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北カリフォルニアのお父さん

家族5人 - 北カリフォルニアに暮らす。

三男 - 日本語補習校 高等部卒業 (2021年)

2022年01月16日 | 日本語補習校
更新です。

もう直ぐ一年が経ってしまいますが、三男のサンフランシスコ日本語補習校高等部
3月の卒業について。

今回の更新

ブログを持っていらっしゃるる方はご存知だと思いますが、私には、本ブログへの
アクセス数、読まれた記事、検索に使われたキーワード等が確認出来るようになっ
ています。元々は自分自身のための記録、また日本の家族や、ごく一部の友人への
近況報告のために始めたブログであり、更新は勝手気まま、アクセス数など大した
こともなく気にもなりません。この先も変わりません。そのようなブログですが、
たまに見るアクセスデータで興味深いのは「日本語補習校」をキーワードにされる
方が意外に多いことです。恐らく日本からサンフランシスコやシリコンバレーへの
海外赴任が決まった方、または、既にサンフランシスコ・ベイアリアにお住まいで、
小学校入学を控えた小さなお子さんがいらっしゃる方が検索の結果たどり着かれた
のではと推測いたします。そういった方々には申し訳ありませんが、本ブログの
サンフランシスコ日本語補習校に関する更新は今回が最後となります。

長男がサンフランシスコ日本語補習校小学部に入学したのが2004年の4月でした。
息子達3人合わせて丸17年のお付き合いでしたが、やはりここまで長かったと思い
ます。日本語補習校云々については、過去、長男、次男、三男それぞれについて
既にブログ内で書き綴っており、その都度、自分の思いは記録に残してきました。
今回、三男の高等部卒業に、コロナが学校に与えた影響と私の日本語補習校観を
少し加えて締めくくりといたします。長くなりますが、最後ということでご了承
ください。

コロナ

三男は中学3年生で日本語補習校嫌いが始まり、高校入学は無いものと思った時期
もありました。中3修了間際で考えを改め高等部に進学したくだりは2年前に触れ
ています。高等部に入学した後は、仲の良い友達に囲まれ、クラブ・サッカーの
試合が土曜日に重なると遅刻、早退、欠席はありましたが、全てが順調な学校生活
でした。そしてコロナです。2020年3月上旬にカリフォルニア州で非常事態宣言、
直ぐにWHOのパンデミック宣言が続き、その後に始まった州を始めとする地方自治
体の自宅待機令により、サンフランシスコ日本語補習校も調整を余儀なくされま
した。事務局の方々は大変なご苦労があったとお察しします。三男の一つ上の学年
は、卒業式の二日前に式の中止が決定し可哀そうな締めくくりとなりました。この
時点では他人事のように考えていたかもしれません。三男の学年はと言いますと、
最終年度は約一ヶ月の自宅学習で開始し、5月より遠隔授業がスタート。夏までに
何とか元通りにと思いましたが、考えは甘かったです。三男は二度と登校すること
はありませんでした。サンフランシスコ校の生徒達が毎年楽しみにしていた球技大会、
フードセールは問題外。卒業間際の文化祭がかろうじて遠隔で実施され、一つ上の
学年の年以上に残念な最終年度となりました。(サンフランシスコ校とサンノゼ校
ではイベントの名称と内容は若干異なります。)

対面授業が出来なくなって苦労したのは、勿論、日本語補習校だけではありません。
世界中の教育機関が手探りの状態だったと思います。日本語補習校が行きついたの
は多くの現地校が取り入れ始めていた Zoom でした。授業内容と質がどうであれ、
取りあえず児童・生徒が登校することなく授業の継続が可能になりました。そして
一年。遠隔授業のままで修了。学校や生徒達がどうこう出来るものではなく、卒業
に至っただけでも有り難いと思うべきかもしれません。

三男を見る限り、Zoom の授業は従来のものと比較しますと、その質、また受ける
側の生徒達の習得度においてどうしても限界があります。その一方、遠隔システム
を上手に使えば、場所を選ばずに授業が受けられることが証明されました。海外で
認定校に通わずに文科省の教育カリキュラムに準じた授業を受けることも技術的に
可能になったということでもあります。シリコンバレーを含むサンフランシスコ・
ベイエリアには幼稚園や小・中・高の子供を対象とした日系の学校は複数存在し、
それぞれ強みと言いますかセールスポイントがあり、子供達のニーズ、レベルに
合った幼稚園・学校選びが出来ます。将来はそこに複数のバーチャル校が選択肢と
して加えられるかもしれません。

さて、三男の最終学年、Zoom を介しての授業は教室のようにはいかず、先生方に
とっては試練の一年だったと思います。家内が幼稚園の遠隔授業のため、毎日かなり
の時間をかけて準備する様子をずっと見てきました。小中高となりますと比較になら
ないくらいの作業量であったのではないでしょうか。遠隔授業となった後の三男自身
はどうだったかと言いますと、別に文句を言うでもなく、かと言って楽しんでいる
風でもなく、言われるがままに授業を受けていました。仲の良いクラスメートとは
グループチャットで絶えず繋がっており、授業外でも時々週末にマスク着用で一緒に
遊びにも行っていたようです。

卒業

そして、卒業が近づいてきました。卒業式の前の週、文化祭だけは学校側の計らい
で開催となりました。但し「遠隔」です。サンフランシスコ校の高2にとって、
最後の文化祭は本来、学年(通常高2は一クラスのみ)をあげて盛り上がり、時に
は観客席の父兄の涙をさそうものですが、「遠隔」という大きな条件付きであった
ため例年とは異なりました。「遠隔」の出し物を決める際、クラス内で意見が真っ
二つに割れ、残念ではありますがギスギスしたまま文化祭が行われたようです。
そして卒業式。勿論遠隔です。卒業生も先生方も画面で上半身しか写らない Zoom
の卒業式、三男は一応ネクタイにブレザーで式に臨みました。卒業証書の授与はと
言いますと、高校入学時には誰も考えもしなかったドライブスルー式で卒業式の
翌日にサンフランシスコの郊外で実施されました。アメリカとは言え「マック」の
ようなあっけないエンディングです。それでも、封筒に入れた郵送と比べると感謝
すべきでしょう。

通常、高等部卒業式の後には、父兄主催で学校行事とは切り離した祝賀会がサンフ
ランシスコ市内のレストラン等の場所で行われます。当然コロナの間は無理な話。
11年間を一緒に過ごした仲間とこれで最後とはあまりにも残念過ぎるといったこと
もあり、父兄の有志の方々によって、卒業式が終わった後、午後からサンフランシ
スコ市内の公園で合同写真撮影会が開かれました。卒業生が正装・マスク着用で
参加し、11年間を共に過ごしてようやくたどり着いた卒業の喜びを仲間と分かち
合いました。撮影会の別れ際に、ぜひ近いうちに改めて卒業祝賀会をとの話が出た
ようですが、その後もコロナがずっと居座っています。恐らく、全員が一緒に顔を
合わせることはもうないでしょう。安全面がプライオリティー。仕方ありません。

我が家のラストバッターの三男が11年を終え、アメリカ永住予定の日本人として、
また、3人の息子達が無事に卒業出来た父親として最後に補習校観を加えさせて
いただきます。

親子の学校

サンフランシスコ日本語補習校は、カリフォルニア州法に準じた非営利教育団体で
ある一方、理事、保護者会役員、図書委員、クラス委員、卒業関連の特別な委員等、
一年を通じて父兄の関わりは大きく、先生方に加え、大勢の人々の熱意によって
支えられているユニークな学校でもあります。私は10年以上前に保護者会役員を
一期、理事を数期務めさせていただいたことがあります。学校運営の母体となる
理事会は、議長を除き、子供を日本語補習校に通わせる保護者で構成され、定例
理事会は平日に仕事が終わった後の夕方から始まりました。現在はどうか分かりま
せんが、当時の理事会では夜遅くまで熱く議論し、時には喧々諤々といったことも
ありました。子供達、学校のことを真剣に考えるが故のことです。また、異なる
意見が出て徹底的に協議されることは、ある意味で健全な学校運営であると思い
ます。実は、いくつかあった喧々諤々のうちの一つは、私自身が始めてしまった
ものであり、その数週間後に理事長と副理事長から一緒に夕食をとのことで、ある
日本食レストランに呼び出されました。続きか?叱責か? 売られる喧嘩は買わせ
ていただく覚悟で臨んだところ、次年度理事会へのリクルートでした。ボランティ
アやら様々なお手伝いを通して学校に携わり、17年の間に実に大勢の方々と知り
合い、多くのことを学びました。サンフランシスコ日本語補習校は私自身にとって
も有り難い学校でした。

中高部について

さて、重要なのは勿論、父兄目線の学校ではなく児童、生徒達にとってどうである
かということです。サンフランシスコ日本語補習校についての最後の更新となり
ますので、よく知られている小学部は敢えて飛ばし、サンフランシスコ日本語補習
校の中で生徒数比率が低い中高部について、無事に卒業出来た息子達3人を見てき
て思ったことを書き述べます。

まず、サンフランシスコ日本語補習校を語る場合、アメリカ在住事情別の構成を
無視する訳にはいきません。(本ブログで過去に何度かお伝えしている情報であり、
少しくどいですが、今回が最後。敢えて触れておきます。)構成は、数年で日本に
帰国するアメリカ駐在のご家庭、永住するご家庭、親御さんがアメリカ人と日本人
の国際結婚のご家庭、以上3つのグループに分けられると思います。(わずかです
が、ご両親が日本人ではないのに、普通に日本語で学習する優秀な児童・生徒さん
もいらっしゃいます。)そして、駐在グループの構成比率は上の学年に行くにつれて
小さくなり、これは私が知る限り、少なくとも最後の10年は変わりませんでした。

構成比率とその背景、そして息子達3人の中高部在学中、卒業後に思ったことを
改めてまとめてみます。
                                    

(中高部の生徒数の減少)

学年が上がるにつれて中高部の生徒数が減少する理由はいろいろあります。進学準
備重視の他校への進学・転校は駐在グループのお子さん達に多く、永住グループの
お子さん達の間では、我が家の長男や三男がそうであったように、補習校嫌いに
なった、または、授業についていけず通う意味が無いといった理由が多いようです。
他にはスポーツが忙しくなり最低の出席日数を維持出来ない、親御さんがここまで
これば十分と判断して退学させるといったことは過去よく耳にしました。また厄介
な難しい教科を設けず、日本語維持だけに焦点を当てる学校への転校もあり、日系
の学校の中で棲み分けが出来上がっています。

(中高生の学力)

文科省の日本語でのカリキュラムを基準にした学力を、日本語補習校中高部の生徒
と日本の同年の平均的な生徒の間で比較しますと、一部の生徒を除き日本語補習校
生はどうしても劣ります。自分が知る範囲でしかありませんが、学年が上がるに
つれ、漢字でついていけない生徒が多くなります。テストで問題が読めないことが
出てくるため、致命的ではあります。その一方、普通に難なく授業についていき、
直ぐにでも日本の中学・高校に編入出来そうな優秀な生徒もいました。平日週5日、
ひょっとしてスポーツ活動を加えた現地校と両立させ、進学準備に特化した他校に
通うわけでもなく、日本語補習校生の鏡のような子供達です。

(絆)

高等部卒業時のクラスメートとの絆は、ただ11年間一緒に通って出来たものでは
なく、長年苦労を共にした「戦友」のような繋がりかもしれません。土曜日を
犠牲にして通う日本語補習校での苦労は、現地校では仲の良い友人にも理解して
もらうことは難しいでしょう。日本語補習校のクラスメートは、愚痴を言いあえ
る良き理解者であり、一緒に過ごした年数の分だけ絆は強くなると思います。
我が家の息子達に関しましても、現地校の友人達に日本語補習校のことは話す気
にもならなかったようです。

(日本式コミュニケーションの教育)

小学部と異なり、サンフランシスコ校の中高部では日本文化を伝えるようなイベ
ントはありません。球技大会、フードセール、文化祭は「日本文化」というより
「日本式学校行事」が当てはまると思います。これらは学校生活にメリハリを
つける、チームワークを学ぶ、父兄の支援(ボランティア)に触れる、そして
お腹を満たす。大変意義のあるイベントではあります。「文化」と解釈すべき
かもしれませんが、規律・礼節を含めた「日本式コミュニケーション」の教育は
教室の内外で実施されています。小学部同様、中高部でも行われる校庭での「朝
会」では、先生方の指示で全員が整列し「気を付け!」「礼!」、そして校長
先生または教頭先生のお話、生活指導の先生、生徒会からの連絡事項。また、
息子達の遅刻や早退の記帳でよく立ち寄った職員室では、ヌーっと黙って出入り
する生徒はいませんでした。「一礼」がルール。日頃、英語文化の中に身を置く
生徒達にとっては、日本では当たり前のことも「かったりー」以外の何物でもない
はずですが、日本式コミュニケーションの教育は毎週土曜日に何年も繰り返し行わ
れてきています。

(父兄への感謝)

実は、中高部での父兄の関わりは、生徒を自立させるという学校の方針により
小学部と比較しますと小さくなります。それでも生徒達は、毎週土曜日、自分
達の送り迎え、お弁当の用意、登下校時に校舎前の横断歩道を渡る自分達を誘導
する交通当番やフードセールで売り子をするボランティアのお母さん・お父さん
方、そして裏方さんとして忙しく働く保護者会役員さんをずっと見てきています。
本心かどうかは分かりませんが、卒業式での答辞や卒業関連の印刷物では、誰も
が父兄に対する「感謝」の気持ちを表現しています。お父さん、お母さん方の
長年の努力が報われます。

(永住グループの進学)

長男の高等部卒業は2015年でした。クラスメートの多くはカリフォルニア州内の
UC 校であったり、アメリカ国内の大学に進学していきました。一方、日本の大学
に進学したクラスメートが数名。上智大学、早稲田大学だったと記憶しています。
2018年の次男の日本語補習校卒業、昨年の三男の卒業後も、上智大学、早稲田大
学、国際基督教大、筑波大学に進学していったクラスメートが数名ずついました。
(三男の日本語補習校のクラスメートで2003年の4月~8月に生まれた生徒は
現地校での学年は一つ上となり既に大学生です。)何だ外国人枠、留学生枠での
有名大学進学じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。長男の
クラスメートは日本で大学に進学し、卒業後はそのまま日本企業に就職しました。
また、一つ年上の友人は、日本の大学の理工学部に進学し、卒業後は日本のスター
トアップ会社に就職。現在は日本人と外国人の同僚に混ざって機械工学の最先端
技術の仕事をしています。息子達の学年以外でも同じように日本で頑張っている
卒業生がいることは容易に想像できます。知り合いの方の日本語補習校卒業生でも
あるお子さんは、アメリカで大学卒業後、東京大学の大学院に進学して修士号を
取得し、更に上を目指すそうです。

大学のブランド、職業がポイントではありません。アメリカ永住グループの日本
語補習校高等部卒業生の中には卒業を「出口」ではなく「入口」として捉え、
したたかに自分の可能性を広げようとしている生徒達がいるということです。
サンフランシスコ日本語補習校のスローガンのようにもなっている「未来の懸け
橋」は、小学部在校生やその父兄の皆さん、多くの先生方さえにも知られず静か
に築かれています。(昔、卒業生の進路先の追跡調査と卒業生の会の発足につい
ての話があったようですが、情報をどう収集し、その後の更新や管理を長期的に
継続出来るのかといったあたりで躓いたようです。)

進学先とは関係のない余談ですが、私には忘れられない生徒がいます。保護者会
役員をさせていただいていたずっと昔の話です。あるイベントでサンフランシス
コ日本語補習校の在校生代表として、高等部の生徒をゲストスピーカーとして
招待しました。永住グループの男子生徒です。話は非常にきれいにまとめられ、
日本帰国が決まったクラスメートとの別れについて淡々と語ってくれました。私
には「これだけしっかりした考えを持ち、それを表現出来る日本語補習校生が
いるのか!」とショックでもあり大変感動しました。潤んでくる目とすすりそう
になる鼻を周りの人達に悟られまいと必死でコントロールしていたところ、隣に
座っていたある理事の方が鼻をすすっており、安心した記憶があります。数ヶ月
後の別のイベントで偶然その生徒を見かけ、声をかけました。明るく礼儀正しい
青年でした。アメリカか日本で、きっと今では立派な社会人になっていることで
しょう。

次男の昔の友人が、日本語補習校を途中で退学したことを今になって悔やんでい
ます。三男の昔の友人は日本語補習校を去ってから話す日本語もたどたどしくな
りました。一方、卒業まで頑張ることは素晴らしいことですが、それが全てでは
ありません。日本語補習校を早々と退学し、アメリカの名門大学を卒業して着々
と人生の駒を進めている長男の昔の永住グループの友人がいます。また、駐在グ
ループの息子達の昔の友人が、お父さんのアメリカ赴任終了後、帰国子女として
日本の教育システムに復帰し、その後りっぱな大学生、社会人になったといった
話はよく耳に入ってきます。それぞれの道を歩んで行きます。
                                    

息子達について

さて愚息3人です。兄弟の間の会話は全て英語。日本語が第二外国語ですが、お気
に入り日本人ユーチューバーの最新動画をチェックしては笑い転げ、年末の紅白歌
合戦に登場する若手アーティスト、サッカーの J リーグの情報にも詳しく、我が家
を訪れる日本人のお客さんには言葉を選び、自らが、いつも日本を身近に置いてい
ます。日本語補習校から直接、間接的に得たものは多く、3人それぞれ意義のある
11年間だったと思います。

昨年の夏、次男の一年半のコロナ帰省がもう直ぐ終わろうとしていた頃だったと
記憶しています。家族5人が一緒に夕食をとっている時でした。日本語補習校が
話題に挙がり、それぞれが苦労話を一通りした後に家内が息子達に尋ねました。
「もし将来、家庭、子供を持ってこのベイエリアに住んでいるとしたら、子供達を
日本語補習校に通わせる?」息子達3人、間をおかず即答でした。「通わせる。」
全て前向きであった次男は分かりますが、在学中あれだけ手こずった長男、また
中学部の後半で頑なに高校進学を拒んだ三男もサラッと答えました。そして三男
が締めくくりました。「嫌で仕方なかった頃を経験し、その後に考えが変わった。
両方を知る自分は、きっと子供にいいアドバイスが出来ると思う。」だそうです。
家内と私、少し嬉しかったです。

長男は勿論、三男の高校進学の際にも苦労し、自分としましては17年間、押したり
引いたり、持ち上げたり叱ったりで、何とか息子達を導いてきたと考えていました。
無事に終わったからこそ言えるのかもしれませんが、よくよく考えてみますと、何
のことはない、家内も私も、息子達3人に手を引かれて17年を駆け抜けたように
思います。サンフランシスコ日本語補習校とのお付き合いは終わりました。ひょっ
とすると十数年後に長男の子供の入学式で日本語補習校を訪れるかもしれませんが。


写真に移ります。





ここから始まりました。小学部の校舎。




夏期集中は場所を移動。




中高部は、他の現地校の校舎を使用しました。




次男が在籍中に借用校が変更となりました。校舎は全て現地の小学校、中学校、高校より
「週一回お借りする」立場であり、コストもかかります。時には校舎の確保で事務局の
方々は苦労されていました。




17年間、土曜日に息子達を連れて走りました。




家内も平日の現地校に加え、土曜日も朝から準備。




今となっては懐かしい小学部の運動会です。




小学部で開かれた古本市。お世話になりました。




中高部の数少ないイベントの一つのフードセール。食べ盛りのティーンエージャーには
喜ばれました。




全学年、各クラスに必ずスターがいた中高部の球技大会。コロナが落ち着いたら、息子達
はボランティアとして戻るかもしれません。




丸一年間の遠隔授業でした。




とうとう11年の終止符。ラップトップに向かう三男の姿は見慣れていましたが、同じ遠隔
のまま卒業式となりました。




同日の午後、卒業生が晴れ姿にマスク着用で集まりました。ある有志のお父さんによる
撮影です。他の父兄の方々と共にきめ細やかな準備をしていただき、いい思い出を残す
ことが出来ました。




長男も家内と共に付き添って三男の写真撮影。

この写真撮影会、実は私はいませんでした。本ブログで過去の息子達の卒業に関する記事
を読まれた方にはお分かりかもしれません。最後にまたもやってしまいました。私が一人
勝手に編集して卒業生に配布する「卒業記念冊子」です。過去、徹夜作業にもかかわらず、
編集が終わらずに息子達の卒業証書授与の瞬間を逃したことが何度かありました。今回は
「Front Yard リフォーム」終了後ではありましたが、早めに作業を開始し、それまで使用
していた印刷スピードの遅いインクジェットから速いカラーレーザープリンターに取り
替えて臨みました。遅れの原因は使用写真をイラスト風に加工する作業です。大幅に作業
時間が延び、そしてレーザープリンターだからと油断していたところ、大量のテスト印刷
を行ったため最終印刷の途中でトナー切れ。卒業式の当日午前3時でした。結局トナーを
調達出来たのがお昼前。それから10時間かけてようやく完成しました。卒業生への配布は
卒業式の翌々日。情けない最後となりました。




レーザープリンターをフル稼働。テスト印刷と写真の加工修正作業を繰り返し、かなり
の紙とトナーを消費してしまいました。(クラス費の卒業関連予算から費用の半分を
負担していただきました。)




焦っても間に合わないものは間に合いませんでした。とにかく急ぎました。卒業生用が
24部、お世話になった先生方や事務局用のものが16部で計40部。印刷後の製本作業も1
時間で済むものではなく、数時間をかけてようやく完成しました。冊子の内容は、過去
の息子達の卒業のように「絵本」風とし、卒業生一人一人のオリジナルです。ページ数
は50。そのうち1/4だけが個人の加工写真や本人のメッセージを組み込んだページ、残り
の3/4はクラス全体共通のページです。製本のページ組みの失敗は許されず、かなり神経
を使って進めました。




翌日です。卒業証書の授与は、一般の人達の邪魔にならない
ように、サンフランシスコ郊外にある某日系企業さんの倉庫
前でドライブスルー式で行われました。証書を受け取った後、
車を駐車場に停めて家内が三男の記念撮影。カジュアルな
服装です。私は自宅で作業の真っただ中でした。




受け取った卒業証書。




我が家ではようやく「卒業記念冊子」完成です。卒業式翌日の手渡しは間に合わず、
翌々日、卒業生を住所別で4グループに分け、サンフランシスコ市内、Peninsula、North
Bay、East Bay の4カ所で父兄の方々に集まっていただき手渡ししました。


全てが終わりました。


先生方、事務局、理事会、保護者会、図書委員、クラス委員、各種当番やボランティアの
皆さん、大変お世話になりました。


おまけです。





ぎょっとする写真ですが、長男と彼のサンフランシスコ日本語補習校の元クラスメートと
の記念写真です。昨年の10月、彼らが、我が家からそれほど遠くはないレストランで久し
ぶりに集合しました。中には2015年春の卒業式以来で再会したクラスメートもいたそうで
す。その帰り、近いからということで、わざわざ家内と私に挨拶するために我が家に立ち
寄ってくれました。小学校1年生から知る「子供達」は、既に23~24歳。殆どが身長180cm
以上の大男ばかりでした。




家内が出してきたイヤーブックやら卒業記念冊子で盛り上がります。「ハイハイ、そんな
ことありましたねー。」「ちょっと〇〇のこの変なメッセージ見てー。」「ガハハハー。」
と長年のブランクを感じさせない気心知れた仲間の会話でした。(勿論、全て英語です。)
家内も私も楽しいひと時を過ごしました。



さて、最後となりました。




2004年。長男がスタートをきりました。




次男が後を追い、


三男も続き、駆け抜けました。


親子共々、思い出いっぱいの17年間でした。有り難うございました。


ここまで目を通していただいた方、お疲れ様でした。

三男の高校サッカーの写真が手つかずでたまっています。次回の更新はずっと先に
なりそうです。

三男 - 日本語補習校 中学部卒業 (2019年)

2019年11月13日 | 日本語補習校
更新です。



時間が経っていますが、台風15号および19号により、被災された皆様に心よりお見舞いを
申し上げます。こちら北カリフォルニアでも、少し前に小さな地震が続いたり、山火事を
未然に防ぐ計画停電が広域で実施されたりと、日本同様、絶えず天災の脅威にさらされて
います。日本の被災地の一日も早い復旧復興を心よりお祈りしております。



さて、更新を半年サボったため、ずれこんでいます。秋も終わりですが、前回に引き続き
サンフランシスコ日本語補習校関連で今年3月の三男の中学部卒業について。

長男が4年前、そして次男が昨年春、それぞれ11年間通ったサンフランシスコ日本語補習校
(以下「補習校」)で最終学年の高校2年生を無事に終えて卒業したことは前回の更新の
通りです。家内と私は、三男も、長男、次男と同じようにと考えていましたが、本人は、
中2で補習校嫌いが始まりました。長男と同じパターンです。その年度の後半には、次男の
3月の高校卒業にあわせて自分も中2を最後に補習校を辞めると宣言。家内も私も無視し
ました。

そして4月に新年度が始まると、中3で卒業したら補習校は辞めて、もっとサッカーに
専念すると改めてアピール。辞める気まんまんでした。

現地校と補習校の両立は大変ですが、スポーツや音楽の習い事と補習校の両立も然りです。
クラブ・サッカーにつきましては、春と秋のシーズン戦は全て土曜日か日曜日に行われ、
場合によっては土、日の連日で試合が組まれたり、トーナメントに至っては、金曜日から
移動して土、日に試合、帰宅は日曜の深夜になることも。次男もそうでしたが、シーズン
の間、補習校は毎週、遅刻、早退、欠席の連続となります。(長男は、秋のAYSOと高校
サッカーのみであったため、補習校の授業にはそれほど影響はありませんでした。)

現地校の宿題も多く、平日に手を付けられなかった補習校の宿題を金曜日の夜に何とか
片付け、試合が土曜日に重なると、自宅、補習校、試合会場の間を行ったり来たりで、
かなりの負担となります。(これは車で送り迎えをする親も同じです。)三男の不満も
分かりますが、長男と次男は最後まで両立させて卒業。また、これは我が家の息子達
だけが経験する特別なものではありません。補習校では多くの生徒達がサッカー、野球、
バスケットボール、体操、バレエ、音楽等を補習校と両立させて頑張っています。

実は、長男が中学で補習校嫌いになったあたりで、日本語補習校との関わりについて
改めて考えてみました。そもそも補習校との関わりは、長男が小学部に入学する前年に
さかのぼります。当時、長男と一緒に日系幼稚園に通っていた友達の親御さん達が、
皆、当たり前のようにお子さん達の補習校への入学準備をしていたため、我が家も
右にならえで補習校とのお付き合いが始まりました。右にならえの理由としましては、
日本の小学校と同じ教育を受けさせる。それだけだったと思います。よくよく考え
ますと、親の都合でアメリカを生活の地とし、それで自分の子供達に日本の教育を
受けろとは、ひどい話でもあります。「永住組」である私の中に、自分と家族の日本人
としてのアイデンティティーを文科省お墨付きの補習校に求める気持ちが当時はあった
のかもしれません。

小学校卒業までは、息子達は喜んで補習校に通学していましたので深くは考えません
でした。そして長男の補習校嫌いが始まり、自分なりに気持ちを整理しました。何故
補習校か?その頃、既に家庭での息子達の間の会話はほぼ全て英語。不安でした。息子
達をただのアジア系アメリカ人にしない。一つ目の理由としました。(在米の知り合い
の方の中には、補習校無しでりっぱにお子さん達を日本人として育てていらっしゃる方、
また「日本」という狭い範疇にとらわれないスケールの大きい方も大勢いらっしゃい
ます。我が家はと言いますと・・・。)次に日本の教育、文化を身に着けることにより
彼らの将来の選択肢を広げる。この先、息子達が生活の基盤をアメリカに固定する
必要は全くなく、日本を選んだ場合でも、難なく社会に溶け込めればと二つ目にあげ
ました。三つめは、言葉は悪いですが、息子達の付加価値を高めるためとしました。
日本同様、またはそれ以上に競争社会のアメリカの中で、非白人である息子達が、もし
この先ずっとアメリカを生活の地とするのであれば、一般アメリカ人にない強みを持つ
ことが望まれます。もっとも、補習校で身につける学問や日本文化、そしてアメリカの
大学の願書、英文履歴書に書き添える「サンフランシスコ日本語補習校高等部卒業」の
一行よりも、日本とアメリカの二つの教育システムと文化、その違いに直に接すること
によって培う感性こそが付加価値かもしれません。その他、もやもやしていたものを
一通り整理しました。家庭ごとに価値観、事情は、異なりますが、我が家は「息子達を
補習校に通わせ卒業させる」で落ち着きました。ぶれはありません。

本題に戻ります。家内も私も三男のリクエストを受け入れるつもりは全くありません
でしたが、三男も考えました。補習校のクラスで態度にだすようになりました。先生方
からの報告で知りました。その後、親子であーでもない、こーでもないといった議論が
暫く続き、そしてあっという間に6月。夏休みに入る前に2週間にわたる夏期集中授業の
開始です。三男と同じく中2から補習校嫌いになった長男は、中3の夏期集中期間中に
開催される球技大会あたりから少しずつ心が動き始め、半年後、最終的に高校進学となり
ました。三男はと言いますと、少し期待しましたが、我が家で一番の頑固者、夏休みが
明けても意思は変わりませんでした。

そして冬、いよいよ高校入試の願書を提出する時期にきて、小さな変化がありました。
三男の仲の良い友人グループの中で「裏切者」がでました。中3修了と同時に一緒に
補習校を辞める予定であった友人の一人から「あのさー俺、高校行って補習校続けるわ。」
といったような爆弾発言があったようです。

長男の中3での心変わりも同じように友人に影響されて起こりました。前述の通り、
長男の場合、夏期集中の球技大会、仲間との団結が最も強くなるイベントの頃だった
と記憶しています。仲間の中から進学予定者が出て、後から数人が続いたようです。
日頃から「〇〇補習校、直ぐにでもやめてやらぁー。」とたんかを切っていた長男。
本人の気持ちの変化はありありと出ていましたが、振り上げた拳は下せず、取りあえず
長男のプライドも考慮し、「親の命令で仕方なく高校に進学してやる。」で落ち着かせ
ました。

三男に戻ります。この時期、男子生徒の人数は女子生徒の半分以下で、少ない分だけ
お互い仲が良かったようです。そして仲間の一人の爆弾発言の後、他の友人が続き高校
進学へと方向シフト。三男、心が揺れました。取りあえず、三男、2月に高校進学の
ための面接、筆記試験だけは受け、卒業式の前の週に行われる文化祭の時期がやって
きました。何週間も前からクラスごとの出し物のために、担任の先生も交えてクラス
全員で取り組む中高部サンフランシスコ校の数少ないイベントの一つです。この辺りで
三男の意思は決まりました。「仲間と一緒に高校に行きたい。」と。但し、この年度
より、高等部進学基準を引き上げ、中3生徒の中の何人かは確実に落とされることが
学校から知らされていました。辞めることばかり考えて一年近くを過ごしてきた三男、
入試の出来は自信がなかったようです。おかしなシステムですが、高校入試の結果は、
3月に行われる卒業式の二日後に発表されます。学校なりに子供達に気を遣っている
のでしょうか。卒業式の時点では、誰が落とされるかは分かりませんでした。

卒業式。中3生徒にとっては長かった9年の節目。やっとここにたどり着いたという
達成感を持つ一方、高校入試の結果のことを考えていた生徒も多かったと思います。
(中3の中には、入試を受けず自分の意思で進学しないことを決めていた生徒も何人か
いました。)式は中高部合同となり、中3、高2が共に卒業します。家内によりますと、
卒業式自体は過去に見てきたものと変わりなかったそうですが、今年は、ある高校卒業生
代表の見事な答辞が会場の多くの父兄の目を潤ませたそうです。(前回の更新で触れた
「卒業記念冊子」作成の徹夜作業で、私は式の終了と同時に会場に駆けつけました。
三男の最後かもしれない檀上での晴れ姿は見れませんでした。情けない父親です。)
後から家内が撮影したビデオでゆっくりと観ましたが、恐らく参列した父兄の誰もが
自分の子供を補習校に通わせて良かったと思わせたであろう素晴らしい答辞でした。
卒業式は無事終わり、その後、卒業生達は校庭に出て、クラス全員、友人、家族で各々
記念撮影です。これで終わりではなく、ほぼ全員が、別会場の祝賀会へ移動。食事を
しながら、小学校から撮りためた写真をかき集めたスライドショー、そしてゲーム。
途中、中3の担任の先生方も加わり、生徒達はキャーキャー、ワイワイと盛り上がり、
父兄はアルコールも入り、安堵感、そして7、8人単位で分かれて着席したテーブルの
中では、9年間の苦労話の交換会もあったようです。

二日後、三男は合格したことを知りました。最高に嬉しかったようです。家内と私も、
一年前からは想像出来ない結果となりホットしました。本人、心は入れ替えました。
高校卒業まで、頑張らせます。


写真です。


前回の更新では、ずい分いろいろな補習校関連の写真をひっぱりだしてきました。今回は
三男の中学3年間で撮影したわずかなものとなります。




中学1年。初めての球技大会です。




残念ながら、1週間前のサッカーのトーナメントで手首を骨折し、楽しみにしていた球技
大会はサイドラインからの観戦となりました。つまんなそうな三男の横にいるのは、同じ
ようにサッカーの怪我で片足をギブスで固定する仲の良い友人です。




次男はまだ高1で各競技をバリバリとプレーする一方、既に卒業している長男は、ボラン
ティアで戻ってきました。




人気の秋のフードセールは、前回の更新の通り。三男も以前から兄二人より良く話を聞いて
いたため、初めてのフードセールは楽しみにしていました。食欲旺盛なティーンエージャーの
お腹を満たします。




こちら、初めての文化祭。少ないセリフは棒読み。





中2の球技大会。勿論、「ラジオ体操」です。




ようやくプレーすることが出来ました。左に写っているのは、前年の球技大会の「サイド
ライン」仲間です。




この年は、球技大会の数か月前に卒業したばかりの次男と彼の元クラスメートが数人
かけつけ、審判のボランティアです。




中2のフードセール。補習校嫌いは始まっていますが、球技大会同様、この日だけは
特別でした。背中のバッグは形からしますと、中身は買い占めたカップラーメンみたい
です。




そして中3の球技大会。




本人は、楽しんでいましたが、これが補習校最後の球技大会と決めていたようです。




迎えた中学最後の文化祭。心は高校に傾いていました。




卒業式。私は間に合いませんでした。かろうじて式の後の校庭での写真撮影。昨年と
同じで、中高部の借用校の講堂が使用出来ず、卒業生、父兄にとって懐かしい小学部の
借用校の講堂で式を行いました。後ろで「なれなれしく三男によりかかっている風」の
おじさんは、前回の更新でも触れた壁画に描かれたオバマ前大統領です。




中3卒業生と担任の先生方のために作成した卒業記念冊子です。私自身、長かった補習
校とのお付き合いも終わりになると考え、長男、次男の中学部卒業時のアルバム形式とは
内容を変え、彼らが高校卒業の際に作った絵本風としました。




中3卒業生とカモメが主役です。それぞれの見開きで使用した写真は、自分が過去に
撮影した写真のアーカイブから選んだもの、この記念冊子のためだけに改めて撮影
したもので構成されています。40部を印刷。取りあえず節目を形に残しました。




さて、カモメの次は金魚。

本ブログで初登場の我が家のペットの金魚です。今いる3匹のうち2匹は、もともと
長男の高校で理科のクラスの解剖用でした。7年前の話ですが、授業で使われる前に
長男が引き取り、我が家のペットとなりました。(2匹にとっては長男はヒーロー
です。) 実は、今いる3匹の前に、少し大きい金魚、通称「ボス」がペット第一号と
して我が家にいました。三男が補習校小学部3年の時、当時の担任の先生からもらい
受けた金魚でした。名前の通り、威張ってずっと元気でしたが、三男の卒業式の数日前
から様子がおかしくなり、卒業式当日の朝、三男と家内が先に家を出て、私が卒業
記念冊子作成の追い込み作業をしている時に昇天しました。親子3人で無事に卒業式、
祝賀会を終え、いい気分で帰宅したところでしたが、三男と家内にボスの最期について
伝えました。嘘のようなタイミングに、三男は、その時点で高校入試は落ちたと確信
したそうです。二日後の結果は合格。天国のボスからのエール、三男はしっかりと
受けとめました。




晴れて高等部入学となりました。中3の間、先生方をずい分困らせたと思いますが、
中高合同入学式での誓いの言葉を仰せつかりました。緊張した様子はなく、自分の
気持ちを素直に淡々と読み上げていました。



以上でした。年内にもう2回ほど更新しようと思います。









次男 - 日本語補習校 高等部卒業 (2018年)

2019年10月07日 | 日本語補習校
10月になりました。久しぶりの更新です。

4月に次男、三男の高校サッカーについて書き綴りました。その後、記録に残しておき
たいイベントはいくつかありましたが、いつものことです。サボりました。これより
主だったものをカバーしていこうと思います。まず、今更ですが、昨年にさかのぼり、
前回とばしてしまった一年以上前の次男のサンフランシスコ日本語補習校高等部卒業に
ついて。

次男、昨年の3月に、11年間毎週土曜日に通ったサンフランシスコ日本語補習校を、
そして今年の5月、無事に現地校の高校を卒業しました。ここでは詳しく述べませんが、
昨年末に主だった志望大学に願書を出したところ、5月までにほぼ全校から合格通知が
届き、暫く思案した結果、南カリフォルニアの1校を選びました。先日、スーツケース
2個、寝具セット、サッカーシューズ、バイオリン、自転車1台を持って大学の寮に
入りました。9月末より既に大学の生活がスタートしています。願書提出の際には、
サンフランシスコ日本語補習校を11年間通って卒業したことを書き添えました。大学の
書類審査で多少はプラス評価になったようです。

日本の方には、馴染みのない「日本語補習授業校」、3年前に次男の中学部卒業、そして
三男の小学部卒業にあわせて少し書き綴っていますが、補足します。(本ブログ、更新は
しないわ、前置きは長いわで、読んでいただく方には申し訳ありません。)

「日本語補習授業校」は、北米、ヨーロッパ、アジア等、世界の主要都市にある全日
制の「日本人学校」とは異なり、週一回、または平日の現地校の終業後に日本語で授業を
行う日本政府の認可校です。勿論、日本語の習得を目的とした語学学校でもありません。
サンフランシスコ日本語補習授業校(以下サンフランシスコ日本語補習校)の場合、
もともと日本の企業から駐在派遣社員として来られた方々のお子さん達が日本語を維持
しつつ、帰国後も問題なく日本の教育システムに復帰出来るよう北加商工会議所が
後押しをして設立された学校と聞いています。1969年に非営利団体としてカリフォルニア
州政府の認可を受け、同年を創立とし今年で50周年となります。

創立後、児童・生徒数はじわじわと増え続け、今では外務省の財的援助に加え、文科省は
校長、教頭先生を派遣し、日本政府の教育要領に沿ったカリキュラムが組まれています。
全日制ではありませんので、ほぼ全児童・生徒が平日は現地校に通い、日本語補習校は
毎週土曜日、週一回のペースで日本と同じカリキュラムを消化します。(かなりしんどい
ですが・・・)元々、サンフランシスコ市内に設けられた小さな学校でしたが、その後、
小学部と中高部を切り離し、日本のハイテク企業の海外赴任の方が多いシリコンバレーに
サンノゼ校を開校、北と南にキャンパスを分け、それぞれに幼児部も加わっています。

児童、生徒の中身はと言いますと、元々駐在の方々のお子さん達のために設立された
学校ですが、今では、「駐在組」に加え、両親が永住権/市民権を取得している「永住組」、
そして大きな割合は占めていませんが、アメリカ人と日本人を両親に持つ子供達、ほぼ
この3つのグループで構成されています。「駐在組」の子供達は、通常、親の海外赴任の
任期が3年前後ですので、それにあわせて絶えず出入りが多い一方、中高部での比率は
小さくなっていきます。長男が小学生の頃とは異なり、今やサンフランシスコ、シリコン
バレーとその周辺では、子供達のレベル、目的に合わせた教育を行う様々な日系の学校が
あります。高校受験、大学受験を控えたお子さんをお持ちの「駐在組」のご家庭は、
進学準備重視の学校を選ぶことが多く、日本語補習校も高等部にもなりますと駐在の
方々のお子さんはまばらです。また、お父さんがアメリカ人のご家庭では、楽しいはずの
土曜日まで勉強させるのはどうだろうかといった話が出ることは、よく耳にします。
日本語の維持だけに焦点をあわせた小さな学校に移っていく子供達も過去に見てきました。

北米の他都市の日本語補習校も同じかと思いますが、サンフランシスコ日本語補習校では
最終学年は高校2年生となります。アメリカの学校は、通常8月中旬から9月にかけて
新年度が始まり、日本語補習校では同じ学年であっても夏以前に生まれている子供は、
現地校では学年はひとつ上となります。よって日本語補習校で高校3年生を設けますと、
夏休み前に現地校を卒業し、9月から大学に通うために補習校に登校出来ない生徒が
出てきます。以前は、アメリカでの大学進学準備のために一年早く卒業させるのだろう
と考えていましたが、高2を最終学年とするのは、このあたりの事情からかと思います。
次男の補習校のクラスメートの中でも、数名が昨年の9月、一足先に大学生となりました。

我が家では4年前に既に長男が補習校の高等部を卒業しており、昨年が初めてという訳
ではなかったのですが、やはり11年の節目となりますと感慨深いものがありました。
卒業式典の間の卒業生は、誰もが皆、晴れ晴れとしたいい表情をしていました。一方、
会場で見守る父兄はと言いますと、11年間の毎週土曜日の送り迎え、お弁当の用意、
父兄に振り分けられる各種当番、係、月々の銀行口座からの授業料引き落としは完了し
肩の荷は下りますが、11年の歳月がフラッシュバックされ感極まる方も少なからず
いらっしゃったと思います。私自身、式の前は少し心配ではありましたが、涙腺は
問題ナシでした。(親泣かせの「文化祭」につきましては写真で触れます。) 一緒に
通った日系の幼稚園仲間の誰とクラスが一緒だ離れただで盛り上がっていた小学部入学式。
キャーキャーはしゃいでいたボーズは、遠い昔の記憶。卒業式で壇上にいたのは、ダーク
スーツに身を包んだ青年でした。

次男は長男とは異なり、11年を通して補習校嫌いになったことは一度もなく、親としては
扱いやすい息子でした。(長男も中学部入学当初は問題ありませんでしたが、直ぐに
反抗期も重なって補習校嫌いが始まりました。金曜日の夜はいつも宿題をめぐって親子で
喧々諤々となり、家庭ぐるみで苦労のあげく何とか高等部を卒業することが出来ました。)

次男は宿題も自分で進んですませ、テストは、長男の時のように目が点になるような点数を
とるといったことは一度もなく、中高部に入ってからは生徒会の活動にも積極的に参加
しました。また、漢字、敬語、日本の歴史、政治にも興味を持ち、ずっと前向きに取り組み
続け卒業に至りました。本人、大学卒業後は大学院に進学して医学を専攻する計画です。
医師を将来の目標として考えるようになって久しくはありますが、日本番組専用ケーブル・
チャンネルを通して過去数多く観てきた医療関連の「NHKスペシャル」、「プロフェッショ
ナル」、そして医療ドラマも刺激になったように思います。3人の息子の中では一番日本
寄りのようです。

類は友を呼ぶと言います。補習校で次男と仲のよかった友人達は同じようなタイプでした。
真面目に日本語補習校と現地校と両立させ、お互い尊重しあい、いつも楽しそうで下級生の
お手本になるような微笑ましいグループでした。

中学に入ってから手こずった長男についても然りです。彼の友人達は、補習校に対しては
否定的で、親に言われていやいや通っていた子供が大半でした。彼らの関係は非常に
ユニークであり、時々学校を訪れて耳にした会話は、「普通そこまで言うか?」といった
辛辣な言葉が飛び交い、それを普通にジョークとして受け止めて「ガハハハハ。」で
終わらせるすごいグループでした。(彼らは家庭では勿論、補習校でも先生がいない
ところは会話は全て英語です。)バカにしあっていた訳では決してなく、それが彼ら流の
親しい仲間に対する意思表示だったようです。

この違いはどこからくるのかわかりませんが、どの学年もそれぞれカラーがあるようです。
三男も仲の良い友人に囲まれていますが、仲間内のノリは、どうも長男よりのような気が
します。

サンフランシスコ日本語補習校高等部の卒業生は、アメリカの大学に進学する子供が
過半数です。これは単に、高等部になると「駐在組」の生徒が少ないことによります。
そういった中でも、長男、次男のクラスメートの中には、現地校卒業後、日本の国立、
有名私立大学に進学していった子もいました。アメリカで、日本で、太平洋を隔て
それぞれの人生を歩んでいきます。サンフランシスコ日本語補習校の校歌に出てくる
「未来のかけはし」は育っています。


写真です。


本ブログは、次男が小学部を卒業した翌年の2014年にスタートしています。ここで
改めて次男の小学部の写真を。いつものごとく、あれもこれもと拾い集め、多くなって
しまいました。尚、写真の注釈は、次男が在籍当時のものであり、現在の日本語補習
校の行事内容、規則は少し異なっているかもしれずご了承ください。




文科省の教育要領に沿った授業だけではなく、子供達が日本の文化に触れることが
出来るよう、常日ごろ大人達は努力しています。当時、4月の中旬から5月の第一週
まで、校庭では保護者が用意した鯉のぼりが元気よく泳いでいました。(サンフラン
シスコ在住の方にはお分かりですが、春、夏の午後の海から吹く風は強く、鯉のぼり
には良かったかもしれません。)




これは、小1の初めての運動会。当日はお弁当を持って家族総出。どの家庭でも
お母さん方は力が入っていました。




6年生の運動会。最終種目の高学年選抜選手によるリレー。例年、この競技の結果で
紅白の勝敗が決まることが多く、大いに盛り上がりました。リレー終了後に得点発表、
そして閉会。




運動会に次ぐ子供達の人気イベント。秋祭り。




毎年、アイディアを凝らした学年ごとのブースは、係の父兄の労力の結晶です。報酬は
やはり子供達の笑顔でしょうか。




古本市。在校生の家庭から寄付された古本の販売です。親の期待とは裏腹に、どうしても
マンガ関連が人気でした。




当時、保護者会主催で行った新年のカルタ大会。




冬のドッジボール大会。お昼休みの短い時間を使った高学年だけのイベントですが、男子、
女子共に盛り上がりました。




あっという間の6年でした。小学部の卒業式。




卒業式の後の祝賀会。学校のカフェテリアを借りて行いました。食事の合間、卒業生に
よる漫才、ピアノ、バイオリン、フルート、サックス、ヒップホップダンス等。大人も
楽しませていただきました。何人かが小学部卒業で補習校を去り、中学1年生の生徒数は
少なくなりました。


それでは、中高部の写真を加えます。




中学部入学式での誓いの言葉。前日の夜、ずい分練習しましたが、さすがに緊張して
いました。




小学部の運動会に相当するのが、毎年、夏期集中期間に行われる「球技大会」です。




中高生の上と下では、体のサイズもずい分異なるため、中1と中2を低学年、中3
から高2を高学年のブロックに分け、その中でドッジボールとバスケットボールを
クラス対抗で競いました。




中高部の5年間もあっという間でした。高2最後の球技大会。年相応の背格好になり
ました。




2クラスで始まった中1でしたが、卒業時はたった1クラス。人数が少ない分だけ
団結はがっちり。




皆、仲は良かったです。男女共に昼食を全員で。




中高部のもう一つの楽しみは、小学部の秋祭りにあたる「フードセール」でした。




文字通り食べ物の販売です。こちらも毎年、子供達のために保護者会が力を入れました。
食料品店や企業から寄付として集めたり、予算を使って調達した日本の食べ物や飲み物が
並びました。終了間際、売れ残った飲み物やカップラーメンの男子生徒による買い占めは、
今でも見かける光景です。




例年、保護者会役員、父兄の係の方々が、会場設営、売り子、後片付けと頑張ります。
写真は男子生徒に大人気のスパムおにぎり。




毎年、3月の卒業式の前の週に開催される文化祭。個人、または小さなグループでの
楽器演奏やダンス等のパフォーマンスの後、クラスごとの出し物が続きました。劇が
多いですが、歌やダンスも加わります。生徒自身が脚本を書き、そして数週間にわたる
クラスぐるみの練習が行われました。




次男が高1の文化祭。劇のヤマ場はダンス。この年代になりますと、クラス内でダンスの
振り付けをする生徒は誰や彼やいたそうです。




そして高2、最後の文化祭。前半、次男はソロでバイオリン。




後半、プログラムには印刷されていなかった高2によるサプライズの合唱。お世話に
なった担任の先生に捧げられました。歌いながら涙する生徒もちらほら。そして観客席
でも目を潤ませる父兄の姿も。閉会後、知り合いのお母さんから「〇〇さん、大丈夫
でした?」と声をかけられました。泣かなかったかどうか尋ねられた訳ですが、私は、
「ゼーンゼン大丈夫でしたよ。」とウソの返答。何とか涙腺はコントロールしましたが、
結構きわどかったです。毎年、高2の親泣かせで文化祭は幕を閉じます。




翌週の卒業式。長かった11年にピリオド。全て終わりました。




この年の中高部卒業式は、借用校の講堂が使用出来ず、生徒も父兄も懐かしい小学部の
借用校で行われました。講堂を出た直ぐ横の壁に描かれたオバマ前大統領の壁画。数年
前の写真です。確か2009年に大統領就任して間もなく壁画として登場しました。さすが
リベラルなサンフランシスコ。下には、過去、人権運動で歴史に名を残した人々、サン
フランシスコのために尽くした政治家達が並びました。それでは下の写真にご注目。



式の後、校庭の記念撮影の際に撮った写真です。背景の壁画は塗り替えられていました。
当初、アメリカでもファンが多いマンガの「進撃の巨人」風に壁が加えられたのかと思い
ましたが、「トランプ大統領が建設を推し進めているメキシコ国境の壁を壊すオバマ前
大統領」の図とみました。公立学校発の粋なメッセージです。



さて、次男の写真は以上となりますが、まだまだ続きます。長男の高校卒業時のブログを
読み返しましたが、当時は今よりは頻度の多い更新であった一方、文章は短く、写真も、
わずかだったと今になって気が付きました。(今の文章が長すぎ、写真も多すぎることは
分かっていますが・・・) ここで、過去ずい分とばしてしまった長男の写真を少し加え
ます。





長男の小学部入学式の写真は、どうやらフィルム・カメラで撮影していたようです。
アーカイブの中で見つけることは出来ませんでした。取りあえず、小1の運動会。長男
にもこのような時期がありました。




小5の運動会。大会を締めくくる高学年リレー。他の選手と共に入場ゲートで待機。




長男の小学部の卒業式は、実は保護者会役員として来賓席にいたため、写真は一切撮影
出来ませんでした。いきなり中学部にとびます。中3の球技大会。




中3の文化祭です。本ブログで何度か触れていますが、2月の誕生日に高校サッカーの
試合で大ケガをして入院。退院後、数日間、車椅子のお世話になり、その後は松葉づえ
でした。不便でしたが、クラスメートと共にダンスのパフォーマンス。




そして無事に中学部卒業。長男は、ここで終わりにしたかったのですが、仲間と共に
高等部入学となりました。




高2になりました。日本語補習校最後の球技大会。クラスの人数はずい分減ってしまい
ました。10年以上を共に過ごした仲間との団結はこの通り。逞しくなったお兄さん、
お姉さん達です。




長男のこの頃の日本語補習校での楽しみは、年一回の球技大会とフードセール、そして、
お昼前に終えてしまう昼食(早弁)と友人達に会うことでした。家庭では見せなかった
笑顔です。




最後の文化祭。前半にバイオリンのソロで登場。実は、日本語補習校では、悪ガキ的存在で
あった長男がバイオリンを10年以上習い、現地校の高校、学外のオーケストラに属していた
ことを知る先生方はあまりいませんでした。このソロ演奏は、一部の先生方にはかなり衝撃
だったようです。しんみりと聴いていただきました。これで終わりではありません。




後半のクラスの劇。長男は、怪しいメキシコ人に扮し、ギターを奏でて登場。手にする
「ギター」は勿論バイオリンです。長男の元のキャラに戻りました。(メキシコの皆さん
息子の失礼をお許しください。)




そして、長男にとっては長い長い11年が幕を閉じました。




式の会場を出てクラスメートと記念写真の撮影です。皆、いい表情をしていました。



長男の写真は、ここまでとなります。が、自分と日本語補習校との関わりの記録として
どうしても含めておかなくてはならない写真が残っており、もう少し続けます。





12年前、長男が小4、次男が小1、三男がまだ日本語補習校に入学していない2007年の
4月、長男のクラスで父兄の「クラス委員」を仰せつかりました。そして秋祭り。軽い
気持ちで当時子供達の間で流行っていた「ポケモン」をテーマした玉入れゲーム、
名付けて「ホシュウコウ・ボール」の作成にとりかかりました。長さ1.5mほどの梱包用
段ボールを取り寄せ、ゴルフの練習用ボールを購入しました。ここから「金曜日の徹夜」
です。大型のピンボールのような縦長の本体5台に、ボールが落ちる小さな複数のカゴ、
それぞれ5種類のポケモン・キャラクターを描いた看板を装着し、大型ポスター1枚を
作りました。写真は、現在、唯一手元に残っている「看板」の部分です。準備は2週間
前ほどからぼちぼち始めましたが、金曜日の徹夜でぎりぎりセーフ。当日、子供達には
大うけだったものの、搬入、運営、後片付けとずっと忙しく、会場でのゲームの写真は
一切撮っていませんでした。悔やまれます。続けます。




10年前、保護者会役員を仰せつかりました。長男小6、次男小3、三男はまだ入学して
いません。秋祭り。一学年のブースの担当ではなく、他の役員さんと共に全てを統括する
立場となりました。懲りずに軽い気持ちで始めたのが、各学年ブース用の「のぼり」です。
秋祭りの雰囲気を出したく作成にとりかかりました。作業開始後、とんでもないことを
始めたことに気がつきました。家内をまきこんでの大作業となり「金曜日の徹夜」でラスト
スパート。何とか間に合わせました。続けます。




「のぼり」とほぼ同時期の作業でした。10年前の今頃、サンフランシスコ日本語補習校創立
40周年記念の式典が、マイナーリーグの San Jose Giants の野球場を貸し切りで開催され
ました。その年度は、保護者会役員を代表して40周年記念実行委員会にも加えられ、高学年
対象のゲーム責任者を仰せつかりました。考案したゲームは「大かるた」でした。かなり
早くから準備を開始しましたが、再び、家内を巻き込んでの徹夜作業。作業時間は、のべに
しますと24時間以上。今では絶対に出来ません。




下地の白のペンキ、家内によるひらがな文字、乾かすのにも時間はかかりました。三男は
全く気にもかけず「日本昔ばなし」のビデオ鑑賞。この後、予行練習日までに44音を完成
させました。続けます。


息子達が在籍中の小学部では、4月の新年度開始時に6年生の保護者で卒業文集委員会が
結成され、年度末の卒業式に卒業生全員に文集が手渡されました。内容は、例年、文集と
いうよりも、子供達の作文に手書きのイラストや父兄が撮りためた写真が加えられ、記念
アルバムのようなものでした。通常、10名前後の父兄が委員となり、作業を手分けし、約
一年をかけ完成させました。中高部はと言いますと、卒業生の父兄は通常そこまで力は
入らず、クラス委員さんにより、保護者会から支給されたクラス費で簡単な記念品を用意
することが多かったように思います。さて、私、懲りませんでした。長男の2013年中学部
卒業、2015年の高等部卒業、次男の2016年中学部卒業、2018年の高等部卒業、そして三男
の2019年中学部卒業にあわせて、自費で卒業冊子を作成。全て、前日からの徹夜で卒業式
当日の朝、ぎりぎり完成でした。(制作費用につきましては、後からクラス費の中から
負担いただきました。)




長男の中学部卒業記念冊子は、二部構成とし、先生方、生徒達のモノクロ個人写真に
メッセージを添えた前半、中学部でのイベントの写真を並べたアルバムの後半としま
した。上は、長男の写真と彼らしいメッセージです。




次男の中学部卒業記念冊子は、個人写真をイラスト風に加工し、事前に中3全生徒に質問
していた (1) 特技 (2) 将来の仕事 (3) 中学部で一番楽しかったこと、の回答を添えました。




長男の高校卒業記念冊子の表紙。厚めで光沢のある表紙用、印刷しても反対面に透けない
やや厚めの文章用の2種類の紙をネットでオーダー。先生方を含め30部近くを印刷。
カラー写真を見開きに1枚ずつ配置したため、プリンターのインクはあっという間に無く
なりました。タイトルはご覧の通り。中身は、卒業生達を主人公にしたストーリーで、
絵本風としました。




3年後、新しい構成を考える時間、エネルギーはなく、長男の時と同じ内容に。但し、
文章に少し手を加え、使用する写真は全て新しいものにしました。




終わりのページの文章だけは、2015年、2018年バージョン、共に同じとしました。


以上です。大変長くなってしまいました。「北カリフォルニアのお父さん」にとり
まして、過去15年間の生活の中でのサンフランシスコ日本語補習校の存在は大きく、
長男の写真もひっぱりだし、自分自身のための記録としてまとめました。ここまで
読んでいただいた方、お疲れ様でした。


さて、秋になってしまいました。夏休みについてカバーする前に、まだ、今年3月の
三男の日本語補習校中学部卒業に触れておかなくてはなりません。1、2週間のうちに
更新いたします。

日本語補習校 小学部12年 - 卒業 (2016年)

2016年04月25日 | 日本語補習校
しばらく間をおきました。

熊本の地震で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

日本の後を追うようにして発生した南米エクアドルの地震もかなり大きな被害と
なりました。1989年に大きな地震を経験している北カリフォルニアも他人事では
ありません。サンフランシスコ - シリコンバレー間でも南北に走る複数の断層を
持ち、直下型大地震が起きた際の被害は計り知れません。

先日、ずい分長いことさわっていなかった非常用リュックの中身を確認しました。

さて、ブログでカバーすべきであったイベントがいくつか過ぎ去りました。今更
ですが、日本語補習校で行われた卒業式について少し。3月中旬、15歳の次男が
中学部、そして12歳の三男が小学部を卒業しました。

海外の「日本語補習校」としては、生徒数で世界一の大きさを誇るサンフランシ
スコ日本語補習校。例年、卒業式は、幼児部、小学部、中高部それぞれ分けて
行われ、朝が中高部、お昼前が小学部、補習校の中では設立が比較的新しい幼児部
の式は、午後となります。

校長先生、理事長、そして来賓となる、(総)領事、保護者会会長は、三回に及ぶ
式典に参列するため、卒業式当日は朝から慌しい一日です。(幼小部と中高部の
式場はそれぞれ異なる学校の講堂を使用し、中高部、小学部、幼児部を同時に卒業
する複数のお子さんを持つ親御さんも然りです。今年は雨模様で傘を携えての移動
となりました。)

また、校長先生は、San Francisco 校とSan Jose 校の掛け持ちは物理的に不可能
なため、どちらかの学校に参列され、もう一方の学校は、教頭先生が代理となり
ます。理事長もやはり一校のみ。通常は自身の子供が通う学校、そしてもう一方の
学校は、副理事長か他の理事の参列。また、当日のスケジュールによるかとも思い
ますが、サンフランシスコ日本国総領事館からの来賓は、総領事と教育担当の領事
と2名の方で2校を手分けされているようです。保護者会会長につきましては、
もともと保護者会が2校に分かれて運営されているため、それぞれの会長が参列
します。

式の進行は、恐らく日本の小中高の卒業式と同じかと思います。(日本の卒業式に
関する知識は、何十年前の自分自身の卒業式からのものであり少し怪しいですが。)
卒業生入場、君が代と校歌の斉唱、卒業証書授与、校長、来賓、理事長の挨拶、
記念品贈呈、送辞、答辞、卒業生退場の流れです。送辞につきましては、小学部は
5年生合唱、そして答辞は、6年生の合唱と卒業生一人一人からの一言メッセージ。
中高部は、送辞、答辞は、中、高に分けられ、それぞれ2人ずつ、計4名です。
小学部の合唱もホロリときますが、高校生の答辞は、11年間を終えた生徒自身の
言葉でありジーンとくるものがあります。(現地の大学進学の準備もあり高等部は
2年で卒業となります。)

アメリカの世間一般では家族や友人達とゆっくりするか、スポーツ、趣味に興じる
土曜日。日本語補習校の子供達は朝9時から午後3時まで学校に缶詰状態で日本の
子供達が5日間かけて学ぶ内容を一日で消化します。中には片道に2時間以上を
かけて通う子供もあり、送り迎えをする親にとっても土曜日は大忙しとなります。
また、父兄には年間を通じて、当番、ボランティアが必ずまわってきますし、
クラス委員もくじ引きで数年に一度は「当たる」システムとなっています。よって、
節目となる卒業式は、子供達だけではなく、殆どの父兄の方々にとっても特別な
ものとなります。子供達が長い年月の勉学を終えての晴れ晴れとした式である反面、
中高部では生徒、保護者共に涙腺がゆるむことも珍しくありません。

現在、現地校 Senior で昨年補習校の高等部を卒業した18歳の長男が小学部に入学
したのが2004年。小学部は、丸12年のお付き合いでした。もう運動会でお昼に
家族でお弁当を広げることも、ボランティアのお父さん、お母さんが工夫を凝ら
した出し物で子供達が賑わう秋祭りに足を運ぶこともありません。少し寂しくは
ありますが、12年も楽しませていただきましたので十分かもしれません。

2週間の春休みがアットいう間に終わり、4月、次男は、日本語補習校の高校1年
生、三男は、中学1年生となりました。三男の高校2年の卒業まで後5年。通算
17年は、我が家の歴史の中に刻み込まれます。


以下、写真となります。



ベイエリア。断層と将来の地震発生の確率を示す地図。( * earthjay.com より )



小学部卒業式開始前に会場の壁に映し出されたスライド。この前に卒業生全員の学校
で撮りためた写真を一枚一枚写しだしました。ホロリとくる瞬間です。


次男、三男のダブル卒業式。これは、小学部での三男。練習の通り深くおじぎをして
卒業証書を受け取ります。教頭先生はきちんと燕尾服。


12年間。長かった小学部とのお付き合い。以下はアーカイブから集めてきた小学部の
思い出です。



5月に登場する鯉のぼり。父兄の協力で保護者会が準備。



5月末か6月の第一週に開かれる運動会は、人気のイベントです。どこの家庭もお弁当
には気合が入ります。



運動会は、赤白に分かれて競技を行います。閉会式の前の結果発表。この年、うなだれる
赤組と歓喜に沸く白組。



夏休み。現在18歳の長男が9歳の時の写真。夏休みの宿題の一つ、作品展に出展する
工作の追い込み作業です。ずい分と手伝わせていただきました。



こちら長男が11歳の時の夏休み研究。日本の都道府県についてまとめていました。



これは現在15歳の次男が6年生の時の夏休み作品展。6年生の展示テーブルです。



秋祭りは、運動会に次ぐ人気のイベント。確か5、6年前の写真です。会場はいつも
学校のカフェテリア。



アイデアを凝らした学年ごとの出し物。ボランティアの父兄の腕の見せ所です。



「魚つり」ゲーム。おもちゃの魚は、日本から仕入れたものだそうです。



売り上げは、保護者会の予算に組み込まれ、学校、子供達に還元されます。



秋祭りに続く大きなイベント古本市。



本は、図書委員の父兄の皆さんにより、きれいに仕分けされます。



全て補習校在校生の家庭からの寄付。



1月、短いお昼休みを使って開かれる高学年のクラス対抗ドッジボール大会。
6年生あたりになると、結構見ごたえがあります。



3週にわたって行われるドッジボール大会、1月は雨季でもあり雨模様になることも。
この日、雨が降り出し中止かと思われましたが、晴れ間が広がっただけではなく、
空には虹。



小学部の駐車場の東側から臨むオーシャンビーチ。見慣れた景色ではあります。


とてもこれだけの写真で語りつくせる12年間ではありませんが、主だったものを
ひろい集めました。12年間、親子でいい思い出を沢山つくらせていただきました。

お世話になりました。

三男 - 最後の運動会 (2015年)

2015年06月29日 | 日本語補習校
6月の第一土曜日、日本語補習校幼小部サンフランシスコ校で毎年恒例の
運動会がありました。小学校6年生の三男にとって最後の運動会、そして
我が家にとりましても長男が小学校1年生の時から数えて12回目。慣れ親し
んできたこのイベントも今年が見納めとなりました。

運動会当日の朝は、一番人手が必要な時でもあります。今年は例年のように
会場準備係のボランティアに登録はしていませんでしたが、例年と何ら変わり
なく、朝の7時、校舎に隣接した会場となる野球場に到着。まだトラックの
ラインも引かれていない会場で、応援席の位置を適当に見当をつけ、ビニール
シートを敷いて場所を確保。次に水筒の入ったバッグを置いてシートが風に
飛ばされないようにして準備完了。後は、担当の先生の指示に従い、テントを
張ったり、旗をくくりつけたり、児童の応援席となるビニールシートを並べて
先生方と一緒に固定したりと1時間近くせっせと動きました。

作業が終わった頃に朝早くから家族のお弁当を作っていた家内が到着。三男
と、春に補習校の高等部を卒業したばかりの長男が家内と一緒です。中3の
次男は中高部で通常の授業。ご苦労さんです。

当日の天候は、San Francisco の Sunset地区特有の、午前中は曇り。肌寒く
午後に少しだけ晴れ間が出て、後は風が吹き出してまた曇りのパターンでした。

三男は赤組。出番は、徒競走、親子対抗競技、騎馬戦、そして大会の最大の
見せ場、高学年リレーの計4つです。ちなみに、補習校卒業後、土曜日の朝は
遅くまでグースカの長男は、保護者の綱引きに参加。日頃持て余す力を発散
させて三男の赤組に貢献しました。家内は、親子対抗競技に出場。三男との
チームワークは、まずまずでした。私は、卒業文集委員の写真撮影担当で、
大会開始より終了時までカメラとズームレンズを持ち、会場のあちこちを走り
まわりました。撮影対象が6年生全員で結構大変ではありましたが、レンズを
通して熱戦を観戦。全てを堪能致しました。

過去5年、自分が振り分けられた組が一度も勝ったことのなかった三男でし
たが、最後の運動会の結果は、自分が属する赤組の勝利となりました。

アメリカ西海岸で行われる日本の運動会。空の下、お昼休みに家族でお弁当を
広げるイベント、12年間、楽しませていただきました。



会場を本部席側より臨む。家族で楽しむ一日でした。


ブログ開設から1年以上で家内初登場。三男とは、チームカラーの
赤で統一。


徒競走の第一コーナーを抑える。仲の良い友人ですが、譲れません。


玉入れは、綱引き同様、児童とは別に保護者だけの競技も設けられ
ています。


小学1、2年のダンス。児童の正面は、カメラとビデオの列でした。


騎馬戦。遠くから見ていると楽しそうですが、息子達は、騎馬の上
と下で終始スラングの応酬だったそうです。横にいた英語しか分か
らない審判のおじさんに大うけだったとは、三男のコメントです。


例年、結構接戦なのですが、今年は結構差がつきました。


手前は歓喜する赤組。向こうはうなだれる白組。お疲れ様でした。















長男 - 日本語補習校 高等部卒業 (2015年)

2015年04月10日 | 日本語補習校
もう直ぐブログを始めて丸一年になりますが、前回の投稿から
一ヶ月以上。ここにきてスローダウンです。反省しつつ、これ
から詰め込み投稿を行います。

まず第一弾は、長男のサンフランシスコ日本語補習校卒業に
ついて。3月14日、17歳の長男が、小学校1年から高校2年まで
11年間通った補習校を無事卒業しました。

日本でこのブログを読んでいただいている方にとっては、サン
フランシスコ日本語補習校は、学校なのか、塾なのか、日本語
教室なのか得体の知れないものかと思います。文章にすると長く
なってしまいますので、ここでまとめておきますと・・・

* 創立:  1969年
* 生徒数: 約1,500名(幼児・児童を含む)
* 所在地: San Francisco、San Jose、Cupertinoの3市で
        4つの校舎を現地校より借用(2015年4月現在)
        事務局は、San Francisco 市内。
* 組織:  カリフォルニア州公認非営利団体。
* 運営:  理事会及び事務局で学校運営を行い、日本の
        文部科学省からは人的支援、外務省からは財政
        支援を受ける。
* 授業:  毎週土曜日。日本の教科書を使用し、日本の
        公教育に準じた教育を行う。
* 在校生: 日本からの駐在者、永住者の子女がほぼ全体を
         占める。

以上、サンフランシスコ日本語補習校は、決して日本語を学ぶ
ための学校ではなく、日本語で授業を受ける能力を持った児童、
生徒を対象として文科省の学習指導要領に沿った教育を行なっ
ている学校です。授業は、毎週土曜日、朝8:40~8:50の登校で、
学年によって異なりますが、午後1:40~2:50の下校。

在校生は、平日は現地校で英語の環境で教育を受け、週一回、
日本の子供達が週5日かけて学ぶ内容を土曜日だけでカバー
します。これは、物理的にかなりきつく、宿題は必然的に多く
なります。どこの家庭でもあるようですが、金曜日の夜は、翌日の
準備のため、毎週親子で大騒ぎです。

さて、長男の話に戻ります。サンフランシスコ日本語補習校では、
大学進学の準備もあり、高校2年生が最終学年となっています。
11年というと、さすがに長く、長男が高等部卒業にたどり着く
までは、なかなか大変でもありました。親の言われるがままに
通学していたのは、小学校6年生あたりまででしょうか。中学生
になってからは、反抗期も重なり、やめたくて仕方がなかった
ようです。

現地校の友人達がのんびり土曜日を過ごし、自分は、土曜日の
朝8:40から2:40まで学校で缶詰状態。そして平日は、宿題の山。
確かに気の毒ではあると思います。この辺りを書き綴りだしますと、
分厚いレポートになってしまいますので、この程度に止めておき
ます。

補習校では、昔からよく耳にしますが、11年間を共に過ごした
子供達の絆は非常に強く、大人になってからも日本、アメリカ、
住む場所を問わず、ずっと「仲間」であり続けるようです。特に
現在は、ソーシャルネットワークもあり、より一層その傾向は
強くなっているように思えます。全てにおいて適当だった長男、
友人達だけが唯一補習校で得たものかもしれません。

4月の第一週より新年度が始まっています。次男、三男は、それ
ぞれ中3、小6となりました。我が家のサンフランシスコ日本語
補習校とのお付き合いは、当分続きます。



卒業式会場となった講堂。


長男。長かった11年。親として感無量です。


見慣れた校庭。3月に借用校との契約が終わり、現在は別の
学校の校舎を使用しています。

中高部球技大会 - 長男・次男 (2014年)

2014年06月24日 | 日本語補習校
息子達3人が週一回通うサンフランシスコ日本語補習校は、一学期が
終わり、2週間の夏期集中が始まりました。この時期、現地校が既に
夏休みに入っているため、6月の中旬から下旬まで週5日、火曜日
から土曜日まで通常の授業が行われます。毎日の送り迎えに授業の
準備と、毎年、子供、先生方、親にとってかなりハードな2週間でも
あります。

さて、2週間前に幼少部で運動会がありましたが、それに匹敵する
中高部の最大のイベント、球技大会が夏期集中の折り返し点である
この土曜日に行われました。幼少部の運動会は、学校が主催、運営し、
それを保護者会がサポートする形で行われます。一方、中高部は、
学校が日頃から生徒に自主性を持たせる方針をとっており、球技大会
も生徒で委員会を設け、運営面でも積極的に参加します。

中高部は、幼少部と比較すると生徒数、クラス数は少なく、その分
何年も土曜日を共にしてきた子供達の絆が強いのは当然かもしれ
ません。各クラス、揃いのTシャツをユニフォームとして準備。競技
だけではなく、先生方も含め、応援にもかなり熱が入ります。また、
例年、卒業生が審判のボランティアに集合。幼少部とは全く異なった
雰囲気の中で行われ、私にとっては、長男が中学に入学して依頼、
毎年必ず観戦するお気に入りのイベントです。

大会の種目は、ドッジボール、バスケットボールのみ。ルールは、
クラス対抗。中1と中2の低学年の部、中3、高1、高2の高学年の
部で2グループに分かれて各種目を競います。最後は、縄跳びを
含めたクラス対抗リレー。今年は、全校ウルトラクイズのおまけ付き
でした。

現地校での高校3年の大学入学準備を考慮し、サンフランシスコ
日本語補習校は、高校2年生で修了、卒業となります。高2の長男に
とっては最後の球技大会。当然ですが、かなり気合が入っていました。

当日は、先日の幼少部の運動会の時以上に肌寒い日でしたが、
朝から熱戦がくりひろげられました。結果は、高学年の部は、男子、
女子共に高2が両種目共に総なめで優勝。有終の美を飾りました。
中2の次男のクラスも男子は、低学年の部で両種目優勝。二人とも
気分良く帰宅しました。


毎年おなじみの保護者向け注意事項サインの一つ。


準備体操。


ドッジボールは、校庭。


バスケットボールは、体育館。


校庭から見える落書き。借用校敷地の外であり、学校とは関係ありません。


閉会式。お疲れ様でした。

三男 - 運動会 (2014年)

2014年06月09日 | 日本語補習校
長男の通う高校(現地校)が夏休みに入りました。次男の中学校、三男の小学校は、この
木曜日から夏休みです。日中、3人の息子達が家にいる。いよいよ家内の2ヶ月にわたる
悪夢の始まりとなります。息子達が通う高校、中学校では、卒業式が終わり、小学校では
今週、執り行われます。(日本の教育年度と異なり、アメリカでは、通常は8月の下旬に
スタートし、翌年の5月末~6月上旬までとなります。但し、州、郡、学区、また、私立
の学校によって多少異なります。)

一方、息子達が週一回、土曜日に通う日本語補習校は、日本の基準に従い4月に新年度が
スタートし、3月に終了となります。今週は、中高部が中間試験、幼小部では年に一度の
運動会でした。運動会については、場所がアメリカというだけで、内容は殆ど日本と変わり
ません。日本語補習校在校生の中には、学校嫌いの子供達も勿論いるわけですが、年一回の
春の運動会と秋に開催される秋祭りがあるから学校をやめないといったコメントは、昔から
しばしば耳にします。金曜日の夜は、長男、次男は、夜遅くまでブツブツ言いながら試験勉強。
小5の三男は、ルンルンしながら早く床につきました。

土曜日の朝。予め運動会会場設営のボランティアに登録していましたので、集合時間の
午前7時少し前に借用校の校舎横にある会場の野球場で待機。他のお父さん達と力仕事
です。お天気は、サンフランシスコのSunset地区らしく、曇り空で海からの風も吹き込み
肌寒い朝でした。運動会のイベントは、各学年、運動会定番の徒競走、リレーに加え、過去
何年も続いている、障害物競走、ボール/棒等を扱った各種グループ競技、幼児、小学
1、2年生のダンス、5、6年生の騎馬戦、そして、児童に加えて保護者のためにも設け
られた綱引き、玉入れと、盛りだくさんとなっています。お昼は、家族でお弁当を囲んでの
昼食、静かなひと時でもあります。

運動会では、児童全員、赤か白組のどちらかに分けられて各種目を競い、着順、競技の
勝敗により各組に点数が与えられていきます。今年は運動会の花、最後の種目である
5、6年生によるリレーの最終結果まで勝敗が全く分からない大接戦で大いに盛り上がり
ました。先生方、事務局の皆さん、保護者会役員の皆さん、準備、各競技、子供のお世話係、
後片付けボランティアの保護者の皆さん、大変お疲れ様でした。


5年生男子の徒競走スタート。


玉入れ。児童、保護者、どちらの競技も盛り上がりました。


騎馬戦一回戦スタンバイ。先生の指示待ち。


5、6年生リレー。5年生男子アンカーから6年生女子のトップへ。


わずかな点差で今年は白組の勝利。お疲れ様でした。