天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

白石一文『プラスチックの祈り』

2019-05-19 16:27:47 | 


白石一文『プラスチックの祈り』(2019.2月/朝日新聞出版)。

作家・姫野伸昌は妻・小雪の「死」を境に、酒浸りの生活を送っていた。すると突如身の周りに不可思議な現象が起き始める。まず、右足のかかとが透明になった、それはプラスチックであった。それからは次々と身体のあちこちがプラスチック化し、脱落したり再生したりする。
それとともに記憶がどんどん曖昧になっていく。知っていたはずの係累をはじめ親密の人の記憶がおぼろになっていく。
愛妻・小雪の死と関係あるのか。なぜ彼女は亡くなってしまったのか。それさえわからない。過去を探す旅に出た姫野は自身の記憶とことごとく食い違う数々の証言に頭を抱える。何が事実なのだろうか。またそもそも、事実を事実たらしめているものとは一体何か。

久々の白石さんの新刊ゆえ読んだが、えらく散漫であった。ずっと散漫で643ページも続く。
カフカの『変身』を持ち出すまでもなく、自分と外界との間の齟齬、受け入れられない感じというのは小説の根本的なテーマであり、白石さんの発想が目新しいわけではない。

「私」や「私の人生」とは、ただの無味乾燥、無味無臭の柔らかで薄っすら光るプラスチックの集合体に過ぎず、実際には自己意識がそこから逸れた瞬間に、あらゆる事物は元のプラスチックに戻ってしまうのだ。
つまるところ、プラスチックをプラスチックならざるものにしているのは、あくまで「私の人生」という一個の有限な“物語”に過ぎないのであろう。その“物語”というサングラスをかけたときにのみ、巨大なプラスチックのかたまりであるこの世界を、我々は別の姿で見つめることができるのだろう。


633ページあたりで作者が象徴としてのプラスチックについて上記のようにまとめたものが本書のテーマであろう。
ぼくが彼の言いたいことを翻訳すれば、あらゆる物は意識して関わらないかぎり味気ないがらくたに過ぎない。意識するからはじめて意味を持つ、ということ。
たとえば、いまぼくがすごく意識して関わっている多摩川。ここは10年前ぼくにとってはプラスチックに過ぎなかった。土砂や水があり草や灌木が生えている茫洋とした空間で格別おもしろいと思うような場所ではなかった。それがプラスチックということであった。洪水で石が流れてきても水の流れる右岸よりから左岸よりに変ってもそれに気づきはしなかっただろう。
ところが桑の実を採り、柿を採り、胡桃への期待が加わったことで見え方はまるで違ってきた。もはやプラスチックなどではない。
白石さんは意識のあり方と無常についての関係を書きたかったのであろうが、だらだら長すぎた。300ページでコンパクトに言える内容ではなかったか。

白石さんは小説家らしくない書き手である。
小説の中にエッセイ的な筆致がそうとう量紛れ込むのである。意識して随筆ふうに書いているのではないかと思えるほど。これが彼に青春性を感じさせる原因であろう。簡単にいうと、青っぽいのである。
小説家でエッセイを書くのが苦手、あるいは好きではない人はかなり多い。エッセイは自分を丸ごと出してしまう形態であり、その直接性にたじろぐ小説家の心理はよくわかる。つまり自分をさまざまな人物を立てることによって散らすのが小説家の技であり真骨頂なのだ。自分自身は登場人物の背後に影のようにちらつかせる。ソロで一人目立つのではなく合唱において自分を表現する。これが小説の王道である。
白石さんは小説家としてはエッセイを入れ込む人で小説としてのこなれが悪いのだが、ときにこれががぜん光るから面白い。
本書でもエッセイ部分がえらく輝いた8ページほどがある。それは、作家・姫野が講演をするくだりの「私の原発反対論」である。


もしも原子力発電所が暴走を始めたとき、それを止めるためには人の犠牲が要る。決死隊が必要です。東電本店であのとき総理大臣が怒鳴ったのはそういうことでした。「全員避難はあり得ない。会社が潰れるぞ」とは「そこで死ね」ということですよね。
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この事故を収束させるには人間の生命を動員しなければならない。誰かが死ななくてはならない。なんと恐ろしい機械、装置、システムなのだろうと思います。
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あのときも「決死隊」という言葉を与党の実力者は口にし、いざとなれば決死隊を組んで何が何でも原子炉を冷やさなければならないと主張した。決死隊=特攻隊、要するに生還を期すことのできない部隊を投入しないと原発の暴走は止められない。
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原子力発電は人の生命や健康を常に犠牲にすることによって維持されるのです。戦争でもないのにどうしてこんな人柱を必要とする発電所が必要なのでしょうか。
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私は核兵器を完全には否定しません。相手国の核武装を解除するためには自国の核武装が手続きとしてまず必要なのかもしれません。核兵器はあらゆる人に対して破壊をもたらすという点で、そのボタンを押すことを誰もがためらってしまう。その意味で核兵器の恐怖は全人類的であり、だからこそ一定の戦争抑止力を持つことができたのです。
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原子力発電が核兵器よりもさらに悪質であるのは、とりあえず一部の人間たちの安全がおびやかされるだけで済んでしまっていることです。
あの福島第一原発の周辺地域の人々や原発内で事故収束のために働いている作業員だけに危険は限定されている。
しかし、本来そのような人命を犠牲にする技術は実用化したはならない。原発は人を殺すための軍事技術とは違う。にもかかわらず人命の犠牲を前提としている点で、私は核兵器よりもさらにたちが悪いものだと考えているのです。


「私の原発反対論」を要約してみた。
白石一文という人間の肉声がもろ出てしまった「私の原発反対論」は卓越した見解であり、うなってしまった。
「原子力発電は核兵器よりも悪質」は言われてはっとした。
かような洞察力を白石さんは素地に持っている。これを核心にして別の小説を書くべきだと思う。側近の編集者はそういう指導をしてもいいのではないか。
どうしようもない散漫さの中に金塊の光があって、この作家は摩訶不思議なのである。