和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

こういう世代は貴重なんだ。

2018-10-29 | 道しるべ
岡崎久彦・渡部昇一対談の
「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)。
その、まえがきは渡部昇一氏でした。
そこからの引用。

「岡崎氏と私は同じ昭和五年生まれではあるが、
稟質(ひんしつ)も経歴もまったく違う。
しかし、同じ歳の日本人の男として、
ツーと言えばカーと通ずるところがある。
同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、
同じニュースを聞いて育ったのだ。
戦前の偉大な日本の記憶もあるし、
戦争に引き込まれていったプロセスも、
敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、
焼け跡からの復興も知っている。
わずかのことで戦場には出なかったので、
かえって『敗れて腰が抜けた』ような
日本人にもなっていない。
占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。

『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。
たしかにそう言えば、私の尊敬する著述家の多くの人たち、
たとえば五十音順に並べただけでも、
石井威望、小室直樹、日下公人、谷沢永一・・・
と思い浮かぶが、いずれも
昭和五年前後に生れた人たちである。」


はい。最近、1930年生まれの日下公人氏は
新刊「『発想』の極意」を出されております。
表紙脇には「人生80年の総括」と但し書き。

ちなみに、曽野綾子氏は1931年生まれ。
雑誌WILL12月号の曽野さんの連載は
こうはじまっておりました。
「本誌編集部から、『新潮45』の突然の休刊について
書くよう指示があった。」
その4ページほどの連載の最後のページ
を引用しておかなきゃ。

「先日、もう終りも近い自分の一生で、
何が幸福だったかを確認しておこうと考えた。
戦争中、食物に不自由はしたが、
飢餓で死ぬ恐怖は覚えなかった。
何より仕合わせだったのは、
いわゆる略奪というものの光景を、
私は一度も見なくてすんだことだ。
スーパーなどを略奪する光景は外国の
テレビ報道として見たことがあるが、
あれは精神と肉体の双方の貧困を
合わせてみせた悲しい場面だ。
そういう行為を私は一度も見ずに済んだのだ。
日本の同胞と国に深く感謝したい。

『新潮45』の悲しさは、『勇気がないこと』だった。
何も銅像になったり子供の教科書に美談が載ったり
するほどの勇気でなくていい。
しかしささやかな個人の暮らしの中で、
子や孫しか知らない程度でも
自分の取ろうとする生き方のために、
ほんの少しの抵抗をすることが
充分に勇気なのである。
それはほんとうにいい香りがする、
と私は思い込んでいたのだ。

『新潮45』はこの勇気に欠けていた。
雑誌として双方の対立する意見を載せ続け、
その結果として少数の暴徒に踏み込まれたり、
嫌がらせを受けたりするようなことにも
耐える勇気を見せてほしかった。
私は、新潮社という出版社は冷たく骨のある
社だからそれくらいのことはできる、
と思い込んでいたのだ。

しかし今は『ごくろうさまでした。
お疲れになったでしょう』と言うだけだ。
別に放火や殺人や詐欺をすすめたりした
のでもない雑誌をつぶした人たちは、
この時代にまたはっきりと汚点を残した。
しかしそれも仕方がないだろう。
私たちの時代はそういう濁った時代だったのだ。
そして私はそれを救う力を何一つ示せなかった
平々凡々たる人間だったということだけのことだ。」
(p145)
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未来の国の、ちひろ。

2018-10-27 | 道しるべ
「いわさきちひろ」の絵を、私は
いままで分からずにおりました(笑)。

録画しておいたNHK日曜美術館の
「『夢のようなあまさ』をこえて」という
いわさきちひろ、を紹介した番組で、
ああ、そういうことだったのかと、はじめて腑に落ちる
(録画は2018年8月19日日曜日PM8時からのもの)。


だいぶ以前ですが、気まぐれに、ほるぷ出版の
「いわさきちひろ全集」11巻を古本で購入してありました。
一冊が200円。まとまれば送料無料でしたので、
まとめて買いました。
表紙カバーなどに黄ばみがありましたが、
縦26センチ×横35センチでガッシリした装幀。

戦後、丸木俊のデッサン会に通った、とあります。
私には、あの線がなじめませんでした。
顔の輪郭線。髪の線。どれも私には駄目でした。

今回、私が好きになったのは、
輪郭線を引かなくなってからの絵です。
色を水に溶かしてゆくようなボンヤリした感じの絵です。

私のお気に入りは
世界文化社「少年少女世界の名作9」の
「青い鳥」文:高田敏子。絵:岩崎ちひろ。
はい。こちらは最近古本で購入しました。

「いわさきちひろ全集 1969・Ⅱ」に、
その「青い鳥」の絵が並んでおります。
そのはじまりの解説には

「『青い鳥』は1908年にベルギーの劇作家メーテルリンクに
よって書かれた戯曲です。物語は、幸福の青い鳥を求めて、
チルチルとミチルが『思い出の国』や『夜の国』、『未来の国』
といった不思議な世界を旅するものです。
擬人化された様々な物の精や不思議な世界からは、
いわさきちひろの自由な想像の世界を見ることができます。
この作品は、いわさきちひろの絵本のなかで
もっとも長編のものです。」(p44)

うん。
「いわさきちひろの絵本のなかで
 もっとも長編のものです」という指摘。

はい。この絵本のなか、お気に入りは、
『未来の国』の子どもたちの絵でした。

「なにもかも空色の御殿につきました。
ここは未来の国です。生まれるときを待っている
子どもたちの国です。」(p106)

ここにある子供たちが、素敵に思えました。
輪郭線を引かないで描かれた子供たちの絵は、
色を水でボカして描かれているからでしょうか、
生れる前の子供たちという設定にしっくりとします。
子供たち同士で何か話しているようでもあり、
チルチルに話しかけている場面もあり、
そこに、一人だけ、こちらを見ている少女がいます。

絵本のなかのストーリーとは別に、
その少女は、まっすぐに遠くを見ているようです。
その視線が、絵本を飛び出して読者の私へと届く。
水に溶かれて、にじんだ色の不安定な世界を、
この少女の視線が、ひとりで受け止めているようにも見えます。
何だか、この少女は、いわさきちひろ本人であるかのようにも
私には、思えてくるのでした。

はい。この絵本の設定のなかでの子供たちが
ぼかした絵の描写と、みごとに重なってくる。
そんな気がしてくる絵本です。

はい。私のお薦めの絵本(笑)。
ちなみに、立原えりか・文。いわさきちひろ・絵
の絵本も未読ですがあるようです。
こちらは、だいぶ短めのようです。

どちらも、古本の世界で、出会えます。
あっ、図書館にあるかもしれない(笑)。
コメント (2)
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デタデタ ツキガ。

2018-10-26 | 地域
昨日夕方5時半過ぎに海岸の道路を走っていると、
水平線から生まれでたように海の間近に赤い大きな月が東南方向に。
日中は晴れで雲もなく、夕方からの月は鮮やかでした。

夜の7時過ぎには、だんだんと月がのぼってゆき窓から
月の光がさしこみます。

今日になって、ワイド版岩波文庫の
「日本唱歌集」をひらくと、ありました。
「ツキ」とカタカナです。

   ツキ

 デタデタツキガ、
 マルイマルイ マンマルイ
 ボンノヨウナ ツキガ。

 カクレタクモニ、
 クロイクロイ マックロイ
 スミノヨウナクモニ。

 マタデタ月ガ、
 マルイマルイ マンマルイ
 ボンノヨウナ 月ガ。


作詞作曲者不明とあります。


昨夜は、新しいパソコンの梱包をひらく。
パソコンを置いている机の上がゴチャゴチャ。
これを片付けるのかと思いながら、
机の上の用紙を読み始めてしまい。
はい、パソコンは結局は繋げずに、
めんどうになり、ここまでと就寝。
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なんにもなりません。

2018-10-21 | 三題噺
三冊を並べてみます。

〇「諸君!」2009年6月最終号。
〇河野与一編訳「イソップのお話」(岩波少年文庫)
〇「谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)

一冊目は、

「諸君!」最終号の曽野綾子さんの2ページほどの文のなかに

「沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて
強制的に自決させられたもので、
自決した人々は被害者だと言う言い方をした。
私からみると、それは死者に対して
この上ない非礼であった。」(p166)

曽野綾子著「ある神話の背景」について
書かれているのでした。



二冊目は

イソップの話にある河野与一氏の訳、
短いのでそのまま引用しないとね。


「オオカミが、川で水をのんでいる子ヒツジを見て、
ないかもっともらしい理くつをつけてたべてしまおうと
おもいました。そこでじぶんは、川上のほうにいるのに、
子ヒツジがにごらせたものだから、水がのめなくななったと、
もんくをいいまいた。そこで子ヒツジは、じぶんは
口のさきだけでのむのだし、それに川下のほうにいるのだし、
川上の水をにごらせるはずはないといいますと、
オオカミは、はぐらかされたので、
『しかし、おまえは去年、おれのおやじのわるくちを
いったじゃないか。』と、いいました。子ヒツジが、
そのころは、まだ生まれていなかったといいますと、
オオカミは子ヒツジにいいました。
『いくらおまえがうまくいいぬけをしても、
やっぱりおまえをくうことにする。』

人をひどいめにあわすために理くつをつける人には、
いくらいいわけをしてもなんにもなりません。」
(p80~81)


三冊目は

谷口智彦著「安倍晋三の真実」。
本文の最後にありました。

「総理から一度、直話として聞いたことがあります。
戦前、戦中、父祖たちがなした行いに、いったい
今を生きる我々が、なんの資格あって謝ることが
できるというのか。父祖の行為をいつでも
謝れると考えるのは、歴史に対する傲慢である
―――と、正確な再現ではありませんが、
そんな趣旨でした。」

うん。最後まで引用しちゃいます。

「数十年も前の、父母や祖父母が感じた感情を、
罪障感であれ、苦痛であれ、はたまた怒りであれ、
私たちは同じように感じることなどできません。
できると思うこと自体、想像力の欠如であり、
確かに総理が言うように、今となっては
想像すらできない因果の輻輳に対する無神経です。
にもかかわらず謝って見せたなら、それは直ちに
政治的行為となります。
すぐさま誉めてやろうと、相撲の行司よろしく
待ち構えている人たちがいて、謝罪を口にした
彼または彼女は、国内外の政治の世界で株を上げるからで、
それを見越した行為となるからです。
謝罪は一種のカタルシスをもたらすことにも、注意が必要です。
対象となった罪自体は、自分が手を汚したものではありませんから、
彼、彼女における罪の意識は、あくまでも抽象的なものです。
隠したい気持ちとの葛藤などは、強く意識されません。
そこでの謝罪とは、結局のところおのれの
ナルシシズムを満足させる結果を生みます。
『謝る行為は美しく、美しい行為を実行できる自分は美しい』
というわけです。

安倍総理における潔癖は、
謝罪によって自分の政治的株価を上げることも、
内心の自己愛を満足させることも、
いずれも決してよしとしません。
これこそが、安倍総理が過去父祖たちの時代に
起きたことに謝らない、いえ、謝るという行為をなし得ない
と考えている理由なのです。
安倍晋三という人の真実は、
歴史に対するその謙虚さにある。
まさにその意味において、安倍総理は、
保守主義の真髄を身につけた人である。
私は、そう思います。」
(p271~272)


はい。三冊を並べてみました。


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良寛さんの座右の銘。

2018-10-17 | 古典
吉野秀雄著「良寛」のはじまり「大愚良寛小伝」に
こんな箇所がありました。

「良寛はどんな相手に対しても一切平等であった。
彼は曹洞宗祖道元の著『正法眼蔵』の『菩提薩埵四摂法』
の中の『愛語』の条を座右の銘とし・・・」

とありました。
ふ~ん。『愛語』か。
拡大コビーして見えるところにでも
貼っておこうかなあと、
良寛の書『愛語』を捜すのですが、
たいてい本の見開き両頁にわたるので、
真ん中がうまくコピーできない(笑)。

ありました。ありました。
別冊太陽「良寛」日本のこころ153。
2008年・2009年に一刷・二刷が出ておりした。
その雑誌の最後に、『愛語』の書だけが
三つ折りにして附録のようにしてついておりました。

さっそく、その個所を切り取り、
コンビニでコピーしました(笑)。
A3におさまらず、貼り合わせする。

二台あるパソコンのうち、
最近おかしかった一台が、表示できなくなる。
画面に英文が並ぶも、チンプンカンプン。早々に
あきらめて、新しい一台を購入することに、
ワードに記録した文章が、そのままとなり残念。
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雑誌を読んで膝をうって。

2018-10-16 | 道しるべ
新潮45の10月号の特集タイトルは「『野党』百害」でした。
思い浮かんだ文がありました。
それは、「諸君!」最終号に長谷川三千子氏の文。
それを引用したくなりました。

はじまりは
「四十年前、はじめて『諸君』を読んだときの衝撃は
忘れられない。それまで、雑誌などといふものは、
ただ何となく時間をつぶすためにあるもので、
雑誌を読んで膝をうつて『さうだ!その通り!』
と叫びたくなることなどありえないと思つてゐた。
ところが、実際、さういふことがおこつたのである。

東大紛争の片がついてまだ半年しか経つてゐなかつた頃である。
世の中の新聞も雑誌も、全共闘は『純粋』で『根源的』だと
いふ思ひ込みに首までどつぷりとつかつてゐた時代である。
さういふ記事を読むたびに、連中と延べ何十時間も討論して
彼らの思考停止ぶりをイヤといふほど知つてゐる私は、
『ウソをつけ!』と心中ののしりつつ、
腹にすゑかねる思ひをしてゐた。
それを見事に覆してくれたのが、『諸君』第四号に載つてゐた
『東大覆面教官団のアングラ論文集』であつた
『全共闘は純粋な精神から、大学および大学人に対し根本的な
問いを提出し、身をもってこの問いを推進した』といふ伝説は
『本質的に虚構で』あるといふことを、ハッキリと、しかも
エスプリの効いた文章で語つてくれてゐる―――
大袈裟でなしに、紛争以来ずつと心のうちにわだかまつてゐた
孤独な憤激をいやされる思ひであつた。・・・」


短文の最後も引用します。

「近頃は、ネットでの言論活動といふものが盛んになつて、
オピニオン雑誌なるものの存在価値がなくなつたといふことが
よく言われる。しかし、はたしてそれは本当だろうか?
すぐに手軽に共感を得られるやうなネット上の『オピニオン』
言論が盛んになればなるほど、他方で、本当によく練り上げた、
力のある文章を世に問ふ場の必要性といふものは、
かへつて増すのではあるまいか。
少くとも私は、これからも変らず、
さういふ文章を目指しつづけたいと思つてゐる。」
(「諸君!」最終号。2009年6月号p178~179)


新潮45の休刊で
「本当によく練り上げた、力のある文章を世に問う場」
がひとつ消えてゆくのだと、理解してよいのでしょうね。

それにしても、「『野党』百害」というタイトル。
もう、こういうタイトルも御法度なのか。
「そうだ!その通り!」とも言えなくなるなんてね。
他の雑誌に頑張っていただかねば。
月刊雑誌購読させていただきます。
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池島信平・田中健五・花田紀凱。

2018-10-14 | 道しるべ
タイトルは怖いらしい。
それで、新聞広告に掲載されなかったり。
それで、雑誌が休刊に追いこまれたりするらしい。
「新潮45」10月号の特集タイトルは「『野党』百害」。
その百害が押し寄せての「新潮45」休刊。

正論10月号に花田紀凱×西尾幹二の対談。
題して「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」。
うん。タイトルをつけるのも大変らしい。

その対談のはじまりを引用。

西尾】私の「文藝春秋」批判は、十年近く前からですよ。
花田さんが編集長だった時代の「WILL」2009年3月号に
「『文藝春秋』は腹がすわっていない」という文を載せて
もらったでしょう。あのとき、初めに我々二人の付けた
タイトルは、「文藝春秋は左翼雑誌か?」でしたね。
でも結局、ライターである私自身が迷い、また当時の
編集長も腹が据わってなくて(笑)、表紙に刷られたのは
「文藝春秋の迷走」という穏和しい題でした。
(p262)

こうはじまる、対談の中頃に、こんな箇所。


花田】・・もともと戦後、文藝春秋を再建した池島信平元社長が
いつも言っていたのは、「文藝春秋」の大きな役割の一つは、
朝日新聞とNHKと岩波書店をウォッチする、監視することだ、
ということでした。しかし、いつの間にか、今の文芸春秋社、
特に月刊「文藝春秋」は、先生がおっしゃるように
朝日新聞と同じようなことをやるようになってしまった。

・・・・それがどういうきっかけで、今のようになってきたか、
ひとつ言えることは、池島信平さんの下で育って、社長になった
田中健五さんが辞めたことですね。・・・
池島信平さんのそういう考え方をちゃんと受け継いだのは
田中健五さんだったんですね。池島さんは、田中さんに
「大世界史」を編集させたり、あるいは「現代日本文学館」
―――これは文藝春秋で初めて出した小林秀雄さん責任編集の
文学全集ですけれども―――を担当させたりして、
そういう文壇での人脈、学者の人脈を築かせたわけです。
たぶん意識的にやったんだと思いますけど、
それが「諸君!」につながっていくわけですね。
しかし、たまたま、田中さんは途中で社長を辞めざるを
得ないような事態になりましたよね。文藝春秋は
それ以来おかしくなったと思います。

ただ、これは私にも責任がある。
田中さんは、私が三代目の編集長をしていた
「マルコポーロ」の事件(注・ナチスのガス室をめぐる
記事でユダヤ人団体から抗議を受け、同誌が廃刊になった騒動)
で、辞めることになったわけですから・・・。
あの時、田中さんは辞める必要はなかったと思う。
今考えればね。
そこら辺から歯車が狂ってきたかなという感じがする、僕は。
(p268~269)


雑誌社の社長といえば、
産経新聞9月26日二面の見出し
「新潮社『新潮45』休刊」で、記事のなかに、
新潮社社長の佐藤隆信氏の謝罪談話が掲載されておりました。


さてっと、
2013年「新潮45」12月号に
田中健五氏が書いておりました。
題は「池島信平と『諸君!』の時代」。

そこでは田中さんが文藝春秋に入社したての頃

「ほかの三人の新人とともに、池島編集長の
すぐ傍らに座るよう机が配置された。・・・・
はたして、配属先も決まらぬ私たちの『教育期間』は、
何も教えない信平さんの傍らで徒に過ぎていった。
・・・教え諭すでも叱咤するでもない信平さんが
実は無類の『照れ屋』であり、先輩風を吹かせるのが
大の苦手であることを知るのは、もっと先の話である。
その先のことを書くのが、この小文の趣旨なのだが・・」

「諸君」創刊当時については、こう記されております。

「・・まったく予想もしなかった
大半の社員からの反対表明である。
『思想の如何を問わず、特定外部団体の機関誌をだすことは、
編集の自由と独立をみずから放棄することである』という
反対署名が提出されたことは、それまでの文芸春秋の
雰囲気を一変させた。
信平さんにとっては、一種のクーデターに思えたことだろう。
社長たる池島信平への不信任決議とも受け取られた様子だった。
このときの消沈した信平さんを見て、
『ああ、この人も、やはり人の子だった』の思いを深くした。」

社員側が組合運動に入っていく際には

「これには信平さんも本当に参ってしまった。
文藝春秋に組合ができるなどという事態は考えてみたこともなかったろう。
それが信平さんの宿命というか、運命なのである。
繊細でどこか気の弱さをもつ信平さん・・・
身を守るために大きな力で抗わねばならないとき、
なにか、この人はそれを甘受する姿勢をとった。
まるで傍観者のように運命に身をゆだねる。
見かけは明るい好男子だったが、
そのような本質を見抜いていた作家もいる。
丸谷才一さんは信平さんを評して
『明るいニヒリスト』と表現した。
歴史を深く研究した人間は、
ああいうニヒリストになるとおっしゃっていた。

そのころ、喫茶店で一緒にすごすことがあった。
信平さんは真っ白なワイシャツにコーヒーを
口からこぼされた。ああ、お疲れだな、そう思ったが、
すでに首から上に症状が現れていたのだろう。
脳梗塞を起すのは、その直後である。

それでも、新たな論壇誌の創刊によせる
信平さんの情熱はやむことがなく、
結局、『諸君!』として結実する。・・・
そして、創刊編集長に信平さんは私を指名した。
・・・・
この雑誌が今はもう存在しないことを、
私は悔しく寂しく思う。
『人馬一体』という言葉がある。
編集者と雑誌も同様である。・・
人を得なければ優駿も只の奔馬にすぎない。

社長になってからも信平さんはよく現場に
やってきては、雑談に花を咲かせた。だが、
部下を褒めることは少なかった。
シャイな性格で、アメとムチで人を使いこなす
『猛獣使い型』の指導者ではおよそなかった。」

小文の最後も、紹介しなくちゃ。

「私が、本誌の編集長になって間もなく、
昭和48年3月号の『日本共産党は何を考えているか』は、
信平さんに気に入ってもらえたプランである。
・・・・
あの日、編集部に降りてきた信平さんは、
めずらしく私の傍らに立ち、そして去り際に
小声で呟いたのだ。
『「日本共産党」、あれ、良かったよ』
あの信平さんの声はけっして忘れられない。
翌日、三回目の脳梗塞をおこした
信平さんは、帰らぬ人になってしまった。」
(p84~91)




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「諸君!」と「新潮45」。

2018-10-11 | 道しるべ
「諸君!」の2009年6月号は、最終号でした。それと、
「新潮45」の2018年10月号とを並べてみます。

まずは、「諸君!」最終号の曽野綾子さんの文。
そこで、「私は『ある神話の背景』という題で、
『諸君!』の1971年10月号から一年間連載させてもらった」
ことを中心に据えて書かれておりました。


この「ある神話の背景」という本は、のちに
「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」(WAC)と
題名を改めて、2006年に出ております。
WACでの副題は「日本軍の住民自決命令はなかった!」。

ここから、「諸君!」最終号と、今年の「新潮45」10月号と
をむすびつけることにします。

まずは、曽野綾子著「ある神話の背景」(PHP文庫)。
文庫の解説は田村隆一氏でした。
解説の最後をすこし引用。

「昨夜は、夜を徹して本書を一気に読んだ。
この、太平洋戦争末期に起こった沖縄の一小島、
渡嘉敷島の惨劇が、ぼくにとって、真の意味の
『悲劇』に転化するためには、まだ多くの
『時』を要することだろう。・・・・
沖縄の一小島の『惨劇』の今日的なバリエーションは、
依然として現代日本のいたるところにある。
何も終ってはいないのだ。」(p301)


この解説の最後の二行
「沖縄の一小島の『惨劇』の今日的なバリエーションは、
依然として現代日本のいたるところにある。何も終ってはいないのだ。」

うん。この言葉なら、「新潮45」10月号へと
つなげることができそうです。

まずは、「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」(WAC)の
解説・石川水穂氏の文を引用してみます。
そこで、石川氏は付け加えておりました。

「曽野さんが触れなかったもう一つの座間味島での
集団自決についても、真相が明らかにされつつある。
・・・・
座間味島の集団自決から32年後の命日(三十三回忌)
にあたる昭和52年3月26日、生き残った元女子青年団員は
娘に『梅沢隊長の自決命令はなかった』と告白した。
梅沢少佐のもとに玉砕のための爆薬をもらいにいったが帰されたことや、
遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように
事実と違う証言をしたことも打ち明けた。

また、昭和62年3月、集団自決した助役の弟が
梅沢氏に対し、『集団自決は兄の命令で行われた。
私は遺族補償のため、やむを得ず、
隊長命令として(旧厚生省に)申請した』と
証言した。・・・」(p333~334)

今回「新潮45」が休刊への直接のきっかけとなったらしい
特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」から、
かずと氏の文を引用してみます。題名は
「騒動の火付け役『尾辻かな子』の欺瞞」(p97~101)。

そこに、こんな箇所がある。

「杉田さんの質問に答えることができないのは
あなただけでなく、お仲間の活動家さん、みんな一緒です。
・・・・
あなた方が狙っているのはLGBTに関する法案の成立です。
LGBTを弱者認定する差別禁止法、また理解増進法が成立すれば
学校や自治体でLGBTに関する講習会などが絶えず開かれる
ことになるでしょう。それはあなた方にとってはビジネスチャンス
以外の何物でもありません。

尾辻さんも『LGBT政策情報センター』なる団体の代表理事らしいですね。
この団体の活動内容をサイトで確認すると以下のようにありました。

①LGBTに関する政策調査及び研究、情報提供
②LGBTに関する研修、講座その他の会合等の開催
③LGBTに関する国内外諸機関、団体及び行政との連携
④LGBTに関する広報出版事業
⑤LGBTに関する教育及び人材育成事業
⑥LGBTのための生活相談支援事業、財産形成事業
⑦LGBTのための相続、遺言、成年後見に関する相談支援事業

まさにLGBTに関するビジネス花ざかりといった感もありますが
注目するのは次です。

⑧上記事業に関する範囲において行政等から受託する事業

行政から受託ということは税金があなた方の活動に
使われることを見越しているということですね。
議員の職を失っても将来安泰といえるでしょう。

・・・あなた方はこれまで多くの国会議員に近づき、
与野党問わず多くの議員に『LGBTは弱者である』
という認識を植え付けることに成功しました。
・・・マスコミであるNHK、朝日新聞、毎日新聞を
通じて世論にも広がっていきつつあります。
すべては順調に進んでいるはずでした。
しかしながらこれに異を唱える議員が現れた。
杉田水脈議員です。

杉田さんは、LGBTとTは別ですよね。
Tの方には支援が必要でしょうが、
LGBの方には本当に支援が必要ですか?
と至極当然の疑問を呈しました。

彼女はLGBTの中でもLGBに関しては
社会的弱者でも何でもないと分かっている
唯一の国会議員なのです。・・・・
しかしあなた(尾辻)にとって
LGBTとは今もこの先もお金を産み出してくれる存在、
そのため永遠に弱者でいてもらわなければ困るのです。

だからこそ杉田さんが邪魔で仕方ない。そこで
デモなどを煽動しひたすら議員辞職を要求している。
批判することだけが存在意義と化している
立憲民主党に所属する尾辻さん・・・・
あなたは産経新聞への寄稿にこう記されています。
『今回の杉田議員の寄稿に、多くの人が傷つき、涙を流した』
何をかいわんや、騒ぎの要因はあなた自身の
あまりにも軽率すぎる行動です。
話し合う機会も持たず、ツイッターで一方的に批判した。
多くの人が傷ついたなら、尾辻かな子さん、
あなたに原因があります。

杉田さんの寄稿に問題があると感じたなら
話し合いの場を持てばよかっただけの話です。
また、杉田さんの寄稿に問題があるかないかは
有権者が判断することです。
同じ政治家であるあなたが一方的に批判し、
謝罪を要求することではないでしょう。
・・・・」

2018年「新潮45」10月号を読ませたくない人がいて、
それならば、
2018年「新潮45」10月号を読みたくて、
読めない方々のために引用をしました。


ということで、「諸君!」最終号と、
今年話題の「新潮45」10月号を並べて、
私なりのピックアップを試みてみました。

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「新潮45」の休刊。

2018-10-10 | 産経新聞
産経新聞の水曜日は曽野綾子さんの連載がある。
この頃読んでいなかったのですが、
今日(10月10日)の連載は
『「新潮45」の休刊』と上に題してある。
大きな見出しは「失われた出版人の『勇気』」。

うん。読めてよかった。
ここには、今日の文のはじまりとおわりを引用。

「『新潮45』という新潮社から出ている月刊雑誌が休刊に
なったことについて、世間はいろいろと理由をご存じのようだが、
私はその雑誌に連載中の筆者の一人であったにもかかわらず、
よくわからない。

そもそも雑誌とは雑なる意見が載せられる場である、
と私は思っている。とすれば一人の読者が
『読むに値しない』と思う記事や、難しくて読んでいたら
眠くなる論文もあるかもしれない。それにもかかわらず、
一本でも自分の心にしみる記事があれば、
少なくとも私は得をしたような気分になり、
その記事を切り取って保存したりしている。」


今日の連載の終わりのコトバはというと、

「戦争が終わって、70年余り。
昔は毎日のように口にされ、今は全く年に一度も
人々の口の端にのぼらなくなった言葉に『勇気』がある。
私個人は実際勇気とは無縁に暮らしている。・・・
しかし惰弱な文学でさえ、人間としての筋道と、
ささやかな自己の信念に似たものを守る勇気は要るのだ。
雑誌の中の一本の論文だけを理由に
雑誌をつぶすという人々は暴徒だから、
出版人はそれに耐えるくらいの勇気は要るのだ。」


はい。読めてよかった。
よかったので引用しました。


そうそう。文の真ん中に、こうありました。

「PC(ポリティカル・コレクトネス)に合致しない
からといえば、現代では、その要素のある作品を載せた
雑誌さえつぶせるようになった。」

PCについては丁寧にカッコして

(政治的、社会的に公正、中立的でなおかつ
 差別・偏見が含まれていない言葉や用語)

と本文中に記載されておりました。

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青年、壮年、老年の読みものとして。

2018-10-09 | 書評欄拝見
そうだ。と思って
古本で上野瞭著「目こぼし歌こぼし」の
単行本を注文する。それが届く。
童話館出版の単行本でした。
140円+送料350円=490円なり。
カバーはないのですが、きれいな一冊。

だいぶ前に、単行本で読んで、
他の方に読むようにすすめて、
その本を差し上げてしまった。
差し上げた後に、しまったと思っておりました。
いつでも買えると思っていたら、単行本は品切れ。
そのまま、すっかり忘れておりました。
文庫本は、それでも持っておりました。
文庫解説、鶴見俊輔。
この機会に、解説のはじまりを引用。


「現代の世界は、あまり複雑になってしまったので、
その骨格を単純な仕方でとらえる方法が、
二十世紀以前の人びと以上にわれわれにとって必要となる。
少年少女小説は、この故に、二十世紀なかばに、
新しい意味をもってあらわれた。

それは、小学校五・六年生むき、とか、
中学校一・二年生むきというような、
本屋でさがすのに便利な分類をこえて、
高校生、大学生はもちろんのこと、青年、壮年、
老年の読みものとして大切な役をになっている。

老年に入って、うまれそだったころをなつかしんで
童話に読みふけって死ぬ、などというのは、
これもとても良い趣味と思うけれども、
少年少女小説の役割は、ノスタルジアの中にとかしきれない、
もっと深刻な、社会的意味をもつ。・・・・」
(講談社文庫・p346)


どうして、人にあげてしまったのか?
今も読み返せば、それを思い出すか?


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「どこにでも神様」の書評を読む。

2018-10-08 | 書評欄拝見
昨日山車引き回しがあり、
晴天で日焼けしました(笑)。

さてっと、読みたくなる書評があったので、
そこから引用。

まずは新潮45の10月号の書評欄。
稲垣真澄氏が、野村進著「どこにでも神様」(新潮社)を
とりあげておりました。
はじめの方にこうあります。

「『知られざる出雲世界』をとことん歩いたのが本書。
なぜ出雲なのか。やはりそれは出雲世界が、ちょっと
注意さえすれば、『どこにでも神様』が今もありありと
感じられる地域だからにほかならない。
あらかじめいうならその神様は、・・不動産屋の広告に
『(敷地内に)荒神様有り・隣地に水神様とお稲荷様有り』
の注記があったり、あるいはお神楽の舞子と観客が、
暖かな一つの多幸感に包まれてしまうことなどのうちに、
自ずと感じられる小さな神様である。」

稲垣真澄氏の書評の最後はというと

「あとがきでの著者の感想が面白い。
三つの領域に共通するのは無料であることだ、と。
なるほど、いずれもタダである。
逆にいうと、タダでない領域の拡大、経済主義の横行が、
日本の多くの神々に退場を強いたことは確かなようだ。」


はい。今度読んでみます。

はい。地域の祭りに参加したあとで読み直すと、
興味が湧く書評となっておりました。

産経新聞の書評欄(2018年9月30日)にも
河合香織氏が、この野村進著「どこにでも神様」を
書評でとりあげておりました。
その書評の最後の箇所を引用。

「根底に流れる主題は、神とともに生きる人たちが持つ
『多幸感』のありようから幸福とは何かを考える軌跡だろう。
なかでも水木しげるの幸福感について、本書で京極夏彦が
語った『基本は生きていれば幸福なんです。でも、
恐怖や悲しみが一定量なければ、幸福は感じられない』
という言葉の深遠さに心が揺さぶられる。

神楽の舞子も観客も、その時は神になるだけではなく、
鬼にもなる。神や自然、受け継がれてきたものに畏敬を持ち、
すべてを受け入れて穏やかに暮らす人々の知から、
日本人が元来持っていた幸福の姿が鮮やかに描き出される。

この書に出会った『縁』に感謝したくなる一冊だ。」


はい。この本、今度パラパラとひらいてみます。
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山車ひきまわし。

2018-10-07 | 地域
昨日は、青年館で宵祭り。
今日は、午前と午後、つまり一日山車ひきまわし。
はい。昼間っから、お酒が飲めます(笑)。
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田中健五。村田耕二。

2018-10-06 | 道しるべ
曽野綾子・クライン孝子対談の
「いまを生きる覚悟」(致知出版社)にあった
曽野さんの言葉に

「雑誌『諸君!』に連載した・・
あの時、編集長と担当編集者に・・言いましたら、
どんな反対の世論があっても影響させません、
と言ってくれた。戦後、
私が本物のジャーナリストだと思ったのは、
あの二人くらいです。・・」(p42)

この対談に語られている「あの二人」とは
どなたと、どなたなのか?

はい。わかりました(笑)。
「諸君!」2009年6月最終号に掲載されていた
曽野綾子さんの2ページほどの文にありました。

その最後の箇所を引用します。

「・・調査の結果を、私は『ある神話の背景』という題で、
『諸君』の1971年10月号から一年間連載させてもらった。
『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
田中健五編集長と、
私の担当だった村田耕二氏だった。

或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『多分ご迷惑をおかけしているんですね』と
言ったことがある。すると村田氏は
『社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ』
と言う意味のことを言った。
反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。
田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。・・・」(p166)


う~ん。これだけでは、
はじめて読まれる方には失礼かもしれない。
曽野綾子さんの文のはじまりも引用しておきます。

「『諸君』と私の関係はほとんど一つの思い出に集約される。
終戦からちょうど四分の一世紀経った1970年春、
私は一つの記事に釘付けになった。

沖縄渡嘉敷島ではまだ本島の攻撃開始前の1945年3月、
米軍の激しい艦砲射撃を受けた。逃げ場を失った島民の
一部は、手近になった手榴弾や斧などで集団自決をした。
『敵の手にかかって辱めを受けるより、潔く自決する』
という考え方は、日本軍部の圧制によって発生した
悪事のように言われるが、世界的には
そういう考え方の方が少数派である。

イスラエルのマサダ要塞では、紀元一世紀に
ローマ軍に囲まれた千人近くのユダヤ人が、
二年間の籠城の後、まず選ばれた十人が全員を殺し、
この十人のうちの一人が残りの九人を殺して
自分は自決するという最期を選んだ。
この事件は決して強制された死ではなく、
そこで死んだすべてのユダヤ人たちは
愛国者としての名誉ある自決を選んだのだ、
と今なお民族の誇りとして讃えられている。

しかし日本ではそうでなかった。
沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて強制的に
自決させられたもので、自決した人々は被害者だと
言う言い方をした。私からみると、
それは死者に対してこの上ない非礼であった。
・・・」

はい。私の引用はここまで。
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情報戦。朝日新聞の選択。

2018-10-05 | 朝日新聞
正論11月号。
気になったのは山岡鉄秀氏の文。

そこからの引用。

「朝日新聞は1997年の慰安婦報道検証時には
『広義の強制はあった』などと主張し、
吉田清治関連の記事については真偽は定かではないと
しながらも撤回せず、
2014年8月になってやっと全面的に誤報を認めて
関連記事18本を撤回した。
それでも当初は木村伊量社長の意向で謝罪せず、
その後、福島第一原発の吉田所長証言や
池上彰氏のコラムを巡る不祥事が重なってついに
謝罪と木村社長の引責辞任に追い込まれた。
そして、朝日新聞が自ら組織した第三者委員会の批評を受け、
様々な改革案を発表した。しかし、朝日新聞は
それで悔い改めることはなく、
英語版で徹底的な印象操作を続けている。

英語記事で慰安婦(comfort women)という言葉を使うと、
その後必ず自動的に
『who were forcend to provide sex japanese soldiers
(日本兵に性行為を強要された)』と続ける。
複数のバリエーションがあるが、・・多用されるのが
『慰安婦の多くは日本の植民地だった朝鮮半島の出身だった』
と続けるパターンだ。
これを英語話者が読めば、
『日本軍が植民地から多くの女性を狩り出して
慰安婦にして性行為を強要した、その大多数は朝鮮人だった』
と読めてしまう。

これはまさしく狭義の強制だ。
とんでもない背信行為であり、
日本国と日本人に対する攻撃なのだが、
英語に疎い日本人には
なかなかピントこない。」(p270~271)


こうはじまりながら、
朝日新聞側の対応を逐一、正確を期しながら、
つづっておられます。
8頁に及ぶ文の最後は

「朝日新聞は『国民の敵』となる
ことを選択するのだろうか。」(p277)


ちなみに、正論11月号には興味深い対談
(現代史家・秦郁彦 × ジェイソン・モーガン)。

始まりは紹介の言葉でした。

「このたび秦郁彦さんの『慰安婦と戦場の性』(新潮社、1999)
と『慰安婦問題の決算』(PHP研究所、2016)を組み合わせた
英訳本が米国の出版社から刊行されました。・・・』

著者とその翻訳者との対談。
やっと出た英訳本の出版記念対談のようです。

秦氏は語っています。

「吉見義明さん(中央大学名誉教授)の
『従軍慰安婦』(岩波新書)が2000年に英訳されていますが、
彼は慰安婦問題について左翼陣営のリーダー格で、
英訳書の副題は『日本軍の性奴隷』です。」(p144~145)


うん。ここだけは引用しておきます。

「―――たしかに、日本では左翼的な人たちも、
秦さんの研究を参照しているように思われます。

秦】 確かにそうですが、
彼らは取捨選択をして都合の悪い事実は
見てはいても使わない傾向があります。
実は日中戦争期に日本人の慰安婦のほうが
朝鮮人慰安婦より多かったという外務省の
詳しい統計があるのですが、これは
『朝鮮人慰安婦が一番、多かった』ことを
前提としている人たちにとって都合の悪い話なので、
彼らは読んでいてもその部分は使いません。

モーガン】 日本で研究をされている方は、
事実に基づいて研究を進めて全体像を明らかにして、
それを発信すればいいと考えていますが、
外国の学界はそうではなく、とりわけ中国では
事実と関係なく自分の言いたいことを言うだけ
という傾向があります。
海外の学界では、都合の悪い事実は無視することが
当然のようになってきています。
神話というかプロパガンダから研究が始まっていて、
そこで都合の悪い事実は無視されるのです。
それが、情報戦の戦い方になっています。
・・・」(p146~147)

「 モーガン】 米国では先日、大きなニュースがありました。
カリフォルニア州選出の民主党女性上院議員の元補佐官が
5年ほど前に解雇されたのですが、その人が実は20年にわたって
中国のスパイとして彼女の側にいたことが判明したのです。
その元補佐官の次の就職先は何と、
米サンフランシスコに慰安婦像を立てるのを煽っている
中国系の団体でした。これを見ると、なぜサンフランシスコに
慰安婦像ができたのかが分かります。
ナジョナリズムというよりは政治的、
あるいは金銭的な理由ですね。
カリフォルニア州には中国系、韓国系の人が多く。
政治家は当選するためには彼らの票が必要になります。
米国では政治と人種とお金が複雑にからみ合っているのです。」
(p147~148)

p152まで対談は続きます。
全文引用できなくて残念。
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「読まない、取らない、書かない」新聞。

2018-10-04 | 短文紹介
昨日は曽野綾子さんに登場していただいたので、
今日もひきつづき引用。

それは、正論11月号。
今回は、創刊45周年記念大特集だそうです。
その大特集「反時代的『正論』」のはじまりが
曽野綾子さんでした。

ちょっと引用。

「・・・私は今日まで一世紀近く
朝日新聞紙面を目にしたことがないから
論評はできないが、
作家仲間の阿川弘之氏にも
『読まない、取らない、書かない』
新聞がある、と知ったのもその頃である。」
(p56)

うん。ここだけでいいのだけれど(笑)。

その次にページをひらくと
『正論』の45年という簡単な年代史がありました。
そこから摘まんで引用してみることに。

昭和
44年 文芸春秋が『諸君』を創刊
48年 雑誌『正論』創刊
49年 雑誌『正論』が月刊誌に

 あとは適宜つまんで引用します。

50年 集中特集――新しい創価学会と公明党研究
51年 中国の毛沢東死去 文化大革命終結
   上坂冬子「進歩的女性人への公開状」
56年 栗栖弘臣、G・スカレラ、加瀬英明
   「専守防衛で日本は守れるか」
   青木彰ほか「特集・朝日新聞は必要か」
60年 石川水穂「毒ガス事件の誤報――完敗した朝日新聞」

平成
4年 衛藤、村松剛ほか「天皇御訪中は是か非か」
6年 西岡力「『朝鮮総連』というタブー」
10年 上杉千年「反日教育『広島解放区』の落日」

16年 WAC社が月刊誌「WILL」を創刊
21年 「諸君!」が事実上の廃刊 
23年 西岡力、呉善花、大月隆寛、呉智英
   「特集 韓国よ、いい加減にせんか」
26年 朝日新聞社が慰安婦問題で誤報を認める
   櫻井よしこ、門田隆将、阿比留瑠比
  「特集 朝日新聞炎上 廃刊せよ!『消えぬ反日報道の大罪』」

28年 飛鳥新社が月刊誌Hanadaを創刊
29年 朝日新聞社から抗議を受ける
30年 髙山正之、小川榮太郎ほか
   「朝日新聞≪抗議書≫に答える」 



うん。曽野綾子さんの文をもうすこし引用したかったのは、
やまやまですが、読みたい方のための「正論」11月号です。
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