和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

60歳の手習。80歳の手習。

2020-11-30 | 本棚並べ
牧村史陽編「大阪ことば事典」(講談社・昭和54年)。
函入で、装幀・遠山八郎。さし絵・四世長谷川貞信。

はい。装幀もいい。さし絵もよい。
ステキなので本文を読まなくても満足(笑)。
はい。私には、こういうところがあります。

最後のほうをひらくと、
付録として、「大阪のシャレ言葉」「いろはたとえ」
が載っておりました。いずれにも、はじまりに編者の
言葉があります。
「大阪のシャレ言葉」の編者によるはじまりを
少し引用。

「大阪人は古来シャレ好きである。
近松の戯曲を読んでも、至るところにシャレが飛び出してくる。
そのシャレが、明治時代にはまだ盛んに行われていた。
ちょっとしたシャレを言っても、すぐにその意を解して、
皆がどっと囃したものである。そのシャレが
この頃少しも通じなくなったのはどうしたことであろうか。
・・・・・」

こうして、あいうえお順に、シャレ言葉が並んでいます。
つぎ行きます。
「いろはたとえ」には、こんな指摘も

「私の記憶を確かめるために、昭和26年冬、『いろはたとえ』について、
知友百数十人に調査表を送って解答を依頼した。そのうち
62名から懇篤な返事をもらった・・・  」

「年齢54~5歳(調査当時1951年)を境として、
回答に判然とした相違が現れているのは面白く、たとえば
『いやいや三杯』『これにこりよ道才坊』『寺から里へ』『竿の先に鈴』
などは、それ以上の老人に限り、50歳以下の回答には
全く見られないが、これは・・・日露戦争後の急激な社会変革によって、
いわゆる東京の新文化が大阪に流れ込んできた結果であることが、
ここにもはっきりと現れていいる。・・・・」

それはそうと、「いろはたとえ」の最初のほうに

「ろ」に、「六十の手習」とあって、つぎの
「は」に、「八十の手習」がある。

きちんと、大阪と東京との回答数も記されているので、
回答数も、ついでに引用しておきます。

「六十の手習」は、大阪8名・東京2名。
「八十の手習」は、大阪7名・東京1名。

う~ん。60歳過ぎたら、圧倒的に大坂の方が
手習いの知名度が高い(笑)。

そのあとにページをめくると、
「最後に、明治中期の大阪における『いろはたとえ』の実例を
示しておく。私の手許に、明治20年代に印行された一枚刷が5種ある。
として、その相違も一覧できるようになっておりました。こちらには、
「六十のてならひ」はなく「八十のてならひ」のみ登場しております。

「八十のてならひ」が登場する「いろはたとえ」は
「『大阪淀屋高麗橋南へ入る、西床板』とあるが年代不詳」
と編者は記しておりました。

うん。うん。大阪と「八十のてならひ」の結びつき?

そのくらいにして、そういえばと思い出したのは、
「女子大生、渡辺京二に会いに行く」(文春文庫)の
最後の渡辺京二氏の話に出てくるあの言葉でした。

渡辺】 この二日間で、僕がいかに幼稚な人間であるか、
よくおわかりになったと思う(笑)。
自分で80歳になったという自覚が全然なくてね、
僕は60歳ぐらいまでは、もう60になった、当然だなと思ったけど、
ある日80になっとったのよ。おかしいな。
20年間もたったはずがないぞ、竜宮城に行っていたのかなって。

一定の年齢までは、自分をちょっと見せかけたいような気持がある
もんですから、なるべく自分の幼稚さを暴露しないようにして
用心しとったんですが、最近はもうどんどん自分の幼稚さを
暴露するわけです。・・・・(p262~263)

はい。「八十のてならひ」と、
龍宮城より帰る80歳渡辺京二。

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大阪古本屋のおっちゃん、お薦め。

2020-11-29 | 本棚並べ
はい。昨日のつづきです。

ちくま文庫にはいっている、グレゴリ青山の
「ブンブン堂のグレちゃん 大阪古本屋バイト日記」。
その「文庫版 あとがき漫画」での元店長とのやりとり。

元店長が、グレちゃんに
『この本、事典としてもいいし、
読みもんとしてもおもしろいで・・』と

古本屋の本棚からとりだしたのが
牧村史陽編「大阪ことば事典」でした。

この文庫版あとがき漫画には、つぎのページがあり,
この本についての、二人のやりとりで終ります。

『ワシ古本屋してる時は、この本やったら
なんぼで買っていくらで売れるとか
本を商品としてしか見れへんかったけど
最近ようやく本の内容にまで気ィ向くようになったんや
古本屋やめてワシもやっとフツーに
本が読めるようになったわ・・・』

グレちゃん】 店長

元店長】  ん?

と、店長はもう、その本のページをめくってる。

元店長】ぐわっ この本昔は値打ちあったのに
    今もうこんな値段!?
    かーッ 値崩れもええとこやーッ

グレちゃん】 店長・・・・
      まだ フツーとちゃいますって・・・ 

そして、最後の決めの言葉は、

『やっぱり、古本屋のおっちゃんは
古本屋をやめても死ぬまで古本屋のおっちゃんのようです。』

はい。マンガのセリフ台本になっちゃいました。
さっそく、ネットでこの古本を検索してみる。
文庫は、講談社学術文庫であります。
古本として比較しても、文庫より単行本のほうが安い。

『大阪ことば事典』(講談社・昭和54年第一刷発行)
函入で、送料共で842円。ちなみに元の定価は4800円。

うん。昨日注文しました。
それが今日とどきました。
早いなあ。



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アホかスボケかスカタンで。

2020-11-28 | 本棚並べ
ちくま文庫にあった、グレゴリ青山の
「ブンブン堂のグレちゃん 大阪古本屋バイト日記」。
はい。古本でネット購入。文庫解説は岡崎武志。

最後には「文庫版あとがき漫画 その後の大阪の古本屋さん」
がついておりました。それを惜しみながらひらきました。


「グレちゃんがバイトしていた店、加藤京文堂は・・
残念ながら閉店されてしまいました。」とはじまり

「とはいえ、引退後の店長は・・
インキョ生活をエンジョイされているようで、

『店長体引きしまったんとちゃう?』

『せやろ』
『毎日、山登りして足鍛えてんねん』 」

と元店長とふたりして、大阪古本屋めぐりの
11ページ漫画が載っておりました。
その最後に、元店長が
『グレちゃん この本
事典としてもいいし 読みもんとしてもおもしろいで
文庫本になる前は高かってんで』

と、とある古本屋の棚からとりだしたのは

牧村史陽編「大阪ことば事典」。

うん。気になるじゃありませんか。
はい。本棚に、未読の牧村史陽編「大阪方言事典」がある。
うん。どうやらこれで、読みごろを迎えられた気がします。

「大阪ことば事典」にさきだつ「大阪方言事典」(杉本書店)には
いろいろな方の推薦文が載った小冊子がついておりました。
パラリとめくって、その中のお一人
安部宗一良(産業経済新聞社論説部長)の推薦文を
この機会にひろってみます。

「・・・大阪弁は普及したが、昔の船場言葉と島の内言葉の差、
良家のダンサン、オエサン言葉と職人言葉や、色町言葉の差
ということになると、大阪生れ、大阪で育った私自身でさえ
もう区別がつかない。・・・・

私は自分の生れた郷土の言葉が滅びてゆくのが悲しかったが、
戦後牧村さんが大阪ことばの会の世話をし、機関誌『大阪弁』を
編集して来られたことによって、大へん慰められて来ている一人である。

それがこんどは、その『大阪弁』に載っていた『大阪弁集成』を
さらに整理訂正の上・・・発刊されることになったと聞いて、
まさにわが念願成れりといった感にうたれた。

こういう仕事は、アホかスボケかスカタンでなければやれないものである。
しかも牧村さんが、この仕事を世のスカタンに代ってやり遂げられた
ことに対して敬意、いや畏敬をさえ感じるのである。大阪人として、
私はこの人を大阪に持っていることを誇りに感じると同時に、
このスカタン性をもっと私にも植えつけねばならないと考えさせられた。
・・・・・」(昭和30年)

うん。「アホかスボケかスカタンで」なければできなかった
事典というのが、世の中にはあるんですね。

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手紙も、そえてあります。

2020-11-27 | 手紙
はい。森三千代訳「枕草子物語」(岩崎書店「日本古典物語全集⑦」)
を、私は、たのしく読めました(フリガナつきです)。

枕草子のダイジェスト訳ですが、
私にとっては、はじめての枕草子。
はじめての印象は、やはり残しておきます。
といっても、とりとめがなくなるので、
ここでは『手紙』ということで、まとめてみます。

「行成卿(ゆきなりきょう)のおくりもの」と題された文から

「ある日、頭の弁(役の名)藤原行成卿から、使の者が来ました。
 
その使者は、白い紙に包んだ食べ物らしいものに、
花のいっぱい咲いた梅の一枝をそえて、とどけてきたのでした。

包みの中はなにかと、いそいであけてみると、
ヘイダンというお餅が二つならべてあります。
(へいだんは、もちの中に卵と野菜の煮たのを包んだ、
肉まんじゅうのようなものです。)

手紙も、そえてあります。
その手紙をひらいてみると、公式の目録をまねて、

 進上、餅餤(へいだん)一包
 例によって、件(くだん)の如し
 別当 少納言殿

とあって、月日を書き、おくり主の名は、
任那(みまな)の成行としてあります。・・・

さすがに能筆家だけあって、
すばらしく上手な字で書いてあります。
さっそく、中宮にお見せしますと、

『まあ、いい字。それに、おもしろい手紙だこと。』
と言って、中宮は、じっと字をながめたあとで、
その手紙を取りあげてしまわれました。

へいだんをもらったわたしは、
行成卿にお礼を言わなければなりません。
 ・・・・・・・           」
(p161~162)

手紙をとられる場面は、
「にわとりの鳴きまね」にもありました。

「行成卿からきたこの時の手紙は、みなで三通ですが、
あとの二通は、れいによって、字がうまいので、
人にとられてしまいました。

一通は、中宮の弟の隆円僧都(りゅうえんそうず)が、畳に頭を
すりつけて、どうしてもくれと頼んだので、もって行きましたし、
あとのは、中宮が、ほしいと言われたので、さしあげたのでした。」
(p167~168)


「うらやましいもの」にも、手紙が登場しておりました。

「字が上手で、歌を詠むことがうまくて、歌合わせのときなど、
まっさきに選に入る人も、うらやましいと思います。

貴(とうと)い身分の方のそばに仕えている女官(にょかん)が、
おおぜい集まっているとき、だいじなところへお出しになる手紙を、
人をさしおいて、わざわざ呼び出されて、すずりや筆をわたされて、
書かされている信用のある女官は、見ていてもうらやましいと思います。
仕えている女官たち、だれ一人として、
そんなに字のまずい人はないのですから。」(p203)

「山吹の手紙」は、中宮からの手紙でした。


「・・代筆ではなくて、
中宮がご自分でお書きになった手紙だと思うと、
ありがたくて、胸をとどろかせながら開きました。

なかには、山吹の花が一つ入っていて、つつんだ紙に、

『 いわで思うぞ。(なにも書かないけれど、忘れはしませんよ)』

とだけ、書いてありました。・・・・」(p185)


はい。それでは、
行成卿のように達筆ではなく。
女官がそばにいるわけもない。
そんな時代になるとどうすればよいのか?

ということで、随筆文学の、次のバトンをうけついだ、
吉田兼好「徒然草」は、この手紙をどう克服したのか。

「手のわろき人の、はばからず文(ふみ)書きちらすはよし、
見ぐるしとて、人に書かするはうるさし」

これについて、谷沢永一著「百言百話」(中公新書)には
こうあります。

「字の下手なんか、平気で手紙なんかをドシドシ書くのは宜しい。
見苦しいからと云ので、人に書かせるのは、うるさい厭味なことだ
(沼波瓊音(ぬなみけいおん)訳文)。

沼波瓊音は『この段は短いが、言が実に強い』と嘆賞して、
次の如く彼一流の『評』を記している。

『私が中学に居た時、和文読本という教科書の中に、
ここが引いてあった。鈴木先生の講義を聞いた時に、
少年心(こどもごころ)ながら、ハッとした。

今からその時の心持をたとえていって見ると、
凜然たる大将が顕われて、進め、と号令したような気がした。
恥ずるに及ばぬ、自分を暴露して、その時々のベストを尽くして、
猛進するのだ、という覚悟は、この段の講義を聞いた時に
ほのかながら芽ざしたのであった』。
大正3年の著作であるから・・・・」(p122)

はい。徒然草でどうやら達筆の呪縛から、
解き放たれた。そんな気がするのでした。





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延命祈願の白い紙。

2020-11-26 | 本棚並べ
岩崎書店「日本古典物語全集⑦」は、森三千代著「枕草子物語」。
森三千代は、金子光晴の妻。はい。名前だけは知ってました。
光晴とともに、東南アジア経由でフランスへ行ったのも、
何となく知るところです。

『枕草子物語』は、解説も森三千代。
その解説の、最後を引用。

「こういう特殊な簡潔な文章だけに、それを現代語に訳すことは、
そうとう困難でした。それに、千年前の平安朝時代の貴族生活は、
今日ではもう、外国よりも縁がとおく、いくら説明しても、
しっくりとわからせることができないこともあります。

古典としての文章の味わいや香気も、そのまま現代語訳で
伝えることのむずかしい箇所も多いのです。できるだけ、
内容や味わいをそこなわないように努力してみました。」
(p316・1975年2月28日発行)

ちなみに、森三千代(1901年~1977年)愛媛県生まれ。
はい。わかりやすく、パラパラ読みの私にも、伝わるものがありました。
うん。ここには、森三千代の解説から、清少納言の略歴を紹介。

「橘則光という役人の妻になり、子供の則長を生みましたが、
事情があって離婚しました。
28歳の春、清少納言は、一条天皇の中宮定子のもとに女官として
宮仕えすることになりました。中宮定子は、その時の関白の
藤原道隆の娘でした。この世をばわが世とぞ思う望月の
かけたることのなしとおもえば、という、あの有名な歌を詠んだ
道長は、この道隆の弟です。

この時代が、藤原氏が権勢をほしいままにした、
いちばん華やかな時代でした。当時の宮仕えの女官たちは、みんな才女で、
歌を詠んだり、文章を作ったり、字を書いたりすることにすぐれていて、
平安時代の文化の華を咲かせたものです。
 ・・・・・

清少納言にとって、宮中生活は、生涯でもっとも華やかな時代でした。
宮中に出て4年目に、中宮定子の兄たちに不敬事件があって、
兄たちが流刑になり、そのため、中宮定子は勢力が衰えました。

清少納言は、その後もずっと仕えて、36歳のときに
宮仕えを去りました。出仕してから八、九年でした。
晩年は孤独になって、ずいぶんさびしい生活をしたといわれています。
・・・・・・・」(p312~313)

はい。略歴がわかったところで、
森三千代訳の枕草子から「紙と畳ござ」を引用


「中宮の御前で、女官たちがれいによって、
おおぜいでいろいろお話をしていました。
なにかの話のときに、わたしが、

『ほんとうに世の中がいやになって、
これ以上がまんができない、どこか遠いところへでも
行ってしまいたいと思うことがあります。

そんなときでも、白い紙や、書きよさそうな筆や、
色紙などが手に入りますと、憂うつなんかどこかへ飛んでしまって、
すっかりきげんがなおってしまいます・・・・・

高麗べりの青々とした畳ござの、へりのもようが黒と白で
くっきりしたのを、さっとひろげてみていますと、
きゅうに、この世の中がはなやかなに見えてきて、
いつまででも生きていたいという気になります。』

そんな感想を述べますと、中宮は、お笑いになって、

『まあ、そんなことで、死ぬのがいやになったりするの。
では、姥捨山の月は、どんな人が見るのかしら。』と言われました。
( 姥捨山というのは、
『わがこころ、なぐさめかねつ更級や、姥捨山に照る月をみて』
という古歌から思いついて、中宮が、年をとって山へすてられた
老女の悲しい気持とくらべ、清少納言をからかったのです。 )

そばにいる友達の女官たちも、『紙や畳ござで世の中が
楽しくなるなら、こんなかんたんなことはないはねえ。』
と言って、顔を見あわせて、くすくす笑いました。

それからずっと後のことです。心配ごとがあって、
御殿からさがり、じっとわが家にとじこもっていますと、
中宮からお使いが来て、すばらしい上等な紙を二十枚、
包んでくださいました。
早く御殿へ出仕なさいなどとは言わないで、ただ、

『いつか、あなたから聞いたことがあるので、
気ばらしに、この紙、少々おくります。
あんまり上等な紙ではありませんから、
延命祈願の寿命経を書くには、適当でないかもしれませんけど。』
とだけ書いてありました。
・・・・・・・・・」(p291~p293)



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あはれなるもの。

2020-11-24 | 本棚並べ
枕草子の119「あはれなるもの」は、
こうはじまっておりました。

「あはれなるもの 孝(こう)ある人の子。
よき男のわかきが御嶽精進(みたけしょうじ)したる。
たてへだてゐて、うちおこなひたるあかつきの額(ぬか)など、
いみじうあはれなり。・・・・・」

うん。わからない(笑)。
この箇所、明解な森三千代さんの現代語訳で引用。

「あはれなるもの」は、「感動深いもの」となっております。

「親をたいせつにする子をみると、深い感動をおぼえます。また、
いい家庭にそだった青年が、御嶽(吉野山金峰山。修験者の霊場)
にお参りしようとして、精進している姿も感動深いものです。

御嶽へ参る前には、いく日も家族たちとは起居を別にし、
身をきよめ、行ないをつつしみ、一心に信心をしなければなりません。
まだ暗いうちから、あけがたのお勤めをしているけはいを感じて、
別の部屋に寝ている家族たちは、どんな気持でいることでしょう。」
(p141「日本古典物語全集⑦枕草子物語」岩崎書店)

はい。そういえば、神田秀夫著「今昔物語」の久米寺に
久米の仙人が、お堂にこもりに行く場面がありました。
あらためて、その箇所を引用。

「・・・久米は、その場をはなれました。なるほど自分は、
あの妻の美しさにまよって、仙人になりそこなった笑われ者だ。
しかし、自分のことは、自分がいちばんよくわかっている。
あいつらが笑うほどに通力が落ちてすっかりなくなっているわけではない。
おのれ、ひとつ、目に物見せてくれようと、帰るやいなや、

わけを話して、妻を遠ざけ、一つのお堂にこもりに行きました。
そこで、久米は身をきよめ、断食して、七日七夜というもの、
一念こめて、一生けんめいお祈りをつづけました。

材木運びの仕事場では、久米のすがたが見えないので、
行事官たちは、笑い話の種にして、
『どうしたんだろう。』
『ほんとにやってるんだよ。』
『その気になって、ね。ばかなやつさ』
などと言っていました。  」
(p58~59「日本古典物語全集⑧今昔物語」)

うん。岩波文庫の今昔物語を取り出して、
こちらも、原文にあたってみることに

「『我れ仙の法を行ひ得たりきと云へども、
凡夫の愛欲に依(より)て、女人に心を穢して、
仙人に成る事こそ無からめ、年来行ひたる法也、
本尊何(いかで)か助け給ふ事無からむ』と思て、

行事官等に向て云く
『然らば、若(もし)やと祈り試む』と。

行事官、これを聞て、
『嗚呼(おこ)の事をも云ふ奴かな』とおもいながら、
『極て貴(とうと)かりなむ』と答ふ。

その後、久米一(ひとつ)の静なる道場に籠り居て、
身心清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、
心を至してこの事を祈る。
しかる間、七日既に過る。
行事官等、久米が不見(みえざ)る事を
且(かつ)は咲(わら)ひ、且は疑ふ。
然るに、八日と云ふ朝に・・・・・・・・・」
(p92~93・池上洵一編「今昔物語集 本朝部上」岩波文庫)

注:(嗚呼とは、ばかげたこと)


はい。枕草子の『あはれなるもの』と
今昔物語の『久米の仙人』とを引用してみました。
ここまで、2つ引用したのですから、もうひとつ、
3つ目も、引用してみたくなります。

世界文化社のグラフィック版「徒然草方丈記」(1976年)を
読まずに、絵をパラパラとめくっていると、ある時、前田青邨筆の
絵巻「神輿振」の一部が、新鮮な印象として思い浮かびました。
うん。それでね。ちょっと前田青邨の絵巻というのが気になって、
古本で小学館「現代日本絵巻全集」に入っている
前田青邨Ⅰ・Ⅱを買ってみたのでした。

「現代日本絵巻全集」は全18巻。
その9巻目が「前田青邨Ⅰ」で、こちらに「神輿振」が入っています。
10巻目の「前田青邨Ⅱ」には、「お水取」が入っておりました。
その「お水取」が印象に残るのでした。

前田青邨年譜によりますと、
明治18(1885)年岐阜県・現在の中津川市生まれ。
この「お水取」は、昭和34(1959)年74歳で発表とあります。
10巻「前田青邨Ⅱ」の作品解説から引用してゆきます。

「内容は奈良東大寺の『お水取り』の行事を16段の絵巻に
構成したもので、『お水取』と題される。・・・・・

この構成は、お水取り行事の次第に従って、展開されてゆく・・

正式には修二会と称するこの儀式は、天平勝宝の頃、
ときの東大寺別当の実忠(じつちゅう)和尚が、
修業の中で感得した行法を、地上に具現したもので、
二月堂を建てて修二会の行法を創めた。・・・・・

複雑に構成されるこの珍しい行法は、2月20日から3月14日の
3週間余にわたって行なわれ、本行は2月28日夕刻二月堂下の
参籠所に移り3月1日から27日、すなわち二週間の厳しい練行が
繰り返され、人々もともに参じて来福を祈願するのである。

解説の最後。第16段「二月堂は明けゆく」のおわりには

「巻頭におけるお水取りを迎える奈良の民家と同様、
ここには行事とは直接関係のない自然が折りこまれて、
お水取り全体の雰囲気表現につとめ、それがこの絵巻を
大きく成功させている。」

はい。ここまでで、
あとは絵巻の各段の名を引用するだけでいいかなあ。

第1段 お水取を迎える奈良の旧家
第2段 総別火(行事の仕度)
第3段 堂の役人衆
第4段 わらび餅の茶屋
第5段 籠り堂
第6段 湯屋
第7段 食堂
第8段 行法を待つ参籠衆
第9段 鈴を振る咒師
第10段 お水取(若狭井)
第11段 松明をみる群集
第12段 松明のぼる
第13段 内陣の幕をしぼる堂童子
第14段 達陀の行法
第15段 社頭の終了報告
第16段 二月堂は明けゆく

この作品解説には、こうもありました。

「・・書生時代から温めていたというテーマである
お水取りは、季節的にも厳寒の時期に行なわれる・・・
昭和34年2月末から10日ほどを奈良に滞在し、その模様を
詳さにスケッチすること・・その数は数百枚に上るといわれ、
その中から特別感興をひく図16点が選ばれ制作された。 
  ・・・・・・・  」


はい。本棚から数冊とりだしてきて、並べてみました。
こういう本のむすびつきは、数日ですっかり忘れます。

こうして、書きとめておくことで、次へとつながる気がします。
読んでいただけるのと同様に、本が結びつく感触を味わえます。











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「これは是非とも」

2020-11-23 | 本棚並べ
はい。わたしは、マンガとテレビで育ちました。
それでもって、活字よりも、すぐに絵の方に目がゆきます。
ということで、世界文化社のグラフィック版「徒然草方丈記」(1976年)
をひらくのは、絵巻までが載っていて、たのしめるからでした。

その6~7ページに「徒然草絵巻」の絵があります。それは、
海北友雪筆「女の白い脛(はぎ)を見て通力を失った久米の仙人」。

さてっと、この絵は印象深く、何度もひらきたくなります。
それより、ここでは、ほかの話題をとりあげます(笑)。

「枕草子」の116と117には、
『絵にかきおとりするもの』
『かきまさりするもの』がある。
うん。森三千代さんの訳で引用。

「    絵を描いて劣るもの

絵に描いて、じっさいのものより劣るものは、
なでしこ、しょうぶ、桜です。

物語のなかに出てくる男や女も、
挿絵に描かれたのを見ると、
文章でほめあげているほどには美しいとも、
すぐれているとも見えないのが、ふつうです。」

「  絵に描いて引き立つもの

絵に描いて、じっさいのもの以上に引き立って見えるものは、
松の木、秋の野原、山里、山路です。 」

(p140~141・「日本古典物語全集」岩崎書店1975年)

ここを引用していたら、思い出す本がありました。

庄野潤三著「前途」(講談社・1968年)。
ここには、庄野氏の先生・伊東静雄に、
夜、酒を飲み、教えてもらった指摘があるのでした。
ちょうど今日、改めて思い出した印象深い箇所です。

「話は国文学の読みかたに移る。先生はこう云った。
和文脈の中心となるものは、先ず
源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草、倭漢朗詠集の5つ、
日本の美感はこれに尽されている。
このうち源氏物語は大本であるが、全部読むのは面倒ゆえ、
好きなところを引っぱり出して読めばいい。

特に大切なのは枕草子と徒然草で、これは是非とも読む必要がある。

・・・通読しなくてよいから、気の向いた時、
すぐ出して、そこだけ読む。こんな本を(と伊東先生はそのあたり
に積んであった本の中から受験生用の薄い『奥の細道』を取り上げ)、
注釈書のようなものでも、小さいのでも、何でもいいから見つけ次第、
買って来ておく、そして、どんどん読み散らす。
知っていればいるだけ得という風な態度で読めばいいのです。

枕草子は、その書きぶりが賢そうで嫌いだったけれども、
書いてあることは非常に大切。日本の美感の源泉で、
これを知っているといないとでは大へんな違いとなる。」
(p117~118)

はい。源氏物語は、まず敬遠している私ですが、
『これは是非とも』と伊東静雄先生がいうところの、枕草子と徒然草。
こちらなら、私にも読めそうな気がしておりました。
酒に酔って、『日本の美感』がスラスラと口をついて・・。
そんな場面を思いながら、どんどん読み散らせますように。



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ぼっちゃああん。

2020-11-22 | 本棚並べ
徒然草の第八段が、のちのちまで、印象に残るのは、
久米の仙人を、チラリと登場させているからでしょうね。
岩波文庫で5行たらずの文です。ここでは、原文で引用。

「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。
人の心は愚かなるものかな。
  ・・・・・・・・・
久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、
通(つう)を失ひけんは、まことに、手足、はだへなど
のきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、
外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。」


え~と。
古本の「日本古典物語全集」(岩崎書店)が届きました。
その⑧が、神田秀夫著「今昔物語」。パラパラめくれば、
『久米寺』と題する文が、載っております。

神田秀夫氏は「1028も話がある今昔物語から27の話」を
選んで、この本に載せているのだそうですが、ここで、
徒然草に登場していた、あの久米の仙人に出会えたのでした。

はい。徒然草でちょっと触れられていた、
久米仙人の物語が具体的に語られておりました。
こちらは、神田秀夫氏の現代語訳で紹介します。
はじまりから

「今はむかし、大和の国(今の奈良県)の吉野の郡(こおり)に、
竜門寺という寺がありました。」

ここで仙人の修行をしていた『久米』が、もう一人におくれ
「仙人になって、空に飛びあがりました。」

まずは、徒然草での場面を、今昔物語では活写されております。

「さて、久米が、空を飛んでわたっていくと、吉野川の岸で、
若い女の人が、川にはいって洗濯をしているのが見えました。

自分の着物をぬらさないように、女の人は、すそを高くはしょっています。
澄んだ流れにつかっている素足の、そのふくらはぎの白さ。
それに見とれた一瞬、久米は、心におこった色欲のために、
通力をうしなって、飛べなくなり、まっさかさまに、
その女の人の前に落ちました。
     ぼっちゃああん

女の人は、着物から、顔から、頭の髪まで、水しぶきをはねかけられ、
見ると、ひとりの男が、全身ずぶぬれになって、水のなかで起きあがり、
耳の根まで赤くして、うつむいて目の前に立っています。

『まあ。』
きもをつぶして、あきれて、くるりとうしろを向いて逃げながら、
そのぬれねずみのおかしさに、思わず、ぷっと笑いました。
そのとき、『もしもし。』と、呼びとめる男の声が聞こえてきました。

こういうことがありますからね。男の子と生れたら、
うっかり女の人の白い足に見とれたりしてはいけません。
一生とりかえしのつかないことになります。」

はい。ここまでなら、徒然草で紹介されていた
箇所でしょうか。今昔物語は、まだつづきます。

「久米の仙人の、このお話は、竜門寺の扉に絵に書かれ、
菅原道真が、それに文をそえて残してあったそうですが、
いまはどうなりましたか。

久米は、もう仙人ではない、ただ人になってしまったわけですが、
馬を売りわたすときの証文にサインするとき、
『前の仙(せん)、久米』と書いてわたしたというお話もあります。

その洗濯をしていた女の人は、あとで、自分のふくらはぎに
見とれたために、久米が半生の修行を水の泡にしたことを知って、
そういうわけで落っこちられたのでは捨ててもおけないと、
やさしい心から、久米の妻になってやりました。
むかしは、そういう女の人もいたのです。」


さてさて、今昔物語には、こんな話も載っているのですね。
いままで、知らずにおりました。
それなら、と数冊の本をさがしてみます。

杉浦明平著「今昔ものがたり」(岩波少年文庫)
杉本苑子著「今昔物語集」(講談社少年少女古典文学館⑨)
「もろさわようこの今昔物語集」(集英社・わたしの古典⑪)
山口仲美著「すらすら読める今昔物語集」(講談社)

はい。その目次をひらくも、久米の久もありませんでした。
福永武彦訳「今昔物語」(ちくま文庫)は、600頁以上もある
あつい本でしたが、こちらの目次にも見あたりません。

うん。それなら、この機会に、神田秀夫の「久米寺」の
後半最後までも、引用してよいではないか?
そう思いました。

「ところで、そのころ、天皇は、この大和の国の高市(たけち)の郡に
宮殿をつくろうとしていらっしゃったので、大和の国のなかでは、
その労役にしたがう人夫が集められていました。
久米も、その人夫にかりだされました。
しごとというのは、力のいる材木運びです。

ほかの人夫たちは、久米のことを、『おい、仙人、仙人』と呼びます。
監督の行事官は、おかしなことを言うと思って、
『おまえたちは、あの男のことを、なんで『仙人』と呼ぶんだ。』
とききました。人夫たちが、そのわけは、こうなんですと、
いままでのことを話して聞かせますと、行事官たちは笑って、

『ほう。これはまた、とうといおかたがおいでになったもんだ。
仙人にまでなんなさったんなら、その余徳でひとつ、
この材木を飛ばしていただこうじゃないか。
汗水たらして、かついで運ぶこともなかろうぜ。』

と、からかい半分、聞えよがしに言いました。
久米はこまって、すすみ出て、

『わたくしは、もう仙の法など忘れてしまいました。
年をとるまえの話でございます。とても、そんな
験(げん)をあらわすことなどおよびもつきません。
今はもう、このとおり、ただの人夫になっております。
どうか、ごかんべんねがいます。』

とおじぎをしました。
行事官たちは、どっと笑いこけました。
そう笑われては久米とても、くやしくてたまりません。
目のなかまでまっかにさせて、思わず、

『そんなにおっしゃるならば、
ものはためしということもありますから、祈ってみましょうか。』

と言ってしまいました。
行事官は、これはほんとのばか者だ、
頭がどうかしていると思いましたから、

『おう。それはありがたかろうぜ。ひとつたのむよ。』

と、また笑って答えました。
久米は、その場をはなれました。なるほど自分は、
あの妻の美しさにまよって、仙人になりそこなった笑われ者だ。

しかし、自分のことは、自分がいちばんよくわかっている。
あいつらが笑うほどに通力が落ちてすっかりなくなっているわけではない。
おのれ、ひとつ、目に物見せてくれようと、帰るやいなや、
わけを話して、妻を遠ざけ、一つのお堂にこもりに行きました。

そこで、久米は身をきよめ、断食して、七日七夜というもの、
一念をこめて、一生けんめいお祈りをつづけました。

    ・・・・・・・・・・

すると、八日めの朝、
空に雲が古綿(ふるわた)をしきつめたようにかさなりはじめ、
灰いろになり、ねずみいろになり、暗くなり、やみになり、
いなずまが走り、雷がなりひびき、たたきつけるような雨が降って、
みんなをおどろかしました。とにかく、まっくらやみで、
なにも見えやしません。これは、ただごとではない。まるで夜だ。
なんの たたりだろうとがやがや言っているうちに、また、
もう一ど夜が明けはじめ、古綿がはがれ、雨がやみ、日がさして、
からりと晴れました。

行事官も人夫たちも、また、仕事場へ出てきました。
見ると、材木が、あんなにたくさん伐って積んでおいた材木が、
一本もないじゃありませんか。どこへ行った、どこへ飛んだと
おおさわぎをし、山のふもとから宮殿を建てる敷地に来てみると、
なんだ、みんな、ここに来ているじゃありませんか。

だれが運んだのでしょう。行事官たちは、目を見はって、
口もきけません。こんどは、人夫たちが、どっと笑いました。

だれが申しあげたものか、天皇はこのことをお聞きになって、久米に、
免田(めんでん)三十町(租税をおさめなくてよい9万坪の耕地)を
たまわりました。久米はよろこんで、この土地からとれるもので、
一軒のお寺を、その高市(たけち)の郡(こおり)に建てました。
久米寺というのが、それです。・・・・・・・・・」
(p54~p60)

はい。ほとんどを引用しちゃいました。ちなみに、
池上洵一編「今昔物語集 本朝部(上)」(岩波文庫)の
p90~p94で、原文は読めます。

話はかわりますが、
今日で、相撲は千秋楽。
相撲といえば、稀勢の里が思い浮かびます。
いまは、荒磯親方として解説で、その声が聞こえるのですが、
横綱になって、引退して、あとは結婚なのになあ。






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「そんなこというたって」

2020-11-21 | 本棚並べ
「時代の風音」(UPU・1992年)は、鼎談です。
その3人の顔ぶれは

堀田善衛 (1918年・富山生まれ)
司馬遼太郎(1923年・大阪生まれ)
宮崎駿  (1941年・東京生まれ)

うん。パラパラめくって、
勝手な引用をすることに。

司馬】・・・私より堀田さんは5つ上ですから、
『資本論』というものを少しは親身になって読まなきゃいけない、
そういう青春期があったと思うのです(笑)。

私はそれがまったくなくて、戦後を迎えたでしょう。そしたら
わりあい流行りました。京都大学担当の新聞記者だったものですから、
いろんな先生たちや学生たちが真っ赤っかになっていくのを見てました。
とんでもない人まで真っ赤っかになろうとしてました。

それで彼らのだれといくら議論しても、
勝ったことないんですな。議論では負けました(笑)。
コミュニストと議論して勝てる人はだれもいないです。

ところが、『そんなこといったって』という
大阪弁で、『そんなこというたって』というところから
本音がはじまるのですけども、彼らコミュニストの
議論はそういう具合になっていません。

   ・・・・・
だから、ただの人間とか、ただの社会とか、ただの日本とは
何かということを自分で考えざるをえなかったですな。考えざるを
えないだけでなくて、自分でじかに日本史に当らざるをえなかった。

だから私個人でいえば、それは私の勝手につくった娯楽だった(笑)。

宮崎】 楽しみ?

司馬】 楽しみというより、テメエ勝手にちょっとした
自分の使命だと思ってたのかもしれません。
その似たような人が同時代に私より年上で、
たとえば桑原武夫さんのような人がいました。・・・・・
   ・・・・・・・・

左翼にならない人間というのは、
つまり真心がないんだとさえ思われていました。・・・
昭和初年、多くの知識青年が左翼になったということを、
後世の人たちはちょっと誤解すると私は思いますし、
その理由がよくわからないでしょう。現場の感覚というのは
わかりませんでしょう。同世代でないと。

堀田】 そりゃわからないですよ。
 ・・・・・

司馬】・・たとえば幕末に尊王攘夷、尊王攘夷、と言いつのった。
それでは、世界じゅうと戦争するのかということになる。
できもしないことを槍と刀をふりかざして言いつのった。
いざ幕府が倒れ、明治政府になるや、まっさきに開国する。

昔は井上聞多という名で走りまわってたのちの井上馨に、
むかし同志だった人が面会にきて、
『尊王攘夷、あれはどうなりましたか』とたずねると
『あのときは、ああじゃなきゃ、いけなかったんだ』と答えた(笑)。
つまりシュプレヒコールがそのまま真理として通用する時代があって、
一夜明けて世の中が変われば、それはトイレの古新聞のように
古ぼけてしまう。

堀田】 それは、現場の空気というものは
やはりひじょうにつかみにくいものです。・・・
(p41~43)

うん。この「ひじょうにつかみにく」現場の空気というのが、
堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社・1993年)に
拾える気がします。場所は、終戦まぢかの上海でのこと。


「武田君は戦前、左翼活動で警察に捕まったことがありましたから、
武田君のところに領事館の特高(特別高等警察)がしょっちゅう来て
いたんですが、五月を過ぎたころでしょうか、特高が来て、
この戦争はどうなるのかとわれわれに訊ねるんですよ。
なんとも頼りないことですが・・・そしたら、
『おまえはどっちにつくんだ』と問われて、これには困りました。
 ・・・
そういうなかで、私はわりと平然としていたんですよ。
というのは、上海の上流階級の中国人(と当時は思っていたけれど、
今から考えると地下の共産党員だったんですね)と親しくしていた
ものですから、この戦争が終われば共産党が政権を握るだろうと
いうことが、はっきりしていたんです。
彼らからは、そういう情報を得るとともに、
逆に相談をもちかけられたりもした。たとえば、

『堀田さん、あなたは日本人だから、朝鮮のことはよくご存じでしょう。
朝鮮の方は、二人集まると三つの政党ができるといわれるように、
独特の個人主義があるけれども、それにどう対応したらよいでしょうか』
と、妙な政治的相談をする。

こちらは、そんなことは皆目わからないと答えたけれども、
その当時、延安あたりの共産党には、朝鮮の人たちがずいぶん
いたらしいから、そういうことで訊いたのだろうと思いますね。

まあ、あの人たちから見れば、私などまだ28歳の海のものとも
山のものともつかぬ若造ですけれども、そういう話を対等に
してくれたわけで・・・・(p33~p35)


うん。これを引用しながら、日本の学術会議のこととか、
米国の不正選挙に対する、トランプ陣営のことを思い浮べておりました。

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ジュニア向け古典の再話。

2020-11-20 | 本棚並べ
この前、向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社・1986年)を
本棚からとりだしたので、今の自分に興味を引く本はないかと、
紹介されている150冊の本の目次をみるのでした。
たとえば、
山崎正和著「室町記」は「『豊かな乱世』の発見」と目次にある。
うん。ほかにはないかと目次をみてゆくと、ありました。
神田秀夫著「今昔物語」に、「よみがえる古典の感触」とある。
さっそくその箇所をひらいて2頁の紹介文を読む。
注には、神田秀夫氏の「今昔物語」は
「初刊昭和32年、弘文堂。のち改訂して岩崎書店版
『日本古典物語全集』第八巻に収める」。

うん。この全集は
「ジュニア向けに編んだ古典の再話集」らしい。
向井敏氏のこの「今昔物語」紹介文の最後を引用。

「構成についていえば、原典に収める1028の説話から27話を選び、
律令体制が変質しつつあった平安後期の揺れ動く時代相を一望できる
形に順序や配置を整える。再話の仕方にしても、単なる現代語訳や
手っとり早い縮約というのではなく、『今昔物語集』のほか、
『宇治拾遺物語』『梅沢本古本説話集』『日本霊異記』など一連の
説話集の類話をすべて点検のうえ、一つの説話のなかに巧みに
溶かしこんだり、半端なエピソードを発端と結末をそなえた物語に
組み直したりして、当時の世相や人びとの考え方をより豊かに
感じとれるように工夫をこらすのである。」(p172~173)

はい。読んでみたくなりました(笑)。
ネットで検索すると、全集のなかの単体では見つからず
岩崎書店の『日本古典物語全集』全30巻のうち
30巻目が欠の、29巻揃いで送料入れて5800円が見つかる。
このなかに神田秀夫著「今昔物語」は、はいっている。
一冊5800円ならば、これはもう、あきらめるのですが、
一冊200円×29巻=5800円なら、一冊200円の古典が29冊。
私はどうしたのか。
はい、注文することに。

こういう場合。
向井敏著「本のなかの本」の言葉の魅力に、
抗いがたかったということで、決着します。

「ジュニア向けに編んだ古典の再話」という指摘が、
私みたいな古典の通読が苦手な者には何より有難い。

なので、早晩ブログでご紹介できるかと思います。

ちなみに、向井敏著「本のなかの本」のなかには、
「書評紙上まれに見るすばらしい言葉を捧げた」
という中野重治の言葉が引用してあります。
その箇所を、最後に孫引きしておくことに。

「ああ、学問と経験とのある人が、
材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
実用ということで心から親切に書いてくれた
通俗の本というものは何といいものだろう。」(p143)


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ポンぺと武士と医学。

2020-11-20 | 本棚並べ
渡辺京二著「逝きし世の面影」はページ数が多くて
読まない(笑)。とりあえず、各章の最後の注をひらいてたら、
ポンぺ著「日本滞在見聞記」からの引用があるらしい。

はい。「逝きし・・」は、そのままにして、
注にある、ポンぺの翻訳をネット検索。
各当の著書の翻訳は、あるにはあるのですが、
値段が高いのであきらめ、他を検索してると、
桑原敏眞著「日本近代医学の父ポンぺと幕末のオランダ人たち」
(文芸社・2018年・上下巻)というのがある。うん。
その下巻を注文。定価750円+送料300円=1050円。

それが届く。目次をひらき
「ポンぺの教育」という箇所が気になり、ページをめくる。
そこから引用。

「ポンぺは日本に来てから外来診療、学生の教育に日々
忙しくなる毎日を送っていた。
ポンぺの名声を聞いた清国の上海からも、
多くの欧米人が健康を取り戻す為に長崎に来た。
上海では水が汚く、消化器系の伝染病が頻発していた。
しかし、長崎では水もきれいで気温も快適で、
特に長崎近郊の雲仙は欧米人の避暑地としてにぎわった。

 ・・・・・・・

講義は外来患者が終わってから行われた。・・・・

ポンぺの目には日本の学生はオランダ語、数学が特に劣っていた。
ポンぺが一人の学生に言ったことがある。
『どうして、簡単な数学ができないのですか』

そのとき、ポンぺの質問に驚くべき返事が返ってきた。

『算術は町人のすべき学問、我々武士が学ぶ学問ではないのです』
日本では数学は算術と言われ、商人がするソロバンであった。
武士がソロバンをはじくことは恥辱でさえあると考えていたのである。

『医学は科学です。科学である以上数学はその基礎となる学問です』
この言葉を何度ポンぺは繰り返したであろうか。

しかし、学生たちは一向に数学を熱心に勉強することはしなかった
のである。医学を学ぶ為に物理や化学が本当に必要であると思っていない
以上、数学は無用の長物であったのである。

物理や化学、そして数学は長崎医学伝習所の学生たちより、
長崎海軍伝習所の学生たちのほうが、より習得に熱心であった。」
(p57~58)

案外と、コロナ禍の医療での数学統計の数字にしても、
感染者数の増加は喧伝されていても、死亡者数や重症者数の
数字は伏せられているような感じを抱くのはひとり私だけでしょうか。
そんなことを思うにつけ、
マスコミに「長崎海軍伝習所」の熱意ある学生がいればと
そんなことを歴史を越えて思えてくる記述でした。


著者の桑原敏眞(くわばらとしまさ)氏の略歴は
昭和24年、岐阜市生まれ。
昭和51年、長崎大学を卒業、名古屋第二赤十字病院研修生として勤務。

平成6年、愛知県海部郡佐屋町で『くわばら内科胃腸科』を開業。
地域医療に従事している・・・・

はい。こうプロフィールにありました。



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ウサギ追いしかの山。

2020-11-18 | 京都
「京都みちくさの景色」(京都新聞社・1999年)は
文・中村勝/写真・甲斐扶佐義。はい。もちろん安い古本。

パラリとひらくと、はじめのほうに
「うさぎ ウサギ」と題する箇所があるので引用。
はじまりから

「昔の京都の中学校では、学校行事でウサギ狩りがあった。

一中の卒業生である松田道雄さんが
『ウサギ狩りちゅうの、ありませんでしたか? あのころ』
というと、一商の天野忠さんが
『ああ、学校から連れて行かれました』と応じている。

『行きましたね。京都の近所・・・・
山科だとか北山だとかねえ。下から勢子が声をあげて追いあげるのを、
上で網をはって待っててねえ』
(1980年、本紙連載鼎談『洛洛春秋』・・・)

 ・・・・・・

松田さんの学校では冬の年中行事で、
朝まだ暗いうちに出発してウサギ狩りに行った。
奥山にえさがなくなって、畑に近い山に移動してくるのを狙うのだが、
50人のクラス全員で1時間か1時間半かかって一山を追い上げても、
一羽も獲物がないこともある。3つか4つの山を狩ると、
もう日は暮れかけていて、学校へ帰って
みんなで食べるウサギ汁はおいしかった、という。

大正時代のおはなしである。
平成のいま、『ウサギ追いしかの山』は童謡の
なかの話だと思っていた・・・・」(p15~16)

へ~。これ大正時代は全国的にあったのでしょうか?
学校でなくても、うさぎ狩りというのはあったのでしょうね。
うん。はじめて知りました。

文章はつづきます。

「数年前、能登半島沖の無人島で放された二つがいのカイウサギが
300羽にまで異常繁殖して話題になった。・・・・

同じ石川県の金沢市で1995年春、カイウサギ20羽が郊外の森に
放される事件が起きたが、こちらは夏までに全滅した。
キツネにやられたのだろう、という。・・・・

このカイウサギ、もともとアナウサギと呼ばれる野性の一種を
長い年月かけて飼育し改良したもので、日本には
約450年前に入ってきた外来動物。
現在、150を越える品種があるといい・・・・・ 」(p16)


はい。松田道雄さんや、天野忠さんが生きていらっしゃったら、
近頃の若い者は、ウサギ狩りも知らないと言ったかどうか?



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「夢ん久作」ごたる。

2020-11-17 | 本棚並べ
本は断片で読んでいるので、ときに、
『アレ、どこに書いてあったかなあ』などと、
思うと始末に困る。気になるフレーズが思い浮かべば、
それを、どこの本で読んだのかが分からなくなってる。

さてっと、こうしてブログを書きはじめていると、
細かい断片でも、書きこめるので、面白いですね。
私が以前に読んで時間を置いて思い浮かぶのは、いつも、
細かい断片のようなエピソードだったような気がします。

それなら、普段からブログに書きこんでおけばいい。
これは、きっと、あとで思い出しそうな断片だなあ。
という箇所が、何となくわかるんですね。

たとえば、こんな箇所。
「女子学生、渡辺京二に会いに行く」(文春文庫)の
最後の方にありました。

「・・僕のおふくろは現実的な人で、
『京二、どうするつもりかい』というから、
『うん、郷土雑誌を出して、いろんな郷土の企業から
広告をもらったりして、その雑誌で食おうかと思う』と言ったら、

また『「夢ん久作」ごたること言うて』って。おふくろは
推理小説家の夢野久作のことを言っているのではないんですよ。
庶民の中で、なんか夢のような、ホラのような話をする人間のことを
『夢ん久作』と言うようになったんですね。
『夢ん』というのは九州弁で、『の』を『ん』と言うんですよね。
『ごたる』というのは『ような』という意味よ。・・・・・

それでも姉が当時の金で30万出してくれたのよ。
それで『熊本風土記』という雑誌を一年間出したの、
だけど、うまくゆかずに潰れたのね。

そしたら僕の五高時代の友人が、
『渡辺君、塾やれ』って言うの。・・・・・

当時は、塾によっては、できんやつははねる塾があったんだけど、
僕の塾は、できるやつも、できんやつもとる。で、
わからんやつは徹底してわからんで、おもしろいんだ。

The leaves will turn red in autumn.
ってわかるでしょう。葉っぱは秋になりゃ赤くなるってことだね。
高校二年の生徒が、ほんとに英語がわからない。
そいつに訳せと言ったら、相手は苦しまぎれだね。
辞書を引いて、
『サルは秋には赤く曲がる』。

『なに? おまえが言うとる、さるは、
猿のオケツは真っ赤でござるの、あの猿か?』

って僕が聞くわけですよ。
リーヴスは、リーフの複数形でしょう。
それを辞書で引いたら、動詞で『去る』と出てくるでしょう。
だけど、『さるは』というんだから、動詞が主語で来るのは
おかしいでしょう。だけど、日本語には、
『会うは別れの始めなり』ってあるじゃないの。
日本語は会うって動詞が主語になるじゃない。
だから『去るは』って言ったんだ。
ターンだから『曲がる』というわけよ(笑)。

それで三年ぐらい楽しくやったんだよ。」
(p258~260)

はい。英語がわからない私は、身につまされて、
これを読んで、笑ってよいのか泣いてよいのか。

それでも、ひとつだけわかるのは、
この英語塾の先生が『楽しくやったんだよ』
という一言が何より救いとなります。ハイ。 

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ラリルレロ。

2020-11-16 | 本棚並べ
渡辺京二著「夢ひらく彼方へ ファンタジーの周辺・上」
(亜紀書房・2019年)をアマゾンで古本注文送料共912円。

「本書は熊本市橙書店にて2019年1月から月に2回に
わたって行われた講義をまとめたものです。」
とあります。
第一講「読書について」で88歳のご自身を語り
はじまっておりました。

「私はある主題について書こうとすると、
文献の読破から始めます。もちろんこれは誰でも
そうする訳でしょうが、この点では私はちょっと自信があるのです。
・・・・・・
よくない頭をぎりぎり働かせる強さという点では自信があったのです。
ところが今回は頭がもうしんどい、いやだと音をあげるのです。

こんなこと初めてです。自分が心身ともに
衰弱しているのにやっと気づきました。

まあ、88歳でありますから、老衰も当然かと思いますけれど、
ひとつには石牟礼道子さんが亡くなられたということもあります。

病を抱えた彼女の老後の世話をする責任がなくなって、
楽になりそうなものなのに、逆にどっと疲れが出て来たのでしょう。

とにかくこの一年でにわかに歩行が困難になり、
耳が遠くなり、声が出にくくなりました。

老人ホームの彼女の部屋には、発声訓練をするために、
ラリルレロ、タチツテト、パピプペポと大書した紙が
張ってありました。それを思い出して、

ラリルレロとやってみるのですが、まあ言えぬことはない。
彼女はよく高い美しい声で唄を歌っておりました。

私に小言を言われたあとなど、
『叱られて𠮟られて、あの子は町へお使いに』なんて歌うんです。
亡くなる前には『園の小百合撫子垣根の千草』という
ドイツ民謡をよく歌っていらっしゃった。

私は唄は下手くそで、小学校の時も唱歌は『乙』でしたけど、
彼女の真似をして『園の小百合・・・』なんて、
夜中ひとりで歌っています。
これもまあ音程がはずれたりするけれど歌えぬことはない。
とにかくのどの具合が悪いのがひどく気持ち悪い。

 ・・・・・・・・・

さっき言いましたように、どうものどが弱って来ている。
人様にお話するには、それなりの大声を出さなければなりませんから、
のどのトレーニングになる。そういう次第で・・・
喋るのならまだ出来そうだと虫のいいことを考えた結果、
オレンジ(橙)で定期的に話をしてくれという
田尻久子さんのご要望にお応えすることに致しました。」

こうして
第二講「ナルニア国物語」の構造
第三講 C・S・ルイスの生涯
第四講 トールキンの生涯
第五講 中つ国の歴史と「指輪物語」
第六講 「ゲド戦記」を読む
第七講 マクドナルドとダンセイニ

の講義が始まるのですが、
私は第一講で、もう満腹。
ちなみに、好き嫌いで興味深い箇所を
引用しておくことに。

「ファンタジーは1960年代以降、世界的に流行のジャンルでして、
ひと頃はミヒャエル・エンデが評判でした。
ですが私はエンデはどうもダメなんです。

ある種の思想的主張をファンタジーの形で絵解きしているみたいで、
あれが大学の先生の間でもち上げられたのももっともですけれど、
私はそういう思想の絵解きはきらいなんです。

ひとつも楽しくありません。
自分の鬱屈を救ってくれるところもありません。
文学というのは、この世の悲しみ苦しみを負わされた者を、
束の間であれ救済してくれるものでなければなりません。」(p14)

はい。私はここまでで、もういいや。
また、思い浮かべば、続きを読むことに。
ちなみに、この本には下巻もあります。
せめて、下巻の目次を引用しておくことに。

第八講 英国の児童文学1 グレアムとボストン
第九講 英国の児童文学2 ファージョンとトラヴァース
第十講 アーサー王物語とその周辺
第十一講 エッダとサガ
第十二講 アイルランドと妖精
第十三講 ウィリアム・モリスの夢
第十四講 チェスタトンの奇譚




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ありがとう、彼女たち。

2020-11-15 | 本棚並べ
本棚から、文春文庫をとりだす。
「女子学生、渡辺京二に会いに行く」(2014年)。
単行本は、2011年9月に出ていたようです。

うん。以前に読んで、その際の印象が鮮やかでした。
それなのにね。内容はすっかり忘れております。
読んだ際に、線を引いておいたので、その箇所を
パラパラとひらく。

うん。あらためて思うこともありました。
津田塾大学のゼミの女学生たち数人が、
各自の卒論のテーマを、まず渡辺京二氏に
簡単に説明してから、座談がはじまってゆく一冊です。
うん。読みかえせてよかった。
簡単に読めるし、こればかりは読んだ人の特権として
楽しみは語らずにおくことに(笑)。

ここでは話の最後の締めくくりの渡辺京二氏の言葉を
引用してみることに

渡辺】 この二日間で、僕がいかに幼稚な人間であるか、
よくおわかりになったと思う(笑)。

自分で80歳になったという自覚が全然なくてね、
僕は60歳ぐらいまでは、もう60になった、
当然だなと思ったけど、ある日80になっとったのよ。
おかしいな。20年間もたったはずがないぞ。

龍宮城に行っていたのかなって。
・・・・

あなたたちのような若い人に、
僕が自分勝手に話すわけですから、
少しはあなた方にわかりやすいようにとは努めましたけど、
本質的にそれ以上やさしくできないところがありますから、
だいたい地を出してお話しした。
それでもちゃんとうけとめてくださった。

今あなたたちは、とてもつき詰めた気持ちを持っておられますが、
そういう気持ちや一時の感激は、持ち続けるってことはなかなか
できないことなんです。だから、それを思い返し、思い返しして
いくということがあってほしいもんだと思います。

僕はあなたたちと二日間お話して、
男の野郎、何しているんだと、思うね(笑)。
何して遊んでいるのかなあ、もう、男はあてにならんから、
今後は女をあてにすることにした(笑)。
  (p262~263)


ご自分を幼稚だという人間が、
「あとがき」でこう語ります。

「・・・・今日の世相にうとい私は、
彼女たちからいろいろと教えられる点が多かった。
ありがとう、彼女たち。
どうか、どんな不運に出会おうとも、
しあわせになってください。・・・・」(p265)

コメント (2)
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