和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

布良鼻灯台。

2009-01-31 | 安房
朝日新聞の古新聞をもらってきました。
産経と違って全国紙なので、各県を取り上げるページが時々、興味をそそられます。
ここは、千葉県。1月28日の「第2千葉」ページに灯台の写真がありました。
見出しは「県内の灯台、初撤去へ 館山の2基今年度中にGPSなど普及で」。
「東京湾の玄関口で船舶の航行安全を見守ってきた、館山市の灯台2基が今月で点灯を停止し、今年度中に撤去される。全地球測位システム(GPS)やレーダーなどの普及で目視に頼る度合いが減ったためだ。県内の灯台が姿を消すのは初めて。・・」(福島五夫)と署名記事。
では、記事を追って読んでみましょう。
「廃止されるのは布良鼻、館山港沖ノ島の両灯台。いずれも千葉海上保安部が管理している。布良鼻灯台は1955年12月に開設された。布良海岸から約50キロ沖合の大島に向かって布良瀬と呼ばれる浅瀬が長く張り出しており、同灯台の開設以前は、座礁などの事故が絶えなかった。潮の満ち引きなどにより生じる渦に小さな漁船が巻き込まれることも多く、『鬼が瀬』と恐れられた海域で、夜間は、同灯台だけが難を避けるよりどころだった、という。館山港沖ノ島灯台は市街地に近く、観光や散歩コースとしても親しまれている。・・・」

そういえば、朝日の1月10日には、福島五夫の署名記事で
「岡崎ひでたか著『鬼が瀬物語』 構想20年4部作完結」という記事があったのでした。
その記事も引用しましょう。
「房総半島の南端から沖に大きく張り出した浅瀬は、北上する黒潮の流れを遮り、凪(なぎ)でも波立つ荒瀬。時化(しけ)ともなれば荒れ狂い、漁船の遭難が後を絶たない。安房郡富崎村布良(現在は館山市)の漁師たちは、この浅瀬を『鬼が瀬』と呼んで恐れている。岡崎さんは、この『鬼が瀬』を縦軸、マグロ漁を横軸にして、明治の初めから大正にかけて、布良の浜で生きた1人の船大工を大河ドラマ風に描いた。・・・」

「マグロはえ縄漁の発祥地として知られる南房総の一漁村を舞台にして歴史小説『鬼が瀬物語』4部作(くもん出版)・・著者は児童文学者の岡崎ひでたかさん(79)=東京都練馬区在住。・・・」

この物語の最初の本をもっておりました。
「鬼が瀬物語 魔の海に炎たつ」と題して、第51回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書(中学校の部)という帯がついております。初版が2004年。
そのあとがきに鬼が瀬の説明がありました。

「黒潮が房総半島の南にきたところで、海中に隠れて土手のように立ち塞がった暗礁にぶつかります。それが『鬼が瀬』です。『瀬』とは海や川の浅いところです。
『鬼が瀬』は、地図では『布良瀬』と書かれ、一ノ瀬・二ノ瀬・三ノ瀬と分かれています。一ノ瀬が最大で、陸地から南西へ約14キロつづきます。三瀬あわせた幅は約800mで、陸から600m沖へ出ても深さがほんの1m20cmという浅瀬もあります。
黒潮は、鬼が瀬の上で流れを速めたり、流れの向きを複雑に変えたりして、白波をおどらせています。ここは船の難所で、まさに『魔の海』でした。むかしから岩手、福島など北の地方から船で江戸に産物を送るとき、危険な房総沖をとおらず、銚子から川船に荷を積み替えて、利根川を遡るのが普通であったほどです。
しかし、この魔の海は浅瀬ですから、潮の動きがはげしく日光がよくとどき、海中植物が繁り、魚介類にも条件がよく、海産物の宝庫でもありました。・・・」(p245)
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朗々と披露。

2009-01-30 | Weblog
昨日(1月29日)テレビを見ておりました。
衆院本会議で、麻生太郎首相の施政方針演説に対する各党の代表質問。
最初は、相変わらず、こんなものかと思いながら、
民主党の鳩山由紀夫幹事長の質問を聞いておりました。
ちなみに産経新聞は
「質問よりも民主党が掲げる政策のアピールに多くの時間を費やした」
とありました。うん、そんな誰しもどこかで聞いているような
鳩山由紀夫の質問でした。
ところが、次に登場した自民党の細田博之幹事長の檀上での喋りがよかった。
言葉が生き生きと、流れるように、しかも畳掛けるように、続くのでした。
産経新聞は、どう書いていたか
「アドリブで平成21年度予算の【素晴らしさ】を朗々と披露。」とあります。
テレビを見ていながら、ちょとゾクゾクして細田幹事長の演説を聞いておりました。細田氏の演説を聞けるなら、毎回録画して聞きたいと思うほどでした。
鳩山由紀夫氏もいけなかったのですが、細田氏のあとに喋った田中真紀子氏がこれまたよくないなあ。テレビを消したくなったのでした。
ところが、今日になってフジテレビ午前8時の「とくダネ!」では、その真紀子節を前面にテレビ番組表にうたっているじゃありませんか。
野球やサッカーの実況中継を見ているものにとって、次の日のニュース番組が勘違いの場面をクローズアップさせているのに唖然とするような、首筋に寒い違和感の風を感じました。

まあ、私には細田博之幹事長がよかったわけです。
それをご報告しておきます。
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青木君は。

2009-01-29 | Weblog
松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」(NHKブックス)は、
まず、房州布良への写生旅行からはじまっておりました。
そこに、一緒に出かけた坂本繁二郎の語りを紹介しておりました。
興味深いので、その箇所だけ引用しておきます。

 『海の幸』の描かれた背景や事情を知っている坂本は、その作品を認めることができなかった。そして「『海の幸』は画としていかに興味をそそるものであっても、あれは真実ではない。大漁陸揚げのありさまは、私も二カ月くらいいてただの一度しかみていない。青木君はまったく見ていないはずだ。青木君があれを直接見ていたら、画はもっと変っていたにちがいない。惜しいことでもある」と批判した。・・・またこうも言っている。「ある日、漁師たちが浜に船を着けて獲物を引揚げました。大漁でしたね、そりゃあもうおびたたしいほどの魚を引揚げて処分するんです。生きているフカやサメなんかをナタをふるって殺すんです。そりゃもうすさまじい光景でしたね。あたりは一面、血の海です、修羅場でしたね。その獲物を漁師たちや家族が、ひっかついで帰るんです・・・・」「それでそのことを宿に帰って青木君に話したんです。見たとおりのことを正直に話しました。青木君は黙って聞いていましたが、そのあと一週間ばかりで、さらさらっとあの絵を描きました・・・」・・(岩田礼著「坂本繁二郎」)と。私(;松永伍一)もこれと似たような語り口で、この話を坂本から直にきいたことがあった。


以上は、p21~22にあります。さて、
そういえば、とあらためて思うのですが、「海の幸」は男たちの裸姿が描かれております。同時代の日本の西洋画には、めずらしいのじゃないでしょうか。同年(1904年)の卒業制作の自画像を描き終わって、青木繁は布良へ来ておりました。そこは素っ裸の漁師が、普段の姿として風景に収まっているよな世界だった。そのように考えたら、青木繁の絵ごころにどのような作用を及ぼしたのかが、すこしは想像できそうな気がします。

「木村伊兵衛写真集昭和時代第一巻(大正14年~昭和20年)」(筑摩書房)に一枚の写真(p125)があります。全長28メートルはゆうにあろうかと思える木造船を砂浜に陸揚げしている写真でした。丸裸の男たちが手前では3人がロープを全身を傾け右足を砂地に踏ん張って引っ張っり上げております。中央では、船の底に丸太を押し当ててテコの要領よろしくやはり、3人が船首の向きを変えようと、二人は丸太を肩にあて、最後のひとりが両腕を斜め前に持ち上げて踏ん張っています。いまにも船首が動きだしそうな気配を感じるのでした。その船首を直接両手で押している頑強な姿もあります。右足をふんばり、体全体を傾けて右足から右手にかけて突っかい棒のように斜めに押し当て、左足はくの字に曲げて、船全体を台座へと誘い込む格好です。白黒写真なのですが、画面の左から日が差しており(朝日でしょうか夕日でしょうか)裸の体の筋力の躍動とともに、陽の明暗でくっきりと男たちの姿を浮き立たせております。

そう。まるでギリシャ彫刻でも連想しそうな、直截な力動感があります。
西洋画を学び卒業したばかりの青木繁が、西洋画のデッサン力で、漁師の力動感を吸い込むようにして構図に収めようとしている姿。その姿が、そのままに「海の幸」の筆致には残されております。その筆致がまた、構図に抑え込むようにして定着させようとした躍動感としてなま生しく残されているわけです。画中の一人の人物がこちらを向いて観客にメッセージを送っているように、まるで、筆致の荒々しさが漁師町の漁場のかもす雰囲気を直接に伝えでもしているような、テーマと筆致との幸福な一期の出会いが、ここにはあったように思えてくるのでした。
「海の幸」全体には、漁を終えた達成感ともいえる雰囲気が、陽を受けながら漂っております。サメでしょうか、それを背負ってあゆむ姿に、西洋画を何とか抑え込もうとしている若い力が、それぞれデッサンのような人物像に、布良の漁師に見た躍動感を、短期間に封じ込めようとした、その格闘の後のような雰囲気が見てとれます。西洋画で培ったデッサン力が、描く対象を得た時の、喜びに似た躍動感。それを短期間に封印した一枚として価値があるのでしょうか。
う~ん。こんなことは、何とも言えるのでした。
 ただひとつ、まことに残念なことは、私がその実物の絵を見ていないことなのでした。


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近所田舎。

2009-01-28 | 安房
川本三郎著「火の見櫓の上の海 東京から房総へ」(NTT出版)の「あとがき」にこんな箇所がありました。

「房総半島は語られることの少ない土地だ。・・・存在感が薄い。温泉がないために観光地としてぱっとしない。高い山もないし、観光名所も少ない。春の花と夏の海くらいしか売りものがない。・・内田百は旅行随筆『房総鼻眼鏡』(昭和29年)のなかで千葉を旅したが、さっぱり面白くなかったと書いている。・・・
『近所田舎』という言葉がある。辞書には載っていないが、東京の人間が房総のことをよくそういった。『すぐ近所の田舎』といった意味である。海があり、畑があり、水田があり、山がある。夏、東京からやって来た人間は、海辺の小さな町で、しばし『田舎暮し』の楽しさを味わうことが出来る。この本は、そういう東京人の房総への旅を主題にしている。『近所田舎』としての房総である。」


この本にも、青木繁への言及があります。
「『海の幸』を描き上げたという。この絵のなかの漁師たちは、全裸である。それがここでは普通だった。房総の裸の漁師といえば、木村伊兵衛の写真集『昭和時代』第一巻(昭和59年、筑摩書房)には、裸のたくましい漁師たちが浜辺で船を出そうとしている姿を撮った写真がある。昭和10年代の房総である。それを見て解説の色川大吉は、『たとえば少年のころ、毎夏、私は銚子や九十九里浜に泊りがけで行った。銚子では漁師たちが市内でもふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。彼らはチンポの先だけを細かい稲藁で、つつましくお飾りのようにしばっているだけで、他は文字通り一糸もまとわない全裸であった』と書いている。房総の海に来たものは、誰もが、漁師たちの自然のままのおおらかな姿に圧倒されてしまうようだ。青木繁の布良滞在は約二カ月にも及んだ。『海の幸』と並ぶ、もうひとつの代表作『わだつみのいろこの宮』の構想もここで得た。海のなかの様子を知るために、『避水眼鏡(あまめがね)』で海底にそよぐ藻類や魚を観察したという。房総の海がよほど気に入ったのだろう、次の年の五月には、恋人の福田たねと内房の保田(ほた)を訪れている。青木繁の絵には、房総の海が大きな役割を果たしたことになる。」(p200)

この本も、ちょいと、古本屋でも手に入りにくくなりました。
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書簡「海の幸」。

2009-01-27 | 安房
青木繁の絵画「海の幸」は、房総の布良に滞在し、描いた作品として知られています。
明治37年(1904)のことでした。7月に西洋画科選科を卒業し、友人ら四人で、房州布良海岸へ出かけ二ヶ月ほど過ごします。そして、その年の9月、白馬会第九回展に「海の幸」を出品、話題をさらうのでした。

ところで、話はかわりますが、ネットで古本を簡単に注文できるのが、私などは、たいへんに有難く思っております。この青木繁についてでも、いながらにして数冊の読んでみたい本が送られてくるのでした。たとえば、

  青木繁著「假象の創造」中央公論美術出版
  松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」NHKブックス
  雑誌「太陽 ’74・10月号」(画家青木繁)
  「画家の末裔」講談社文庫
  「木村伊兵衛写真集 昭和時代 第一巻」筑摩書房

というのが、容易に手元で見ることができました。
これは、地方にいるものにとって、有難いことなのでした。
ということで、ここでは青木繁著「假象の創造」をとりあげてみます。
門外漢は、こういう本があることすら知りませんでした。
この本の最後の解説を河北倫明氏が書いております。
そのはじまりを引用することで、様子がわかると思えます。

「この本は、明治時代の画家青木繁の文章、書簡を集めたもので、今日伝えられているもののほとんどすべてを網羅している。年譜からみてもわかるように、作者の生涯は何といっても短く、とくにその活動期間は十年に満たぬものであった上、生前認められたといっても、当時のジャーナリズムはとても今日ほどでなかったから、文章などを残す機会もすくなかった。・・・俳人河東碧梧桐が『彼は単に画に於ける天才であったのみならず、文章に於ても亦よく創造的気分を発揮した。彼は歌を作れば歌人となり、文章を書けば文人となり、楽器を手にすれば又たよく楽人となり得たであらう。彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった。』とのべた・・・」(p162)

さて、それでは明治37年8月22日に、房州富崎村字布良より青木繁が出した手紙を、ここに引用してみます。青木繁といえば美術の教科書ですでによく御存知の「海の幸」をすぐにでも思い浮かべるのでしょうが、河東碧梧桐のいうところの「彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった」という詩人を、この手紙から感じて頂きたい。と思ったわけです。


「其後ハ御無沙汰失礼候、モー此所に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか?僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある『女良』だ、すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、漁場として有名な荒っぽい所だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、西の方の浜伝ひの隣りに相の浜という所がある、詩的な名でないか、其次ハ平沙浦(ヘイザウラ)其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でここは相州の三浦半島と遙かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、」

この手紙には絵も描かれていて、それを示しながら手紙は続きます。

「上図はアイドという所で直ぐ近所だ、好い所で僕等の海水浴場だよ、
上図が平沙浦、先に見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる、
雲ポッツリ、
又ポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、
又ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!
はやりたる潮!
童謡
『ひまにや来て見よ、
 平沙の浦わァー、
 西は洲の崎、
 東は布良アよ、
 沖を流るる
 黒瀬川ァー
 サアサ、
 ドンブラコッコ、
 スッコッコ、
       !!!』

これが波のどかな平沙浦だよ、浜地には瓜、西瓜杯がよく出来るよ、
蛤も水の中から採れるよ、
晴れると大島利島シキネ島等が列をそれえて沖を十里にかすんで見える、
其波間を漁船が見えかくれする、面白いこと、
夫れから東が根本、白浜、野島だ、
僅かに三里の間だ、野島崎には燈台がある、
沖では
クヂラ、
ヒラウヲ、
カジキ「ハイホのこと」
マグロ、フカ、
キワダ、サメ、
がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、
恐しい様な荒っぽい事だ、

 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・


・・・今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。               」

解説の河北氏が、この書簡についても、書かれておりました。
そこも引用しておきましょう。

「青木といえばすぐ紹介される名高い書簡で、房州布良における意気軒昂たる彼の生活ぶりが弾むように表われている。この年の七月四日に美術学校を卒業した青木は、同月中旬になると、・・・四人で長期の写生旅行に出た。この夏の布良滞在が青木の生涯の頂点といってもよく、・・・・文中『今は少々製作中だ。大きい。モデルを沢山つかって居る。』とあるのが『海の幸』である。彼の高潮時代の雰囲気をつたえている点で、もっとも貴重な書簡だろう。」(p171)

青木繁の絵の実物を見たこともないのですが、
とりあえずは、ここで青木繁を読むのでした。

ちなみに、青木繁は明治15年(1882)久留米市に生まれる。
そして、明治44年(1911)3月25日病院で逝去。数えで30歳でした。
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大本営と餃子。

2009-01-26 | Weblog
1月25日の新聞一面に「中国製ギョーザ」とあります。
産経新聞を引用してみましょう。
「昨年1月に発覚した中国製冷凍ギョーザによる中毒事件後、製造元の国有企業『天洋食品』(河北省石家荘市)が売れ残った大量のギョーザを、地元政府の斡旋で同省内の鉄鋼工場に横流しし、新たな中毒事件を引き起こしていたことが24日までに分かった。『中国国内での毒物混入はない』と断定した中国当局の発表を信用したためで、同省関係者もギョーザを食べた従業員も危険性について認識していなかったようだ。」(北京=矢板明夫)
一面の記事の最後には、こうありました。
「鉄鋼工場で起きた新たな中毒事件について、中国当局は昨年夏ごろにはすでに把握し、外交ルートを通じて日本に伝えた。しかし、中国国内では、その事実は伏せられ、まったく報道されておらず、工場周辺では、いまだに『日本人犯人説』が独り歩きしているのが現状だ。」

あれ、これはどこかで聞いた覚えがあるなあ。
と思ったのでした。たとえば、鼎談での鶴見俊輔氏の言葉を思い浮かべました。

太平洋戦争の時代のことです。
「・・ドイツ語の通訳。ドイツと日本はつながってますからね。・・・潜水艦基地がジャカルタにあって、そこへ海軍武官府といって、海軍の小さいステーションがあったんです。陸軍基地の中の海軍のステーションですね。・・そこで勤務したんです。そしたら、海軍は作戦の必要があって、ステーションの長が、『敵の読むのと同じ新聞を作ってくれ』といったんです。そうでないと困るんですね。『大本営発表』でやったら、撃沈したっていわれる船が向こうから出てくるんだから。それで私は、毎日、新聞を作ったんです。夜中を過ぎると短波(ラジオ)で、ロンドンとアメリカ、インド、中国、オーストラリアの放送を聞いて、メモを取るんです。重複するところを除いて、朝、一日の新聞を書くんです。・・・私の両側にタイピストがつくんです。それで、すぐにタイプにして、昼までにその日の新聞ができるんです。毎日新聞を作った。・・一生で、あんなに働いたことはない。私の作った新聞だけで、こんなにあるでしょう。昼飯に降りてくると、手がブルブル震えたね。・・・」

これは「同時代に生きる」(岩波書店)の鼎談。
p51にあります。ここから、話は母親のことに言及したりと面白くなるのですが、それはそれとして、ここにあの『大本営発表』が登場している。
『大本営発表』と『中国当局の発表』。
二つの共通点と相違点というのは、興味深いテーマ。

ところで、こういうのは、建前と本音ということで、
いつでも、どこにでもあることなのだとしたらならば。
それじゃ、政府の建前を翻訳するのに、天下りの方を必要としたりするかもしれない。
そうすると、天下りを廃止すると、政府発表を真に受けるという、誤解が生じるかもしれない、そのロスを計算に入れての天下り廃止じゃないと、おかしなことになるんじゃないか。などと変に心配になったりします。

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柳悦多と地震。

2009-01-25 | 地震
鶴見俊輔著「柳宗悦」(平凡社選書。「続鶴見俊輔集4」筑摩書房。)に、
「柳宗悦にとって事実上の長兄にあたる柳悦多(よしさわ)(1882~1923)」への記述があります。
「柳悦多は嘉納塾にあずけられていたこともあり、講道館で柔道を修行し、すじがいいことを認められていた。遠洋漁業という仕事の都合上千葉県館山に住んでいたので、遠洋航海のあいまに安房中学の柔道を指導していた。1923年(大正12年)9月1日は、この中学の柔道の発会式にあたっており、師範の悦多は、地震の起こった時、講演をしている最中だった。彼は生徒が全員無事に外に出るように指導した後で、自分が出ようとした時に壁がおち、その下じきになって死んだ。」(平凡社選書・p38)

という記述があります。
ところで、「創立八十年史」(千葉県立安房高等学校)に
その様子が記録されておりました。
「9月1日、第二学期の始業式も終り、大半の生徒は帰宅後であった午前11時58分、この地方一帯は激しい地震に襲われ・・・・・明治以来20星霜、本校舎を中心にして南北両校舎、講堂、生徒控所、図書館、柔道場、銃器室、門衛、寄宿舎など・・・本校校舎は、校長室の一棟(12坪)、理科教室を含む南校舎一部半壊を残して、一瞬の中に倒壊したのであった。不幸中の幸いというか、大半の生徒は下校していたが、たまたま当日同刻、記念図書館二階広間では、数十名の生徒に対し、柳悦多氏の野球に関する講話が行われていた。かねて野球部強化を計画していた苅込豊氏、川又務氏、鈴木浩氏などの先輩の依頼によるものであった。柳氏はすばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へ投げ出され、柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。氏は遠洋漁業に従事し、その基地として館山に在住の傍ら、大正4年から3年間、本校の柔道教師をもつとめ、柔道部の興隆にも尽くし野球部の強化にも援助を惜しまなかったのである。・・」(p196~197)

この「八十年史」の記念誌編集委員長には、柳悦清氏の名前があります。悦清(よしきよ)氏は悦多の子息で、安房高の国語の先生だったそうです。

ここでは、鶴見俊輔氏の文よりも、記述から見て「八十年史」のほうが正確だろうと、思えますが、いかがでしょう。
そうして見ると、地震について、ちょっと気になる箇所があります。

「すばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へと投げ出され、柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。」

この箇所が、私に気になるのでした。
地震の最初の震動で生徒を避難させてから、二人は「二階の窓わくに馬乗りにまたがって」いたというのです。なぜか?

その疑問を解くカギがありました。
まずは、君塚文雄著「館山を中心とする地震災害について」(「房総災害史」千葉県郷土誌研究連絡協議会編)によると、
「明治時代に入ると、房総半島南部には大被害をもたらした大地震はあまり見られない。・・・・大正時代には、房総南部では11年(1922)4月26日の地震がやや大きいものであった。震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りでこの地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。」(p174)

君塚氏の文によれば、明治から大正にかけて地震らしい被害は、館山ではなかったけれども、大震災の一年前にM6・9の地震を経験していたのでした。

「八十年史」には関東大震災当時の、寺内頴校長の文が載っております。
そのはじめに、こうあるのでした。
「大正12年9月1日、正午に近き頃、激震俄(にわか)に起る。予当時校長室にありて、校舎増築の監督と会談中なりき。大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らずとせり。然れども、動揺激甚にして校舎も倒れんばかりなりしより、出づるに如かずと監督を促し、予は廊下より西玄関に出て、その前にありし高野槇につかまる。地の動揺更に激甚を加へ、振り離されんばかりなり。・・・」
先に校舎被害には、校長室の一棟は無事であったとあります。ですが、図書館2階は倒壊しております。
この寺内校長の文にある「大正11年の激震により推して敢えて驚くの足らずとせり」という気持ちを、当事者のどなたもが、共有したおられたのではないか。
柳悦多氏や川又務氏も、おそらくそうした気持ちが働いていたのではないか、と思ってみるのです。そうすると、生死の分かれ目としての「2階の窓わくに馬乗りにまたがって」という記述が鮮やかに思い浮かんでくるのでした。
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毀誉褒貶。

2009-01-24 | Weblog
新聞も時に、いろいろ噛み合わさって、読み甲斐がある紙面が出来上がっている一日があるものです。たまたま産経新聞の1月22日がそうでした。一面「『危機と脅威』待ったなし」という古森義久氏の文。
そして、永年コラム「産経抄」を書いてきた石井英夫氏の「退社の辞」という4ページの全面をつかって写真入りの退社講演の文。
オバマ大統領就任演説詳報が6ページの全面。
「正論」は岡崎久彦氏の文。
26ページには「第25回土光杯全日本学生弁論大会」の主張要旨が全面で紹介されておりました。そこには日下公人氏の「審査委員長講評」も載っているので、つい、それを引用してみましょう。
「・・内容については、身近なところから述べられた大変感動的な発表があった。その身近な経験をもう一段階抽象化して普遍的なところにもっていく話が足りなかった。逆に日本国家の根幹をつくれ、という高尚な議論には具体例が少なかった。米国の言語学でいう『抽象の階段』では、言葉は具体的なものから抽象的なものへピラミッドの階段のように上がっていく。この階段を自由に上がり下りできる人が『考える人』であり『言える人』。日本は同年齢の人を集めて教育しているせいもあり、年上の人と年下の人、上下の概念をつなぐ力が衰えている。こういうイベントを通じて、その点に目覚めてほしい。」

ところで、ここで私が引用したかったのは、岡崎久彦氏の「正論」の文なのでした。
その後半だけでも引用しておきたかった。

「麻生総理は最近とかく批判の対象となっているが、そんな世上の評は浮草の如(ごと)きものである。私が感心しているのは2点である。1つは3年後の消費税増額を決して譲らないことである。これは日本の財政経済について確固たる見識があって初めてできることである。
かつて消費税導入で内閣支持が急落し、秘書の自殺もあって引退直前という時期に訪タイした竹下総理が、消費税だけは後世に残せる業績だと思うと淡々と私に語られた。その国を思う見識に深い感銘を受けたことを思い出す。
もう1つは、麻生総理が『集団的自衛権の解釈は変えるべきだと、ずっと同じことを言ってきた』と平然と発言されたことである。・・・・要は国益であり、世上の毀誉褒貶(きよほうへん)などは塵芥(じんかい)の如きものと考えるべきである。」

世上は麻生総理への批判で充満しております。
片方の意見だけしか聞けないマスコミというのは、一体何の役割があるというのでしょう。戦時中もそうでしょうが、一方的な意見ばかり聞かされる方としては、たまったものではありません。そういう意味で岡崎氏の「麻生総理のブレない『見識』」を貴重なご意見として拝読しました。

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房総と地震。

2009-01-23 | 地震
関東大震災は大正12年(1923年)でした。
ということで、平成15年(2003年)が、震災80年。
その翌年の平成16年10月には、新潟中越地震が発生しておりました。

武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院)は、地震という体験をつたえる具体的な工夫に富んだ一冊です。そこに地震のあらましを、まず第一章で、こう書きはじめておりました。

「大正12年9月1日、関東地震が発生した。今日までの研究によれば、震源位置は、小田原市の北約10キロの松田付近の直下にあり、そこから午前11時58分32秒に震源の断層すべりが始まった。すべりは相模湾から千葉県の房総半島南部にかけて長さ約130キロ、幅約70キロにも及ぶ区域で、四、五十秒間をかけて、進行したものと推定される。地震の規模を示すマグニチュードはM7・9(8・1±0・2という評価もある)といわれている。・・・」

ところで、今は2009年ですから、関東大震災当時、4~5歳以上の方は、もう90歳を超えておられる(0~3歳ぐらいで震災を経験されていても、記憶としては曖昧でしょう)。ほとんどが、直接関東大震災の経験を聞けない時代に入っております。

房総についても、もっぱら本によって、関東大震災の頃を振り返ってみたいと思ったわけです。

さて、どこからはじめましょう。
高校の百年史というのが二冊手元にあります。
安房高等学校と安房南高等学校の二冊。
安房高のは、平成14年発行。安房南は平成20年発行。
ちなみに安房南百年史は古い校友会雑誌に載った記事の採録があり、
意外にも、震災の文が多く読めるのでした。
まずは南高の文を引用。

「関東大震災によって県立安房高等女学校の校舎はほとんど倒壊した。残存建物は雨天体操場と便所二棟等であった。寄宿舎の二名は圧死、自宅で生徒六名が死亡した。・・
関東大震災によって本校(長須賀校舎)が壊滅状態になった史実について、渦中の豊沢藤一郎校長は『校友会雑誌』第六号震災記念号(大正14年4月)に『八百坪の校舎中僅かにトタン屋根の生徒扣(ひかへ)所及便所位が残ったのみで、他の全部が一瞬の間に粉砕されて見るも痛ましい残骸となって吾等の眼前に横たはった。幸いにも火災は起こらなかったが、逃げ後れた二人の舎生は大自然の憤怒の犠牲となって悲惨の最期を遂げた。・・・』
9月20日(木)は晴後雨で、震災後初めて職員が全校生徒と校庭で顔を合わせた。同誌には被災後の状況について『校長先生の訓話は始められた。そして四年級は28日に、其の他は10月1日にまた出校する事を告げ知らして解散した。訓話は無論校庭で行はれたのである。(中略)尚家庭にて地震の為死亡した生徒は次の六名である事が確実となった。悼しい事である。』・・・」(p20)

いっぽうの安房高百年史。
こちらは個人の文章を引用。明治41年(1908年)生まれの和田金治氏が文を書かれており、そのはじまりが震災からでした。

「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。翌12年の9月1日が関東大震災であった。木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。だが幸いにも9月1日は2学期の始業式だけだったので、生徒は全員帰った後であったから、生徒には一人の犠牲者も出なかった。・・その後、しばらくの間休校し、やがてテント張りの教室が出来て授業が再会し、木造の校舎が出来上がるまでには、相当の期間を要したように思う。
その前後に北条海岸に出て見て驚いた。昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを保管しておく艇庫(ボートをしまっておく倉庫)があった。それが何と、はるか丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。館山は房総半島の先端だが、半島の沖合の海底の断層が大地震で陥没した、その反動によって隆起したわけである。館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の三級(白帽)をもらうべく、頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、殆ど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。
もちろん北条の市街は殆ど全滅の状態で、僅かに煉瓦造りの建物(銀行・官庁の)が残っただけであり、死傷者が出たことは言うまでもない。
遥か北の方、東京方面を望むと、黒煙は天日暗しと言わんか、東京が一面の火事に包まれているなと直感できるほどの凄まじさであったことを80年前の記憶として改めて想起する。」


ところで、武村雅之著「地震と防災」(中公新書)が昨年でたばかりでした。
そのおわりの方に、房総半島の隆起のことが書かれておりました。
興味深い記述なので、引用しておきます。

「房総半島南部や三浦半島の海岸線沿いの平地のほとんどは、相模湾で巨大地震が幾度となく起こり、そのたびに海底が隆起して造られてきたものである。関東地震や元禄地震は、そのなかの最新の二回である。
東京駅から内房線の特急さざなみ号に乗って約2時間、千葉県南房総市千倉町に着く。まず海岸線沿いに南へしばらく行くと、平磯(ひらいそ)の海岸に出る。海岸沿いの新道から海をみると、今しがた海から現れたような白いごつごつした岩の海岸がみえる。これが関東地震で海から顔を出した部分である。その道から内陸部に入ると広い平らな土地があり、一面お花畑になっている。その土地が、元禄16(1703)年、今から約300年前に元禄地震で海から顔を出したところである。さらに内陸へ階段状の土地を登るとまた広い平らな土地がある。そこは今から約3000年前の地震で海から顔を出したところである。つまり元禄地震以前は海岸のすぐそばだった土地である。その証拠に今でも旧道が走りその周りに集落がある。この旧道が国道410号線である。さらにその上にも約5000年前の地震で海から顔を出したと推定されている平らな土地がある。そこに『鯨塚』で有名な長性寺が建っている。その向うは山地でほとんど人は住んでいない。
房総半島南部は空からみると、どこでも同じように海から段々畑のように平らな土地が続いている。・・・」(p218~219)

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冬空の下。

2009-01-22 | Weblog
産経歌壇1月18日は、伊藤一彦・小島ゆかりの二人の選者が最初に選んでいた歌。

 老いてなお忘れぬものに幼な日の貰い湯帰りの澄みし星空  神戸市 藤原 勇

 苛々のつのる師走の真夜中に凍れる月をじつとみてをり   堺市 鈴木 武雄

今日の産経新聞一面には、古森義久氏の文が載っておりました。
そこを少し引用してみたくなります。

「20日午前11時半からの就任式をみるために当局の事前の指示に沿い、午前8時前に連邦議会議事堂前の会場に入ると、限定区域の座席はもう大方が埋まっていた。後方のモールと呼ばれる広い散策路に延びる自由区域にも、大観衆が集まっていた。氷点下7度の切るような寒気の中、未明からみなオバマ大統領の誕生を待ち受けたのだ。そうした熱心な参加者たちはどの方向をみても、アフリカ系米人とも呼ばれる黒人の老若男女が多数派を占めていた。議会堂のバルコニーからそう遠くない記者(古森)の席も、周囲はみな黒人だった。ミシガン州からきたという中年の夫婦は・・・『自分たちの生涯で黒人大統領をみる機会はないと思っていたのに夢が実現しました。その就任の光景を絶対にみたいと思い、なにがなんでもと、やってきました』 すぐ後ろはニューヨーク州在住の黒人一家だといい、車イスの高齢女性を含む7人ほどが、これまた興奮した様子でオバマ夫婦を礼賛していた。式の終了後、パレードの沿道を3時間以上も歩いたが、観衆は黒人が明らかに半数以上を占めているようにみえた。しかもだれもが喜ばしげ、誇らしげなのである。」


ここには、実際の現場にいる記者の様子が、リアルです。
日本にいながら、大統領の演説の言葉をなぞっている方々とは、
明らかに違った視点を提供してくれており、読み甲斐があるという手ごたえがあります。
さて、古森義久氏の後半を引用しましょう。就任演説の内容に触れてゆきます。

「・・オバマ大統領が米国民全体の12%しか占めない黒人の地位向上の象徴だけに甘んじることができないのも自明である。・・その進路について新大統領は多数の『挑戦』や『危機』を列記して、もっぱら対応の難しさを強調することで一般の期待のレベルを引き下げようとするかにみえた。解決策については『責任の新時代』とか『平和の新時代』という標語での抽象的な構えをみせるにとどめ、具体策は示さない。・・オバマ氏のこれまでの主要演説にくらべてずっと平板であり、聞く側を刺激し、鼓舞する内容のようには響かなかった。米国が内外で直面する現状はそれほどに厳しく、その米国を動かすオバマ大統領の立脚点も、もはや『変革』と『希望』を語ることだけではまったく対処できない真剣の実務の世界に入ったということであろう。」

何か日本の大統領就任演説の新聞記事とは、ギャップがある、現場報告になっております。
現場といえば、思い出すのは、『年越し派遣村』でした。

週一回産経新聞に連載されている『花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング』を思いうかべました。1月10日に「朝日新聞がさかんに書き立てているからというわけでもないが、あの『年越し派遣村』というやつ、どうも腑におちない。」とあり、1月17日には「今週は各誌、派遣村レポートが出揃った。『週刊文春』(1月22日号)「『年越し派遣村』でハシャグ政治家、大マスコミのイヤ~な感じ」・・『文春』によると【約五百人の村民と約千七百人のボランティアが集まった】が、村の内実は報道とは少し違っていて【村民全体のうち「派遣切り」の被害者は約21%に過ぎず、日雇い派遣の失業者が約16%、非派遣の失業者が約20%、ホームレスも約9%含まれていた】」。

テレビや朝日新聞の情報を鵜呑みにすると、馬鹿を見ることになりかねない。
情報選択を常に試されているようであります。
それにしても、この冬空の下、現場感覚を持たない言葉ほど、恐いものはありませんね。
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館山音頭。

2009-01-21 | 安房
西條八十という人は、ご当地ソングを数多くつくっているようです。
「西條八十全集 9」(国書刊行会)は「歌謡・民謡Ⅱ」となっていて、
それらが載っております。そのなかに、房州の館山音頭がありました。
ちなみに、その前が「あれは野島か 洲の崎か 泣いて別れた 白砂浜を ああ 月は照らすか 今夜も青く」とある「恋燈台の歌」というのがありました。

さて(笑)、「館山音頭」。
とちゅうとちゅうに「キタヨシ」というあいの手が入ります。
はじまりは
「夏はヨットの 花さく渚 キタヨシ
 冬は茶の花 南風 波も人情も うららかに
 タ タ 館山 またおいで またおいで 」

あとは、端折って、
「那古や船形 観音さまが 守る海には 怪我も無い」

「波の清さに ついひかされて キタヨシ
 乾した水着を ちょいとまた濡らす
 富士を遠見の 安房の海
 タ タ 館山 またおいで またおいで

 今夜来るかと わしゃ沖の島 キタヨシ
 想ふ矢先へ 来たよと言はれ
 胸のどうきが 鷹の島
 タ タ 館山 またおいで またおいで 」

何とも、「またおいで」というのが
館山らしい雰囲気をだしているような気がします。
来たよし。と、またおいで。ということなのでしょうね。

そうそう。
「那古や船形 観音さまが」というので、
思い浮かぶのは、那古寺。

ネット上で検索。以下はそれです。

第三十三番 補陀洛山那古寺 (那古観音)真言宗智山派
本尊●千手観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●養老元年(七一七)
●詠歌●補陀洛は よそにはあらじ 郡古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても

観音補陀洛淨土
 坂東三十三札所の「総納札所」である郡古寺は、房総半島南端の館山市、その市街から少しはずれた郡古山の中腹にある。この山はスダシイ、タブノキ、ヤプニッケイ、ヤブツバキ、ヒメユズリ混生の自然林におおわれている。『郡古寺縁起』に「この山は是れ補陀洛山と称すべし、而して観音影向の地なり」とあるとおり、鏡ヵ浦を俯瞰し、海上の交通者を守りたもう観音さまのお住まいとしての条件をここは充分に備えている。奈良朝末期に日光山が観音のお浄土補陀洛と考えられていたことは、弘法大師の詩文によって明らかである。その頃から関東に補陀洛信仰が取り入れられひろまったのであろう。江戸時代までは観音堂のすぐ足もとまで浦の波が打ち寄せていたという。ご詠歌に「岸うつ波を見るにつけても」とあるのが往時を想いおこさせる。・・・・
 俗に裏坂と呼ばれるゆるい勾配の参道を進み、まず仁王門をくぐる。そして石畳の参道を藤原期の作と伝える木造阿弥陀如来の座像を祀る阿弥陀堂を拝しながらさらに行くと、多宝塔が建っている。宝暦十一年(一七六一)住僧憲長が伊勢屋甚右衛門らと力を合わせ、万人講を組織、勧進して建てたものである。
 下層四面に切目棟をめぐらせて、和様勾欄を配した姿は見事であるが、その施工者が地元那古寺及び周辺の大工であったことが注目されている。定型を守りながら新しい様式を取り入れているあたり、棟梁はなかなか意欲的である。
 やがて朱塗り本瓦葺きの本堂が八間の奥行きも堂々とその側面を現わす。表参道からならすぐ入堂できるが、この道からは数段の石段を上り左に廻って正面に出る。観音堂の御拝には老中松平定信の揮もうによる「円通閣」の額がかかっている。



さてっと。那古寺は小高い山の中腹に乗っているようなかっこうで建っており、その山下の足もとまで波が打ち寄せていたとのこと。現在は、何回かの地震による隆起によって、10分~20分ほども歩かなければ海へは出れません。その間に家々が建ち並んでおります。寺の中腹から前の海を見晴らせば、足下には、家々があり、中学校も見えます。その先にJRの内房線が走り、さらに先にいって砂浜にでます。
その昔は、ここらの眺めや、鉄道の線路は海だったのだと思ったら、
何だか宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の後半に出てくる、電車が思い浮かびます。たしか電車の停留場まで、舟を漕いでいったのでした。すると波をかき分けて電車がくるのでした。
那古や船形の観音さまからの景色を見に、またおいで。またおいで。
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房州海岸。

2009-01-20 | 安房
西條八十の童謡に「かなりや」があります。

 唄を忘れたカナリヤは
 うしろの山に棄てましよか

 いえ、いえ、それはなりませぬ。

 唄を忘れたカナリヤは
 背戸の小藪に埋めましよか

 いえ、いえ、それもなりませぬ。

 唄を忘れたカナリヤは
 柳の鞭でぶちましょか。

 いえ、いえ、それはかはいそう。

 唄を忘れたカナリヤは
 象牙の船に、銀の櫂(かい)、
 月夜の海に浮べれば
 忘れた歌を想ひだす。


この詩をつくった同じ頃に「たそがれ」という詩もありました。


 唄を忘れた
 カナリヤは、
 赤い緒紐でくるくると、
 いましめられて
 砂のうへ。

 かはいそうにと
 妹が、
 なみだぐみつつ
 解いてやる、

 夕顔いろの
 指さきに、
 短い海の
 日がくれる。


「かなりや」「たそがれ」のどちらもが
鈴木三重吉の創った雑誌『赤い鳥』に掲載されております。
その「たそがれ」が載った雑誌の「通信」欄には、

「本号に掲載した西條八十先生の童謡『たそがれ』は、先生が昨年、房州海岸に御滞在中の作で、嘗ての『かなりや』と同時に御寄稿下すつたものです。このことを念のために記して置きます。」

以下は、藤田圭雄著「日本童謡史Ⅰ」(あかね書房)を下敷きにして、筒井清忠が「西條八十」(中公叢書・中公文庫)に書いている箇所を引用してみます。

「藤田(圭雄)は、『八十は学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ』という。藤田の伯父正木直彦・・その日記『十三松堂日記』の明治44年8月11日の条に、西條八十らと『一行20人にて』『大行寺』から『羅漢寺鋸山』に登山したという記述があるのを藤田は見つけている。大行寺というのは内房線保田駅の前にある日蓮宗の寺で、幼少の藤田も大正初年には正木らとこの保田で夏を過ごしたので『大学生の西條さん』がいた記憶があるという。まだ内房線もなかった時代で、霊岸島から観音埼を廻って保田海岸に着くのだが、『当時の保田は、他には都会の人などほとんどいず、浜には砂丘がつづき、芒が美しかった。』
藤田は、八十が大正8年に刊行する『砂金』に収められた『海にて』『砂山の幻』『芒の唄』のほか、『かなりや』『たそがれ』にも『あの、広く、豊かな、当時の保田海岸』を『感じる』という。『東京湾から解き放たれた太平洋の波は真青だった。夜は観音埼の燈台がまたたき、空には星が一杯に輝いた。』藤田はこのことを(西條)八十に手紙で知らせた。すると『死の直前、昭和45年7月10日』付の手紙が八十から来た。そこには次のようにあった。『・・・・私の父は・・非常な倹約者で、少年時代海も山も知りませんでした、14歳で父に死なれその翌年か翌々年あたり私は旅行というものを初めてし、保田へ行ったのです。・・それから夏になるときまって保田へ行きました。・・・結婚してからは近くの漁師の家に泊りました。だから大兄の仰有るようにわたしの海の作品は房州海岸が基調になってゐます。・・・』」

まあ、「一つの詩の発生の源が一つの場所や体験に特定できるというのものでもないことはいうまでもなかろう。従ってこの点に関しては、上野不忍池で『かなりや』の唄の想が湧いた時に、『月夜の海』のイメージとしては『夏になるときまって』行った房州海岸や伊豆半島の片瀬があったということではないだろうか。」という的確慎重な指摘もしておられるのですが、房総に住む私としては、これはあらためて、記しておかなければならない記述でした(笑)。
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勿(なか)れ。

2009-01-19 | Weblog
昨日のブログで、夏目漱石の「愚見数則」を少し引用しました。
この文は、
講談社文芸文庫「漱石人生論」では、7ページ。
単行本「学生諸君!」(光文社)で、7ページ。
漢文調の戒律めいた「勿れ」が、文中の所々に挟まれてリズミカルでもあります。
ということで、引用して、あとで思ったことを書きます。


鶴見俊輔著「悼詞」(SURE)。
鶴見和子著「女学生」(はる書房)。
この二冊。姉弟の二人の本なのでした。
「悼詞」には、姉・鶴見和子への追悼文が載っており。
「女学生」には、弟・俊輔を語った文が載っております。
ここでは、「勿れ」ということで「女学生」に載った文をもってきます。
そこからの、引用。姉が弟を語っている中に留学の際の様子がでてきます。
その前から

「母はサムライ気質で、長男は立派に育てあげなければ、『ご先祖さまに申訳がない』という強烈な責任感を持っていた。立派に、というのは、決して、立身出世を願ったのではない。『正しい人になる』ということであった。ひとのお世話になったり、ひとに迷惑をかけたりせず、自分で自分の始末のできる人になるように、という、まことにつつましい、しかし最もきびしい価値基準をもって、弟の日常茶飯の小さな行いにいたるまで苛酷に糾弾した。・・・・わたしが、弟と喧嘩するゆとりが全くないほどに、母は弟を攻めたてた。・・・・1942年12月7日、日米開戦の日、俊輔はハーヴァード大学に学び、わたしはコロンビア大学で勉強していた。ボストンでFBIに拘束され、訊問に答えて、クロポトキンの倫理哲学を滔々としゃべったために『アナキスト』というレッテルをはられて、留置場に入れられた。ニューヨークのわたしは、一週間の外出禁止があっただけで、FBIの訪問はうけなかった。そこで、わたしは、俊輔の荷物を整理するために、かれの下宿にいって驚いた。屋根裏部屋の一室には、天井と壁一面に、張紙がしてあった。はっきり覚えていないのだが、すべて、自己に対する戒律のことばが書かれていたのである。その時すでに病気になっていたらしく、毎日、大瓶の牛乳をのんで、必死の勉強をしていたことがわかる。張紙の戒律は、母の訓戒の内面化であったかもしれない。」

夏目漱石の「愚見数則」の中の「勿れ」から、
鶴見俊輔の「張紙の戒律」を思い浮かべたのでした。
それにしても、「天井と壁一面」の張紙には、どのような言葉が書かれていたのでしょう。
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愚見数則。

2009-01-18 | 詩歌
成人式について、何かないかなあ。
と思って手にとったのが「学生諸君!」(光文社)。
32人の短文・講演・詩・メッセージを編んであります。
すべては読みませんが、私に驚きだったのは、夏目漱石の「愚見数則」。
明治28年の愛媛県尋常中学校『保恵会雑誌』に載ったものだそうです。
この文は、講談社学芸文庫の「漱石人生論集」にも、文庫の最初に載せてありました。
この文庫は、解説が出久根達郎。文庫の年譜を見ると、
「愚見数則」は漱石29歳の時のもの。
年譜を省略してたどると、
明治26年7月帝国大学文科大学を卒業し帝国大学大学院に入学する。
10月高等師範学校英語嘱託になる。
明治27年。この年、神経衰弱の症状が著しい。
明治28年。一月頃、『ジャパン・メール』の記者に応募、不採用になる。
三月、高等師範学校を辞して、四月、愛媛県尋常中学校の教員として赴任。
この年、日清戦争の従軍から帰った子規が漱石の下宿に同宿、子規を中心として、松山の俳人たちとの交遊が盛んとなる。
この「愚見数則」には、きちんと前口上がついておりました。
それを引用しないと雰囲気が伝わらない。まずはそれを引用しましょう。

「理事来って何か論説を書けと云う、余この頃脳中払底、諸子に示すべき事なし。しかし是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし。但し御世辞は嫌ひなり、・・・
思ひ出す事をそのまま書き連ぬる故、箇条書の如くにて少しも面白かるまじ。但し文章は飴細工の如きものなり。延ばせばいくらでも延る、その代りに正味は減るものと知るべし。」

本文は途中から引用します。

「 ・・・己れの非を謝するの勇気はこれを遂げんとするの勇気に百倍す。
孤疑する勿(なか)れ。
躊躇する勿れ。
驀地に進め。
一度び卑怯未練の癖をつければ容易に去りがたし。
墨を磨して一方に偏する時は、なかなか平にならぬものなり。
物は最初が肝要と心得よ。
善人ばかりと思ふ勿れ。腹の立つ事多し。
悪人のみと定むる勿れ。心安き事なし。
・・・・・・
小智を用る勿れ。
権謀を逞ふする勿れ。
二点の間の最捷径は直線と知れ。
・・・・
馬鹿は百人寄つても馬鹿なり。
味方が大勢なる故、己れの方が智慧ありと思ふは、了見違ひなり。
牛は牛伴れ、馬は馬連れと申す。
味方の多きは、時としてその馬鹿なるを証明しつつあることあり。
これほど片腹痛きことなし。
・・・・・
損徳と善悪とを混ずる勿れ。
軽薄と淡泊を混ずる勿れ。
真率と浮跳とを混ずる勿れ。
温厚と怯懦とを混ずる勿れ。
磊落と粗暴とを混ずる勿れ。
機に臨み変に応じて、種々の性質を見はせ。
一あつてニなき者は、上資にあらず。
・・・・・・
命に安んずるものは君子なり。
命を覆すものは豪傑なり。
命を怨む者は婦女なり。
命を免れんとするものは小人なり。
理想を高くせよ。敢て野心を大ならしめよとはいはず。
理想なきものの言語動作を見よ、醜陋の極なり。
理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし。
理想は見識より出づ、見識は学問より生ず。
学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学でゐる方がよし。
欺いて悪事をなす勿れ。その愚を示す。
喰わされて不善を行ふ勿れ。それ陋を証す。
黙々たるが故に、訥弁と思う勿れ。
拱手するが故に、両腕なしと思ふ勿れ。
笑ふが故に、癇癪なしと思ふ勿れ。
名聞に頓着せざるが故に、聾と思ふ勿れ。
食を択ばざるが故に、口なしと思ふ勿れ。
怒るが故に、忍耐なしと思ふ勿れ。
・・・・・・                   」

え~と、ちょっと引用するだけでお終いにします。
明治33年にイギリス留学。明治36年。二年半ぶりに故国の土を踏む。
そして明治39年11月「吾輩は猫である」第一回を書き上げる。

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下働き。

2009-01-17 | Weblog
養老孟司・渡部昇一対談「WASP精神は地に堕ちた!」というのが、
発売中のVoice2月号に掲載されているのでした。
そこで渡部氏は、こう語っておりました。

「元来アメリカの文化はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)で、
聖書を厳格に重んじるピューリタンたちです・・・」(p48)

その後に、養老氏が語っている中に、何げなくもこんな箇所がありました。

「たとえば戦後、アメリカ医学を支えた下働きは日本人でした。それ以前はナチから逃げたヨーロッパ系ユダヤ人。いまは中国人です。」(p49)

ふ~ん。養老氏は医者であり、たしか留学経験もおありだったはずです。
ここには、「医学を支えた下働き」という言葉が印象的です。

下働きといえば、緒方洪庵が思い浮かんだのでした。北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)に「人生の師・緒方洪庵」という箇所があります。
ちょいと、そこを丁寧に引用してみましょう。

「出自は諭吉とそっくりだ。現在の岡山市から北へ十数キロのところにあった足守藩という小藩の下級武士の家に生まれ、十五の時、父親が大阪区蔵屋敷留守居役を命じられたため、大阪へと出て来た。身体が虚弱だったこともあって医学に興味を持った彼は、父親の猛反対を押し切って大阪の蘭学者・中天游(なかてんゆう)の門人となり、その後上京。江戸で最も有名な蘭方医だった坪井信道に入門。同時に蘭学者・科学者として知られた宇田川榛斎(信道の師)からも教えを受けた。人一倍苦学し、塾の下足番(げそくばん)や按摩(あんま)をやりながら学資を稼いだという。・・・
貧しい者にはしばしば無料で治療を施したことから『生き仏』と呼ばれていたという。『とびきりの親切ものでなければ医者になるべきではない』というのが洪庵の口癖だったが、それは師・信道の後ろ姿を見てきた彼の実感である。・・」(p44~45)

閑話休題。
1月12日の新聞は成人式について考えさせられました。
産経抄は、「土光敏夫経団連名誉会長の夕食風景に世間は驚いた。おかずはメザシ一本と大根葉のお浸し。」という昭和57(1982)年7月、NHKの番組で映し出された場面を取り上げておりました。そのコラムの最後は「今年の新成人を対象にしたあるアンケートで、『世の中悪くなる』と将来を悲観する回答が5割に達したそうだ。・・・今の日本に足りないのは、メザシ一本で世の中を動かした土光のようなリーダーだけだ。」としめくくっておりました。広告では、相変わらずのサントリー「新成人おめでとう。山崎で乾杯。」。
伊集院静の文。何だか、立食パーティーで当り障りのない挨拶をする関係者のような言葉(失礼)が14行。活字で並んでおりました。それでも、せっかくですから、引用しておきます。つまらないと思うのは、鈍感になってしまった私の勘違いかもしれない。では、伊集院さんの言葉より。

「その原因はこころない大人が金を得ることを人生のすべてと考えたからだ。金があれば何でも手に入ると卑しいこころを抱いたのだ。自分だけが裕福ならいいとしたのだ。その大人たちの大半は先進国で最高の学問を修得した人たちだ。なぜこんなことが起きたのか。それは人が生きる上で何が一番大切かを学ばなかったからだ。若い時に裕福に目が向き貧困を見なかったのだ。日本は大国なんかじゃない。ちいさな国の、君はちいさな存在だ。・・・・」

産経では、曽野綾子氏の連載「透明な歳月の光」が316回目。
そこには、こんな箇所。
「長い間の軽薄な教育は、徒弟的苦労に耐えろということをもはや時代遅れ、人権無視だと教えた。その結果、若者たちには、目的のために耐える気風がほとんどなくなった。つまり、素人、場当たりの仕事しかできない人たちが社会に増えたのだ。素人は、時間給で働く。・・すぐに代替え要員の見つかるという仕事だ。・・・」

鮮やかな写真は、成人式で色紙を手にしている斎藤祐樹。早大のエース投手。
記事にはこうあります。
「11日、故郷の群馬県太田市で成人式に臨んだ。両親にプレゼントされたという濃紺のスーツ姿。」
「20歳の誓いとして色紙に記したのは『去華就実(きょかしゅうじつ)』の4文字。『外面的な華やかさを捨て、実に就け(実際に役立つ人間になれ)』という意味で、『(母校)早実の校訓です。今、自分に足りないものは何かと考えた。今の世の中にも必要な言葉では。』・・・」

うん。今年の成人式の記事では、これを読めてよかった。

ところで、1月17日の産経新聞一面左上に、上坂冬子氏が「リハビリパンツに思う」と題して書いておりました。
最後はそれを引用して、この回は終ります。
はじまりは
「後期高齢者に仲間入りしてから2ヵ月余りが経った。入院して抗がん剤の点滴をお願いしている。」とあります。え~。癌。本人はいたって冷静に記述しており、この文ではそれ以降、癌の文字はありません。そのかわりにこんな風に書かれておりました。

「・・・看護婦さんは高卒後修業年限3年で国家試験に合格せねばならない。私のところに来る看護婦さんに片っ端からこの職業に満足しているかと聞いてみたところ、一人残らず満足しているとのことであった。あまりに晴れやかな答えぶりに、かえって驚いたぐらいだが、使い方によっては生涯使える『資格』がありがたいのだろう。東横沿線で花屋をやっていたある看護婦の祖母が、資格のある職業につくよう力説していたのは説得力があったとか。かつて私も女子学生の職業として、美容師、看護婦、幼稚園教諭2種免許に注目したけれど、今、それらの資格は無理なく女性の身を助けている。看護婦さんの場合は、学校や病院を離れて故郷へ帰っても、施設や診療所で職業の選択が十分に安定しているらしい。・・・」


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