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天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

老後とはいつのこと?

2019-09-10 06:49:43 | 言葉
 玉川上水の散歩道

きのう玉川上水駅で降りて老人ホームへ行った。助っ人の木村弘子さんと1年以上毎月ここへ通っている。きのうは36度を越える酷暑だったが彼女は出てきてくれた。83歳というには元気でしばしば驚く。
街の通りは暑いので玉川上水べりの木陰を行く。連れが躓かないかとたびたび振り返る。枝や葉が散乱しているが外よりは涼しい。
老人ホームの食堂。開始時刻の2時になっても誰も来ず3階の住居へ御機嫌伺いに行くと、一人は覚えていたが一人は3時開始と勘違いしていた。やれやれ、病気でなくてよかった。今このホームで俳句をするのはこの二人。さびしくなった。
約束の時刻に来ていない場合、病気ないし死亡が多いのである。このホームでは俳句講師が部屋をノックすることから仕事が始まる。

玉川上水のフェンス


黄落や頼みもせぬに老後来て 弘子

ホームの二人が採り、小生は避けた。「頼みもせぬに」が味を出そうとしたところだがこの擬人化にそう賛成できない。季語が近すぎるので「八頭」くらい離せばよくなるかもしれない、などとアドバイスする。
余談だがぼくは「老後」という言葉が不思議でならぬ。
「老後」っていつのこと? 老いた後って死じゃないのか。
広辞苑をあたると、「年老いて後。年とってのち」とあり、老後を分解したにすぎない解説でますますわからない。やはり、老いた後は死じゃないかと思ってしまう。

不思議な言葉はほかにも多々あり、いつかブログに書いた「螺子山(ねじやま)」もその一つ。広辞苑は「ねじの凸部」と解説するが、つぶして使えなくなるのは凹部、つまり溝のほうである。ぼくの感覚では「螺子溝」なのである。

「路地裏」というのも妙な表現。これを広辞苑は「路地の中。表通りに面していない所」と解説するが、それなら「路地」だけでもいいのではないか。広辞苑は路地④で「人家の間の狭い道路」としている。これで十分のように思う。
日本語の語彙には情緒の入り込む率が高く日本人はその情緒性に無頓着で使っている。無頓着であることが日本人が情緒民族であることのあかしであろう。
「老後」も「螺子山」も「路地裏」も情緒がそうとう侵入した言葉であろう。できる人はそれを生かして次のような秀句に仕立てる。

路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦


摂津さんはそうとう情緒的な人と思うが甘さをファンタジーに転化してみごとである。

藤田湘子がこの種の言葉のぬるさを「川筋」を取り上げて指摘したことがある。句会に出した門弟の句のそれが気に入らず「川筋っていったいどこなんだ」と不満をあらわにした。これは「老後」に対するぼくの感じ方に似ているだろう。「川なら川でいい。流れなら流れでいい。川筋なんてあいまい」と嫌った。
ちなみに広辞苑は「川筋」を「①川水の流れる道筋、②川の流れに沿った一帯の地」と解説する。①の説明はよくわからない。②を妥当と思うが一帯の地というおおまかなものが俳句を鈍くさせるのである。

言葉の不思議さに気づいて常に辞書を引くことが大事である。ときに辞書は別のものを調べることも大事。辞書製作者によっても言葉の解釈は微妙に異なる。それがおもしろいし悩ましいところでもある。



 
いつも月曜に来る購買車。あやうく焼き秋刀魚(200円)を買いそうになる

日本語の一字の重み

2019-07-02 13:16:34 | 言葉


6月30日に当ブログに「小川洋子に見る俳句のエッセンス」という小文を書いた。
これは小川洋子の短編集『不時着する流星たち』(2017/角川書店)の紹介を主としたものである。
ここでぼくはいちばん感銘を受けた「散歩同盟会長への手紙」の中から次の引用をした。
「一つだけぽつんと転がっているかぎり、ほとんど何の働きもできない彼らが、二つ三つと互いを引き寄せ合い手をつなぎ合ってゆくうち、文字の向こう側に潜む誰かの声がどこからともなく聞こえてくる。」
そして、
このくだりはぼくらが俳句を作っているプロセスなのだ。あるいは秀句を読んで惚れ込んだときの感慨であろう、
とコメントした。

それに対して杉村有紀から以下の反論が来た。


私は、日本語においては文字はひとつだけぽつんと転がっていてもすごい働きをしていると思うのです。
例えばひらがな一文字だけでもいろんな意味を表せたりします。
俳句がたった十七音(十七文字)で人の心を大きく動かすことが可能なのは、ひと文字ひと文字の働きが凄くて、尚且つそのエネルギーが上手く組合わさるからなんじゃないでしょうか。
俳句を作る過程でひと文字の選択に悩むのも、秀句を読んだときにひと文字に衝撃を受けることがあるのも 、そういう一文字の働きに拠ると。
それと、日本語はひと文字ひと文字が、文字というより「音」の世界かもと感じています。
湘子さんが「俳句は意味ではない、リズムだ」と仰ったのもそういうところから来ている気がします。


もっともな反論である。本来なら小川洋子が答えるところだが、小生が小川に代って答弁する。
「一つだけぽつんと転がっているかぎり、ほとんど何の働きもできない彼ら…」という感慨は小川が散文作者であるという立場を明確にしている。それにしても、杉村の突っ込みを許すあたりここの小川の筆致はやや粗い、あるいは甘かった。
小川を擁護すると、引用というのは全体の一部をクローズアップすることで本来乱暴な手段である。ぜんぶを読むと小川が日本語の一字の存在も意味の大きさも十分理解していることを理解するだろう。
たとえば小川が次のように書いているのを見るとわかるのである。

“て”という字の形をした石を拾って感動した私は以来、散歩の途中、文字に似た小石を見つけては拾うようになる、というくだり。

幸運な発見はそうたびたび訪れてはくれません。一日中散歩して、ポケットが空のままで終わる、という日が数か月続くのも珍しくはありません。しかし焦りは禁物です。半ば強引に、似ている、と断定したりすると必ず、翌日になって自分の下した妥協に嫌気が差し、拾ってきた場所へ戻しに行かなければならないはめに陥ります。

小川は偏執狂である。
耳垢、マッチ棒、折れた針、人形の外れた腕とか、細かい物、元が何であったか不明な破片などに異常とも思える関心を示す。そういった物を素材にして書いた小品も多く、『沈黙博物館』(2000/筑摩書房)、『人質の朗読会』(2011/中央公論新社)、『最果てアーケード』(2012/講談社)などの短篇集は俳人好みのテイストである。

今の有紀さんにとって小川の短篇を読むことがいちばん俳句を伸ばすことになるのではないかと思う。
注意すべきは、小川の短篇の素材はきわめて珍しいこと。そこに登場する人や物の出方が意表をついていること。二物衝撃のヒントが作中に点在しており、読みながら俳句が浮かぶことがしょっちゅうで、読むのをやめて俳句をつくりだし、俳句をやめてまた読書に戻ったとき何が書いてあったかわからないこともしょっちゅう。二度三度読み直しています。
俳句の本で俳句を勉強してもいいがときに違う資料が俳句に駆り立てる。その筆頭に小川作品、とくに短篇があると思います。



撮影地:北川公園あずまや