
きのう玉川上水駅で降りて老人ホームへ行った。助っ人の木村弘子さんと1年以上毎月ここへ通っている。きのうは36度を越える酷暑だったが彼女は出てきてくれた。83歳というには元気でしばしば驚く。
街の通りは暑いので玉川上水べりの木陰を行く。連れが躓かないかとたびたび振り返る。枝や葉が散乱しているが外よりは涼しい。
老人ホームの食堂。開始時刻の2時になっても誰も来ず3階の住居へ御機嫌伺いに行くと、一人は覚えていたが一人は3時開始と勘違いしていた。やれやれ、病気でなくてよかった。今このホームで俳句をするのはこの二人。さびしくなった。
約束の時刻に来ていない場合、病気ないし死亡が多いのである。このホームでは俳句講師が部屋をノックすることから仕事が始まる。

黄落や頼みもせぬに老後来て 弘子
ホームの二人が採り、小生は避けた。「頼みもせぬに」が味を出そうとしたところだがこの擬人化にそう賛成できない。季語が近すぎるので「八頭」くらい離せばよくなるかもしれない、などとアドバイスする。
余談だがぼくは「老後」という言葉が不思議でならぬ。
「老後」っていつのこと? 老いた後って死じゃないのか。
広辞苑をあたると、「年老いて後。年とってのち」とあり、老後を分解したにすぎない解説でますますわからない。やはり、老いた後は死じゃないかと思ってしまう。
不思議な言葉はほかにも多々あり、いつかブログに書いた「螺子山(ねじやま)」もその一つ。広辞苑は「ねじの凸部」と解説するが、つぶして使えなくなるのは凹部、つまり溝のほうである。ぼくの感覚では「螺子溝」なのである。
「路地裏」というのも妙な表現。これを広辞苑は「路地の中。表通りに面していない所」と解説するが、それなら「路地」だけでもいいのではないか。広辞苑は路地④で「人家の間の狭い道路」としている。これで十分のように思う。
日本語の語彙には情緒の入り込む率が高く日本人はその情緒性に無頓着で使っている。無頓着であることが日本人が情緒民族であることのあかしであろう。
「老後」も「螺子山」も「路地裏」も情緒がそうとう侵入した言葉であろう。できる人はそれを生かして次のような秀句に仕立てる。
路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦
摂津さんはそうとう情緒的な人と思うが甘さをファンタジーに転化してみごとである。
藤田湘子がこの種の言葉のぬるさを「川筋」を取り上げて指摘したことがある。句会に出した門弟の句のそれが気に入らず「川筋っていったいどこなんだ」と不満をあらわにした。これは「老後」に対するぼくの感じ方に似ているだろう。「川なら川でいい。流れなら流れでいい。川筋なんてあいまい」と嫌った。
ちなみに広辞苑は「川筋」を「①川水の流れる道筋、②川の流れに沿った一帯の地」と解説する。①の説明はよくわからない。②を妥当と思うが一帯の地というおおまかなものが俳句を鈍くさせるのである。
言葉の不思議さに気づいて常に辞書を引くことが大事である。ときに辞書は別のものを調べることも大事。辞書製作者によっても言葉の解釈は微妙に異なる。それがおもしろいし悩ましいところでもある。

いつも月曜に来る購買車。あやうく焼き秋刀魚(200円)を買いそうになる