話し合いの解決などは望むべくもなく、ましてや先生は全く頼りにならないとすれば、実力行使で解決するしかありません。私は意を決して柔道の道場に通い始め、また、独学で空手の練習も始めました。絶対に勝たねばならぬ。悲壮な決意で運命の瞬間に備えました。
いつものように小突かれたある日、決死の思いで拳を固め、いじめっ子に飛びかかりました。意表を突かれた相手を倒し、ヘッドロックで締め上げました。そんな私をクラスメートも応援してくれ「柔道殺法や!」などと応援する友人の声が私を後押ししてくれました。ついにいじめっ子が泣き出し、私は勝利しました。
もっとも相手は私の反撃に対して納得しておらず、「俺にも殴らせろ!」と泣きながら訴えてきました。「殴ったらええやないか」と差し出した頬に反動をつけたパンチはかなりの衝撃でしたが(その衝撃でアゴがズレたらしく、今でも時々カクッと鳴ったりするほどです・・・)勝利感は確固たるものになりました。一年近く自分を苦しめていた心の傷が、一気に癒された気分でした。
子供なりに自分の全てを賭けて闘いに挑んだ結果、その子が行っていた「弱い者いじめ」自体がなくなったように思います。また、その子ともかなり仲良くなって、その後はプロレスごっこなどをして一緒に遊ぶようになりました。
決死の反撃によって自分の居場所、尊厳を守ったことには満足していますが、しかし、それがベストの方法だったかどうか、今でもわかりません。もし勝てなかったら、もし、相手に怪我を負わせていたらと思うと、幸運だっただけなのかもしれません。でも、それが唯一の打開方法としか思えなかった、そんな状況を作った責任は学校にもあると思います。
いじめによる自殺のニュースを聞くと、本当にやりきれなくなります。自らの命を絶つ決意があるんだったら、どうして状況を打開すべく闘いを挑まないのか?と口惜しい限りです。そして、いつも行われる犯人探し。いじめを行うなんて最低だと思いますが、いじめをした側の当人だけでなく、親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだと思います。しかし、自殺した本人にも、命を粗末にすることに対して憤りを感じるのです。
それ以来、いじめを受けたことも、もちろん、いじめたこともありません。しかし、いじめられている子が、極力リスクを負うことなく解決できる支援体制を作るのは政治の役割と感じるようになりました。殴りあいの喧嘩をしたのもその時が最初で最後ですが、強い者が弱い者イジメをしている行為を見ると、瞬間的に怒りが込み上げてきます。米国によるイラク攻撃などの理不尽な対外政策、そして、その米国ブッシュ大統領をご主人様と仰ぐ小泉・安倍政権の弱い者イジメ政策への怒り。それはいじめを受けた自分の経験にも起因しているように思います。庶民に痛みを押しつけて平気な顔をしている権力者に対しては徹底的に闘いを挑みましょうね。腕力、そして社会的立場にかかわらず、私たちは同じ一票を持っているのですから!
さかぐち直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
いつものように小突かれたある日、決死の思いで拳を固め、いじめっ子に飛びかかりました。意表を突かれた相手を倒し、ヘッドロックで締め上げました。そんな私をクラスメートも応援してくれ「柔道殺法や!」などと応援する友人の声が私を後押ししてくれました。ついにいじめっ子が泣き出し、私は勝利しました。
もっとも相手は私の反撃に対して納得しておらず、「俺にも殴らせろ!」と泣きながら訴えてきました。「殴ったらええやないか」と差し出した頬に反動をつけたパンチはかなりの衝撃でしたが(その衝撃でアゴがズレたらしく、今でも時々カクッと鳴ったりするほどです・・・)勝利感は確固たるものになりました。一年近く自分を苦しめていた心の傷が、一気に癒された気分でした。
子供なりに自分の全てを賭けて闘いに挑んだ結果、その子が行っていた「弱い者いじめ」自体がなくなったように思います。また、その子ともかなり仲良くなって、その後はプロレスごっこなどをして一緒に遊ぶようになりました。
決死の反撃によって自分の居場所、尊厳を守ったことには満足していますが、しかし、それがベストの方法だったかどうか、今でもわかりません。もし勝てなかったら、もし、相手に怪我を負わせていたらと思うと、幸運だっただけなのかもしれません。でも、それが唯一の打開方法としか思えなかった、そんな状況を作った責任は学校にもあると思います。
いじめによる自殺のニュースを聞くと、本当にやりきれなくなります。自らの命を絶つ決意があるんだったら、どうして状況を打開すべく闘いを挑まないのか?と口惜しい限りです。そして、いつも行われる犯人探し。いじめを行うなんて最低だと思いますが、いじめをした側の当人だけでなく、親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだと思います。しかし、自殺した本人にも、命を粗末にすることに対して憤りを感じるのです。
それ以来、いじめを受けたことも、もちろん、いじめたこともありません。しかし、いじめられている子が、極力リスクを負うことなく解決できる支援体制を作るのは政治の役割と感じるようになりました。殴りあいの喧嘩をしたのもその時が最初で最後ですが、強い者が弱い者イジメをしている行為を見ると、瞬間的に怒りが込み上げてきます。米国によるイラク攻撃などの理不尽な対外政策、そして、その米国ブッシュ大統領をご主人様と仰ぐ小泉・安倍政権の弱い者イジメ政策への怒り。それはいじめを受けた自分の経験にも起因しているように思います。庶民に痛みを押しつけて平気な顔をしている権力者に対しては徹底的に闘いを挑みましょうね。腕力、そして社会的立場にかかわらず、私たちは同じ一票を持っているのですから!
さかぐち直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
太陽のような笑顔の裏にはこんな経験もしていたんですね。阪口さんの熱さと温かさにとても感動しました。
みんな阪口さんの第一印象はやさしそうな好青年だと思っていますが、必要な時は先頭に立って闘える人だということ、改めて感じました。いつも信頼&応援してますよっ!
でも今振り返ってみると、私には息子達といじめに関しての話しをした記憶がないのです。無意識のうちに、もしかしたら息子たちの現実を知るのが怖かったのかもしれません。
父親としては失格ですね。
でもおそらくはそんな家庭は多いのではないでしょうか。
イジメによってストレス発散をしたり、それを楽しいと思うことは、相手がそれをイヤがっていることをイジメる側がそれを知っていることが前提にあります。
悲しいかな、相手がイヤがらないイジメ(それをイジメと言っていいかわかりませんが)は、その行為をする側にとっては何らの快楽にもなりません。
今、私の隣りでただひたすらにキャベツを食べているハムスターは、集団飼いをしますと直ぐに喧嘩を始めます。でもそれはまさに生存をかけた争いであり、決して快楽のためのイジメなどではありません。
快楽のためのイジメをするのは、おそらくは人間だけなのでしょう。
そしてまた、イジメを受けた経験によって、他人に優しくなれるのもまた人間だけでしょう。
イジメが大きくなると、それは国や民族にも向けられます。その際たる例がナチス時代のユダヤ人迫害。
「ユダヤ人は公園に入ってはならない」「ユダヤ人は1日2時間しか外出してはならない」等など、次から次へと陰湿なイジメ的法令が発布されてきました。そして行き着いた先が絶滅収容所送りです。
そんな究極のイジメの中でも、15歳のアンネフランクが残した言葉が日記中にあります。
‘それでも私は信じています。人間の本質は善であることを’
この言葉が真実となる日を望んでやみません。
無茶を承知で言えば、私はイジメっ子たちはマニラやジャカルタやバンコクのスラムに数週間放り込んでしまえばいいと思ってます。
そこに住む子供たちは明日の命の確保に精一杯で、イジメどころではありません。生存ぎりぎりの状態の中で、イジメがどんなにちっぽけでつまらないことか、身にしみて理解することでしょう。
アメリカではアウトワードバウンドスクールなど、大自然の中でのサバイバル体験をさせることによって、イジメる側の再教育を施していると聞いています。
まあ、しかしこれらの方法は日本ではあまり現実的とは言えませんが…
一番良いことは、子供たちが何かひとつでも熱中できるものがあることでしょう。スポーツでも音楽でも、あるいはもっと趣味的なことでも何でもよいのですが。
そうすれば、イジメをするマイナスのエネルギーがもっと健全な方向に向けられるはずですね。
今日は先ほどまで、春高バレーの神奈川大会を観戦していました。高校野球がオフシーズンの間、まさにスポーツに対する飢餓状態が続いていたため、これを癒す意味での観戦です。
しかし結果的には飢えを癒すどころか、今猛烈な感動に襲われています。
ここにもまた‘球の道’を目指す青春がありました。
そして何よりも惹かれたのがリベロと呼ばれる選手達です。他の選手に比べ身体も小さく、それでも強烈なアタックに対しただひたすらに拾いに拾いまくり、そして勝利に結び付けていくその姿。
思わずそこにはイジメられっ子達への励ましのようなものも感じてしまいました。
球春待ち遠しいこの頃ですが、その前に次週の春高バレー神奈川大会の決勝がさらに楽しみです。
コメントありがとうございます。
Nさんや三高さんからは、いつも素敵なコメントを頂いているので、しばらく音沙汰がないと、よほど忙しくしているか、体調でも崩していらっしゃるのではないかと心配してしまいます。
いじめを受けた経験というのは、あまり書きたいテーマではなかったのですが、教育の現場での大きな問題であること、そして、私の考え方の根幹を形成する大きな要因でもあるので、あえて、かなり赤裸々な経験を書かせて頂きました。三高さんがおっしゃるように、いじめを受けたことで、より他人にやさしくなれる、そんな人間になりたいものです。
私は社会の風潮に対しては反逆的、挑戦的なところがあるので、大人になってからも、あえて社会からの疎外感を受け入れながら生きることが多かったように思います。でも、子供の頃いじめによる孤独感を経験したことで、大人になってからは、孤独感、疎外感をむしろ楽しむ心の余裕が生まれたような気もします。逆に言えば、大人になってからのどんな経験も、子供の頃、いじめによって感じた殺伐とした孤独感に比べればあまり辛いとも思わないほど、いじめを受けた経験は重く辛いものだったと改めて感じています。
私は幸いにも、その経験をバネにすることができましたが、一歩間違えればどうなっていたかわかりません。今、どこかで苦しんでいる子供たちのためにも、政治の力もあわせて彼らの苦しみを取り除いてあげなくてはと思います。
実は今日観戦した「春の高校バレー女子 神奈川大会」の参加チームの中で、選手全員が坊主頭の高校がありました。
坊主頭!これは単なる言葉のあやではなく、本当に高校球児なみの‘五分刈り’なのです。私ははじめ男子チームなのかと思ったのですが、しかしそれは紛れもなく女子チームでした。
男の私には女性にとっての髪の大切さはよくわかりません。ましてやお洒落をしたい盛りにある16~17歳の思春期にある少女たちにとっての髪の大切さも知りません。
この高校の選手たち自らがこれを望んだのか、あるいは監督・コーチの指導によるものか、あるいはもともとそうした伝統のある高校だったのか、もしかしたら何かの罰としての結果なのか、私にはその真相もわかりません。
監督に聞けば、おそらくは「教育的指導のもとにしていること」というような答えが返ってくるようにも思います。
でも、でも私にはこれはある種のイジメのように思えてならないのです。
選手たちの声を直接聞いたわけではありませんし、そう断言するのは無責任であることは承知していますが・・・。それにしても?
女性の皆さんはどう思われますか?
ちなみにこの高校の試合、私は開始前に席を立ってしまいました。正直なところ、見るに耐えられなかったというのが本音です。
ネットで昨日の春高バレー神奈川大会の結果を見ましたら、なんと坊主頭の某高校が勝利を収めていることがわかりました。あまり詳細まで記しますと、その高校が特定でき、もしこのブログに関係者の方がいますと気分を害されることと思いますので、詳しくは書きません。どうやらハンパでなく強い高校のようです。
もしかしたら選手たちは自ら頭を坊主にし、お洒落も恋も犠牲にして、バレー一筋にかけていたのかもしれません。それはそれですばらしいことでもあるでしょう。
男の私の目から見てしまうと、年頃の少女たちが不憫に見えてならなかったのですが、それはしかし間違いだったのかもしれません…
今度の日曜日、いよいよ準決勝、そして決勝です。当然私もその場に駆けつけます。
青春一路 球の道
素晴らしきかな女子バレー(偏見を覚悟で言えば、バレーボールは圧倒的に男子より女子が面白いです)
阪口さんの選挙区である山北高校に闘魂を注入してきます。
あ! そろそろ上司が戻ってきますので、このへんでやめておきます。ではまた
公式戦の日程も発表され、待ち遠しい限りですね。
さて、私もさすがに女の子の‘五分刈り’は見たことがありません。でも、バスケットにしても、バレーにしても、県大会で優勝を争うような強いチームの場合、みんな短髪というのは、よく見かけます。
関東大会に出るようなバスケ部や、全国優勝するようなオーケストラ部の子ども達と接したことがありますが、彼女たちは、高校球児同様、3年間の毎日毎日の中で、こちらが驚くほどの「自律心」を持って練習を積み、その中で強い「精神力」を身につけていきます。私が想像するに、‘5分刈り’は、大会にかける彼女たちの意気込み、の表れかもしれません。
監督さんが命令したのであれば、大問題だと思いますが、今の時代、監督さんが「全員坊主頭や!」などと言おうものなら、すぐさま人権問題になってしまいますし。
もうひとつ、女子の(スポーツ)チームにおいて、強くなる1つの要素だと私が経験上思ったのは、監督に指導力に加えてカリスマ性があることです。そこは、監督の指導力と実績を評価してついていく男子のチームと大きく違うところだと思うのですが、いかがでしょうか。以前、カリスマ性のお話が出てきたので、ちょっと書いてみました。
トピックずれでごめんね、阪口さん!
女の子が全員坊主頭とは本当に驚きです。どういう経緯でそうなったのか、とても興味深いですね。最近では男子の野球部の選手でも長めのスポーツ刈り程度の髪型が目立つ中、みんなで5分刈りにした女の子の心境をとても知りたく思います。でも、その中で坊主頭についていけない子が疎外されてしまうのでは?と、ちょっと心配ではありますが・・・。
女子のスポーツを観ていると、Fighting Tigerさんが言われるように、強いチームにはカリスマ的なリーダーシップを持った監督がいますね。女子マラソンの小出監督と高橋尚子選手の関係も、男子スポーツにおける監督と選手の関係を超えた、恋愛関係に近いような強い心の絆があったように私の目には映っていました。その小出監督と決別したQちゃんが苦闘しているのは年齢のせいばかりとも思えないような気がします。