北カリフォルニアのお父さん

家族5人 - 北カリフォルニアに暮らす。

次男 - 日本語補習校 高等部卒業 (2018年)

2019年10月07日 | 日本語補習校
10月になりました。久しぶりの更新です。

4月に次男、三男の高校サッカーについて書き綴りました。その後、記録に残しておき
たいイベントはいくつかありましたが、いつものことです。サボりました。これより
主だったものをカバーしていこうと思います。まず、今更ですが、昨年にさかのぼり、
前回とばしてしまった一年以上前の次男のサンフランシスコ日本語補習校高等部卒業に
ついて。

次男、昨年の3月に、11年間毎週土曜日に通ったサンフランシスコ日本語補習校を、
そして今年の5月、無事に現地校の高校を卒業しました。ここでは詳しく述べませんが、
昨年末に主だった志望大学に願書を出したところ、5月までにほぼ全校から合格通知が
届き、暫く思案した結果、南カリフォルニアの1校を選びました。先日、スーツケース
2個、寝具セット、サッカーシューズ、バイオリン、自転車1台を持って大学の寮に
入りました。9月末より既に大学の生活がスタートしています。願書提出の際には、
サンフランシスコ日本語補習校を11年間通って卒業したことを書き添えました。大学の
書類審査で多少はプラス評価になったようです。

日本の方には、馴染みのない「日本語補習授業校」、3年前に次男の中学部卒業、そして
三男の小学部卒業にあわせて少し書き綴っていますが、補足します。(本ブログ、更新は
しないわ、前置きは長いわで、読んでいただく方には申し訳ありません。)

「日本語補習授業校」は、北米、ヨーロッパ、アジア等、世界の主要都市にある全日
制の「日本人学校」とは異なり、週一回、または平日の現地校の終業後に日本語で授業を
行う日本政府の認可校です。勿論、日本語の習得を目的とした語学学校でもありません。
サンフランシスコ日本語補習授業校(以下サンフランシスコ日本語補習校)の場合、
もともと日本の企業から駐在派遣社員として来られた方々のお子さん達が日本語を維持
しつつ、帰国後も問題なく日本の教育システムに復帰出来るよう北加商工会議所が
後押しをして設立された学校と聞いています。1969年に非営利団体としてカリフォルニア
州政府の認可を受け、同年を創立とし今年で50周年となります。

創立後、児童・生徒数はじわじわと増え続け、今では外務省の財的援助に加え、文科省は
校長、教頭先生を派遣し、日本政府の教育要領に沿ったカリキュラムが組まれています。
全日制ではありませんので、ほぼ全児童・生徒が平日は現地校に通い、日本語補習校は
毎週土曜日、週一回のペースで日本と同じカリキュラムを消化します。(かなりしんどい
ですが・・・)元々、サンフランシスコ市内に設けられた小さな学校でしたが、その後、
小学部と中高部を切り離し、日本のハイテク企業の海外赴任の方が多いシリコンバレーに
サンノゼ校を開校、北と南にキャンパスを分け、それぞれに幼児部も加わっています。

児童、生徒の中身はと言いますと、元々駐在の方々のお子さん達のために設立された
学校ですが、今では、「駐在組」に加え、両親が永住権/市民権を取得している「永住組」、
そして大きな割合は占めていませんが、アメリカ人と日本人を両親に持つ子供達、ほぼ
この3つのグループで構成されています。「駐在組」の子供達は、通常、親の海外赴任の
任期が3年前後ですので、それにあわせて絶えず出入りが多い一方、中高部での比率は
小さくなっていきます。長男が小学生の頃とは異なり、今やサンフランシスコ、シリコン
バレーとその周辺では、子供達のレベル、目的に合わせた教育を行う様々な日系の学校が
あります。高校受験、大学受験を控えたお子さんをお持ちの「駐在組」のご家庭は、
進学準備重視の学校を選ぶことが多く、日本語補習校も高等部にもなりますと駐在の
方々のお子さんはまばらです。また、お父さんがアメリカ人のご家庭では、楽しいはずの
土曜日まで勉強させるのはどうだろうかといった話が出ることは、よく耳にします。
日本語の維持だけに焦点をあわせた小さな学校に移っていく子供達も過去に見てきました。

北米の他都市の日本語補習校も同じかと思いますが、サンフランシスコ日本語補習校では
最終学年は高校2年生となります。アメリカの学校は、通常8月中旬から9月にかけて
新年度が始まり、日本語補習校では同じ学年であっても夏以前に生まれている子供は、
現地校では学年はひとつ上となります。よって日本語補習校で高校3年生を設けますと、
夏休み前に現地校を卒業し、9月から大学に通うために補習校に登校出来ない生徒が
出てきます。以前は、アメリカでの大学進学準備のために一年早く卒業させるのだろう
と考えていましたが、高2を最終学年とするのは、このあたりの事情からかと思います。
次男の補習校のクラスメートの中でも、数名が昨年の9月、一足先に大学生となりました。

我が家では4年前に既に長男が補習校の高等部を卒業しており、昨年が初めてという訳
ではなかったのですが、やはり11年の節目となりますと感慨深いものがありました。
卒業式典の間の卒業生は、誰もが皆、晴れ晴れとしたいい表情をしていました。一方、
会場で見守る父兄はと言いますと、11年間の毎週土曜日の送り迎え、お弁当の用意、
父兄に振り分けられる各種当番、係、月々の銀行口座からの授業料引き落としは完了し
肩の荷は下りますが、11年の歳月がフラッシュバックされ感極まる方も少なからず
いらっしゃったと思います。私自身、式の前は少し心配ではありましたが、涙腺は
問題ナシでした。(親泣かせの「文化祭」につきましては写真で触れます。) 一緒に
通った日系の幼稚園仲間の誰とクラスが一緒だ離れただで盛り上がっていた小学部入学式。
キャーキャーはしゃいでいたボーズは、遠い昔の記憶。卒業式で壇上にいたのは、ダーク
スーツに身を包んだ青年でした。

次男は長男とは異なり、11年を通して補習校嫌いになったことは一度もなく、親としては
扱いやすい息子でした。(長男も中学部入学当初は問題ありませんでしたが、直ぐに
反抗期も重なって補習校嫌いが始まりました。金曜日の夜はいつも宿題をめぐって親子で
喧々諤々となり、家庭ぐるみで苦労のあげく何とか高等部を卒業することが出来ました。)

次男は宿題も自分で進んですませ、テストは、長男の時のように目が点になるような点数を
とるといったことは一度もなく、中高部に入ってからは生徒会の活動にも積極的に参加
しました。また、漢字、敬語、日本の歴史、政治にも興味を持ち、ずっと前向きに取り組み
続け卒業に至りました。本人、大学卒業後は大学院に進学して医学を専攻する計画です。
医師を将来の目標として考えるようになって久しくはありますが、日本番組専用ケーブル・
チャンネルを通して過去数多く観てきた医療関連の「NHKスペシャル」、「プロフェッショ
ナル」、そして医療ドラマも刺激になったように思います。3人の息子の中では一番日本
寄りのようです。

類は友を呼ぶと言います。補習校で次男と仲のよかった友人達は同じようなタイプでした。
真面目に日本語補習校と現地校と両立させ、お互い尊重しあい、いつも楽しそうで下級生の
お手本になるような微笑ましいグループでした。

中学に入ってから手こずった長男についても然りです。彼の友人達は、補習校に対しては
否定的で、親に言われていやいや通っていた子供が大半でした。彼らの関係は非常に
ユニークであり、時々学校を訪れて耳にした会話は、「普通そこまで言うか?」といった
辛辣な言葉が飛び交い、それを普通にジョークとして受け止めて「ガハハハハ。」で
終わらせるすごいグループでした。(彼らは家庭では勿論、補習校でも先生がいない
ところは会話は全て英語です。)バカにしあっていた訳では決してなく、それが彼ら流の
親しい仲間に対する意思表示だったようです。

この違いはどこからくるのかわかりませんが、どの学年もそれぞれカラーがあるようです。
三男も仲の良い友人に囲まれていますが、仲間内のノリは、どうも長男よりのような気が
します。

サンフランシスコ日本語補習校高等部の卒業生は、アメリカの大学に進学する子供が
過半数です。これは単に、高等部になると「駐在組」の生徒が少ないことによります。
そういった中でも、長男、次男のクラスメートの中には、現地校卒業後、日本の国立、
有名私立大学に進学していった子もいました。アメリカで、日本で、太平洋を隔て
それぞれの人生を歩んでいきます。サンフランシスコ日本語補習校の校歌に出てくる
「未来のかけはし」は育っています。


写真です。


本ブログは、次男が小学部を卒業した翌年の2014年にスタートしています。ここで
改めて次男の小学部の写真を。いつものごとく、あれもこれもと拾い集め、多くなって
しまいました。尚、写真の注釈は、次男が在籍当時のものであり、現在の日本語補習
校の行事内容、規則は少し異なっているかもしれずご了承ください。




文科省の教育要領に沿った授業だけではなく、子供達が日本の文化に触れることが
出来るよう、常日ごろ大人達は努力しています。当時、4月の中旬から5月の第一週
まで、校庭では保護者が用意した鯉のぼりが元気よく泳いでいました。(サンフラン
シスコ在住の方にはお分かりですが、春、夏の午後の海から吹く風は強く、鯉のぼり
には良かったかもしれません。)




これは、小1の初めての運動会。当日はお弁当を持って家族総出。どの家庭でも
お母さん方は力が入っていました。




6年生の運動会。最終種目の高学年選抜選手によるリレー。例年、この競技の結果で
紅白の勝敗が決まることが多く、大いに盛り上がりました。リレー終了後に得点発表、
そして閉会。




運動会に次ぐ子供達の人気イベント。秋祭り。




毎年、アイディアを凝らした学年ごとのブースは、係の父兄の労力の結晶です。報酬は
やはり子供達の笑顔でしょうか。




古本市。在校生の家庭から寄付された古本の販売です。親の期待とは裏腹に、どうしても
マンガ関連が人気でした。




当時、保護者会主催で行った新年のカルタ大会。




冬のドッジボール大会。お昼休みの短い時間を使った高学年だけのイベントですが、男子、
女子共に盛り上がりました。




あっという間の6年でした。小学部の卒業式。




卒業式の後の祝賀会。学校のカフェテリアを借りて行いました。食事の合間、卒業生に
よる漫才、ピアノ、バイオリン、フルート、サックス、ヒップホップダンス等。大人も
楽しませていただきました。何人かが小学部卒業で補習校を去り、中学1年生の生徒数は
少なくなりました。


それでは、中高部の写真を加えます。




中学部入学式での誓いの言葉。前日の夜、ずい分練習しましたが、さすがに緊張して
いました。




小学部の運動会に相当するのが、毎年、夏期集中期間に行われる「球技大会」です。




中高生の上と下では、体のサイズもずい分異なるため、中1と中2を低学年、中3
から高2を高学年のブロックに分け、その中でドッジボールとバスケットボールを
クラス対抗で競いました。




中高部の5年間もあっという間でした。高2最後の球技大会。年相応の背格好になり
ました。




2クラスで始まった中1でしたが、卒業時はたった1クラス。人数が少ない分だけ
団結はがっちり。




皆、仲は良かったです。男女共に昼食を全員で。




中高部のもう一つの楽しみは、小学部の秋祭りにあたる「フードセール」でした。




文字通り食べ物の販売です。こちらも毎年、子供達のために保護者会が力を入れました。
食料品店や企業から寄付として集めたり、予算を使って調達した日本の食べ物や飲み物が
並びました。終了間際、売れ残った飲み物やカップラーメンの男子生徒による買い占めは、
今でも見かける光景です。




例年、保護者会役員、父兄の係の方々が、会場設営、売り子、後片付けと頑張ります。
写真は男子生徒に大人気のスパムおにぎり。




毎年、3月の卒業式の前の週に開催される文化祭。個人、または小さなグループでの
楽器演奏やダンス等のパフォーマンスの後、クラスごとの出し物が続きました。劇が
多いですが、歌やダンスも加わります。生徒自身が脚本を書き、そして数週間にわたる
クラスぐるみの練習が行われました。




次男が高1の文化祭。劇のヤマ場はダンス。この年代になりますと、クラス内でダンスの
振り付けをする生徒は誰や彼やいたそうです。




そして高2、最後の文化祭。前半、次男はソロでバイオリン。




後半、プログラムには印刷されていなかった高2によるサプライズの合唱。お世話に
なった担任の先生に捧げられました。歌いながら涙する生徒もちらほら。そして観客席
でも目を潤ませる父兄の姿も。閉会後、知り合いのお母さんから「〇〇さん、大丈夫
でした?」と声をかけられました。泣かなかったかどうか尋ねられた訳ですが、私は、
「ゼーンゼン大丈夫でしたよ。」とウソの返答。何とか涙腺はコントロールしましたが、
結構きわどかったです。毎年、高2の親泣かせで文化祭は幕を閉じます。




翌週の卒業式。長かった11年にピリオド。全て終わりました。




この年の中高部卒業式は、借用校の講堂が使用出来ず、生徒も父兄も懐かしい小学部の
借用校で行われました。講堂を出た直ぐ横の壁に描かれたオバマ前大統領の壁画。数年
前の写真です。確か2009年に大統領就任して間もなく壁画として登場しました。さすが
リベラルなサンフランシスコ。下には、過去、人権運動で歴史に名を残した人々、サン
フランシスコのために尽くした政治家達が並びました。それでは下の写真にご注目。



式の後、校庭の記念撮影の際に撮った写真です。背景の壁画は塗り替えられていました。
当初、アメリカでもファンが多いマンガの「進撃の巨人」風に壁が加えられたのかと思い
ましたが、「トランプ大統領が建設を推し進めているメキシコ国境の壁を壊すオバマ前
大統領」の図とみました。公立学校発の粋なメッセージです。



さて、次男の写真は以上となりますが、まだまだ続きます。長男の高校卒業時のブログを
読み返しましたが、当時は今よりは頻度の多い更新であった一方、文章は短く、写真も、
わずかだったと今になって気が付きました。(今の文章が長すぎ、写真も多すぎることは
分かっていますが・・・) ここで、過去ずい分とばしてしまった長男の写真を少し加え
ます。





長男の小学部入学式の写真は、どうやらフィルム・カメラで撮影していたようです。
アーカイブの中で見つけることは出来ませんでした。取りあえず、小1の運動会。長男
にもこのような時期がありました。




小5の運動会。大会を締めくくる高学年リレー。他の選手と共に入場ゲートで待機。




長男の小学部の卒業式は、実は保護者会役員として来賓席にいたため、写真は一切撮影
出来ませんでした。いきなり中学部にとびます。中3の球技大会。




中3の文化祭です。本ブログで何度か触れていますが、2月の誕生日に高校サッカーの
試合で大ケガをして入院。退院後、数日間、車椅子のお世話になり、その後は松葉づえ
でした。不便でしたが、クラスメートと共にダンスのパフォーマンス。




そして無事に中学部卒業。長男は、ここで終わりにしたかったのですが、仲間と共に
高等部入学となりました。




高2になりました。日本語補習校最後の球技大会。クラスの人数はずい分減ってしまい
ました。10年以上を共に過ごした仲間との団結はこの通り。逞しくなったお兄さん、
お姉さん達です。




長男のこの頃の日本語補習校での楽しみは、年一回の球技大会とフードセール、そして、
お昼前に終えてしまう昼食(早弁)と友人達に会うことでした。家庭では見せなかった
笑顔です。




最後の文化祭。前半にバイオリンのソロで登場。実は、日本語補習校では、悪ガキ的存在で
あった長男がバイオリンを10年以上習い、現地校の高校、学外のオーケストラに属していた
ことを知る先生方はあまりいませんでした。このソロ演奏は、一部の先生方にはかなり衝撃
だったようです。しんみりと聴いていただきました。これで終わりではありません。




後半のクラスの劇。長男は、怪しいメキシコ人に扮し、ギターを奏でて登場。手にする
「ギター」は勿論バイオリンです。長男の元のキャラに戻りました。(メキシコの皆さん
息子の失礼をお許しください。)




そして、長男にとっては長い長い11年が幕を閉じました。




式の会場を出てクラスメートと記念写真の撮影です。皆、いい表情をしていました。



長男の写真は、ここまでとなります。が、自分と日本語補習校との関わりの記録として
どうしても含めておかなくてはならない写真が残っており、もう少し続けます。





12年前、長男が小4、次男が小1、三男がまだ日本語補習校に入学していない2007年の
4月、長男のクラスで父兄の「クラス委員」を仰せつかりました。そして秋祭り。軽い
気持ちで当時子供達の間で流行っていた「ポケモン」をテーマした玉入れゲーム、
名付けて「ホシュウコウ・ボール」の作成にとりかかりました。長さ1.5mほどの梱包用
段ボールを取り寄せ、ゴルフの練習用ボールを購入しました。ここから「金曜日の徹夜」
です。大型のピンボールのような縦長の本体5台に、ボールが落ちる小さな複数のカゴ、
それぞれ5種類のポケモン・キャラクターを描いた看板を装着し、大型ポスター1枚を
作りました。写真は、現在、唯一手元に残っている「看板」の部分です。準備は2週間
前ほどからぼちぼち始めましたが、金曜日の徹夜でぎりぎりセーフ。当日、子供達には
大うけだったものの、搬入、運営、後片付けとずっと忙しく、会場でのゲームの写真は
一切撮っていませんでした。悔やまれます。続けます。




10年前、保護者会役員を仰せつかりました。長男小6、次男小3、三男はまだ入学して
いません。秋祭り。一学年のブースの担当ではなく、他の役員さんと共に全てを統括する
立場となりました。懲りずに軽い気持ちで始めたのが、各学年ブース用の「のぼり」です。
秋祭りの雰囲気を出したく作成にとりかかりました。作業開始後、とんでもないことを
始めたことに気がつきました。家内をまきこんでの大作業となり「金曜日の徹夜」でラスト
スパート。何とか間に合わせました。続けます。




「のぼり」とほぼ同時期の作業でした。10年前の今頃、サンフランシスコ日本語補習校創立
40周年記念の式典が、マイナーリーグの San Jose Giants の野球場を貸し切りで開催され
ました。その年度は、保護者会役員を代表して40周年記念実行委員会にも加えられ、高学年
対象のゲーム責任者を仰せつかりました。考案したゲームは「大かるた」でした。かなり
早くから準備を開始しましたが、再び、家内を巻き込んでの徹夜作業。作業時間は、のべに
しますと24時間以上。今では絶対に出来ません。




下地の白のペンキ、家内によるひらがな文字、乾かすのにも時間はかかりました。三男は
全く気にもかけず「日本昔ばなし」のビデオ鑑賞。この後、予行練習日までに44音を完成
させました。続けます。


息子達が在籍中の小学部では、4月の新年度開始時に6年生の保護者で卒業文集委員会が
結成され、年度末の卒業式に卒業生全員に文集が手渡されました。内容は、例年、文集と
いうよりも、子供達の作文に手書きのイラストや父兄が撮りためた写真が加えられ、記念
アルバムのようなものでした。通常、10名前後の父兄が委員となり、作業を手分けし、約
一年をかけ完成させました。中高部はと言いますと、卒業生の父兄は通常そこまで力は
入らず、クラス委員さんにより、保護者会から支給されたクラス費で簡単な記念品を用意
することが多かったように思います。さて、私、懲りませんでした。長男の2013年中学部
卒業、2015年の高等部卒業、次男の2016年中学部卒業、2018年の高等部卒業、そして三男
の2019年中学部卒業にあわせて、自費で卒業冊子を作成。全て、前日からの徹夜で卒業式
当日の朝、ぎりぎり完成でした。(制作費用につきましては、後からクラス費の中から
負担いただきました。)




長男の中学部卒業記念冊子は、二部構成とし、先生方、生徒達のモノクロ個人写真に
メッセージを添えた前半、中学部でのイベントの写真を並べたアルバムの後半としま
した。上は、長男の写真と彼らしいメッセージです。




次男の中学部卒業記念冊子は、個人写真をイラスト風に加工し、事前に中3全生徒に質問
していた (1) 特技 (2) 将来の仕事 (3) 中学部で一番楽しかったこと、の回答を添えました。




長男の高校卒業記念冊子の表紙。厚めで光沢のある表紙用、印刷しても反対面に透けない
やや厚めの文章用の2種類の紙をネットでオーダー。先生方を含め30部近くを印刷。
カラー写真を見開きに1枚ずつ配置したため、プリンターのインクはあっという間に無く
なりました。タイトルはご覧の通り。中身は、卒業生達を主人公にしたストーリーで、
絵本風としました。




3年後、新しい構成を考える時間、エネルギーはなく、長男の時と同じ内容に。但し、
文章に少し手を加え、使用する写真は全て新しいものにしました。




終わりのページの文章だけは、2015年、2018年バージョン、共に同じとしました。


以上です。大変長くなってしまいました。「北カリフォルニアのお父さん」にとり
まして、過去15年間の生活の中でのサンフランシスコ日本語補習校の存在は大きく、
長男の写真もひっぱりだし、自分自身のための記録としてまとめました。ここまで
読んでいただいた方、お疲れ様でした。


さて、秋になってしまいました。夏休みについてカバーする前に、まだ、今年3月の
三男の日本語補習校中学部卒業に触れておかなくてはなりません。1、2週間のうちに
更新いたします。