和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

想定外の要注意問題。

2022-01-31 | 地震
講談社学術文庫の寺田寅彦著「天災と国防」の
解説は畑村洋太郎氏でした。その解説の中に、
想定外を語っており、私に印象深かったのは、
この箇所でした。

「柔軟な発想ができる子どものときに
災害や危険に備えるための教育を行ったほうがいい
というのは、私の考えとも一致している。
ここで注意しなければいけないのは、

子どもたちに教える中身は『安全教育』ではなく
『危険教育』でなければならないという点である。

『こうすれば安全になる』という危険回避の方法だけを教えるのではなく、
どこにどのような危険があるかも教える必要があるという意味だ。

これがないと想定外の問題に柔軟に対処するために必要な
内部基準を自分の中につくることができないので、
その点は要注意である。」(p196)


もう一冊引用します。
大石久和著「国土が日本人の謎を解く」(産経新聞出版・平成27年)。
ちなみに、こちらは、新しく前書きを添えて新刊がでているようです。

そのなかにでてくる『想定外』を引用してみます。
ここでは、斎藤健氏の本からの紹介となっております。

「日本の敗戦後、モスクワ近郊の俘虜収容所に・・・」
とあります。すこし飛ばして、ここから引用。

「ソ連での俘虜の例は、
『生きて虜囚の辱めを受けず』という誤った戦陣訓があったこともあって、
『捕虜になった自分』というものを想定することすらしていなかったために、
捕虜となったときに、『何をしてよいのか、何をしてはならないのか』が
まったくわからなくなっていたということもある。

日本軍人として保つべき機密も、日本人であることの誇りも、
すべて消えたのである。なるべきでない状態を想定していないから、
自分自身が消えてなくなってしまったという残念で情けない
象徴的な例となっている。

・・・本来守るべきものが何で、失っているものは何なのか
ということすら、わからなくなったといったことが象徴的に
あらわれている。これは戦陣訓の規定が間違っていたからと
いうだけではなく、私たちの帰属から離れたときの弱さなのである。」
(p186・第七章「なぜ日本人はグローバル化の中で彷徨っているのか」)

うん。ここはまだ続くのですが、引用はここまで。

私がここを読んだときに思い浮かんだのは、
憲法九条でした。かりに隣国が攻め込んできた際に、
ここでも、

『自分自身が消えてなくなってしまったという
 残念で情けない象徴的な例‥』がまた繰り返される。
という、これは想定外の出来事ではなく、想定内の出来事。
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佐伯彰一が語る神道。

2022-01-30 | 本棚並べ
平川祐弘と粕谷一希の対談で、
平川氏が佐伯彰一を語っています。
小林秀雄を取りあげた後でした。

平川】 佐伯彰一先生(1922年生れ)も
小林秀雄に非常に注意を払っているけれども、
佐伯さんは独自の広い世界も持っています。

海軍に行き、日米戦争の体験もある。
神道の家などで神道のこともわかっている。

それから物凄い博識、文章は、ある意味、
饒舌なところもあるけれども、それもそれで
非常な魅力をもっている。

粕谷】 ただ、そういう文章でも、衝撃力、
人に与えるインパクトとしては、やはり
小林秀雄に敵うものはいない。

平川】 ・・・・小林ファンというのは、
とにかくたくさんいました。
  (p147「〈座談〉書物への愛」藤原書店)

はい。ここから佐伯彰一の「日本人を支えるもの」という文を
紹介してゆきます。途中から引用してゆきます。

「・・・神道は、まるで無い無いつくしの宗教なのだ。
明確な教義がなく、精緻な神学がない。
守るべき戒律というのもないにひとしく、
宗教闘争、思想イデオロギー闘争の体験的蓄積もまた欠けている」

そこから、ちょっと飛ばして次のページを引用。

「その代わり、わが家には大きな神棚があって、
祖父と一緒に毎朝必ずたき立ての御飯と水とを供えて拝んだし、
時には祖父の唱える祝詞のおつき合いもした。

そして、毎年の大晦日の夜は、同年輩の子供たちと一緒に
古い神社の社務所に『お籠り』をして、
元旦の朝拝のための準備作業に加わった。

高々とそびえる老杉の並び立つ境内の深夜は、
子供心にも神寂びた森厳さがおのずと伝わってきて、
12月末のしんしんと身に沁み入る寒気とともに、
忘れがたいフィジカルな記憶として、
今でも鮮やかに思い起こすことが出来る。」

うん。全部引用するのは切りがないので、
またしても飛ばしてゆきます。

「この文脈で、どうしてもあげずにいられないのは、
故小林秀雄さんの最後の大著『本居宣長』の冒頭の一節で、
宣長が死の直前に書き残した自身の葬儀にかかわる遺言を、
小林さんは一句一句噛みしめるように辿り、説き明かしてゆかれた。

江戸時代のことで、各人の菩提寺がきっちりと規定されていたのだが、
宣長は、やはり自身のために神道の葬儀を、と綿密に式の次第から
お墓の場所、様式まで指定して、お気に入りの山桜を植えこむことまで
書きこまずにいられなかった。死にまつわる神道的アンビヴァレンスを
いち早く見抜き、把えたのも、じつの所『古事記伝』の著者であったが、
『本居宣長』を書き出すにあたって、まず宣長の墓所をたずねずにいられ
なかった小林さんのお気持ちと、宣長の死生観とがおのずと通じ合い、
ひびき合って、美しい諧音を奏で出すように感ぜられる。

わが国第一の神道文学者、思想家に対するこの上ないオマージュ、
挽歌であり、つまり小林さんにおける神道回心を証し立てる一節
ともぼくは言いたいのである。」

このあとに、佐伯彰一氏の見解がおもむろに、
開陳されてゆきます。

「それにしても、神道には、確たる教義のシステムがなく、
神学も欠けていると言われるだろうか。
キリスト教における『聖書』も、見当らぬではないか―――
いや、宣長が営々として精緻な註解をつみ重ねた『古事記』を
かりに神道の『旧約』として受けとり、認めるとしても、
この地方信仰には、『新約』にあたるものが、全く欠落している。
ついには、素朴、あまりに素朴な
古代人的心性の遺制にすぎないのではないか、と。

この問いに対しては、こう答えたい。
神道において『新約』に類比すべきものは、
じつは日本の文学史、芸能史の傑作群なのである、と。

・・・あまりに恣意的にひびくだろうことは承知の上で、
今はむしろ説明ぬきで、こう言い切りたいのだ。
たとえば、死者に親しむ、鎮魂の心情について、
その基本的な証言は、『万葉集』の挽歌であり、
また能というジャンルのほとんど総体が、集中的に
この目的に奉仕しているではないか。・・・」

はい。これは佐伯彰一著「神道のこころ」の
第一章に載っている言葉でした。

第一章「神道と私」
第二章「神道と日本文学」
第三章「折にふれて」
という、三章からなる本(平成元年)です。

さてっと、いつも飽きっぽく脇道へ逸れる私ですが、
今年は、この本を視界の端にいれて辿ってゆきます。
はい。『棒ほど願えば、針ほどかなう』と口ずさみ。

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庭を見て・・歌を詠みなさい。

2022-01-29 | 詩歌
松坂弘著「岡野弘彦の歌・現代歌人の世界1」(雁書館・1990年)。
このはじまりのページに、岡野弘彦氏の本からの引用がありました。
はい。気になったので、その本を注文し、昨日届く。

「岡野弘彦 短歌に親しむ・NHK短歌入門」
(日本放送出版協会・昭和61年)。
はい。送料共で351円。帯付きできれいな一冊です。
何だか、線引きがしにくいなあ。表紙カバーの絵は
森田曠平の「二上山来迎〈当麻曼陀羅縁起〉」。

( 私は、第一章「わが歌の縁(えにし)」のみ読了。
  もうこれだけで満腹。先を読み進められない。
  いつものことで、これが私の常態なのでした。
  こういう性格は、いまさらもう改まらないし。
  私の読書はいつもこんな感じです。ご了承を。 )

面白いことに、若水をくむ時に三度となえる言葉が、
微妙に、二冊の本でちがっておりました。

今朝くむ水は 福くむ水くむ 宝くむ命ながくの 水をくむかな

はい。これが「岡野弘彦 短歌に親しむ」p16にありました。
松坂弘著「岡野弘彦の歌」では、「次のように述べている」として

今朝くむ水は 福くむ水くむ 宝くむ 命ながくの 水をくむかな

う~ん。三回となえるのだから、
いろいろと、となえかたをかえたのかもしれないし。
これはこれで、面白い問題なのですが、
これまでにしておきましょう。

さてっと、『短歌に親しむ』では、つぎにこんな箇所も
ありました。

「新しい白木の桶に、手の切れるような冷たい若水をくみあげて、
 家で待ちうけている母に渡す時の、誇らしく引きしまった気持を、
 今もありありと思い出します。」(p16)

第一章を読んで、私が気になったのは『庭』でした。
岡野氏は釈迢空を先生としておられるのですが、
こんな箇所がありました。

「私が学生の頃から入会して歌を作ることを教えてもらったのは、
釈迢空の指導する『鳥船』という歌の会でした。その会で一番
きびしくきたえられたのは、即席で写生歌を作ることでした。
歌会の日に先生の家へ定刻に集まると、

『この庭を見て、30分で3首の歌を詠みなさい』とか、
 新しい掛け軸が掛けてあって、
『この絵を見て20分で2首作りなさい』とか言いつけられるのです。
 ・・・・」(p24)

『庭』が、第一章のところどころに顔を出します。
うん。ここはバラバラに引用を続けます。

「先生は一生独身で、養子になった方も硫黄島で戦死しました。
昭和22年の2月11日、先生の誕生日なので、私は先生の家へ行って
薪(まき)を割り、先生の好きな風呂をわかしました。
まだまだ物の不自由な頃でした。
夕方になって帰ろうとすると、短冊に歌を書いてくださいました。

 けふひと日庭にひびきし斧(オノ)の音しづかになりて夕べいたれり

私の一日のはたらきをねぎらってくださったのでした。
・・・」(p17)

「当時の私には短歌でその思いを表現する力が、
ととのっていませんでした。・・・・

たたかひの後ひたすらに思ひしは庭きよき家まぼろしの妻

のちに私は、当時の自分の思いをこんなふうに歌ったことがあります。」
(p30)

ちなみに、第一章のはじまりには色紙が写っています。
岡野氏ご自身の筆でかかれた文字があり、下には解説があります。

餅花(もちばな)のすがしき土間におりたてる
   睦月(むつき)の母の聲徹るなり

「元旦の朝、餅花のすがしく揺れている玄関の土間に立って、
年賀の客にうけこたえする母の声が、ひときわさわやかに、
歯切れよく聞こえてくるのでした。少年の日の正月の記憶です。」(p15)


こうして『庭』から『土間』と引用をしていると、
いけません。伊藤静雄の詩が浮かんできました。
うん。読んでもわからないので、ただ3篇の静雄の詩を引用。

     庭の蝉

  旅からかへつてみると
  この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
  おれはなにか詩のやうなものを
  書きたく思ひ
  紙をのべると
  水のやうに平明な幾行もが出て来た
  そして
  おれは書かれたものをまへにして
  不意にそれとはまるで異様な
  一種前世(ぜんしょう)のおもひと
  かすかな暈(めま)ひをともなふ吐気とで
  蝉をきいてゐた

人文書院の「定本伊藤静雄全集 全一巻」(昭和46年)は
編集者が桑原武夫となっております。この本には日記も掲載
されていて、その日記の昭和16年と昭和17年に
どうも同じ詩を推敲しているのが、そのままに掲載されていました。
まずは、昭和16年の箇所から

「      夏の庭

   ひとやむかしのひとにして
   ひらめきいづる朝の雲
   池に眠むれる鯉のかげ
   薔薇はさきつぎ

   われやむかしのわれならず

   ひとはむかしのひとにして

   薔薇さきつぎ
   ひらめきいづる朝の雲
   池のねむれる魚のかげ

   われはむかしのわれならず   」(p266)


次は、昭和17年の日記から

「  ひとはむかしのひとにして
   
   薔薇(そうび)さきつぎ
   ひらめきいづる朝の雲
   池にねむれる鯉のかげ

   われはむかしのわれならず

   われはむかしのわれにして

   薔薇さきつぎ
   ひらめきいづる朝の雲
   池にねむれる鯉のかげ

   ひとやむかしのひとならず


やはり疲れてゐる。竹のまばらにはえた明るい庭
(赭土の地面)に面した縁でねたい。・・・」(p268)


ところで、『短歌に親しむ』には
岡野弘彦氏による「まえがき」のような2ページの文が
あるのでした。そこを引用したくなります。

「今年の夏、初めてヨーロッパを半月ほど旅しました。」
こうはじまっております。

「その旅中、私は一冊の短歌、俳句の詞華集を持っていって、
・・・・宿に泊まった夜、眠りにつく前のひと時を、
定型の中の日本の小さな詩歌に心をあそばせました。

そっとたずさえて来た宝石箱を、異郷の空の下で
見つめているようないとしさでした。
そして、これから後この小さくやさしい定型詩の運命は、
どうなってゆくのだろうかと思いました。・・・・・・」



私は第一章でもう満腹。ここは満腹ついでに、
第一章の、最後の歌を引用しておかなければ、

「『古今和歌集』の中の作者のわからない古歌に、
 こんな歌があります。

わが庵(いほ)は三輪の山もと恋しくばとぶらひきませ杉立てる門

三輪山のふもとに住んでいる人が、
友達にでも手紙に添えてやったという感じの歌ですが、
昔の人はこの歌を、三輪の神様の歌だと感じたらしいのです。
杉の木は三輪の神のシンボルです。・・・・」(p54)






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長夜の眠(ねぶり)は独り覚め。

2022-01-28 | 詩歌
竹山道雄著「京都の一級品 東山遍歴」(新潮社・昭和40年)
のなかで竹山氏が空也の和讃に触れてる箇所がありました。

「空也作といわれる長い和讃があり、
 今でもその初めと終りがうたわれるが、
 その起句は次のようである。

 『長夜の眠は独り覚め、
  五更の夢にぞ驚きて、
  静かに浮世を観ずれば、
  僅刹那のほどぞかし』。—――

 このように人生ははかない。それだからこそ、
 生きているうちに仏に参じ、仏にみたされて、善をなせ。

 ふしぎな機縁によって人間に生れてきたということは、
 それをするための千載一遇のチャンスである。
 人生が夢幻のごとくあることを痛感することこそ、
 積極的な活動のもとであるという考え方は、
 さまざまなヴァリエーションをなしながら
 日本人の精神の一つの基調になっていたように思われる。」
 (p130・第七章「六波羅蜜寺」)

はい。ここにでてくる空也和讃がよくわからないので
武石彰夫著「仏教讃歌集」(佼成出版社・平成16年)を
ひらいてみる(この本は素人にもわかりやすい一冊です)。

この本のp82に、空也和讃「鉢たたきとおどり念仏」が
どうもそれのようです。武石氏の本からそのままに引用。

 長夜(じょうや)の眠(ねぶり)は独り覚(さ)め
 五更(ごこう)の夢にぞ驚きて

途中ですが、p86から、その鑑賞がありまして、

「『五更の夢にぞ驚きて』の五更は、いまの午前三時から五時、
 『驚く』は目が覚めること。夜明け方に目覚めるのは、老いの常。」

とあります。以下、和讃の3行目からも引用

 静かに憂き世を観ずれば
 僅(わず)かに刹那(せつな)の程(ほど)ぞかし
 時候(じこう)程なく移り来て
 五更の天(そら)にぞなりにける
 念々無常の我が命
  ・・・・・・

はい。この箇所も武石さんの鑑賞から引用

「『憂き世を観ずれば』は、頼りになるものもない
 つらく苦しい世間を心中に思い浮かべて本質を見きわめる。

 『刹那の程』は、きわめて短い時間の間。
 『念々無常』は刹那に移り変わること。」


はい。和讃は、これから続くのですが、
うん。私はといえば、仏教和讃を長く引用するのは
はばかれます。
たとえば『念々無常の我が命』『人命無常停まらず』
『明日の命は期し難し』『三界総て無常なり』などと
いう言葉がつづくので、
それが真実なのでしょうが、現代に生きていると
その言葉が痛く響くようで、引用をはばかられます。

なんてことを思っていたら、
そうだ、村野四郎氏の詩が思い浮かびました。
現代詩は、わかりやすい言葉で、短くて簡単に読めるのですが、
さらりと読めても、それがなんだろうかと内容がくみとれない。
ということがよくあり、そんな詩人に村野四郎氏がおりました。
それがどういうわけなのか、今回、思い浮かんできたのでした。

たとえば、こんな風に私は思い浮かべました。

仏教の教えは中世の人は身近なのでしょうが、
現代人からは、壁や堀で遠く隔てられている。
そんなことを思い浮かべると、村野四郎氏の
詩がにわかに浮かびあがるような気がします。
ということで、詩を二篇引用。

    花を持った人  村野四郎

 くらい鉄の堀が
 何処までもつづいていたが
 
 ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
 そこから 誰か
 出て行ったやつがあるらしい

 そのあたりに
 たくさん花がこぼれている


  
     堀のむこう   村野四郎

  さよならあ と手を振り
  すぐそこの堀の角を曲って
  彼は見えなくなったが
  もう 二度と帰ってくることはあるまい

  堀のむこうに何があるか
  どんな世界がはじまるのか
  それを知っているものは誰もないだろう
  言葉もなければ 要塞もなく 
  墓もない
  ぞっとするような その他国の谷間から
  這い上がってきたものなど誰もいない

  地球はそこから
  深あく虧(か)けているのだ



ちなみに、私が村野四郎の名前を知ったのは
高田敏子著「月曜日の詩集」の序文を村野氏が書いていたからでした。
ここには、その村野氏の序文のなかの最後の言葉を引用しておきます。

「この詩集のすべての作品に通ずる精神的な主題は何かといえば、
それは『生活の中の知恵』です。それは、やさしい母の愛と
美しい詩人の心だけが人間に教えてくれる知恵なのです。

この知恵の本質は、現代を・・救うことのできる唯一のものですが、
それが、私たちの生活のどんなに些細な場所にも、
どのように息づいているかを、この詩集ぐらい、
やさしく温かく教えてくれるものはないでしょう。

私は、現代の一人でも多くの人が、
この詩集の美と愛とに心をうるおされながら、
現代という不安と危機の時代に、
自分をも隣人をも救う精神的要素を
汲みとられることを心からのぞみたいと思います。」

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竹山道雄と空也上人

2022-01-27 | 本棚並べ
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)の
第8章は竹山道雄著『ビルマの竪琴』をとりあげております。
うん。私が引用するのは手にあまるので、
違う箇所を、ここに引用してみます。

「1983(昭和58)年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、
竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。

竹山としては見納めのつもりであったろう。
東寺からはじめて三十三間堂、養源院、清水寺、鳥辺野、六波羅蜜寺
などを丁寧に見てまわった。

あれから30年近く経ったいま妻に
『あの時どこがいちばん印象に残った?』とたずねたら
『六波羅蜜寺』と依子は答えた。私もそうだと思ったが、
よくきいてみると依子は鬘掛(かずらかけ)地蔵から、
私は空也上人像から感銘を受けたのだった。

人間は同じ六波羅蜜寺へ行き、同じ彫像を眺め、
同じ人の説明を聞いても、自己の主観にしたがって、
このように別箇の印象を記憶に留める。

いや同じ鬘掛地蔵を見ても、新潮社版『京都の一級品』の
正面から写した写真と『竹山道雄著作集』第8巻の地蔵の
斜め前から写した写真とでは印象が著しく異なる。」(p417)


このあとに、竹山道雄の『京都の一級品』からの空也上人への
記述の引用があるのでした。そこをカットして、そのあとでした。
「ビルマで頭を剃った水島上等兵は」と平川氏が書きこみながら、
そのあとに、竹山道雄氏の文を引用している箇所があります。
そこを引用してみることにします。

「ビルマで頭を剃った水島上等兵はこんな宗教的天才ではない。
それでもなにがしか通じる宗教心の持主だったといえよう。
竹山はそこで日本人の人生観にふれる。

  空也作といわれる長い和讃があり、
  今でもその初めと終りがうたわれるが、
  その起句は次のようである。
 
  『長夜の睡は独り覚め、五更の夢にぞ驚きて、
   静かに浮世を観ずれば、僅刹那のほどぞかし』。
   
   ・・・・・
   ふしぎな機縁によって人間に生れてきたということは、
   それをするための千載一遇のチャンスである。
   人生が夢幻のごとくであることを痛感することこそ、
   積極的な活動のもとであるという考え方は、
   さまざまなバリエーションをなしながら
   日本人の精神の一つの基調となっていたように思われる。 」
    (p419)


平川祐弘氏の本は、(註)の箇所を読んでも楽しめます。
第八章『ビルマの竪琴』の註には、こんな箇所がありました。

「昭和31年市川崑監督のモノクロの『ビルマの竪琴』は
ヴェネチア映画祭で喝采を浴び、サンジョルジョ賞を授けられた。

ちなみにこの映画は『特別に芸術的で宗教的な価値を有するフィルム』
としてヴァチカンによって認定された全世界の45の作品の中に選ばれた
唯一の日本映画である。・・・

市川は昭和60年にカラーで『ビルマの竪琴』を新しく製作した。
カラー版は国内的には興行的に大成功だったが、国際的な反響は
モノクロ版に及ばなかった。

なお文学作品としての『ビルマの竪琴』の売行きは
映画化される前からめざましかった。参考までに
『ビルマの竪琴』新潮文庫版は2008年の102刷で
240万部印刷されている。」(p204)

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正月早々だから・・・(笑)。

2022-01-27 | 道しるべ
新春対談というと、思い浮かべる対談があります。
文芸春秋1971年3月号に掲載された司馬遼太郎・桑原武夫の対談。

もっとも、私は単行本に掲載された際に読んで印象に残りました。
最後の方に、こんな箇所があったのでした。


司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
    もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
    あきらめに話をおとさずに・・・・、
    
    正月早々だから・・・(笑)。まあ、日本語は、
    いままで議論したように、基礎はできた。・・


 そして、新春対談の最後の箇所を引用することに

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
    理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
    そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
    義務じゃなでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


はい。今日は2022年1月27日。
今は、正月早々じゃないのだけれども、
現在、『いい結論』へと持っていけていますか。
とか、他人まかせがいけませんね。
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岡野弘彦・五歳。

2022-01-26 | 詩歌
産経新聞の1月4日に掲載されていた
平川祐弘と今泉宣子の対談が、
今年のこのブログの方向を指し示してくれているようで、
あらためて、思い浮かべてしまいます。

平川祐弘氏は、ある注でご自分のことをこう指摘しております。

『私は話の下書きを用意する人間で、その場の感情に流されることはない』
   (月刊Hanada令和3年12月号・p356)

そういえば、今年の4日の産経新聞での対談の写真に、
一人掛けのソファーに座る平川氏の左手には下書きの
ような用紙が握られておりました。
おそらく、あらかじめ質問事項に対する返答を吟味して
おられたその下書きなのじゃないかなあ。
ということで、新聞の対談から、あらためて引用することに。

今泉】 晩年の竹山先生と神道について語ったと伺っていますが。

平川】 当時、神道について公の場で話すのはタブーでした。
    竹山の母方は神道家の出です。
  『竹山道雄著作集』(福武書店)8巻本が、
  竹山先生の亡くなる前年の昭和58年に出て、
  私も手伝いました。これができたとき、
  竹山夫婦と私と妻の四人で京都を巡りました。
  二日間、お寺を回って、最後に行ったのが下鴨神社でした。
  私が『神社はほっとしますねえ』と言ったら、
  竹山先生も『ほっとするねえ』と応じたことが思い出されます。

  その年、佐伯彰一先生が東大を定年退職するとき
  『自分は富山の神道の家の出だ』と≪信仰告白≫した。
  彼は25年にガリオア奨学金でいち早く渡米しました。
  当時、米国入国の文書に『宗教』の記入欄があって、
  『神道と書いたら入国が許可されないのではないか』
  と考えたそうです。仏教と書くわけにもいかないので、
  思い切って神道と書いたのだと。

  その気持ちは、私によく分かります。
  当時は神道はそれほど悪者扱いされていた。  」


はい。毎年散漫な読書ですが、読書の漠然とした方向性が
この新春対談で汲みあげられたような気がします。
『それほど悪者扱いされていた』ものを取りあげてゆきましょう。
うん。そうしましょう。という大まかな方向性が指し示された
というそのような新年の対談でした。
まあ、私の事ですから、大まかな方向性ですけれども。
問題としての手応えはありますよね。

昨日、手にした古本は300円でした。
松坂弘著「岡野弘彦の歌」(雁書館・1990年)。
はい。岡野弘彦氏というのは、どのような方なのか
一から教えてもらおうと購入。するともうはじまりに
こうあるのでした。な~んだ。そうだったのか。
岡野弘彦氏を語るのに、ここがはじまりだったのでした。
という箇所を引用。

「岡野弘彦の最初の短歌的体験は、五歳の時だったという。
岡野はこのことについて『岡野弘彦 短歌に親しむ』という
本の中で、次のように述べている。

『はじめて短歌を暗唱したのは、五つの時でした。
 伊勢と大和の国ざかいに近い山深い村の神主の長男に生まれた私は、
 五つの正月から、父に代わって若水をくみに行くようになりました。
 伊勢平野をうるおす雲出(くもず)川という川の一番上流の一軒家です。
 雪の降り積んだ真夜中の道を神社の御手洗(みたらし)場にくだって
 いって、上流にむかって柏手(かしわで)をうったのち、
 父に教えられた昔からのとなえごとを三度となえます。

 今朝くむ水は 福くむ水くむ 宝くむ 命ながくの 水をくむかな

 これが短歌かと奇妙に思われる方もあるでしょう。
 内容は素朴で、形もやや破調ですが、五七五七七の形で
 思いがのべられているものを短歌だとするなら、
 これも一人前の短歌なのです。』

自覚の程度のことは別にしても、五歳という年齢での
短歌的体験は大変早熟というべきで、ちょっと驚かされる。
しかし、一般の家庭と違い、神主の家では、幼い頃から
祝詞などの律文に接する機会が多いと思われるので、
この作者の短歌的体験が五歳であるというのは、
あるいは、驚くほどのことではないのかもしれない。」(p5~6)

はい。岡野弘彦氏が最初に覚えた歌。
その書き方の3種類を並べておくことに。
私が読んだその順番で

①朝日新聞(夕刊)1998年9月17日
「語る岡野弘彦の世界」(インタビュー・構成・川村二郎)

今朝(けさ)汲む水は 福汲む水汲む宝汲む
命永くの水を汲むかな

②「岡野弘彦インタビュー集」本阿弥書店・2020年
  聞き手・小島ゆかり。

「今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水を汲むかな」
 と三遍唱えて・・・(p20)

③松坂弘著「岡野弘彦の歌」(雁書館・1990年)p6

今朝くむ水は 福くむ水くむ 宝くむ 命ながくの 水をくむかな


うん。些細な比較なのかもしれませんが、
今年のお正月に、私は水道水をコップに注ぎながら、
この歌をとなえたのでした。
となえる身となると、この句切り方が気になります。




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『何を話してもいい』という

2022-01-25 | 詩歌
月刊Hanada(令和4年)3月号が届く。
最後に掲載されている平川祐弘氏の連載をひらくと、
はい。最終回でした。

あ。これで終わりなのだと思うと、
今年で91歳になる平川氏の謦咳に接するような連載が
終わってしまうさびしさがあります。
うん。あとすこしすれば、これが単行本になるのだろうか。

さて、最終回のどこを引用しましょう。
ここなどは、どうでしょう。

「北京の日本学研究センターへは1992年、95年、98年と
三回教えたが、なつかしい。その人たちの思い出を書くと、
ヒトラー政権に次第に似て来た習近平政権だから、あるいは
迷惑が及ぶかもしれない。残念ながら略させていただく、
言論の自由の無い国はどうも寂しい。

後に日本にも孔子学院が開設され、そこへ招かれた。
『何を話してもいい』というから、次の年号を並べて
講義を始めた。歴史を巨視的に見渡すと、その先に何が見えるか。

 1789年はフランス革命の年であった。自由の旗がひるがえった。
 『自由トハ政治支配者ノ暴虐カラノ心身ノ安全保護ヲ意味スル』(ミル)

 1889年は日本に憲法が制定された年であった。
 『憲法ノ精神ハ第一ニ君権ヲ制限シ、
  第二ニ臣民ノ権利ヲ保護スルコトデアル』(伊藤博文)

 1989年は中国に民主を求める人が天安門広場を埋めた。
 モスクワの赤の広場からは独裁者の像が撤去された。

 では2089年にはどうなるであろうか。
 『政治支配者ノ暴虐』を体現した非文化的大革命を
 発動した人の肖像は、なおその壁面から人民を
 支配し続けているであろうか。

それきり孔子学院から招待はない。
私は諸方面で行動するから、中国戦線が硬直状態なら
別の方面へ転戦する。
1998年秋にアテネで開かれたハーン学会へ赴いた。」(p353)

平川祐弘の連載『一比較研究者(コンパラティスト)の自伝』。
その最終回は題して『年賀の詩で生涯をたどる』となっておりました。
そのはじまりは、
「年賀状に書いた私の詩を並べると、私の生涯はほぼ辿れる。」
とあるのでした。
うん。それでは、そこから私が気になった箇所をとりだしてみます。

「確かに悪態はつく、髪は黒い、平川は憎い、いや心憎い――
 しかし殊勝にも、良き人には優しくありたい、と願っています。
 人生の晩年に花を咲かそうと密かに・・・」(p356)

「老い先は長い、人生の旅先で何をするか。
 老年にはその楽しみがなければならぬ。
 それで・・・・
 元旦にあらためて思う、八十代にはさらに
 一花咲かせねばならぬ、と。
  ・・・・
 晩秋の一輪の薔薇の方が見事なこともある。
 その花には棘もある、自由のために悪態もつきたい、
 世界への興味はつきない。・・・」(p358)

 「若いころ私は外国詩を訳して年賀に代えたが、
  2017年の新春を、半世紀前に用いたリルケの一詩で、
  ふたたび寿いだ。

  年は去る、だがなにか車中にでもいるようだ。
  私たちは萬物の前を通過する、年はとどまる
  まるで旅の窓ガラスのかなたの景色のようだ。
  ある時は陽があたり、ある時は白く霜がおく。  」(p358~359)



はい。この連載が単行本化されたなら、
さまざま新刊書評が載るのだろうなあ。
ひと足先に読めたのを、感謝しながら、
さて、あらためて読み直せますように。
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福汲む、水汲む、宝汲む。

2022-01-24 | 先達たち
「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)
というのが検索していたらあった。読みたくなり注文。
インタビューの聞き手は小島ゆかり。それが昨日届く。
「インタビューを終えて」で、小島さんは、
『一年間にわたってお話をうかがう機会を得られ・・』(p389)
『申し訳ないほど心をひらいておつきあいくださった』(p388)
とあります。
私が読んだのは、第一回「私の生い立ち・少年編」(p5~35)。
はい。これだけで、私は満腹。
はい。満腹の腹ごなしにブログに書きこみます。
小見出し「神主の家の子どもの役目」(p20)は
こうはじまっておりました。

「小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
白木の桶に若水を汲みに行くんです。

『今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水をくむかな』

と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
上流に向かって水を汲むわけです。

うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。

残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
それを五つのときからさせられました。

ちょうどその時間、夜中の一時くらいですが、
上の神社の森のお社から、村の青年たちを手伝わせて
元日のお祭りをしている父親の祝詞(のりと)の声が
川音に交じって聞こえてくるんです。」

場所はどこかというと

「私のところは三重県の伊勢の西の端です。
ちょっと北へ行くと伊賀、ちょっと西へ行くと大和です。
三つの国のちょうど境になるわけです。
そういうところへ荒い心霊を祭って、
国境の外から来る悪霊を追っ払う守り神にしたんだと思うのです。
伊賀や大和からの参拝者も多かった。・・・」(p24)

小学校の五年生とあります。

「僕は小学校の五年のときにすでに大峰山へ修行に行かされたんです。
 ・・・・ワラジで五十何㌔、一日歩きました。
朝の三時ごろ、洞川(どろがわ)の龍泉寺という寺の冷たい泉に浸かって、
御詠歌をうたう。それが行の始まりで、それらか行場行場を勤めて行く。

でも小学校の五年生なんて、わりあいに筋力がついているし、
身は軽いですから、大人とけっこう一緒に歩けた。
『東の覗き、西の覗き』もそう怖いと思わなかった。

中学五年のときは一人で吉野へ行って、
やさしそうな、兵庫県から来た先達に
『ご指導を願います』と言って、連れていってもらって、
二遍、行をしました。・・・」(p28~29)

はい。第一話の30ページを読むだけでも、
もう私は胸も腹も一杯になるようで、もうここまでにします。

そういえば、方丈記の鴨長明が思い浮かびます。鴨長明は
『久寿2年(1155)ごろ、京都、下鴨神社の神職の家に生まれ』
ということで、本棚からとりだすのは

ちくま学芸文庫の『方丈記』(浅見和彦校訂・訳)。
その年譜を見ると、
 1155(久寿2)年 長明生まれるか。・・・
 1172(承安2)年 父長継、この頃没か。

うん。浅見和彦氏の解説から引用することに。

「長明が生い育った下鴨神社は平安京の北東辺に位置する。
賀茂川と高野川の合流地点にあり、古くから平安京の≪水≫を
司祭する由緒ある神社であった。・・・・・

長明の父は鴨長継とった。長継は若くして有能な人物であったらしく、
早いころから下鴨神社の摂社(付属社)の河合神社の禰宜(ねぎ)を、
そして下鴨神社の最高責任者である正禰宜惣官という地位に昇って
いった人であった。・・・この優秀な父親が若くして突然、他界して
しまったのである。享年33、4歳。・・・」(p241~243)

浅見和彦氏は、この文庫の解説を
方丈記のはじまりの言葉から、はじめております。
そして次にこうありました。

「古来、古典文学の冒頭文には名文が多いが、
 『方丈記』の書き出しほどの美しさは他にない。
 美しさということでいえば、随一の美しさを
 持っているといえるかもしれない。

 この世にとどまるものはない。
 川の流れに浮かぶ『うたかた(泡)』がそうであるし、
 人間も住居も、すべていつかは消え果てるものである
 というのである。いつまでもとどまり続ける
 常住のものは何一つとしてない。
 すべてのものは無常であるのだという認識は、
 日本の中世に広く深く浸透していた。・・・」(p235)

はい。ここまで。それでは浅見氏の解説のはじまりを
引用しながら終わることに。

  ゆく河のながれは絶えずして、
  しかも、もとの水にあらず。
  よどみに浮かぶうたかたは、
  かつ消え、かつむすびて、
  久しくとどまりたるためしなし。


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来い、来い来い、来い来い来い。

2022-01-23 | 詩歌
古本。太田信一郎著「東京のわらべうた」
(東京新聞出版局・昭和58年)が200円。

東京というか関東一円のわらべうたを取りあげた一冊。
はい。最後の著者紹介が楽しいので引用しておきます。

「大正14年11月横浜市戸塚区飯島町生まれ。
 昭和30年代後半から、本業の噴水工事業を経営の傍ら、
 わらべ唄の採集を始め、関東一円を妻とともに歩く。
 ・・・・」

「はじめに」は、こうはじまります。

「昭和30年代ぐらいまでの東京は、まだ戦前から引き継がれてきた
 郊外がそこここにありましたし、ちょっと足を延ばせば、
 武蔵野の欅の林を見渡し、寒風の中に早春の揚げ雲雀を聴きながら
 白雲の富士を遠望することも容易でした。
 郊外や野原には、必ず子供たちの遊ぶ姿がありましたし、
 町々の空き地や路地では、子供たちの賑やかな声が聞かれました。」

はい。そのまま「はじめに」を引用しつづけたい気持ちになります。
けれども、ここまでにして、本文からの紹介をすることに。

うん。タヌキにしましょう。

「狸にちなんで名高いのが、
 千葉県木更津は証誠寺と群馬県館林の茂林寺(もりんじ)。
 証誠寺はご存じの狸囃子、茂林寺は分福茶釜です。
 狸囃子の方は天下に知られた童謡『証城寺の狸囃子』
 (野口雨情詩・中山晋平曲)がありますが、
 茂林寺にも『分福茶釜の歌』があるのです。・・・」(p70)

ちなみに、寺の名の証誠寺は、詩には証城寺となっております。
宗派はというと、浄土真宗証誠寺と、茂林寺は禅宗で、
この本にその記述があります。著者が足を運んで調べられております。

え~と。こんな箇所はタイムリーな引用になるのかもしれません。
証城寺に関する記述に出てきます。

「ところで終戦後まもなく登場したNHKラジオの
英会話、平川唯一氏のあの『カム・カム・エブリボディー』
の曲がこれで、32年ごろから黒人歌手アーサー・キットが
歌って爆発的に売れた『お腹の空いたアライグマ』というのが
この歌。ハスキーな声でコエコエコエと歌ったのを覚えている
方もたくさんいらっしゃいましょう。
政子(住職の奥さん)夫人によると終戦当時に、
進駐軍が気に入って歌わせた日本の歌が三つあり、
一つは佐渡おけさ、
一つは炭坑節、
一つがこの証城寺だったといいます。」(p109)

この本には、野口雨情の詩と、それを曲にのるように
歌詞をかえた中山晋平の歌詞とが並べて載っております。
はい。最後は、歌詞をそのままに引用。

   証城寺の狸囃子

 証、証、証城寺
 証城寺の庭は
 ツ、ツ、月夜だ
 皆出て来い来い来い
 己等の友達ァ
   ぽんぽこぽんのぽん

 負けるな、負けるな
   和尚さんに負けるな
 来い、来い来い、来い来い来い
 皆出て、来い来い来い

 証、証、証城寺
 証城寺の萩は
 ツ、ツ、月夜に花盛り
 己等は浮かれて(己等の友達ァ)
   ぽんぽこぽんのぽん
     


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それでは勇気を出して参りましょう。

2022-01-22 | 幸田文
長谷川伸著「我が『足許提灯』の記」(時事通信社・昭和38年)の
第一話「娘観音の話」は
「近松物や源氏物語、枕草子などに就いての著書のある
 小林栄子という老女が・・・」とはじまります。

次のページに「このことは『露伴清談』(小林栄子)にある」
とあります。うれしいことに、今はネットで古本が簡単に検索できて、
しかも購入できる。以下には『露伴清談』(昭和24年)について
感想を書いてみます。

「・・何回かの先生との対談は、私が参上のたびのお咄を
 反芻して帰り、忘れない中にすぐ書きとめて置いたものです」(p20)
それぞれの書きとめた年月日も記載されておりました。
それが昭和10年から昭和17年とつづきます。

まえがきは幸田文が書いております。まえがきのその題は、
いささか長く
「この御本をお読みになる方々へ、つたないことばをもって
 おとりつぎをさせていただきます」と題してあります。

『父逝いてすでに一年有半、ひとさまの写してくださる
 父の姿にあふことは、感慨無量でございます・・・』(p4)

ちなみに、幸田文の年譜をひらきますと、
 昭和4年に女児を出産、玉と命名。
 昭和13年に、玉をつれて実家にもどる。
 昭和14年に、夕飯のとき、父から芭蕉七部集『炭俵』の講義を受け始める。

はい。小林栄子さんが露伴家へ出かけていたころは
幸田文もたいへんな時期と重なっていたようです。

この「露伴清談」にも、そのことに関連する箇所があります。
ありますが、カットして、小林さんが聞いている雰囲気を
ちょこっと紹介。

「俳諧も、芭蕉が季吟の弟子ですから、あの頃の俳人は
 源氏なども読んで居るので、それを言った句が中々あるけれども、
 後の人は源氏の類を読んで居ないから、
 分からない句が沢山あるんで御座んすね。
 蕪村あたりになると、古典の匂ひは全然なくなってしまって居る。」
 (p57~58)

こう語る露伴について、小林栄子さんは小文字にて
その様子を書きこんでおります。

  ( 『御座んす』といふお詞が実に多い。 )

 ( 叩いても容易に音の出ない方もあるが、
  露伴様は叩かなくとも、よく語って下さる。
  殆どお咄しつづけ。悪罵などはなく極めてにこやかに、
  いや味という処の少しもないお咄しぶりである。 )

うん。この古本を購入したのは、気になる箇所があったからでした。
その箇所は、小林さんがご自身で書かれている箇所なので引用します。

「近江の石山寺に今年の満月を見る。
 昼の中に源氏の間や月見堂を見、夜、又宿を出て瀬田川べりをゆく。
 大阪から来るといふ月見客の群集の中を、石の多い路を、
 足許も暗いにのぼって見ずともと思案して佇む処に、
 下りて来た品のよい娘さんがひょいと立ちどまった。
 
 『上るのも大へん、どうしませうかと思って』
 と問はず語りをすると、ご一緒しませう。
 もう一度お詣りしてもよろし『おす』は口の中で、
 つと身を反してもとへ戻る。

 『まあ、いって下さいますか、御深切に。
  それでは勇気を出して参りましょう』
 とついてゆく。

 しばらくながめて、下りるにも ふとつまづきそうになると
 『おあぶなう』と手をさしのべて、支へそうにする
 優しさ、又つつましさ。

 宿の傍で別れる間際に、家をきけば京都といふ。
 京都はどちらときけば、こればかりの事を恩がましく、
 とでも言ふように『ほ』と微笑したらしく、
 『御所のそばで御座います』といふ。

 その返事がまたたまらなくよさに、それ切りに別れた。
 昼のような月の下を、人ごみに紛れてゆく後ろ姿、
 物は何か非常につやつやした銀鼠地の、しやんとしたのに、
 墨絵で一面のすすき其の他の秋草もやうが大きく、
 赤地の糸錦ででもあるような帯を、窮屈げでなく結んで、
 中肉のおしたちのよいのが、振り返りなどしずに、
 すんなりとゆくのを飽かずながめて、
 何か此処の観音様ででもあるやうに貴く思はれた。

 『観音の化身かもしは式部かや、ともに月見し石山をとめ』
 とあとまで忘れられない。

 宿へ入るは惜しくて、瀬田川べりを逍遥して居ると、
 から船が三四艘もやつてあつて、一つのには船頭が居る。
 船で月を御覧なさい。のせてもらふと、
 『昔はこの川は大阪あたりからの月見客で賑やかいものでした。
  酒もりだの笛太鼓で』と話して、戦以来は、ただ月見堂だけで
  みんな帰り、宿もとらないといふ。その二つのお咄をしたらば、」

 このあとに露伴の言葉が二行ありました。

「その船頭は何ですが・・・・娘がおもしろいですね。
 そんなのを昔の人は、観音様にしてしまふんですね」(~p141)


はい。私は、これを読めて満足。
関連して、小林勇著「蝸牛庵訪問記」が思い浮かびました。

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コマーシャル・ベースでも。

2022-01-21 | 短文紹介
平川祐弘氏は、こう指摘されておりました。

「人文系の論文はコマーシャル・ベースでも読まれることが大切だ。
 昨今のように出来不出来を問わず修士論文が上等な紙をつかった
 大学紀要に印刷される様は健全でない。
 教師も学生も切磋琢磨が大切だ。」
        (p354・月刊Hanada2022年1月号)

はい。今は新書でもって、切磋琢磨されている、
そんな学者の読みものを手軽に読める時代なのだ。
なんだか、ありがたいなあ。
あとは読むだけなんだけど。

そうそう。1月14日に注文した古本が昨日届きました。
小林栄子編著「露伴清談」(鬼怒書房・昭和24年)。
はい。ページはわら半紙という色と手触り。
とても、上等な紙とはいえませんが、興味津々です。
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災間(災い災いの間)を生きている。

2022-01-20 | 地震
本棚から、中西進・磯田道史対談
「災害と生きる日本人」(潮新書・2019年)を取り出す。

中西進さんが語っておりました。
「私たちは『東日本大震災後』を生きているのではなく、
『災間』(災いと災いの間)を生きているのです。」(p14)

その前の対談のはじまりには、こうあります。

中西】 磯田さんはかつて茨城大学に勤めていらっしゃいましたが、
東日本大震災の翌2012年、浜松の静岡文化芸術大学に転勤しています。
勤め先を変えたのは、ひょっとして南海トラフ地震や東日本大震災と
関係していますか。

磯田】 東日本大震災が起きたあと、
『年をとってから防災に関する歴史の本を書いても、
 そのときは間に合わないのではないか』と、
はたと気づきました。

南海トラフが次に動いて巨大地震が起きたとき、
想定される死者数が一番多いとされるのが浜松です。
そこで家族揃って浜松に移住し、古文書を探して4年間、
現地を歩き回りました。(p12~13)


はい。このようにしてはじまる新書なのでした。
イケナイイケナイ。すっかり忘れておりました。
忘れても、すぐ手に取れるように身近な本棚へ。

ちなみに、磯田氏は
「4年間の浜松での学究生活を終え、
 僕は2016年に京都に引っ越してきました。」(p25)

ついでに、こんな箇所も引用しておきます。

磯田】 中西先生や私だけでなく、
日文研(国際日本文化研究センター)という梁山泊のような
場所で学問に打ちこむ研究者の生態は、一般にはなかなかうまく
理解されにくいかもしれません。

知的な営みは、遊びに似ています。
働きながら遊び、遊びながら働く。
こうして僕たち研究者は、
一冊の新しい本を紡ぎ上げるのです。(p136)

はい。引用はここまでにして、
何やら、地震と遊びとが切実に広がりをもって迫ってくる。
それだけでは、終わらせない対談の面白さを堪能できます。
検索すると、新しい本でも、古本でも買えるようです。
何よりも、たのしく分かりやすく読める対談新書です。

コメント (2)
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汲(く)みあげるのだ。

2022-01-18 | 本棚並べ
そういえば、鎌田浩毅に池波正太郎の短文を引用した箇所があった。
そう思って、『ラクして成果が上がる理系的仕事術』(PHP新書)をひらく。

その第2章「仕事環境の整備術」の3に「『遊び』を確保する」があり、
そのなかで、池波氏の言葉が引用されておりました。
このなかで、鎌田氏は『バッファー法』なる言葉を登場させております。

「バッファー(buffer)とは『衝撃や苦痛を和らげるもの』という意味で、
鉄道業界など、車両の衝突のさいに衝撃を減らすための緩衝装置を指して
使われてきた用語である。・・・・

資料や機器が自由に移動可能であるようなシステムを、
最初からつくってしまう。ここでは自由に移動できることが、
もっとも重要なキー概念となる。たとえば、
ギュウギュウに詰め込まれた箱の中では、モノは移動できない。」(p66)

この数ページ先に、池波氏の文を紹介しているのですが、
そのすこし前から、引用してみます。

「私の場合、原稿を書くさいには、締め切りよりもずっと早めに
書きあげるようにしている。余った時間にゆっくりと熟成させて、
内容をよくしてゆくのである。・・・・・

このようにすると、締め切りを気にしながら書くときにはとうてい
出てこなかったような、斬新な発想が生まれてくるものなのだ。

時代小説家の池波正太郎は、引き受けた連載は、
締め切り日の半月前に原稿を完成していたそうだ。
彼はこう打ち明ける。

 どの仕事にも余裕(ゆとり)をもって取りかからねばならない。
 余裕とは『時間』である。・・・・・・・・・
 小説の場合、締切りの半月前に出来上がることもめずらしくない。
 しかし、すぐには渡さない。折にふれて机の上に出して見て、
 推敲し、手を入れる。
    ( 池波正太郎「男のリズム」角川文庫p189~196 )

このシステムは作家だけでなく、すべての知的生産に
携(たずさ)わる人に有効であると思う。
バッファー時間には、自分の無意識とじっくり語りあう
ことができる。そうして自分の奥底に潜んでいる何かを
汲みあげるのだ。・・・・・」(p72~74)


BSフジの、池波正太郎の『鬼平犯科帳』を、
録画して、それを嬉々として見たのでした。
亡くなった方々が、時代劇で活躍されてる。
コメント (4)
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正当にこわがることの難しさ。

2022-01-17 | 産経新聞
1月17日。はい。今日の産経新聞。
社会面に阪神大震災27年とあります。
「6434人が犠牲となった阪神大震災は、17日で発生から
27年となる。発生時刻の午前5時46分には兵庫県内の各地で
犠牲者を悼み、鎮魂の祈りがささげられる。・・・・」。

一面は「空気振動 海面に波発生か トンガ沖噴火」と
「潮位上昇22万人避難指示 奄美・岩手で1㍍超」の見出し。

一面の産経抄は、その関連のコラムとなっておりました。
うん。コラムの真ん中を引用。

「約8千㌔離れた南太平洋のトンガ沖で日本時間15日午後1時ごろ
海底火山の大噴火があり、いったんは影響は少ないと思われた。

(産経)抄子も一杯やって寝込んでしまった。が、
16日未明に鹿児島県の奄美群島・トカラ列島や岩手県に
津波警報、太平洋沿岸などに津波注意報が出る事態に。

交通機関の欠航、運転見合わせが相次ぎ、
大学入学共通テストが一部試験会場で中止・再試験となった。
船の転覆や流出も起きた。」


産経抄のコラムは、そのはじまりと最後が、
寺田寅彦の文の引用となっております。
そのコラムの最後を引用してみます。

「寺田寅彦のよく知られた警句に『正しく恐れる』ことがある。
 浅間山の小噴火を題材にした『小爆発二件』で

 『ものをこわがらな過ぎたり、こわがりすぎたりするのは  
  やさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

 と記している。・・・・」


はい。今日の産経新聞からでした。
あとは思い浮かんでくるアレコレ。

今日の産経抄は、文庫を引用したとあります。
講談社学術文庫「天災と国防」(2011年6月9日発行)でした。
東日本大震災のあとに、寺田寅彦の文庫が3冊でておりました。
ほかの2冊は
角川ソフィア文庫「天災と日本人 寺田寅彦随筆選」
(平成23(2011)年7月25日発行)
中公文庫「津浪と人間 寺田寅彦随筆選集」(2011年7月25日)

ちなみに、講談社学術文庫の解説は畑村洋太郎。
角川ソフィア文庫の「はじめに」と解説は山折哲雄。
中公文庫が千葉俊二・細川光洋編で、解説は千葉俊二。

産経抄で引用されていたのは、そのなかの講談社学術文庫でした。
その畑村洋太郎解説に印象に残る寺田寅彦からの引用があります。

『悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが
 自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に
 充分の用意をしておかなければならないということは、
 実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど
 万人がきれいに忘れがちなこともまれである』(p176~177)


はい。『悪い年回り』といえば、厄除けを思い浮かべ、
それは、神社へと連想がひろがります。

もう一度、産経抄の今日のコラムへともどり、
そのはじまりから引用をしてみます。

「各国の神話などを読んで気づくのは
『その国々の気候風土の特徴が濃厚に
 印銘されており浸潤していること』だという。
 物理学者で随筆家、寺田寅彦が『神話と地球物理学』
(講談社学術文庫「天災と国防」収録)で書いている。

 島が生まれる記述は海底火山の噴出など、
 須佐之男命(すさのおのみこと)に関しても
 火山を連想される記述が多いと。

 古(いにしえ)より自然災害に見舞われ
 克服してきた日本だが、遠い海の天変地異が
 ひとごとではないことを改めて思い知らされた。」


はい。これがコラムのはじまり、
ここから、わたしが思い浮かべるのは
平川祐弘・牧野陽子著「神道とは何か」(錦正社)でした。
この本は、お二人の講演が載っております。
まずは、平川祐弘氏の文から、ここを引用

「神道では天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神や
 祖先への崇拝はより広い自然の神秘や脅威への崇拝の一部ですが、
 畏怖、畏敬の念を呼び起こすものはなにであれ『カミ』と呼ばれました。
 山岳にせよ、滝にせよ、火山にせよ、老木にせよ、只ならぬ人にせよ、
 崇拝の対象となり神となりました。・・・・」(p24~25)

つぎは、牧野陽子さんの文から
引用ばかりになりますが、この箇所を引用して
おしまいにします。ラフカディオ・ハーンを語っております。

「・・神社を真正面から扱った作品としては、・・・
≪生神様≫が挙げられます。これはハーン来日後の第四作
『仏の畑の落ち穂』の巻頭を飾る重要な作品です。・・

その冒頭に『神道とはいかなる信仰なのか』を問う
作品がおかれていることになります。
『生神様』は長さ22~23頁ほどの作品で三部構成になっていて、
その内容を簡単に説明すると、
 第一部で神社建築について語り、
 第二部でそのような神社を中心とした村の社会を論じ、そして
 第三部で津波にまつわる濱口五兵衛という人の話を紹介しています。

 濱口の話は実話がもとになっており・・・・・・
 ≪稲村の火≫という題で、子供向けに構成された翻訳が
 戦前の国定国語教科書に教材として長く掲載され、また
 海外でも子供向けの絵本として長く読まれています。
 津波の描写には迫力があり、物語としての魅力だけでなく
 防災の教材という意味でも優れているからだと思います。

 それに引き替え、≪生神様≫の前半部分は、
 あまり取り上げられることがなく、選集や大学のテキストなどに
 収録されるのは津波の話の部分だけなのです。
 前半がカットされてしまうのは、日本の神の観念についての
 記述が少し取っ付きにくく、第三部の強烈な物語との関係が
 よくわからないからでしょう。

 しかし、『仏の畑の落ち穂』という作品集の冒頭作品の、
 さらにその冒頭の部分なので、著者にとって大事な文章で
 ないはずはない。神社の姿を真正面からとらえたその記述は、
 実によく練られた緻密な描写で、そこにハーンが理解した
 日本の宗教的感性を読み取ることができるのです。・・・」
  (p96~97)

はい。私の連想の補助線は、ここまで。


追記。
そうだ、そういえば、思い出しました。
曽野綾子さんが産経新聞に連載コラムをもっていた時
(曽野さんは、産経にいろいろなコラムをもっていた)。
産経の他の人のコラムをとりあげたり、産経抄のコラムの
ここがよかった。などと書いていて、同じ新聞内で
響き合っているようで楽しかったのを思い出します。

コメント
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