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天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

佐藤愛子『晩鐘』

2019-11-06 05:06:49 | 


平成26年、文藝春秋から出た本書は、現在95歳の著者の最後の小説という。

アマゾンの内容紹介から
老作家・藤田杉のもとにある日届いた訃報――それは青春の日々を共に過ごし、十五年のあいだは夫であった畑中辰彦のものだった。共に文学を志し、夫婦となり、離婚ののちは背負わずともよい辰彦の借金を抱えてしゃにむに働き生きた杉は、ふと思った。あの歳月はいったい何だったのか?  私は辰彦にとってどういう存在だったのか? そして杉は戦前・戦中・そして戦後のさまざまな出来事を回想しながら、辰彦は何者であったのかと繰り返し問い、「わからない」その人間像をあらためて模索しようとした……。
『戦いすんで日が暮れて』『血脈』の系譜に連なる、かつて夫であったでひとりの男の姿をとことん追究した、佐藤愛子畢生の傑作長編小説。


藤田杉は佐藤愛子自身を投影した主人公でほかの登場人物もだいたいモデルが特定できる。佐藤愛子という作家はエッセイと小説との間の境があいまいで、小説に自分の経験したことをふんだんに小説に放り込む。したがってえらく生々しい。
本書はまさにそういう代物であり、夫が事業に失敗した2億円の借金のうち何千万円も書いて書いて稼いで返済する。作家仲間からそれは会社の借金で君とは関係ないと言われてもそうしてしまう。そういう行動は自分自身でも理解しがたいと書く。
夫は明るい詐欺師であり私は悪妻。夫のズボンにアイロンをかけないので夫は「シームレス」と笑われる。そんなことする暇もなく書いて稼がなくてはならぬ身の上だったからであるが。

モデルが特定できる生々しさと下世話なことを下世話な言葉で書く上方気質があいまっておもしろい。たとえば紅茶の袋を匙でしごいて潰して徹底的に色を出す杉の性状とか、ソファーに陰毛を発見したことで居丈高の相手が何をしたかわかりホッとする杉の心情だとか、男女の行為を「やる」「やらせる」と情調のかけらもなく表現する文体とか、現実をとことん見据える目が行き届いている。
これはやはり上方文化なのである。


作者は「あとがき」にこう書く。
今まで私は何度も何度もかつて夫であった男(この小説では畑中辰彦)を小説に書いてきました。…………
ある時は容認(愛)であり歎きであり、ある時期は愚痴、ある時は憤怒、そしてある時は面白がるという、変化がありました。それは私にしかわからない推移です。今思うと彼を語ることは、そのときどきの私の吐物のようなものだったと思います。
……………………
しかし畑中辰彦というこの非現実的な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。私たちは平素、いとも簡単に、「理解」を口にします。しかし本当は、真実の理解なんてあり得ない、不可能ではないか、結局は「黙って受け容れる」ことしかないのではないか? と思うようになりました。彼が生きている間にそのことに気づくべきでした。しかしそれにはこの長い小説、だらだらとくり返された現実を書くことが必要だったのです。


471ページ書いてきて「あとがき」にさらにこれを書く執念に圧倒された。佐藤愛子にこのどうしようもない夫であった男は佐藤愛子のエネルギーを奪い取ったのではなく、逆に、90歳を越えて生き続けさせるエネルギーの源泉であったと思うのである。

深沢七郎『楢山節考』

2019-10-16 06:02:33 | 


乙川優三郎が「おりこうなお馬鹿さん」という短篇のなかで登場人物に、
日本の数十年前の人間像も素敵です、自分自身を律する心の質が今の私たちとは全く違うし」と語らしめているのが身にしみている。
乙川さんの場合、直接的には尊敬する作家芝木好子自身、さらに彼女が書いた隅田川界隈の職人たちの日々技を磨く精神性のことかと思う。
これは各人がもっと広げて解釈してもいいわけであり、ぼくは太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾(あなみ これちか)の心のうちをよく思うのである。
介錯もさせず自分の腹を切って果てた阿南惟幾。これにより暴発寸前であった陸軍の鎮静を図り無事ポツダム宣言受諾にこぎつけたのだが……これを強靭な精神力などという言葉で処理できない。
「自分自身を律する心の質」ということを考えてしまうのである。

立川談志の枕のように前置が長くなったが、『楢山節考』は昭和39年、ぼくが13歳のときには発表された作品。何度読んでも味わい深い。
主人公おりんの心の質はいまのわれわれからあまりに遠い。69歳になり来年は楢のいっぱいの山へ背負われて行くさだめ。そこに放置されて死を迎えるのだが彼女は行く心の準備ができている。残念なのは旅立つには歯がすこぶる立派なこと。33本もある葉を子供たちが揶揄する歌を知り恥ずかしくてならない。
それで石で自分の歯を叩いて壊そうとするが駄目。しまいには石に自分の顔をぶつけてやっと2本の歯を折ることに成功する。顔は血みどろでしばらく血が止まらない。それを見て子供たちが鬼婆と叫んで逃げる。
この小説は色彩感覚が実に優れている。
まずおりんの流血した真っ赤な顔である。次に息子辰平が進んで行く山中で、ここに白骨が散乱していて雪のように白いというくだり。ここに来るとなんと空から雪が降りはじめる。白骨に降る雪が神々しく凄まじい。辰平は母を地におろしたら振り向いてはならぬという掟に反し、雪が降ってきたことを言いたくて母のところへ引き返す。死を荘厳する白い雪を最後に母と喜びたいのである。こういう心の質というのは本がないと、書かれたものがないかぎり、もはやわれわれは近づくことができない。
雪が降る中ある遺体は黒い。見ると胴体に黒いものが動きそれは鴉なのだ。鴉が臓物を食っておりそれは二羽三羽といる。遺体の中を巣にしている。

現代のわれわれが遠ざかってしまった「心の質」を辿ろうと思う。寒くなってとりわけそういう欲求に駆られる。

朝井リョウ『時をかけるゆとり』

2019-10-05 04:18:35 | 


アマゾンの内容紹介によると、
就職活動生の群像『何者』で戦後最年少の直木賞受賞者となった著者。初エッセイ集では天与の観察眼を縦横無尽に駆使し、上京の日々、バイト、夏休み、就活そして社会人生活について綴る。「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を見た、切なさとおかしみが炸裂する23編。

朝井リョウが早稲田大学在学中に書いて世に出た『桐島、部活やめるってよ』を読んだが、正直言ってそのよさがよくわからなかった。俺は年を取ってこの年代についていけないのかとも思った。
彼を凄い書き手と認識したのは讀賣新聞の書評であった。窪美澄著『じっと手を見る』を紹介した約800字の「打ちのめされる正直さ」と題した文章であり、2018年5月16日の天地わたるブログで絶賛した。
与えられた字数内で書くために句読点を半角に押し込んで圧縮し、できるだけたくさんの言葉で窪美澄を称えようとした姿勢に感激するとともに、文章の精度の高さに唸ったものである。


作家の中にはフィクションしか書きたがらない人がいるが彼はエッセイも喜んで書いた気配がある。
なにせ、「便意を司るられる」から始まるのである。作家光原百合が解説で、

「司る」、この荘重な動詞が、「便意」と共に用いられたことが、日本語の長い歴史に中でかつてあっただろうか。ない、多分ない。
と興奮しているように、うんこの話を冒頭に持ってくるという自分の見せ方に拍手する。
私はお腹が弱い。
と書き出すのであり、著者略歴には、
「岐阜県出身、5月生まれ。2009年に『桐島、部活やめるってよ』でデビュー。お腹が弱い」である。そうすべきである。
とする。
お腹が弱いというか、要はビビリなのだ。
と続き、大学1年生のとき河口湖合宿に行ったときのバス移動の際、催ししてしまい、これは無理だ。出る。となってバスを降りてロケットスタートを切る。民家の前のおじさんに「腹が限界だ」と叫びその家へ跳ぶ込み、団欒の和やかに空気を引き裂いてトイレに辿りついた。(もうすこしコクのある文章を小生が縮めています、ご容赦を)

レベルに達している作家という人種は年齢にかかわらず凄い。自分を客観的にさらけ出して見つめることができるのである。ゆえにおもしろいのである。
冒頭が便意で中盤に「地獄の100キロハイク」「黒タイツおじさんと遭遇する」「ピンク映画で興奮する」「地獄の500キロバイク」などあり、
しまいに、「直木賞受賞で浮かれていたら尻が爆発する」を配置する




イラスト:上楽 藍

直木賞をいただき、痔になった。
すごくシンプルな文章である。

これと似た形式の文章として「太陽が東から昇り、西へ沈んだ」がある。
とスタートする。自分で自分の文章をシンプルと評価しながら綴っている。この自己の客観化がこの作者の武器であろう。
べったあ~
血! 血ィィ!! 
肛門科じゃ! 孫を肛門科へ連れて行くのじゃあああーーー!!


冒頭としまいと、決め手は下半身ネタばかりであるが、ともかく、おもしろい。小説、書評、エッセイとこれだけさまざまな文体を駆使する能力に唸ってしまう。むかし野球ではやった表現をすれば「七色の変化球」。
これだけ笑えるエッセイはそうないだろう。


木内昇『万波を翔る』

2019-09-24 06:21:41 | 


単行本: 560ページ 出版社: 日本経済新聞出版社 (2019/8/24) 価格 ¥2,160

作者名と題名のよろしさで手に取った。木内昇(きうち・のぼり)でよかったのは、『櫛挽道守(くしひきちもり)』(2013年 集英社)。
幕末の木曽山中で櫛職人の家に生まれた長女・登瀬が父の櫛挽きの技を継ぐべくひたすら櫛挽きの道に励む物語にのめり込んだ記憶がある。逆境にめげず作者にわが道を切り開かさせる闊達にして前向きの姿勢がこの作者の魅力である。

『万波を翔る』も同様で、そう身分の高くない武士・田辺太一の幕末の外交に奮闘した物語である。

【内容紹介】

先が見えねぇものほど、面白ぇことはねぇのだ――

開国から4年、攘夷の嵐が吹き荒れるなか、幕府に外交を司る新たな部局が設けられた。実力本位で任ぜられた奉行は破格の穎才ぞろい。そこに、鼻っ柱の強い江戸っ子の若者が出仕した。
安政5年(1858年)幕府は外国局を新設した。しかし、朝廷が反対する日米修好通商条約を勅許を待たず締結したため、おさまりを知らぬ攘夷熱と老獪な欧米列強の開港圧力という、かつてない内憂外患を前に、国を開く交渉では幕閣の腰が定まらない。切れ者が登庸された外国奉行も持てる力を発揮できず、薩長の不穏な動きにも翻弄されて……
お城に上がるや、前例のないお役目に東奔西走する田辺太一の成長を通して、日本の外交の曙を躍動感あふれる文章で、爽やかに描ききった傑作長編!

維新前夜、近代外交の礎を築いた幕臣たちの物語。勝海舟、水野忠徳、岩瀬忠震、小栗忠順から、渋沢栄一まで異能の幕臣たちが、海の向こうと対峙する。


【田辺太一メモ】 
誕生:天保2年9月16日(1831年10月21日)
死没:大正4年(1915年)9月16日
官位:正四位
役職:江戸幕府:甲府徽典館教授、外国書物方出役、外国奉行支配調役並、
外国奉行手附書翰取調之御用重立取扱、パリ公使館書記官
写真は1863年、パリにて



松岡圭祐『出身成分』

2019-09-12 05:12:46 | 


松岡圭祐『出身成分』(KADOKAWA 2019.6.28 定価: 1,728円)

【史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸!】
とい触れ込み、そして、
「本書は脱北者の方々による、多岐にわたる証言に基づいている。
マスコミに登場する北朝鮮は、首都平壌にかぎられる。だがこの物語は、郊外におけるごくふつうの殺人事件とその捜査を、初めて描いている。
ここに書かれた顛末に、非常に近いできごとが現実に報告されている。
事実を踏まえているため、地味で複雑な内容であるが、結末に至るまでに、その背景に潜む真相にお気づきになるだろうか。
貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。」
という作者自身のまえがきに惹かれた。

【出身成分】
北朝鮮における住民の政治的地位を規定する階層制度、およびその階層を指す言葉。
「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の3種からなる。核心階層は統治階層で、党の幹部や革命遺家族からなり全人口の約30%。動揺階層は全人口の5割を占める基本階層で、大部分が地方に住み、特別な許可がなければ平壌に入ることはできない。敵対階層は反動分子とされる人たちで大学や党、軍での昇進資格が剥奪されている。

【あらすじ】
平壌郊外の保安署員クム・アンサノは11年前の殺人・強姦事件の再捜査を命じられた。犯人として収容されている男と面会し記録を検証するが、捜査の杜撰さと国家の横暴さを再認識するだけだった。実はアンサノの父は元医師。最上位階級である「核心階層」に属していたが、大物政治家の暗殺容疑をかけられ物証も自白もないまま収容されている。再捜査と父への思いが重なり、アンサノは自国の姿勢に疑問を抱き始める。そしてついに、真犯人につながる謎の男の存在にたどりつくが……。

【大どんでん返し】
事実の積み重ねが地味で煩雑であるが、前半は主人公アンサノと被害女性チョヒとの交流。後半はアンサノとミヨ・インジャとの交流が骨子。アンサノを取り締まる上級役職(人民保管局理事官・中佐)であるインジャと底辺であえぐ哀れなチョヒ……この間に大どんでん返しがある。編集者さえびっくりしたであろうような(ネタバレゆえ書けない)。

【性上納】
本書のテーマの本流ではないが、インジャが語る身の上話は身に入みる。
この国で女性がのし上がってゆくには当然のように体も提供が求められる、すなわち「性上納」である。女性に(男性にも)人権がないため体を提供するのを厭うでもない心のありようが語られる。インジャは今の地位まで「性上納」によって登ってきた。北朝鮮における女性の在り方を象徴的に示していて興味深く、凄まじい。

【読後感】
北朝鮮の人民は南を、韓国の文化をネットはだめでもラジオによってかなり知るし、西側へ仕事に来ている人もいる。たとえばJリーグへ派遣されている一流選手は本国との文化ギャップをどう感じて生きているのだろうか。
一流選手は「核心階層」に属するだろうから地位、生活など優遇されるだろうが、西洋かぶれしていないかなど見張られるだろう。人が人を見張るし専門の監視もべったりつく。「核心階層」に属し物質的経済的には潤っても精神的にがんじがらめのこの国の様子が、ひとつの殺人事件の捜査を通じていきいきと深刻に描かれている。