和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

言葉を楽しむ習慣。

2022-01-09 | 地域
久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」(光芒社・平成12年)に
出てくる明治が思い浮かびます。
まずは、高田敏子の年譜から

1914年(大正3)9月16日、東京日本橋区(現在中央区)に生まれる
(次女)。旧姓塩田。父政右ェ門、母イト。家業は陶器卸商。
  (自編年譜「高田敏子全詩集」花神社より)

久冨純江さんは、高田敏子の長女(1935年生れ)です。
それでは、久冨さんの本からの引用。

「学問にも文学にも縁のない家だったが、ふだんの暮らしのなかで、
言葉を楽しむ習慣はあったようだ。」(p187)

このあとに、高田敏子の文を引用しております。

『私の家は商家だったので、学問には縁はなかったが、
祖母や父母が折々に口にする芭蕉、一茶、千代女の句、
道元禅師の歌など幼い耳にも親しめるものがあった。

  朝顔に釣瓶とられてもらひ水 (千代女)
朝顔の種を蒔き、水をやり、のびたつるに竹を添えて
毎朝花を数えるたのしみを知りはじめたころに、
母からこの句を教えられた。私が一番初めに覚えた七五調、
その頃は井戸も身近にあったことで、その意味もすぐにわかり、
朝顔のつるが自然に竹の方にむいてゆく不思議さもおもった。
  ・・・・・・・・・・

 春は花 夏ほととぎす 秋は月 
     冬雪さえてすずしかりけり (道元禅師)
この歌は、祖母から教えられた。花の下、月の夜、祖母は
≪ああ、ありがたや≫というようにして、口ずさんでいた。

祖母や母が、特にいくつもの歌や句を知っていたわけではないのだが、
それだけに同じ歌、句を繰り返し聞くことにもなって、
子どもの心にもはいってゆく。
覚えやすい七五調の音律が、自然にものの見方や思い方を教え、
昔の家庭ではそれが教訓にも、しつけにもなっていたのだと思う。』

このあとに、久冨さんの文になっておりました。

「本家に泊まると、朝、大伯父の朗詠する明治天皇の
御製を聞きながら幼い母は目を覚ました。
この時代の人たちがおおかたそうであったように、
大伯父も明治天皇の崇拝者で、伊勢神宮、皇居の遥拝のあと、
仏壇の上の壁にかけてある御真影に向かって
何篇かの御製を朗々と歌い上げる。意味が分からないままに、
母はその心地よい調べをうつつの中で聞いていた。

祖父政右衛門の唯一の楽しみは浄瑠璃で、
夕食後の茶の間で語っていたし、祖母は
毎月の芝居見物でなじんだ台詞を使って躾をする。
・・・・」(~p188)


今泉宜子編「明治神宮戦後復興の軌跡」(鹿島出版会・平成20年)
の最後の方に、ひとつの写真があり、印象深い。写真下には
「明治神宮復興遷座祭の日。
 この日を待ちわびていた多くの参拝者が集まった」とあります。

その写真は、復興なった明治神宮の側から、
賽銭箱の柵の前で、参拝に来られた方々の、
顔顔が写されているのでした。
最前列には、白髪のご婦人方の着物姿が並びます。
待ちわびたような、安堵したようなご老人の方々で、
その後ろにはもう顔顔顔が写りこまれております。
うん。この本の表紙カバーにも、同じ写真が載せてありました。
後ろの門のところから、まだ人が続々とつめかけているのが
わかります。

そうでした。産経新聞(1月4日)の平川祐弘氏の対談に
こんな箇所があったのでした。

平川】 ・・明治天皇の和歌を読みますと、
   神道の気分がよく出ています。明治神宮には、
   月ごとに明治天皇の御製が掲げられており、
   参拝のたび、すばらしくて感心しています。
   おおらかで、王者の風の歌でいいなあと思います。

今泉】 先生は、神道の詩的表現が明治天皇の御製に
    表れているとよくおっしゃいますね。


はい。最後には、掲げられる御製から一首を


   あさみどり澄みわたりたる大空の
           廣きをおのが心ともがな


コメント (5)
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