中島義道なんか、レジュメにブランクがない人
(=ピカピカのキャリアの人、浪人留年経験がない人)、
強いコンプレックスを持っていない人は絶対読まないんだろうね。
このブログも、僕の知人以外では、コンプレックスのない人は
読者になっていないと思います。
人は自己の劣等感を美化・浄化するために思索・哲学するのかも。
≪日本人は、(中略)いかに語らないかということですね。
ヨーロッパ文化の基本は哲学だといわれますけれども、
そのときの哲学という意味は、けっして思索することではない
んですね。
あるいは深遠な思想を展開することではなくて、語ることなんです。
ロゴスというのはそういうことです。
つまり、責任を持って自分自身の立場で語るということです。
120年間にわたってわれわれはヨーロッパ文化を受け継いで
来ましたけれども、その中の一番中心的な部分は受け継いで
こなかったのではないかとさえ思います。
それは、何かといいますと、ヨーロッパ人の持っている言語感覚というか、
言語的な態度、語ることですね、これをわれわれは完全に
拒否してきたんですね≫
≪日本社会において、「私は」という叫び声を発することが特に重要
だと思います。(中略)ところが、客観的な態度、あるいは相対的な
態度という美名の下に、その叫び声がおうおうにして押しつぶされるわけです≫
…佐々木かをりの「I statement」だね。
≪ほんとうにその人固有の苦しみを正確に、論理的に語りつくすこと、
その教育が哲学だと思うんです≫
…僕が中島に共感するのはここだな。
自分の言葉で語るから。
哲学者なのに難しい哲学用語やカタカナがない(いや、本来ならば
哲学者だからこそ、と言わねばならない)。
しかし彼のこと、業界では「闘う哲学者」と持て囃していますが、
「引きこもり哲学者」の方が実態に近いと思う。
まあ哲学者なんてみんな多かれ少なかれ引きこもりですが。
≪個人主義とか、自己責任とか、自己実現、自己同一性、主体性なんて
言葉が、プラスの価値としてまかり通って≫いる割には、
≪言葉が氾濫していて、人々は議論をしません。
日本社会は個人の言葉を圧殺する社会なんですね≫
≪いじめられる子というのは、やはり言葉を奪われている≫
…山本七平みたいな分析だ
≪自分の主張を貫くためには、場合によっては人を傷つける言葉を
使うわけですね。相手を傷つける、あるいは自分を傷つける、
いろんな人を傷つける。傷つけるでしょう、言葉ですから。
対立をはっきりさせるために、傷つけなくちゃいけないでしょう。
過度に傷つける必要はありませんけれども、
自然な形で傷つけることはあるでしょう。
しかし、それに対して各人が責任をとる。
こうした関係だと思うんですね。(中略)
日本社会はこれをだれも望まない。
配慮して、だれも傷つけないような言葉を使いましょう
というふうになります≫
≪なにかをすると、だれかを傷つけます。
普通は自分の親を傷つけますし、私が本を書くと、
書かれて迷惑をこうむる人、反感を覚える人がかならず出てくる。
でも、私は書きます≫
…ものいへば唇寒し秋の風
意味、見解:自慢したり、人を非難した後はなんとなく悔やまれて
むなしい気持ちになる。つまらないことを云ったばかりに災いを
招いてしまった、こんな経験は誰にでもあるだろう。
言わぬが花ということだろう。 解釈は
コチラから
・269頁の私語撃退法、僕と同じだ。
…僕は英語講師と法律の講師を合わせて10年くらいしたことがありますが、
僕の講義では私語はいっさいない(軍隊とか恐怖政治とか
批判する人はいたけれども)。
私語を許すのは教師の力不足(迫力不足)だと思っています。
≪振り返ってみれば、自分からわざわざ不幸になっているような人間は、
世の中に少しも珍しくない。自分の身の回りのイヤなこと、暗いこと
ばかりをほじくりだして、ああイヤだ、ああ不幸だと、自分で自分を
「不幸」にしている――そんな人間はうんざりするほど見かける≫
(長谷川三千子)