佐賀城 - 「のぼうの城」もビックリ、 逆・水攻めの城!? ー

2012-12-01 22:15:56 | 歴史
佐賀城 (佐賀県佐賀市)



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佐賀城は、佐賀藩35万7000石・鍋島氏歴代の居城です。



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元々この地には、鎌倉時代以来、一帯を支配してきた龍造寺氏の居城・村中城が在りました。
佐賀平野の小豪族に過ぎなかった龍造寺氏は、戦国時代に至って急速に勢力を拡大してゆきます。
戦国時代後期の当主・龍造寺隆信は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏と九州での勢力を三分するまでに成長し、
「五州二島の太守」
と仰がれました。

しかし天正12年(1584)、隆信は島原半島の沖田畷で有馬氏・島津氏の連合軍に敗れて戦死。龍造寺氏の勢力圏は音をたてるように崩壊し始めます。
そこで隆信の従兄弟にあたる鍋島直茂の手腕によって体制の立て直しがすすめられ、本拠の佐賀平野を中心とする領国が維持されました。



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天正15年(1587)、隆信の嫡子・龍造寺政家は豊臣秀吉より肥前7郡を安堵されます。
天正18年(1590)、政家は5000石余の隠居領を与えられて退き、鍋島直茂が豊臣政権下での大名になりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、直茂の嫡子・勝茂は西軍に属したものの、戦後に徳川家康に詫びを入れて許され、かろうじて領国を安堵されます。



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慶長7年(1602)、直茂は新たな築城に着手します。
かつての村中城を敷地内に取り込み、東西900×南北850メートルの巨大な平城が計画されました。これが佐賀城です。

城普請は、段階的に行われてゆきます。

 慶長8年(1603)正月、本丸御殿台所が竣工。続いて本丸総普請。

 同12年(1607)、西の丸三階櫓建設と外曲輪の普請。

 同13年(1608)、本丸から三の丸までを囲む四十間堀の普請。

 同14年(1609)、天守の建設。

そして、慶長16年(1611)に内曲輪はほぼ完成し、勝茂は本丸御殿に移っています。


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その後、慶長19年(1614)より外郭の普請に着手しましたが、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受け、未着工だった部分の石垣普請などは中止され、土手を築いて竹木を植えるにとどめました。
佐賀城は、言わば未完成の名城なのです。



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ところで佐賀城には、万一敵の攻撃を受け、いよいよ危うくなった場合、起死回生の秘計が用意されていたとする伝承があります。
堀の普請を一任された鍋島氏の重臣・成富兵庫の設計により、いざという時に八田江・佐賀江の排水を止めて、多布施川の水を取り入れると、佐賀城の本丸を残して二の丸・三の丸まで城下町もろとも水没する仕掛けになっていたというのです。

「佐賀城は本丸だけが孤立しても、ここぞとばかりに洪水を起して、城を十重二十重に包囲する敵の大軍を一挙に水没させる」
果たして、こんな奇想天外な戦術が実行できるものなのか???
あくまでもお話の世界の事と言ってしまえばそれまでですが、もしかすると鍋島の殿様が流したデスインフォメーション(敵方を牽制、攪乱するための偽情報)かも?
・・・と、考えるのは勘繰りすぎでしょうか。


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1 コメント

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Unknown (OMG)
2019-08-29 20:24:04
北部九州の大雨で
今回佐賀市内が浸水被害を受けました
何十年に一度という被害だと報道されています

実際に30年近く佐賀で働いている上司に聞くと
佐賀市内のこれほどの浸水被害は記憶に無いといいます

実際のところ浸水被害の程度がひどかったのは
佐賀城周辺がほとんどでした
冠水の深さも佐賀城周辺が不自然なほどひどい状態でした

不謹慎なようですが「逆水攻め」
あながち嘘じゃないなぁと感心した次第です
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