最近は、特に令和になった頃から、自己犠牲が流行らない。
犠牲になると、長持ちしない、サステイナブルではない、だから犠牲になんてならないほうがいい。
ってなことを僧侶まで言い出す時代(どの本だかは思い出せない)。
しかし。
自己犠牲の価値は色褪せない。
人は自己犠牲によって精神的に優位に立とうとするから。
犠牲になるから、優位に立つ。
漱石『坊っちゃん』で、氷代を奢る山嵐が坊っちゃんの優位に立つような関係。
坊っちゃんが、山嵐を立てて、氷代を奢らせるままにしておく。
「奢る」という自己犠牲をさせることで、相手を立てる。
「奢る」という自己犠牲をすることで、優位に立つ。
世の中の会食で、目上の人が支払うことが多いのも、それによって精神的に優位に立つから。
犠牲になるから優位に立てる。
かつて太平洋の島々で、「贈与をすることで相手部族より優位に立つ」ような交易があった。
贈与と言ってもいいが、自己犠牲と言ってもいい。
自己犠牲して贈与をするから、精神的優位に立つ。
私も、IPBAという国際弁護士団体で、ある自己犠牲をしており(これは墓場まで持っていく)、それによって自己満足ですが悦に浸っている。精神的優位に立っている。
この、「贈与=自己犠牲をすることで精神的優位に立つという自己満足」は、おそらく人間の本能だと思われる。
人間の変な矜持というかプライドというかこだわりを示す、この自己犠牲(による精神的効果)。
この「自己犠牲することで優位に立つ」本能がある以上、世の中から自己犠牲の美徳が失われることはない。
どんどん自己犠牲しましょう。
掃除仙人あたりを名乗る吉川なんとかさんとか鍵山秀三郎さんとかCoCo壱番屋創業者の宗次さんとか、掃除をめちゃくちゃ頑張る人たちも、掃除という自己犠牲をすることで、他者の精神的優位に立つという「幸せ」を味わっているんだと思う。
犠牲になることが幸せになるコツ。
そう考えている奇特な人間は、確実に存在する。