和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

曲がつくと、詞が歌になる。

2023-04-30 | 詩歌
安野光雅・藤原正彦対談「世にも美しい日本語入門」
 ( ちくまプリマ―新書・2006年 )を古本で購入。

対談なので、私みたいなパラパラ読みには最適。

「安野光雅先生は、私の小学校時代の先生である。」
     ( p7 藤原正彦のまえがき )

話が多岐にわたっているので、
パラパラ読めば、そのままに、パラパラと忘れそうです。

ここには、第五章「小学唱歌と童謡のこと」を引用。

藤原】 私は、小学唱歌や童謡の大切さを
    どんなに強調しても、したりないと思っています。 (p82)

はい。漠然と思っていたことも、こうはっきりと
語ってもらうと、何だかホッとして拍手をしたくなります。

藤原】 ・・小学校での音楽というのは・・
    文化の継承という意味もあります。繰り返し言いたいのですが、
    
    子と親、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなで歌える
    歌がなくなってしまうというのは大きな損失です。   (p86)



藤原】 そうですね。文語体入門としていいですね。
    唱歌とか童謡には文語体が山ほどあります。・・・

安野】『 われは海の子 』という意味は、口語では言えないですね。
   舞台に上がったような気持ちで、高揚した気分になれば言える。(p89)



藤原】 明治から大正、昭和の初めにかけて、モラエスというポルトガルの
    作家が徳島に住んでいました。彼は日本人は歌ばかり歌っていると
    いうんですね。

    大工はトンカチを叩きながら歌う。
    お母さんは洗濯をしながら歌う。
    行商人は歌を歌いながらやってくる。
    子ども達は学校の行き帰り、歌を歌っている。

    こんなに歌ばかり歌っている国民はないとびっくりしている。
    それが今では、街から歌声が消えてしまいました。
    唱歌や童謡という素晴らしいものを失ったツケが出てきたんですね。
                              (p91)


安野】 ・・・とにかく、曲がつくと、詞が歌になる。
    あたりまえのことのようですが、

    詞を読んだだけでは理屈っぽいのに、
    曲がつくと理屈抜きで感じとれるものになる。

    頭を通って体に入っていた詞が、曲がつくと
    咽から丸ごと飲み込んででもいるかのように、
    体に入ってくるんです。            (p95)


うん。最後に、蛇足だと言われようと、ここを引用しなくちゃ。


藤原】 ・・・私は、懐かしさのよくわからないケダモノのような
    三人の息子たちに、子ども時代の歌をよく聞かせます。

    ・・どんどん聞かせます。皆で車で出かける時など、
    古い歌ばかり聞かせます。家で、昭和五年の『日本橋から』を
    レコードで聞かせたことがあります。

   『お江戸日本橋、師走も暮れる・・』というものです。
    関種子と佐藤千夜子のものがあり、両方とも三回ずつ聞かせました。

   我が家はスパルタです。最初は『古くさい』などと言っているのですが、
   何度も聞くうちに好きになってしまって、ある日、   
   二階に上がっていったら、誰かが『お江戸日本橋・・・』と
   口ずさんでいるんです。大学院に行っている長男が
   口ずさんでいたのです。 しめた! と思いました。

   祖父母の青春時代が蘇ったのです。情緒教育として、
   唱歌、童謡、それから昔の歌謡曲も含めて
   素晴らしい教材です。歌詞が何しろいい。・・・  (p97~98)





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塩みたいなもの。

2023-04-29 | 他生の縁
司馬遼太郎の追悼文では、多田道太郎氏の
「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」が印象に残っていました。

そこに、わかったようなわからない箇所がありました。

「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させてもらったら、
 こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で風景も覚えているんですが、

 『 司馬さん、このたびはおめでとう 』と言ったら
 『 いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・ 』。

 その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、

 『 この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。
   これがなくなったときは・・・あるいは芸術家として、しまいや 』

 と、その自覚のある人でした。   」
 ( p158~159 三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」講談社・1996年 )

この『塩みたいなもの』というのが印象的なのですが、
なんだか、モヤモヤしていてわからなかった。

今思うのですが、それって、豆腐を固めるニガリのことじゃないのか?

いまだに、言葉にならずに、モヤモヤして空気に漂っている、
それをどのようにして固めて言葉にして出せるのか?

それを凝固させるニガリのことを『 塩みたいなもの 』と
言ったんじゃないか?

たとえばです。今めくっているバーバラ・ルーシュさんの中世でいえば、

『わたくしの考えでは、日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
 いちばんはっきりとした形で現れていると思われる。・・』(p105~106)


こう指摘する『国民性』について、バーバラさんは語ります。

「・・日本の中世小説をアメリカの大学院の学生に読ませたときの
 反応を披露したいと思う。彼らは、物語が終わりに近づくまで、
 ときには深く感動し、結構楽しみながら読む。

 しかし、物語が終わりに近づくにつれて態度が急に変化し、
 読み終わるや否や怒り出すのである。

 なぜ、この主人公はああしなかったのか、
 あんなに苦しんで努力したのに、なぜ最後に運命に身を委ねたのか、

 なぜ最後まで自分に忠実であろうとしなかったのか、
 というような質問を発し、物語の終わり方に納得しようとしない。

 こうした反応を目の当りにするたびに、
 わたしはいつも国民性の違い・・を痛感する。・・ 」(p105)


それでは、この場合のニガリは、どこにあるのか?
うん。よくわからないけれど、たとえば、こんな箇所が思い浮かぶ。

「 結局のところ、中世文学の中心的な原動力は
  運命であり、野心ではなかった。

  つまり、室町文学の神髄は
  時代にふさわしい秩序の回復であり、
  下剋上ではなかった。        」 (p148)

( 以上は、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」思文閣出版より )

 







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この季節になるとね。

2023-04-28 | 本棚並べ
林望著「幻の旅」(マガジンハウス・1993年)が
古本で200円。つい買ってしまう。

パラリひらけば、
はじまりには、朔太郎の詩『旅上』が引用してある。
そこから、断片引用。

「 汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに。 」(p3)

本文の最後の文は『並木道』で、
そのはじまりは

「地下鉄の駅を出ると、青葉の匂いがした。
 五月の光は、背の高いケヤキの並木に萌えいでた
 浅緑色の若葉から洩れて、ちらちらと涼しい道の上に降ってくる。」

パラリとひらけば、そこにはこんな箇所。

「『僕はいつも思うんだ、この季節になるとね。
  一年の内で、もっとも美しい木々の風景は、
  
  満開の花でも、燃えるような紅葉でもなく、
  この新緑、いま僕と君の目に映じている
  この景色じゃないかって・・・      」(p34)


はい。林望が教えてくれている『五月』。

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『徒然草絵巻』の海北友雪。

2023-04-27 | 本棚並べ
世界文化社の「グラフィック版 徒然草 方丈記」(1976年)。
はい。この本を古本で持っております。
28センチ×23センチ。厚さ2センチ。函入り。
はい。リッパですが、古本は安かった。
最初は、方丈記の箇所が読みたくて買ってありました。
最近は、徒然草の箇所の絵をみたく、身近にあります。
その時代の絵が挿入されていて、絵をみたくって開く。
たとえば、
「女の白い脛を見て通力を失った久米の仙人」(徒然草絵巻・海北友雪筆)。
「いきいきとした庶民たちの風俗」(御輿振(みこしぶ)り・前田青邨筆)
そして、徒然草絵巻がはいりながら
「何事も 古き世のみぞ」昔がなつかしくしのばれる(奈良絵本徒然草)
絵ではほかに、「一遍上人絵伝」や「加茂競馬図」「平家納経」の図と
文字をおわなくても、パラパラと絵をひらいているだけで楽しくなる一冊。

このなかに、
「徒然草絵巻・海北友雪筆」とあるのが気になっておりました。

海北友雪の父親は、海北友松。
ここには、海北友松をとりあげてみることに。

「友松は浅井長政の武将であった海北善右衛門綱親の末子として生れ
 幼くして禅院にあずけられる境遇となった。」(武田恒夫「友松の画業」)

「元亀元年(1570)織田信長により浅井家は滅亡、海北家も運命をともに・」

この海北友松は、「83歳という当時としては珍しい長寿を全うした」

「大阪陣で豊臣家が滅亡する直前、慶長20年6月2日に友松は世を去った」

(以上は、「近江の巨匠 海北友松」大津市歴史博物館・平成9年より引用 )

以下には、「海北友松(かいほうゆうしょう)」
 (京都国立博物館・開館120周年記念特別展覧会のカタログ平成29年 )
から引用してみます。

「慶長18(1613)、友松は秀吉や家康の御伽衆を務めた山名豊国(号は禅高)
の求めによって『○○○○押絵貼屏風』を制作した」(p44)

このカタログには「人物相関図・略図」と説明がありました。
そこに登場する名前がありました。

斎藤利三・・・明智光秀の重臣で、海北友松の親友。
       本能寺の変の咎で処刑される。
       娘・福はのちの三代将軍徳川家光の乳母・春日局。

春日局・・・・斎藤利三の娘。友松の息子・友雪を
       幕府御用絵師に取り立てる。


うん。せっかくなので、海北友松について
京都国立博物館の山本英男氏の「孤高の絵師 海北友松」から
最初の方を引用しておくことに。

「・・見るにつけ、つねに思うのは、
 きわめ個性的な画風の持ち主であったということだ。

 凄まじい墨気を発散する水墨画にしても、
 優美で洗練された大和絵画風の金碧画にしても、
 どの絵師のそれとも似ていない、
 友松独特の世界が披瀝されている。

 しかもそれらは彼の没後400年を経た今でも何ら色褪せることなく、
 われわれを魅了し続けているのである。

 画のもつ力、そしてそれを手掛けた絵師の力が
 これほど強く感じられる例は少ないのではないだろうか。・・  」

  ( 京都国立博物館開館120周年記念特別展覧会のカタログ p8 )


はい。海北友雪は、いつかまた
『徒然草絵巻』との関連で語れますように。
とりあえず、海北友松を紹介でき満足です。
 
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絵本と徒然草。

2023-04-25 | 本棚並べ
紫紅文庫に、『奈良絵本』の上下巻。
その帯には、「 かつて奈良絵本は『テレビ』だった――
        江戸時代の人々を魅了した傑作を集大成 」とある。

文庫で、小さいながら、カラー絵なのがうれしい。
パラパラめくっていると、下巻には「徒然草」も入っている。
う~ん。工藤早弓氏の「はじめに」はこうはじまっておりました。

「本来の奈良絵本には、未完で荒けずりな魅力がある。
 奈良絵本が発生した中世の半ばは、古代の影を背負いながら
 近世へとむかう人々の、混沌とした生への息吹に満ち満ちていた。

 それは言い換えるなら、〈 もののあはれ 〉から〈 をかし 〉
 の世界への転換期だったのである。・・・  」

この本の下巻に登場している「徒然草」は
江戸時代前期~中期のもので、説明には

「漆塗りの元箱に入った極美本。
 流布しているものと同文だが、
 長い章段になると省略している個所もある。
 『徒然草』そのものを読むというより、
 絵本として楽しむために作られたようだ。
 持ち主はやんごとなき姫君か、若殿だったろうか・・ 」(p204)

うん。江戸時代になると、嫁入り道具に入っていたりしたそうです。
室町時代とは、だいぶ変遷があるのでした。

ところで、徒然草といえば、思い浮かぶ言葉がありました。

「 平安、鎌倉は説話文学の全盛期です。
  説話文学の本の名前を挙げていくだけで・・十以上ある。
 『今昔物語』もここら辺です。

  ところが、たくさんある説話文学のほとんどを兼好が引用していない。
  知っていたはずなのに、それを一切退け、そこに書いてないことを
  書いてやろうという独創性を意識している。

  今回、調べて、そこまで徹底していたかと感心しました。
  兼好の作家魂といいますか、表現意欲といいますか、
  それは並々ならぬものであったと思います。 」(p12)

これは対談での谷沢永一氏の言葉でした。
( 渡部昇一・谷沢永一対談「平成徒然草談義」PHP研究所・2009年 )

うん。この文庫の帯にある
「かつて奈良絵本は『テレビ』だった・・」を敷衍すれば、江戸時代には
とうとう、徒然草も映像化されたのか、といったところでしょうか。
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まったくおめでたい話。

2023-04-24 | 本棚並べ
本を読むのですが、すぐ飽きる。
すぐ飽きても、また潮が寄せるように、
おんなじ本を読みたくなることがあります。

はい。そういう自分なりの興味の移り気がわかってくると、
読まなくても関連古本があれば買っておく習慣がつきます。

関連古本には、御伽草子もありました。
この機会に、購入古本のまとめとして、
読み齧りして御伽草子を取り上げます。

岩崎書店の日本古典物語全集17・市古貞次著「おとぎ草子物語」(昭和50年)
この解説で市古氏は、こう指摘されておりました。

「 たくさんあるおとぎ草子の中で、
  室町時代から江戸時代へかけて、もっとも読者から
  よろこばれたのは『文正(ぶんしょう)草子』という作品でした。 」

「常陸の国(茨城県)の鹿島の大宮司(神主)の家に奉公している
 文太(ぶんた)という下男が、ひまを出されて、海岸で塩焼き(製塩)を
 はじめました。・・・  」

この文太(後に名を文正にかえる)の出世話なのでした。

「・・この本のはじめには、
 『 世の中で、めでたいことは多いが、文正ほどめでたい人はない 』
 と書いてありますし、おわりにも、
『 まずまずめでたいことのはじめには、この本をごらんなさい 』
 と書いてありますが、まったくめでたい話なのです。

  それが正月の本の読み初めには、
  みんながこの本を読んだということです。・・・  」(p294~295)


ここいらあたりを、バーバラ・ルーシュさんはこう語っております。

「たとえば、主人公が大変成功し出世するというおめでたい物語
 『文正草子』を例にとってみよう。

 この物語は、江戸時代に入ってから、読み初(ぞ)めという
 古くからの年中行事の一つとして、お正月にそれぞれの家庭で音読された。
 
 これは、この物語が成功を語るがゆえに、それを読めば自分たちも
 成功すると人々が信じていた証拠だと思われる。

 このような、書物のお守り的性格、あるいは魔術的性格は
 日本の中世に独特な現象ではなかった。

 たとえば、中世のヨーロッパでは、書物自体が人々を病気から守り、
 また戦争で勝利をもたらすと信じられていたのである。・・・

 ・・・わたくしがいいたいのは、中世小説を盛る器ともいえる
 奈良絵本の世界の独特さである。奈良絵本の世界は生きた世界で、
 一つの有機物といえる。当時の日本人は、この世界のなかに、
 無意識のうちに自分たちの性格にぴったり一致した物語を入れたのである。
 ・・・・

 しかし、残念に思うのは、この世界の存在が今日の日本人から
 忘れ去られてしまっていることである。・・・・・

 逆に『中世小説って何でしょうか。』と問われる次第である。
 たとえば、『御伽草子ですよ』と答えると、
 『ああ御伽話ですか』という始末である。

 確かにのちに子供のために御伽話に書きかえられた話もあるが、
 これを聞くたびにわたくしはがっくりしてしまう。と同時に、

 中世の日本人が創ったこのすばらしい世界を、現代の日本人が、
 これほどまで無視してしまってよいのか、わたくしは非常な疑問を感じる。

 今後、すばらしい発展を遂げてゆくためにも、
 また、その発展の方向を定めてゆくためにも、
 国民性を知ることはとても重要だと思われる。

 そのためには、日本人の国民性のルーツともいうべき 
 奈良絵本の世界をもっと大事にする必要があるのではないだろうか。
 ・・・           」( p107~110 )
  (バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」思文閣出版・平成3年)


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『シンデレラ』と『鉢(はち)かづき』。

2023-04-23 | 本棚並べ
御伽草子の『鉢かづき』をひらく。

清水義範の現代語訳『おとぎ草子』(講談社「少年少女古典文学16」1992年)
「じつはこの鉢かづきの話は、日本のシンデレラなんていわれているのだ。」
    ( p89 「清水義範:おとぎ草子。ねじめ正一:山椒大夫 )

「考えてみればひじょうによく似ている。どちらも継母にいじめられて
 苦労する話である。・・・

 そして、シンデレラは、かまどで炊事をする役をおしつけられ、
 毎日火をたくのである。風呂番をした鉢かづきと、
 やらされることまで似ているではないか。

 そういうわけで、シンデレラはかまどでまっ黒けなのである。
 シンデレラは、『灰だらけのエラ』という名で、つまり
 『灰だらけ姫』とか、『灰かぶり姫』という意味である。

  鉢かづきも、そうだったのである。・・        」( ~p90 )


はい。あまりシンデレラにかかわると、先へすすめません(笑)。
鉢かづきは、継母にいじめられ、家を出なければならなくなります。
それはそうと、はじまりでした。ここも清水義範の現代語訳で

「『河内(かわち)の国の交野(かたの)』(いまの大阪府東部)
 というころに、備中守さねたかという人が住んでいた。
 お金持ちで、教養があり、なんの不自由もなく暮らしていた。

 その奥方は、これも和歌などの教養もあり、
 月の美しさに感動する心をもった、申し分のない人であった。」

この奥方が亡くなり、継母が来てから、鉢かづきは家を出されます。
そして、川に流されたりして、ゆくあてもなく歩いているのでした。
以下は、永井龍男の現代語訳で引用をつづけます。

「・・鉢かづきが通りかかったので、中将は・・素性を尋ねると、

 『 わたくしは交野の辺に住んでいる者でございますが、
   母親に早く死に別れ、その上頭の上にこんな鉢をのせた
   かたわになりましたが、あわれをかけてくれる者もないままに
   家を出て、あてもなくさまよい歩いております。 』

   ・・・
 『 これからどこへ行くつもりか? 』と、中将は尋ねる。

 『 どこといってあてもございません。
   こんなかたわ者では、だれも気味悪がって、
   可哀そうにと言ってくれる人もありません 』

  と言うので、中将は、

 『 こういう変り者の娘がいるのも面白かろう 』

 と、鉢かづきを自分の屋敷においてやることにした。

 『 何か身につけた技能でもあるか? 』と、尋ねると、

 『 亡き母から習いましたのは、琴や琵琶、和琴、笙、篳篥(ひちりき)
   などの音楽や、万葉集、古今の和歌、伊勢物語やお経を読んだり
   することばかりで、ほかにこれという能もございません 』というので、

 『 それでは、湯殿の番でもするがよい 』と、中将が言いつけた。

 鉢かづきは、寄るべない身であれば、これもうき世のならいとあきらめ、
 今までしたこともない湯殿の火たき女として働くことになった。
 家人に気味悪がられたり、なぶられたりしながら、
 朝は暗いうちから夜更けまで・・・・           」

         ( p53~55 「お伽草子」ちくま文庫・1991年 )

はい。ここからが、御伽草子『鉢かづき』の山場なのしょうが、
私の興味はここまでとなります。

最後は、私が印象残る箇所を、原文で反芻してみることに、

「 ・・・
 『 身の能(のう)は何ぞ 』と宣(のたま)ひければ、

 『 何と申すべきやうもなし。母にかしづかれし時は、
   琴・琵琶・和琴(わごん)・笙(しょう)・篳篥(ひちりき)、
   古今・万葉・伊勢物語、法華経八巻、数の御経(みきょう)
   ども読みしよりほかの能もなし 』

 『 さては能もなくは、湯殿(ゆどの)に置け 』とありければ、

 いまだ習わぬことなれど、時に従ふ世の中なれば、
 湯殿の火をこそ焚かれける。              」

   ( p169 全訳注桑原博史「おとぎ草子」講談社学術文庫・1982年 )

この学術文庫での、鑑賞で桑原氏は、こう指摘されておりました。

「 また、なにか特技はと問われて、
  管弦のわざと書物による教養とを正直にいっても、
  
  相手は実用的な技術を期待しているので、
  能なしと判断されるくいちがいも、おかしい所である。

  その結果として、湯殿の火を焚く運命に見舞われるのは、
  悲しいことでもあるが。               」( p173 )
 






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千年の時空と浦島太郎。

2023-04-22 | 古典
本は買えど、本を読まず。読まないけれど、
それでも、とりあえず本はとって置きます。

はい。本棚にちょうど読み頃な本がある。
『お伽草子』(ちくま文庫・1991年)。
うん。ここは目次を紹介

  文正草子   福永武彦訳
  鉢かづき   永井龍男訳
  物くさ太郎  円地文子訳
  蛤の草紙   円地文子訳
  梵天国    円地文子訳
  さいき    円地文子訳
  浦島太郎   福永武彦訳
  酒呑童子   永井龍男訳
  福冨長者物語 福永武彦訳
  あきみち   円地文子訳
  熊野の御本地のそうし  永井龍男訳
  三人法師   谷崎潤一郎訳
  秋夜長物語  永井龍男訳


どうやら、今は古本でしか入手できなさそうです。
それはそうと、ここは最後の解説の織田正吉氏の文を紹介。

「・・・浦島説話は長い生命を持つ伝承の一つである。
 文献に現れたものでは『丹後国風土記』『日本書紀』がもっとも古く、
『万葉集』の高橋虫麻呂の長歌などにも見えるから、少なくとも
 千二三百年の生命を持つことになる。・・・   」 (p328)

「・・『お伽草子』はいわゆるお伽話の草子ではない。
 それは室町時代から江戸時代初期にかけて、
 戦乱の時代を背景に生まれた無数の物語群のことである。・・」(p329)

この解説は、いろんなことが詰まっているのですが、
飛び越して、解説の最後の場面を引用しておきます。

「・・短時間に要領よく読者の感情を刺激する仕掛けは、
 現在のテレビ、劇画に代わるものと見てよい。

 表現が紋切型で描写がはなはだ物足りないのは、
 相当部分が絵でおぎなわれているためだと思わなければならない。

 物語のほとんどはご都合主義、出世する者はあれよあれよという
 うちに出世する。主人公の性格、知能の程度など前後矛盾してこだわらず、
 現代の小説感覚からすれば幼稚きわまるものだが、

 そこで語られる話は心理の深層に潜むさまざまな欲望や情念、恐怖、
 復讐、残忍、笑いなども含めてあらゆる感情を刺激することにのみ
 奉仕している。それは近代の小説がリアリズムの陥穽にはまって
 衰弱し、どこかに置き忘れてきた部分である。

 時間の篩(ふるい)にかけられ、
 無数の小説が死屍累々の惨状を呈しても、
 浦島は千年を隔ててしぶとく生き残る。

 この現象を何と見ると問われて、
 お伽話と小説は違いますというのは腰が引けている。
 玉手箱の中に入っているのは、案外、物語のおもしろさとは何か
 という現代人への素朴な質問状なのかも知れない。   」(p333)



ちなみに、
織田正吉著「日本のユーモア2 古典・説話篇」(筑摩書房・1987年)に、
『御伽草子』(p170~187)の箇所がありました。




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五行ほど読むと。

2023-04-21 | 古典
今年のはじめ、大村はまを読もうとしていたのに、
あれよあれよと、今は御伽草子。

大村はまの講演「教えるということ」で
私に忘れがたい箇所がありました。そこを反芻することに、

「・・子どものなかには、
 どうかすると五行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。

 五行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。

 こんな集中力のない子どもがだれとだれなのかおわかりですか。
 一字一字見ている子どもと、ひとまとまりのことばを
 ちゃんととらえるように成長してきた子ども、

 それはいつごろからかご存じですか。いつごろといえば、
 小学校にはいった始めごろ、すでにそうなってくる
 子どもが、今、たくさんいます。・・・        」
        ( p39 「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

はい。ここを読んだときに、この『こんな集中力のない子ども』。
これは、私だと思いました。ここに、私がいたと思いました。

マンガとテレビの中で育ってきたので、
まとまった小説なんて、ちっとも読めないできました。
そんなわけで、何ページ読むか? それは私の気になるテーマです。

さてっと、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」に
『源氏物語』をとりあげたこんな箇所がありました。

「日本人に向かって、『源氏物語』について説明する必要はないと思うが、
 びっくりするのは、日本人が意外なほどこれを読んでいないということである。

 ・・・それじゃひとつ読んでみましょうという人が、ときたま現れるが、
 次の機会に尋ねてみると、実は現代語訳で50ページほど読んだのですが、
 退屈で退屈で放り出してしまいました、とまた頭に手をやるジェスチャー
 を見せる人が多い。

 トルストイにせよプルーストにせよ、どんなにすばらしい小説でも
 最初の50ページほどは退屈なものである。・・・        」
                        ( p96~97 )

そしてバーバラさんは、こう書いておりました。
「 わたくしはいまでも、あのすばらしい『源氏物語』
  を読み終えたときの感動をよく憶えている。    」( p97 )

う~ん。そういわれても、私は読まないだろうなあ。けれども、
マンガやテレビや映画に近い御伽草子ならば親近感が沸きます。

バーバラさんの「奈良絵本」へ言及した箇所があります。

「いま奈良絵本という言葉を使ったが、不思議なのは、
 ほとんどの中世小説がこの奈良絵本の形で残っている事実である。

 奈良絵本とは、簡単に説明すると、15世紀から18世紀にかけて
 多く現れてきた、文章とさし絵の入った、版本でない手書きの
 書物のことを指すが、絵巻の形式も存在する。・・・・

 たとえば、さし絵を見ただけでも一流のプロが描いたものから
 まったくの素人の作品まで・・いろいろな人たちがこれらの
 製作にたずさわったことと思われ、また文章についても、
 多くの種類の人たちがこのような作品に関与したと考えられる。」(p 106 )

このあとに、ヨーロッパやアイルランド、チベットやインドにも
共通する結びつきを紹介したあとに、こうありました。
うん。最後にそこを引用。

「 その結果、中世のあらゆる階層の人たちは、
  無意識のうちに絵と文章が渾然一体となる世界を受け入れ、
  奈良絵本の世界を創り上げていったのではないかと思われる。

  ・・・奈良絵本の世界は生きた世界で、一つの有機物といえる。
  当時の日本人は、この世界のなかに、無意識のうちに自分たち
  の性格にぴったり一致した物語を入れたのである。

  この世界は、もはや平安文学の世界ではなく、新しい世界なのである。
  ・・・わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
  この奈良絵本のなかに、日本人の創造性の一つを見る。   」(p109)
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御伽草子への継子(ままこ)いじめ。

2023-04-20 | 古典
水曜日は出歩ける、私の自由時間。一日よい天気でしたから、
主なき家の庭や道路脇に伸びているスギナを午前午後またいでの草刈り。
帰りはコンビニで缶ビールを買って帰る。

家などのまわりの槙の木のほそば下にスギナがのびて
うっとうしい感じでしたので、草刈り機の雑な素人作業でしたが、
とりあえず何となくやった感の一日でした。行き帰りの農道には、
水をはった田んぼに苗が植えられていたりそんな今日この頃です。

え~と。御伽草子に関連してとりだしたのは、
バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」(思文閣出版・平成3年)。
私が買ったのはもちろん古本でした。
その古本には、新聞の切り抜きがはさまっておりました。

はい。その1991年(平成3年)11月16日の朝日新聞
記事は
第一回南方熊楠賞の人文科学・熊楠賞を受賞したバーバラ・ルーシュさん、
とあります。はい。記事のはじまりを引用。

「 賞の決め手になったのは、この6月刊行された
  『 もう一つの中世像 』(京都・思文閣出版刊)の業績。

  わが国の中世を『下剋上時代』、『暗黒時代』など、手あかのついた
  キーワードで語ってきた従来の歴史観の見直しを迫る力作だ。
  わかりやすく、巧みな文章は
  日本人の翻訳ではなく、バーバラさん自身が書いた。・・・    」


この本のなかの「 奈良絵本と貴賤文学 国民性のルーツを求めて 」
という17ページほどの文を読んでみました。

ご自身を「わたくし自身が天邪鬼(あまのじゃく)的な性格」(p97)
として、日本の中世への興味を語りはじめておりました。

「中世文学については、詳しく勉強したのは連歌と謡曲についてだけである。
 というのは、中世文学では、和歌、連歌、それに謡曲だけにしか
 高い評価が与えられてなかったからである。つまり中世小説は、
 ほとんど読む価値のないものとして軽んじられていたのである。 」(p98)


「 日本文学の研究のなかで、中世小説は、
  ある意味で継子(ままこ)いじめされていたといえるだろう。」(p98)

このつぎに、平家物語への言及があるのですが、そこをまたいで、
そのつぎは、こうあるのでした。

「 面白いことに、熊野比丘尼と絵解法師は、
  絵を見せながら語り聞かせたのである。

  彼らは、人の集まるところならどこへでも出掛けるといった、
  旅に生き、旅に死すタイプの宗教的芸人だった。

  これは重要なことである。というのは、
  一つの語り物が一か所だけでなく、彼らが旅するところ、
  つまり全国に広がったということを示しているからである。

  この現象は、とりもなおさず、彼らの語る物語がいろいろの
  階層の日本人に受け入れられたということを示唆している。

  受け入れられないものや愛されないものを、
  日本全国にもってまわるということは不可能であろう。

  もし受け入れられなかったならば、彼らは
  その物語を語ることを止めたに違いないし、また改作したかもしれない。

  そしてだれからも愛されるように、観客の好みに合わせて、
  また必要に応じて、少しずつ変えていったかもしれない。  」(p102)


「 これらの作品は人びとにショックを与えたり、
  また革命的な思想を吹き込んだりするようなものではない。

  これらは、人びとが何度も何度も聞きたい、
  あるいは読みたいと願うテーマから成っており、

  何度聞かされてもまた読んでも、決して飽きたりしない、
  それどころか、人びとに安心感と慰みを与えるのである。

  なぜかというと、これらの作品の内容が国民性と一致しているからである。
  したがって、これらの物語は外国人に最も理解され難いものかもしれない。」
                             (p103)


「 わたくしの考えでは、日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
  いちばんはっきりとした形で現れていると思われる。

  この時代は、いわゆる御伽草子の時代でもあり、
  奈良絵本という絵入りの冊子本が登場した時代でもある。

  しかし残念なことに、この絵入り物語は、
  平安時代や江戸時代の文学や絵画の作品と比較してみると、
  いちばん一般の日本人に知られていない、また研究されていない分野で、

  いまだに国文学者のなかにも、御伽草子とは室町時代に単に子供と
  女性を対象にして書かれた作品だと考えている人がいるくらいである。

  いままでの説明から、これがいかにいいかげんな解釈であるか
  おわかりいただけると思うが、国民性のルーツともいえる
  中世小説は過小評価されすぎているのではなかろうか。  」(p106)


はい。あと一か所引用して、おわりにします。

「 やはり、紫式部から井原西鶴までの五百年間は空白ではなかった。
  日本人はフィクション、つまり小説の世界で、
  すばらしくクリエイティブなものを創っていた。

  わたくしは、この中世小説のなかに、
  御伽草子のなかに、この奈良絵本のなかに、
  日本人の創造性の一つを見る。            」(p109)




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おとぎ草子の浦島太郎。

2023-04-18 | 本棚並べ
岩波少年文庫の大岡信「おとぎ草子」(1995年)が手元にあるのでひらく。
この少年文庫は一寸法師で始まり、次が浦島太郎、さらに鉢かつぎ・・・。

はい。この機会に、浦島太郎が玉手箱をひらく場面を引用。

「・・そもそもこれは、あの亀が竜宮で過ごしたあいだの浦島の歳を、
 報恩の心をもって一年一年ていねいに箱の中に畳みこんでくれていたのだ。

 さてこそ太郎は、七百年の齢(よわい)をも保ちえたのであった。
 開けるなとあれほどいましめられたのに、ついに開けてしまうとは、
 まことにしょうのないしわざだった。されば後世の恋歌にも言う通りである。

   君にあふ夜は浦島が玉手箱あけてくやしきわが涙かな
    ( あなたに逢う一夜とは 浦島の玉手箱も同然です
      夜はたちまちあけて(開けて・明けて)しまい
      わたくしはくやし涙にくれるのです )

  ・・・浦島は鶴に変わり、神仙の住む蓬莱山にゆうゆうと舞う身となり、
  亀は亀で、おどろくなかれ万年の寿命を生きるという。
  さてこそめでたいものの筆頭を『 鶴亀 』という。・・・

  浦島太郎はその後、丹後の国に浦島の明神となって顕(あらわ)れ、
  衆生をお救いなさった。亀もまた同じところに神として顕れ、
  夫婦の明神(みょうじん)とおなりになった。
  まことにめでたい話であった。          」(p36~37)


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詩と散文。

2023-04-17 | 古典
角川ソフィア文庫『飯田蛇笏全句集』(平成28年)の
井上康明解説のはじまりのページにこうありました。

「 生涯、散文に関心を抱きつづけた。蛇笏の俳句は、
  幅広い文学の裾野のなかから生まれていることがわかる。 」(p721)

うん。気になったので、
「飯田蛇笏集成」第六巻随想を古本で注文するとすぐに届く。
第六巻の巻末解説は竹西寛子。そのはじまりにこうありました。

「飯田蛇笏の随筆を、まとめて読む機会に恵まれた。・・・

 喚起される力は強く、促される思考は多様で、・・・・

 現代俳句の代表者飯田蛇笏は、かつて、
『 現在、わたくしに於ける文学のすべては、俳句と随筆である 』
 と明言した。            」  
(p430)

こうはじまっているのでした。
この解説を読んで思い浮かんできたのが岩波少年文庫の一冊
大岡信の『おとぎ草子』でした。

そのあとがきで大岡信は、この草子に出てくる和歌に言及しておりました。
はい。そこを引用したくなります。

「・・同じことは、多くの物語に出てくる『和歌』についても言えます。

 主人公たちは、何か重要な決心をする時でも、
 悲劇的な事態に立ち至った時でも、しばしば和歌を詠みます。

 そんなのんきなことをしているひまはないはずじゃないか、
 と現代人なら思います。たぶん、主人公たちだって同じでしょう。

 ・・・・個々の理由はどうあれ、和歌というものは、
 単なる筋の運びとは次元の異なる情感を、物語を聞き、
 あるいは読む人びとに与えたにちがいありません。

 和歌は、物語の味わいをそこで深める役割りを果たしていたわけです。 
 この工夫は、私などにはなかなか面白いものに思えます。
 そのため、この本では、従来の『御伽草子』の現代語訳の多くが
 省略していた和歌をも、なるべくそのまま生かし、
 原作の次に和歌の現代語訳を添えてあります。・・   」(p239~240)


もどって、竹西寛子氏の解説には、こんな箇所がありました。

「蛇笏の随筆における惜しみない自己投入には、俳句も随筆も、
 人が言葉で生きるかたみとしては全く対等なのだという認識の反映をみる。
 俳句と随筆の二筋に生きようとした蛇笏・・・

 伝統の定型以外でも、なお解放し得る詩情のすべてを随筆に注ぎ、
 そこでの解放をはかっている点で、蛇笏の随筆は、その規模の
 大きさと詩的余情の強さを特色とする。・・・   」(p431~432)


はい。またしても、読みたくなる本がふえます。
せめて『しるべ』ばかりでもと記しておきます。



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ラジオの『尋ね人』の時間。

2023-04-16 | 詩歌
竹中郁『詩集 そのほか』(中外書房・1968年)に
詩「見えない顔」が入っている。年譜をひらくと、昭和25(1950)年の詩。
とかく一部引用は、全体を見失いやすいのですが、とにかく最後4行を引用。

  痛切に人間が人間をさがし求めるその声
  いつまでもいつまでも絶えようとしないその声
  ラジオの「尋ね人」の時間のなかの
  あの 見えない顔 顔 見えない顔


ちょうど、飯田蛇笏の晩年の俳句解説を読んで、この詩が思い浮かびました。
飯田蛇笏の略年譜には、1885(明治18)~1962(昭和37)年77歳でした。

「飯田蛇笏(いいだだこつ)は、山国甲斐に生まれた。・・
 大学に学んだ頃の約6年を除いて生涯を生まれ故郷で過ごし、
 その山国の風土を愛し、自然と人の姿を俳句に詠んだ俳人である。

 ・・生涯、散文に関心を抱きつづけた。蛇笏の俳句は、幅広い
 文学の裾野のなかから生まれていることがわかる。 ・・   」
   ( p721 解説井上康明 「飯田蛇笏全句集」角川ソフィア文庫 )

その蛇笏の俳句というのは

    寒雁(かんがん)のつぶらかな声地におちず  ( 74歳 )

これを安東次男氏が解説しておりました。

「『寒雁』の句などじつは、戦後10年の心の傷痕がいまだに癒えやらぬ人の
  号泣の句であるらしい。調べてみると、

  昭和16年以降終戦までのあいだに蛇笏は、あるいは病気で
  あるいは戦争で父母と三人の男子を次々と失っている。

  ・・・そのしのび音の慟哭がそのまま『つぶらかな』だとか、
  『地におちず』(地に落ちてきてほしい、地に落ちずそのまま天駆けよ) 
  だとかの表現となったと読んで、大過はないのだろう。

  ・・・その人の晩年に『寒雁』の句を見つけたとき、私は、
  私自身の血の中にある一口では言い尽せぬ物の考え方に
  思い当ったような気がした。・・・   」
       ( p7 安東次男著「其句其人」ふらんす堂・1999年 )


はい。ここまで引用してきたら、ラジオからの連想で、
いとうせいこう著「想像ラジオ」(河出書房新社・2013年)が
思い浮かぶのでした。最後には「想像ラジオ」のはじまりの箇所を引用。

「  こんばんは。
   あるいはおはよう。
   もしくはこんにちは。
   想像ラジオです。

   こういうある種のアイマイな挨拶から始まるのも、
   この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中でだけ
   オンエアされるからで・・・            」
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ついぞ見かけなかった。

2023-04-15 | 本棚並べ
臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房・1972年)を
本棚から出したついでに、他の箇所もひらいてみる。

ほかならぬ、臼井吉見氏の文も載っている。「炭焼翁の意気」(p144~155)。
戦後復員してきた臼井氏ご自身のことにからめて語られておりました。
うん。文の最後にはこうあります。

「 敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、
  七十歳を越えた柳田國男にくらべられるほど、
  いきいきとした感覚と気力にはずんだ人を、
  ついぞ見かけなかった。          」(p155)

「 敗戦直後、日本民俗学の先達の頭脳に何が
  思い描かれていたかを知ることは、いまもなお有益と考える。」(p148)

この本の最後には、座談会がありました。
そこに、年齢について触れた中野重治氏がおりました。

中野】 
 柳田さんの文章の場合は、八十八までも長生きされているということが、
 どうも八十八までも生きてもらっていなければ工合悪いような、
 そういうところがちょっとありますよ。

 柳田さんが三十七、八で死んだら、それは変なものになる。
 ふさわしくないんだ。柳田さんには、長寿がふさわしいんですよ。(p324)


あきらめていた、柳田國男へのチャレンジでしたが、
臼井吉見編「柳田國男回想」を羅針盤にしたならば、
すこしは、足場を確保できるような気になります(笑)。
はい。70歳を越えて88歳までの視界がクリアになる。
はい。今度こそはと、幾度目かの、チャレンジ宣言。

なにか同時進行の宣言のオンパレード。安売り宣言。
読書の宣言の大安売り。これでこそ私らしいブログ。
願いが叶う、叶わないは二の次に、宣言の大言壮語。
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好(い)いネエ、と先輩が。

2023-04-14 | 古典
幸田露伴の『野道』。
うん。つづけて紹介したくなりました。

そのまえに、西脇順三郎氏の柳田国男回想の文を紹介。

「私が柳田先生に初めてお会いする光栄を得たのは大正11年頃で・・」

とはじまっておりました。中を端折って

「 先生は東京近辺の散歩をよくなされたようだ。
  春になるとどこそこへ行ってみたまえ、
  ひばりがないているとか、野原があるとかいわれた。
  私も一度おともをして散歩をしたことがある。

  ・・・季節は忘れたが春の頃かと記憶する。
  先生と上野の美術館で偶然久しぶりでお会いした時、

『 これから多摩川へ行ってよしきりの鳴くのをきこうではないか 』

  と例のほほえみで私をさそって下さった。上野からなら
  江戸川であればそれほど驚かなかったのであろうが、
  なにしろ多摩川ときては、私は心の中でこれは大変だと思った。

  その半日の道程は複雑であった。たしか調布まで行き、
  それから今日の地名では京王多摩川というところまで
  別の電車にのりかえた。あしの生えている古戦場の中を
  つっきって多摩川べりに出た。

  先生と私と二人きり、その辺の道は一人の旅人も歩いていない。
  その当時の先生の服装は中おれ帽子にはおりはかま
  実にしょうしゃなものであった。白たびは不変的なものであった。
  ひより下駄だったか、せっただったか忘れたが恐らく後者であったと思う。
  それにステッキ。お年のわりに青年のような歩きぶりであった。

  ・・・先生は散歩されている時でも家でタバコをすわれているときでも、
  ・・・こうやって多摩川べりを歩いている時でも何かいつでも考えて
  いられたようだ。やがて二人は和泉多摩川で電車にのり成城へ帰った。
  よしきりはきこえなかった。・・・    」

      ( p77~80 臼井吉見編「柳田國男回想」筑摩書房1972年 )


はい。これを引用してからだと、はずみがついて
幸田露伴の『野道』も引用しやすくなるというものです。

閑事(かんじ)と記された郵便物が来たところからはじまっておりました。
その書簡には、こうありました。原文をそのままに

「・・瓢酒野蔬(へうしゅやそ)で春郊漫歩の半日を楽まうと
 好晴の日に出掛ける・・其節御尋ねして御誘引する、
 御同行あるなら彼物二三枚を御忘れないやうに、呵ゝ(かか)、
 といふまでであつた。 」

このあとに『 おもしろい。自分はまだ知らないことだ。 』
として、片木を短冊位にきって、味噌をぬり、火鉢にかざします。

『味噌は巧く板に馴染んでゐるから剥落もせず、宜い工合に少し焦げて
 ・・同じやうなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにして
 一寸(ちょっと)紙に包んで、それでもう事は了(れう)した。』

うん。ほとんど引用しちゃいそうですが、なるべく端折ってゆきます。
つぎの日。

『其の翌日になった。照りはせぬけれども穏やかな花ぐもりの好い
 暖い日であった。三先輩は打揃って茅屋(ぼうをく)を訪うてくれた。』

うん。以下も原文のままに引用したくなる箇所でした。

『庭口から直に縁側の日当りに腰を卸して五分ばかりの茶談の後、
 自分を促して先輩等は立出でたのであった。

 自分の村人は自分に遇(あ)ふと、興がる眼を以て一行を見て
 笑ひながら挨拶した。自分は何となく少しテレた。けれども

 先輩達は長閑気(のんき)に元気に溌剌と笑ひ興じて、
 田舎道を市川の方へ行(ある)いた。

 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞
 ・・・・何といふことも無い田舎路ではあるが、

 或点を見出しては、好(い)いネエ、と先輩がいふ。

 ・・小さな稲荷のよろけ鳥居が藪げやきのもぢゃもぢゃの
 傍に見えるのをほめる。・・・
 土橋から少し離れて馬頭観音が有り無しの陽炎の中に立ってゐる、
 里の子のわざくれだろう、蓮華草の小束がそこに抛り出されてゐる。
 ・・・・ 」

このあとに、各自持参の瓢酒で、各自手酌のお猪口で野草を採っては
味わいながら飲み始める。

『・・先生は道行振の下から腰にしてゐた小さな瓢(ひさご)を取出した。
 一合少し位しか入らぬらしいが、如何にも上品な佳い瓢だった。・・・

 それに細い組紐を通してある白い小玉盃(しょうぎょくはい)を取出して
 自ら楽しげに一盃を仰いだ。そこは江戸川の西の土堤(どて)へ上り端の
 ところであった。堤(つつみ)の桜わづか二三株ほど眼界に入って居た。』

こうして、土手の野蒜(のびる)を掘り出して持参の味噌につけて食べ始め、
さらには、各自が食べられそうな野草を探し出すのでした。

こうして最後には、主人公も珍しいものを探しだして食べようとする

『・・先生は突と出て自分の手からそれを打落して、やや慌て気味で、
 飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱するが
 如くに制止した。自分は呆れて驚いた。

 先生の言によると、それはタムシ草と云って、其葉や茎から出る
 汁を塗れば疥癬(ひぜん)の蟲さへ死んで了ふといふ毒草だそうで、
 食べるどころのものでは無い危いものだといふことであって、
 自分もまったく驚いてしまった。

 こんな長閑気(のんき)な仙人じみた閑遊の間にも、
 危険は伏在してゐるものかと、今更ながら呆れざるを得なかった。
 ・・・                            」
                         ( ~p443 )


この短文の最後も引用しておかなきゃ。

「 其日は猶ほ種々のものを喫したが、今詳しく思出すことは出来ない。
  其後の或日にもまた自分が有毒のものを採って叱られたことを記憶
  してゐるが、三十余年前の彼(か)の晩春の一日は霞の奥の花のやう
  に楽しい面白かった情景として、春ごとの頭に浮んで来る。    」
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