天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

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鷹9月号小川軽舟を読む

2019-08-31 00:41:13 | 俳句
 忍野八海の池


鷹9月号小川軽舟主宰が「父許」と題して発表した12句。
今月は山野月読と天地わたるが合評します。山野と小生はネットの「シベリウス句会」で10年来の付き合い。シベリウス句会きっての理論派で緻密に句を読む輩と見てきた。
月読が○、天地が●。

梅雨明や洗ひし顔に朝の風
●梅雨明を待っていたんだろうね。「洗ひし顔に朝の風」はこれ以上ないほどの実直さ。
○「朝の風」を受けたのは洗顔の直後と読めるのですが、最近はマンション含め、窓のある洗面所って案外少ないのでは。それだけに、この状況が羨ましさ込みで、一際心地よく感じました。

ソーダ水泡一列にのぼりけり
●厳密に「泡一列」であったかちょっと考えてまあそういう感じかと納得。
○微かな記憶で言えば、喫茶店とかで運ばれて来たばかりのソーダ水には幾筋もの泡が立っていて、時間の経過に伴ってそれが淘汰されていくようなイメージがあります。それが当たっているとしてですが、ソーダ水を注文したものの、同席者との話に夢中になっていたのか、その間の喫茶店での時間の経過、ドラマを想像させます。

湖の細見の魚や水あふひ
●季語「水あふひ」は漢字では「水葵」。淡水に生える抽水植物で一年草。茎は横に這う根茎となって斜上し葉が出る。花は青紫。近場のものをつけてどこに飛躍はなくてポイントは「細見の魚」だろう。
○琵琶湖でしょうか、だとすると琵琶湖八珍とか聞きますが、そういう魚もいるのでしょうね。魚の具体名を出さず、「細身の魚」とすることで、作者もよく知らぬご当地ならではの魚なのだろうなと、読み手が察することを知り尽くした表現かなと。「水あふひ」という表記も、この「細身の魚」をいきいきとさせ、相応しいと感じます。
●鮎かなあ、細身の魚は。「細身」は作者の句風を象徴している感じです。
○何ですか、それ(笑)。
●作者は名前の通り細く、軽く句を仕上げて滋味を出すんだよ。
 水葵


現し世に妻と子のある蓮見かな
○極楽浄土と関連深い「蓮(見)」と「現し世」との調和的な取り合わせですが、これにこの中七を持ってきて、現し世と極楽は対比構造ではなく、現し世即ち極楽の構造にしてみせたのはさすがです。
●「現し世に妻と子のある」は逃れられない人間の成り立ち、煩悩ということなんだろうな。宗教臭さがあるね。
○宗教臭さは気になりませんでした。

一階に載せて二階や氷水
●これは茶目っ気がある。
○そういう工法もありそうですが、建築模型を見ているのかも。しかし、「氷水」からは、模型と言うよりも、やはり生の建築物現場を感じますね。
●ちょっと待った! 「建築模型」って氷水とは別の「建築模型」のことを言ってますか? ぼくは氷水そのものを書いている一物俳句だと思うんだけど……氷水って積み重ねて高くなるじゃない。一段積んで二段目で危ないほど高くなったというシーンだろう。
○ここでこんなことを聞くのも恥ずかしいのですが、「氷水」ってかき氷、若しくは氷を浮かべた(砂糖)水のことと理解していて、この句では後者をイメージしてました。この句での「氷水」からは労働を感じて、それで建築現場と判断してたのですが、積み重ねて高くなるというのは、いわゆる製氷屋さんが扱う氷のキューブ状の氷のことですか? 氷水にそいういう意味があるのなら、間違いなく大将が仰るように一物ですね。
●そうキューブ状の氷。「や」で構造的に切れているけど中身は切れていない一物。危なかったぜ(笑)

盛り場は裏を飾らず蚊喰鳥
○店舗は案外どこでもそうなんでしょうが、生ゴミの出る盛り場となると、リアルに感じますね。汚れているとかではなく、「飾らず」とすることで、表通りの華やかさや、それとのギャップが際立ちます。
●そう、「裏を飾らず」が的確で季語もリアルに決めている。

夏足袋や祇園の火事の一夜明く
●この句について作者は「編集室」で句作の事情を書いている。7月9日出勤の際ニュースを見ていると見覚えのある祇園の松が登場した。それは鷹同人・髙安美三子さんの「吉うた」であったと。
この事情を知らなくても「夏足袋」は女将の火事の後始末に奔走するのがわかる。
○なるほど、そうでしたか。確かに事情を知らずとも、火事後の慌ただしさの中での毅然とした女将を想像させます。焼跡のイメージに夏足袋の白さが際立ちます。
●季語を明るくして希望を託した感じ。
○なるほど、そうですね。

独り住む父許(ちちがり)訪へば蛾の白き
○「許」という言い方を初めて知りました。「主宰の今月の十二句」は、毎月まずは掲載句を読み、タイトルを予想する遊びをしているのですが、今月はこの「父許」が本命でした(因みに対抗は「声明」)。傾向と対策としては、後半の句をマークせよ、です(笑)。
白い蛾は、確か吉兆のひとつだったように思います。
●吉兆のどっち? ぼくはいまいちこの季語で作者はどういう心境かわからなかった。「蛾の白き」ねえ……蛾って言わなくてもだいたい色は白でしょう……。
○図像学的には良いことの前触れだったと思います。蛾ってだいたいは白くないですよ! だからこそ吉兆にもなり得るわけで。
●そうかなあ。

火をめぐり漆のごとき蛾のまなこ
●「漆のごとき蛾のまなこ」はこまやかに見ている。
○「蛾のまなこ」なんて見ますか!普通。見たくないなあ。でも、「漆のごとき」があまりにもリアルで、本当に見たんだ!って思わせますね。
●けっこう大きい蛾で気持ちの悪さもある。目も大きくて。今月の12句ではいちばん迫力があってぼくは好きだなあ。

声明に鉦追ひすがる暑さかな
●仏教関係の行事だろうとは思うもののそれに疎いのでネットへ「声明と鉦」と入れてみた。すると「鉦叩」が出た。中世・近世(12世紀~ 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種で空也上人が有名だが、それかなあ。
○大将以上に疎いので、私もググりましたが、天台声明という流派もあるようで、当然ながら比叡山ですね。ここで、先の「細き魚」の湖とも無事に繋がり、私的にはホッとします(笑)。それは別にして、声明音楽は聞いたことありませんが、夏の比叡山で聞くそれは、かなり暑そうです。
●おおむね仏教関係ということでいいだろう。「声明に鉦追ひすがる」はこの作者の凝らないうまさ。

夏安吾の大きな月に寝静まる
○「夏安居」は「大きな月」の連体修飾語であるとともに、「寝静まる」に対する主格(僧のメタファー)としても機能しているように読みました。延暦寺だとすれば、その夜の静けさたるや、という感じです。句のストレートさが合っていると思いました。
●どうということもなく、どこも目立たない丸い句だなあ、という印象。大づかみにしてゆったり仕立てて恰幅を出したのはみごと。
○構造的には、いわゆる切れもありませんが、それもこの句内容にはマッチして、恰幅のある句になっていると思います。今月の中では一番好みです。
●そうだね、いい出来だね。

縁談も鯖街道を上りけり
●鯖街道は若狭国などの小浜藩領内(今の福井県嶺南地方あたり)と京都を結ぶ街道の総称。メインに運ばれたのは鯖だが縁談も来ただろうという想像である。
○想像なんですかね?本当に縁談話があったように読みました。なにせ、先ほどの句で吉兆が配されてましたし(笑)。魚に加え、歴史にも疎いのですが、日本史的に有名なカップリングとかあるのかな。鯖街道の往時の賑わいを想像するだけで、この縁談話も賑やかなトピックスのように思いました。
●そうか近辺に縁談話があったのか。ほんとうに若狭方面から。それで鯖街道を思い出した。そのほうがおもしろいね。
○鯖も縁談も同列で捉えられる感性こそが、作者の強み、魅力の一端かと。
●月読くん、ご苦労さん。おもしろかった。
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雨の日の黒くしづもる胡桃かな

2019-08-30 15:41:16 | 身辺雑記

多摩川河川敷の胡桃林

朝からけっこうの量の雨が降っている。佐賀県で被害を出した雨の関連か。
ぼくが自転車に乗ろうとすると妻がクルマで職場へ送るという。それを「雨が嫌いじゃないから」と断って自転車にまたがる。
雨の中ひとり行くのが好きである。いまどきの雨は涼しいし靄があたりを狭くして自分自身の空間ができる感じ。町の音や人の声が絶えてひとりの時空が出来する。合羽に当たる雨音のみ聞いていると健やかで豊かな気分になれるのだ。
本も読みたくなく俳句も考えたくなく人と話もしたくないとき、雨の中を一人自転車に乗るのは快適である。
仕事をいい加減に終えて多摩川の胡桃林へ自然に足が向く。落ちている落ちている。胡桃を拾うという単純な目的に突き進むときほかの一切のことから自由になって快適。
胡桃を、拾い集めて野球場のわきの水たまりで洗う。


水たまりが真っ黒になる



きれいになったのをアパートの石の上で割る。
いま落ちている胡桃は熟していない。未熟、半熟である。人間なら流れてしまった水子か。
割っても半分は食えないが半分はなんとか食える。
割って食うのは胡桃の供養である。食えなかったのは畑で腐らせて栄養にしよう。



未熟や腐っている胡桃は畑へ持ってゆく
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水を見つ富士の裾野や秋の風

2019-08-29 09:41:49 | 旅行


8月27日は「すすき祭り」だという。きのう火祭りを行った通りをすぎて浅間神社へ行くと、入口に芒が飾られている。
筒の上に芒を活けた趣向は火祭りの「塔松明」に似た構造。当地の趣味は大きな筒にありそうだ。
神社仏閣はそう好きな場所ではないがここの浅間神社には前から好感を持っている。ここを通って登山道が富士山へまっすぐ伸びていて登山の途中この神社で休んだこともある。
太い杉が文字通り林立し涼しいこと。
ベンチに座っていても蚊が来ない。黒揚羽が行き来する。
黒揚羽杉の奥より冷気来し

杉涼し手水の水をぶがぶ飲む
手水の水は無尽蔵に出ていてああ富士山の清水と直感する。



爽涼の杉に身を寄せ紅ひく人
逢引でもあるまいになぜここで化粧を直す、君は? まあ美しい姿を世に提供することを神は許すだろう。

走る水湧き出す水や杉涼し
拝殿のすぐ横をすごい量の水が走る。杉の下で水を眺める憩いのとき。










神社前でバスに乗って忍野八海へ。火曜日にしてはバスが込み吊り革に捕まる。忍野八海は水をゆっり眺めうまいコーヒーを飲むところと思っていたが、観光客の多さに唖然とする。
なかでも中国人ツアー客がほかの客を押しのけて闊歩する。声が大きい。まあ、日本に銭を落としてくれるので我慢しよう。
中国語飛び交ふ橋や鯉涼し




地表を流れる川がないのが富士山の大いなる特徴。ほかの3000m級の山にそういう山はあまりないだろう。富士登山の悩みは高価な水を買わねばならぬこと。つまり水は地中深く沈むのである。
それが忍野八海に噴き出る。
身に入むや富士の底より滾る水



サングラス外し湧き立つ雲の中
雲というのはその白さを見たい。夏雲の湧く中で入ればサングラスはあってもなくてもいい。富士山に湧く雲はほかとは断然風情が違う。

山梨は葡萄や桃など果実が有名だが稲も多い。いまどきの田んぼの色と富士の雲の色とあいまって豊か。
富士覆ひ雲猛々し稲穂波

富士覆ふ雲も眺めやソーダ水


爽かや水車小屋より杵の音
観光用水車である。中では杵で米をついている。むかし郷里の田んぼの横にやはり水車小屋がありそこでは杵で藁をついた。稲を縛る藁を柔らかにして使いやすくするためであった。



水車のごと男はたらき清水欲る
水車を見ていて男の人生を思う。回り続ける人生を。止まったら死である。働いて水を飲むのは優秀。酒を飲んで身を持ち崩すのも理解できる。

容赦なく水車回して水澄めり
せわしない働きをしても水はその清らかさを少しも失わない。すばらしい。

水散らし回る水車や天高し



冷やしそうめん啜りつ水車眺めをり
水車の見えるところにレストランがある。無愛想なベトナム系ウェイターがセルフサービスというのは水のこと。ここの水は実にうまい。

水底に散らばる銭や小鳥来る
「ルルドの泉」ではないのでコインを投げられても困るのだが川の底は賽銭箱をぶちまけたよう。コインを拾ってきれいしたい。そのコインはむろん清掃料。



本流へ支流ぶつかる竹煮草

爽かや水の流れに沿うて行く

池から流れ出す川も美しい。水のそばに人は寄りたがる。相思相愛の男女はならなおさら水のそばを歩きたくなる。この場面では木村多江のような女がいい。


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吉田の火祭

2019-08-27 23:02:07 | 旅行



26日富士山麓の火祭りを見に行った。
富士山駅(むかし富士吉田駅)へ降りたのが16:15ころ。国道137号線(富士みち)の金鳥居から上宿に至る約1キロの直線道路上でその用意が始まっていた。
路上にまず土砂を敷きその上に燃やす薪を積む。
それは2種類あって一つは、井桁に積み上げて行くもの。これは即座にそこでできるもの。

薪を井桁に積む女性


もう一つは、3メートルほどの高さのもの。こちらは薪の束を6段ほど積み重ねて菰で巻き縄で厳重に縛って塔の形にしたもの。以前から時間をかけて作ってある大きな松明である。
大きな塔松明と小さな手積みの井桁が交互に配置され一直線に富士をめざす。

秋冷の富士へまつすぐ火が並ぶ

参道に立つ火柱や秋澄めり

東京は残暑が厳しく秋の印象はほど遠いがここは空気がひんやりしている。火が秋の空気と合う。

曇天で富士は見えないがその雲量は凄い。

田水沸く富士を覆ひし雲の嵩



いったん宿で休み19:30頃、上宿信号へ来てみるともう火が燃えている。
塔松明に不調なのがあって白煙をもうもうと立てている。男らが突いて空気を入れようとすると崩れる。スコップで土砂をかけたり水を撒いたり慌ただしい。
塔松明は順調に燃えても燠が崩れ落ちてあたりが燃えさしや燠で明るくなる。





白みたる燠赤々と秋の風
久しぶりに燠を見た。それは表面が灰になったかと思うと風がそれを吹き飛ばしてまた燠のいきいきした赤を見せてくれる。なつかしい。
井桁に積んだものは火が近くて熱い。

火柱の立つやかぐろき秋の富士



火は21時ごろ消されてあと片付けするという。最後まで見ず飯を食いに宿に戻る。翌朝路上は何事もなかったかのように車が行き来している。
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俺も喜撰法師の心境

2019-08-26 06:06:23 | 身辺雑記


年を取ったのだなあと痛感する。
万葉集では狭野弟上娘子(さののおとかみおとめ)の「君が行く道の長手を繰り畳で焼き滅ぼさむ天の火もがも」がもっとも好きな一首であったが、最近、喜撰法師の「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」に親しみを覚えてならぬ。

遠くへ出かけるのが億劫である。
自分が座長をつとめる句会はきちんと出かける。田無のひこばえ句会が鉄道の距離で18キロ。一番遠い句会が桜新町で24キロ。
東京都は東西に広い場所で西のはずれが雲取山。若いころここへよく登ったがしばらく行っていない。いま西も東も遠い。
句会関係では新橋の中央例会が遠い。ここは35キロ東である。22キロ東の新宿もそうとう遠くめったに行かないが、そこからさらにむこうの新橋を雲の中に感じる。
中央例会へ行くとき、どこで乗り換えて、どこで飯を食って……と頭のなかでイメージして備える。それでも帰途気がゆるんで傘をなくした。なくした場所をまだ思い出せたのが救いである。

東のほうの都心は人がぐちゃぐちゃいるところであり、人に当たらないように歩くのに気を使う。歩くのが遅くないので人によく当たりそうになる。わずらわしい。
人がいないところを好きなように歩いていたほうがいい。よって自転車に乗って南の多摩川へ行き、胡桃探しをする。
活動範囲が東西から南北へ変り活動範囲が以前よりぐっと縮まった。南へ10キロ自転車で行くのがもっとも気が晴れる。狭いところで結構満足できることが老境ということであろう。割と狭いところ、一点を見て宇宙など思ったりする。

最近、鷹同人の荒木かず枝さんに「野人」と言われた。ひこばえ句会の戸田鮎子さんに「原人クラブが似合う」とも。喜撰法師が辰巳(南東)に住むなら俺は酉(西)に住み、あちらが「うぢ山」で俺は「野人ないし原人」ではあるが……。
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