和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お~い海。

2020-07-31 | 詩歌
はじめに、高田敏子の詩「海」を引用。

 少年が沖にむかって呼んだ
 『おーい』
 まわりの子どもたちも
 つぎつぎに呼んだ
 『おーい』『おーい』
 そして
 おとなも『おーい』と呼んだ

 子どもたちは それだけで
 とてもたのしそうだった
 けれど おとなは
 いつまでもじっと待っていた
 海が 
 何かをこたえてくれるかのように

   ( 高田敏子「月曜日の詩集」から )


はい。この詩に登場する「おとな」は何歳ぐらいでしょうか?
わたしは、65歳をすぎてから、その答えらしい言葉を読みました。
中公文庫「日本史のしくみ」(昭和51年)をめくっていると、
その山崎正和氏の文に「日本島国の成立」という3頁ほどの文が
ありました。そのはじまりは

「日本は島国だが、日本人はどうやら本来的に海洋民族とは
呼べないように思われる。・・・・・・・日本はいくたびか完全な
鎖国を経験する。明治以降は海軍国になることが夢見られたが、
国民の心が本当に海に開かれたかどうかは疑わしい。
『われは海の子・・・』などと歌っていても、そのなかでひとびとが
実際に覚えているのは海岸の風景ばかりである。
『椰子の実』の歌にせよ、『出船』の歌にせよ、海はむしろ、
無限の外界を象徴する不可知の世界にすぎなかった。
歌というものは正直なものであって、日本人は本質的に、
海洋民族ならぬ海岸民族だったといえそうである。
・・・・」(p22~23)

はい。これが短文のはじまりの箇所でした。
もどって、高田敏子の詩について、
その「月曜日の詩集」に、村野四郎氏が序を書いておりました。
その序のなかで、高田敏子の詩「布良海岸」をとりあげながら、
こう指摘されておりました。

「この詩集のすべての作品に通ずる精神的な主題は何かといえば、
それは『生活の中の知恵』です。それは、やさしい母の愛と美しい
詩人の心だけが人間に教えてくれる知恵なのです。

この知恵の本質は、現代を没落と崩壊とから救うことのできる
唯一のものですが、それが、私たちの生活のどんなに些細な場所にも、
どのように息づいているかを、この詩集ぐらい、やさしく温かく
教えてくれるものはないでしょう。・・・・」

うん。こういう序文を書く村野四郎さんの詩も
さいごに、引用したくなります。

    花を持った人  村野四郎

 くらい鉄の塀が
 何処までもつづいていたが
 ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
 そこから 誰か
 出て行ったやつがあるらしい

 そのあたりに
 たくさん花がこぼれている

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灯火の文化。ネット文化。

2020-07-30 | 本棚並べ
山崎正和・司馬遼太郎の対談「日本人と京都」が
印象に残るので、ちょっと調べてみる。

私が読んだのは1996年9月号臨時増刊「司馬遼太郎の跫音」の、
名対談選にあったので読んだのでした。この増刊号は
1998年に中公文庫に同じ題の「司馬遼太郎の跫音」として出ます。
ところが、文庫には、再録の名対談選と短篇傑作選がカットされて
おりました。うん。今は、古雑誌でしか読めないようです。

気になるので、「司馬遼太郎対話選集」(文芸春秋)を見ると、
その4巻目「日本人とは何か」にお二人の対談が載っておりました。
「都と鄙の文化」(中央公論1977年4月号)からのものです。
はい。同じ顔ぶれの対談なのですが、
同じ個所は少なく、まったく違う話に展開してゆく面白さ。
ということで、こちらからもすこし引用。
「『夜の文化』のはじまり」と小見出しがある箇所から

司馬】 灯火につかっていた油がそれまでの荏胡麻から
菜種油になります。これは非常に大きいことかもしれない。
荏胡麻から油をしぼりとるのは非常にむずかしいらしいし、
少量しかとれない。そうすると、夜、灯火をつけているのは、
金持ちの寺、金持ちの公家、あるいは室町大名などで、
庶民には明りがない。じゃあトイレに行くにはどうするかといえば、
ふつう、かまどの燃えかすで粗朶(そだ)に火をつけて持っていく

こうして、連歌の話になり、蓮如の講の話になります。

山崎】 ・・・蓮如が講というものをつくりまして、そこで一介の百姓で、
いままで自分の身の上など心配してもらえなかった連中が、
身の上話をすることで、カタルシスを味わうことになります。
百姓は昼間忙しいから、これをやるとしたら夜しかない。
・・・・夜集まってワイワイやって・・・・・


司馬】おっしゃるとおりだと思います。・・・・
一向宗は日本の庶民文化というか、鄙文化の形成にどれだけ
大きな役割を果たしたか、涙のこぼれるような思いがするんですよ。
つまり、寄り合い場所が・・・・・隣村から集まってくるところがいいですな。
あれはその字(あざ)だけの講では横の広がりがなくて、講はたいてい
隣字(となりあざ)も含めますから、隣字の顔ぶれをはじめて知る場所
なんでしょう。それまでは縦社会で暮らしてきて、自分の村の小さな、地頭と
もいえない村落貴族につかえて、その小百姓として暮らしてきたけれども、
隣村のなんとかいう地頭の下百姓と、おれ、おまえの仲になれた。これは、
いま私たちがアメリカを旅行することよりも大きいことだったかもしれませんね。
つまり、おれたちの社会ができたということです。それがさらに大きな講になると、
広域で、三河なら三河一国の講で、お互いに・・・・・・(~p231)


うん。対談はこれから俄然面白くなるのですが、
うん。これを引用しながら、私はといえば昨今の
ネット社会のことを思い描いておりました。
情報のひろがりの灯火の幕開けの時代。
ということを思いました。
はい。夜はユーチューブで、文化人放送局を
楽しみにしております(笑)。



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京都の「ちょっとそこまで」

2020-07-27 | 京都
山崎正和について、何か本棚にあるかなあと見てみる。

司馬遼太郎が亡くなって特集が各雑誌に掲載された際の、
そのひとつに「司馬遼太郎の跫音(あしおと)」(中央公論)と
いう追悼特集があったのでした。その雑誌のなかに
「再録・司馬遼太郎名対談選」とあり、その再録のひとつに
山崎正和氏との対談『日本人と京都』があったのでした。
はじまりは司馬さんでした。

司馬】 ちかごろ嵯峨野について書く必要がありまして、
あれこれ調べていますと、明治の東京の知識人は京都に対し、
拍子ぬけするほど関心がなかったようですね。・・・・

こうして、夏目漱石と正岡子規のエピソードを引用したあとに

司馬】 ・・・ともあれ、明治末期に京都大学のできた意味は大きいですね。
東京をはね飛ばされた学者たちがやって来て、初めて京都を認識する。
また、国家事業ですから、何千人もの給与生活者が集まり、その給料が
町に落ちて、経済的にも京都を活気づける。そこからでしょう、
復興し始めるのは。・・・・・

あとは、飛び飛びに引用してゆきます。

山崎】 私の祖母は生粋の京都人でしたが、思い返してみますと、
彼女の話題には、宇治の平等院も苔寺も竜安寺も、
およそ代表的な観光地はでてきたことがありません。
また、信仰していたお寺といえば、知恩院は別格として、
あとはどのガイドにも載っていない小さなお寺ばかりです。

司馬】 そうでしょうなあ。

この対談は、いろいろな京都が語られていて、
目移りするのですが・・・・
大阪と京都ということで引用すると、

山崎】 ただ、大阪の人は京都を支援することがある。・・・・
ところが、京都人は一向に大阪に関心がない。・・・・・

司馬】 まったく・・・(笑)。京都で飲んでいて、
こちらが小説家だとわかると、『杉並どすか』(笑)。
『いや、大阪や』というと、もう馬鹿にして(笑)・・・。
神戸でもそうですがね。『東大阪や』なんていったら、
他の大阪人までが優越感を持つ(笑)。
しかし、そういう東大阪の居住者だからこそ
よけいに京都のよさがわかる面もあるんです。・・・・


司馬】 自分の考えをある時間まとめて述べるのは
明治の東京から興ったものですが、今でも土俗というか方言は、
やりとりが基本ですね。『司馬さん有難う』『何がですか』
『この間ああしてこうして』と続く。京都弁でも大阪弁でも、
漫才のようなやりとりをして初めて言語的雰囲気が生まれます。
もし東京の人が何かの交渉で京都に来て、長々と
基調方針演説をしたとすると、まず誰も聞いていませんな。
『何か御仕着せのことをいうてはる』という感じです(笑)。
あとの座談になってからものをはっきりさせようと思っている。

山崎】 座談会という形式を思いついたのは菊池寛だそうですが、
たしかにあの人は京都大学で学んでいる。(笑)

山崎】 しまいには内容がなくてもいいことになる(笑)。
こういう笑い話があるでしょう。京都では町内を歩いていると
『どちらへ』と声を掛けられる。

司馬】 あれは必ず聞きますな。

山崎】 京都人なら、近所だろうとニューヨークだろうと、
『ちょっとそこまで』と応える。それでいいんです。
ところが江戸っ子は『よけいなお世話だい』と怒る。(笑)

司馬】 『南座の顔見世に行きますのや』などといったら、
もう野暮になってしまう。やりとりの雰囲気だけで十分なんですね。


司馬】 ・・・・京都での記者生活を終える日に、
京都を足もとから観察してみようと思って祇園に出掛けたんです。
ちょっと歩いて気が付いたんですが、あそこにはゴミ箱がない。
昔はどこにもよくあったでしょう、モルタール塗りの・・・・。

山崎】 ええ、東条英機が開けて歩いたやつ。

司馬】 祇園の人に尋ねたら、
『そんなきたないもんが大阪にはおすのか』と(笑)。
知ってるくせにね。そこで祇園を一巡してみたら、
二十軒に一軒ぐらいは玄関先にありました。
ただ、それは並のものじゃなくて、お金のかかった
見事なゴミ箱なんです。他人様を不愉快にしちゃいけない
という配慮でしょう。そういう市民意識がここにはある
と思いました。・・・・・・


うん。この対談は、また読み直してみたくなります。
(初出 『新潮45』昭和60年4月号)

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見ぬ世の人を友とする。

2020-07-26 | 本棚並べ
山崎正和訳「徒然草・方丈記」(学研M文庫平成13年)。
これは、1980年『現代語訳・日本の古典⑫/徒然草・方丈記』の
タイトルで、学習研究社から出版された作品を文庫化したものです。
とあります。
徒然草・方丈記つながりで、買ってあったまま、
本棚に眠っておりました(笑)。
とりあえず、徒然草の箇所をパラパラとひらく。
「読書の喜び」と題する短文がありました。
短いので全文を引用。

「ひとり、灯のもとに書物をひろげて、
見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、
このうえなく心の慰(なぐさ)むことである。

書物は、『文選(もんぜん)』の趣深い巻々、
白楽天の詩文集、『老子』の箴言や『荘子』の各篇が何よりであるが、
わが国の学者たちの書いたものも、古いものは、
心にしみ入ることが多い。」

はい。『文選』も読まないし、
白楽天の詩文集も読まない。
老子や荘子も読まないなあ。
でもね。たとえば、GOOブログの見知らぬ方々の
日々更新されるブログを読ませてもらっていると、

『見も知らぬネット上の人を友とすることこそ、
このうえなく心の慰むことである。』なんて、思ってみたくなる。

とろこで、せっかくなので、徒然草原文を
岩波文庫から引用してみることに。
第十三段に、それはありました。
はい、原文には題名はありません。

「ひとり、燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、
見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
・・・・・・
この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、
あはれなること多かり。」(p36)

うん。山崎正和氏には「太平記」の訳文もありました。
河出文庫(1990年)に4巻本としてあります。
うん。ぜんぜん読まずに、本棚にありました(笑)。
せっかくの機会。あとがきでもと第4巻目をひらくと、
最後に「訳者のことば」がありました。そのはじまりは

「ひとつの世界が崩壊の危機にさしかかったとき、
不安の極に達した人間は、過去の事件のなかに先例を求める。
歴史はくりかえすとか、歴史に法則があるといった信仰とは無関係に、
同じような苦境に立ったとき、もうひとりの不安な人間が
いかに生きたか、という関心からである。

同時代的な連帯などという甘い夢が信じられないほどの
孤独に追いこまれたとき、人間はもうひとりの孤独者との
縦の連帯を求めるのであって、これがおそらく、『歴史』という
ものにたいする人類のもっとも根源的な要求であろう。

『太平記』は、まさにそのような意味で典型的な『歴史』文学だといえる。
この物語は、たんに時代崩壊の意識に立ってものを見ているだけではなく、
崩壊の意識そのものをさまざまな人物の姿を借りて描き出している。
・・・・」(p249)

ちなみに、第4巻には、司馬遼太郎の解説もありました。
うん。買ってあっても読まないだろうなあ全四巻。
わたしはまだ山崎正和著「室町記」も全部読んでいない。

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広隆寺の半跏思惟像。

2020-07-24 | 京都
淡交社の「古寺巡礼京都⑬」(昭和52年)は広隆寺です。
矢内原伊作氏の文が掲載されている。
そのはじまりは、
「久しぶりに京都を訪れて、今日は太秦に行くのだと言ったら、
宿の女主人に『へえ、映画村にお行きやすのどすか。』と
言われてこちらが驚いた。ちかごろは、広隆寺よりも映画村の
ほうが有名になっているらしい。」

この矢内原伊作氏の文では、仏像を語る箇所が印象深い
ので、その箇所を引用してみます。

「宝庫は、しかし実際は、倉庫のようなところに収められている。
寺の当事者はおそらく最大限の努力と苦心と注意を払って霊宝館
を管理し、そこに仏像その他を陳列しておられるのだろうから、
それを倉庫などと言っては申しわけないが、来歴不明の、
さまざまな時代のさまざまな性格の仏像が雑然とならべられている
この殺風景な建物の内部からは、正直なところそんな印象を与えられる。

仏像はそれぞれ、それがあった場所を失い、
身にまとっていた空間を失って、いわば裸にされているように見える。
しかし、嘆いてばかりいるには及ばない。裸にされることによって、
美しいものがいっそう美しくあらわれ出ることもあるのである。
宝冠弥勒半跏思惟像の比類のない美しさはまさに
そういう美しさではなかろうか、と私には思われる。」(p71)

「霊宝館には、この像とならんで、わが国の仏教美術史の各時代
を代表するすぐれた作品が所せましとばかりひしめいている。
実際、このせまい館内を一巡すれば、われわれは奈良、貞観、弘仁、
藤原、鎌倉、という風に展開する仏像彫刻の時代様式の変遷のあとを、
それぞれのすぐれた作例について容易に見てとることができるのである。
・・・・霊宝館の入口を入ってすぐ左の壁際にならんでいる十二神将の像、
私はこれが殊のほか好きである。
・・・・とりどりの武具を手にし、思い思いの姿勢で忿怒をあらわしている
十二神将にはまた独特の不思議な魅力がある。忿怒をあらわしていると
いっても、優美を特徴とする藤原時代の作だけあって、顔貌は静かで、
怒っているというよりはむしろ、戦わなければならないのを悲しんで
いるかのようである。体軀もまた静かで、リズミカルな躍動感はありながら、
力強いというよりはむしろ優雅な身のこなしである。甲冑など細部は
精巧でありながら煩わしさがなく、すっきりとして爽やかである。
木彫十二神将像の最古の作例であり、またおそらく最も美しい作品である。」
(p74)

ここに、「怒っているというよりはむしろ、
戦わなければならないのを悲しんでいるかのようである。」
と矢内原氏は指摘されております。
それでは、宝冠弥勒半跏思惟像を矢内原氏は
どう語っておられるか。そこを引用してゆきます。

「・・救いがたい衆生をいかにして救うかが、この菩薩の『思惟』の
内容であろう。しかし広隆寺のこの宝冠の半跏思惟像は何かを
考えているようには見えない。考えているというよりは、むしろただ
夢みているように思われる。・・・半跏思惟像はただ微笑している。

・・・もっとも、微笑にもいろいろある。・・・・・
法隆寺の釈迦三尊や百済観音にはきびしい神秘的なものがある。
あの端麗で慈愛にあふれた中宮寺の弥勒像の微笑もまた、
仏から人に向うものだ。ところが、この広隆寺の思惟像は人間に
向って微笑みかけているのではない。自らの内部からあふれ出る
精神の生命が微笑となっているといった感じである。
眠っている幼児がときおり無心に微笑むことがあるが、
この像の微笑はそれに近い。
それは、いかにして人間を救うかを考えている姿ではない。
それ自身が救いなのだ。無心の歓喜に指はほとんど踊っている。
 ・・・・・・・・・・・・・
・・・・・広隆寺像にあっては、
指先と頬とのあいだに3ミリか4ミリの空隙がある。
ということは、この像はもともとこの空隙を埋める程度に、・・・・
厚く漆で塗りあげられ、その上に金箔がおかれていたものであろう。
・・・・・とうてい想像もできないが、今日見られる像が直線的抽象的で
あるのに比して、もっと曲線的で肉づきの豊かなものだったであろうし、
今日の像が人間的写実的であるのに対して、
もっと超人間的神秘的だったであろう。
これは私の想像にすぎないが、しかしこのように想像してみてはじめて、
今日のわれわれが見るこの像の類のない純粋さの秘密の一斑が納得される
のではないだろうか。これは、その上に漆を塗って仏像として造形される
以前の、彫刻の素型のもつ清純さである。つまり裸の美しさである。」
(p73)

うん。こうして引用してくると、
矢内原伊作氏の文の最後のしめくくりまでも
引用しておきたくなります。以下はその最後の箇所。


「・・・街の騒音はここまでとどき、隣の映画村からはマイクで呼びかける
声がしきりに聞こえてくる。竹藪のむこうに殺風景なコンクリートの建物が
迫ってきていて、それは撮影所の建物なのだった。・・・・・・
われわれの現代の文化と過去の文化、
それが何の関係もなく小さな塀ひとつを隔てて隣りあっているというのは、
いたるところにあることではあるが、思えば奇怪なことである。
何の関係もないということはあるまい。関係がないとしたら、
そこに関係をつけ、美しい古いものを現在と未来に生かしていくことが
われわれの責務ではないだろうか。そんな風に私は思ったが、
思っただけで難問が解けるものでもない。
難問がどうであれ、美しいものは美しい。それはそうだが、
美しいものはわれわれが難問にたちむかい、われわれ自身の
現実の課題を解決するのを求めてやまないように私には思われる。
それが美しいものの力であり生命であるように思われる。」(p76)

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兼好の「虚言論」。

2020-07-23 | 本棚並べ
徒然草の第73段を、沼波瓊音は評して

「兼好の心は又緊張して来て、ここに綿密なる
『虚言論』を説いた。面白い。上から見たり、下から見たり、
側面から見たり、と云彼の観察は、実に敬服に値する。・・・」

と解説をはじめておりました。
徒然草は、気になる一冊ですので、
気がつくと、つい古本を買っています。
はい。読まないのにね。

この機会に、第73段の数行を、何人かの訳で引用してみます。
まず原文

「げにげにしく、所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、
さりながら、つまづま合せて語る虚言(そらごと)は、
恐ろしき事なり。・・・・」

沼波瓊音の訳(大正14年初版)だと
「ここに一つこう云う嘘の話し方がある。それは、
さも本当らしく、すべて明瞭にわざと云わないで、
所々不明に云って、よくは私も知らぬがと云う態度で、
しかし、不明瞭のやうに話しながら、要所要所はチャンと
辻褄を合せて話す、と云うこの虚言に、聞く人をして
大抵信ぜしめるから、一等怖しい事である。」

橋本武訳(平成1年)では
「ところがいかにももっともらしく、
ところどころは話をぼかし、自分もよくは知らない
のだがというゼスチャーをとりつつ、しかしながら、
話のツジツマを合せて語るウソは、誰でもひっかかり
やすいので恐ろしいことである。」

橋本治訳(「絵本徒然草」)では
「本当らしく所々をぼやかして、よく知らぬふりをして、
そのくせ端々の辻褄を合わせて語る作り話が恐ろしいんだな。」

永積安明訳では
「いかにももっともらしく、ところどころぼかして、
よく知らないふりをして、それでもつじつまを合せて
語る嘘偽りは恐ろしいことである。」

大伴茫人訳では
「もっともらしく、所々不審そうに、よく知らないようなふりをして、
それでいながら、話のつじつまを合わせて語る嘘は、かえって
人が信じてしまうので恐ろしいものである。」

安良岡康作(やすらおかこうさく)訳は
「また、いかにもほんとうらしく、
話の所々を不審がって、よくも知らない風をし、
そのくせ、話の端々をつじつまを合わせて語るうそは、
誰でも信用するので、恐ろしいことなのである。」

はい。どの現代語訳がピッタリするのかどうか。





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都踊りはヨイヤサアー。

2020-07-22 | 京都
清水誠規著「京洛物語」(昭和56年丸善京都支店出版サービス)。
はい。こんな古本を買いました。あとがきは娘さんなので亡くなって
出版にこぎつけたような感じです。

そのあとがきに「父が商家の跡取りでさえなかったならば・・・・
今も惜しまれるけれど、文を書く愉しみが愉しみであるためには、
これでよかったのかも知れない。・・・」とあります。

うん。こういう本に出会えるのですから、
古本は愉しみです(笑)。

「人の世はまことそらごとまざる故
  史(ふみ)見るほどに面白きかな  誠規 」

こうあってから、次の頁が目次でした。
ここには、最初の文『都踊り』から引用します。
ちなみに、『京都』誌所載とあるので、
雑誌に掲載されていた文をまとめて本にしたようです。
『都踊り』は昭和45年4月号所載とあります。

「・・・・・都踊りの歴史は古い。
明治維新で東京に遷都となって、一千年来の都が廃され、
京都は一ぺんに虚脱状態に陥った。主上や公卿、政府諸機関が
全部、東京に移ったので、それに従って人口も七分の一に減じ、
火の消えたような寂れ方だった。
『このままでは京都は田舎になる』と京の人達は誰もが長嘆息した。
ちょうどこの時、東京政府から明治6年にフランスのパリで開かれる
万国博に、古くから種々な古美術の在る京都からも出品せよとの通達が来た。」

はい。めずらしいでしょうから、
詳しく引用してゆきます(笑)。

「時の京都府知事は長谷信篤で、この人は公卿出身であるが、
その下に大参事として槇村正直という敏腕な行政官が控えていた。
この人は後、知事となって新京極を開くなど、京都の発展のために、
大いに進歩的な政策を示した人である。彼は早速当時の京都の富豪で、
維新の際、私財を献納した功労者でもあった三井八郎右衛門・小野善助・
熊谷直孝(鳩居堂主人)を集めて相談の上、出品物を集めることにした。

何しろ京は古い王城の地である・・・・そこで一策を考えて、
京都にもまだこれだけのものが残っているぞと人心を鼓舞激励する意味
にも、これらをパリに出品する前に一般に公開することを思い立ち、
明治4年の秋、西本願寺の白書院で展観した。・・・・・・・

予想外の利益を挙げることができた。これに当時者達はすっかり
気をよくし、パリ博の了ったあと、翌年、明治5年3月7日から5月30日迄、
これらの集った品に、さらにガラス細工、外国貨幣などを加え、計485点
を西本願寺、建仁寺、知恩院の三ヶ所で公開出品することにした。
これが日本で初めての『博覧会』である。

しかし何分にも今度は会期が二ヶ月にもわたり、京都だけでなく、
日本全国から来てもらわねばならぬので、この間、観覧者の足を
引きとめるには、単に品物を見せるだけでは興がなく・・・・・・・

これまで武士や富豪などの特権階級だけの占有物で、
普通庶民にはなかなか見られない祇園・宮川町・下河原の
美妓連の中から、選りすぐった名手の踊りを見せることとなった。
今でいうアトラクションである。

祇園新橋松の家席で三代井上八千代(片山春子)が踊り33人
地方唄11人・噺子10人・計53人を率いて、初めての試みである
京舞の集団舞踊をやることになった。さあー大変、京都の市民は喜んだ。
『祇園の芸者の総上げや』と肝心の博覧会はそってのけで、わあーと
ばかりに押し寄せた。これが『第一回の都踊り』となり、
以後年々隆盛になっていった。
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・

なお都踊りの基調である京舞は・・・・
近衛家の所作・行儀・壬生狂言の所作・能楽の良いところを採り入れて、
舞の振付を編み出したもので、動きの少ない、静かな、それだけ上品な
舞として定評があるが、この都踊りに初めて伊勢音頭の形式を採り入れ、
地方(ぢかた)を正面の後列に、噺方をその前にならべ、左右の花道から
踊り子が出てくるという華麗な舞台を現出した。

当時の歌詞の題名は『都踊十二調』で
作詞は粋人槇村大参事と伝えられる。
また『都踊り』の名称はこの片山春子が命名したものである。
『都踊りはヨイヤサアー』今日も華かなその歌声が聞こえてくる。」


はい。古本を読む愉しみは、こんな文を出版サービスセンターから
出されていることで、京都の愉しみは、ここにもありました。




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兼好法師と、道知れる人。

2020-07-21 | 古典
高橋洋一著「『NHKと新聞』は嘘ばかり」(PHP新書2020年)。
はい。新聞の見出しを見るようにして、
高橋洋一氏の新書の「はじめに」を読む。
はじまりは

「私の情報源を述べると、もう25年以上前からテレビではなく、
インターネットの公式機関発表の一次資料です。
もちろん新聞でもない。なぜなら、テレビや新聞に
本当の意味で独自の取材に基づいた情報はないからです。

新聞記者はよく『新聞には一次情報が記されている』といいます。
これは『嘘』です。実際に紙面を見れば、政府からマスコミ用の
二次資料をもらい、せいぜい有識者に取材して入手した
コメントを載せている程度だからです。

他方で近年、自らインターネット動画の番組を立ち上げて
意見や情報を伝える専門家が増えています(私もその一人です)。
有識者が直接、発信するのが本物の『一次情報』です。
人から聞いた話を伝えるのは、あくまで二次情報にすぎません。」

はい。これが高橋洋一さんの新書のはじまりの一頁全文です。

うん。私はこれで満腹(笑)。
なぜ、この高橋洋一さんの新書が思い浮かんだかといいますと、
徒然草の第73段を思い浮かべていたからでした。
じつは、昨日から世界文化社の
「日本の古典⑧」グラフィック版「徒然草方丈記」をひらいていて、
そこに掲載されている『徒然草絵巻』を楽しくめくっておりました。
この本の徒然草の担当は島尾敏雄氏とあります。
この絵巻を見ながら、島尾氏の現代語訳を読むともなしに
読んでいると、第73段の「世に語り伝ふる事」が鮮やかでした。
うん。引用したくなりました。


「世間が語り伝えることは、本当のことだとおもしろくないものなのか、
大方はうそばかりだ。
にんげんはおよそ物事を実際以上に語りたがるものだ・・・・
だからそれぞれの道の専門の名人のすぐれていることなど、
その方面の事に明るくないわからず屋が、考えなしに
神様ででもあるかのようにあがめて言っても、
その道がよくわかっている者にとっては少しも信ずる気が起きない。
何事もうわさにきくのと現に見るのとでは違うものなのだ。」

はい。徒然草第73段は、こうはじまっております。
「その道がよくわかっている者」は、原文では「道知れる人」
となっております。うん。高橋洋一氏を思い浮かべたのでした。
それはそうと、この第73段は短いので端折ってでも引用を
つづけてみます。

「・・・・・・更にいかにももっともらしく
所々不審そうな様子を見せながらよく知らぬふりして結局
つじつまを合わせるように話すうそはおそろしいことだ。・・・」

なんだか、テレビのワイドショーのコメントを評しているよう
にも読めてきます(笑)。

うん。最後などは、現代情報への個々人の処方箋だと
思われますので、こちらも引用しておきます。

「とにかく、うその多い世の中だ。
そんなことはよくある珍しくもない事だと
心得ていさえすれば万事まちがいはない。

庶民のあいだではきいてびっくりすることが多いが、
教養ある立派な人は異常事を語らないものだ。

そうは言っても神や仏の奇蹟や、仮ににんげんのすがたとなって
現れている人の伝記まで一概に信じないというわけではない。

と言うことは、世俗のうそを本心から信ずるのも
馬鹿らしく見えるし、と言って『決してそんなことはない』
などといきまくのもつまらないことだから、
大体は本当のことであるとしてあしらい、
しかし一途(いちず)には信ぜず、さりとて
馬鹿にしてはならないという意味だ。」

はい。これは現代語訳なのですが、
ちなみに、最後の箇所の原文も
引用して、比べてみるのも一興です。

「・・・これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、
『よもあらじ』など言ふも詮(せん)なければ、
大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、
また、疑ひ嘲(あざけ)るべからずとなり。」
(岩波文庫「徒然草」p131)




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山崎正和の京都。

2020-07-20 | 京都
山崎正和氏は「洛北、洛東に生まれ育った」とあります。
一時「少年期の数年を大陸で過した」ともあります。
その山崎正和氏の京都。

「・・銀閣寺の門前町で産湯を使ひ、長じては、高校から大学院までを
吉田界隈で暮らしたのだから、私はまづ、一応の京都人といふことに
なるのだろう。・・」

こうはじまるのは、「洛南遊行」と題する文です。
「昭和27年の1年間を・・・宇治分校」へ通ったと記したあとに、

「洛北、洛東に生まれ育った私にとって、国鉄京都駅から南は、
それまで訪れる機会も必要もない、異郷だったのである。

もっとも、京都はそれだけでひとつの完結した『世界』であるから、
京都人にとっては、もともとこの町はいくつもの異郷に分かれて
ゐるといへる。私の場合、京都とはせいぜい、東山の山裾から
西は烏丸通りまで、北は下鴨一円から南は七条通りにいたる、
細長い長方形のなかに限られてゐた。・・・・・・・・
中京の商家も、西陣の織物街も、東西本願寺も、祇園の色街も、
私の生活には縁のない、何やら異様な風俗の別天地であった。

そして、おそらくこれは程度の差こそあっても、大部分の京都定住者が、
お互ひのあひだで感じてゐる実感であるやうに思はれてならない。
西陣の工人にとっては、京都大学近辺は不可解な異邦であろうし、
祇園の芸妓にとっては、上賀茂の農村はもの珍しい別世界にちがひない。
伝統的な町には、たぶん伝統的な空間感覚が残るのであって、
典型的な京都人なら、たとひニューヨークに移住することはあっても、
京都の内部を転々と移り住むことは、あまり考へられない。」

はい。こうして京都の歴史を紐解いてゆかれるのですが、
そこは、カットして、あと一か所引用。


「気候風土の点でも、また、人びとの気風の点でも、京都は今日でも、
北陸、山陰の末端としての性格を残してゐる。万葉時代から、
京都文化はまづ日本海側に向かって伸びてをり、室町時代まで、
京都を落ちのびた敗軍の兵は、琵琶湖西岸を通って北陸へ抜ける
ものが少なくなかった。面白いことに、京都の代表的な食用魚は、
鯖、鰈、鱈の塩干物であるが、かうした海産物すら、
瀬戸内海や太平洋からではなく、日本海から山越えで
運ばれて来たことは注目に値ひしよう。

京、大阪の距離は、俗に十六里といはれるが、江戸時代においても、
その間の心理的な距離は大きく、文化的には、ほとんど京都と江戸の
へだたりに匹敵するものとさへ見なされてゐる。
当時の歌舞伎役者の心得書きを読んでも、江戸、京、大阪は均等に
質の違ふ三都であり、観客の気風も、その間で同程度に違ってゐる
と感じられてゐたことがわかる。明治以後の百年を見ても、
新興の神戸と大阪間がたちまち発展して、芦屋、西宮の住宅街を
生んだのにたいして、京阪間の茨木、高槻などが成長を見せたのは、
やうやく第二次世界大戦後のことだったのである。」


以上は「山崎正和著作集④」(中央公論社・昭和57年)から
引用しました。この④に「室町記」も入っておりました。
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グラフィック版「方丈記」

2020-07-19 | 京都
堀田善衛著「方丈記私記」を読んだ際に、
ついでのように買った古本がありました。
世界文化社のグラフィック版「日本の古典」シリーズの
一冊で、日本の古典⑧「徒然草方丈記」。
この方丈記を、堀田善衛氏が担当されていた。
もちろん、安かった(笑)。
表紙の見返しの、きき紙と遊びの両方のページに、
方丈記の原文と一応されているカタカナ漢字交じり文が
写真印刷されており、その文字だけで見ごたえがある。
この世界文化社のグラフィック版は函入りで
サイズは、28㎝×23㎝。ページ数は167頁。
しっかりとした表紙の一冊です。
ちなみに、グラフィック版とヴィジュアル版とがあるようで、
後発のヴィジュアル版は、軽装版で写真が豊富なようです。

本棚からとりだして、パラパラと
ページをめくって楽しめました。
絵と写真が豊富で楽しめます。
なんせ、現代画家から絵巻物まで、そして写真も
お寺から花の写真まで、手の込んだ味わいがあります。
はい。文章なら最後まで読まない私でも、
これなら、パラパラ見ていても楽しめます。

絵巻物も、徒然草絵巻・一遍上人絵伝・
平家物語絵巻・春日権現霊験記・平治物語絵巻
飢餓草紙・春日験記・年中行事絵巻・東北院歌合
親鸞上人絵伝・石山寺縁起絵巻・賀茂競馬図と、
ほぼ毎ページに絵が載っております。しかも、
そこに前田青邨・海北友雪・小杉放菴・下村観山の
絵があったり、写真は写真で、仁和寺の五重塔・
琵琶とその撥(ばち)・宇治市日野の長明方丈石
さらには、むかご・岩梨・芹・茅花の写真まで。

わたしは古い絵巻物の場面とともにならぶ、
現代の前田青邨の絵に惹かれました。
ページごとに目移りしてしまう楽しさです。

古本で買って、そのままに
本棚に眠っていた一冊。

ここに載る堀田善衛の方丈記に関する文からも
引用しておかなければ(笑)。
堀田氏が方丈の居を構えた場所を訪ねます。

「・・・日野山であるが、所は言うまでもなく
山城国(京都府)宇治市日野にあり、ふもとの
法界寺薬師堂から細い畦道のような道を歩いて
山道にいたり、清冽な流れに沿って20分ものぼって行くと、
濃い茂みのなかに、水成岩による巨大な、凸凹の巨岩に
行きあたる。その岩の上に、江戸時代の儒者岩垣彦明が
建てたといわれる方丈石の碑石が建てられているのである。
・・・・・・・・
西にひらいた谷戸(たにのと)の奥だから風当りも少い。
住居の専門家として、余程細心の注意を払って
の調査の上で、場所を選定したものと思われる。
さほどに山深いというものでもなく、
里が遠いというのでもない。
しかし、場所はここでなければならぬ、
とどうしても思ってしまうのである。
しかも、京の市中まで歩いて半日くらいのものであり、
京に住んでいる旧知の連中には、宇治日野山のあたりに
妙な奴が住んでいて、という、長明の側からしていえば
睨みも利く位置なのであった。おれはここに、いるぞ!
という・・・・・。

そうして日野山をめぐっては、
もう一つ二つ歴史的な大事があった。ふもとの
法界寺薬師堂の地は、実に親鸞誕生の地なのであった。
それからこの法界寺薬師堂の建立者である日野氏そのものは、
代表者としての足利義政の妻、日野富子、南北朝時代の
日野資朝(すけとも)などを出した豪族一家であり・・・・」
(p127~128)

このように方丈記の説明中にあるのでした。
絵巻物のさまざまなカットと前田青邨の絵と、
それから長明方丈石のある風景写真と。
最後の見返しにも、方丈記の文が
表紙見返しと同じように載っております。
はい。活字より、そちらで私は満腹です。


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遁世者(とんぜもの)吉田兼好。

2020-07-18 | 京都
山崎正和著「室町記」をひらく。
室町の時代を、一望に臨める案内板をひらいている感じ。
と言ってみても、通じないですよね(笑)。

パラリとひらいた兼好法師の箇所を引用することに。
うん。2頁だし、鮮やかなの後味が残ります。
題は「最初のジャーナリスト 兼好法師」。

「高師直が塩治判官の美しい妻に懸想したとき、
その恋文の代筆に呼ばれたのが兼好法師であった・・・
『太平記』によるとその首尾はさんざんであって、
兼好は香をたきしめた紙に言葉をつくして達筆をふるったが、
せっかくの手紙は開封もされずに庭に捨てられてしまった。
師直は怒って、
『いやはや、ものの役に立たぬのは書家といふやつだ。
今日から、その兼好法師とやらを近づけてはならぬ』と
出入りをさしとめにしてしまったといふ。

『徒然草』といへば今ではたいていの教科書にのってゐる古典だが、
その著者が、生活のためにときにはかういふ悲哀も味はってゐたと
思ふと、なんとなく面白い。無知な田舎侍に『ものの役に立たぬ』と
ののしられ、報酬も貰へずに帰った兼好の気持ちは『徒然草』には
書かれてゐない。だが、さう思って読むとあの王朝趣味の名文の裏には、
いかにも乱世にふさわしい生活の匂ひのする知恵がちりばめられてゐる。
たとへば彼にとって、友とするに悪いものは第一に『高くやんごとなき人』
であり、続いて『猛く勇める兵(つはもの)』『欲深き人』などが並び、
逆に良い友達の筆頭は『物くるる友』だといふのである。
 ・・・・・・

いふまでもないことだが、当時の観念のなかには、
まだ『随筆家』などといふ分類はなかった。
法師とはいふものの僧として偉いわけでもなく、
吉田神道の家につながりがあるといっても
神官として身を立てたわけでもない。
和歌は『四天王』のひとりに数へられることもあったが、
あいにく二条、京極、冷泉といふ伝統ある家柄に官職を持つ
専門家として遇されたわけではなかった。
 ・・・・・・・・・・・

彼のやうな人間は当時『遁世者(とんぜもの)』と呼ばれたが、
この乱世はまたかういふ人物を現実世界のなかで生かして
使った時代であった。師直はたまたま兼好をののしったが、
彼ですら一度は兼好のやうな教養を必要と感じる時代でもあった。
そしてこのとき以来、日本社会はつねにその時代の『遁世者』を、
現実世界の内側でうまく生かして使って来たやうである。」


はい。山崎正和著「室町記」(朝日新聞社・昭和49年)には
カバー写真は、薬師山より東山を望む『京の夜明け』。
最初の2ページに写真が4枚。どちらの写真も井上博道。
本の後ろには、守屋毅氏の『室町生活誌』と『室町記』年表と
が掲載されていて味わいのある多面的な一冊。

このあと、朝日選書にはいり、講談社文庫にはいり、
そして、講談社文芸文庫へはいったようです。
わたしは、朝日選書と講談社文芸文庫は手にしておりません。
あとで、安い古本で見かけることがあったなら買うかも(笑)。


そうそう、単行本のあとがきは2ページで、
講談社文庫のあとがきは4ページでした。
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「人間素描」

2020-07-17 | 京都
本の面白さの指南役、としての鶴見俊輔。
そんなイメージが、鶴見さんにはあります。

さてっと、鶴見俊輔氏が桑原武夫を語って

「学者の肖像として、桑原武夫の文章ほど
おもしろいものを、私は知らない。
学術論文は、
それをつくりだした心の動きを、あとでかくしてしまうので、
のこされた文書から、それをつくった人にさかのぼってゆく
ことはむずかしい。・・・・・・

いつマルクスが輸入されたとか、いつウェーバーが輸入されたとか
いう歴史とは別に、学風の歴史が考えられなくてはならないだろう。
そういう問題をたてる場合、桑原武夫の伝記的な作品は、
地図のない文化の領域を歩くための無上の杖となる。・・・」
 (「桑原武夫全集④」朝日新聞社・解説鶴見俊輔のはじまりの箇所)

さてっと、内藤湖南の単行本を手にしたことがないので、ここは
講談社学術文庫の内藤湖南著「日本文化史研究」(下)の
桑原武夫解説によって内藤湖南への学風を知るよすがとします。

この文庫解説で
「私がこの復刊をよろこぶのは、これが偉大な湖南への最良の
アプローチだと信ずるからだが、それだけでなく、これが
私自身の高校時代からの愛読書だからである。
そして私の日本文化についての考え方、感じ方の基盤は、
湖南からのいつとはなしの影響から生れたような気がする。・・・」

内藤湖南は1866年(慶応2)毛馬内(けまない・秋田県十和田町)に、
南部の支藩桜庭家の家臣の二男として生まれる。幼にして母と兄を失う。

こう年譜を示しながら、桑原氏は指摘します。

「内藤湖南が、維新のさい朝敵となったため、
官僚ないし軍人として出世コースからはずされた南部藩士の
子だったことは、意味があるように思われる。明治・大正の
歴史学界で最も独創的な業績をあげた那珂通世(なかみちよ)、
原勝郎がともに南部藩、湖南を招いた初代の京都大学文科大学長で、
歴史家と見てよい狩野亮吉が大館の出身であることは、
近代日本の詩歌が、石川啄木、宮沢賢治、斎藤茂吉の三東北人
なくしてありえなかったことと対応する。
これらの歴史家には、すべて論理的徹底性と精神における
反ブルジョワ的剛毅さが認められる。」

年譜にもどると
1907年 京大東洋史講師、大学出でなければ孔子様でも
教授にせぬという官僚に妨げられ、教授任命は二年後。
狩野直喜らと協力して、世界におけるシナ学の中心は
北京、パリと京都だと言わしめるに至った。亡命中の
羅振玉、王国維と交わり、富岡鉄斎を知る。

うん。うかうかしていると、桑原武夫解説の全文を
引用しなきゃならなくなるので、あとは最後の方を引用しておわります。


「現代日本を知るためには応仁の乱以後を知れば十分だという
大胆な、しかしよく考えてみれば反駁できぬ『独断』を打ち出した
『応仁の乱について』は、本書中の白眉であって、この乱の意味を
これほどみごとに規定したエッセーは、それまで日本史の専門家
によって書かれてはいなかった。いや、今日に至ってもこれを
超える文章はないのではなかろうか。・・・才とはいわば芸術性であって、
言わんとするところをじゅうぶんに述べることのできる表現力、
さらに文章の喜びをも含ませうるかもしれない。」

こうして「応仁の乱について」に、ちょっと触れております。

「湖南は下剋上とは近ごろの国史家が勘違いしているように、
単に下の者が順々に上を抑えるというような生ぬるいことではない
と言ったあと、『最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと
烈しい現象を、もっともっと深刻に考えて下剋上といったのであるが、
このことに限らず、日本の歴史家は深刻なことを平凡に理解すること
が歴史家の職務であるように考えているようです』
と胸のすくようなサワリを聞かせてくれる。

時代の代表として一条兼良と山名宗全の二人がたくみに
とり上げられているが、それは個人描写をするためではない。
社会を示す二つの典型としてとらえられているのだ。
兼良を思わせる保守的な高官が事ごとに古い慣例をもち出す
のに腹を立てた宗全が、『例』という文字をこれからは
『時』という文字に読みかえるようにすべきだと言った
象徴的なことばを『塵塚物語』から引用しているところなど、
まさに芸術的感銘を与えるものといっていい。」


「湖南は新聞記者として大阪に住んでいたころ、
奈良、京都の古美術を丹念に見て歩いた。・・・・・・
ここに収めた『日本の肖像画と鎌倉時代』も、
彼の美的洞察の深さを示している。
東洋は山水画においては西洋の追従を許さなかったが、
肖像画においてはその逆である。しかし、その乏しい
東洋の肖像画の傑作として、藤原隆信の作品があるといっている。
平重盛、源頼朝とされる二幅が歴史上の人物をあらわしているか
どうかという点には疑問があるが、最高の作品に間違いはない
というのである。これらの作品は、アンドレ・マルローが激賞して以来
はじめて日本の文化人によって注目されるようになるのだが、
大正9年の湖南のことばを想起する人は少ないのである。・・・」


え~と。筑摩叢書に桑原武夫著「人間素描」があります。
学者からはじまって、いろいろな方が登場し鮮やかな筆致で
楽しめるのですが、その始まりに登場するのが、内藤湖南でした。





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足軽の、ひる強盗。

2020-07-16 | 京都
講談社学術文庫の内藤湖南著「日本文化史研究」(上・下)を
本棚からとりだしてくる。下巻に「応仁の乱について」がある。
ちなみに文庫解説は桑原武夫です。解説のはじまりを引用。

「内藤湖南の名著『日本文化史研究』が読みやすい表記に改められた
普及版として読書界におくられることを心からよろこぶ。
ここに収められたのはすべて講演筆記で、
アカデミックなしかつめらしい構えはないが、
むしろここにこそ内藤学の骨格が最もはっきり
あわられているといえる代表作である。・・・・」

さてっと、講演筆記の「応仁の乱について」は
大正10年8月史学地理学同攻会講演となっております。
そのはじまりの頁に、こうありました。

「・・応仁の乱というものは、日本の歴史にとってよほど大切な
時代であるということだけは間違いのないことであります。

しかもそれは単に
京都におる人がもっとも関係があるというだけでなく、すなわち
京都の町を焼かれ、寺々神社を焼かれたというばかりではありませぬ。
それらはむしろ応仁の乱の関係としてはきわめて小さな事件であります。
応仁の乱の日本の歴史にもっとも大きな関係のあることは
もっとほかにあるのであります。・・・」

はい。このように講演ははじまってゆきます。
いろいろと重要なことがさりげなく語られてゆくのですが、
ここには、『足軽』をピックアップしてみます。

「私はまず応仁の乱というものについて、
若い時分に本を読み、今でも記憶している事について述べます。
 ・・・・・・・
私が始めて読んだときからいつも忘れずにおったことは
『足軽という者長く停止せらるべき事』という一カ条であります。
足軽すなわち武士以下にあるところの歩卒が乱暴するという
ことについて非常に憤慨しているのであります。
 ・・・・・・この応仁の乱のため
この足軽という階級が目立つようになったのです。

 昔より天下の乱るることは侍れど、
 足軽といふことは旧記などにもしるさざる名目也 
  ・・・・・・
 このたびはじめて出来たる足がるは、超過したる悪党なり、
 其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡は
 かれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし。
 さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財宝を見さぐる事は、
 ひとへにひる強盗といふべし、かかるためしは先代未聞のこと也。

とこう書いてあります。一体応仁の乱に実際京都で戦争があったのは
わずか三、四年の間であります。十年間も続いた乱であると申しましても、
京都に戦争のあったのは三、四年間でありますが、その三、四年間ばかり
の間に洛中洛外の公卿門跡がことごとく焼き払われたのであります。
しかもそれがことごとく足軽の所行でありましたので、そのことが
『樵談治要』に出ているのであります。そして敵の立て籠った所は
仕方がないにしても、そうでもない所を打ち壊しまたは火を掛けて
焼き払い、あるいは財宝を掠め歩くということは偏にひる強盗と
いうべしといっております。そしてこれを取締らないというと政治が
出来んということをいっていますが、これはすなわち貴族階級の人
から見たもっとも痛切な感じであったに違いないのであります。」

 あとに、また引用があります。

「  是はしかしながら武芸のすたるる所に、かかる事は出来れり。
  名ある侍の戦ふべき所を、かれらにぬききせたるゆへなるべし。
  されば随分の人の足軽の一矢に命をおとして、当座の恥辱
  のみならず、末代までの瑕瑾を残せるたぶひもありとぞ聞えし。

ということが書いてあります。その当時の武士というものには
優れたるものがなく、ただ足軽が数が多いか腕っ節が強いか
ということによってむやみに跋扈し、そうして勢いに任せて
乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)をしていたのであります。
つまり武士がだんだん修養がなくなって人材が乏しくなり、
そうしていちばん階級の下な修養のない腕っ節の強い者が
勢いを得るようになって来たのであります。それは
一条禅閤兼良なども当時そういう風に感じていたのであります。」

はい。こういう切り口で応仁の乱を掘り下げてゆく講演なのでした。
講演なので読みやすく、一読ハッとしたのですが、重要さに気づかず、
いつか読もうと本棚に眠っておりました。

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時代との、つきあい方。

2020-07-15 | 京都
向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社・1986年)に、
山崎正和著「室町記」が、とりあげられている。

その2頁の紹介文の最後はというと、
「その秘密をあとがきでそっと打ち明けて言う。」と
ことわって、引用しております。
ところで、「山崎正和著作集④変身の美学」に、「室町記」が
入っているのですが、こちらに「あとがき」は入っていない。
うん。それじゃというので、ネットの古本で講談社文庫を注文。
それが届く。「あとがき」の全文をこの機会に読む。
はじまりは、

「『室町記』は、昭和48年の1月から12月まで、『週刊朝日』誌の
グラヴィア頁に52回にわたって連載されたものである。」

とあります。あの頃の週刊朝日は、よかった時代です。
名編集長扇谷正造氏の遺産・威光が生きていた(笑)。

「・・・おりから昭和40年代後半の日本は、
一方では経済的な繁栄を謳いながら、他方では大学紛争に
象徴される世界的な混乱の余波を受けていた。そういう
刺激的な時代の様相が・・・・・・・私にとって、
室町期の芸人や学者や貧乏公卿の暮しを思いやることは、
現代に生きる自分の感情に柔らかな余裕をあたえてくれる経験であった。
彼らはひとりひとり個性的な姿勢で、私に、変り行く時代と
どのようにつきあえばよいかを教えてくれたからである。」

「室町期が普通の日本人に、
ひとつの統一あるイメージを、あたえないことは事実のようである。

おそらく、それは近世以後の日本人が、歴史についてあまりにも
単純な感受性を養って来て、完全な安定期か、それでなければ
完全な乱世しか理解できなくなっていたということであろう。

麻の如く乱れてしかも柔軟な平衡を保ち、
急速に変化しながら極度に伝統的な社会というものを、
私たちはようやく現代にいたって、
理解し得る手がかりを獲たということかもしれない。」

向井敏さんの書評ではで、あとがきから4行の引用でしたが、
ここは、もうすこし、あとがきから引用したくなる私がおります。
この箇所も引用しておかなきゃ(笑)。

「今日の日本の思想状況を眺めていると、最近、国家と社会のあり方
をめぐって、あらためて微妙な選択を迫られているような気がする。

倫理や文化的な価値観がますます多元化するなかで、
それを昏迷退廃と見るか、あるいは、自由な活力の向上と見るかで、
人びとは新しい分岐点に立たされてるようにみえる。

・・・・より稔り多いのは、
過去の具体的な時代を選ぶことによって考えることではなかろうか。
価値観の多元化といっても、それが現実に人間によって生きられた
ときにどんな姿を見せ、どんな幸福と不幸をもたらすかを
観察する方が、百の抽象論よりも有益であるように思われる。・・・・・
 ・・・・・・・
室町時代というモデルを選ぶことは・・・
今や、ひとつの立場の表明になろうとしている・・・
そういう機会を、講談社文庫によってあたえられたことを
喜ぶとともに、編集の労をとられた関山一郎氏に感謝したい。
        1985年新春           著者」


ここまでの引用で、気づいたことがありました。

向井敏さんの書評の最後に(’83・1・23)とあるのに、
講談社文庫に入ったのは、1985年とある。
そうすると、向井さんが引用した「あとがき」と、
文庫本「あとがき」とは、ひょっとすると違っているかもしれない。
そこが気になる。ということで、安い古本の単行本を注文する。
はい。本文は読まない癖してね(笑)。

ちなみに、この昭和60年の講談社文庫の解説は大岡信。


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南禅寺と疏水。

2020-07-14 | 京都
淡交社の「古寺巡礼京都⑫」は南禅寺。
杉森久英(明治45年石川県生れ)氏の文が10頁。
そこから、摘まんで引用。

「京童はむかしから皮肉な人間観察家がそろっていて、
信仰と求道の場である寺院に、それぞれ現世的性格に
応じた綽名をつけた。妙心寺の算盤面(づら)、
大徳寺の茶人面、東福寺の伽藍面等々である。そして、
彼等の判定によると、南禅寺は武家面ということになるらしい。
(ある人は役人面というと、私に教えてくれた。・・・・
封建時代、武士は同時に役人だったから。)いわれてみると、
この寺と役人、もしくは武家とのつながりは、
なみなみならぬものがあったようだ。」

はじまりは、楼門でした。
「この山門がまっすぐ御所の方を向いているということは、
なにか意味ありげである。・・・・・」

はい、興味深い内容なのですが、
このくらいで切り上げて、気になる疏水へとゆきます。

「この寺には・・・門を入って、まっすぐ奥へむかうと、
右手の木立の間に、赤煉瓦を積んだ巨大な城壁のような
ものがみえる。下はアーチになっていて、通り抜けられるが、
上には溝が通っていて、きれいな水が流れている。
いわゆる疏水で、琵琶湖の水を京都へ導くため、
明治21年ごろ築造されたのだそうだ・・・・・
もちろん寺では反対を表明したが・・・・・・・
この対立は今日の高速道路や高層ビルの建設をめぐる
企業や体制側と住民側との争いに似ているが、今日にくらべて
政府権力の格段に強かった明治のことなので、
寺側の抵抗はほとんど功を奏せず、簡単に押し切られて、
疏水は建設された。それが今日まで形をとどめて、
南禅寺風物のひとつになっている。

建設当時は、煉瓦の赤い色もなまなましく、
継ぎ目の漆喰(しっくい)もあざやかで、
おそらく周囲のやわらかな自然と反撥しあって、
異様な空気を醸し出したのだろうが、百年の歳月は
煉瓦の色を褪せさせ、漆喰を風化させ、全体の色調をくすんだ
落着きあるもにして、周囲の木立の中へ融け込ませてしまった。

もっとも、今日南禅寺を訪れる人のほとんどが、
この古代ローマ風の水道を見ても、べつに奇異に感じないのは、
ひとつには、われわれがあまりに多く洋風のものに取り巻かれて
いて、いちいち目くじらを立てていられないからだろう。
京都にしろ奈良にしろ、コンクリートや煉瓦の建造物はあまりにも多く、
・・・・木立ちの中にわずかに見え隠れする灰色の廃墟のような建造物など、
まったく目障りにならないどころか、それなりにふしぎな安定感さえ
漂わせているのである。・・・・」

はい。杉森氏の文は、このテーマを細かく分かりやすく
書き進められておられます。そこからの摘まみ食いの引用で
もうわたしは満腹。

それにしても、京都のビル群が建ちならんだ、
その百年後に、つい思いを馳せてしまいます。


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