和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

徒然草と歌仙の時代。

2022-05-31 | 本棚並べ
うん。どうやら、歌仙の扉をひらくのに、
徒然草がキーワードとなる気がしてくる。

というわけで、無理して読まずに徒然草の入門書から引用。
島内裕子著「徒然草をどう読むか」(左右社・2009年)の
はじまりの箇所から

「・・徒然草は、鎌倉時代の末期頃に成立した後、
 しばらくは忘れ去られたかのように、広汎な読者を獲得した形跡がない。

 けれども、時間が経過した室町時代になってから、
 次第に歌人や連歌師たちが共感をもって迎えるようになった。

 そして江戸時代になると、文学者や学者・芸術家たちのみならず、
 幅広い読者層を獲得し、その潮流はそのまま現代ににまで続いている。」
                        ( p4 )

写本に関する箇所も

「兼好自筆の徒然草は残念ながら発見されていないが、
 兼好の時代から約百年後の室町時代の写本が残っている。

 永享3年(1431)に歌人の正徹(しょうてつ・1381‐1459)に
 よって書き写された・・写本が、現在最古の写本である。
  
 ・・・・『正徹本』のような古い写本の本文には、
 句読点も清濁も付いていない。また、本文には改行は見られるものの、
 明確な章段区分もない。

 ・・・慶長18年(1613)に・・烏丸光広(からすまるみつひろ)が
 句読点や清濁を付けた徒然草の本文が、版本として刊行された。
 この『烏丸本』徒然草が、それ以後は、定本として江戸時代を通じて
 広く読まれることになった。近代に入って、明治時代から現在に至るまで、
 最も流布しているのも、また『烏丸本』である。・・・・・

 徒然草を細かな章段に区分する読み方は、
 『源氏物語』研究史上の金字塔である『湖月抄(こげつしょう)』を
 完成させた北村季吟(きたむらきぎん)が著した
 『徒然草文段抄』(1667年刊行)によって、それまでに試みられていた
 区切り方が整理され、現在に至っている。・・・  」( ~p9 )

芭蕉が生きたのは、寛永21年(1644)から元禄7年(1694)。
ということは、章段にわかれた『徒然草』を、芭蕉は新刊として、
20代中頃以降に手にしていたのかもしれないなあと、思ってみる。

各章段にわかれた時から、各章段をわけて読む発想が生まれる。
そのように考えてみると、芭蕉の時代には各章段に切離された
徒然草的発想が生じ始めたという見方もできそうです。
そう思って島内裕子さんの言葉をおってみると

「ただし、兼好本人が章段番号を付けたわけではないのだから、
 あまり章段区分に囚われない方がよいだろう。

 むしろ、一つ一つの章段を切り離してそこだけを取り上げると、
 徒然草の全体像を見失いかねない。
 それが『テーマ読み』の弊害である。

 徒然草を読むうえで重要なのは、
 内部世界を貫く変化と持続の諸相を見抜くことであり、
 章段相互の関連と展開に気づくことではないだろうか。  」( p10 )

うん。江戸時代を通じて広く読まれた徒然草の、
その章段分けが出来上がった『徒然草文段抄』と、
同時代に、芭蕉は歌仙のテーマを練り上げていく。

うん。そんな風に、徒然草と芭蕉とがダブリます。
さて、徒然草を読み、同時に歌仙を読むたのしみ。
ということで、広汎な楽しみの広がりに遊べます。


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贈答のあいさつ。

2022-05-30 | 本棚並べ
大岡信・丸谷才一対談「唱和と即興」をまたひらく。
( 丸谷才一対談集「古典それから現代」構想社 )

そのはじまりは、大岡信さんが高浜虚子の全集月報連載を
書いてゆく話からはじまっておりました。

「・・そういう観点から見ていくと、虚子という人は、
 挨拶の句においてたいへんな力を持っていることがわかる・・

 挨拶ということについては山本健吉さんなどが力説されていますが、
 虚子は『贈答句集』がすばらしいという、しばしば言われていることは
 実際その通りだと思うし興味深いことだと思います。
  ・・・・・・・・

 ・・虚子の句の挨拶的な性質について・・・
 考えてみれば、これは実はあたりまえの筋だったわけですね。
 俳句にしても、ひろく詩歌全般にしても、 
 人に対して歌を贈るとか、句を贈るとか、
 そういう形で成り立ってきた部分が非常にあったわけですね。  」
                     ( p92 )

はい。これが対談のはじまりでした。
挨拶といえば、思い浮かぶ本がある。
丸谷才一の3冊。

〇「挨拶はむづかしい」 (朝日新聞社・1985年)
〇「挨拶はたいへんだ」 (朝日新聞社・2001年)
     (のちに、朝日文庫・2004年にはいる)
〇「あいさつは一仕事」(朝日新聞出版・2010年)

3冊ともに、最後は「あとがき」として対談掲載。
一冊目は野坂昭如さん。二冊目は井上ひさしさん。
そして、三冊目は和田誠さん。ここでは三冊目の対談から引用。

和田】 ・・・題名を辿ると、
    挨拶はむずかしくて大変で一仕事だということになりますが、
    挨拶のベテランでいらっしゃる丸谷さんにとっても、
    やはり大変なものなんでしょうか。

丸谷】 ひとつにはね、挨拶は大変だとも、むずかしいとも、
    一仕事だとも何とも思わないで、ただ出ていって
    何かダラダラしゃべってみんなを困らせるという、
    そういう偉い人が多いでしょう。だから、
    そうじゃないんだよと、聴いているほうとして
    大変だし、むずかしいし、一仕事なんだよと。

和田】 聴く側の気持なんだ(笑)

丸谷】 それも含めての題ですね。

     ・・・・・・

和田】 ・・・・・・まず、一番の特徴は原稿があることでしょう。

丸谷】 はい。でも原稿があることを滑稽だと思う人がかなりいるらしいね。

和田】 未だにいますか。

丸谷】 いるらしいんですよ。ある小説家が彼の受賞のお祝いの会で
    原稿を書いていってお礼を述べたんですって。

    そしたら、乾杯の発声をやったビジネス関係の人が
    『 あなたのような言葉の専門家でも原稿を
       書いてくるのでびっくりした 』 と言って、

    その人は原稿なしで非常に長い挨拶をやってみんなを苦しめた(笑)
    という話をこのあいだ聞きましてね。言葉の専門家というのは
    原稿なしでしゃべるものだという考え方があるんですね。

和田】 丸谷さんは、
    言葉の専門家だからこそ原稿が必要だ、という立場ですね。
                      ( p214~215 )


はい。そういえば3冊とも、装釘・装画は和田誠さんでした。
( 2冊目からは装幀・イラストレーションとなってます )
それぞれが短くって、その場をなごやかにする雰囲気が彷彿とされ、
ちょっと読みだすと止まらなそうですので、もう本棚にもどします。
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バイカル湖と佐藤忠良。

2022-05-29 | 本棚並べ
今日は、ゴミゼロの日というので、
午前中は地域の草刈り。それから神社まわりの草刈り。
晴れたよい日で、お昼は神社前で手渡されたお弁当を食べました。
木々の日陰で、そこそこ風がそよいでいて、
こうして外で、お昼を食べるのも何年ぶりかなあ。
などと思ったりして。

とりあえず、お昼でおしまい。
帰ってシャワーをあびて、さてっと、
取り出したのは、安野光雅の対談でした。

佐藤忠良・安野光雅「ねがいは『普通』」(文化出版局・2002年)。
のちに、「若き芸術家たちへ」と題名を変えて中公文庫(2011年)。
この対談の、最初は『バイカル湖』を行く船の上でした。
うん。そのはじめの方を引用したくなりました。


佐藤】 あれね――僕は1944年に招集されて、
   満州(中国東北)に行かされていたんです。
   じきにソ連が参戦し、突撃ってことになって――。
   僕は戦線から逃げ出したんですよ。隊長を誘惑してね。
    ・・・・・・
   でも結局は敗戦を知って投降し、シベリアで3年間、
   抑留生活を送ることになるんです・・・

うん。佐藤忠良氏も、シベリヤ抑留されていたのですね。
知らなかったことでした。
このときに、佐藤忠良氏が、真剣に考えたことに

佐藤】 ・・・ あのころ33歳くらいでしたか、元気だったんですね。
    先が見えないから、地続きの、かねて憧れていたパリまで、
    歩いて行くより仕方がない――真剣に考えたんです。

安野】 季節にもよりますが、冬だったら確実に死んでいますね。
    一里も行かないうちに。

佐藤】 そんなこと、全く考えなかった、その時はね。
    彫刻を続けたいという気持ちと、パリへの強い憧れ
    だけがありました。でも結局は敗戦を知って投降し、
    シベリアで3年間、抑留生活を送ることになるんですが。


ここから、対談は『憧れ』へとひろがってゆくのでした。


安野】 憧れといえば佐藤先生、
    『文化というのは憧れのようなものだ』って
    以前、言っておられましたね。なるほどと思いました。

佐藤】 あれは、いろいろ考えて
    学問的に系統立てて話したわけではないのですが――
    文化について話さなくてはならないことがあってね。

    我々、文化って言葉はつかっているけれど、文化って何だろうと。
    文明なら、なんとなく話せる。けれど文化ってことになると、
    筋道立てて出てこない。

    それで苦し紛れに、
    『文化って憧れみたいなものだ』って話したんです。
    ・・・・・・・・


    そう、自分の目で見て、触ってみなくちゃね。
    でもテレビの映像で見たりするとわかったような気がしちゃう。
    行かなくてすんじゃう。
    文化からだんだん遠ざかっていくわけです。


このあとに、安野さんの言葉につられてラブレターの話をしておりました。
うん。そこまで引用しておわります。



佐藤】  ラブレターの話ですが、
     今、若い人って電話で間に合っちゃう。
     我々若いとき、一生懸命、手紙書いたでしょう?

     ポストまで行ってドキドキして。
     手紙を入れたら、
     今度は返事が来るかどうか待つ時間がある。

     返事が来ても相手の字が下手だったりすると、嫌になったり。
     天気があまりよくないって書いてあれば、
     その言葉の裏側まで読もうとしたり――。

     彫刻って触角が何より大事な仕事なんです。
     コンピューター全盛の時代でも我々彫刻家は、

     先人が腰蓑(こしみの)つけていたのが、
     背広にネクタイつけるようになっただけの違いで、
     相変わらず粘土をこねている――
     でも、文化って、そういう触覚感が大事なんですよ。

                    ( ~p22 単行本 )


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雨晴れくもり。枇杷の実。

2022-05-28 | 本棚並べ
台所の掃き口のすり戸のそばまで、
ガラス越しにビワの枝が見えます。
いまでは枇杷の実が色づいている。

尾形仂著「歌仙の世界」(講談社学術文庫)に
枇杷が出てくる箇所がありました。
季節柄、時期を得ておりますので引用。

「『本朝食鑑』(元禄8年)によれば、
 枇杷は実生でも移植によってもつきやすいため、
 全国各地にあり、庭園にも植えられていたようです。

 木の高さは丈余。常緑で冬に花を開き、春に実をつけ、
 ちょうど梅雨期の仲夏のころに熟します。

 黄緑色の実が次第にかすかな赤みを帯びた黄金色に変化するとともに、
 味も微酸から豊かな水気を含んだ純甘に変わる。

 それは、果実といったらほかには酸っぱい青梅や小さな山桜桃(ゆすら)
 の実ぐらいしかないこの季節にあっては、まことに楽しく頼もしい
 ながめということができるでしょう。 」(p183)


うんうん。まるで枇杷の実の自己紹介を聴いているようで、
その色づくお便りを読むようで、つい引用をたのしみます。


さて、歌仙のなかでは、どうなっていたか

「  ひと雨ごとに枇杷つはる也   枝

・・・『枇杷』を持ち出したのは、
疫病のはやりやすい季節として、梅雨期を連想したからでしょう。
『枇杷』は、『花火草』(寛永13年)、『毛吹草』(正保2年)以来、
俳諧の季語として取りあげられており、
したがって季は雑から夏に転じたことになります。   」(p183)

「『つはる』は、変化のきざしが見えはじめることで、
 植物が芽ぐむことや、果実が熟しはじめること、
 動物が発情することなどに言い、
 
 妊娠した女性に起きる症状にいう悪阻(つわり)という
 ことばもここから出たものにほかなりません。

 『一雨ごとに枇杷つはる』とは、
 天候に左右されて気分もけだるい陽気の中で、
 果実の次第に黄熟しはじめる季節の動きをとらえ、
 まことに言い得て妙という気がいたします。    」(p183~184)

このあとには、斧正(ふせい)される句の姿が語られているのですが、
引用はここまでにしておきます。

うん。この尾形仂氏による、歌仙の記述でもって、
部屋から見える枇杷も、何か腰が据わったような、
そんな気がしてきました。


追記:そばにある枇杷の木は、高さが5メートルくらい。







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聴いても、唱えても。

2022-05-27 | 詩歌
尾形仂著「歌仙の世界」(講談社学術文庫)の
はじめの方に、気になる箇所がありました。

「・・・幸田弘子さん・・・朗読の名手の女優さんに、
NHKの仕事で『おくのほそ道』の朗読をしてもらったことがあるのですが、
そのとき幸田さんは、発句が出てくると、どうしても二度朗読しないと
納まりがつかない気がすると言うんですね。

これは、声に出して読むことによって、切れ字の効果をみごとに
言い止めたことばだといっていいでしょう。

切れ字の効果は、ちょうどこだまのように、
一句の言外に含まれた詩情を何度でも
反復して反響させてゆくところにある。
そうした反響音の中から、
次の句が生まれてくるわけです。    」( p26 )


何気なく、読み飛ばしておりましたが、あとになって印象に残りました。
歌仙を巻くというのは、どのように、その句を読み上げるのでしょうか。
門外漢は、活字をおっているだけで、そんな基本的なことが分からない。

それはそうと『歌会始め』をテレビで見たことがあります。
最初はおひとりの方が、読み上げてから、つぎに、歌われていたのでした。
うん。二回読まれておりました。

話はかわりますが、平川祐弘氏が月刊Hanadaの2022年6月号より
連載『詩を読んで史を語る』をはじめられております。有難い。

せっかくなので、はじまりを引用。

「詩を読むことで、日本の文化を語り、あわせて世界史の中の
 日本を眺めるよすがとしたい。・・・」(p332)

ということで、第一回目は『明治天皇』でした。
うん。ゴチャゴチャいわれないように、
平川氏は、まずは『露払い』よろしく語ります。

「明治の大歌人として明治天皇(睦仁、1852‐1912)を
 まずとりあげる。・・・・

 苦情が出ぬよう実証的に話をすすめると、
 明治天皇が60年の生涯に作られた和歌は9万3032首。
 明治の大歌人与謝野晶子が64年の生涯に作った和歌が5万というから、
 睦仁陛下が数の上で大歌人であることは明らかだろう。

 だとすると、平川の選択を頭から拒もうとするアレルギー的反応は、
 惰性的左翼にありがちな、精神の怠惰でしかないことがわかる。
 
 ただし御製であるからといって、保守的右翼にありがちな、
 ただただ有難がることはしない。・・・・

 天皇のお歌であるからといって構えることなく、
 自然体で吟味させていただく。          」


こうして、まず最初に引用されているお歌は

「  さしのぼる朝日のごとくさはやかに
        もたまほしきはこころなりけり   」(p333)

はい。こうしてはじまる14頁なのでした。
ここには、横着にも最後の箇所から引用。

「明治天皇は御自分の歌が世に発表されるのを好まれなかった。
 しかし小学校教科書に載る以前にも、東京の府立六中などでは
 生徒たちは朝礼の時間、校庭で大きな声で御製を朗唱していた。

 朝の空気の中でこういう歌を大きな声で唱えることは、
 長たらしい校長訓示を聞くよりよほど気持がよい。・・・・ 」

はい。この府立六中の箇所をもうすこし

「六中とはいまの新宿高校で、自由な校風で知られた。・・・・

 昭和の初め、この名門の中学校では毎朝、
 明治天皇の御製を生徒が一緒に朗唱した。

 天皇の歌を暗誦させるとは忠君愛国教育か、
 さては『毛沢東語録』の暗誦のたぐいか、
 と批判する読者もいるかもしれない。

 だが『百人一首』を読み上げるのと同じで、
 聴いても、唱えても、気持ちがよい。

 それは歌にこめられた気持ちがしみじみと
 若者の心に浸みこむからだろう。

 後に歴史学者となる林健太郎(1912‐2004)も
 六中の生徒で毎朝、御製を三唱した。・・・・・

 『朝の空気の中でこういう歌を大きな声で唱える
  ことはなかなか気持ちのよいものであった』
 
    と回想している。          」(p345)


90歳を過ぎた平川祐弘氏が、あたらしく連載をはじめられた。
連載『詩を読んで史を語る』を、読めるめぐりあわせの慶び。


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句の匂い・響き・映り。

2022-05-26 | 本棚並べ
今年はじめて、私は俳諧への興味が湧きました。その際に、
例えば、初対面の人なら、知り合いの誰かを思い浮かべる。
以前にあった人の、誰かと似てるのではないかという連想。

さて、『俳諧』クンとの出合いで思い浮かんだことを、
書いとくのは、まんざら無駄ではないように思えます。

そうして『徒然草』の文が思い浮かぶのでした。
『徒然草』と『俳諧』の互いの雰囲気の類似点。

まずは、『俳諧』クンの素顔というか雰囲気が気になりました。

大岡】 ・・・芭蕉と蕉門俳諧の特徴は、付け句の
  (前の句と響きあうように句をつくるのを、付けるといいますが)
   洗練の度合が格段に高まった点にあります。

   それ以前の貞門・談林あたりでは、
   だいたい言葉とか物に合わせて付けていったけど、
   芭蕉は、それを単純な付け合わせから
   情緒そのものの付け合わせに高め、
   いわば芸術的に高めることをしました。

   句の匂いといったり、響きといったり、映りといったりしますが、
   いずれにしても、前句と付け句の間の関係を
   そういう尺度で測るようになり、

   付け方は前句との間に微妙な綾を織るようになります。

   余情(よせい)を重んじて、前の句がいおうとして
   いい切っていない隠れた意味を読みとって、それに付ける
   というようなことを芭蕉は好みました。

   芭蕉の一門の俳諧を読んでいて深みがあるのはそのためです。

         ( p8~9 「とくとく歌仙」の「歌仙早わかり」 )

ここに、『付け方は前句との間に微妙な綾を織るようになります』とある。
ふつう、文章を書く際は、こんなことは考えもしませんね。俳諧ならでは。

ここから、『徒然草』を引用したいのですが、いきなりの引用もなんなので、
その前に、外山滋比古氏の随筆の最初を引用してみます。


「 徒然草のある解説を見たら、冒頭に
 『徒然草には矛盾が多いということはよく聞くのであるが・・』
 とあって、びっくりした。
 第6段では子供はない方がいいと言ったかと思うと、
 第142段では子供のない人にはもののあわれがわからない
 という話に賛同したりしている。
 これを『矛盾というなら確かに矛盾である』と続いている。
 その先を読む気をなくしてしまった。

 『渡る世間に鬼はなし』も真なら、
 『人を見たら泥棒と思え』というのも、残念ながらやはり真である。

 一見いかにも矛盾であるが、一方を立てて他を棄てるようなことがあれば、
 残った方の正当性も怪しくなってしまう。
 両方そろってはじめてそれぞれが生きる。

 幸いなことに、諺の解説をして、
 その矛盾をあげつらう人はすくない。
 
 諺の理解は胸で行なわれるが、
 作品の理解は頭でなされる。

 頭の理解では、論理とか矛盾とかが気になりやすい。

        ( p121 外山滋比古著「俳句的」みすず書房 )


さいごに引用するのは、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館・大正14年)

この本は、徒然草の各段を原文・訳・評と、わかりやすく書かれて全文を
網羅しております。たとえば、第41段の評のはじまり。

【評】 面白い実話を思ひ出して書いたのである。
   これは前々段の『眠』から聯想して想ひ出したものらしい。

   この徒然草は、それからそれへと連鎖がつながってるところが多い、
   と云事は芳賀先生に承ったことである。
  
   それまではしみじみとは此事に気が付かなかった。
   こんな事は注意しなくても宜しいことであるが、注意して見ると、
   兼好の所謂『心にうつり行く』心の状態が段々見えて行って、
   その点でも面白みがある。

   ここなどは一つ飛んで縁がある。かう云事も、
   我々が随筆やうのものを書く時にもあることだ。
   もっとも全く鎖のきれてるところもある。
   それは自然なことである。
   どこもここも皆連鎖であったら、
   却ってこの書は作り物めいて厭味にもなるのだ。   」(p120)



あと、一箇所引用(パラパラめくりでたまたま開いた箇所)。

第12段から第13段にかけてですが、ここには第13段の評を引用。

【評】 前の段で、友と云ものを否定した。
   それを受けて、書を読んで古人を友とするのは
   実に大いなる慰藉であると云って来たのである。

   この続き工夫を味ふべきである。
   私も一々同感である。

   生きた人間はくだらない又は此方に取って
   不快に思はれるやうな附属性を有ってる。

   其為に友交と云事をするには、互に幾分の虚偽を
   しなくてはならぬと云悲哀がある。

   会ったことも無く、手紙だけで交際してると云事は、
   それに比べると余程醇な交りである。

   著書を読むに至っては、更に醇なるもので、
   書には著者の最重き、光のある、力のある
   所のみが印されてるのである。

   勿論自分と考の合はない所はあろう。
   が、そう云所はここは合はないとして、
   合ふ所だけを読めば宜いのである。

   この合ふ所こそ実に前段に所謂まめやかなる心の友である。

                   ( p40~41 )


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ともし火。燈燭光。

2022-05-24 | 本棚並べ
3冊ならべ。

① 大岡信編「五音と七音の詩学」(福武書店)
② 「新唐詩選続篇」(岩波新書)
③ 曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)

① 大岡信さんは、お父さんの代から窪田空穂氏とつながりがあります。
  岩波文庫の「窪田空穂随筆集」「窪田空穂歌集」「わが文学体験」の
  この、3冊の、編と解説とが大岡信となっておりました。

  「五音と七音の詩学」は、詩にまつわる随筆のアンソロジーなのですが、
  そこに、窪田空穂も入っております。さて、何を大岡氏は選んだのかと、
  そんな、興味でページをひらくと「ともし火」窪田空穂という4頁の文。

  うん。明治10年に信濃の農村で生まれた窪田氏と、ともし火の記憶の
  推移が簡潔にですが、綴られておりました。


② 桑原武夫氏の文で、杜甫の『贈衛八處士』の漢詩が語られています。

 「 これは『唐詩選』にもおさめられておらず、
   有名な作品とは云えないかも知れぬが、私には好きな詩だ。」(p192)

  とあります。詩のなかに『燈燭光』という言葉があり、
  それを桑原氏がとりあげている箇所があります。

「『燈燭光』は分けて読むことが語法上ゆるされうかどうかわからないが、
  かりに分けて読めば、
 『燈光』は燈心を油に浸して点ずる灯、
 『燭光』は蝋燭。

 私たちは夜になれば電燈がつくのが当然と思っているが、
 それは最近のことで、私の子供のときはランプだった。 」(p198)

 ちなみに、桑原武夫は明治37年生れ(1904~1988)でした。
 つづけます。

「 あさ母親がランプのホヤをみがいていた姿は今も私の目にうかぶ。
  8世紀にはランプなどという便利なものはない。
  日本で蝋燭が一般に用いられるようになったのは戦国時代だが、
  唐に蝋燭があったとしても、それはゼイタク品であったに違いない。

  いつもは八畳の間に行燈(あんどん)を一つ、
  だが今日はそれを二つにしよう、
  いや一本だけ残っていた蝋燭をつけよう、
  そういう気持、それが友情のささやかなリュックスなのである。

  またもともと友情の償いとは
  そのようなものでしかありえないのかもそれぬ。
  その光を前にして旧友が対坐しているのである。

  そのかすかに温い光に照らされている二人が、
  お互の顔を見ると、『少壮よく幾時』、
  友情は変らぬが肉体は時間の影響を免れえず、
  ともに髪の毛はごま塩ではないか。

  燈光に照らされるとき白髪がキラッと光り、
  かえって昼間より強く印象づけられることがある。・・ 」
                      (p198~199)

 ちなみに、桑原武夫は杜甫の略歴にもふれておりました。

 「・・それによると一時賊軍に捕われた詩人はようやく脱出して
  ・・拾遺という役に任ぜられ、やがて宮廷とともに西安の都にもどった。

  彼は直諫して罪をえかけたことがあるが、そのためか翌年には
  華州(西安の東60マイル)の司空参軍という役に左遷された。

  彼は759年はじめに用務をおびて洛陽に派遣されている。
  この詩は、恐らくその年の春の作で、
  場所は洛陽からさして遠い所ではあるまいといわれる。

  官軍はこのときやや優勢とはいえ、戦争の悲惨はそれによって
  減ずるものではなく・・悲惨は、なお4年もつづくのである。

  そして詩人は、この夏には官を辞して、
  奏州さらに四川省へと放浪の旅をつづける。

  杜甫が饑餓のために子を死なせたことは周知のことであり、
  この詩も人事すべて明日は計りがたいという
  乱世を背景において読まなければならない。  」(p192~193)



③ これは副題に「東日本大震災の個人的記録」とあります。
 うん。こちらは二か所引用することに

「 電気が消えた状態の中で最も求められるのは、平常心である。
 明日は必ずくるのだ。それはほとんど個人の才能と気力に応じて出てくる。

 電気がなくなると、私たちは俗に言うスケジュールというものが
 ほとんど立たなくなる。未来について責任者に質問することも無意味に
 なるだろう。事態は刻々と変化するだけで、

 それを予測する根拠はほとんどなくなるからだ。だから
 『明日どうなりますか?』とか
 『このことはいつ解決しますか』などという質問もまた
 まったく本質をはずれていることを、
 冷静に自覚していたマスコミ人は、
 あまり多くいなかったように見えたのである。   」(p165)

「 インドのシリコンバレーと言われるバンガロールの下町は
  毎日のように停電していた。・・・・

  アフリカでは毎日のように停電するから、
  人々は食事の最中に電灯が消えることも、
  冷たいビールが品切れになっていることも、さして驚かない。

  しかしそうした瑣末なことではなく、
  停電がもたらす最大の社会的変化は、
  民主主義もまた一時的に停止するということである。
  もはや正当な命令系統が迅速に正確に伝わるということが
  不可能になるのだから、指揮系統も迂回路を取るか、
  全く命令が伝わらない事態を予測しなければならない。

  しかも事態は混乱の中にある。そうなった場合、
  その場にいる者が、たとえ彼が本来ならその任になくても、
  個人の判断で臨機応変にできることをする他はないのである。」
                ( p167~168 )


たまたま、私はこの3冊を思い浮べました。
あなたにどんな3冊が思い浮かぶのだろう。
  
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ダイジェスト版とアンソロジー。

2022-05-23 | 本棚並べ
長いのを読まない、読めないので、
いきおいダイジェストに頼ります。

ふりかえればハウツー本を選んで読んできたよな気がします。
読書のすすめ・文章のすすめ・整理のすすめ・思考のすすめ。
気楽にこういうのにはすぐ食いついていたような気がします。
身についてしまっているので、ここからでしか発想できない。

ここに心強い対談の言葉がありました。

丸谷】・・・芭蕉が誰に源氏を読んでもらったかが
   大事だとおもうんですけどね。・・・

大岡】 わからないですね。あの当時、源氏を全部きちんと
   読んだということは、あまりないと思うんです。

   『湖月抄』みたいなものを通じて、
   源氏のダイジェスト版みたいなものでわかっていた
   場合が多いんじゃないかという気もするし。

   だいたい、あの人の漢字の知識だって、
   きちんと漢学を修めたのではなくて、おそらく、
   江戸時代にたくさんあったであろう、たとえば
   『白紙文書』の簡約版みたいなものを読んでいたんじゃないかな。

   だいたい文人たちの古典文学の知識は、全部を読むんじゃなくて、
   触りをきちんと押さえてある選集からですよね。

   そういうもので、古典の知識を得ていたと思うんですね。
   そしてそのほうがよかったという気さえする。

丸谷】  本当はそうなんだよね。

大岡】 隅から隅まで『源氏物語』を読んじゃったら、
    逆に源氏のポイントがボケる可能性があるんですね。
    これは、そうとう大胆不敵な、無学者の言説ですけど。

    でも、それはひとつあると思うんですよ。
    明治の文人たちも、多くの場合、そういう簡約版で読んでいた。

    文学作品でも、いいところをきちんとセレクションしてあるような、
    つまり極端にいえばアンソロジーですね。

丸谷】 アンソロジーが大事だというのは、それなんですよ。

大岡】 アンソロジーを通じて、
    見事な古典理解ができるということがあるでしょう。

    日本の勅撰和歌集の最高のメリットはそれだったと思う。
    アンソロジーだった。アンソロジーとしての『古今集』とか、
    『新古今集』とか『玉葉集』とか『風雅集』を読んで、
    見事だなあと思うのは、

    編纂した連中の審美眼のたしかさですね。
    じつにいい編集をしている。

丸谷】 アンソロジーのなかに、傑作をところどころに置いて、
    傑作でないのをその前後に置いて、しかし駄作はおかない。

    僕は、芭蕉の歌仙は、『古今集』『新古今集』を
    読み抜いたことによってできたという感じがするんです。
    ・・・・・・・・
             ( p38~40 「とくとく歌仙」文芸春秋 )


うん。文を引用しようとすると、どうしても全文引用はムリ。
やむをえず、他の大事な箇所をカットして引用しちゃいます。
けれどそれでいいんだね。アンソロジーとはそうして始まる。


それはそうと、古本で小学館の「群像日本の作家」というシリーズ。
その一冊に、『丸谷才一』(1997年)というのがありました。
送料ともで280円。各評者が、本人をまな板にのせてのあれこれを
好き勝手に書いたのをまとめた一冊でした。その最初に写真が6枚。
そのなかに3人して笑っている写真がありました。それが気になる。
写真の右には説明が一行。
「 昭和63年10月、山中温泉かよう亭で歌仙を巻く。
  右より大岡信、井上ひさし、丸谷才一 撮影・文藝春秋 」

はい。真ん中の、井上ひさし氏だけは立っております。
どうやら、歌仙を巻いたあとのような雰囲気です。
まるで、運動会が終り、皆して笑いあっているような感じに見えます。

大岡氏は座卓に硯。筆を右手に歌仙を書き写しているみたいです。
丸谷氏は眼鏡をして、歌仙を一枚一枚整理しているふうにも見えます。

なごやかなうちに、悪戦苦闘の歌仙をお互いして、
終了したあとから、ほっとして笑いあっている姿。

「とくとく歌仙」(文芸春秋)に、その歌仙が載っておりました。
最初の『菊のやどの巻』が、1988年10月。於 山中温泉かよう亭。
丸谷才一(玩亭)・大岡信・井上ひさし。3人の写真の顔ぶれです。
その歌仙のはじまりを引用しておくのも、いいかも。


  翁よりみな年かさや菊のやど   玩亭
  
    また湧き出でし枝の椋鳥   信

  名月に道具の月を塗り足して   ひさし


ちなみに、『翁』とは芭蕉のこと。
注釈にと、『山中温泉』にまつわる3冊。

〇 尾形仂著「歌仙の世界」(講談社学術文庫)
     この「はじめに」から引用

 「これは、その詞書に『元禄二の秋、翁(芭蕉)をおくりて
  山中温泉に遊ぶ、三両吟』と北枝が記していますように、
  
  元禄二年(1689)の『おくのほそ道』の旅の途次、
  金沢に立ち寄った芭蕉・曽良の一行を、金沢の俳人北枝が
  見送りがてら山中温泉に案内し、陰暦の7月27日から
  8月4日まで滞在し・・5日に曽良が芭蕉と別れ一足先に出発・・」(p7)


〇 尾形仂・大岡信『芭蕉の時代』(朝日新聞社)
    この「あとがき」から引用。

 「この対談は、もとエッソ・スタンダード石油株式会社の
  広報誌『エナジー対話』第16号のために企画されたものである。

 ・・・企画者の高田宏さんは、前後二度にわたって、
 対談のための絶好の場を用意してくれた。・・・

 初度は、昭和54年8月21日から24日まで、
 翁ゆかりの山中温泉かよう亭にて、二度目は・・・・

 山中では4回7時間・・・実のところ、
 精神的にも肉体的にもけっして楽な作業ではなかった。

 現に山中での3日間の午後、速記者の大川佳敏さんを含めた
 当事者3人がダウンしてしまったことが、そのことを明白に実証している。
 にもかかわらず・・・・ 」(p246)


〇 「とくとく歌仙」(文芸春秋)

大岡】 丸谷さんの発句の前書にあるように、三百年前、
   『奥の細道』の旅を続けていた芭蕉が山中温泉に数日間滞在
    したことがあります。 

    そのときに『山中三吟』という有名な歌仙を、
    金沢の北枝と、芭蕉、曾良の三人で巻いた。

    そういうゆかりのある山中で、三百年記念の
    様々な行事が行われていて、

    『ついては山中へ来て歌仙を巻いてみないか』という
    呼びかけがあったのが、今回のこの
    『菊のやどの巻』の成立由来であります。

    もう一つ申し上げねばならないのは、
    丸谷さんと私は、歌仙というものを巻き始めてから
    すでに足掛け20年になります。
    この間数えて愕然としたわけでして(笑)      (p88)
 


 





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ともに髪の毛はごま塩で。

2022-05-22 | 詩歌
私家版の詞華集を編むとしたら、まずどれから。
そんなことを思っていたら、

桑原武夫の「杜甫の『贈衛八處士』について」
( 岩波新書「新唐詩選続篇」 p190~204 )
という杜甫の漢詩紹介文が思い浮かぶのでした。


「 中国の詩は漢字がむつかしいが、
  その意味を教えてもらえば、その内容の意味は
  必ずしもむつかしいものではない。
    ・・・・・・
  漢詩は洗練されてはいるが、
  私たちの日々の生活とつらなった、
  日常と同じ論理が支配する世界である。

  この詩は杜甫の詩の中ではわかり易いものの一つで、
  感情はごく自然な流露を示していると考えられる。  」
                     ( p194 )

こうして、詩の始まりから、各行を説明しておりました。
ここでは、行ごと①、②、③と並べて解説と原文を引用。

① 人間の生活で再会ということは困難だ。
② しかし、・・ややもすれば参と商とのようだという。
  參とはオリオン星座、商とはサソリ星座。
  前者は冬に見え、後者は夏のもの、
  つまり空に同時存在しないということから、
  会わないことの比喩につかう。
  これは杜甫の発明ではなく古くからの比喩である。

うん。原文は

① 人生不相見  人生相見ず
② 動如参與商  ややもすれば參(しん)と商との如し

原文をつづけます

③ 今夕復何夕  今夕また何の夕
④ 共此燈燭光  この燈燭の光を共にす
⑤ 少壮能幾時  少壮よく幾時
⑥ 鬢髪各已蒼  鬢髪(びんぱつ)おのおのすでに蒼(そう)
⑦ 訪舊半為鬼  舊を訪えば半ば鬼となる

桑原氏の解説をつづけます。

③ 今晩は何といういい晩だろう。
④ 旧友とこの燈燭の光を共にして、語りあかすのだ。
⑤ 青春といってもまたたくまで、
⑥ お互に頭髪は蒼(ゴマシオ)になっている。
⑦ 舊は旧友たち、鬼は死者のこと。
  昔の仲間を訪ねてみると、戦死や病死で
  半ばは故人となっている。この場合、
  舊は杜甫と衛八との共通の友だちを指している。

④の『此』についての指摘があります。

「 人生は萬人に共通な軽量的時間の連続であって、
  その上に乗って普通名詞がずっと並んでいると考えられる。

  ところが、その時間の流れの中に、
  『今、ここに、これが』という人生の有意義的瞬間がある。

  他人から見れば有意義でなくとも、
  当人には特別な瞬間と感じられるのであって、

  そのとき不定冠詞が指示形容詞に転ずるのである。
  『萬葉集』に

  『 わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも 』

  という歌がある。いささ群竹を風が吹いて渡る。綺麗だな、
  人生にこういう静寂な瞬間は、そうたんとあるものではない。

  自分の一生にも再び訪れるとは限らない。
  その気持が『この』という言葉に定着されている。 」(p198)

このあとに燈燭光への言及があり、そのあとでした。

「 その光を前にして旧友が対坐しているのである。
  そのかすかに温い光に照らされている二人が、
  
  お互の顔を見ると、『少壮よく幾時』、
  友情は変らぬが肉体は時間の影響を免れえず、
  
  ともに髪の毛はごま塩ではないか。
  燈光に照らされるとき白髪がキラッと光り、
  かえって昼間より強く印象づけられることがある。
  その感じもふまえられている。            」(p199)


うん。このまま詩後半の大事な箇所は
カットして、最後の箇所を引用します。

「・・この詩は旧友再会の喜びとはかなさを描き出している。
 その喜びとは具体的には何か、と問うならば、

 それは『燈燭光』『春韮』『黄粱』などという言葉に示される、
 平凡なそしてはかない日常的事実にすぎない。

 ただそうした平凡事が当事者にとって
 無限の美感を与え、大きな価値を生ずる瞬間がある。

 杜甫はこの詩でそうした瞬間の創造に
 見事に成功することによって、
 旧友再会の一典型をつくり出したのである。  」(p204)
  

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七・七がいいんだよ。

2022-05-21 | 本棚並べ
俳諧の本については、題名からしてわからなくって、
それだけでも、お手上げの状態なのでした。
たとえば、『毛吹草』、『武玉川』、『誹風柳多留』と
まるで、なぞなぞでも出された気分。それでも、

対談を読んでいると、少しずつ夜が明けるような気になります。
たとえば、丸谷才一・谷沢永一対談「文庫文化の過去と未来」。
そこに『毛吹草』なんてのが、説明ぬきでひょこっと出てくる。

谷沢】 昔から鞍上、枕上、厠上と言いますが、
    そういう場合に備えるということはありませんか。

丸谷】 寝酒がわりに読むには、文庫、新書は軽くていいですね。
   それと『毛吹草』という俳諧の本が岩波文庫にあるでしょう。
   歌仙を巻くときに持って行くと、非常に具合がいい。
   談林だから、ぼくの俳句の風にあうんです。(笑)
   谷沢さんは今、文庫をどんなふうに利用なさってますか。

    ( p223 丸谷才一対談集「古典それから現代」構想社 )

はい。だからって、『毛吹草』がどんなのかは分からないのですが、
なんだか、袖触れ合うも他生の縁とでもいうか、かなんというかで、
ちらりとでもわかったきになり、親しみがもてます。

つぎには丸谷才一・大岡信の『歌仙早わかり』に
武玉川・誹風柳多留とが出てくる箇所を引用して
備忘録とします。

丸谷】 季の句は、わりとつくりやすい。

大岡】 つくりやすいです。季語が入るからね、当然。
    ・・・・

    大事なのはむしろ雑ですね。

丸谷】 雑の句のことを論ずべきですね。雑の句は難しいな。

   おもしろいもので、われわれが歌仙を巻き始めたころは、
   『武玉川』が歌仙の雑の句から出ていったなんてことは、
   よくわからなかったね。いまになってみると『武玉川』に
   材料を提供した時代の歌仙はすごかったわけですね。
   ああいうのが、毎日、毎日、江戸でつくられていた。

大岡】 膨大な数あったわけですよね。たとえば、『武玉川』の
   点者は慶紀逸という俳諧師です。・・慶紀逸の時代になると、
   芭蕉の遺産である連句が、日本の津々浦々でつくられた。

   慶紀逸自身が点者として連句をたえず指導していたわけです。
   それがあまり膨大なので、ある日ふと気がついて、
   連句全体としてはつまらないとしても、
   なかに何句かはすばらしい句がある、
   
   そういうのだけ集めて、作者名を全部伏せてしまって
   本を一冊つくってみたら、これがめちゃくちゃに当たって
   大ベストセラーになった。そこで・・膨大なシリーズが
   延々と出て、全部ベストセラーになっちゃった。

   それはつまり、それを支えていた連句人口がすごかった
   ということ。連句をつくろうと思ってる連中も、
   これはおもしろいと思って『武玉川』を買っては勉強したと思います。

   そういう意味でいうと、『武玉川』という本一冊の背後に、
   江戸時代の文明開化された作者たちが実に大量にいたわけです。

   『武玉川』の最大の特徴は、月とか花ということをいっさい
   無視しちゃって、付け句のおもしろいものを全部集めたことでしょう。
   そのなかには、時々は月や花もあるかもしれないけど、
   ほとんど雑の句であること。

丸谷】 とくに人事の句。

大岡】 これが見事ですね。
   あれから川柳が出てくるわけですから、そういう意味でいえば、

   『武玉川』から柄井川柳が生み出した『誹風柳多留』へ 
   つながっていくわけです。

   『武玉川』は、五・七・五もあれば七・七もあるという、
   付け句の名作集です。七・七にすばらしいものがある。

丸谷】 七・七がいいんだよ。   
          
       ( p42~43 「とくとく歌仙」文芸春秋・1991年 )


はい。この対談のおかげで、見知らぬ俳諧本も、
そのハードルがさがって手にしやすくなります。


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富を移し変える人。

2022-05-20 | 本棚並べ
丸谷才一・大岡信という俳諧の
水先案内人と出会えたうれしさ。

うん。こういう場合は味わってゆきましょう。
二人の対談『唱和と即興』で、大岡信さんは、

大岡】 ほんとのところを言えば、連句にわれわれが
    固執しているわけじゃなくて、そういう形で、
    
    まったく異質の人間たちが出会ったときに
    見えてくるものに惹かれているのだという
    ことですよ。         
         ( p101 対談集「古典それから現代」構想社 )

はい。この対談は、初出一覧で見ると、 
1974年9月号『俳句』掲載とあります。

この『見えてくるもの惹かれて』を、
もうちょい、鮮明にして見たくなる。

17年後の文藝春秋『とくとく歌仙』(1991年)。
そのはじまりで、お二人して「歌仙早わかり」
と題する対談が、興味深いのでそこからの引用。


丸谷】・・・僕は、芭蕉の歌仙は、
   『古今集』『新古今集』を読み抜いたことによって 
   できたという感じがするんです。
   『古今集』『新古今集』の編集技術を身につけたから、

   それを今度はひとつの筋のある――筋っていうのかな――
   三十六句の筋である展開に直す。
   そうすることによって、俳諧的世界に勅撰集の富を移し変えた。

大岡】 そうですね。
    歴史はある文明から別の文明へ展開していきますけど、
    一時代の文明の言葉の面でのエッセンスは、
    だいたいアンソロジーにまとめられるわけですね。

    だから、時代がパッと変わるときに、
    必ずいいアンソロジーが出てくる。・・・・

    芭蕉たちがやった連句は、・・・
    連句一巻のなかで、そういう文明の交替していくおもしろさとか、
    あるいは受け継いできてるもののすばらしさとかを、
    一句一句のなかで現してるところがあるんですね。

    全体としては、連句の技術とは編集の技術だと思うんです。

丸谷】   そうです。

大岡】 編集という技術は、ひとつの文明を完全に集約して、
    次の時代に送り込む技術ね。

    だから広い意味でたとえば
    藤原俊成は見事な編集者だった。
    藤原定家は見事な編集者だった。
   『古今集』のいちばんの中心だった紀貫之は、
    平安朝初期の見事な編集者だった。
    そういえると思うんです。
  
    芭蕉は、元禄時代に身を置きながら、
    それ以前の文明の流れを、
    ある意味で見事に編集している気がします。

丸谷】  そうそう。
     ある意味でいうと批評家なんですね。

大岡】  最高の詩人が、最高の批評家だった。

丸谷】 ・・・・そのへんのところが、
    芭蕉の歌仙がなぜよくて、それ以後の歌仙がなぜ
    つまらないかという決定的な理由としてあるんじゃないか。

大岡】 ある時代を大きくとらえて、それに批評的に対して、
    しかも対してる自分は創作者であるということね。

    何種類かの自己を、同時に自分のなかに入れてた人
     ・・・・・・・
                    ( p40~p41 )


はい。お二人して、芭蕉の歌仙に惹かれるその魅力が
『歌仙早わかり』で、よりわかってくる気がしてくる。
そんな、17年後にして『見えてくる』対談なのでした。

うん。これで歌仙を語るひろがりのなかで、
編集者にも、自由気儘に登場してもらえる。
『どこでもドア』ならぬ『どこでも歌仙』。


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ひろがる、詩の守備範囲。

2022-05-18 | 詩歌
以前に古本で買ってあったのですが、
未読のままだった本が、読み頃をむかえたようです。

大岡信編『五音と七音の詩学』(福武書店・1988年)。
これはシリーズ「日本語で生きる」全5巻の、第4巻目。
詩にまつわる短い随筆が37も集めてある楽しい一冊で、
4章にわけてあります。題分けされた各章が楽しめます。

お気軽な体裁の癖して、堂々たる詩歌関連の随筆アンソロジー
といった結構なのです。まあ、それはそれとして最後の随筆は、
堀口大學さん「『月下の一群』白水社版あとがき」なのでした。
そこから引用。

「僕が訳詩集『月下の一群』の初版を世に問うたのは1925年9月・・
この集に収められたフランス近代詩人66家の作品340篇の訳詩は、
すべて文字どほり、つれづれの筆のすさびになったものだったのだ。

求められて訳したもの、目的があって訳したものは、
只の一篇もないのである。何のあてもなく、ただ訳して
これを国語に移しかへる快楽の故にのみなされたものだった。

後日、集大成して一巻の書にまとめなぞといふ考へは毛頭なかった。
ましてや秩序あるフランス近代詩の詞華集(アンソロジー)を
作り上げようなぞといふ野心をやである。・・・   」 ( p261 )


ここから、わたしに思い浮かんできたのは、詩の守備範囲
ということでした。アンソロジーを編むというと、
まずは、おのおの思い浮かぶ詩を、集めることになるのでしょうが、
探す守備範囲となると、なかなか思い至らない、そんな気がします。
そこで、ここに登場してもらうのは、意外な3点。

① 月下の一群
② 謡曲
③ 芭蕉七部集

はい。この3つの守備範囲は、どうでしょうか?
読んでいない私が指摘しても信憑性はないので、
ここは、3つにわけて語ってもらうことに。

① 月刊『新潮』2000年新年特別号でした。
河盛好蔵氏が「20世紀の一冊」として、この本をとりあげておりました。
はじまりは

「堀口大学さんの訳詩集『月下の一群』に出合ったときの驚きは、
 97歳の今も忘れない。・・・・

 たとえば、アポリネールのこういう詩である。

 『 働く事は金持をつくる
   貧乏な詩人よ働かう!
   毛蟲は休なく苦労して
   豊麗な蝶になる   』。

 たった四行の詩なのに、機知があって、
 新鮮で、感覚がまったく新しい。
 原詩を取り寄せて対照すればするほど、
 それが19世紀的なものから完全に脱した、
 真の現代詩であることに驚きを深め、
 ついに新しい時代が到来したと、
 胸が高鳴るのを抑えきれなかった。   」

あとは、短文の最後を引用。

「 文学の底に流れているのは詩である。
  これはごく当り前なことなのに、
  わが国の近・現代文学は、いつの頃からか
  詩と小説が分離してしまい。その傾向は今に続いている。
  私は大学さんのあの仕事にかえることが、
  今もっとも大切なのではないかと思っている。 」( p275 )


② ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文芸春秋・昭和54年)

「 私は何度も『松風』を講じ、劇詩としての美しさもさることながら、
  その演劇的な美に搏(う)たれることが多い。それのみならず
  『松風』を文学として最高のものと信じている。

  こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
  私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
  連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。

  謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
  そして、謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。
  私は読むたびに感激する。

  私ひとりがそう思うのではない。コロンビア大学で教え
  始めてから少なくとも七回か八回、学生とともに『松風』を読んだが、
  感激しない学生は、いままでに一人もいない。

  異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
  実際、どんなに上手に翻訳しても、『松風』のよさを
  十分に伝えることは、おそらく不可能であろう。

    月はひとつ、影はふたつ、満つ潮(しお)の、
    夜の車に月を載せて、憂しとも思はぬ、潮路かなや。

   ・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。 」( p57 )


③ 柳田國男著「木綿以前の事」の自序に

 「 そうして私がこの意外なる知識を掲げて、
  人を新たなる好奇心へ誘い込む計略も、
  白状すればまた俳諧からこれを学びました。

  七部集は三十何年来の私の愛読書であります。・・・ 」


はい。河盛好蔵さんは、指摘します。
 『 私は大学さんのあの仕事にかえることが、
   今もっとも大切なのではないかと思っている。 』

  ドナルド・キーンさんは、指摘します。
 『 私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
   連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。 』

 ちょっと、柳田国男の『三十何年来の私の愛読書であります』だけじゃ
 弱いかなあ。たとえば、桑原武夫さんなら、どうするか。杉本秀太郎氏は、
 桑原さんへの追悼文のなかで、こんな一場面を、切り取っておりました。

「 1982年の9月、私はパリに出かける用があり、たまたま
  パリ滞在中の桑原さんと何度かお会いした。10月に入ったのち、
  帰国直前の桑原さんをホテルにたずねていくと、
  トランクのうえに一冊の岩波文庫が投げ出してあった。

  『この文庫、ほしかったら君にあげるよ』
   と言われて手にとると、それは『芭蕉七部集』だった。

  『あれ。ぼくもこれを持ってきています』と答えると、

  驚いたような、咎めるような、しかしまた安堵したような、
  照れたような、微妙な表情が、桑原さんの顔にしばらく浮かんでいた。」

        ( p199 杉本秀太郎著「洛中通信」岩波書店1993年 )




               
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はかなくて、あっけなくて。

2022-05-17 | 本棚並べ
俳諧と、座談との、結びつきを思ったりします。
俳諧と、それから座談・対談・閑談・インタビューといろいろあります。

そういえば、丸谷才一と大岡信と、お二人は歌仙のお仲間。
その二人の対談の運びは、どのようになるのかとの興味で、
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社・1978年)を手にする。
そこに、「唱和と即興」と題して二人して対談が載っているのでした。


ここでは、最後の箇所からはじめます。

丸谷】・・近代日本文学における詩の実状を手っとり早く示しているのが、
   いいアンソロジーが、一つもなかったってことですね。つまり、
   文学と文明との間を結びつける靭帯がなかった。

   言うまでもなく、文学の中心は詩なんだし、
   その詩と普通の人間生活、あるいはそれをとりまく
   文明とを結びつけるのは、個人詩集じゃなくて詞華集、
   昔の話で言えば・・・勅撰集なわけですからね。
   
   ・・・・・・・
   眠られないときに、日本人がみんな読む、
   そういう詩のアンソロジーはないんですよ。
   詩人の仕事が今の社会の言葉づかいに対して
   貢献するというようなことはないし・・・・
   これではいけない。(笑)          ( p120 )


うん。『 詩のアンソロジー 』という視点が語られておりました。
はい。対談はこれだけじゃなくって、あれこれと豊富な内容でした。
せっかくなので、歌仙が話題にあがってる箇所も引用しちゃいます。

大岡】・・・・たとえば安東次男さんにしても、
   丸谷才一、大岡信みたいな、そういうのが連句などを
   やってるなんて話になると、すぐに文人趣味に走ってる
   ということになる。

丸谷】 それはそうでしょう。

大岡】 ほんとのところを言えば、
    連句にわれわれが固執しているわけじゃなくて、
    そういう形で、まったく異質の人間たちが出会ったときに
    見えてくるものに惹かれているのだということですよね。

丸谷】 そうですよ。             ( p100 )


うん。せっかくなのであと一箇所引用します。

丸谷】 結局、現代日本の俳人は、
    発句のはかなさね、それを知らなさ過ぎると思う。
    ・・・・・・・

    ことに明治以後は芭蕉の偉大さには、そういう
    はかなくて、あっけなくて、つまり
    吹けば飛ぶような一面があるってことを見逃してしまった。

    ところが立派なほうだけの芭蕉を捉えると、
    芭蕉の立派さがやはり痩せてきますね。

大岡】 それはありますね。           ( p98 )


対談は、歌仙のひろがりほどの、広範囲なのですが、
比べると、私の引用の、みみっちさが感じられます。
それはそうと、
『眠られないとき』と『はかなくて、あっけなくて』
の両方を引用したのでこのくらいでご勘弁ください。         
コメント (5)
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五月雨の『速し』・『涼し』。

2022-05-16 | 詩歌
ブームだと、他を巻きこむ、うねりとなりがちなのですが、
マイ・ブームなら、そんなことなく、余裕での楽しみです。

たとえば、ネット古本を注文するのに個人的な興味なら
ブームが去ったのちの安値が期待できる。なんてことで、
私は安いネット古本へと、ついつい手を出しております。

今回紹介するのは『とくとく歌仙』(文芸春秋・1991年)。
丸谷才一・大岡信・井上ひさし・高橋治の名前があります。
本のはじまりには丸谷才一と大岡信による『歌仙早わかり』
(40ページほど)が載っており、ありがたい。

「 モンローの伝記下譯五萬圓 」が載っていた「歌仙」
(青土社・1981年)からでも、10年の歳月が流れています。
お二人の実際の歌仙体験をまじえての対談『歌仙早わかり』。

はい。そこから一箇所引用してみます。

丸谷】 発句・脇句・第三に話をすすめましょう。
    歌仙の発句でいちばん大事なのは、
    現代俳句ではダメだということですね。

大岡】 端的にいうとそうなりますね。   (p11)


こうして、幾人かの俳句を引用したあとでした。


丸谷】・・・・たとえば芭蕉は、一句立ての発句と
   歌仙の発句とは違うものだということを
   よく知っていたと思うんです。

       五月雨を集めて速し最上川

   これは一句立てのときですね。歌仙のときには、

       五月雨を集めて涼し最上川

   になる。『涼し』だったら、脇がつくんです。
   『速し』だったら脇がつかないと思う。

大岡】 その、『速し』と『涼し』というのは、いい例ですね。
    芭蕉が『奥の細道』でその句をつくったとき、
    二つの案を考えたんですね。

   『涼し』の場合、『涼しい』という言葉のなかに、
   すでに他者に対する呼びかけがあるわけです。

  『おい、この流れをみてると涼しい気分になるじゃないか』
  と言っていると同時に、客を迎えてくれた主人ならび同志の
  人々の心やりの『涼しさ』への挨拶でもあった。

  ところが、『速い流れだな』という場合には、
  風景がつきはなされて描かれ、それでおしまい
  という感じになるわけですね。

  発句というのは一句できちんと立ってなければいけない、
  丈高くたっている必要がある。・・・・
  その丈高いことは、威風堂々とあたりをはらってることだけど、
  同時に・・その丈高い姿がけっして猛々しくはなくて、
  むしろどこかに柔らかさを含んでおり、他人への呼びかけがある。

  その呼びかけの言葉も、・・言外の余情として他の人に呼びかける、
  そういう気持ちが含まれてることが、
  連句の発句では必要な条件だったと思うんです。

  さっき丸谷さんがあげた現代俳人たちの作品は、
  そういう意味では、言い切っている。
  きびしく自分の世界を守っていて、
  他の人が近づくことをむしろ拒否するところで、
  丈高さを競ってると思うんです。

丸谷】 そうなんですね。        ( ~p14 )


はい。何だか、この箇所を忘れられないので引用しました。
コメント (2)
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質的な『思いつき』をとても大切に

2022-05-14 | 柳田国男を読む
安野光雅対談「ロジックの詩人たち」(平凡社・1982年)
を古本で手にする。うん。手にしてよかった。
15人の対談相手に、一人一人の人物を語りあっております。
といっても、私が読んだのは、2つの対談。
伏見康治氏との対談の題は『寺田寅彦』
吉田直哉氏との対談の題は『柳田国男』
はい。これだけで私は満腹。
腹ごなしにこの対談を紹介。

うん。まずは吉田直哉氏との対談からいきましょう。
その最後の箇所でした。

安野】 私はね、柳田国男の世界は、ジグソーパズルだと思う
    ことがあるんです。柳田国男はジグソーパズルの破片を見て、
    これは森の部分、これは空の部分と
    非常に直感的に看破する天分をもっている。
    ・・・・・・

   その破片が森なのかどうか、実際にはめてみないと
   わからないところがありますね。
   自分ではある程度の集合を作っておいて、あとは
   宿題だよって柳田国男から問題をだされた感じがする。

吉田】 柳田国男という人は『偉大なる問いかけ』をばらまいた人
    だったと思います。そして、こっちが答を出すと、さらに
    上回った問いかけがまた置かれている。

   『あれ、いけねえ』、と思うような問いかけがまた置いてある。
    こんな偉大でいやな人はいないと思いますね。まさに
   『良い問いは答よりも重要だ』という言葉どおりです。

安野】 柳田国男を評して『偉大なる未完成』といった人がいるけれども、
    やる気がある人間から見れば、『偉大なる問いかけ』なんですね。

                     ( p76~77 )


う~ん。「やる気がある人間」じゃないと見えてこないことがある。
と、私なりに自己診断するばかり。

うん。つぎに伏見康治氏との対談なのですが、
引用したいことがありすぎるときは、削って、
まあ、意味不明瞭でもすこしだけ引用します。


伏見】私が大学で寺田(寅彦)教授の講義を聞いたころ、
   東京大学新聞に、菅井準一という科学評論家が
   寺田物理学を批判した文章がのったんです。それは、
   
   『寺田物理学は小屋掛け学問である』というしんらつな批判だった。
   つまり、ちゃんとした建築ではない、要するに小屋掛けにすぎないと。

   着想はおもしろいけれど、着想だけに終わっていて、
   少しも深く掘り下げていないということなんです。

安野】 私は寅彦ほどの着想なら着想だけでもいいと思いますね。
    ・・・・・・・・

伏見】 そうでしょ。寺田物理学というのは日本の生んだ
    一つの大きな『動き』だと思うんです。

    科学についての彼の考え方は、精密な数値的な決定より先に、
    自然界の現象が現象として『在る』ということを確立する
    ことであるということなんです。だから

    『在る』ということを確立するために必要な、
     質的な『思いつき』をとても大切にしたわけです。

                    ( p43 )


はい。これは対談の破片なのですが、
横着にもこれだけでよしと終ります。
対談『ロジックの詩人たち』はよい、
なんてまだ2人の対談しか読んでない。

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