ひとたびDNAに結合してしまうと、放射能の崩壊途中で多大な影響を生体組織にもたらす。

実は、核による被曝の問題は、欧米でも既に50年代、60年代から、米、ソ、英、仏による核実験により発生していた。

英国には大変優れたガン登録制度がある。しかもウェールズは降雨が多く、そのためより多くのストロンチウム90に被曝することとなった。そして降雨の後、ウェールズにおけるガンの発生率は30%も増加したのである。しかも、この時の線量はわずか、1ミリシーベルトであった。これは環境放射線よりも低い値である。

この実地調査を考慮すると、 ICRPによるモデルは、350倍も過小評価ということになる。

ECRR は2003年に報告書を出した。あくる年の 2004年、スウェーデンのトンデル博士が新たなモデルを発表した。チェルノブイリにより、スウェーデン北部の町で1キロ平方メートルあたりのセシウムのベクレル数が百キロベクレルの場所で、11%のガンの増加があったというのである。

この数値を見ると、ICRPは600倍もの過小評価を行っていたことがわかる。この数値とほぼ同等のものが、前年に出されたECRRの2003年報告によっても言明されていたのである。

欧州では小児白血病も観察されている。そのデータからも、ICRPはリスクを500-2000倍も過小評価しているのがわかる。

内部被曝に関しては、我々は個々の放射線核種に対する「荷重係数」を設けている。(訳者注:ICRPはアルファ線と中性子線では20、ベータ線とガンマ線は1という荷重係数は設けているが、核種ごとには設けていない)ECRRのモデルを適用すると、だいたい正しい答えが導かれるのである。

ICRPとECRRのモデルの主要な違いは、ECRRは体内に入った核種による線量およびDNAに対する線量をずっと高く設定していることである。テクニカルなことに関しては、ECRR報告書のほうを見ていただきたい。

チェルノブイリ事故後の最新の疫学調査のいくつかは、ECRRモデルが正しいことを示している。

しかしICRPの最新のモデルを示した報告書には、チェルノブイリに関しての言及がない。ICRPの報告書には、自らのモデルが間違っていることを示すことは何も書かれていない。

Jack Valentin博士はICRPの科学部編集局長(Scientific Secretary)を20年務めた人物である。私は博士に博士が辞職した直後の2009年4月に会った。この会見は、ビデオテープに記録され、以下のサイトで閲覧できる。 http://vimeo.com/15398081

博士はICRPモデルを原発事故に使用することはもはやできないと告白した。理由は、内部被曝による被曝は900倍も過小評価されている可能性があるためと語った。博士はまた、体制側にある放射線防護機関は、チェルノブイリのリスクモデルを見ていおらず、誤った評価をしていると言明している。」
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/f909e5b3b77108a472302119b2c5d072

 
 「さて、福島の話をしよう。

政府が単に毎時何ミリシーベルトという外部放射線だけを測定し、それを健康へのリスク評価としているのは危険なことである。

私は長年、放射能測定にカーフィルターを使用している。車は人と同じく、空気を取り入れる。我々は人の肺を開いて除くことはできないが、車ならできる。

福島から100kmの地点で測定したところ、0.1 マイクロSv /毎時だった。ガイガーカウンターだけであればこの値は安全な値だ。しかし我々は、ガンマ線に何が含まれているかを測定する巣ペクト路メーターを持っていて、セシウム134と137のピークを見ることができた。また、この車の走行距離から、空気中のベクレル数は2700ミリBq/m3(立方メートル)であることがわかった。世界中の核実験でピークの値は 1963年に観測された、2.5 ミリBq/m3であったから、この値は1000倍も高いことになる。

先ほど言ったことを思い出して欲しい。60年代、ウェールズでは 30%ものガンの死亡率が増加したのである。

東京圏、千葉におけるセシウム137の値は、核実験のピークのときよりも300倍高い値であった。


人の呼吸量は一日当たり、24立方メートルである。

ICRPによる線量でさえ、セシウムのみで 0.3-0.5mSV に達する。大気中にはプルトニウムもストロンチウムもあったので、これらをすべて足すと20-30 mSVに達する。


我々はECRRのモデルを福島に置き換えてみた。立方メートルあたりのセシウムの濃度と11% 1立方キロメートル当たり100キロベクレルで11%のガンの増加というトンデル博士の数値を主に考慮した。

すると、結果は以下のようになった。

ICRP によれば、今後50年間で100km圏内で2838人のガンの過剰発生がある。

トンデル博士は100km圏内で10年以内に 10万3329人のガンの発生となる

ECRR では、100km圏内で50年で19万1936人のガンの発生となる。

ガンだけでなく、風邪やインフルエンザ、発疹、下痢や9倍に増えた先天性異常が核実験場で働いていた兵士に見られている。(2007年)

人々は毎時1マイクロシーベルトの場所から避難しなければならない。 」
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/f909e5b3b77108a472302119b2c5d072