和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

装丁

2010-10-31 | 短文紹介
本の整理して、あらためて思うのは、装丁のことでした。
森毅・鶴見俊輔が毎回ゲストを呼んでの鼎談本「日本文化の現在」(潮出版社)。
この装丁は、田村義也。
潮出版社の河合隼雄・鶴見俊輔の鼎談本も、田村義也の装丁がありまして、よく目立ちます。さてっと、「日本文化の現在」にはゲストのなかに梅棹忠夫氏が登場する箇所がありました。
そこでの梅棹氏の言葉にこんなのがあります。


梅棹】 科学的社会主義という言葉がありますが、これは科学に対する過大評価ですね。科学というのはそんなにきっちりしたものと違うんです。実にあいまいなものです。私は自然科学をおさめて人間として、科学の限界とかいいかげんさをよく知っています。
森】 あっはっはっ。
梅棹】 ねえ。数学はましかもしれんけどね。社会みたいな複雑怪奇なものを科学でやれるというのは、何という幻想かと思います。 (p258)


梅原猛対談集「少年の夢」(小学館)の装丁は谷本和彦とありました。そのカバーの文様は「ウイリアム・モリスのラッピング・ブック」(岩崎美術社刊)からとられておりました。
そこに梅原猛・河合隼雄・山折哲雄の鼎談が載っておりまして、題名が「法然と親鸞」。そのなかに、


山折】 やがて法然は天皇や貴族から一般庶民まで含めて、いろいろな人の帰依を受けるようになりますが、あれは今日的な言葉でいうと、心の癒し、いわばカウンセリングの名手だったわけでしょう。
梅原】 河合さんみたいなもんだな。
河合】 本来は宗教が、そして宗教家がそういった役割を担ってきた。ところが近代に入って、宗教の側からそれが離れていったので、われわれのような職業が生まれてくるわけです。
山折】 あの時代、つまり平安末期から鎌倉という時代は、歴史上、まさに日本人の精神的な大変革期といえるのではないでしょうか。 (p142)


あの時代じゃなくて、現代は、どういう時代だったのか。というと、
梅原猛著「心の危機を救え 日本の教育が教えないもの」(光文社)のはじまりに、こうありました。


「私がいま教育についての一冊の本を書こうと思うのは、オウム真理教の事件にショックを受けたからである。オウム真理教の事件は劇画的とも言えるまことに大胆で、無謀な殺人事件として日本の多くの人に衝撃を与えたが、それは私にもショックであった。・・・・一つの宗教の事件なのである。宗教の事件であるならば、宗教に強い関心をもつ哲学者の私にとっても見過ごすことのできないことなのである。オウム真理教の事件について論じないわけにはいかない。それを見過ごすことは哲学者としての怠慢なのである。」

(う~ん。哲学者かあ。オウム真理教については、私は養老孟司氏の文章が、わかりやすかった気がしています。)

ここで、「梅棹忠夫語る」にでてくる、梅原猛について語られた箇所が思い出されるのでした。(p199)

う~ん。何となく本の整理をしながらの拾い読み。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未読本整理。

2010-10-30 | Weblog
秋ですね。自分のところの本整理を、このところ、しております。段ボール箱の本を、本棚に並べてみたり、あらためて、しまったり。というようなことをしてる。いざ、本を整理しだすと、そこは、未読本ばかり。おいおい、ただ買ってるだけじゃないか。と思ったりします。たとえば、全集を買う、私は読まない(笑)。買うまでは覚えているのですが。買えばホッとして、興味は他の本へと移っていたり。めぐりめぐって、寝かせてある未読本を手にする時は、宝くじにあたったようなラッキーな気持ちで読み始めます。そんな再会のための本整理なんだと心得て、本棚の入れ換えをする。そんな秋。
今朝は雨ですが、風もそんなになく静かです。台風14号が午後から関東へ来るようです。台風といえば、西脇順三郎の「秋」という詩がありました。
   

       Ⅱ

  タイフーンの吹いている朝
  近所の店へ行つて
  あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
  扇のように軽い鉛筆だ
  あのやわらかい木
  けずつた木屑を燃やすと
  バラモンのにおいがする
  門をとじて思うのだ
  明朝はもう秋だ


もう秋は来ていますよ。と笑われてしまいそうですね。
それじゃ、もうすこし先の、雪についての詩。
井上靖の詩「雪」


  ――雪が降つて来た。
  ――鉛筆の字が濃くなった。
  
  こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
  十何年も昔のこと、「キリン」という童詩雑誌
  でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつ
  もこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学
  校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の
  字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはち
  ょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、
  調和、そんなものともどこかで関係を持っている。


いまごろ、どこかの古本屋で105円の文庫を見つけてニヤリとしている人がいるかもしれないなあ。古本関連のブログを読んでいると、そんなことを思う昨今です。さてっと、山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)に、こんな箇所がありました。


「読書名人で知られた、篠田一士さんは、その著書『読書三昧』で『原則として、本屋へは入らないことにしている』と書いておられる。大胆発言に驚きながら読み進むと、読まなくてはならない本があまりに多く、本屋に入るとさらにまた読みたい本が増えるから、というわけだった。」(p14)


う~ん。そういえば以前に古本屋で買った篠田一士著「読書三昧」があったはずだと、思っておりましたが、それが、出てきました。それじゃあ、山本善行さんの引用箇所を、丁寧に、ひらいてみました。それがはじまりの箇所なのでした。

「原則として、本屋へは入らないことにしている。事実、散歩の途中とか、どこかへ出向いた折、ちょっと時間の余裕があり、目のまえに、新刊屋なり、古本屋があっても、入る気にはならない。・・・・
昔は、一日でも早く目指す本を見たい、手にとりたいという思いで、あの本屋、この本屋と駆け回ったものだが、いまは、そんな余裕、つまり、気力も体力もない。手近なところに、うずたかく積まれた未読の本をこなすのに精いっぱいなのである。わざわざ本屋へゆかないことにしているのは、そこで、また、新しい本を見付け、読みたいものが、否応なくふえてゆくのを防ぐのが、なによりの理由で、ともかく、読まなくてはならない本が、身のまわりに、あまりにも多すぎるのである。
ずいぶん消極的な話じゃないかといわれれば、まさにその通りだが、新しい本を知ることを怠っているわけではない。手元にくる新聞、雑誌の書評欄、それに三つの書評紙に一通り目を通し、さらに、広告記事を見れば、読みたい本、注文したい本は、毎日のようにとはいわないが、月に、結局、二十冊や三十冊にはなるはずで、それをこなしてゆくのは、少なくともぼくには、並大抵のことではない。つまり、気力、体力もそうだが、金力の点でも、本代には、たえず苦労する。・・・・」


う~ん。「金力」のことを考えると。
気力・体力・ブックオフ。
なんて言葉が浮んできたりします。
こう他人行儀なことを、いえるのも、
古本屋めぐりなど、夢のような世界だと観念しているからで。
秋の古本まつりなんて、そんなの、いったい全体どこの世界のことなの?
という地方に住んでいるからなのかもしれません。

そうそう。わが地区では、図書室併設の公民館が、取り壊しとなり、図書室が支所へと縮小してはいることになったのです。それが今年。そこで、入りきらない在庫をタダで持っていってくださいということになり、だいぶあとになって、用事ででかけたときに、単行本の「大菩薩峠」全巻無料にて入手。でも、これいつ読むのだ?


と、こうしてブログに打ち込んでいるうちに、だんだんと雨脚が強くなってきております。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅薄な言論。

2010-10-28 | 朝日新聞
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に


梅棹】 新聞社でも「書かしてやる」って、そういう言い方があった。「何だ、書かしてやらないぞ」ってなことを言われたことがあった(笑) (p153)


ここが、ひっかかっておりました。
へ~。梅棹忠夫氏でも、新聞社から、そんなこと言われたことがあるんだ。
そういえば、と今日になってふらりと思い出すのは、
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文芸春秋)でした。
この本は、カバーのうしろに、山本夏彦氏が推薦の言葉を、さりげなく書いておりました。
せっかくですから、それを引用。


  特派員、国を誤る

 新聞の海外特派員は、いつも本社のデスクの顔色をうかがって原稿を書く。本社が米英撃つべしなら、撃つべしと書く。撃つな、と書けば没書になるのはまだしも左遷される。即ち特派員はむかし国を誤ったのである。いまだにそうである。中国は自分の気にいらぬ記事を書く特派員を追放する。追放されたくないばかりに、気にいる記事だけ書く。
ひとり本書の著者はその轍を踏むまいと、ひそかに決心したのだろう。特派員としてテルアビブ空港へかけつけた時も、自分の目で見て自分の耳で聞いて、自動小銃を乱射した赤軍青年の評判は、意外や悪くないと書いている。凡百のルポライターならそれぞれ一巻に余る内容を煮つめたこれら諸編は臨場感あふれたドキュメントである。     山本夏彦


この本のなかに、「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文があります。
たとえば、こんな箇所。

「あの小説を書いた前後のことは、竹山さん自身が『ビルマの竪琴ができるまで』の中に述べている。戦地からの気の毒な復員兵(その多くは彼の教え子だった)を毎日のように見て、『義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のために、できるだけ花も実もある姿として描きたい』というのが動機だった。『当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした』・・・」(p316)


このあとに、本題のテーマを語られるのですが、原子力空母エンタープライズの佐世保入港問題での竹山道雄氏の意見を朝日新聞が掲載して、それに「声」欄で反対の意見が書かれ・・・・
最後の方にこうあります。

「だが、それ以後の『声』欄には竹山さんの文がない。私は、竹山さんが批判に負けるかイヤ気がさして反論を打ち切ったのだろうと思っていた。そうでないと知ったのは、昨年十一月に出た『主役としての近代』(講談社学術文庫)という竹山さんの本を読んでからである。『これに対して、私はその日のうちに投書した。返事はつねに問とおなじ長さに書いた』これを読んで、私は唖然となった。つまり、朝日新聞社がボツにしていたのである。竹山さんは『対話の継続を望む』に応え、こういう意味のことを書いて送ったという。・・・・・ところが、これがボツになった。論争は、竹山さんが・・対談を断わったという印象を残して終止符が打たれた。何というみごとな、朝日の演出だろう。竹山さんは『これはフェアではないが・・・投書欄は係の方寸によってどのようにでも選択される。それが覆面をして隠れ蓑(みの)をきて行われるのだからどうしようもない』と続けている。・・私は竹山さんに同感せざるを得ない。あの欄は、意図的に一つの風潮をつくろうとしていると私は思う。・・朝日は『ここに甦る朝日投書欄の三十年完結!』と称して、朝日文庫から六冊本で『声』のアンソロジーを出した。そして、その中から、この『ビルマの竪琴論争』は、みごとに消されているのである。」(p324~325)


この際なので、投書欄でのやりとりの箇所を一部引用しておきましょう。


「投書主、とくに竹山さんを批判する人に、職業を主婦や学生と書いている人の多いのは面白いが、荒正人という有名人も竹山批判派として参加した。荒氏は『ソ連は東欧を衛星圏にした』という竹山反論の一節を取り上げ、『一例をあげればチェコスロバキアでは国民の七○%以上が第二の家を所有し、各種の福祉施設も発達し・・・共産圏でも、生産が豊かになれば自由化は必至です』と批判しているが、なんぞ計らん、この六ヶ月後にはソ連軍の戦車がそのチェコになだれ込んだのである。何という浅薄な言論。何という竹山さんとの違い!・・・」(p323)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴見流の比喩。

2010-10-26 | 他生の縁
鶴見俊輔氏は、ときに出会いの様子を語られるときがあります。
たとえば、梅棹忠夫氏との出会い。

「初めて会ったころ、知識人のあいだでマルクス主義者でなければ人でないっていう空気がつよかったなかで、梅棹さんのところに行ってみると庭には大工道具が置いてあるし、『暮しの手帖』が揃ってたりしてたんで驚かされた。なにしろ椅子から何から全部自分でつくる。とにかく暮らしっていうものを中心に考えてましたね。それから日本全体の交通をどうするかって考えあぐねていると言われた。びっくりした。これが昭和25年(1950)なんだからね。とにかく梅棹さんのところへ行くと別の風景が見えてくる気がした。」

上は、鶴見俊輔座談第八回配本「民主主義とは何だろうか」(晶文社)のなかの「五十年の幅で・梅棹忠夫」という対談の、はじまりの箇所。

これが、加藤秀俊氏に言わせれば、こうなります。

「ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。鶴見(俊輔)さんによると梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、というのであった。まことに失礼なようだが、鶴見さんは、およそ生活技術についてはいっこうに無頓着、かつ不器用な人だから、鶴見さんからみると、大工道具を使うことができる、ということだけで梅棹さんを評価なさっているのではないか、ずいぶん珍奇な評価だ、とわたしはおもった。金槌やカンナくらい、誰だって使える。大工道具を使えない鶴見さんのほうが、率直にいって例外的だったのである。」

もっとも加藤秀俊氏の文では、これからが本題へとかわってゆきます。そこを引用しないと片手落ちとなりますので、引用。


「だが、それと前後して、わたしは・・梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」


鶴見さんについては、
「鶴見俊輔集2」(筑摩書房)の月報7にある
ロナルド・ドーア氏の「『かわりもの』の刺激効果」という文が、
今度読み直して、たのしかったなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学という芸能。

2010-10-24 | 他生の縁
さてっと、
歎異抄を読みたい。そう思ったわけです。
ですが、私には歯がたたない(笑)。
ということで、私が選んだ水先案内人は梅原猛氏。

講談社学術文庫にあった梅原猛全訳注「歎異抄」を
まずは、ひらいたと思ってください。
その「学術文庫版まえがき」というのに、
こんな箇所がありました。

「親鸞の著書及び唯円の著書『歎異抄』は絶えず私に親鸞思想の新しい深さを教えてくれる。私の親鸞に対する解釈の変化を知りたい人は、旧著『誤解された歎異抄』(光文社)及び、この本とほぼ同時に発売されるはずの新著『法然の哀しみ』(小学館)を読んでいただきたい。」


う~ん。ここで、私は数ページこの文庫と付き合ったあとに、「誤解された歎異抄」を読み始めたというわけです。これ読めてよかった。と学術文庫は、そっちのけで思っております。山折哲雄氏の岩波新書よりも、梅原氏のほうが体当たりしているような味わいがあります。まずは、読めてよかった。

そういえば梅原猛著「百人一語」(朝日新聞社)で、梅原氏は百人の一番最初を親鸞からはじめておりました。その一語は「親鸞は弟子一人(ゐちにん)ももたずさふらふ」を、掲げております。ちょいと、その一語につけた梅原氏の言葉の出だしを引用。


「この言葉は、唯円の書いた『歎異抄』の第六にある。唯円は長年親鸞と寝食をともにした高弟であり、『歎異抄』は親鸞の死後三十年を経て唯円が書いた書であるので、親鸞が語った言葉とみて差し支えないであろう。この言葉は専修念仏の輩(ともがら)が『我弟子、人の弟子』と相争っているのを戒めた言葉である。もともと念仏というものは阿弥陀仏から賜ったものであるので、『我弟子、人の弟子』と言い争うのは、阿弥陀仏から賜った信心をあたかも自分のものであるかのように自分の許へ取り返そうとするものである、と親鸞は批判するのである。私は若き日、この言葉を読んでひどく感激した。親鸞のこの言葉には偉大な思想家の孤独が滲み出ているのである。・・・」


ちょっとここから、余談になります。
聞き手小山修三氏による「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に梅原猛氏が話題としてちらりと登場している場面がありました。そちらを引用。それは最後の方のp199に出てきます。


小山】  ぼくは、梅棹さんより梅原猛さんのほうが宗教家としては向いていると思います
梅棹】  梅原は哲学という芸能の一ジャンルを確立したんや。哲学者という芸能人の一種のスタイルをつくった。
小山】  最近、哲学ばやりですね。
梅棹】  そやね。それは芸能や。梅原がそうで、あれは完全に芸能人です。話がうまい。身振り手振りがおかしくて。ほんまにもう、聞かせるよ。迫力があってね。
小山】 (笑)。だけど、厳しい言葉だな、こそこそしながら『あいつは芸能やで』とか、やっかみでいやみなこと言うやつはいるんですけれどね。
梅棹】  哲学という芸能としてのジャンルを確立した。たいしたもんや。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんのための。

2010-10-23 | 他生の縁
加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)で、取り上げられている本たち。
そのなかで、ちょっと興味を惹き、しかも手軽に買えそうな本リスト。


 杉山正明著「遊牧民から見た世界史」
 高島俊男著「漢字と日本人」
 「海遊(しんにゅうがサンズイ)録」
「地球語としての英語」
「分類語彙表」
「象は鼻が長い  日本文法入門」
谷崎潤一郎著「文章読本」
関山和夫著「説教と話芸」
「節談説教」
「杉浦重剛座談録」
「忘れられた日本人」
柳田國男「世間話の研究」
「聴耳草紙」
「もうひとつの遠野物語」
「氷川清話」
「安吾捕物帖」
大牟羅良著「ものいわぬ農民」
エンプソン「あいまい性の7つの型」
ウォルター・オング著「声の文化と文字の文化」
「國字問題の理論」 この名著は
周作人著「日本談義集」
中谷宇吉郎著「科学の方法」


と、簡単に手には入りそうなリスト。
こういうリストを読もうとすると、めげるのですが、
あるとき、別の本とのかかわりで、読みたいと思うことがあるかもしれないと、とりあえず備忘録としてのリストアップ。他にも取り上げておられる本はあるのですが、まあ、私はこれでも充分。


ああ、そうそう。「あとがき」のこの箇所も引用しておかなければ。

「率直にいって、わたしの日本語論に刺激をあたえてくださったのは専門の国語学者もさることながら、じつはすぐれた日本語の『ユーザー』たちであった。同時代人のなかではたとえば司馬遼太郎、ドナルド・キーン、梅棹忠夫、山本夏彦、小沢昭一、井上ひさし、筒井康隆、高島俊男、江国滋、永井愛、といったかたがたの日本語についての著作や発言がわたしにはたのしく、またおしえられることがおおきかった。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靴の空箱。

2010-10-22 | 他生の縁
2004年に出た本で鼎談「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)がありました。
鼎談は瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、鶴見俊輔の3名。はじまりに、こうあります。

「大正11年(1922年)生まれが三人揃うというのは珍しいでしょう。それもほとんど一月しか離れていないですからね。・・・」

その本の最後に、「それぞれの『あとがき』」とあり、3人が別々に書いてあり、瀬戸内さんの文に

「いつものことだが、鶴見さんは10センチもの高さに及ぶメモを用意され、信じられない正確な記憶力を駆使して縦横無尽に話される。・・・」とあります。


この箇所を思い出したのは、加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいた時でした。そこに、加藤秀俊氏がはじめて、鶴見研究室のドアをあけたときのことが書かれていたのでした。こうあります。


「あけたとき、わたしはびっくりした。というのは、鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつもならべられており、その空箱にカードが乱雑につめこまれていたからである。本もいくらかはあったが、本の占めるスペースより、はるかに多いスペースを靴の箱が占領していたのだ。鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべながら、どうです、いいでしょう、B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり入ります、値段はタダです、カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。なるほど・・・・・。それらのカードには、青鉛筆と赤鉛筆でなにかが書きこまれていた。鶴見さんの字は、じぶんだけがわかればよい、という、一種の略記号のようなもので、わたしには部分的にしか判読できなかったが、これらのカードが素材になって、鶴見さんの思索が展開してゆくらしいことはよくわかった。ついでにいっておくと、鶴見さんは、いつも紺のジャンパーを着ていて、胸のポケットには赤と青の色鉛筆が何本か無造作に突ききまれていた。どうやら、この人は、ふつうの万年筆や黒鉛筆は使わない人らしい、とわたしはおもった。ときどき本を借りると、そこにも赤と青でいろんな書きこみがあった。この書きこみにいたっては、いよいよ判読不明で、すべてがわたしにとっては謎であった。・・・・」

このあとに、鶴見さんのデスクのひき出しが紹介されているのでした。

つぎに紹介するのは、鶴見俊輔・多田道太郎対談「カードシステム事始」の最後の鶴見さんの言葉です。


「私たちが京大でやったのは、いまの共同研究のイメージとはぜんぜん違うわけ。つまりね、あのときのカードは機械のない時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、もちろんコンピュータやEメールもない。いわば、穴居時代の技術です。コンピュータのいまのレベル、インターネットのいまのレベルという、現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。穴居時代の技術は何かということを、いつでも視野に置いていかなきゃいけない。
それとね、私たちの共同研究には、コーヒー一杯で何時間も雑談できるような自由な感覚がありました。桑原さんも若い人たちと一緒にいて、一日中でも話している。アイデアが飛び交っていって、その場でアイデアが伸びてくるんだよ。ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。私は『おもしろい、おもしろい』って聞いているから、それだけが彼の報酬なんだよ。何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)雑談の中でアイデアが飛び交い、互いにやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。・・・・・」(「季刊 本とコンピュータ7 1999冬」)


ここに、「その場で、アイデアが伸びてくるんだよ」という言葉がある。
この「伸びてくる」というのは、どんな手ごたえなんでしょうね。


ちょうど、加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)をひらいていたら、
そこに、こんな箇所。

「『遠野物語』から一世紀。テープ・レコーダーはもとより、電子録音機まで自由につかえるのに、まだ『口話』の世界をそのまま学問のなかで市民権をもたせることはすすんでいないようなのである。『はなしことば』をそのまま『文字』に、というのは口でいうのはやさしいが、これは近代日本語の根本問題でありつづけているのだ。」(p152)

「柳田先生がなんべんも警告されたように、われわれの生きている社会は『文字本位』であって『はなしことば』をおろそかにしてきたのである。」(p158)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

段ボール箱と本。

2010-10-21 | Weblog
世に「一箱古本市」なるものがあるそうで、地方にいると、疎く、ただ想像するばかりなのですが、いったい、どんな本が並んでいるのかなあ。
さてっと、私は読まない癖して、ついつい平台とか机に、読みかけの本を置いて、積読をしていたりしております。最近思い立って本の箱を片づけていると、へんなもので、机の積読が気になる。ちょいとたまって積んである本も小さい箱に並べて、すぐに題名がわかるようにすればいいのじゃないか。などと、思ってみたりするのでした。いざ整理しだすと、そんなことまで気になるものです。
ということで、最近の机上本を箱にならべてみました。
思えば、本が十冊ぐらいならべられる箱というのは、それなりに身近で探せる。

  「季刊 本とコンピュータ 7」1999冬号 
    鶴見俊輔・多田道太郎対談が掲載されておりました。
  鼎談「同時代を生きて」岩波書店 2004年
    鶴見俊輔・ドナルドキーン・瀬戸内寂聴の鼎談
  加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社 C・BOOKS)
  司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)
  梅原猛対談集「少年の夢」(小学館)
  対談「歴史の夜ばなし」(小学館ライブラリー)
     司馬遼太郎・林屋辰三郎対談
  加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)
  黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)
  「柳田泉の文学遺産 第二巻」(右文書院)
  「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社)
  梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)
  「日本の未来へ司馬遼太郎との対話」梅棹忠夫編NHK出版
  梅原猛全訳注「歎異抄」(講談社学術文庫)

というのが、最近の私の机上本を一箱に納めたリスト。
こうして、おさめちゃうと、読まなかったりするのが難点。
といっても、積読でも読まないのだから同じです。
せめて背表紙が見えるだけでも。

そうそう。一箱古本市の話でした。
いったい、どんな本が並ぶのでしょうね。
その一箱一箱を、順に眺めてゆく楽しみ。
それを私は、知りません。
せめて、家にある本を箱に小分けして
あれこれと、読もうと工夫したりしている、
そんな、自分なりの読書の秋でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

播州門徒の末裔。

2010-10-20 | 他生の縁
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文芸春秋)に
司馬さんと浄土真宗との関連が、読めるのでした。

とくに、
「浄土 ―― 日本的思想の鍵」と「日本仏教小論 ―― 伝来から親鸞まで」を読みかえしていて、はじめて読んだような魅かれかたがありました。
まあ、とりあえずは、司馬さんと浄土真宗との関連の箇所。

「なぜ中世の浄土真宗が、そのように布教に熱心だったかと言いますと、領地がなかったのです。おなじ浄土教でも浄土宗と浄土真宗が際立って違っていたのは、浄土宗には領地があり、どんな寺でも小さな田圃か山林を持っていることでした。つまり浄土宗は農地地主として寺を維持していました。・・・ところが、一方の浄土真宗というものは、そんなものはなかったわけですから、信徒をもって田圃にする。そのことを古くからある仏教用語で福田(フクデン)と言いました。私(司馬さんのこと)のところも信徒でしたから、私の戸籍名福田(フクダ)は、フクデンからきているわけです。播州の亀山の本徳寺というところの門徒であったことを喜びにして、福田という姓にしたそうです。はじめの戦国時代は三木という姓だったんですが、江戸期には福田ということにして、明治以後、お上に届け出たそうです。要するに門徒だということを喜んでいるという変な姓です。」(「浄土 ― 日本的思想の鍵」)

なお、この「浄土 ― 日本的思想の鍵」を読んでいると、私は加藤秀俊著「メディアの発生」に出てくる宗派の関連が、より理解できたような気がしてきます。


さて、司馬遼太郎の「日本仏教小論 ― 伝来から親鸞まで」のはじめの方にも、こんな箇所がありました。

「私の家系は、いわゆる【播州門徒】でした。いまの兵庫県です。十七世紀以来、数百年、熱心な浄土真宗(十三世紀の親鸞を教祖とする派)の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、ただし蚊遣りはかまわない、蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、私がここに立っている資格の一つかもしれません。」


山折哲雄氏の親鸞が著作を学問的にたどるのに対して、司馬遼太郎氏のこの2つの文のほうが、私に自然な空気のように吸い込むことができるような読後感がありました。とにかくよく整理されてわかりやすく、しかも身近な地続きな言葉で、語られている。
素敵な2つの文なのでした。とあらためて思ったのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見せたらいかん。

2010-10-18 | 他生の縁

山折哲雄氏は、
「私の場合は岩手県の浄土真宗本願寺派の末寺に生まれたので、自然に親鸞と出会うことになった。子どもの頃から親鸞、親鸞で、それはもう耳にたこができるというぐらいの環境で育ちました。」と語っております。

そういえば、司馬遼太郎は、どうだったのか。
たしか司馬さんの家の宗派は、浄土真宗だったと思います。
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」に、「学生時代の私の読書」という文が掲載されております。そこに、こんな箇所

「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がします。」

さて、最近司馬遼太郎・林屋辰三郎対談「歴史の夜話(左が口、右が出)」に、こんな箇所があるのでした。

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、いまでも持っているというのは、われわれの一つの幸福ですね。非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で語られたということは坂東人の偉業だったと思いますね。
『歎異抄』というのは、いかにもまた東国のフロンティアのにおいがありますね。親鸞が東国へ流されますが、どれだけ布教熱心だったのかよくわかりませんが、とにかく周りの人を教化しました。京都へ帰りましたら、また坂東に異安心(いあんじん)の雑想が芽生えてくるわけです。南無阿弥陀仏は呪文なのかとか、あるいは南無阿弥陀仏を唱えたら、ほんとうに極楽へ行けるのかとか、疑問になってくる。それで東国から代表者たちが押しかけてきて、京都で親鸞と一問一答するわけでしょう。これは当時の農民の民度からいえば非常に高級なことです。それを親鸞がまともに受けて答えているからいいんですね。
それをまとめたのが『歎異抄』で、唯円坊というのが質問の筆頭人で、後に文章にした人だと思うのですが、これが京都の人なら、同時代の京都の人が疑問を持っても、『ああ、わかりました、わかりました』で、帰っていくと思うのです。いいかげんにする文化が西にはあるんです。あんまり本質をほじくり出すのはえげつないという、それは差しさわりがあるなどと。
これは人口の多い所には必ずある現象ですが、坂東は人口の少ない所ですから、人と人とがほんとうに向き合って接触するときには、対決の形をとる。問答というか対話というか、ギリシャみたいな話になりますけれど、対話という形をとらなければならない。それは武家の親類どうしで土地争いをする場合には訴訟ということになりますが、その訴訟は平安末期から鎌倉幕府成立前後の風土です。だから自分の主張を言葉で表現する。そしてあくまで通すというのが、坂東の精神だったわけです。フロンティアの精神ということでかさねあわせると、そういうことになる。
そういう土のにおいのする中から日蓮が出たり唯円坊が出て、たとえば『歎異抄』という文章日本語の名作を起こしたりしたわけで、かんじんの関西の本願寺さんは、『歎異抄』を明治まで隠していたんですね。『これを見せたらいかん。こんなに明快なものを見せると、門徒衆はありがたらんようになる』と。そのぐらい、『歎異抄』は大げさに言えば人文科学的なものです。そういう精神は、鎌倉幕府の成立前後は坂東にみなぎっていたんだろうと思います。




つい、引用が長くなりました。
一読、印象が鮮明で、忘れられない言葉と出合った気がしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩人とは。

2010-10-17 | 詩歌
丸谷才一著「あいさつは一仕事」(朝日新聞出版)に、
吉田秀和文化勲章を祝う会での祝辞「わが文章の師」というのがありました。
そこで、吉田氏の文を引用しております。そこにはチャーチルが登場するのでした。その途中から。

「・・・昭和十年代のいはゆる日支事変について議会で質問されたときの答弁。『日本の派遣した百万の大軍は、むなしくアジア大陸を彷徨しているにすぎない』といふのですね。このチャーチルの答弁を吉田さんは新聞で読んで、その簡潔さと鋭さ、『この戦争で日本がやっていることの真相を喝破している』のに打たれた。『これを読んだ時、はじめて、一つの真実を完全に言い当てる言葉というものにぶつかって、痛棒を喰らったように感じた』。戦争中も敗戦のときもそれを思つた。と書いてゐます。そしてかうつづける。要約的に紹介しますよ。
『詩人とはこのやうな、人が一度きいたら永遠に忘れられない言葉を発する人のことを言ふ。その言葉は真実を述べてゐるから、いつまでも残る。詩人とはさういふ使命を帯びて生れた人のことだ』そして、チャーチルは政治家であり、歴史家であるが、つまりは詩人なのだ、となるんです。この詩人論、日ごろよく詩に親しんでゐて、しかもごく若いころに中原中也とつきあつた人の説なので、いい所を衝いてますね。ツボを押へてる。・・・」(p23~24)


そういえば、
司馬遼太郎・林屋辰三郎対談「歴史の夜(右が口、左が出)」(小学館ライブラリー)のなかの「フロンティアとしての東国」での「歎異抄」を語っている箇所が、印象に残っております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親鸞新書三冊。

2010-10-16 | 古典
とぎれとぎれで、山折哲雄著「『教行信証』を読む」(岩波新書)を読みおえました。こんなの読んだことになるのかなあ。と思いながらも、とにかく目を通したといったところ。そのあとがきにあるように、これは山折哲雄氏の新書での「親鸞」3部作といったような本らしいのでした。
  「悪と往生」(中公新書)
  「親鸞をよむ」(岩波新書)
  「『教行信証』を読む」(岩波新書)

私は歎異抄も教行信証もひらいて見ない癖して、その解説書を読んでいることになります。
それに、「悪と往生」は、まだ読んでない(笑)。
これじゃ、まだ、スタートラインにも、付いてないなあ。
そういうふうに、沈黙を強いる内容なのかもしれませんが、
まあ、それはそれ、お気楽に、「『教行信証』を読む」を語ろうと思います。

あとがきは、
「思えば、長い道のりだった。親鸞の『教行信証』につき合ってから、もう半世紀が経つ。」とはじまっておりました。もうすこしつづきを引用。
「その間、この難解きわまる書物に立ちむかい、何度立ち往生したかしれない。そのたびに、心が萎えるような挫折をどれほどくり返してきたことか。」

本文中には、こんな箇所もありました。

「もう三十年も昔のことになるが、大学院のゼミのテキストにこの『教行信証』を選び、数人の学生諸君と二年間悪戦苦闘したことを思いおこす。結局は迷路に追いこんでいくだけの二年間だったが、『教行信証』という言葉がどのようなことを意味するのか皆目見当がつかなかったことだけはよく覚えている。・・・」(p46)


その『教行信証』という題について、読み解くことが、そのままにこの新書の道筋としてあるように、私は読みました。読み返す際は、今度は最後の章を、あらためて読んで行きたいと思います。

新書を二冊読んだので、つぎは未読の「悪と往生」へと触手をのばそうかと思う、読書の秋なのだ。そして、いよいよ歎異抄かなあ。教行信証は無理ムリ。そういえば、「親鸞を読む」にこんな箇所があったなあ。

「『和讃』は親鸞がその思想と信仰のエッセンスを当時の人びとの心にとどけようとした民衆詩だったといっていい。かれはその制作のため、最晩年の七十代から八十代を費やしていた。このような連続的な仕事のいわば棹尾を飾るものが『正像末浄土和讃』だったのだ。末法を生きる親鸞の覚悟を示す漢字片カナ混じり文の作品である。」(p34)

うん。岩波文庫の「親鸞和讃集」を身近に置いて、すぐにひらいて見れるようにしておこう。と思ったり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猛烈な伝統。

2010-10-15 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に

「私のつきあった人のおおかたはなくなった。」とはじまる
「対話をかわす場所」(p206~208)という題の文があります。
そこに「河合隼雄は亡くなったが、私はこれからもくりかえし会って、その話をききたい。・・・・日本の文化を・・他の文化とつきあい、まじりあう場所として保つ工夫が、彼には残っていた。」とあります。

河合隼雄氏は、けっこう新聞・雑誌に連載をなさっておりました。
私は、その連載のひとつを切り抜いてとってあります。
「おはなし おはなし」という朝日新聞での連載でした。
毎回違う絵が描かれていて、それが遠藤彰子さん(安井賞をあとで受賞)の絵でした。
絵と文を、どちらもステキです。
あとで、単行本になった際には、その絵がもう再録されることなく、
残念。というか、切り抜いておいてよかった。と思いました。


さて、その「おはなし おはなし」のひとつに「下宿の溶鉱炉」と題した文があります。そこに「当時の私は、ともかく食物に金を使うのはもったいないと、決めてかかっていた。食べることはできる限り節約し、古本屋めぐりをして、本を買うことに心をくだいていた。欲しい本を見つけてもすぐに買えず、金がたまるまでは、見に行ってはまだあるぞと確かめる。とうとう金がたまって行くと、既に売れていた、などということもあった。
こんなふうに熱心になると、本を買うことに大きな意義を見いだすことになって、買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ。・・・」

こういう「買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ」という箇所に、自分としては、心当たりがあるので、うんうん、と強くうなずいてしまうのでした(今もかわらないなあ)。

さてっと、そのあとに鶴見俊輔氏の名前が登場しております。

「食物よりも書物をという私の態度に、兄は少しあきれているようであったが、ある時、『人文には、お前よりもっと凄いのがいるらしい』と感嘆しつつ教えてくれた。当時の動物学教室の生態学の人たちは人文科学研究所と関係が深く、そこでの噂を聞いてきたらしい。兄によると、『鶴見俊輔というのは、ロクにものも食べずに本ばかり読んでいる。そのうち、やせて死ぬんじやないかと心配』なほどだとのこと。・・・二人とも勉強しない点についてはよく自覚していたので、食物よりも書物で生きている新進気鋭の学者、鶴見俊輔という名前が心にきざみこまれた。人生はわからぬもので、以後三十年ほどもたって、その鶴見俊輔さんにお会いする機会に恵まれることになった。・・・ともかく『やせて死にそう』ではなかった。・・・・」


うん。この箇所を思い出したのは、
加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいるときでした。
こんな箇所がありました。

「わたしが人文科学研究所の助手になったころ、鶴見俊輔さんは西洋部の助教授であった。その鶴見研究所は、助手の大部屋のむかいがわにあった。」

そこで、加藤秀俊氏は、食べ物にまで言及しておりました。
というか、鶴見さんは噂のまとだったのかもしれませんね。

「・・デスクはさらにふしぎだった。ひき出しはほとんどが空っぽで、そこには、チーズや胡瓜がほうりこまれていた。鶴見さんは、こういう簡便食を、必要におうじてかじりながら勉強し、夜が更ければ、そのまま床にころがって寝てしまうのであるらしかった。つまり、鶴見さんにとって研究室は簡易宿泊所をも兼ねていたようなのである。だいたい、人文というところは、研究室で夜明かし、といった猛烈な伝統があり、あかるいうちに帰宅する若い研究者などは、用務員のおじさんたちから、ダメです、もっと勉強しなさい、と叱られたりすることもあったらしい。
鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに東京工大に移られたから、いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。・・・・」(p79~80)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親父は先達で。

2010-10-14 | 短文紹介
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)に
小山修三氏について、梅棹氏が紹介している箇所がありました。
小山氏とは、どんな方なのか。


「吹田市立博物館長の小山修三氏は、国立民族学博物館(民博)の名誉教授でもある。ときどき民博へ来てはしらべものをし、わたしのところにも顔をみせおしゃべりをしてゆく。わたしも、やりのこしている仕事や編集中のほんのことなどを話題にしていた。
昨年六月にひらかれたわたしの米寿記念のあつまりには、かれは準備段階から参画し、半年間わたしのところにかよって週に一度のインタビューをつづけ、わたしの体調と気分を引っぱりあげてくれた。シンポジュウム当日は、コーディネーターとして、わたしや発言者たちの話をうまくつなぎ、その内容を一冊の本にまとめるときも、編者のひとりとして本の完成を最後まで指揮した。
このほど・・・・小山氏と習慣のようになった対話を再開した。話は梅棹アーカイブズのなかから、中学時代の山ゆきのノートや、それをまとめた山岳誌など、なまの資料を手にしてすすんだ。おかげで、本書に収録した各論稿を再確認し、あらためて、わたしの行きかたをふりかえることができた。つぎにかかげるのがその対話のまとめである。(2009年・・)」

こうして「山をたのしむ」の最後は、小山氏との対話が掲載されておりました。

そのなかに、あれ、と思った箇所。

小山】 日本独特のものはないのでしょうか。山伏とか、坊さんとか。
梅棹】 そっちも流れている。明らかに、大きな文化の流れや。
大衆登山というか、宗教登山やな。立山の剱岳の頂上で錫杖の頭が見つかったというから、平安時代まで遡る。わたしも、子どもの時から、その洗礼を受けています。うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。先達というのは山ゆきのリーダーで、二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。うちの玄関を入ったところの上に、先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。親父は大峰山へせっせと行っていました。
小山】 お父さんから、山登りの話を聞いていましたか。
梅棹】 聞いています。誰もそうは思ってないだろうけれど、わたしにはそういう『血統』があるな。
小山】 ああ、そうか、山伏の養分も入っているのか(笑)。   (p317)


そして、学生時代の山登りの様子が語られております。


小山】 でも、落第した。学校へ行かんと山ばかり行ってたからですか。
梅棹】 まあねえ。三高山岳部の部屋に、大きな方眼紙が貼ってあって、左はしに部員の名前が書いてある。山へ行った日数を棒グラフで伸ばしていくのです。もっとも、土曜日のお昼に授業が終わったらすぐに山へ出かけて、これで一日になる。月曜日の授業にとにかく間に合えばいいから、月曜日も一日に勘定できる。それで土曜日から三日。わたしの登山日数は毎年トップで、100日をこえた年もあった。そら、落第もするわいな(笑)。一年の三分の一を山についやしていたんやから。
小山】 半分以上じゃないですか(笑)。授業もまじめに聞いてなかったんでしょう。
                    (p325)


という、引用するなら、ずらずらと全部引用したくなる対話となっております。
その対話の題が「山と探検と学問と」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バカなことを。

2010-10-13 | 他生の縁
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社・C・BOOKS)に
人文の助手に入ってのことが書かれておりました。

「人文では、その職階のいかんを問わず、研究発表の義務があり、わたしも、入所して三カ月ほどたったとき、みずからの研究について、なにかを発表しなければならないことになった。」(p86)

どんな発表をしたのか?

「いまでもはっきりおぼえているけれども、そのさいしょの発表にあたって、わたしはE・フロムの『自由からの逃走』を材料にして、「国民性」研究の動向をのべ、日本人もまた、フロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっているのではないか、うんぬん、といったようなことをのべた。」

そのあとの先生方の質問の終りに今西錦司先生のコメントが印象深いのでした。
いったい、どんな指摘だったのか。

「そのとき、それまでずっと口をへの字にむすんでおられた今西先生が、おまえはものごとの順序を逆転している、とおっしゃった。フロムはフロムでよろしい。サド・マゾヒズムも結構だ。しかし、なにを根拠にそういうことを口走るのか。フロムは、どれだけの実証的事実をもっているのか、ましてや、日本人をそれに対比させるにあたって、おまえは、ひとつもその根拠になる事実をのべていないではないか、というのが今西先生からのコメントだったのである。・・・・・つづけて、おまえには、まず他人の学説にもとづく結論があり、その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論とおぼしきものを模索してゆくのが学問というものである。ばあいによっては、結論なんか、なくてもよろしい、これからは、事実だけを語れ――そういって、今西先生は、タバコに火をつけて、プイと横を向いてしまわれた。・・・・・わたしは、ただ首をうなだれるのみであった。そのわたしを、なかば慰め、なかば追い討ちをかけるように、藤岡喜愛さんが、まあ、そういうことでっしゃろな、ではこれで、と散会を宣してくれた。それでわたしは、その場を救われたのである。」


そのあとに、今西流学問のすさまじさが、語られております。

「この研究会の議論たるや、ものすごいのである。梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、・・・それぞれに頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、としかおもえないほど議論は白熱した。だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材に関しては、絶対的な信頼を置くというのである。一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいたものであることが多い。トインビーがこういっている、マルクスはこう書いている――そんなふうに、高名な学者や思想家の名前をひきあいに出せば、一般の日本人は感心する。しかし、そういう論法はこの研究会ではいっさい通用しなかった。トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんはカンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」


思い浮かべるのは、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)の最初の方に、和辻哲郎さんが登場する箇所でした。

小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。

  こう小山修三氏が話を向けると、梅棹忠夫氏は語ります。

梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ、『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】 そうや。どうして『風土』などと言っておきながら、ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを言うのか。どうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、整然たるものだと思い込んでいる。ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。そんなことが、現地を見ているはずなのに、どうして見えないのか。
小山】 見せかけにだまされているのですか。
梅棹】 見せかけにだまされるのならまだいい。それとはちがうな。あれは思い込みや。わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに行くところであって、調査に行くところとちがう』と。それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところかとうことを説得した。『あんた、ヨーロッパのちょっと田舎のことがどれだけわかってるのか』と問い詰めると、何も知らない。『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』とちがうか、それがわからない。・・・・(p26~27)




もう一度、加藤秀俊氏の本にもどって、先ほどのつづきを引用。

「フィールド経験は最高に信頼された。たとえば、アフリカの某地方に特定の植物が栽培されている、というフィールドからの報告があれば、たとえ他のあらゆる書物にその植物についての記載がなくても、書物よりも体験知のほうが尊重された。どこかに行って、そこで直接に知った事実――それがこの研究会でいちばんだいじなことだったのである。そして、それらの事実を土台にして、さまざまな仮説がつぎつぎにつくられていった。書物を読んでも出てこないような珍説・奇説がとび出した。1960年代におこなわれた宗教の比較人類学的研究などは、わたしにはいまも忘れることのできない教訓をふくんでいる。」(p88~89)

ついでなので、いま読んでいる対談「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(梅棹忠夫編著・NHK出版)から

司馬】 ・・・・それにしても、梅棹さんは何年も前からマルキシズムは崩壊すると言っていたでしょう。あんなこと言ってた人はほかにいません。どうしてああいう予感があったのか、そのへんから話してください。
梅棹】 わたしがそれを言いだしたのは1978年だったと思います。東ヨーロッパを旅行したんですよ。ユーゴ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコと歩いて、これはひょっとしたら、わたしの目の黒いうちに社会主義が全面的に崩壊するのを見ることができるかもしれんと言ったんです。なぜかというと、あのころで、東欧諸国は革命後30年以上たってるわけですね。ソ連は60年ぐらいたっていた。これがその成果かというぐらいひどいんですよ。いったい、社会主義になって何がよくなったんだ。何十年かかって、たったこれだけのことしか達成できなかったのか。これではだめだと・・・。
司馬】 同じころ日本社会党の代表も東独見学に行っていますが、人間というのはふしぎなものですな、おなじものをみて、このほうはすっかり東独びいきになって、日本は東独のようにやらないかんという新聞記事が出たのを覚えていますよ。
梅棹】 バカなことを。何も見えていない。
司馬】 ひとつに、招待されてる人と、それから一人の知識人が素足で歩いているのとの違いでしょう。・・・・・・
梅棹】 こっちは自分の金で行ってますからね(笑)。  (p41~42)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする