和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

CD『修証義』。

2018-12-30 | 古典
11月頃にCDラジカセを購入。
そのままになっていたのですが、
そういえば、曹洞宗のCDを買ってあったのを
思い出して、それを初めて聞く。

永平寺監修による読経『修証義』。

あと、親鸞。カセット『歎異抄』。
歎異抄は、アナウンサーらしい方による
朗読で。テニオハばかり気になって
内容の理解を妨げられる感じでした。


さてっと、修証義の読経は、
修証義の言葉が流れるようで、
お経本をひらきながら、ベッドで寝ながら聞いています。
うん。忘れないと、寝るときとか、起きた際に、
寝ながらお経本を開いて聞いている罰当たり(笑)。


それでも1か月くらい続いております。
2018年の私の年末は、こんな感じです。


本年は、お立ち寄りいただき、ありがとうございました。
明日も、ブログ更新する予定ですが、30日となりました。
これが、年末の御挨拶。
来年も、ひとつよろしくお願いいたします。


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ムーミンパパ。

2018-12-29 | 本棚並べ
本棚を探しても、見つからないので、
そうそうに切り上げて古雑誌を注文。

「小林秀雄 百年のヒント」(新潮社)。
それが届く。
古本の値段が41円+送料325円=366円。
本棚探しの、ストレスよりも366円(笑)。

そこにある、坂本忠雄の「小林秀雄と斎藤十一」。
この文を読み直したかったのでした。
その文の頁に載っていた写真は覚えておりました。

開いて、その写真を、あらためて見る。
ゴルフ場で、二人して先攻後攻を決めるているようです。
ジャンケンしている一瞬を写しておりました。
二~三メートル離れて左側に小林秀雄。右側に齋藤十一。
二人の間の背景はといえば、ゴルフ場の芝生に陽があたって、
白くなっており、両脇の二人の輪郭が黒くはっきりと浮き上がります。
小林秀雄は、左手でゴルフドライバーを肩に担ぎながら、右手でグウ。
齋藤十一は、だらりとした左手でドライバーの真ん中を持ち、右手でチョキ。
二人の右手は、よくわかるように水平に腕をのばしておりました。

小林秀雄のゴルフ帽は野球帽のようで、
齋藤十一の帽子はといえば、ツバがぐるりの
チロリアン帽のような英国帽。
その齋藤十一といえば、口にパイプをくわえ。
お腹が出た姿は、ムーミンパパそっくり(笑)。



坂本忠雄氏の文の最初の方に
ある言葉を引用しておきます。


「思いかえせば私事にわたって恐縮ながら、
お二人は私の人生にとってかけがえのない恩人である。
小林さんは、高校三年の時国語の入試対策の試験に出た、
実朝の『箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に
波の寄るみゆ』の読みに解答するのも忘れるほど
言い知れぬ感動を覚え、それが私の文学開眼に連なったし、
斎藤さんは大学卒業時に新潮社で初めてお目にかかり、
およそ思惑というものの感じられない透徹した人格に魅せられ、
それが編集の道に入るきっかけとなったのである。」
(p323)


はい。ここまで。

『およそ思惑というものの感じられない透徹した人格』
とは、いったい何だ?
うん。ムーミンパパ?
はい。来年の宿題(笑)。

話は、かわりますが、

   去年今年貫く棒の如きもの  


これは、昭和25年12月20日にラジオの新年放送を録画
したときの高浜虚子の作品らしい(ネット検索で知る)。


年賀葉書。まだ書かず。
昨日思いついた文面は、

    謹賀新年
   平成三十一年元旦


この二行で、下手な墨書の年の暮。
そそくさと、数枚書いておしまい。






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御所の二階の、額。

2018-12-27 | 短文紹介
「日本の米カレンダー」は、毎年注文しておりました。
親しい方(といっても3~4人)へ配っておりました(笑)。

さてっと、届いた2019年の米カレンダーには、
「創刊30周年(富山和子制作最終号)」とあります。
カレンダーについてくる説明書の最後には、

『永いあいだ、本当に有り難うございました。 富山和子』

とあります。少し上に、こんな言葉がありました。

「この三十年間 
この活動を一貫してご支援くださったのは皇后陛下でした。
2010年8月には日本の米カレンダー展(つくば食と農の科学館)に
天皇皇后両陛下おそろいで行幸啓遊ばされました。
皇后さまはこのカレンダーのために額を作らせ、
毎月ご自分で入れ替えられ切り取った分を改めて
和英つき合わせて一言一句お読み返しになり、
何かお気づきのことがあればわが家にお電話をくださいます。
その額は、御所の二階に飾られています。」

ここにも、皇后さまが登場しておりました。

私と言えば、とうとう毎月のカレンダーについた、
和英文を読まずに過ごしてきてしまいました(笑)。


これを機に、米カレンダーの購入も終了することとします。
平成31年。平成最後のカレンダーなんですね。

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英語ではアイドル・トークというそうである。

2018-12-27 | 本棚並べ
今年最後の、注文した古本が昨夜届く。

そのなかに、河盛好蔵著「文学空談」(文藝春秋新社)。
函入で昭和40年発行。

はしがきは、こうはじまります。

「『空談』、辞書を引くと、
『むだばなし。根拠のない話。実行のできぬ話』という釈義が出ている。
英語ではアイドル・トークというそうである。
・・・出たとこ勝負の『むだばなし』を書いてみたいと
以前から私は考えていた。・・」

 こんな箇所もありました。

「衆と共に文学を楽しみたいという情熱では
なんびとにも劣らないつもりである。
ひと口でいえば、永遠の文学ファンということになろうか。」


はい。はしがきを読んだら、
本の最後の方をひらきます(笑)。

パラリパラリとめくと、「古本屋あさり」とある。
さっそく引用。

「読書家と古本屋とは切っても切れぬ関係がある。
本の好きな人が古本屋をあさるのは、
酒好きが居酒屋に入りびたるのと同じである。

私が古本屋あさりの楽しみを覚えたのは京都・・・
あの頃、つまり大正の末から昭和にかけての時代は、
丸太町通りは軒並みに古本屋があって、丹念に見てまわると、
ずいぶんいろいろ珍らしい本があった。・・・
その頃私は詩にこっていたので、絶版ものの詩集を探すのを
楽しみにしていた。そして白秋の『思い出』『邪宗門』、
露風の『露風集』『白き手の猟人』、朔太郎の『月に吠える』や
犀星の『抒情小曲集』、大学の『月光とピエロ』、
荷風の『珊瑚集』、そのほか愛書家がきいたら
涎をたらしそうな詩集をたくさん集めていた。
あの頃の詩集にはなかなかこったものがあって、
作者の名は忘れてしまったが、薫香をたきこめた本などもあった。
またこれは新刊書で買ったのだが、西城八十の『砂金』の
革表紙の手ざわりも忘れることができない。

しかしこれらの詩集は、大学へ入ったときに
すっかり売り払ってしまった。
日本の詩人とは手を切るというつもりだったのである・・・」
(p309)


そういえばと、本棚に雑誌を探す。
『新潮』2000年1月号新年特別号に、
河盛好蔵の1ページの忘れ難い文があったのを思い出す。

特集に、アンケート「20世紀の一冊」があり。
河盛好蔵氏は『月下の一群』をとりあげておりました。
そのはじまりは、というと、

「堀口大学さんの訳詩集『月下の一群』に出会ったときの
驚きは、97歳の今も忘れない。
大正14年(1925)、第一書房から刊行された初版本を、
私は・・大学・・在学中に読んだ。」

この一頁の文の、忘れ難い最後も引用。


「時代が大きく変わるとき、
当然ながら文学も大きく変わらないではいない。
しかも、面白いことに、新時代を画するエポックメイキングな
文学者は、例外なく彗星のように突然出現する。

文学の底に流れているのは詩である。
これはごく当り前なことなのに、
わが国の近・現代文学は、いつの頃からか
詩と小説が分離してしまい、
その傾向は今に続いている。
私は大学さんのあの仕事にかえることが、
今もっとも大切なのではないかと思っている。」
(p275)


ついでなので、
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」の
p113の河盛好蔵氏をとりあげた箇所も、
あらためてひらいてみました(笑)。




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すごいね!いや、驚いた!

2018-12-26 | 本棚並べ
他の方のブログで知り、
新刊・黒川創著「鶴見俊輔伝」(新潮社)を注文。
それが届く。全545ページのところどころにある
鶴見氏の写真を拝見して満足(笑)。

さてっと、本文の終わりを引用。

「記者発表の席で、鶴見太郎氏が、家庭での日ごろの
鶴見俊輔の様子がどのようなものだったかを訊かれ、
およそ、このように答えていたのが、記憶に残っている。

―――父は、私が子どものころから、いろんなことを話すごとに、
『おもしろいな!』『すごいね!』『いや、驚いた!』と、
目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした。
ですから、大人というのは、そういう人たちなんだろうと思っていました。
ところが、いざ外の世界に出てみると、世間の大人たちは、
何に対してもほとんど無反応でいる、
ということがわかって、ショックを受けました。
そして、このギャップをどうやって埋めればいいのか、
ずいぶん長く苦労することになりました。ーーー

・・・」(p496)


ポツポツなのですが、
私なりに、以前に鶴見俊輔の本を読んでおりました。

『このギャップをどうやって埋めればいいのか』

この距離感と間合いというテーマ(笑)。
あらためて、銘記させられるのでした。


はい。本文は未読(笑)。
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墨書の 犀星俳句の 夜寒かな。

2018-12-25 | 詩歌
12月に買った古本の中に、
定本犀星句集「遠野集」(五月書房・昭和34年)。

函入で、室生犀星の墨書き俳句が
1ページに1~2句。ゆったりと並ぶ贅沢。
うん。古本じゃなければ買いません(笑)。

さてっと序も犀星本人が書いており、
その序の最後を引用。

「本集の墨書原稿は昭和12年の冬に、
信州軽井沢の宿でこつこつ書いた物で、
その当時から墨書きの書物を思ひ立つてゐたが、
機会がなく今日に至ったものである。
          昭和34年仲春 著者 」



 正月を 前に墨書の 俳句かな


はい。これは私が今思いついた俳句(笑)。
うん。ちょっと俳句でもって挨拶したくなる。
そんな、一冊。
そこから、数句引用。
それも、冬に限りましょう。

  木枯

 木枯や別れてもなほ振り返る


 しぐれ

 金沢のしぐれをおもふ火鉢かな

 
 寒さ

 松風の奥に寺ある寒さかな


 冬すみれ

 石垣のあひまに冬のすみれかな
         金沢、犀川


ちなみに、古典かな。くずし字のかな。
も少しあるのですが、
能のくずし字の「の」
可のくずし字の「か」
それくらいですので、素人にも読みやすく、
つたない字も、理解へと引き寄せられます。

うん。
   俳諧に 触れし味する 墨書かな。


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すっぱい葡萄。

2018-12-24 | 書評欄拝見
産経新聞12月23日に
「今年 私の3冊」という1ページがありました。
そのはじまりに花田紀凱氏が3冊をあげており、
私が気になったのは、3冊目(笑)。
その3冊目を紹介。

「忙しい仕事の合間、平川先生の著作を
ひもとくのは至福の時である。
読む度に、学問とはこんなに楽しいものかと思い、
ああ、若い日にもっと、もっと勉強しておけばよかった
と痛感する。
平成28年11月から順次刊行され、全18巻(平川祐弘決定版著作集)
のうち現在12巻まで出ている。どの巻を読んでもいいけれど、
おすすめは先生の読書遍歴を中心とした
『書物の声 歴史の声』。」

とありました。
うん。私は平川祐弘氏の著作を齧っただけで、
主要著作の未読本が多い。この著作集は買っていないのですが、
それでも『書物の声 歴史の声』は単行本で持ってます
(ちっとも自慢にならない)。

何でも勉誠出版の著作集では、
『書物の声 歴史の声』に、単行本未収録の200余点が
この決定版著作集には含まれているらしい。

はい。私は高いから、この著作集は買わない(笑)。
イソップの『すっぱい葡萄』よろしく、
単行本の『書物の声 歴史の声』のほうが
おいしいよと言いたい気がしてくる。

ということで、
単行本『書物の声 歴史の声』を、
あらためて、ここで紹介してみくなりました。
単行本の、出版社は弦書房。
弦書房は、福岡市にある出版社。
単行本は2009年11月発行。
著作集にはどうだか知りませんが、
単行本の「書物の声 歴史の声」には
挿画があり、それは奥さんの平川依子さんの絵。
私など、読んだ内容はすっかり忘れても、
挿画は、というと思い浮かべられる本です。
それほどに、印象に残る挿画が
2~3頁おきに描かれており、
本文にあいまって、嬉しい読み物となっております。

はたして、決定版著作集には
この挿画は、どうなったか?

こうゆう、機会なので、
単行本の九州に関連する箇所を引用。
題は158「橋本発言」とあります。


「『「朝日新聞」は愚かな言論機関。
すぐに廃業した方がいい』といいきる橋下を
むしろ良しとした。多くの人が感じながら
口に出せない傾向的な新聞に対する嫌悪感を
氏が公然と述べたからであろう。
大新聞の主幹が奇妙な論説を書く。
世間と論説委員の感覚に温度差があり過ぎる。
紙上の楼閣に棲む中央のマスコミ関係者の
頭の中で作られた『世論』なるものに
地方のマスコミもやすやすと追随してはいないか。
大部数のマスコミは影響力を誇るが、
部数が多いだけが能ではない。欠点もある。
地方紙の『熊日』には記者の個性がまだしも
感じられるが、全国紙にはそれが希薄だ。」(p218)


さてっと、単行本のあとがきも引用。
はじまりは

「1992年、60歳になった私は九州の大学へ招かれた。
そんな有難い縁で九州の新聞の文化欄にしばしば
寄稿することとなった。私にとくに目をかけてくれた人は
『熊本日日新聞』の井上智重氏で・・・・」

うん。もう少し引用しておきます。

「私は反体制ではなく、強いていえば反大勢である。
論壇や文壇主流に遠慮せず、正直に少数意見を発言
することも許され、反時代的考察も述べることができ
有難かった。地方新聞の存在意義は中央のマスコミの
紋切型や大新聞の大権威に簡単に服さない点にも
あると思っている。・・・」

うん。久しぶりに本棚からとりだすも、
もうすっかり、忘れておりました(笑)。

はい。決定版著作集は高価で、
私には、手がでないのですが、
これを機会に売れますように。



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平成の自然災害へのお言葉。

2018-12-23 | 地震
今日は天皇誕生日。
産経新聞一面に「陛下85歳 最後のご会見」とあります。
私が気になったのはこの箇所。

「平成の時代で『心に残る』こととして、
阪神大震災や東日本大震災など多くの犠牲者を出した
自然災害を挙げ『言葉に尽くせぬ悲しみ』を覚えると
述べられた。・・・」

今年は新聞の切り抜きをしなかったのですが、
以前の切り抜きが、手つかずに放置されていて、
すこしは整理しようと上の方をかたずけ(笑)。

そこに、2011年5月2日の産経オピニオンの切り抜きが
出て来る。「吉村昭と三陸海岸」とあります。
最初の紹介文を引用してみます。

「作家の吉村昭さん(1927~2006)が約40年前に
著した作品『三陸海岸大津波』(文春文庫)が、
ベストセラーになっている。明治以降、東北の海岸を
3度襲った大津波についての記録文学だ。
版元の文芸春秋は東日本大震災以降、約15万部を増刷。
その印税を被災地・岩手県田野畑村に寄付した
妻で作家の津村節子さんに・・・・」


そうそう。私は東日本大震災のあとに
「方丈記」と吉村昭著「三陸海岸大津波」「関東大震災」
とを読みました。吉村昭氏の本は初めて読みました。

ところで、
「WILL」2019年2月号が出ております。
その「森史朗の今月この一冊」は
吉村昭の中公文庫の一冊をとりあげておりました。

そのはじめの方に「吉村昭記念文学館」が紹介されており、
気になるので引用しておきます。

「没後、東京・荒川区に『吉村昭記念文学館』が建立され、
常設展示作品のほか各種企画展を開催。静かなブームが続いている。
平成22年には吉村昭原作『三陸海岸大津波』『関東大震災』を
特集した『自然災害と人間の営み』展が企画され、
宮内庁から突然の電話で『陛下がご覧になりたいとのご希望』
と伝えられ、同館では大慌て。じっさいに行幸され、
熱心に展示物をご覧になり『語りつぐことが大切ですね』
とのお言葉があり、案内役の荒川区長は恐懼することしきり・・」
(p146)
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ものを書く目処(めど)。

2018-12-22 | 道しるべ
月刊Hanada2019年2月号。
ここに平川祐弘氏が連載をしており、今号は9回目。
連載中読んでいなかったのですが、
この回は、目を通す(笑)。

気になったので引用。

「私には、ものを書くについてある目処(めど)があった。
それは学術上の文章が、自分の日記や手紙の文章ほど
生き生きしないようなら、書くに価しない、という思いで、
その気持は学生時代も、教授時代も、退官後も変わらない。」
(p317)

こうして、ご自身の学士論文に触れてゆくのでした。

「大学後期の私は立原道造を好んだ。
私の場合、詩よりも日記や手紙を愛した。
・・それでフランス青年詩人ゲランの日記や手紙を
とりあげて学士論文とすることにした。
オリジナルなことが特に言える訳もなく、
フランス語が達意なはずもなく、
書きおえてまことに不満だった。」

その、モリス・ド・ゲランが、
この、2月号のテーマでした。

こんな引用があります。

「彼の文学的趣味、その詩法について
その一端を披露すれば姉に次のように書いた。

 自分で自分にふさわしい文章を書きなさい。
 詩人は誰でもその心の奥に書かれた詩法
 というものがある筈です。
 それ以外に詩なんてあるもんですか。
 何でもない小さな事まで自然をよく観察して、
 考えが閃いたら、その流れのままに
 筆を走らせる、それ以外に手はないですよ。」
(p324)

平川氏の文の最後は
リルケがゲランに掲げた二行の言葉
引用で終っておりました。
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ねずみ男と、新約聖書のイエス。

2018-12-22 | 短文紹介
新刊を購入しても、読まずにいる。
それで、新刊にはなるべく手を出さないようにしてる。
買わないでいると、そのうちきれいに忘れる。
忘れているのですが、検索でひっかかり、
佐藤優著「読書の技法」(東洋経済)を、
古本で安くなっていたので、購入する。

パラリとめくると、漫画についての指摘がある。
うん。気になるので、引用しておきます。
水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎」(全7冊、ちくま文庫)
についての全文。

「ビジネスパーソンがいまこの漫画を読むなら、
『ねずみ男』に注目して読んでみることをすすめる。
この漫画においてねずみ男は、
基本的にエゴイスティックな存在として描かれている。
自分の個別利害しか考えず、強欲である。
『世のため、人のため』という大義名分や
星飛雄馬が持っているような絶対的正義に対する関心もない。
あくまで『利益追求』が第一にある。
しかしながら、鬼太郎や目玉おやじの『存在否定』はしていない。
友情や人情もそこそこ大切にし、
それなりのコミュニケーションを尊重するので、
周囲との関係は決して破綻することはない。
よって共同体からつまはじきにされることはない。
極端な言い方をすれば、
星飛雄馬がウサマ・ビンラディンとすると、
ねずみ男は関係性を非常に重視する新約聖書に書かれた
イエスを彷彿させる。
エゴイスティックで自分の欲望を追求するが、
他者とのコミュニケーションも大切にし
周囲ともうまく協調していく。
高度経済成長以後の21世紀型の生き方として、
ビジネスパーソンがねずみ男から学ぶべき点は多い。」
(p217~218)

う~ん。
新約聖書のイエスと、ねずみ男を結びつけるなんて
佐藤優氏以外に誰が思いつくんだろう?


それにしても、
「関係性を非常に重視する新約聖書に書かれたイエス」
この指摘で、ぐっと身近になった気がしてくる不思議。

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「ぼくは漫画のことを考えると」

2018-12-21 | 道しるべ
「編集者 齋藤十一」の最後の方に、
美和夫人の談話が掲載されていました。

そこに、『週刊新潮』の創刊準備室を、
語っている箇所があるのでした。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、
表紙に関することを担当していました。
どのような表紙にするか、試行錯誤が続きました。
・・・『やっぱり絵にしよう』と
そのころ若手から中堅の位置にあった
高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
描いていただこうと考えたのですが、
これもなかなかうまくいかない。
そんなとき齋藤が『こんな人がいるよ。
研究してみる価値はあるんじゃないか』
と教えてくれたのが、おりしも
第一回文藝春秋漫画賞を受賞した
ばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)

うん。この箇所が気になっておりましたので、
この機会に、文藝春秋新社「谷内六郎画集」を
古本で注文、それが届く。昭和30年12月印刷発行。

そこには伊藤逸平の「谷内六郎の人と作品」
という24頁の文が最後に掲載されておりました。

うん。知らないことばかりでしたので引用。

「文藝春秋の漫画読本に始めて『行ってしまった子』
という十点の作品が色刷で発表されたのは
1955年の早春だったが、それまでは、
谷内六郎といったって誰も知っている人はいなかった。
この一連の作品が発表されるや、ジャーナリズムは、
谷内君の画業について強い関心を持ち始め、・・
続いて、やはり文藝春秋の第一回漫画賞の受賞者として
決定、各新聞にその記事が発表され、ここに
漫画家谷内六郎の名は完全に人々の脳裏に刻みつけられたのだが、
その漫画賞の受賞が確定するとほとんど同時の
6月27日の夜、谷内君は、ナイフで自らの左腕の
動脈や静脈をメチャクチャに傷つけ自殺を計ったのであった。」

うん。伊藤逸平氏の24頁は、その経緯を書いておりました。
最後の、「あとがき」は谷内六郎本人が書いております。
ここに、「あとがき」の全文を引用。

「病中描きだめ、一枚一枚棚につんでいったこの絵が
画集になるとは夢みたいで、自分の絵だと思えません。
画集を編集して下さった伊藤先生にご迷惑をかけつづけ
申訳ないと思っています。又、皆さんにご迷惑をかけた
ことを申訳ないと思います。
皆様の御親切にむくいる唯一の方法は、
今後十年、二十年、生きる限り、少しでもよい漫画が
描けるように勉強する以外にありません。
ぼくは漫画のことを考えると、いつも希望がひろがります。
少年の日、(パーッとしない少年でしたが)少年の日、
あの夏の陽の強い海辺の砂の上に、
棒を拾って何百となく描いた、
ポパイ、のらくろ、フクチャン、ドナルドダッグ、
波はとどろいていて空はセルリアンブルーで、
たしかに希望の色でありました。

  昭和30年10月 原宿らくだ工房にて 谷内六郎 」



その翌年
1956年(昭和31年)2月、「週刊新潮」創刊。
創刊号の谷内六郎はというと、
房州御宿の海を背景にして描かれた表紙絵。

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夢は、雑誌をかけめぐる。

2018-12-21 | 先達たち
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を、取り出してきてめくる。
追悼文が並ぶ本なので、ボケっとして見過ごしている箇所が
読み直すとでてくる(笑)。

今回は齋藤十一の晩年ということで気になった箇所、

石井昴氏の「タイトルがすべて」と題した文には

「齋藤さんの一言一言が編集者としての私には
血となり肉となった。我田引水になるが、
新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事
によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」

こう書いた人には、こんな箇所がありました。

「齋藤さんに最後にお目にかかったのは
お亡くなりになる半年前だった。
・・・鎌倉の行きつけの店まで食事に行った。
・・・・『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』」

早川清氏の「最後の企画」という文には

「亡くなる五ヵ月前に・・・ある企画のタイトルだった。
『どうだ、読みたくなるだろう』
齋藤さんが自信に満ちた口ぶりで語った『最後の企画』。
・・・」



坂本忠雄氏の「編集という天職」には

「葬儀の際の美和夫人の会葬者への謝辞によれば
『きのうの夢で新しい雑誌をつくった、
 題名も目次のタイトルも全部出来たが、
 もう実現することが出来ないから内容は言わない』と、
或る日齋藤さんは口にされたとのこと。
私はそれを聞きながら、齋藤さんにとって
編集という仕事は本当に天職だったんだな、
と身内に戦慄するような感動が走り抜けたのを
ありありと覚えている。」


うん。谷内六郎さんが最期の企画の表紙絵を描くなら、
雑誌の上を、かけめぐる小さな齋藤さんが十一人いて、
雑誌の目次の上でぐるぐると走っている絵を描く(?)。



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AI vs. 子どもたち。

2018-12-21 | 書評欄拝見
書評を読んでもすぐに忘れちゃう。
本を読んでもすぐに忘れる。
それでも、本は本棚に残る。

今年は
新井紀子著「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(東洋経済)
を購入したのでした。何となく、パラパラ読み(笑)。

書評に興味を持ちました。
産経新聞4月15日助川幸逸郎氏の書評でした。

あと、月刊雑誌に佐久間文子さんが書評をあげていた
(もう、どの雑誌だったか忘れている)。

うん。教育関係者の間では、新井紀子さんというのは
よく知られた方のようです。そうお聞きしました。

はい。新刊購入してパラパラ読みしたあと、
年末には、しっかり忘れておりました(笑)。

そうしていると、雑誌Voice平成31年1月号。
ここに、山本七平賞の発表が掲載されてます。
なんと、新井紀子氏の、この本が受賞。

その選評から、すこし引用。

呉善花さんは

「数学者であり、人工知能の専門家である著者が、
具体的なプロジェクトを通してはっきり論じきった意義は大きい。
そこで問題となるのが、『AIにはできなくて、人間にしかできない
仕事をする能力とは何か』であり、著者はそれを
『文章の読解能力』だとする。・・・
同じ読解力でも、文脈・背景・行間など、
言外の(言葉では言っていない)意味を
読み解く能力はAIにはなく、人間にしかない。・・」

中西輝政氏は

「従来、AIに限らずIT問題全般に関して、
一般読者を対象として書かれた本の多くは、
本書のような原理的な深さをしっかりと保ったまま、
多くの読者が巻末まで変わらぬ『とっつきやすさ』で
読破できるような作品は皆無だったように思う。
しかし本書の最大の功績は、『教科書を読めない人間』
がAIには到底(つまり原理的に)望み得ない豊かで
ヒューマンな精神活動ができる
―――それゆえに教科書が読めないのだが―――
ことの素晴らしさを、反面から教えてくれていることだ。」

養老孟司氏は

「・・・第二はコンピュータという機械の解説にとどまらず、
子どもたちに実際に問題を解かせて、
結果をAIと比較したことである。
そう述べるのは簡単だが、これはじつは大変な作業である。
現代社会の実際を『測る』のは、多くの人が嫌う。
手間がかかって、その割には反論されることが多い。
むしろ大上段から原則論を述べたほうが楽である。
新井さんはその面倒な作業をきちんと遂行した。
私自身はそこを大きく評価したい。
その結論はじつに興味深く、示唆するところが大きい。
たとえば新井さんのいう『読解力』は、
言語を用いた単純な論理作業だと思うが、
これが中学生段階で伸びる、という指摘である。
統計的には高校生ではもう伸びない。・・・」


中西輝政氏選評の最後の一行が印象深い。

「山本七平賞にふさわしい作品として高く評価したい。」


ああ、私は今年、何を読んでいたのだろう(笑)。
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不景気でおいねえこったなあ。

2018-12-17 | 地域
「週刊新潮」創刊号。その谷内六郎の表紙には、
「上総の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」
と絵の中に、言葉が書きこまれております。

そして、別のページには、
谷内六郎の「表紙の言葉」があります。
創刊号の「表紙の言葉」というと、

「乳色の夜明、どろどろどろりん海鳴は低音、
鶏はソプラノ、雨戸のふし穴がレンズになって
丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。
兄ちゃん浜いぐべい、
早よう起ねえと、地曳におぐれるよ、
上総の海に陽が昇ると、
町には海藻の匂がひろがって、
タバコ屋の婆さまが、
不景気でおいねえこったなあ
と言いました。房州御宿にて」

以上全文。


この創刊号は1956年(昭和31年)でした。
この「表紙の言葉」にある
「どろどろどろりん海鳴は」という箇所から
私に思い浮かぶ小学校校歌があります。

家から自動車で1時間の範囲にある
小学校だったのですが、閉校。
古い校歌もお蔵入り。
その古い歌が私は好きなので、ここに紹介。

 「二本松の歌」という題で、
        昭和32年制定。


 風のさらさら 佐野原(さのっぱら)
 きりりり りれらとおじょうじょが
 たわわな稲の 穂につけば
 眼玉にうつった うろこ雲

 遠鳴り 汐鳴り 平砂浦
 るるるる るーんと北風に
 負けずに育つ おれたちは
 肩くみ合った 松の苗

 皆で帰る 竜の道
 うおろろろ ろーんと暮の鐘
 かすんだ山の 端に消えて
 お地蔵様も 目を伏せた

 すっくり立ってる運動場
 しんとろ とろりと二本松
 みんなで見上げりゃ 夏の空
 希望に輝く 雲の峰


はい。「どろどろどろりん」の翌年に、
「うおろろろ ろーん」「しんとろ とろり」
というこの校歌が出来ておりました(笑)。
ちなみに、
この校歌は、小学校に赴任の新米先生が、
校長先生の命令で作詞をしたのだそうです。
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小林秀雄の夢の中の「齋藤十一論」。

2018-12-16 | 本棚並べ
「編集者齋藤十一」(冬花社)の
はじめの方に、佐野眞一が「伝説の編集者」と題して
書いておりました。そのなかにこんな箇所。

「齋藤と同じ鎌倉に住み、鶴岡八幡宮につづく小町通りの
『奈可川』という小料理屋でよく酒席を共にした小林秀雄は、
生前、『君がもし僕より先に死んだら、僕は君のことを書くからね』
と言っていたが、小林の方が先に亡くなったため、
小林による齋藤十一論という夢のような企画は、
結局、日の目を見ずに終わった。
ちなみに『新潮』元編集長の坂本忠雄によれば、小林は
『齋藤さんは天才だ。自分の思ったことをとことん通してしまう。
キミ、それこそ天才じゃないか』と常々言っていたという。」

佐野氏は、こうして齋藤十一氏本人に会いにゆく。

「有体(ありてい)に言えば、生身の齋藤を死ぬ前に一目だけでも
じっくり観察する機会をつくっておきたかった。
何よりも齋藤を、伝説の人として終らせたくなかった。
私の目に映ったありのままの齋藤を活字で伝えることこそ
『週刊新潮』創刊時、編集方針を人間の色と欲と見定め、
人間の本性を暴きつづけてきた齋藤の考えにも適うことだと思った。」


以下、ポツポツと引用。

「『僕の特集記事をやったって、売れやしませんよ。
いまでも『週刊新潮』に企画のアドバイスをしているのかって
お尋ねですか?それは言えません。企業秘密です』」

「美和夫人によれば、齋藤が生涯のライバルとして
認めていた編集者は、『文藝春秋』を国民雑誌といわれる
までに育てあげた池島信平ひとりだったという。・・・」

そして、この文章をこう締めくくっておりました。

「『俺は週刊誌で文学をやっている』と揚言し、
天才編集者の名をほしいままにしてきた齋藤は、
鮮やかな最期を遂げてなお、『生ける伝説』でありつづけている。」

え~と。
小林秀雄と編集ということでは、
大谷晃一著「ある出版人の肖像」のp264の
小林秀雄は激怒して言った言葉があり、

谷沢永一・渡部昇一著「人間は一生学ぶことができる」(PHP)の
こんな箇所もある。

「・・そのときの小林秀雄は、大家になる前ですからね。
小林秀雄をあれだけ大きくしたのは、新潮社の齋藤十一です。
齋藤は大正十一年生まれなので、名前が十一というのだそうですが、
これは戦後の屈指の名編集者で、新潮社の天皇と言われた。
この人が売れていない小林秀雄を大きく扱った。
そこから小林が大きな存在になっていくのです。
小林秀雄はあのとき、文壇とかジャーナリズムの世界に対して
一切媚態を示さない、時代の波に乗ろうとしないという姿勢を、
少なくとも活字の上ではっきりと残した。
前後を見渡して、これほど明瞭に示した人はありません。」
(p63)

これは谷沢永一の言葉でした。

話はかわりますが(笑)、
古本で購入した新潮文庫版「谷内六郎展覧会 夢」は、
カバーもきれいで帯付き。ぱらりとめくると、
新刊のパンフも挟まっておりました。
そのパンフは
「新潮45+」’82創刊号とあり
「新しい月刊誌誕生!」「3月29日創刊」とあります。

齋藤十一は2000年(平成12年)12月28日死去。享年86。
そして、新潮社の天皇と呼ばれた人がお隠れになってから
2018年(平成30年)に、「新潮45」休刊。

ちなみに、生涯のライバルはというと、
池島信平は1973年(昭和48年)2月13日死去。64歳。
そして、文藝春秋「諸君!」は2009年6月号が最終号。
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