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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

とんでもない道案内。

2018-08-31 | 古典
百目鬼恭三郎著「乱読すれば良書に当たる」(新潮社)の
はじめの方に、こんな箇所がありました。

「案内が必要なのは、物見遊山にとどまらない。
音楽や美術などの教養を少し身につけようとするときにも、
案内つまり入門書や読書の手引きは必要である。が、実際には、
この入門書というものの選択がなかなかむずかしい。
下手をすると、とんでもない所へ連れて行かれてしまうからだ。
私もひどい道案内によってわき道に入りこんでしまった
苦い経験を随分重ねている。・・・」(p18)

つい、最近。ああ、これかもしれないという、
私への道案内人に出会えた気がしております。

西尾実著「道元と世阿弥」(岩波書店)をひらきました。
そこに『文学』が語られる箇所があるのでした。
うん。うん。と、うなずき読みました。

「わが国には、近代になるまで、
いまわれわれが使っている『文学』ということばで
あらわしている文学意識はなかった。なるほど、
歌はあった。物語はあった。日記・紀行・随筆等々はあった。
しかし、それらを通じ、それらのすべてを被う
『文学』という意識は十分には発達していなかった。
それは、近代になって、訳語として行われてきた。そうして、いまは、
短歌も、俳句も、詩も、小説も、随筆も、評論も、形はさまざまだが、
通じて文学であるという立て前で書かれ、読まれている。

しかし、われわれの文学は、まだ、そういう、
いわゆる文学だけが文学だという狭さに閉じこめられている。
歴史家の業績にも文学があり、
哲学者・科学者の著述にも文学があり、
宗教家の述作にも文学があることを、
われわれの間では、まだ十分に発見し得ていないもののようである。
それは、何よりも、われわれの持っている
日本文学史とか、国文学史とかいうものを開いて、
よその国々の文学史と比べてみれば、明らかなことである。
わたしが、道元の遺著に、
いわゆる文学ではない文学を見いだすというのは、
日本文学史が書き直されなくてはならぬと
言われてきたことからいっても、
そんなに、ひとりよがりな考えかたではないと思う。
・・・・」(p11~12)

ちなみに、これは西尾実氏が、
「道元遺著の放つ光輝」と題して
昭和25年4月に発表された文にあるのでした。
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中国の状況を正確に伝える。

2018-08-30 | 産経新聞
産経新聞8月30日一面右下に
「中国、本紙の代表取材拒否」という見出し。

「中国当局は29日・・・産経新聞記者が会談冒頭を
取材することを拒否した。・・
会談の冒頭取材をめぐっては、日本人記者会側が28日、
代表記者として産経新聞と日本経済新聞記者を選び、
在中国日本大使館を通じて中国外務省側に通知、
中国外務省が同日中に『産経記者は認められない』と
日本大使館側に通告し、両国間で調整が行われたが、
中国側は翻意しなかった。

中国当局は今年6月、日本記者クラブが主催した
中国チベット自治区への取材団派遣をめぐっても
産経新聞の参加を拒否。日本記者クラブは
『「言論・表現の自由」の観点から承認できない』
として派遣を中止した。

産経新聞は3月、李克強首相が全国人民代表大会閉会後に
行った記者会見への出席も昨年に続き拒否されている。
・・・・」


はい。拒否された事実を正確に読者に伝えておりました。
ありがたい。


ちなみに、今日の
「阿比留瑠比の極言御免」から引用。

「『正直、公正』の石破茂元幹事長か
『責任、実行』の安倍晋三首相かー。
自民党総裁選で2人が掲げたスローガンを見比べていて、
4年前の話を思い出した。あの時ああしていれば・・
と過去を振り返っても詮無きことである。
そうではあるが筆者は、
石破氏は平成26年9月の内閣改造に当たり、
安倍首相から安全保障法制担当相就任を打診された際に、
固辞せず受けるべきだったと今も考えている。」

はい。これが文章のはじまり。導入部。
うん。産経新聞を購読していれば、
そのあとを読めるのにね(笑)。

失礼、ネット上では産経ニュースを
見れますね。
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途中で投げ出した口だった。

2018-08-29 | 前書・後書。
百目鬼恭三郎といえば、「読書人読むべし」という題が
宣伝されていたことがあり、御多分に漏れず買ったのでした。
けれど、読めなかった記憶があります。

まあ、そんなわけでこの人の本は、手がでなかったのですが、
古本でまとめて購入した中に「奇談の時代」があって、興味深く。
それが読み終わらないうちに、「乱読すれば良書に当たる」を
古本で安く購入。こちらも面白そう。

はじまりは
「この本の宣伝のための架空講演」です。

「いつだったか、さる所で講演をした折、聴衆の一人から、
お前が出した『読書人読むべし』という読書案内には、
専門家が使うような本ばかりあげてあって、
我々のような一般読者向きの本はほとんど紹介されていない、
お前は一般読者をバカにしているのか、と叱責されたことが
あります。・・・」

 架空講演はこう始まっておりました(笑)。

「・・私には読み通せなかったか、
読んだもののよく理解できなかったか、のいずれかで、
他人様におすすめできるだけの自信がなかったから、
紹介しなかっただけのことなのですね。
『神曲』だの『ドン・キホーテ』などは、
読んでもさっぱり面白くなくて途中で投げ出した口
だったとおぼえています。・・」


はい。これだけでも買って正解でした(笑)。

ひとつだけ引用します。
夏目漱石の「坊つちゃん」を取り上げた箇所。
はじまりはというと、

「多くの読者が、夏目漱石の作品に人生哲学を求める
読みかたをしている、ということに気づいたのは
旧制高校の一年生のときである。・・・

当時の私にとっての漱石は、『坊つちゃん』の作者、
『草枕』や『虞美人草』の作者であって、
おなじ漱石の作品でも、理窟の勝った『行人』や
『こころ』はどうしても好きになれないでいたのである。」


はい、こんな風にはじまっていて、5頁。
その最後のページを引用しておきます。

「初期の漱石は、天与の想像力をのびのびと発揮して、
『坊っちゃん』や『草枕』を書いた。
が、漱石はやがて、想像力を駆使することをやめてしまい、
人間性を追求する小説を書きはじめた。その最初が
『三四郎』『それから』『門』の三部作であり、
以後、『彼岸過迄』『行人』『こころ』と、
その傾向は深化してゆく。そして、それに反比例して、
漱石の天与の才能は影をひそめてゆき、
吉田健一氏がいみじくもいったように、
真の意味の小説ではなく、
小説の雛形になってしまっていたのである。
『坊っちゃん』が、漱石の最高傑作であるという評価が、
少数意見でなくなる日の来ることを、私は願っている。」
(p40~44)


はい。最初に百目鬼恭三郎著「読書人読むべし」(新潮社)を
読んだのが間違いのもとでした。
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総裁選の前の、跳梁跋扈。

2018-08-28 | 短文紹介
月刊雑誌Hanada2018年10月号。
まずは、蒟蒻問答を読み始める(笑)。
ちなみに、対談者お二人、堤堯・久保紘之。
どちらも、1940年(昭和15年)生まれ。


この前は、堤堯氏が入院していたはずなのに、
交互に入院したりするのは、気になるところ。
今回は久保紘之氏が退院してきたところです。
はじまりは、

堤】まずは久保ちゃんの臨死体験から行こうか(笑)。
  ・・・・・

久保】大量に下血して、それが二日間続きました。
それで一気に血圧が下がって、最後には目の前が真っ暗に
なっちゃって何も見えない、眩暈はする、吐き気はする・・・
こりゃいかんと頭を心臓よりも下にして、
廊下を這いつくばってトイレから居間まで移動しました。
ここでもし立っていたら心筋梗塞か、
脳に血がいかなくて脳梗塞になっていたと、
あとで医者に言われましたよ。
普通、ヘモグロビンの数値は14~16だけど、
僕はわずか6で、四割弱しか体内に血が残っていなかったそうです。

堤】頭を心臓より下にする、そんな医学知識があったの?

久保】本能です(笑)。
(p100)


う~ん。週刊誌や月刊誌が、健康特集や医療特集をするはずです。
対談で病状報告からはじまるのも、時宜にかなっている。
この蒟蒻問答の読者も年齢が高いに違いない(笑)。

ということで、脱線しながらも、本題にはいります。

堤】さて、そろそろ本題に入ろうや。
9月に行われる自民党の総裁選についてだ。
どう見ている?

はい。蒟蒻問答は、選挙にかかわる対談だと、
今までもそうですが、俄然、溌剌となるお二人。
気のせいかなあ(笑)。


この本題について

久保】 ・・が、僕は何よりも新聞の元気のなさが気になる。


堤氏の「跳梁跋扈」を列挙してゆく箇所は、
これはどうしても、引用しなくちゃ。

堤】 総裁選が近づくと、いつも『ゾンビ』どもが
跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し始める。・・・
まずは小泉純一郎と小沢一郎が『原発ゼロ』を掲げて
ドッキングした。かつては水と油よろしく対立した二人
の握手は、・・不可解な連携だよ。『原発ゼロ』というけど、
具体策は何も示せない。『原発漸減』を掲げる
安倍への嫌がらせとしか思えないね。

次は古賀誠だ。
出馬を取り沙汰された岸田文雄がやっとの
ことで不出馬宣言し、『安倍支持』を表明した。
岸田は宏池会の会長で、前会長で反安倍を標榜する
派閥のボス・古賀誠との調整に苦悩した。・・・

お次のゾンビは青木幹雄だ。
竹下派の参院議員(21人)が石破茂支持を表明した。
これは派閥のボス・青木の鶴の一声で、青木の息子・
一彦の選挙区が石破の選挙区と合区されたことによる。
一方、参院議員(34人)の多くは安倍支持に回る。
つまりは天下国家のために誰を総裁に選ぶのかではなく、
ボスの息子可愛さから、派閥分裂で総裁選に臨むわけだ。
・・・

最後のゾンビは福田康夫だ。
この六月、福田は南京記念館を訪れた。
日本テレビ系が放映した『南京事件Ⅱ』を観て、
『やはり旧日本軍が中国人を殺したのは事実なんだ、
行こうという気持ちを強くした』というけど・・・
先月号で阿羅健一が番組を詳細に批判して、
要するに中国の提灯持ち番組以外の何ものでもない
と結論づけていたけど、そのとおりだ。
なんな番組を吹聴して南京事件を云々するのは、
近く日中首脳会談を予定する安倍への嫌がらせとしか
思えない。
・・・・・

堤】候補者が争う総裁選は六年ぶりだけど、
前回は党員票が石破は165票、安倍は87票。
そこに石破は夢を託しているようだけど、
当時といまとでは状況がまるで様変わりしている。
この六年で安倍は経済、安全保障で実績を積み上げてきた。
片や石破に何の実績がある?
何もないじゃないか。

久保】囲碁の大竹英雄の言葉に、
『負けの型を整える】というのがあるけど、
石破も『どういう負け方をするのか』という段階と言えますね。
ところが石破は
『(自分を支持したら)「終わったあとは干してやる」とか
「冷や飯を覚悟しろ」などというのはパラハラだ』と
遊説で訴えているらしい。これから戦う前に負けたあとの
話をする奴がいるか(笑)。




はい。蒟蒻問答はまだまだ続きます。
この引用だけで早計に判断せずに、
引用してない箇所がまだ詳しく語られています。
後は、直接雑誌をお読みください。


う~ん。『怖いものなしの臨死対談』。
とでも題したくなります(笑)。


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血となり肉となる四十年の恋人。

2018-08-26 | 古典
8月22日の産経新聞一面。
縦見出し「金足農 郷愁呼んだ昭和野球」。
横見出し「大阪桐蔭、2度目春夏連覇史上初」。
あれっと嬉しかったのは、
「金足」に「かなあし」と振り仮名がある。

それはそうと、その日の文化欄に
松岡正剛さん「千夜千冊エディション」と
松岡氏の写真入りである。
なにかとおもえば、

「読書通の間では有名な書籍案内ウェブサイト
『千夜千冊』を運営する編集者の松岡正剛さん(74)が、
同サイトを書籍として再構成した『千夜千冊エディション』
シリーズを角川ソフィア文庫から刊行した。・・」
(麿井真吾)

そこに

「読書行為そのものをテーマにした
第1巻『本から本へ』の冒頭には、
道元『正法眼蔵』・・・」

はい。さっそく注文しました。
なぜ、『本から本へ』のはじまりに
正法眼蔵を持ってきたのか?
ということに興味がある(笑)。

最近のことで思い浮かぶのは、長谷川三千子さん。
長谷川さんの本は未読積読本ばかりなのですが、
たとえば、
「神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午」
「正義の喪失」「民主主義とは何なのか」
「日本語の哲学へ」・・・
以上私は読まない癖して、とりあえず
最後の参考文献一覧を見ると、
そこに「正法眼蔵」という本はでてこない。


ところが、雑誌の特集(「諸君!」2007年10月号)
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」で
長谷川三千子さんは
「・・すぐに頭に浮かんだのは、道元の『正法眼蔵』である」
として一冊だけを丁寧に紹介しておられたのでした。
そのなかに「『正法眼蔵』を、この四十年間、
私はただもっぱらに読んできた。」とあったのでした。


ふ~ん。著書の参考文献には載らないのに、
「この四十年間、私はただもっぱらに読んできた」
という本とは、いったい、どう考えればよいのか。
文字通り「私の血となり、肉となった」一冊と
思えばよいのだろうか?

まあ、そんな興味から
松岡正剛著「本から本へ」(角川文庫)を注文。
その第1章「世界読書の快楽」のはじまりが
「正法眼蔵」からなのでした。
まず1ページ目に

「しかし困ることがある。道元を読みはじめたら
類書や欧米の思想書を読む気がしなくなることだ。
それほどに、いつも汲めども尽きぬ含蓄と直観が
押し寄せてくる。湧いてくる。飛んでくる。
深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、
ちょっとした見方で撥ねかたが異なってくる。・・・」

ここにも、「四十年」という言葉がでてきました。

「ある版元から『道元を書きませんか』とも言われている。
正直いって、とうてい書けそうもない。
なにしろ四十年にわたる密会の恋人なのだ。
思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと
・・・・・
道元を読むと、そこに浸りたくなる。
その峡谷から外に出たくなくなっていく。・・」


何いってるのだか(笑)。
ともかくも、長谷川三千子も松岡正剛も『四十年』
ということは分りました(笑)。
キャッチコピーは松岡正剛氏の
『四十年にわたる密会の恋人』。
『密会の恋人・正法眼蔵』という読書がある。

はは~ん。密会の恋人を、わざわざ
自著の参考文献に出すことはありませんよね(笑)。


コメント (4)
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朝日新聞は諦めていません。

2018-08-26 | 朝日新聞
Hanada10月号の
K・ギルバート。山岡鉄秀。櫻井よしこ。
この3人の鼎談を引用することに。
題して
「反省なき朝日新聞 今も英文では『慰安婦強制』と」。

はじまりは櫻井さんでした。

「朝日新聞は四年前の2014年8月、吉田清治氏に関する報道を
『虚偽であった』とし、取り消しました。四ページも紙面を割いて
検証していましたが、一方で朝日の本質はいまも全く変わっていません。
朝日新聞は英語報道で、あたかも慰安婦は『性行為を強制された』、
性奴隷であるかのような印象を抱かせる表現を使う報道を、
いまも続けています。」

はい。鼎談の3人の写真が載っています。

真ん中はカットして、最後の方をすこし引用
ケント・ギルバートさんの指摘です。

「たとえばジャパンタイムズは、オーナーが代わったことで
慰安婦報道にも変化が出ました。
ジャパンタイムズは、2016年の時点では
『第二次世界大戦前、および大戦中に日本の軍隊に
強制的に性行為を行わされた女性たちのことを
【性奴隷】と表現するのが妥当だというのが
ジャパンタイムズの方針である』と明言していました。

これに対しては、心ある日本の方々が抗議を申し入れる
などしていましたが、全く改まらなかった。ところが、
昨年六月下旬頃に売却されてオーナーが代わってからは、
自虐的な記事が極端に減り、慰安婦についての報道も
ほとんどなくなりました。だからいまは、
誤った英語報道の発信源は朝日新聞の英字報道だと見ていいでしょう。」
(p302)

つづいて山岡氏は、語ります。

「たとえばロイターが書いた慰安婦記事を、
朝日が配信する際、そのロイターの記事には
朝日とほぼ同じ表現が出てくる。
つまり、朝日が【forced to provide sex】
という表現を使い続ければ、それを読んで
慰安婦に関する記事を英語で書く別の媒体の記者も、
同じ表現を定型文のように使ってしまう。
だからこそ、元を絶たなければならないのです。

もはや国内の議論では、2014年に決着がついた。
しかし、朝日新聞は諦めていません。
・・・」
(p303)
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安倍が偉大な政治家なら。

2018-08-25 | 短文紹介
「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」(文藝春秋)に、
安倍晋三の父・安倍晋太郎氏の亡くなった際の記事をとりあげた
箇所がありました。
1991年7月号(91年5月)

「・・・なかには何を取り乱したのか
『権謀術数から遠かった人』と手ばなしの泣きようだった。
安倍晋太郎が、そんなに偉大な政治家だったのなら、
生きているうちに教えてくれりゃよかった。
・・・・
安倍がそんなに偉大な政治家なら、
彼の演説のサワリだけでも読ませてくれ。
ゴルバチョフに向かって何を言ったか、
その言葉を言ったままに載せてくれ。
読者はそれを読んだうえで、
安倍が偉大であったかどうかを判断しよう。」
(p624~625)


はい。安倍晋三ならば、
生きているうちに読めます。

谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)
「安倍総理と日本を変える」(月刊Hanadaセレクション)
どちらも新刊。

さらに、今日発売の月刊誌Will・Hanada10月号には
その谷口智彦氏の対談と文とが読めます。

「読者はそれを読んだうえで、
安倍が偉大であったかどうかを判断しよう。」
はい。
「偉大であったかどうか」ではなく
「偉大であるかどうか」を判断できる。

何とも、有難い。
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目の醒(さ)めたら・・。

2018-08-24 | 古典
私には長い読み物はほとほと駄目だなあ。
読んでも、あちこち気が散り、最後まで行かない。
しょうがない、これが私なのだと、腹をくくることに。
このまま行きましょう(笑)。


さてっと、朝、目が覚めたら
徒然草の一節が思い浮かぶ。

え~と。あれあれ、何だっけ。
そうだ、法然が登場する場面だ。
というようなわけで、本棚から
ワイド版岩波文庫「徒然草」を出してくる。
目次に「或人、法然上人に」とあるのは第39段。
さっそくひらく。
短いので、全文引用。

或人、法然上人に、
『念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、
行を怠りはんべる事、いかがして、
この障(さは)りを止(や)めはべらん』
と申しければ、
『目の醒(さ)めたらんほど、念仏し給へ』
と答へられたりける、
いと尊かりけり。また、
『往生は、一定(いちぢやう)と思へば一定、不定と思へば不定なり』
と言われけり。
これも尊し。また、
『疑ひながらも、念仏すれば、往生す』
とも言はれけり。
これもまた尊し。



ちなみに、徒然草は1330年頃に書かれたようだと
文庫解説にあります。
そして、法然上人は1212年亡くなっております。80歳。
そうなんだ、
亡くなって100年を過ぎているのに、
「いと尊かりけり」言葉を預かり、記している。

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今昔「ニュースステーション」物語。

2018-08-23 | 本棚並べ
徳岡孝夫氏は、ベトナム戦争最後の一日を取材しました。
それが、「新潮45」2018年9月号の巻頭随筆で、
あらためて、1頁に語られていたのでした。

その時の取材をふりかえって、
「語る言葉を選んで語り、読者にありのままを伝える。
ジャーナリズムが成すべき仕事を私は成した。」
と、この巻頭随筆に記しております。

うん。思い浮かんだのは、
「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」(文芸春秋・1994年)。
そこには「読者にありのままを伝える」のとは
正反対の事例を示す箇所があるので引用しておきます。

それは1993年8月号(93年6月)の「紳士と淑女」に
掲載された箇所。本ではp744~745にありました。

まず

「いま朝日新聞編集委員という肩書で、毎晩テレビ朝日系
『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、
したり顔の解説などしている和田俊という男。」

久米・和田の二人の顔写真も、丸枠で載っております。
和田俊は元プノンペン特派員だった。
と徳岡氏はおもむろに書き始めます。

「1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、
その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。
殺された者は百万とも三百万ともいわれる。・・・・」


朝日新聞記事を並べて、私なりの再構成。

1975年4月17日の大見出し
「カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて、
旧敵のシ殿下とも結束」。

75年4月18日社説の題は
「プノンペンの戦い終わる」

75年4月19日夕刊に和田俊氏の記事が載ります。
題は「粛清の危険は薄い?」

(以下に、徳岡氏が引用したままに)
「和田は、
そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、
次のように書いた。
『カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、
武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。
入場する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って
抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。
しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、
「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。
これを裏返せば「君たちが残っていると、われわれは逮捕、
ひいては処刑もしなければならない。それよりも
目の前から消えてくれた方がいい」という意味であり、
敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれている
ようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度と
カンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、
新生カンボジアは、いわば【明るい社会主義国】として、
人々の期待にこたえるかもしれない。』」

このあとに、徳岡孝夫氏は、こう書きます。

「プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いた
この大ウソ記事がでたころには、すでの解放(!)勢力に
よる虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った勇敢な
外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、
わずかに難を避けたのである。」

もどって、朝日新聞の記事、
75年5月17日には

「解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。
・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの
具体性に欠けている」と書いた和田の記事。


さらに徳岡氏は
75年6月8日夕刊の朝日の「素粒子」をも引用します。

「苦く思い出す、日本はかつて
ポル・ポト派政権承認国だった事実を。
国民の関心は薄かった」


このあとに徳岡氏は

「何を言うか。
『粛清の危機は薄い?』と見出しのついた
和田俊記者の前記記事・・・・・・
国を誤ったのは政府ではなく、
ポル・ポト派という『解放勢力』に
恋した『朝日新聞』である。」



もうすこし、徳岡氏の「紳士と淑女」から
引用させてください。


「カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、
インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、
折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。
『あんなことを書いてしまったヤツは、
もう世間に顔向けできないだろうなあ』と
 ・・・・
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、
その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いていいるのである。」


はい。そして、2018年「新潮45」9月号。
巻頭随筆で、ベトナム戦争最後の一日を記す徳岡孝夫。
その同じ雑誌の特集が、「『茶の間の正義』を疑え」。



長くなりますが、この機会に、もう少し詳しく。

1975年カンボジアについての「紳士と淑女」の文を紹介。
「諸君!」1992年1月号(1991年10月)に

「カンボジアに平和が戻り、シアヌーク殿下は13年間の
亡命生活を終えてプノンペンに帰還した。・・・・・・
・・・・・
顧みれば1975年4月17日、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ
は首都に入城した。解放(!)を喜ぶ人々は歓呼して彼らを迎えた。
国外のたとえば日本の『朝日新聞』も大いに喜んだ。
岩波書店発行の『近代日本総合年表』は、今なお恥ずかしげもなく
『カンボジア解放勢力、プノンペン占領』と記している。
ところが
人類史上に例の少ないほどの悲惨は、
この『解放』とともに始まった。
マルクス主義を字義どおりに信じ、
都会を資本主義の悪の巣窟と信じて疑わない解放者は、
全市民に即時農村への下放を命じた。
入院中の患者は点滴をつけたまま、
女は臨月の妊婦に至るまで、
地獄絵のような行列となって町を離れ、次々に死んでいった。
同時に資本主義分子の一斉処刑が行われ、
銀行は廃止されて札束は路上に捨てられた。
そして、その鬼のようなクメール・ルージュに世界で唯一、
強力な支援を与え続けたのは中国政府だった。

現在のカンボジアは、総人口に対する手足のちぎれた
肢体不自由者の比率が世界で最も高い国だという。
これは片や中国の武器援助を受けるポル・ポトが、
片やベトナムの傀儡政権であるヘン・サムリンが、
水田の中といわずジャングルといわず無数にばら撒いた
地雷の犠牲者なのである。
中国製の地雷とソ連からベトナムを経由して入ってきた地雷は、
平和に暮らしていたクメール人を無差別に殺傷した。
全くエゲツないことをしたものである。・・・」

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情報収集とエチケット。

2018-08-22 | 本棚並べ
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女 1980~2009」(文春新書)。
この新書の最後は、「諸君!」最終号に載った文でした。
そのはじまり

「今年の雛祭の夜のことだった。
私の体を触診し、あちこちにマジックで×マークを付けてた教授が、
ふとマーカーを置いて質問した。『今から入院しますか?』
問いにほとんど釣り込まれるように、私は『はい』と答えていた。」

途中を端折って

「ガン宣告と前後して、『諸君!』の編集長から電話があった。
『やむを得ない事情により、『諸君!』が休刊に決まりました。・・』
そうですか、長らくお世話になりました、と言って、私は電話を切った。
『諸君!』巻頭の『紳士と淑女』は、できの悪い月もあったが、
私は過去三十年、その原稿によって『諸君!』と繋がってきた。・・・」


「長年の交情に結ばれた読者とは別れづらいが、
これもまた人の世のならいである。」

このあと、大木惇夫の詩『戦友別盃の歌』を引用。
そうして、この文の最後の2行は、

「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた
『紳士と淑女』の筆者は、徳岡孝夫という者であった。」

ここで、匿名の「紳士と淑女」が、はじめて名前を明かしたのでした。
以上が、2009年『諸君!』6月最終号の文でした。


ガンということで、これを読み直してから、
今日、本棚から取りだしたのは、
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)
そこに「尾崎紅葉の心意気」(p164~166)という
小見出しがついた箇所をひらく。
はじまりは

「尾崎紅葉がガンで重態だと新聞に報道されてしばらくして、
紅葉はその痩せほそった姿を丸善の店頭に現した。そのころ
丸善で働いていた内田魯庵は驚いて、紅葉を迎えた。・・・
魯庵が『何を買いに来た』と質問する。『「ブリタニカ」を
予約に来たんだが、品物が無いっていうから「センチュリー」
にした』という答え。」

はい。内容は、内田魯庵著「思ひ出す人々」でも読めるので、
ここはカット。

ここでは、板坂元氏の、この箇所の最後の言葉を引用。

「われわれ凡人には、なかなかできることではないが、
仕入のためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。
なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になている
今の多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、
人間らしく生きるためにも大切になってきている。また、
書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。」
(p166)

え~と。
なぜ、こんな引用をするのかといいますと。

「新潮45」2018年9月号の徳岡孝夫氏の巻頭随筆を
読んでから、ぼ~としていたからなのだと思います。
9月号の徳岡氏の巻頭随筆の終りには、こうありました。

「語る言葉を選んで語り、読者にありのままを伝える。
ジャーナリズムが成すべき仕事を私は成した。
・・・・・・・
日本の記者が誰も取材しなかったベトナム戦争
最後の洋上ルポルタージュだった。」
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北大路欣也・原節子・橋本忍。

2018-08-21 | 先達たち
「新潮45」9月号には、
どういうわけか、北大路欣也・原節子・橋本忍と
三人が揃っているのでした。

まずは、俳優の北大路欣也さん
「わが役者人生の『支柱』」と題しております。
とびとびに引用。

「『八甲田山』では、雪中行軍演習で青森歩兵第五連隊
を率いる神田大尉を演じたのですが、雪山ロケの終盤、
まるで最後の晩餐だとでもいうように、囲炉裏端で
お世話になった土地の方々と夕餉を囲んだんです。
横には高倉健さんもいらっしゃいました。
十和田の旅館でのことでした。
暖かな火を見つめていると、ふと家庭を持ちたくなりましてね、
彼女との結婚を決心しました。知り合ってから十年以上経った
34歳の時です。仲人は『八甲田山』の総指揮者、橋本忍さんでした。」
(p128~)
そして、新婚旅行に行くためだった期間が
小林正樹監督の映画『燃える秋』に化けることとなります。

「ロケはイランで行われ、テヘラン、イスファハン、シラーズと
都市を北から南へ移動していきます。・・・
僕たちがロケから戻って三カ月後、世界三大ホテルと言われる、
イスファハンのシャー・アッパースホテルが爆破され、
パーレビ国王が国外脱出をしてイラン革命が起きました。・・
妻は初めて、俳優だけではなく、スタッフの皆さんがいかに
過酷な現場で働いているかをつぶさに見ることになりました。
・・実感したのでしょう。彼女はそこで僕を支える覚悟をし、
以来ずっと応援してくれています。
あのタイミングで、彼女がロケ現場に同行を許されたのは、
僕たち夫婦のその後を運命づけるものだったのです。」


「初めて体感したのは、僕が十三歳の時でした。・・
父は『うちの子を俳優にするつもりはないから』と
断ったそうです。・・ところが、ある日突然プロデューサーと
監督さんがうちに訪ねて来られて、僕の目の前に脚本を置くと
こう言われました。『君、勝麟太郎役をやりなさい』。
それが父主演の映画『父子鷹』(1956年)です。
劇中でも父と親子の役でした。」

「僕は若いころ、酒ばかり飲んでいた。
特に25歳から30歳の頃はむちゃ飲みばかりしてました。
・・29歳の頃、僕は(高倉)健さんに東京の第一号に
出来たアスレチックジムに連れていかれて、
『脱げ、やってみろ』と、健さんと同じメニューを
やらされたんです。もちろん、すぐにダウンですよ。
できるわけがない。僕はみんなの前で
『お前の職業は何だ』と健さんに聞かれました。
『俳優です!』と答えると、『俳優がこんな体力でできるか!』
と、叱られました。・・」

まあ、こんな調子で語られる8ページ。
飽きたら、雑誌の前の写真帖をご覧ください。
そこには、ドイツにいった16歳の原節子が、
着物を着てニッコリしています。4ページ。

つぎに、
西村雄一郎氏による
「追悼・橋本忍」。

「・・その橋本忍が、7月19日、ついに亡くなった。享年100。
『羅生門』でデビューし、『生きる』『七人の侍』
という超弩級のシナリオで、黒澤明にライターとして
鍛えられた。・・」

とはじまる6頁。

これじゃあ、映画の雑誌かなあ?
はい。2018年「新潮45」9月号は、
そうも、読めちゃうのでした(笑)。
コメント (2)
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巻頭コラム。それに厚切りポークカツ。

2018-08-20 | 短文紹介
「新潮45」9月号。私には読み甲斐がありました。

徳岡孝夫氏の巻頭随筆は、毎回1頁です。これだけでも、
今回だけでも、立ち読みして欲しいんだけどなあ。1頁。

雑誌の最後には、佐伯啓思氏の連載。
今まで未読だったのですが、何気なくめくっていると
道元への言及で終っておりました。

ほかには、
朝日新聞社へ抗議しに行ってきた
ケント・ギルバートさんと山岡鉄秀さんの
お二人が別々に寄稿しております。
どちらもいいんだけれど、ここでは、
山岡鉄秀氏の文のはじまりを引用。

「今年の2月22日、オーストラリアで衝撃的な本が出版された。
タイトルはSilent Invasion。直訳すれば、『静かなる侵略』だ。
サブタイトルは『オーストラリアにおける中国の影響』。・・
人口2500万人程度のオーストラリアで、発売以来2万部以上が
売れたベストセラーとなっている。大手書店や空港の書店では
現在も平積みされている。・・・・」

以下に山岡氏は、著者と本の内容とを噛み砕いて紹介しておられます。


「新潮45」9月号の特集は「『茶の間の正義』を疑う」。
山本夏彦氏の言葉を、特集の題名に取り上げたのでした。

「新潮45」の巻頭随筆の徳岡孝夫氏が、私に印象に残り、
何とか、とりあげたいと思うのでした。
どこから、はじめましょう。
と本棚から取り出したのが、
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女 1980~2009」(文春新書)。

そのまえがきに故山本夏彦氏への言及があります。

「・・・私は長く『諸君!』巻末を書いた
故山本夏彦の名言を思い出さずにはおられない。
『汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす』というのである。
すべての人間には金銭欲があるから、汚職は永遠になくならない。
汚職を完全追放するには、人間すべてを殺す以外に手はない。
だが、正義は、国を滅ぼせる。・・」

「諸君!」の巻末コラムは山本夏彦でした。
「諸君!」の巻頭コラムはどなただったか。
まえがきは、つづきます。

「三十年間『諸君!』に書き続けたコラム・・三十年という長い年月、
私は休むことなく『紳士と淑女』の材料を探しながら暮らした。
雑誌『諸君!』巻頭の七ページに何を書くか?
月によって違うが毎月18~20日に〆切りが巡ってくる。
その日に備えて、一日も休まずに日本語三紙、英語一紙の新聞を切り抜く。
関係のある資料を探す。材料をひねくり回し、ほぼ一週間かけて書き上げる。
読み返し、ときには改稿する。〆切りの日が来ると、
午後一時には学生アルバイトがJR駅前まで受け取りに来る。
落ち合って三階の食堂で厚切りポークカツ二つとビール小瓶一本を注文する。
食べ終わったところで原稿の入った封筒を手渡す。
『落とすな』『電車の中で居眠りするなよ』・・・・。
食堂は横浜市南部の駅前ショッピングモールにある。
三十年間に私はトンカツを計720皿注文した勘定になる。
取りに来る学生アルバイトには男も女もいたが、
『お腹いっぱいですから』と厚切りポークカツを辞退した子は、
ついに一人もいなかった。
ぶらぶら歩いて帰宅する。原稿を渡してから一時間半ほどして、
編集部から『届きました』と電話がある。責任は私の手を離れた。
書斎の床いっぱいに散らばった切り抜きを片付ける。
毎月、同じように責任を果たしてきた。」

もう少し引用させてください(笑)。
ちなみに、これが書かれたのは平成21年8月です。

「鳩山演説を聞いて・・・友愛の次は正義か!
私はほとんど卒倒しかけた。これを書かずに何を書くか。
思わず立ち上がってバンザイを叫びかけたが、
その瞬間、我に返った。私の右腕には点滴の針が差され、
チューブの下には尿瓶がぶら下がっていた。
三月(2009年)に入院する直前、
『諸君!』の編集長から『六月号で休刊になります』と、
雑誌の終焉を聞かされていた。おまけに私の視力は
近頃とみに悪化し、大きいルーペを使っても
もはや新聞の切り抜きは読めなくなった。・・・」


こうして、書いた方が、2018年の現在「新潮45」に巻頭随筆を連載。
こちらは、たかだか1頁なのですが、ぜひとも、立ち読みでいいので、
「新潮45」9月号の徳岡孝夫の巻頭随筆を読んでみて頂きたい。
はい。それを読んでもらいたいがために引用を重ねました(笑)。

そこにあったのは、
1ページの巻頭随筆で、学べる「ジャーナリズムとは何か」。

どうぞ、本屋へ行く機会がありましたら、ご覧ください。



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「茶の間の正義」って何?

2018-08-19 | 本棚並べ
「新潮45」9月号の
特集は「『茶の間の正義』を疑え」。


その特集のはじめに
「『茶の間の正義』とは、山本夏彦翁の言葉である。
テレビなどから垂れ流される、人におもねった胡散臭い正義を言う。
・・・・・」
とあります。

はい。単行本はもっていないのですが、
文庫で山本夏彦著「茶の間の正義」(中公文庫)を
二冊も持っています(笑)。

この本で、山本夏彦氏はこう書いております。

「テレビは巨大なジャーナリズムで、
それには当然モラルがある。
私はそれを『茶の間の正義』と呼んでいる。
眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。

昨今の政治の腐敗を、テレビは嘆く。
この間も、各界名士が画面に居並んで、
順々に政界の『黒い霧』を嘆いてみせた。
遅れて発言した某女史は、すでに痛罵の文句が
使い果たされているのを見てとって、
あわててそれを上回る激語をさがしてはみたものの、
品切れと気がついて、窮して
しらが頭を卓上に伏せ、
身も世もないようにもだえてみせた。

身ぶりは大げさにすると、ウソに見える。
言葉は言葉を刺激して、とめどがなくなる性質がある。
話を過激な文句で始めると、さらに
過激な文句を重ねなければならなくなる。」

この言葉で、この本は始まっておりました。
ちなみに、単行本は、昭和42年刊。
さてっと、
中公文庫の「茶の間の正義」には解説がついておりました。
ちなみに、昭和54年の文庫解説は、河盛好蔵氏。
なぜか、2003年8月改版発行での文庫解説は、山崎陽子氏。
比べれば、河盛好蔵氏の解説がいいなあ。
山崎陽子氏の解説は、私には賞味期限切れという印象。
ということで、河盛氏の解説の初めの方をチラリ引用。

「・・私が山本さんのエッセイを愛読する第一の理由は、
平生私が漠然と考えていたこと、もしくは自分でも正体の
分らぬ私の頭のなかのもやもやしたものが、山本さんの
手で目が覚めるように鮮やかに解明さることである。
例えば巻頭の『はたして代議士は犬畜生か』を取ってみるがよい。
世間で正義とされているもろもろの言説が、
実は下等な嫉妬心の産物以外の何ものでもない
ことが完膚なきまでに剔抉されている。・・」
(p266)

 注】剔抉(てっけつ)の意味は、ほじくり出す。探し出す。


うん。それでは、新潮45の9月号から特集のお一人の文を
引用することにしてみます。八幡和郎氏文です。
はじまりは

「西日本豪雨い先立つ7月5日(木)の夜に、
赤坂自民亭とか称した懇談会が議員会館で開催され、
そこに首相はじめ、閣僚や党幹部が出席していたことは、
悪質な印象操作で攻撃され、なんともばつが悪いことになった。
・・・・・
赤坂自民亭については、蓮舫参議院議員が6日の夜と間違って
騒ぎ立てて失笑を買っていたが、たとえ、6日の夜でも
まだ事態は深刻とはいえず、5日ならなんの問題もなかった。」
(p28~29)

うん。マスコミの取り上げ方とは大違い。
テレビでは、蓮舫氏の発言をとりあげても、
失笑を買っている蓮舫氏をなぜか写さない。
そうえば、野党が失笑を買っている姿をテレビでは見れない。

今回の新潮45は特集以外の方に読める文があり、
私には興味深い言葉が残ったのですが、まず、
順番で、見出しの特集をとりあげました(笑)。
この前の「新潮45」8月号の特集はといえば、
高校野球の真っ向勝負というような見出しでした。
その特集は「日本を不幸にする『朝日新聞社』」。




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言葉を預かる。

2018-08-18 | 産経新聞
産経新聞8月18日(土曜日)の読書欄は、
「編集者のおすすめ」欄が楽しめる。

月刊「Hanada」編集部編の「安倍総理と日本を考える」。
ビジネス社「私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた」。

この2冊が紹介されていたのですが、2冊とも注文することに。
昨夜は涼しかったので、その影響かも(笑)。

さてっと、
産経新聞の「話の肖像画」は、史家・渡辺京二氏(88)。
今日が5回目で連載の最終回。

うん。ここを引用することに。

「若いときから、自分には芸術家の才能がないことを知っていました。
でも芸術を鑑賞(アプリシェイト)することはできる。
また芸術に対する尊敬の念と同時に、人間にとって
非常に重要なそういう才能の持ち主と巡りあったならば、
大事に大きく育て、世間に広く知らせるためにできる限りの努力をする。
そう考えていました。だから、石牟礼さんとは同志であり、
編集者とライターの関係でもありました。

石牟礼さんは自分のことを小説家ではなく、詩人と考えていました。
詩人というのは古代においては預言者の役割を担っていました。
『言葉を預かる』という意味において
石牟礼さんはまさにそうだったと思います。
宗教的な預言者は神からの言葉を預かっていたのか。
ならば、石牟礼さんはだれの言葉を預かっていたのか。
『山河の言葉』です。そうとしかいいようがない、
非常に特異な作家でした。

近代文学の視点からすれば、石牟礼さんの小説は欠陥だらけといえます。
小説技法だけならば優れた作家はほかにたくさんいます。
でも、日本の近代文学史を見渡したさい、
石牟礼さんと比較できるのは宮沢賢治だけだと考えています。
空前絶後であり、日本の近代文学にどうしても必要なものを
表現した人でした。・・・・」


はい。私は石牟礼道子さんの本を読んでいません。
というか、預かった言葉を理解せず閉じてました。



さてっと、「言葉を預かる」といえば、
産経新聞の8月17日に、

「阿比留瑠比の極言御免」には、
竹山道雄著「昭和の精神史」が取り上げられていて。

桑原聡の「モンテーニュとの対話」には、
長谷川三千子著「神やぶれたまはず 昭和20年8月5日正午」が
取り上げられておりました。


はい。言葉を読み。言葉を預かる。
うん。言葉は振り回すものではなく、
今も、言葉は預かるものなんですね。
そう、教えてくれる産経新聞でした。



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「幼(おさな)ものがたり」

2018-08-17 | 本棚並べ
石井桃子の講演を読んだら、
石井桃子の謦咳に接したようで、
石井桃子を知りたくなりました。

ということで、
あかね書房の「伝記を読もうシリーズ」の
竹内美紀著「石井桃子」を注文する。
それが昨日届く。

うん。表紙の写真がいいのですよ。
もう、本文を読まなくてもいいや、
と思うぐらいです。
何だか、石井桃子という題の絵本をひらくようです。
初版が2018年4月。私が買ったのは8月の第2刷。

ところどころ、本文に散りばめられた写真がね、
まるで、絵本の細密挿画を見てるような楽しみ。
牛の乳を搾る石井桃子。
留学中の桃子。カーネギー図書館の桃子。
もちろん、かつら文庫での桃子。
後ろには、資料としての写真として、
草を運ぶ桃子たち。桃子と羊。
猫のキヌ。猫のトム。現在のかつら文庫。

はい。本を読まない私は、これだけで満足(笑)。
そうもいかないか。
この本の第一章のはじまりのページに、
こんな箇所がありました。

「桃子はそのばつぐんの記憶力をはっきして、
のちの自伝的作品『幼(おさな)ものがたり』を書いています。
桃子がこの本を書いたのが、七十歳をこえてからというのが
信じられないくらい、六十年以上前の記憶が生き生きとしているのです。」
(p7)

そういえば、
「石井桃子集4」(岩波書店)の
解説を清水真砂子さんが書いておりました。
そのはじまりのページも引用したくなります。

「『石井桃子の最高傑作は何かと問われれば、
私は迷わず、【幼ものがたり】と答える。・・
近代以降の日本で子どもについて書かれた文学作品の
最高位に位置する一冊である。』

かつて私は石井桃子論を右のように書き始めたことがある
(「子どもの本の現在」1984年)。・・・
私は今もなお、この文章に書きかえの必要を覚えていない。
『幼ものがたり』は中勘助の『銀の匙』に比してもけっして
劣らぬ魅力をもって、長く読みつがれていくにちがいない。」
(p261)


うん。清水真砂子さんの次のページも引用させてください。

「今、あらためて『幼ものがたり』を読めば、
すでに幾度か読み返してきているにもかかわらず、
そこに記された石井の、本人は『きれぎれの記憶』と呼び、
『真偽の保証もできない』という記憶に、初めて読んだ時と
まるで変わらない力で私自身の記憶がよびさまされ、すると、
たちまち私の心は目の前の本を離れて、自身の遠い記憶の中を
さまよいだすのがわかる。『銀の匙』の場合、
そこに記された記憶のおおかたは興味深くこそあれ、
あくまでも中勘助のもので、こちらの記憶がかきたてられる
ところまではいかないのだが、『幼ものがたり』は読みだすや、
誰の回想記かなどはどうでもよくなって、気がつくと、
いつも間にか自分の幼年の日々にひき戻されている。
 ・・・・・
私は、はじめ、自分にこういうことが起きるのは、
私が幼年期を送ったのが1940年代で、父母きょうだいに囲まれ
てくらしていた田舎には『幼ものがたり』に描かれている時代の
名残りがまだ多少とも見られたからだと思っていた。だが、
ここ何年か、1970年代後半に生まれた学生たちと
『幼ものがたり』を読んできてわかったのは、こと、
この回想記に関する限り、どの時代に幼年期を送ったかなどは
たいした問題ではないということだった。
1978年、79年生まれの学生たちの反応も、41年生まれの
私のそれとほとんど変わりはなく・・・・
それぞれの幼年時代を熱心に語り始めたからである。」
(p262~263)



もどって(笑)、
「子どもが本をひらくとき 石井桃子講演録」(ブックグローブ社)
の講演録のあとに、伊藤元雄氏が「子どもたちを思う情熱」
と題して書いているなかに、こんな箇所がありました。
それは講演のために、自宅へお迎えに行った際の会話でした。

「これ、持っていった方がいいかしら」
「荷物になるから、必要ないのでは。
それより、講演のメモでも書いたのですか」
「ないわ。筋立てぐらいは・・
ホテルに着いたら、誰も連絡しないで、・・・
夕食は関西うどんが食べたい」。・・
いろんなことを話しかけてきました。(p50)

うん。講演嫌いの石井桃子さんの、
ぶっつけ本番の講演だったようです(笑)。

それから、
竹内美紀著「石井桃子」には、
「子どもたちに本を読む喜びを」と副題がありました。
本の「おわりに」で竹内さんは
こうしめくくっておられます。

「子どもたちが自由に読書を楽しめる、
そのために石井桃子は全生涯をかけました。
その人のことを知った以上、その人生の意味を
語り伝えていかなくてはいけないと思っています。

みなさんも、この本を読んだあと、
石井桃子の生きた時代を思いうかべながら、
桃子の残した作品を手にとってみてください。
おもしろい本がたくさんありますよ。」


『石井桃子』という扉をひらいてくれる、
魅力ある本を手にすることができました。
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