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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

風車・水車。

2007-07-31 | Weblog
ときに、貴重なご意見を聞きたくなるものですね。
皆が同じ意見を言っている時などは、なおさら。
7月31日読売新聞の編集手帳を読んで、私はほっとしたのでした。
そこでは、安部首相を励ます言葉があったのでした。
「編集手帳」は例によって古典からや詞華名言からの引用をしております。
安倍氏を見る視点はというと
「小泉改革路線を継承した安部首相は今、長唄にいう二代目の心境かも知れない」
と編集手帳子はエールを送っているのです。
余人にまねできない小泉氏の長所が、可愛気なら、安倍首相はその一段下の長所「律儀」を目指せばいいのだと、いいたいのでしょう。
そして、編集手帳はこう終わっておりました。
「年金、政治とカネの宿題が残った。初代とは持ち味の違う二代目である。『精だせば凍る間もなき水車(みずぐるま)』、律義、律義でいくしかない。」


私におもしろいと思ったのは、この日の編集手帳は、まん中頃に谷沢永一氏の言葉を持ってきていたのです。
その箇所はというと
「評論家の谷沢永一さんは、人の性格のうち『可愛気(かわいげ)』にまさる長所はないと言う。『才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない』と(新潮社「人間通」)。ムキになる姿もどこか憎めなかった小泉氏の、余人にまねのできない長所は可愛気だろう。谷沢さんによれば可愛気とは天性のもので、乏しい人は一段下の長所『律義』を目指せばいいという。律義なら努力によって手に入る、と。」


谷沢永一さんといえば、思い浮かぶのが、昨年2006年1月30日毎日書評賞贈呈式の際にご自身が挨拶した言葉です。

「『いかなる方面にも遠慮のない書き放題の本が出来たのは、文化人の目に触れないローカルとミニコミで書き続けたから。限りない自由があるかわりに、評判も立たず何の効果もありません。宇宙の真ん中に放り出されたようなもんです』とユーモアたっぷりの関西弁で語り、会場の笑を誘った。『たんと売れても売れない日でも同じ機嫌の風車』と都々逸坊扇歌の歌であいさつを締めくくった。」(毎日新聞2006年2月5日書評欄下の記事)


  精だせば凍る間もなき水車
  たんと売れても売れない日でも同じ機嫌の風車



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鬼神をも。

2007-07-30 | Weblog
柳田國男の「ことわざの話」をめくっていたら、こんな言葉にでくわしました。

「だんだんお話をして来ました通り、諺は和歌や俳句も同じように、いづれも元は大人だけにしか入り用のないものでありました。大人ばかりに聴かせるつもりで、いつたり考え出したりしていたものであります。・・・
諺とはどんなものかということを、知っているだけは必要であります。人類が他のすべての動物の持たぬ力、すなわち物をいう力を最初に利用したのは、恐らく外から現われた危急に対して、仲間を纏めるためであったろうといはれています。諺は言語というものが出来てまもない頃から、もうそろそろと始まった古い技術であります。そうして人間に『おしゃべり』というものがある限り、どんな形を変えても、続いて行かなければならぬ技術であります。・・・」

この後の言葉に、
私には、古今和歌集の仮名序と似ているなあと思った箇所あるのです。
そこを引用してみます。

「苦労をする人の心を慰め、沈んでいる者に元気をつけ、怒ろうとしている者に機嫌を直させ、または退屈する者を笑はせる方法としては、かつてわれわれの諺がしていただけの為事を、代わってするものは他にないのであります。軽口が粗末になって、日本の笑いはそれこそ下品になりました。それでも若い人たちは笑わずにはおられぬゆえに、今は実につまらないことで笑っています。・・・」

さて、この箇所の後に、
古今和歌集の仮名序を並べてみます。

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。・・・
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えね鬼神をもあわれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは。歌なり。・・・」

こんな風にはじまっている序です。
柳田國男は、古今和歌集の仮名序のように、諺の大切を書き示していたのではなかったかと思ったわけです。
繰り返しますけれども

「苦労をする人の心を慰め、沈んでいる者に元気をつけ、怒ろうとしている者に機嫌を直させ、または退屈する者を笑わせる方法」


そんな方法がある。そして後に「鬼神をも・・」と続けてもよさそうに思うのですが、いかがでしょう。

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笑の領分。

2007-07-29 | Weblog
追悼・河合隼雄。
私は、新聞での3人の追悼文を読みました。

7月20日読売新聞:中沢新一「日本人を救った知恵の賢者」
7月21日朝日新聞:梅原猛「『河合心理学』未完が残念」
7月24日産経新聞:養老孟司「笑いの力 心得た人生の達人」

ここでは、養老さんの文について。
その追悼文の最後はこうでした。

「個性、個性と声高にいう世の中だが、河合さんはそういう言葉では語らなかった。でも河合さんのような個性は稀(まれ)である。その意味では、惜しい人を亡くしたと思う。文化庁長官のような仕事をやらせるべき人ではなかった。個人的にはそう思う。患者さんを含めて、他人のストレスをあれだけ解消していた人に、ストレスがかからないはずがない。河合さんは名伯楽だった。その伯楽を真に上手に使う人がなかったのは、やむをえないのであろうか。」


笑についてでも、養老さんは印象深く語ります。

「笑いといえば、河合さんと最後にまじめな仕事をしたのは、三年前に小樽で行われた『笑いの力』というシンポジウムに参加したことである。その結果は岩波書店から同名の書物として刊行された。作家の筒井康隆さん、女優の三林京子さんが参加された。河合さんには本当に『笑いの力』という主題が似合っていた。私も笑うのが大好きだが、河合さんもお好きだった。あのダジャレを聞いた人は多いはずである。臨床家としても、人生の達人としても、笑いの力をよく心得ておられた人だった。」


笑ということで、柳田國男に「笑の文学の起原」という文があります。
筑摩書房「定本柳田國男集 第七巻」(昭和55年・古本)に入っております。

その文はこうはじまっておりました。

「今日のやうな記録文藝の隆盛期に於ても、『笑いの文学』だけはまだ別系統を持続して居る。所謂滑稽作者は人も容易にこれを真似ようとせず、自分も亦調子に乗って外へ出て行こうとすれば大抵は失敗する。一方を『泣く文学』若しくは怒る文学と名づけては勿論狭きに失するであろうが、兎に角に二通りの文学には両々相容れざる截然たる差別がある。これを自分などは偶然の結果では無く、必ず本来の性質に基くものだろうと考えて居るのである。出来るならば少しでもこの問題の糸口を尋ねて見たい。それが私のをかしな野望である。」

その次には、何げなくこんな言葉があったのでした。

「読者に与ふべき『笑の文学』の影響又は価値、それを決定するのは次の時代の心理学者の領分である。・・・」

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高校生への。

2007-07-28 | Weblog
渡部昇一著「学ぶためのヒント」(祥伝社黄金文庫・¥650)が面白いです。

この文庫を読みながら聞こえてくるのは、
「高校生に語る先達からの応援歌」とでも言ったところでしょうか。
もう、夏休みも一週間たちましたけれど、ちょうど今が読み頃かもしれません。
最初の方に(p23)こんな言葉が拾えます。

「・・・計画を実行しないための理由を探す人間になるなということです。
どうしても計画通りできない場合がありましょう。しかし私は小学校を出る時に、
担任でない隣の組の先生が教訓として、『お前たち、これからは物事をしないための理由を探すような人間になるな』ということを言われました。これは非常に印象に残りました。世の中には、しないための理由というのは、いくらでも見つかる。『今日はおもしろいテレビがある』『今日は週末だ』『今日は頭が痛い』『今日は天気が良いから遊ばなきゃ』というように、いくらでも見つかるものなのです。ですからそういうことが出たら、あ、しないための理由を探しちゃいかんな、と抑える気持ちが少し働くと、ま、完全に実行できる人はいないでしょうけど、十分な効果があります。しないための理由を自分は探してるな、という反省を忘れないようにしていきますと、単に高校時代のみならず、長い人生においても、大きな差が出ることになると思います。」

この「抑える気持ちが少し働くと」というのがいいですね。
ここには、解答ではない、「先達の応援歌」とでもいえそうな励ましを感じます。
そんなこんなで、分かりやすく、おすすめの文庫です。

コメント (2)
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神戸から東京。

2007-07-27 | Weblog
日野原重明(ひのはらしげあき)の連載があったので、はじめて人となりを読むことができました(読売新聞2007年6月13日~7月11日「時代の証言者」)。

それを読むと、日野原氏は神戸から東京へと来ているのですね。
では順を追ってみます。

1911年(明治44年)に山口市にある母、満子の実家で生まれる。
生涯を伝道にささげた父・善輔は、「14歳の時に出会った宣教師に感化されて、クリスチャンになったんだけど、浄土宗の家だから、理解してもらえなかったらしい。故郷を離れ、神戸市にできたばかりのミッションスクール、関西学院に入ったんです」。ご本人の重明氏は1918(大正7)年に神戸市立諏訪山小学校に入学。関東大震災のころはどうしておられたか。どうも受験のことばかりです。「もともと、父が神学を教えていた関西学院に興味があってね。子弟は授業料が免除されていたし。でも名門校に運良く受かったからということで、神戸一中の入学式に行ってみたんだ。1924(大正13)年のことでした。」それからすぐに関西学院に行くことになります。「本格的に医者を目指したのは中学4年のときでした。1929年(昭和4年)には、第三高等学校(京都)の理科に合格してね・・三高では文芸部に入って、詩集を出したり、随筆の文集を出したりしたんだ。ちょうど、グールモンなどのフランスの詩集を、堀口大学が精力的に翻訳し始めたころで、ジャン・コクトーといった前衛的な詩にも傾倒したね」。1932年、京大の医学部に合格。「大学院修了に1年残した1941年(昭和16年)のことでした。住んでいた地塩寮にキリスト教青年会(YMCA)同盟の学生総主事が来て、東京の聖路加国際病院で循環器のできる若い人を探しているけど、君はどうかと言われたんです。もともと、大学を出たら、東京で勝負したいという気持ちが心の隅にあったので、僕は飛びついた。東京は東大閥だからいじめられるよ、とみな反対したけど、8月、聖路加に赴任しました。でも、働きだしたら、橋本寛敏院長は東京帝国大学医学部卒なのに東大の学閥が大嫌いで、医局にも残らなかったという逸話の持ち主ということが分かったんです。聖路加には学閥がないので僕はいじめられもせず、好きなことをやらせてもらったの」。

関東大震災を体験しなかった日野原氏が、ここで東京大空襲に遭遇するのでした。
「空襲が激しくなり、警報が鳴るたびに、何百人単位の患者が病院に押し寄せてきました。東京大空襲では、礼拝堂まで、やけどの患者で埋まってね。床にマットレスを敷いて寝かすんだけど、薬が全然ないでしょ。やけどした表皮に分泌物が出ているからって、新聞を燃やした炭の粉を振りかけたりして。あとは何もできずに、どんどん人が死んでいく。そういうことを僕は空襲の時に経験したんです。」

ちょいとさまざまな経験をされている日野原氏ですので、端折るのがもったいなのですが、あと一つだけ引用させていただきます。

1995年3月20日。
「僕が院長になってからは、月曜日の早朝は定例幹部会と決めていて、その日も7時半から、本館の5階に3人の副院長を含め、責任者が集まっていてね。すると、8時過ぎに、『地下鉄で事故が起きて、患者が大量に発生した』と消防署から連絡が来たんです。医師を近くの築地駅に出したら、何かわからないけど、動けない患者が大勢いると報告があってね。1月には死者6400人を出した阪神・淡路大震災があったばかりだから、一人でも多くの患者をこの病院で引き受けなければと。救急センターに医師を集めるように指示してね。同時に、外来診療を中止して、その日の手術でまだ麻酔がかかっていない患者の手術を延期しました。520のベッドの2割は空いているというし、震災に備えてチャペルや廊下にも医療機器が完備しているでしょ。看護師も敷地内の宿舎から呼び出せばいいからと思い、『全員を受け入れなさい』と指示を出したんです。そして、僕は救急センターの入り口で、受け入れの指揮を執ってね。看護大の職員やボランティアも救援に駆けつけてくれて、640人を収容することができたんだ。患者はせきが激しくて、瞳孔がみな収縮していたの。でも、何の中毒かわからないから、中堅の医師で、原因究明班を作ってね。そのうち、どうも長野県松本市でまかれたサリンに似ているという話になって、信州大学付属病院からの電話で、その症状なら全く同じで間違いないと。大阪から解毒剤を取り寄せて、全員に点滴しました。・・・聖路加は緊急事態の際、情報を共有し、素早く方針を決定するための訓練を十分に重ねていたし、大勢のボランティアが援助してくれた・・・」
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関東・阪神大震災。

2007-07-26 | 地震
石井英夫著「クロニクル産経抄25年」上下巻(文芸春秋・平成八年刊)。
その帯には「第40回菊池寛賞受賞」「『天声人語』を卒業した人に」とあります。
配列順は平成7年から順次年代を逆にもどってゆくのでした。
それで、最初にある産経抄はというと、1995(平成7)年1月18日のコラムでした。
「大震災発生」と題してあります。
そこから引用してみましょう。

「・・・実はこの正月、気になる新聞記事を読んでそれが心に引っ掛かっていた。1月8日付の日経新聞で、琵琶湖から大阪に至る花折・金剛断層系で大地震を起こすエネルギーがたまりつつある、という立命館大・見野和夫教授の予測である。関西のなかでも、この地域には三百年以上も目立った活動がない。西日本の人びとはそこで油断があったり、安心感を抱いたりする。しかしそうだからこそ警戒を要する。『関西は地震に対する意識が薄く、防災体制も不十分だ』という警告であった。」以下歴史をさかのぼって関西の地震の年代を記述しておりました。

その次の1月19日の産経抄は、谷崎潤一郎が登場します。
ここは読み甲斐がありますので、丁寧に、というか全文引用。

「チャキチャキの東京っ子・谷崎潤一郎は、大正12年9月の関東大震災のあと東京を逃げだし、関西に住みついた。はじめしばらく京都にいて、それから神戸へ移ったという。【関西亡命】といえるかもしれない。東京を去ったのは地震の恐怖ばかりでなく、古い風俗や習慣の【定式】が東京から失われてしまったからだった。谷崎は箱根で大震災に遭い、さいわい無事だった家族と再会し、沼津から汽車で神戸へ向かう。そのあと神戸⇔横浜を船で往き来した。関東大震災では、地震にこりごりした関東の被災者たちが大挙して関西へ引っ越したそうだ。阪神地方には地震がないという【信仰】のような口伝があったからだろう。そんな被災者を迎える関西の人びとの模様を、谷崎はエッセーでこう書いている。『梅田、三宮、神戸の駅頭には関西罹災民を迎へる市民が黒山のように雲集し、出口に列を作ってゐてわれわれの姿を見ると慰問品を配り、停車場前には接待所などが設けられており、分けても梅田駅の活況は眼ざましいものがあった・・・・。』それに続いて谷崎は、大阪と京都の違いについて次のように書く。『驚いたことに、七条ステーション前の広場は森閑として、平日と何んの異る所もない。私はそれを見て実に異様な気がしたものだった。この時ぐらゐ京都の土地柄をまざまざと見せつけられたことはなかった』。大阪や神戸というと、がめつく計算高い土地柄のように考えがちだ。しかしどうして、人情に厚く、心温かい救いの手を関東大震災の被災者に差しのべたと谷崎潤一郎は証言している。未曽有の苦難に直面した関西に、今度は関東がお返しをする番である。」


ちょうど良い機会ですから、今年2007年1月21日読売新聞に載った田辺聖子さんの「よむサラダ」を引用したくなるのでした。

はじまりは
「この原稿を書いているのは1月17日、そう、阪神大震災から12年である。昨日の16日には、町のあちこちで追悼行事が行われた。・・・私はあの夜、全くの偶然から、震災死をまぬがれた。1月10日過ぎの頃あいは、原稿の締切りが殺到するのが例年のならい、毎晩のように深夜まで仕事をし、白々(しらじら)明けのころ、就寝するはずであった。ところが前日に、わが家は法事を営み、直会(なおらい)の宴があって、一族はみな、楽しく飲み、話の花が咲き、機嫌よく散じた。私はそのあと仕事をするつもりだったが、ねむ気に勝てず寝てしまったのである。・・・」

真ん中を省いて、最後の方には
「ところが、だ。私の仕事部屋を覗いたとき、一瞬、声を奪われた。私は窓に向った低い机に、それに合う、低い椅子を置いている。正座ができないので、特別にあつらえた机と椅子を使っている。背後には、壁に接して天井まである大書棚(これは、人間にそんな大きな本棚が要るはずない、という頑固な棟梁を説得して、無理に作ってもらった特製の本棚)。もちろん、本はぎっしり詰まっていた。その本棚が・・・。――モロに机に叩きつけられ、本は散乱し椅子の背に本棚はめりこんでいた。私が予定通り徹宵(てつしょう)仕事をしていれば、頭を砕かれていただろう。それを見たとき私は、まだ生かしてもらえるのだ・・・と感謝した。何ものにとも知れず。・・・多くの死者の中へ入らず私が助かったのは、ほんの偶然なのだろう。・・・・」


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大正12年・昭和12年。

2007-07-25 | 地震
小説を読むのが苦手なのですが、そのかわり詩や書評を読むのが好きです。
ということで、興味深い書評欄の記事を見つけると、本を読まない癖して、うれしくなります。興味深いうわさを聞いたような気になります。

最近もありました。
産経新聞2007年7月22日の「著者に聞きたい」欄。
三田完(昭和31年生まれ)著『俳風三麗花』(文芸春秋)について、語られております。
「昭和7年夏から8年暮れにかけて、東京は日暮里在住の数学の大学教授で俳人、秋野林一郎こと暮愁(ぼしゅう)が主宰する暮愁庵句会に集う3人の・・・」

興味を引いたのは、著者三田完さんのこの言葉でした。

「『大正12年の関東大震災以降、昭和12年ごろまでは、日本の近代の黄金時代だと思います。そのあたりの歴史を調べて小説にする作業はとても楽しくて』本書を書く呼び水になった。」


この「大正12年から昭和12年まで」を黄金時代と思う人がここにおられる。
ということで、いつかこの本を読んでみたいのでした。
とりあえず、読みたい本として唾をつけておくように、覚書を書いておくわけです。どなたか読んだ方がいないかなあ。と小説を読まない怠惰な私は思うのでした。
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本の怪談。

2007-07-25 | Weblog
谷沢永一氏の言葉で「執筆論」(東洋経済新報社)に
「坂田三吉は、銀が泣いている、と活用されない駒の嘆きを痛烈に代弁した。我が家の書庫でもまた、今になってもまだ仕事に用いられない多くの本が泣いている。他人(ひと)のことをとやかく言う資格が私にはない。」(p218)というのがありました。
本が泣いているといえば、ひょっとすると、見方によっては怪談じみてくる。
本が死んでいるというと、なおさら。
阪神大震災のときには、本が飛んでいたわけですが・・・。

作品社の「日本の名随筆」というシリーズがあります。
その別巻6に、谷沢永一編「書斎」というのが入っておりました。
そのあとがきは谷沢さんの文で、わずか2ページ。
その2ページに本が死んだり、動いたり、疲れたり、呟いたりしておりました。

ということで、その2ページの紹介。
谷沢さんが書斎を語る時に、まずどう語り始めるのかというと、こうでした。
「自分のもっていないものについて語る場合、その表現はかなり気楽であるだろう。読者の同情に訴えればよいからである。明治以来、我が国の散文技法は、もっぱら、その方角で技法を磨いてきた。伊藤整流に言うなら、不所持の詠嘆、である」


ここで、真ん中を端折って、後半を引用します。

「もともと、書斎にどの本を置くかの選定は、常に必ず厄介なのである。・・・かなりしょっちゅう使うから、見たところ、本の並びが凸凹になる。そういう場合、書棚の本が動いている、と言い慣らわす。逆に、書斎の主が、平素、本をあまりいじらないでいると、勢い、一冊一冊の本が、手前に出たり引っこんだりしないで、快くピチッと揃っている。これを、本が死んでいる、と謂う。また、全集や叢書など揃い物の場合、どうしても、利用が特定の巻に傾き、したがって、その何冊かだけに手垢がついて汚れる。つまり、均しなみに見事に綺麗なセット物は、今まで使っていただきませんでした、とひそかに呟いているのである。結局、書斎は、乱雑、であるしかないだろう。書物は、やはり汚れているだろう。辞書は、謂わゆる疲れ本となっているだろう。・・・・」


困ったなあ。この箇所を読んでから、あらためて、自分の本棚を眺めるわけです。
すると、怖いことに、本棚が、いつのまにか、死んだ本の墓場にみえてくる。


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追悼河合隼雄。

2007-07-23 | Weblog
7月19日午後2時27分。河合隼雄氏が脳梗塞のため亡くなられました。
臨床心理学の第一人者で、しかも文化庁長官として活躍されておりました。
およそ同時代に生きて、ふみ読む人で、この人の言葉に触れなかった方がいたでしょうか。
そんなことを思い描いていると、この同時代に、人それぞれの河合隼雄氏との出会いが用意されていたのではないかと、思えてくるのでした。
私が最初に河合隼雄氏の文に惹かれたのは、岩波書店の「図書」に掲載されていた「ユング研究所の思い出――分析家の資格試験を受ける話」でした。これは今は中公叢書・河合隼雄著「母性社会日本の病理」に入っております。

死亡記事が載った7月20日読売新聞の文化欄には、中沢新一氏が「河合隼雄氏を悼む」を書いております。こんな箇所があります。

「河合先生は、私にとって、かけがえのない恩人であった。十数年前に私が自身の軽率な言動によって、社会的に大変な苦境に立たされ、それまで友人と思っていた多くの人たちがまわりから去っていってしまったとき、河合先生が不意に電話をよこされて、余計なことはなにもおっしゃらずに、『いっしょに仏教について話をして、本をつくってみませんか』と、救いの手を差し伸べてくださったのである。そのとき私はなによりも、河合先生の豪胆さに打たれた。」

そして、よく諭されたという言葉を中沢新一氏は引用するのでした。

「なにごとにも慎重な方で、『君のように、なんでも正直に思うたことを口にしていたら、そのうち十字架にかけられてしまいまっせ。わしは本心なんか、そうそう簡単に口にしません。黙っといて、相手の本陣に入り込んで準備を進めて、ここぞと思うときまで、じっと待つんですわ。それまでは、人からどんなに誤解されたってかまわんのです。そういう人たちは、じつはものが見えとらんのですから』と、よく私を諭された。しかしその反面、いざというときには、たとえ世界中が反対しても、自らの信念を貫き通してみせる、信じられないほど強い心の持ち主であった。」


そういえば、「信じられないほど強い心」というのを、私は「ユング研究所の思い出」(単行本で10㌻ほど)で文章として読んだことがあったのでした。あの資格試験の時も、それからずっと河合隼雄さんはかわっていなかった。


中沢さんの追悼文は、最後の方にこうありました。
「この世に二人といない知恵の賢者を、失ってしまったのである。」


それでは、その賢者が受けた資格試験とは、どういうものであったか。
まだ、「ユング研究所の思い出」をお読みでない方がおられましたなら、
一読をお薦めするしだいです。




追記 講談社プラスアルファ文庫に「母性社会日本の病理」が入っているようです。
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本泣く・泣きたし。

2007-07-22 | Weblog
東京新聞(2007年7月22日)サンデー版の東京歌壇。
そこを読むのが楽しみです。選者は岡野弘彦・佐々木幸綱のお二人。
さて、今日の佐々木幸綱選の最初の歌を紹介したくなりました。
歌壇では、ときに学校の教師の歌が載ることがあります。

 文法も発音も訳もまちがえる実習生とともに泣きたし  千葉市・石橋佳の子

【評】五月から六月にかけては教育実習の季節。出来の悪い実習生が来て困っている教師の歌である。「ともに泣きたし」に実感がこもる。

以上が、歌と選評でした。こうした歌を作る教師の授業というのは、どんな人なのでしょうね。ちょいと授業風景を覗いてみたくなるような歌でもあります。

ところで、思いもしなかった「泣きたし」という言葉に出会うと、また思いもしなかった「泣く」に結びつけたくなる私がおります。

谷沢永一著「私はこうして本を書いてきた 執筆論」(東洋経済新報社)に「本が泣いている」という言葉があるのです。その箇所をちょっと引用してみましょう。

「世に愛書家伝説は数多いけれど、本来は、それが誰によってどのような方向で有効に利用されたかを論評するべきであろう。・・・・坂田三吉は、銀が泣いている、と活用されない駒の嘆きを痛烈に代弁した。我が家の書庫でもまた、今になってもまだ仕事に用いられない多くの本が泣いている。他人(ひと)のことをとやかく言う資格が私にはない。」(p218)

谷沢さんの新刊に「読書通 知の巨人に出会う愉しみ」(学研新書)があります。物故者に限りながら「尊敬し愛読する12人の著作家を選び」。新書のスペースで紹介・解説をしているのでした。

そのなかでたとえば、石川準吉についての文の最後にはこうあります。

「石川準吉の『国家総動員史』全13冊は、一個人によって博捜を極めた資料探索であるのみならず、すべて自費出版の壮挙であることに驚嘆を禁じえない。第一次世界大戦後における我が国の陸海軍および官僚組織の軌跡を考えるために必須の基礎資料として、今後さらに活用されなければならないのである。」(p121)

たとえば「瀧川政次郎」では、「泣いている」本をこう取り上げます。

「『東京裁判をさばく』・・・は、彼が見るところの、久しきに亘る軍部の圧制によって卑屈にされた日本人、に向けて初めて発せられた、悲痛なる警世の訴えである。」(p122)
「独立した民主主義の民族国家に相応しい日本史を作りあげるべく努めたのが『日本人の歴史』であり、戦後の日本史研究は本書を出発点とすべきであったにもかかわらず、この史観が十分に顧(かえり)みられることなく、あたかも埋没されているかのごとき現状は遺憾(いかん)に堪えない。国民に共通の常識として定着すべきであった瀧川史観は、その後も評価されること乏しく今日に至っている。しかし本書は最も堅実な日本通史として創見に充ち、古代より明治維新まで確実に歩みを続けた日本民族の足跡を、いちいち実証に徹して照明した記念碑と目されるべき簡明な叙述である。その一行一章ごとに刮目(かつもく)すべき指摘が続くこの一冊は、われわれが襟を正して学ぶべき史観の精髄ではあるまいか。これだけの名著が然るべき評価を受けないでいる現状を惜しむ・・・」(p123)

谷沢永一氏の専門は、書誌学、近代日本文学でした。
それに関係する人もでてきますが、ここでは省いて、
ひとつこれだけは、引用しておきたいと思う箇所を孫引きしてみます。


「書誌学とは存在する本そのものを手にとって数量化し、記号化する作業、当節流行の言い方をすれば、実在の物を『情報』に数える技術そのものである。しかし、『情報』というものは、実をいうとそれを作った本人にしか、その十全な意味は探り出せないのであって、従って書誌的『情報』を真に必要とする人は、必然的に書誌学の技術を自ら体得しなければならないことになる。他人の作った書誌情報は、ほんの目安にしかならないことを銘記すべきであろう。人文科学であれ自然科学であれ、本来の『情報」というものの本質はこのようなものであろう。昨今の『情報』ばやりの風潮は、そうした『情報』の受け手になるだけで何かが摑めたような幻想を持つことによって成り立っているような気がしてならない。確かな手ざわりを忘れてはならないはずである。」(p197)

谷沢永一氏は「他人の作った書誌情報は、ほんの目安にしかならない」と知りながら、その書誌情報をおしみなく同時代へと発信しているのでした。こうして、私みたいに本の紹介文をただ引用して、そこに紹介されている本には、触れもしない読者がいることを知ったら、「泣きたし」と思うんだろうなあ。

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震災と戦災。

2007-07-21 | 地震
植木等著「夢を食いつづけた男」(朝日文庫)は、副題として「おやじ徹誠一代記」とあります。
植木等の父親・植木徹之助は、明治28年1月に三重県度会(わたらい)郡大湊町に生まれております。この徹誠一代記に、関東大震災と東京大空襲の経験が載っております。その箇所を引用しようと思ったわけです。
(注記:昭和4年に得度して徹之助が、僧・徹誠(てつじょう)となっておりました)
まず、東京へ行く経緯はこうです。
「明治42年の春、徹之助は大湊小学校(高等科)を卒業し、東京の御木本真珠店付属工場(のちの御木本貴金属工場)で働くことになった。その工場は、麹町区内幸町一丁目三番地に一年前、できたばかりだ。徹之助は、花のお江戸の、しかも郷里の偉人御木本幸吉が創設した工場に入ることになって張り切った。」(p20)

興味深いのは、明治43年から、この工場長が評論家小林秀雄の父・小林豊造だったというのです。こう書かれております。「東京高工(後の東工大)の教授で工芸界の権威だった小林を、上昇気流に乗っていた御木本が迎えたのだった。小林は労働者の地位向上、人格尊重が良い仕事の前提という考え方で、職工、職人という呼び方をやめ、『工員』と呼ぶことにした。小僧は『徒弟』となり、なになにドン、だれそれ公は、なんとか『君』に昇格した。当然、小林は従業員の尊敬を集めた。」(p32~33)

さて、いよいよ関東大震災が近づきます。その頃の様子にふれながら、引用していきます。

「世帯をもった年の翌大正十年、長男の徹が生まれた。おやじ(徹之助)26歳。身辺に落ち着いた雰囲気が漂いはじめ、仕事の面でも思想的にも、円熟のきざしを見せていた。そして大正12年、おやじは大役をいいつけられた。その年の11月に予定された東宮殿下(注:昭和天皇)御成婚に際して、良子女王殿下のために・・一切の装身具を製作するよう、宮内省から御木本に指示が下されたのである。そのうちの冠の製作をやれと、おやじと野川喜太郎の二人が命じられた。工場内は大変な緊張である。・・・・
9月1日、関東大震災の日の真昼、工場は夏休み態勢に入っていて、仕事は午前中で終わっていた。ただ、宮内省関係の仕事をしている者だけは残っていた。おやじも早い昼食のあと、午後の仕事に備えて寮の二階にある佐藤保造の部屋で休憩していた。そのとき、グラグラッときた。たまたま、上村祐造が工場にいて、窓越しに隣の寮を見ていたら、おやじは立ちあがり、阿波踊りでも踊っているような手ぶりをして体のバランスをとろうとしていた。おやじたちは逃げようとした。しかし、寮の二階の床がVの字型に落ちてしまっている。斎藤信吉が一階の食堂を講堂として使うために、柱を抜いていたからである。階段を降りようにも階段はつぶれている。二階の窓から地上に飛び下り、まだ揺れ続ける地面を蹴って日比谷公園の方へと逃げた。おやじは、逃げのびた日比谷公園で、ばったり幸吉に会った。・・『おい、植木』と、おやじの顔を見るなり、幸吉はいった。『冠が大丈夫かどうか、工場へ帰って確かめてこい』。おやじは、幸吉の顔をつくづく眺めながら答えた。『冠みたいなものには潰れたって作り直しがききますが、人間の体ってものは作り直しはきかないんだから、私は嫌です』。幸吉は、どなったそうだ。後にも先にも、天下の御木本にさからったのは、おまえだけだ、ふらちな男だ、ってわけである。」(p51~53)


ここはよく調べてあり。以下、北畠清泰氏の丁寧な調査がなにげなく語られております。
「こうした逸話を近親から聞き、あるいは記録を読んでいてつくづく思うのは、御木本幸吉という人の周到さである。真珠は火に弱い。だから幸吉が最も恐れたものは、火事だった。元来、幸吉は、店員を信用して金庫を信用しないという人だったから、火災発生時には金庫の中の品物を出して非常袋に入れ、店員がそれぞれ分担してかつぎ出すよう、日頃から訓練していた。そんなわけで、大震災の日も、かねての訓練通りに実行し、被害を最小限に食いとめることができた。・・・」(p54)


まだ、逸したくない話がありますので続けます。

「関東大震災の四日前、次男の勉(つとむ)が誕生したばかりだった・・・この勉が誕生したとき、おふくろの母親が伊勢の西光寺から内幸町のおやじの家に手伝いに来ていた。お産がすんで四日目に大震災である。『東京は怖いところだ』と、おばあさん、伊勢へ帰ることにした。おふくろも、また東京に天変地異があるかもしれぬと、交通事情も何とか回復して帰れる見込みが立つやいなや、生まれたばかりの勉を抱いて、母親と同行することになった。汽車の道中である。東海道線の各駅では、東京から逃げ散る罹災者のためにと、炊き出しのにぎりめしが配られていた。箱に大きなにぎりめしが湯気を立てて並んでいる。『どうぞ、どうぞ』。西光寺のおばあさんは、そう勧められても、代金を取られるのだと思って、『いえ結構でございます』『せっかくでございますが、結構です』と、断り続けていた。静岡を過ぎたあたりになって、おふくろが『おばあちゃん、あれはただなんですよ』といった。それから後、おばあさんは『はい、ありがとうございます』一辺倒で、にぎりめしを貰い、西光寺に着いた時にはにぎりめしが両手に持ち切れないぐらいだったそうだ。」(p54)



つぎは東京大空襲。


「東京が相次いで大空襲にあったのは20年春である。当時、植木一家は足立区西新井の、お大師さんの近所に一軒、家を借りていた。その夜、警戒警報が発令されていたために、西新井警察署の電灯以外、町内のどの街灯、どの家も明かりを消していた。・・・警察署に爆弾が落とされ、それは大きな松明(たいまつ)のように炎上した。真っ暗闇だった町並みが炎に照らされた。そのとたん、上空の編隊から焼夷弾が雨霰と降りそそいだ。わが家の裏手にあった便所が燃え始めた。家の中には、おやじ、おふくろ、私の三人がいた。すっくと、おやじが立ち上がって、おふくろと私に言った。『ちょっと工場を見てくる』・・・この時は誰に命じられたわけでもないのに、わが家と家族をおっぽり出して工場を見てくるという。『おい等。おかあさんを頼むぞ』そう言い残して、おやじは戸外へ飛び出した。私は、おふくろと手をつなぎ、布団をかぶって外に出た。ついさっきまで暗闇だった通りが今は真昼間の明るさだ。・・・」
以下つづくのですが、このくらいにしておきます。
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背筋を伸ばし。

2007-07-20 | Weblog
文芸春秋から出ている年間購読冊子「本の話」(2007年6月号)。
そこに重金敦之さんが「酒屋に一里 本屋に三里」という連載をしております。
日記体で書かれており、6月号に、こんな箇所がありました。
「×月×日 植木等さんが亡くなった。三谷幸喜氏が、朝日新聞の『ありふれた生活』で、【唯一無二の人】と追悼。・・・緊急重版した植木等の名著『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日文庫)を再読する。」とありました。

この朝日文庫が緊急重版されていたのですね。知らなかった。
それなら、それで書いてみたいと思っていたことがあります。
それは3月29日の新聞一面コラムの比較をしたかったのです。
その日の、毎日新聞『余録』と朝日新聞の『天声人語』。
どちらも、『夢を食いつづけた男』の同じエピソードを引用しているのでした。

まず余禄の書き出しを引用してみます。

「亡くなった植木等さんの父は戦前、労働運動や解放運動に身を投じ、また出征兵士に『戦争は集団殺人だ』と説く反骨の僧侶だった。その父が治安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに僧衣を身にまとい、檀家(だんか)を回って経をあげた」

つぎに、天声人語の書き出しを引用してみます。


「一休さんのような少年僧が、暗い道に張られた縄に足をとられた。地面にしたたかに顔を打ち付け、血が噴き出す。しかし、少年は泣くこともなく寺に帰ってゆく。『衣を着たときは、たとえ子どもでも、お坊さんなのだから、喧嘩をしてはいけません』。少年は、縄を仕掛けた連中が近くに潜んでいるのを感じたが、この母の教えを守った・・・」


さて、ここに出てくる「母の教え」のセリフが、私には気になったわけです。
余録も同じセリフを引用しているのですが、本そのままに、すこし長めの引用をしておりました。その同じ箇所のセリフを余録から引用してみますと。

『衣を着た時は、たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけません。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません』とあります。
文庫「夢を食いつづけた男」(p168)にそのセリフがありました。
文庫には「おふくろは、いつもそう言っていた。」というセリフ、ちょうど余禄が引用したのとピッタリ同じでした。天声人語はそのセリフを省略して引用しております。

二つの一面コラムを比べて読むと、その違いがクッキリとしてきます。
「母の教え」が、天声人語では「いけない」と禁止だけを口にしている。
一方の余録では、「背筋を伸ばし・・」とその態度にまでも言及しているのでした。読み比べるとはっきりした違いとして印象づけられます。


そのセリフの引用の違いで、内容も違って印象づけられてしまいます。せっかくですから緊急重版されたという、文庫本のその箇所を、詳しく取り上げてみようと思うのです。


「おやじが頻繁に検束されたり各地の社会運動に出て行ったりで留守がちだったから、まだ小学生の私の双肩に、僧侶の役目が覆いかぶさってきたのである。・・・・お布施を、・・あちこちで値切られたものだが、しかし、一人前の僧侶として扱ってくれた人もあった。夏の暑い日だった。貧しい檀家の仏壇の前で阿弥陀経をあげながらふと気がつくと、そこの家のお婆さんが団扇(うちわ)で私に風を送ってくれている。そして私がお経を終えると、お婆さんは『ありがとうございました』と、畳に額をこすりつけるようにして挨拶してくれた。この子どもの私を、一人前の僧侶として遇してくれたのは、あのお婆さんが初めてだった。・・
私の檀家回りは学校から帰ったあとだから、日の短い冬などは、檀家を回る道が、とっぷり暮れていた。高い歯の下駄をはいて、この暗くて、細くて、曲がりくねった路地を急いでいる私を、しかも腕白たちが狙うのである。彼らは路地の両側にひそんで道に縄を張り、私の足をすくおうとするのだ。ある時、この罠に見事にかかって、私は凍てついた路面に、もんどりうった。したたか顔を打ったために、どくどくと鼻血が出てきた。私は、掌で血の溢れ出る鼻を押さえながら、路地の両側の暗闇にひそんでいるらしい連中に復讐したいと思った。その暗闇の中に躍りかかりたいという衝動を覚えた。しかし、私は泣き声も立てず、罵声も浴びせなかった。なま温かい血で顔を染めながら、私は静かにその場を去った。」

だいぶ引用がながくなりましたが、ここからが、例のセリフが出てくる箇所です。

「なぜ喧嘩を避けたかといえば、鼻血を出したままで次の檀家に行くわけにはいかない、早く寺に帰って手当てをしてから、またお経をあげに回らなければならないと思ったからだ。そしてもう一つ、おふくろに言いきかされていたことが、頭にあったからだ。『衣を着たときは、たとえ子どもでも、お坊さんなのだから、喧嘩をしてはいけません。背筋を伸ばして、堂々と歩かなければなりません』おふくろは、いつもそう言っていた。寺にたどりついて玄関を入ると、おふくろが私を見て、無言のまま手早く手当てをしてくれた。私を横にして、冷たい水で絞った手拭いで鼻を覆い、その手拭いを取っかえ引っかえしてくれた。血が止まったあとで、おふくろは私を膝の上に乗せた。抱きしめ、頭を撫ぜてくれた。『よく辛抱したね』私が何もいわなくても、おふくろには何でも分かっていた。おふくろは大粒の涙を、ぼろぼろと流していた。」

この本は(構成・北畠清泰)とありますから、この場面など、その構成が光る箇所にあたるのでしょう。それでも「おふくろは、いつもそう言っていた。」という箇所は間違いないと思えるではありませんか。


ところで、緊急重版されたという「夢を食いつづけた男」は、
残念ながら、ネット上のbk1でも、アマゾンでも、見あたりませんでした。
小部数の重版だったのでしょうか?

追記。セブンアンドワイでは、注文できます(630円)。

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ネグる朝日の。

2007-07-19 | 朝日新聞
清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書・昭和34年)に、「本当に文章の勉強をするのには、いつまでも新聞のスタイルを真似していてはいけない」という箇所があります。そして新聞の文を指摘して「肯定か否定かがハッキリすれば、とかく、差し触りが生じ易い。ところが、一般に新聞の文章は差し触りを避けた文章なのである。」としております。具体的には「『社説』は明確な肯定や否定を避けるものである。そして、相対立する意見の間のバランスをとりながら、それぞれの意見を主張して戦う両党派を『喧嘩両成敗』しながら、『これは非常に重要な問題である。』とか、『慎重に考慮する必要がある。』とか、物判りのよさそうな、しかし、差し触りのないことだけを言うのである。」


これは昭和34(1959)年に書かれておりました。つまり、書かれてからもうすぐ50年になる、それほど前の清水幾太郎さんの文章なのです。それでは、今頃の新聞はどうなっているのでしょう。ということで、今日発売の週刊新潮(2007年7月26日号)を紹介してみようと思うわけです。特集の見出しは「『安倍憎し』に燃える朝日の【異様すぎる選挙報道】」とあります。そこからの最近朝日新聞の記事分析。
その特集で、幾人かに聞いておりまして、その箇所を引用したいと思います。
まずは国際ジャーナリスト・古森義久さんの言葉

「社説や論評だけでなく、朝日は一般の記事もすごい。社説はともかく、少なくとも一般の記事の部分では客観性を持たせるのが新聞の常識。しかし、朝日の紙面は、一般記事はもちろん写真のスペースまで総動員して、安倍叩きに全力を挙げていますね」「【大慌て】だとか、【前のめりだ】とか【立ちすくむ】とか、また【危うい】【迷走】など・・・そういう情緒的な言葉を多用して読み手の感情に訴えかけている。最近の朝日の安倍叩きは、度を超えて逆に子供じみているように感じます」。

政治評論家の屋山太郎氏の言葉
「朝日は、6月2日に公務員制度改革関連法案の今国会成立を断念した、という誤報をやらかしました。おそらく参院の青木(幹雄)らに取材して、断念と判断したのでしょう。しかし、他紙の記者たちは、首相がこの問題で腹を括(くく)っていることを掴んでいたので、そういう間違いはしなかった。朝日は、安倍政権にマイナスになることだけを書きつづけていますから、こういう失敗をしでかすのです。朝日は新聞なんかじゃありませんよ。あれは、自分の価値観だけをひたすら押しつけてくる、ただのビラ。【反政権ビラ】ですよ」。

朝日OBの評論家・稲垣武氏の言葉
「最近の朝日を読んでいると、とにかく安倍憎しという一心で記事をつくっているとしか思えません。昔はそれでもオブラートに包んで政権批判をしたのに、今は感情むきだし。もはや新聞以下のイエローペーパー、デマ新聞のレベルです」


きめ細かな具体的紙面づくりも指摘しております。

「自社の世論調査を報じた7月9日付の記事では、安倍内閣の支持率が3ポイント回復し、自民党の支持率も戻ってきているのに、『それには見出しを打たず、その上、4日前の記事では、自民党支持率が前回の参院選より低いと、過去の選挙を持ち出してまで比較を試みている。どうしても安倍が巻き返している、とは書きたくないんですね。意図が感じられます』(官邸詰め記者)
まさに世論操作そのものである。
『支持率が回復していてもそれを印象づけないのは、【見出しの詐術】というヤツですよ。自分に都合の悪いニュースはネグるという朝日の得意技です。』」


朝日OBのジャーナリスト・本郷美則氏の言葉

「朝日は・・言論の自由を最大限活用し、自分たちの思想を宣伝し、ずっと嘘を言いつづけることで、白を黒にしてしまう。」

この件では、週刊新潮から、朝日新聞に質問をしていたようで、朝日広報部からの文書回答もちゃんと載っておりました。こちらは黒を白にしてしまうような模範解答です。最後にその朝日の回答を引用しておきます。


「世論調査の結果は、安部首相に有利なデータも不利なデータも等しく紙面で紹介しています。年金問題は、国民の深刻な不安感を踏まえ、必要な報道を続けています。【反政権的な報道に偏向する】との指摘には承服しかねます」

どうやら、48年前に、清水幾太郎がいう「差し触りを避けた文章」。それを朝日は文書回答で表明しようとしているらしいのです。
それにしても、稲垣武氏の「昔はそれでもオブラートに包んで政権批判をしたのに、今は感情むきだし」という言葉に、どうやら標準を合わせてよいのでしょう。不幸にして朝日新聞だけを購読されている人たちは、どう思っているのでしょう。ちょいと、聞きたいところではあります。

まあ、少なくとも、ここでは清水幾太郎氏の指摘する
「本当に文章の勉強をするのには、いつまでも新聞のスタイルを真似していてはいけない」という言葉が、50年前も、そして今でも妥当だとしてよろしいのではないでしょうか。



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大嫌ひだ。

2007-07-18 | Weblog
谷沢永一著「大人の国語」(PHP)の最後には附録として「『文章読本』類書瞥見」があり、本のリストが載っています。そこに61冊の本が列挙されていて。私に面白いなあ、と興味をもったのは、普通に雑書とみなされてもおかしくない、週刊朝日編『私の文章修業』というのもあったりするのです。

そういえば、斎藤美奈子著「文章読本さん江」(筑摩書房)の最後に、引用文献・参考文献として、二つにわけて「文章読本・文章指南書関係」81冊と「文章史・作文教育史関係」23冊のリストが載っております(こちらには「私の文章修業」なし)。
この斎藤さんの本は2002年2月初版。谷沢さんの本は翌年の2003年5月第一刷発行とあります。そして谷沢さんの瞥見リストにはちゃんと斎藤著「文章読本さん江」も載っている。つまり谷沢永一氏ご本人が選ぶとしたら、こういうリストになるという、お二人の選択眼くらべになっている。

それはそれとして、週刊朝日編「私の文章修業」(昭和54年)では52名の文章が載っており、それぞれに池田満寿夫のカット絵が魅力。楽しめる文が並んでいるのですが、そのなかから河上徹太郎氏の文を引用してみます。
その最後の方に、こうあります。

「この頃私は人物の伝記的エッセイを書くのが好きになつた。先に私は、文章といふものは筆者との人間味の溶け合ひだといふようなことをいつたが、この場合、私の文章と相手の主人公とが相擁して、共に生きてゆくやうな気持ちである。・・・・この頃は歴史物ばやりだが、一般にこの共に生きる愛情の不足が目につく。歴史家は相手をすべて割り切つて、『ここに彼の人間的限界がある』などいふ人物論を書くが、私はこの『限界』といふ言葉が大嫌ひだ。まるで自分はこの限界をのり越えた賢者で、振り返つて相手を裁いてものをいつてゐるようだ。文章は計量器ではない。・・・・」(p223)


ここに『私はこの「限界」といふ言葉が大嫌ひだ』とあります。
嫌いといえば、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)が思い浮かびます。
その最初のページには、こうある。

「良い文章を書ける見込みのある人、文章というものと縁のある人というのは、一体、どういう人なのでしょうか。それは文字や言葉や文章に相当の好き嫌いのある人のことです。」
そして、こんな単純な比喩をもってくるのです。
「文章ばかりではありません。その辺の食堂で粗末な豚カツを食べても、ホテルの食堂の高級な洋食を食べても、同じように美味(おい)しいと感じるような人、両者の区別が出来ないような人は、仕合せな人かも知れませんが、決して立派な料理人にはなれないでしょう。みなさんは、文章に好き嫌いがあるかどうか、それを反省してみて下さい。好き嫌いがあれば、脈がありますが、なければ、まあ、あまり脈はありません。」
こうして文章作法は、はじまっておりました(ちなみに、私は「仕合せな人」タイプ)。

最初にもどると、
斎藤美奈子さんのリストには、清水幾太郎は「論文の書き方」(岩波新書)のみ取り上げられておりましたが、この「私の文章作法」は見当たりません。他の人で6人ほどが一人で2冊取り上げられている方もいたのですが、残念。
一方の、谷沢永一氏のリストには、清水幾太郎の「論文の書き方」と「日本語の技術」と2冊載せてありました。
そして、この「日本語の技術」というのが、じつは「私の文章作法」のことなのです。それを「清水幾太郎著作集19」(講談社)の著作目録で確認できました。
「私の文章作法」は潮新書として昭和46年に出ており、昭和52年にはそれにあらたに加筆して「日本語の技術――私の文章作法――」(ごま書房・新書版ごまブックス)として出たものです。おそらく谷沢永一氏の蔵書に、この加筆された方のごまブックスがあったのだろうと推測するのでした(中公文庫の方は、最後に1971年10月潮出版社刊とあります)。
もう少し脱線すると、山本夏彦著「愚図の大いそがし」(文芸春秋)に「私の文章作法(一)(二)」という文が載っており、清水幾太郎の、この本について書いておりました。他のところで山本夏彦さんは、この本を中公文庫へ入れるように推薦したのだと書いておりました。

そして清水幾太郎の「論文の書き方」「私の文章作法」のどちらにもあって鮮やかなのが、「新聞の真似はいけない」という箇所。
これについて、山本夏彦氏が指摘しております。

「『文章読本』は谷崎潤一郎が昭和九年に書いたものが最も名高い。・・清水幾太郎は自分の文章読本を書くに当って、憶測で恐縮だが何としても谷崎に似ることだけは避けなければならないと思った。窮して新聞の文章をとりあげて、これを徹頭徹尾攻撃して、おのずとそれが文章読本になるという奇手を思いついた。この想を得たとき事は半ば成ったのである。すなわち『論文の書き方』(昭和34年)である。『私の文章作法』(昭和46年、潮新書)はもと談話筆記である。・・・」(「愚図の大いそがし」p80~81)


新聞の活字に飲み込まれそうになったなら。そして、知らず知らずのうちに新聞の書き方をなぞっているようならば、清水幾太郎のこの二冊に現在でも有用な処方箋が明示されているのです。
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すっぱい葡萄。

2007-07-17 | Weblog
前に和辻哲郎著「古寺巡礼」の初版を読んでみたい、とこのブログで書いたのでした。それは谷沢永一著「読書通」(学研新書)にあった、この言葉からでした。

「『古寺巡礼』(大正八年初版発行)が生まれた。この書はのち改訂されて今は岩波文庫に収められているけれど、矢代幸雄の眼には、初版の方が、より自然な感情の流露があって興味ぶかく感じられると言う(『私の美術遍歴』)」(p74)


こう書いてあると、ちょいと機会があれば初版「古寺巡礼」を読んでみたくなりますよね。そう思うでしょ。ところがです。
今日何げなく「一冊の本 全」(朝日新聞学芸部編・雪華社・昭和43年)を開いていたら、谷川徹三氏が「古寺巡礼」を、ご自身の一冊の本に選んでいる。それがじつに興味深いのでした。こうはじまります。

「大正八年の秋、有島武郎さんが同志社の特別講義で京都滞在中のことであった。・・・・有島さんが、和辻哲郎さんの『古寺巡礼』をたずさえ、一週間ほど奈良へ行ってくると言って出かけたが、やがて奈良から八木沢善次と私と二人にあてて便りがあった。・・・・この葉書の言葉は私の中にこびりついて離れなかった。そこで、そのためだけでもないが私も『古寺巡礼』を買い、しげしげと奈良へ出かけた。『古寺巡礼』の一部は前年『思想』の前身であった『思潮』に連載せられ、私は雑誌で読んでいたのだが、私の興味はむしろ、著者の広い文化史的知識に裏づけられた自由な想像力の飛翔に向けられていた。・・・」
こうはじまる紹介文なのですが、最後の方に、こんな言葉がありました。

「・・・『教えている』と私は言ったが、これは私が教えられたことを言ったので、和辻さん自身は若い情熱のありったけをもってただ賛美の歌を歌ったのである。【あの美しい堂内に歩み入つて静かに本尊を見上げた時、思はず身ぶるひが総身を走るのを覚えた】【全身を走る身ぶるひ。心臓の異様な動悸。自分の息の出入りがひどく不自然に感ぜられるやうな、妙に透徹した心持。すべてが無限の多様を蔵した単純のやうな、激しい流動を包んだ凝固のやうな――とにかく言ひ現はせない感動であつた】こういう言葉がふんだんに出て来る。こういう言葉の多くは、後の改訂版においては『はづかしく感じて』削除せられ、現に今引用した二つの言葉も(その一つは三月堂の本尊に対してであり、もう一つは薬師寺の東院堂の聖観音に対するものであるが)現行の改訂版にはないものである。」

ああ、その当時の世代には、この書きぶりの稚拙さが、同時に何とも、気持ちを揺り動かされる表現として伝わっていたのだと思われるのでした。でも、現在の私がわざわざ古本を買ってまで読んで伝わる表現かどうかといえば、けっしてそうではなさそうに感じられてくるではありませんか。その当時の情感を揺り動かした文学史的な事件ではあったのでしょうが、それを私が受け止め得るかといえば、否だろうと思える谷川氏の文でありました。

それでも谷川徹三氏にとってはかけがえのないものであったのです。谷川氏の文の最後はこう終わっておりました。

「後には和辻さん自身『はづかしく感じた』その若い情熱のありったけを吐露した表現が私の心を動かしたのである。それからいつかもう四十年経ってしまった。」


ということで、どうころんでも、私などに、読む機会がなさそうな初版『古寺巡礼』というのは、まだ青くてすっぱそうな葡萄のように思えるのでした。ありゃあ、とても読めたものじゃなさそうだ。ということにしておきます。


追記。岩波文庫「古寺巡礼」の解説が谷川徹三で、こちらだと、かえって読みたくなるような感じになります。たとえば「この一節でも初版は一層委曲をつくして当時の和辻さんの心情を一層直下に、切実に感ぜしめるがここでは敢て引かない。」などと思わせぶりだなあ。こういう書き方は、まったく困ったものです。
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