北カリフォルニアのお父さん

家族5人 - 北カリフォルニアに暮らす。

三男 - 日本語補習校 中学部卒業 (2019年)

2019年11月13日 | 日本語補習校
更新です。



時間が経っていますが、台風15号および19号により、被災された皆様に心よりお見舞いを
申し上げます。こちら北カリフォルニアでも、少し前に小さな地震が続いたり、山火事を
未然に防ぐ計画停電が広域で実施されたりと、日本同様、絶えず天災の脅威にさらされて
います。日本の被災地の一日も早い復旧復興を心よりお祈りしております。



さて、更新を半年サボったため、ずれこんでいます。秋も終わりですが、前回に引き続き
サンフランシスコ日本語補習校関連で今年3月の三男の中学部卒業について。

長男が4年前、そして次男が昨年春、それぞれ11年間通ったサンフランシスコ日本語補習校
(以下「補習校」)で最終学年の高校2年生を無事に終えて卒業したことは前回の更新の
通りです。家内と私は、三男も、長男、次男と同じようにと考えていましたが、本人は、
中2で補習校嫌いが始まりました。長男と同じパターンです。その年度の後半には、次男の
3月の高校卒業にあわせて自分も中2を最後に補習校を辞めると宣言。家内も私も無視し
ました。

そして4月に新年度が始まると、中3で卒業したら補習校は辞めて、もっとサッカーに
専念すると改めてアピール。辞める気まんまんでした。

現地校と補習校の両立は大変ですが、スポーツや音楽の習い事と補習校の両立も然りです。
クラブ・サッカーにつきましては、春と秋のシーズン戦は全て土曜日か日曜日に行われ、
場合によっては土、日の連日で試合が組まれたり、トーナメントに至っては、金曜日から
移動して土、日に試合、帰宅は日曜の深夜になることも。次男もそうでしたが、シーズン
の間、補習校は毎週、遅刻、早退、欠席の連続となります。(長男は、秋のAYSOと高校
サッカーのみであったため、補習校の授業にはそれほど影響はありませんでした。)

現地校の宿題も多く、平日に手を付けられなかった補習校の宿題を金曜日の夜に何とか
片付け、試合が土曜日に重なると、自宅、補習校、試合会場の間を行ったり来たりで、
かなりの負担となります。(これは車で送り迎えをする親も同じです。)三男の不満も
分かりますが、長男と次男は最後まで両立させて卒業。また、これは我が家の息子達
だけが経験する特別なものではありません。補習校では多くの生徒達がサッカー、野球、
バスケットボール、体操、バレエ、音楽等を補習校と両立させて頑張っています。

実は、長男が中学で補習校嫌いになったあたりで、日本語補習校との関わりについて
改めて考えてみました。そもそも補習校との関わりは、長男が小学部に入学する前年に
さかのぼります。当時、長男と一緒に日系幼稚園に通っていた友達の親御さん達が、
皆、当たり前のようにお子さん達の補習校への入学準備をしていたため、我が家も
右にならえで補習校とのお付き合いが始まりました。右にならえの理由としましては、
日本の小学校と同じ教育を受けさせる。それだけだったと思います。よくよく考え
ますと、親の都合でアメリカを生活の地とし、それで自分の子供達に日本の教育を
受けろとは、ひどい話でもあります。「永住組」である私の中に、自分と家族の日本人
としてのアイデンティティーを文科省お墨付きの補習校に求める気持ちが当時はあった
のかもしれません。

小学校卒業までは、息子達は喜んで補習校に通学していましたので深くは考えません
でした。そして長男の補習校嫌いが始まり、自分なりに気持ちを整理しました。何故
補習校か?その頃、既に家庭での息子達の間の会話はほぼ全て英語。不安でした。息子
達をただのアジア系アメリカ人にしない。一つ目の理由としました。(在米の知り合い
の方の中には、補習校無しでりっぱにお子さん達を日本人として育てていらっしゃる方、
また「日本」という狭い範疇にとらわれないスケールの大きい方も大勢いらっしゃい
ます。我が家はと言いますと・・・。)次に日本の教育、文化を身に着けることにより
彼らの将来の選択肢を広げる。この先、息子達が生活の基盤をアメリカに固定する
必要は全くなく、日本を選んだ場合でも、難なく社会に溶け込めればと二つ目にあげ
ました。三つめは、言葉は悪いですが、息子達の付加価値を高めるためとしました。
日本同様、またはそれ以上に競争社会のアメリカの中で、非白人である息子達が、もし
この先ずっとアメリカを生活の地とするのであれば、一般アメリカ人にない強みを持つ
ことが望まれます。もっとも、補習校で身につける学問や日本文化、そしてアメリカの
大学の願書、英文履歴書に書き添える「サンフランシスコ日本語補習校高等部卒業」の
一行よりも、日本とアメリカの二つの教育システムと文化、その違いに直に接すること
によって培う感性こそが付加価値かもしれません。その他、もやもやしていたものを
一通り整理しました。家庭ごとに価値観、事情は、異なりますが、我が家は「息子達を
補習校に通わせ卒業させる」で落ち着きました。ぶれはありません。

本題に戻ります。家内も私も三男のリクエストを受け入れるつもりは全くありません
でしたが、三男も考えました。補習校のクラスで態度にだすようになりました。先生方
からの報告で知りました。その後、親子であーでもない、こーでもないといった議論が
暫く続き、そしてあっという間に6月。夏休みに入る前に2週間にわたる夏期集中授業の
開始です。三男と同じく中2から補習校嫌いになった長男は、中3の夏期集中期間中に
開催される球技大会あたりから少しずつ心が動き始め、半年後、最終的に高校進学となり
ました。三男はと言いますと、少し期待しましたが、我が家で一番の頑固者、夏休みが
明けても意思は変わりませんでした。

そして冬、いよいよ高校入試の願書を提出する時期にきて、小さな変化がありました。
三男の仲の良い友人グループの中で「裏切者」がでました。中3修了と同時に一緒に
補習校を辞める予定であった友人の一人から「あのさー俺、高校行って補習校続けるわ。」
といったような爆弾発言があったようです。

長男の中3での心変わりも同じように友人に影響されて起こりました。前述の通り、
長男の場合、夏期集中の球技大会、仲間との団結が最も強くなるイベントの頃だった
と記憶しています。仲間の中から進学予定者が出て、後から数人が続いたようです。
日頃から「〇〇補習校、直ぐにでもやめてやらぁー。」とたんかを切っていた長男。
本人の気持ちの変化はありありと出ていましたが、振り上げた拳は下せず、取りあえず
長男のプライドも考慮し、「親の命令で仕方なく高校に進学してやる。」で落ち着かせ
ました。

三男に戻ります。この時期、男子生徒の人数は女子生徒の半分以下で、少ない分だけ
お互い仲が良かったようです。そして仲間の一人の爆弾発言の後、他の友人が続き高校
進学へと方向シフト。三男、心が揺れました。取りあえず、三男、2月に高校進学の
ための面接、筆記試験だけは受け、卒業式の前の週に行われる文化祭の時期がやって
きました。何週間も前からクラスごとの出し物のために、担任の先生も交えてクラス
全員で取り組む中高部サンフランシスコ校の数少ないイベントの一つです。この辺りで
三男の意思は決まりました。「仲間と一緒に高校に行きたい。」と。但し、この年度
より、高等部進学基準を引き上げ、中3生徒の中の何人かは確実に落とされることが
学校から知らされていました。辞めることばかり考えて一年近くを過ごしてきた三男、
入試の出来は自信がなかったようです。おかしなシステムですが、高校入試の結果は、
3月に行われる卒業式の二日後に発表されます。学校なりに子供達に気を遣っている
のでしょうか。卒業式の時点では、誰が落とされるかは分かりませんでした。

卒業式。中3生徒にとっては長かった9年の節目。やっとここにたどり着いたという
達成感を持つ一方、高校入試の結果のことを考えていた生徒も多かったと思います。
(中3の中には、入試を受けず自分の意思で進学しないことを決めていた生徒も何人か
いました。)式は中高部合同となり、中3、高2が共に卒業します。家内によりますと、
卒業式自体は過去に見てきたものと変わりなかったそうですが、今年は、ある高校卒業生
代表の見事な答辞が会場の多くの父兄の目を潤ませたそうです。(前回の更新で触れた
「卒業記念冊子」作成の徹夜作業で、私は式の終了と同時に会場に駆けつけました。
三男の最後かもしれない檀上での晴れ姿は見れませんでした。情けない父親です。)
後から家内が撮影したビデオでゆっくりと観ましたが、恐らく参列した父兄の誰もが
自分の子供を補習校に通わせて良かったと思わせたであろう素晴らしい答辞でした。
卒業式は無事終わり、その後、卒業生達は校庭に出て、クラス全員、友人、家族で各々
記念撮影です。これで終わりではなく、ほぼ全員が、別会場の祝賀会へ移動。食事を
しながら、小学校から撮りためた写真をかき集めたスライドショー、そしてゲーム。
途中、中3の担任の先生方も加わり、生徒達はキャーキャー、ワイワイと盛り上がり、
父兄はアルコールも入り、安堵感、そして7、8人単位で分かれて着席したテーブルの
中では、9年間の苦労話の交換会もあったようです。

二日後、三男は合格したことを知りました。最高に嬉しかったようです。家内と私も、
一年前からは想像出来ない結果となりホットしました。本人、心は入れ替えました。
高校卒業まで、頑張らせます。


写真です。


前回の更新では、ずい分いろいろな補習校関連の写真をひっぱりだしてきました。今回は
三男の中学3年間で撮影したわずかなものとなります。




中学1年。初めての球技大会です。




残念ながら、1週間前のサッカーのトーナメントで手首を骨折し、楽しみにしていた球技
大会はサイドラインからの観戦となりました。つまんなそうな三男の横にいるのは、同じ
ようにサッカーの怪我で片足をギブスで固定する仲の良い友人です。




次男はまだ高1で各競技をバリバリとプレーする一方、既に卒業している長男は、ボラン
ティアで戻ってきました。




人気の秋のフードセールは、前回の更新の通り。三男も以前から兄二人より良く話を聞いて
いたため、初めてのフードセールは楽しみにしていました。食欲旺盛なティーンエージャーの
お腹を満たします。




こちら、初めての文化祭。少ないセリフは棒読み。





中2の球技大会。勿論、「ラジオ体操」です。




ようやくプレーすることが出来ました。左に写っているのは、前年の球技大会の「サイド
ライン」仲間です。




この年は、球技大会の数か月前に卒業したばかりの次男と彼の元クラスメートが数人
かけつけ、審判のボランティアです。




中2のフードセール。補習校嫌いは始まっていますが、球技大会同様、この日だけは
特別でした。背中のバッグは形からしますと、中身は買い占めたカップラーメンみたい
です。




そして中3の球技大会。




本人は、楽しんでいましたが、これが補習校最後の球技大会と決めていたようです。




迎えた中学最後の文化祭。心は高校に傾いていました。




卒業式。私は間に合いませんでした。かろうじて式の後の校庭での写真撮影。昨年と
同じで、中高部の借用校の講堂が使用出来ず、卒業生、父兄にとって懐かしい小学部の
借用校の講堂で式を行いました。後ろで「なれなれしく三男によりかかっている風」の
おじさんは、前回の更新でも触れた壁画に描かれたオバマ前大統領です。




中3卒業生と担任の先生方のために作成した卒業記念冊子です。私自身、長かった補習
校とのお付き合いも終わりになると考え、長男、次男の中学部卒業時のアルバム形式とは
内容を変え、彼らが高校卒業の際に作った絵本風としました。




中3卒業生とカモメが主役です。それぞれの見開きで使用した写真は、自分が過去に
撮影した写真のアーカイブから選んだもの、この記念冊子のためだけに改めて撮影
したもので構成されています。40部を印刷。取りあえず節目を形に残しました。




さて、カモメの次は金魚。

本ブログで初登場の我が家のペットの金魚です。今いる3匹のうち2匹は、もともと
長男の高校で理科のクラスの解剖用でした。7年前の話ですが、授業で使われる前に
長男が引き取り、我が家のペットとなりました。(2匹にとっては長男はヒーロー
です。) 実は、今いる3匹の前に、少し大きい金魚、通称「ボス」がペット第一号と
して我が家にいました。三男が補習校小学部3年の時、当時の担任の先生からもらい
受けた金魚でした。名前の通り、威張ってずっと元気でしたが、三男の卒業式の数日前
から様子がおかしくなり、卒業式当日の朝、三男と家内が先に家を出て、私が卒業
記念冊子作成の追い込み作業をしている時に昇天しました。親子3人で無事に卒業式、
祝賀会を終え、いい気分で帰宅したところでしたが、三男と家内にボスの最期について
伝えました。嘘のようなタイミングに、三男は、その時点で高校入試は落ちたと確信
したそうです。二日後の結果は合格。天国のボスからのエール、三男はしっかりと
受けとめました。




晴れて高等部入学となりました。中3の間、先生方をずい分困らせたと思いますが、
中高合同入学式での誓いの言葉を仰せつかりました。緊張した様子はなく、自分の
気持ちを素直に淡々と読み上げていました。



以上でした。年内にもう2回ほど更新しようと思います。