
きのう渋柿の収穫に多摩川河川敷へ赴いた。渋柿は思っていたより少なく65個であった。渋柿の木は3本あるのだが2本にはほとんど柿がついていなかった。
ぼくの作業を見に来た老人がいた。杖をついてぎくしゃく歩く。彼は岸のすぐそばに家があり散歩のようだ。しばらく作業を見ていて水の流れるところまで歩いて引き返して行った。600mほどの朝の散歩。
後ろ姿を見て「老人と海」ならぬ「老人と砂」で何か書けないかと夢想した。

柿の木のあるあたり、いま砂が10センチ以上たまっていて、むかしより高いと感じる。高いだけでなく起伏があって柿の木を周りを歩くだけでぎくしゃくする。
踏み台を設置するとき場所を選ぶが砂なので安定する。

砂を歩いていてこんなに狭かったのかと思った。8割がた樹木が流れてしまいむこうが見えると森はこんなにちっぽけだったのかと思う。焼跡の敷地を狭く感じるのに似ている。
けれど歩いていると広さを感じ始める。
砂は適度に湿っていて足がそう沈まないので歩き心地がいい。
杖の老人が歩いても足にそう負担が来ないのでは。砂の起伏は陰影もあって楽しい。

胡桃を見つけてまさかと思ったが次々胡桃が現れる。
砂に半ば埋もれて顔を出している。ホコリタケのてっぺんのように小さな穴があいているのはそこの果肉が腐っているため。

颱風のあとに落ちたため流されなかったのか、颱風で落ちたが流れるのをこらえたか。どちらかは知らぬが砂のなかにまだあるような気がする。
そこから新たな芽を出してくるか。

いま河川敷にブルドーザ等の重機が入っている。修復作業をしているようだが、よけいなことはしなくていい。
岸が壊れたならば補修は必須であるが岸と岸の中の川の事情にそう手を入れることはない。
つまらない人間の美意識で圧倒的な自然の力に対抗しようというのはあさはかである。倒れて根っこがあらわになったものは見物である。
いま多摩川はかつて見られなかった風景が広がっている。木の残骸をよけながら歩くと、映画「猿の惑星」や「スターゲート」の登場人物になったかのようなトリップした気分になる。

右側の陰翳は倒れた樹木

1年後のいまごろここがどのような植生になっているのか。ここに人の手を施さずにそれを見たいのである。

