和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

地味で手のかかる。

2008-11-30 | Weblog
「別冊こどもとしょかん」という冊子を手にしました。
はじめに小さく「石井桃子さんがはじめた小さな子ども図書室」とあります。
題名が「かつら文庫の50年 記念行事報告」となっております。

私が紹介したいのは、最後にかかれている荒井督子さんの「記念行事を終えて」でした。
はじまりは、こう書いてあります。
「2007年の春だったでしょうか、『かつら文庫』五十周年記念行事の計画があらまし決まったとき、私は石井先生のところにお伺いして、その計画についてお話しました。石井先生は、朝日ホールでの集まりについて、『そういうことをするのが、はたしていいことかしらね』と、疑問を呈されたのです。・・・私たちは、石井先生が派手なことはお好きでないことをよく承知していましたから、その意を汲んで何度も話し合い、できるだけ地味で、実のある会にしようと努力しました。・・・」

私が、これは引用したいと思ったのは、以下の「田島さんの手紙」の箇所です。

「茨城県の田島多恵子さんも、後日お手紙をくださいました。『子どもによい本を与えるために文庫を開く』という考えには抵抗があったという田島さんは、石井先生の『子どもと本を一つところにおいて、そこにおこる実際の結果を見てみたい』という文章に心を打たれ、『自分がよいと思った本と子どもたちを一つところにおいて観察するのなら、私にもできる』と思って、文庫をはじめたといいます。『いつもかつら文庫がお手本』だったという田島さんは、この日の『子どもたち』の話を聞いて、『かつら文庫の会員たちが、成人してもなお、自分たちが出会ってきた本に確固たる信頼を抱いているのは、かつら文庫のおとなたちが、一冊ずつ内容を確認するという、地味で手のかかる基本のルールを崩さないからではないでしょうか』といい、子どもから学ぶという石井先生の精神を大切にして、今後もていねいに本を選んでいきたいと述べておられます。」(p83~84)

うん。ここまで引用したなら、それでよいのですが、
あとは、余談にわたります。
この冊子に松岡享子氏の講演も掲載されておりました。
その講演のなかに
「一昨年、石井さん99歳の折に、私どもが行ったアンケートに、『本に石井桃子と書いてあったら、安心して手を出す』と書いていた人が何人もいました。多くの人にとって、石井桃子の名はおもしろさの保証になっています。」(p62)
 そうはいっても、石井桃子さんの本は多くて私などはとても読みきれません。
では、どの本をよめばよいのやら。
以前のことですが「毎日新聞2008年5月11日の今週の本棚」にこんな箇所がありました。
そこに松岡亨子が選ぶ石井桃子「この人・この3冊」が掲載されておりました。
その松岡さんの文の最後に、こうあります。
「ご参考までに、石井さんご自身が、これらの作品によって記憶されることをよしとして選び、お墓の脇の石に刻ませたのは、次の六作品である。すなわち
『ノンちゃん雲に乗る』
『幼ものがたり』
『幻の朱い実』
『クマのプーさん』
『ピーターラビットのおはなし』
『ムギと王さま』                」

そしてお墓の石に刻ませたということで、思い浮かんだ言葉があります。
それは、今年のはじめに朝日賞を受賞した石井桃子さんの受賞の挨拶でした。

「初め、この賞をいただきましたときは、なぜ私がこれをいただかなくちゃならないのか、という疑問にさえ包まれたのでした。その賞と、ひと月以上の間、一緒に寝てみました。私の上に賞をくだされるという大きなショック、それこそばくだんとも言うべきショックとなって現れたのです。それがみるみる大きな輝きとなって、私のところまで飛んできて、そしてみるみる私の体内に入り込むと、それが体の中心、自分のおへその中心あたりまで沈み込み、そして『ことっ』と落ちたと思うと、そこで動かなくなったのです。そのとき、やはり私の声で、お礼を申し上げてこなければいけない、と思いました。『朝日賞をいただいた人間です』といってこの世を去るよりも、六つ七つの星に美しく頭の上を飾られて次の世の中に行きたいと思っています。栄えある賞の受け手として私をお定めになったとき、地面の上にひれ伏すような気持ちを味わわせてくれました。ありがとうございました。」


私には分かりにくい石井桃子さんの言葉なのですが、
「六つ七つの星に美しく頭の上を飾られて」という言葉のヒントが
きっと「お墓の脇の石に刻ませた」六作品のなかに隠されているのじゃないかと思ってみるのでした。
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私が虫ならば。

2008-11-30 | 詩歌
産経新聞11月30日の産経歌壇。
小島ゆかり選の最初の歌は、これでした。

  虫の声日日に細ると書く日記こおろぎ一つこぼれて鳴きぬ  
             兵庫・上郡町 福原春子

この【評】は
「虫の声が細り、おのずから季節が移ってゆくころのはかない気分がよく表現されている。『こおろぎ一つこぼれて鳴きぬ』という発想がすばらしい。下句、いかにもこぼれる感じのリズム。」

 もう、11月も終りで、さすがにこおろぎも聴こえなくなりました。
ところで、新美南吉詩集なのですが、

    幸福(A)

 氷雨のあとの
 空に
 涙
 のごはれた眼のやうに
 光を澄む星たち
 わたしは鉄砲風呂に
  ひたりながら
 湯の中へ かじかんだ
 指を花のように 開く
 ああ こんな幸福も
 あつたのか
 わたしが虫ならば
 こんなときだ
 ころころと唱ひだすのだ


 この詩の最後の3行
「わたしが虫ならば こんなときだ ころころと唱ひだすのだ」
とあるのが印象に残っております。
その「わたし」がこほろぎを聴くとどのような詩が生れるのか。
ちょっと長めの貴重な新美南吉の詩がありました。

     こほろぎ    

 いつぴきの蟋蟀は事務的に鳴いてゐる
 間欠的にベルが鳴つてゐるやうだ
 
 いつぴきの蟋蟀は笛を吹いてゐる
 先生が子供を集めるあの笛
 木のはしくれがはいつてゐてピリリリと鳴るやつ

 いつぴきの蟋蟀は歯が痛むらしい
 漬物樽のかげで
  
 葉蘭の向うあたりで愚痴をいつまでも
 やめない一むれがある
 銭がないにきまつてゐる

 例へば『おいどうしたい』とか
 『は、てもなくやられちやつてね』などと
 うまく喋舌るやつもゐる

 遠くの方で何だか解らんが怒鳴つて
 ゐるのもある。
 何かをせつてゐるらしい。
 
 ひどく散文的に、国定教科書を
 やや表情をつけて読むやうに
 鳴いてゐるのもある

 いつぴきの蟋蟀は女が編物をするやうな
 鳴き方だ
 三声ばかり連続して鳴いては一句切つける

 いつぴきの蟋蟀はさして大きくはないが
 さびのある声で四声ばかり鳴いた
 そいつの声を待つてゐたが二度と鳴かなかった。

 例へばお茶の葉が半分ほどはいつてる
 缶を転がしてやるとぢきとまつてしまふ
 中のお茶がとめるのだ
 そんな風の鳴きやみ方をするのもある

 さあこつちの仕事は一片ついた
 これから思ふ存分――といふようなのびのびした
 鳴き出し方で始めた
 すぐ 鼻の先で
 ひどく嗄れた声で鳴いてゐるいつぴき

 縁の下あたりで息も絶えだえに
 末期の遺言をしてゐる
 それがまた歌舞伎の愁嘆場のやうに
 ながい 子供が見物なら倦くだらう

 ふいと黙つてしまつた
 山で初茸を見つけた子供のやうに
 こいつは茄子の切れつぱしを発見したらしい

 はやくも僕を身近に感じた
 声をひそめてしまつた
 僕は樹木や石と同じ様な
 存在であると思はせるため
 長い間 ぢつとしてゐる
 だが彼は騙されない
 草のかげから叡知と恐怖をたたへた眼で
 僕を凝視してゐる
 その眼を探しても迚(とて)もみつからぬ
 あまり小さいので。

 朝起きて庭に下りて見るとまだ
 主張してゐる 何か一身上の大問題らしい
 だが その根気のつよいのには顔負けする
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試験用紙の裏。

2008-11-29 | 詩歌
すこし前から、新聞広告の裏が白紙になっているのを、取っておいて、メモ用紙として使うようにしてます。電話の脇に置いたり、備忘録がわりに数枚重ねてクリップボードにはさみ込んでおきます(まあ、気持ちの問題です)。新聞広告って、両面印刷がほとんど。時に裏が白紙のものもあります。たとえば、パチンコ店の広告。それと地域の商店のチラシなどです。

え~と。なんでこんな話からはじめたといいますと、
11月24日の読売歌壇。その岡野弘彦選の二首目に、こんな歌があったのでした。

  「残すものないのよお笑い下さい」と亡き母が書きし広告の裏
                      神戸市 遠藤俊子

その【評】は
「百二歳で世を去った母親は、広告の紙の裏に折々の思いを書きつけておく習慣があった。この言葉も死後にメモの中から見つけたという。心にしむ美しい言葉だ。」

別に、何に書いてあろうとも、美しい言葉というのはあります。
そうそう。校定新美南吉全集第八巻(大日本図書)の、詩の【解題】に
「本文は試験問題が印刷されたざら紙の裏に書かれた自筆原稿(1939年11月21日)を定本として作成した。試験問題は安城高等女学校の四年生・国語のもので・・・この執筆日の年度には、南吉は英語以外・・四年生を担当していないことから考えて、本用紙を使った作品は多くはなかったと思われる。・・不要となった問題用紙を利用して学校で制作したと思われる。」(p383)
それでは、試験問題の裏に書かれたという、当の詩を引用してみます。

        木      

   木はさびしい

   木は老人の手のやうな幹を
   冬陽にてらされながら
   はてもなく淋しい

   ある日ふと私は
   木のさびしさにふれた

   ああ、
   さうざうしい生活の中から
   歩いて来て
   木の幹をなでたとき
   私の掌に
   それが伝つて来た

   木のさびしさはあつたかかつた
   向うに白い雲も見えて


ところで、牧書店の「新美南吉全集」というのが古本で安かったので、購入してありました。そこの8巻は日記。そこをパラパラと拾い読みしていたら、こんな箇所がありました。昭和15年2月5日(p62)
「土曜日。『それはなんだい』と、校長が昼めしのときにきいた。僕は飯をたべながら読んでいた本をみせて、『萩原朔太郎です』という。午後詩想が湧いてくる。職員室で書きはじめる。ベルがなる。掃除の時間だ。まだ書ききれない。校長がガラッと校長室のドアを開けて、はいってきた。原稿から顔をあげたら、眼と眼とぶつかった。校長の眼がにげた。ここでは、何物にも熱中してはならないのだ。熱中は禁物。それは、こまごまとした日常生活の規則を無視しがちだから。・・・」


そういえば、ハルキ文庫「新美南吉詩集」の編者解説・谷悦子氏の文を読んでいたら、何とも今年(2008年)の特別展のことが書かれておりました。最後にその引用。

「南吉は、1938年4月、県立安城高等女学校に新任教員として赴任し、その春入学したばかりの一年生の担任となった。その後、自ら希望して彼女たちが卒業するまでの四年間担任を続けた。今年はその赴任から七十年めに当ることから、新美南吉記念館では『特別展 教師南吉と67人の生徒達』(2008年7月19日~10月13日)を開催。あわせて、『座談会 教え子達が語る教師南吉』(9月13日 於雁宿ホール講堂)が行われた。現在83歳になる教え子たち8名が、『教師南吉』について生き生きと語るのを聴いて、彼女たちの中に南吉の詩精神が今も生き続けているのを感じた。・・・生徒にとっては『詩に始まり、詩に終わった四年間だった』(特別展パンフレット)ようだ。・・・」
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詩「合唱」。

2008-11-28 | 詩歌
新美南吉の年譜(ハルキ文庫)を見ると、
童話「ごん狐」が19歳(1932年)で、「赤い鳥」1月号に掲載されておりました。それで「手袋を買ひに」は20歳(1933年)。詩「落葉」というのは、それから5年後に書かれたようです。

    落葉

 私ガ烏臼ノ下ヲ
 ユクト
 金貨デモクレルヤウニ
 黄イ葉ヲ二枚
 落シテヨコス
 サテ私ハ
 コノ金貨デ
 手袋ヲ一揃買ツテ
 懐シイ童話ノ狐ニ
 持ツテツテアゲヨウ


この詩が書かれた頃の、1938年(昭和13年)は南吉が25歳。
4月より安城高等女学校教諭となります。英語・国語・農業を担当。
さて、文庫の詩集を読んでいると、ちょっと毛色の違うような、面白い詩がありました。もちろん私にそう思えただけなのですがね。それは「合唱」という詩でした。その詩を引用する前に、ちょっと全集第八巻の、その詩にまつわる解説を読んでみたいと思います。南吉の1939年の日記にあるというのです。学校の授業の様子がうかがえます。
「細井美代子の日記にこれから毎日詩を一つづつ作ることにきめたと書いてあつた。また佐薙の日記にも詩が書いてあつた。そこでついに一月毎に自由詩のパンフレットを作らうと決心した。佐薙がこの春でこちらをやめ東京の方へいくらしいので少しでもよい思い出を与へてやりたいと思ふのである。(1月30日)
一年作文。想像による叙事文の解説(中略)それから詩のリーフレットの説明。(2月1日)
・ ・・・
佐薙が自由詩の原稿を持って来た。十余篇ある。水曜日にあの話をしてから、これだけ書いた精力は大したものだ。四篇ばかり見るべきものがあった。(2月3日)
自由詩があつまった。細井美代子と杉浦静子にいいものがある。三十篇選んで原紙を切りはじめた。(2月7日)
午後詩集の印刷にかかったがなかなか手間どった。・・(2月13日)  」

この生徒詩集は第六集まで発行されたそうで、ざら紙を横半分に裁断してホッチキスで袋とじにしたものでB6判(縦約12.5センチ、横約16.8センチ)、青インクの謄写刷り。1939年2月発行から、9月には最後の第六詩集が出ております。

さて、生徒の詩に混じって、新美南吉の詩も、そこには掲載されておりました。そこに詩「合唱」がありました。では、前置きはこのくらいにして、詩を引用しましょう。

     合唱   新美南吉

 私ハ新シイ背広ヲ着テ
 立ツテイル
 
 少女達ノコーラスガ
 ユルヤカニ光ツテ右ヤ左ニ流レル

 少女達ノコーラスガ届クトコロカラ
 雲雀ガノボリダス

 少女達ノコーラスガ届クトコロニ
 菫ガ落チテイル

 少女達ノコーラスハ
 小川ヲ越ス

 遠クニ白イ牝牛ガ見エル

 私ハ少女達ノコーラスノナカニ
 花束ノヨウナ心ヲ抱イテ立ツテイル

 少女達ノコーラスハ私ヲスギテ流レ
 少女達ノコーラスノ届クトコロカラ
 コトシノ春ガハジマル

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確信している。

2008-11-27 | Weblog
ハルキ文庫の「新美南吉詩集」を読んだら、そうだ。そうだ。岩崎書店の「美しい日本の詩歌」というシリーズの一巻目。「新美南吉詩集 花をうかべて」を、あらためて開いてみたくなりました。( こちらは、小学校の図書館に入るような分かりやすいシリーズのようです )こちらを、読んだのは、もう8年ほど前になります。その岩崎書店の本には、最後に北川幸比古氏の文章が載っておりました。そこで北川氏は、一読、忘れられない指摘をしております。

「しかし、まだ定評とはいえない。南吉の詩作品の評価は、読者のひとりひとりがこれからするのである。私は南吉の詩は、ときには童話をぬくほどの文学だと、確信している。」

その北川氏の「確信」を、私は読んで、うなずいていたはずなのに、さらに調べて「校定新美南吉全集第八巻」を読んでみようともしませんでした。この第八巻目は、南吉の詩・童謡271篇、短歌36首、俳句393句が入っていると北川氏は最初に書いておりました。ちなみにシリーズの本には詩・童謡38篇、短歌2首、俳句7句を選んで編んだとあります。「読者のひとりひとりがこれからするのである。」というを、読者である私はおろそかにして、いままでおりました。

そうそう、そのころ私は、全集を読むという発想がありませんでした。
それに、ネット上で検索するということも考え及びませんでした。
今なら、ネットの古本屋で検索すれば、すぐに見つかります。
しかも、第八巻だけで注文できるじゃありませんか。
ならば、第八巻だけ注文してみました。
これで、北川氏の「確信している」を、私なりにたどり直すことが出来ます。ただし、私は新美南吉の童話等は読んでおりません。あしからず。というところです。さっそく、第八巻を読んでみました。手ごたえは、ハルキ文庫の「新美南吉詩集」があれば、十分に南吉の詩を堪能できると分かります。まあ。それほどにハルキ文庫の編纂が上手く出来ております。

ところで、北川幸比古氏のあとがきが、魅力的なのです。
そこに、遺稿から巽聖歌氏が選んでつくった詩集「墓碑銘」。
そのカバー袖に書かれている伊藤整氏の言葉が引用されております。「新美南吉詩集は、実に立派なものだ。彼は自分が何に感動したのかを知っている。そして、それをどのように表現すべきかを知っている。素晴らしい詩集だ。日本の詩が荒廃の極点にあったようなとき、この人は、ひっそりと生きて、石ころの間に混じる宝石のように、本当の詩を書いていた。それをまとめて読むことができるのは、読む人の幸福である。」

うん。ハルキ文庫の「新美南吉詩集」は、その幸福のありかを探りあてるための
絶好の地図を提供してくれている。そう私は思うのです。新美南吉は大正2(1913)年に生まれ。昭和18(1943)年に亡くなっております。ここで、伊藤整の言う「荒廃の極点にあったようなとき」というのは、その戦争中のことを指しているのでしょう。
まあ、詩を二篇。

    詩人   新美南吉

  闇黒の中に
  一点の光を見つけると、
  その中から
  何か詩趣を見出さなければ
  おかない俺だ。

・・・・・・

  俺は只、
  太陽と地球の間に
  生滅する事実を
  紙の上に書き連ねてゐる
  馬鹿な男なのだ。

・・・・・・

  只、俺は、
  天地の間から詩趣を見出せば好い。
  そんなに俺は馬鹿げた男なのだ。

                 (以上は半分省略しました)




    霙(みぞれ)   新美南吉

  まづ火屋(ほや)を
    研ぎすませ
  古い油をすて
  精製された美しい
    油を みたせ
  芯を一文字に切れ
  燐光の青さを 
    点じ
  炎の明るい花を咲かせよ
  その下に
  詩の 雪白の
    用紙をおけ
  ほら聞えないか
  しんしん と
    枯山に
  霙のしみる 声が
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嚆矢(こうし)論語。

2008-11-26 | Weblog
佐久協(やすし)著「高校生が感動した『論語』」(祥伝社新書)。
この新書で、やっと論語が読めた気がします。
論語は、いつか読みたい、と思ってました。
そして、思うばかりで読めずにおりました。
弟子との会話なのに、読めない。
論語の日本語訳を読んでいると、
会話を聞いている感じに、どうしてもなれない。
ということで(私が読む気にならなかっただけなのですけれど)
今まで、読まずに。読めずにおりました。
それが、この佐久協著「高校生が感動した『論語』」
を開いたら、あ~ら不思議。
すらすらと読めてしまう。
これは楽しい。たとえば、

   子日、徳不孤、必有鄰、

これを、佐久協訳では、

孤立を恐れるんじゃないよ。正しいことをしていれば、必ず同調者が現れるからね。

もうすこし引用します。

 子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟(てい)、
 謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、
 行ないて余力あれば、則ち似て文を学べ。

これが、佐久論語になると、どう現代語訳されているか?

 家では親の手伝いもせず、外では老人に席も譲らず、
 相手を騙してでも人に勝ちたい、周りはぜんぶ競争相手だと
 ネジリハチマキで勉強最優先の生活を送っている若者がいるが、
 本末転倒もいいところだね。人を思いやる余裕のないうちは、
 いくら勉強したって何も身につきゃしないよ。

この箇所のご自身の解説も、引用しておきます。

 原文は「若者はかくあれ」と肯定文で書かれているが、
 否定表現で訳した方が分かりやすいだろう。孔子の説く学問とは、
 知識の集積ではなく善く生きることの実践である。

佐久協(さくやすし)の略歴もありましたので載せておきます。

「1944年、東京都生まれ、慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院で中国文学・國分学を専攻。大学院修了後、慶應義塾高校で教職に就き、国語・漢文・中国語などを教える。同校生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれてきた。2004年退職。」

この論語の現代語訳の苦心は「あとがき」にありました。

「それにしても短い章句に実に様々な訳や解釈のあることに今さらながら驚かされた。いったい孔子は何を言わんとしているのかと頭を抱えて投げ出したくなることも屡々(しばしば)だったが、そうした際に最も参考になったのは、これまで三十余年にわたって大学ノートに書き貯めておいた生徒の質問や試験答案中の迷訳や珍訳の類(たぐい)だった。今はチリヂリとなった嘗(かつ)ての生徒諸君にこの場を借りて心より謝意を伝えたい。私の祖父・佐久節は旧制高校や大学で漢文および中国語を教える傍ら漢学者として膨大な著作を残したが、大正六年(1917年)には旧制高等学校用の漢文教科書『論語抄』を編纂している。・・・まがりなりにも訳を終えて思うに、聖典としてではなく、一著作としての『論語』の解釈は、ようやくこれから始まるのではないだろうか。不遜を省みずに言えば、本書がその嚆矢(こうし)となれば幸いである。」

こういう「あとがき」を読んでから、佐久論語を読み直すと、また違った身近な味わいを感じます。たとえば、この箇所。

  子曰わく、黙してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、
  人を誨(おし)えて倦まず。何か我れに有らんや。

これの現代語訳は、

  黙々と過去を探求し、気長に学び、学んで得たことを人に教えて飽きない。
  わたしはこれを自分の取り柄として生涯持ち続けていくつもりだよ。
  他には何の欲もないね。


ちょっと、堅苦しい引用になってしまったでしょうか。
それなら、最後はこんな訳でもって終ります。

    子、怪力乱神を語らず。

この佐久論語訳は、といえば

  先生は、ミステリーとヴァイオレンス、
  ポルノとオカルトに関しては触れなかった。


そうそう、新書の帯には、10万部突破とあり、
「慶応高校人気No.1 伝説の授業が本になった!」とあります。
慶応高校の生徒だけが享受していた授業が、ここに解禁となったわけですね。
バンザ~イ。佐久協の論語に、乾杯!





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電車。

2008-11-25 | 安房
私は、千葉県の南房総で生まれ、暮らしております。
町には、JRの和田浦駅があります。
ということで、房総に関連する、文には興味があります。
先ごろ、角川の「短歌」11月号を、ある方から頂戴しました。
そこには、クリシュナ智子さんの短歌が載っておりました。
クリシュナさんは同じ町内の出身です。

ということで、クリシュナさんの短歌。

  安房郡は南房総市となりてインド姓もつ吾のごと故郷

  せつなきは第二言語で過ぎる冬life goes on and on,and so on

  平成を知らざるわれは国鉄にゆられ海みる夢をまたみる


短歌を読んでから、新美南吉の詩を文庫で読んだのです。
たまたま、そこに電車が出てきました。並べてみたくなりました。


     春の電車    新美南吉

  わが村を通り
  みなみにゆく電車は
  菜種ばたけや
  麦の丘をうちすぎ
  みぎにひだりにかたぶき
  とくさのふしのごとき
  小さなる駅々にとまり
  風呂敷包み持てる女をおろし
  また杖つける老人をのせ
  或る村には子供等輪がねをまわし
  或る村には祭の笛流れ
  ついに半島のさきなる終点に
  つくなるべし
  そこには春の海の
  うれしき色にたたへたらむ
  そこにはいつも
  わがかつて愛したりしをみなをりて
  おろかに心うるはしく われを
  待つならむ
  物よみ 草むしり
  小さき眼を黒くみはりて
  待ちてあらむ
  われ けふも みなみにゆく電車に
  わが おもひのせてやりつれど
  その おもひ とどきたりや
  葉書のごとくとどきたりや

  

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論文読み。

2008-11-24 | Weblog
雑誌「Will」1月号を読んでみました。

  田母神前空幕長独占手記 50枚
  田母神論文の歴史的意義 中西輝政
  「東京裁判史観」の呪縛 渡部昇一

以上3人の雑誌掲載文を読ませてもらいました。
ちょっと引用する前に、11月19日産経新聞「断」の潮匡人の文が
印象に残ります。それから

「『招致』した田母神『参考人』の反論を封殺、与野党で『反省』を迫る。・・・根幹をなす表現の自由すら侵害された。奪ったのは、他ならぬ『文民』である。・・夕方の『スーパーJチャンネル』(テレ朝)では大谷昭宏コメンテーターが『単位が取れないような論文』『まさに稚拙そのもの』と罵倒・・隣の小宮悦子アナも『稚拙ですよね』『文民統制という言葉を勉強していただきたいですね、ぜひ』と追従。
反応したくないが、放言にも程があろう。ここまで言うなら、自分で論文を書いてみろ。・・・」

ちなみに、参考までに雑誌「Will」には問題の田母神論文も全文掲載されております。では、雑誌の田母神氏の掲載手記より、引用

「日本には反日的言論の自由は無限にある。
日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。一方、親日的言論の自由は極めて制約されている。特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。今回の私の論文がその典型である。問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。それは、言葉にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。もっと言論が不自由になる。この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう。どこかで踏ん張ることが必要なのである。」(p45)

田母神氏の認識を支持したいと思うのは、たとえば、この箇所などです。

「私が世間に対して制服姿で積極的に発言するようになったのは将官になってからだ。将官の責任は、自衛隊の中の仕事よりは、外圧と戦うことであると認識していたからである。
東西の冷戦は遥か15年以上も前に終結したが、日本国内においては相変わらず冷戦構造が継続しているというのが私の認識であった。日本人でありながら日本国や自衛隊を貶(おとし)めたい人たちが多すぎる。その認識はいまも変わらない」(p36)

具体的には、こうあります。
「集団的自衛権とは、簡単に言えば戦場で友軍としてお互いに助け合う行為である。日米安保条約にも国連憲章にもその権利が謳われているが、政府は日本国憲法で集団的自衛権は、権利はあるが行使出来ないと解釈している。・・・米軍の大多数の兵士は、日本が集団自衛権を行使できないなどということすら知らないから、もし自衛隊が米軍を見捨てる事態が発生すれば、日米同盟はその瞬間に瓦解することになるだろう。」(p46)

中西輝政氏の文は、田母神論文を説明して懇切丁寧。
これは読んでもらうに限りますので、ここでは省略。
ここは、渡部昇一氏の文の最後を引用しておきます。

「田母神論文については、『騒ぐような話ではない』というのが、正常な国の対処だと思います。田母神論文問題で我々がすぐに思い出すのは、昭和53年の来栖統幕議長更迭でしょう。来栖統幕議長は、『現行の自衛隊法では有事の際に対処できないため、現場指揮官が超法規的行動に出ることはあり得る』という主旨で、有事法制の早期整備を促したことで、更迭されました。そしてそれから25年後、武力攻撃事態対処関連三法が成立し、有事法制の基本法である武力攻撃事態対処法が施行されたのです。
ですから今回の田母神論文については、この論文の歴史観が25年を待たずに政府の公式見解になること、従って教科書の見解になることを期待します。その意味において田母神論文は、『村山談話』か田母神論文かという選択を日本人に迫った点において、実に重要だと思っています。
このままでは日本政府は自国の悪口を言う人は大臣や幕僚長にするが、自国に対して誇りを持つことをすすめる人を懲罰するという、おそらく古今東西に例のない国であることを世界に示すことになります。」(p100)
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新美南吉詩集。

2008-11-23 | 詩歌
新美南吉詩集が角川のハルキ文庫で出版されております。これ、私には楽しい読了感があったのです。楽しいと、ついつい、あれこれと思いながら詩を読みすすみました。う~ん。それをどういえばよいのやら、たとえば、こんな具合です。


俗に現代詩と呼ばれるジャンルがあるわけです。私には、どこから読んでよいのやら、戸惑うばかりの詩の一群。素人が下手に読み齧ると迷路にはまり込むような雰囲気があります。それにしては、現代詩をつくられる方々は、まるで水道の蛇口をひねって自家製のコップに水をそそぐようにして、作詩をしているように感じられる不思議。ということで、現代詩水道水説というのを、ちょいと私は思い浮かべたわけなのです。

たとえば、養老孟司さんは対談で、こう話しております。
「水がまずくなった。山へ昆虫採集に行って山の水を一週間飲むと、東京の水が飲めなくなります。口に近づけただけで臭いますから。毎日飲んでいると気がつかないだけです。先日浦和で講演したときにお茶を出してくれたのですが、やはり臭いがきつい。水道の水で淹れたことがすぐにわかりました。昔は、金魚を飼うときにいきなり水道水を入れちゃだめだと言われたものですが、その通りです。」(「本質を見抜く力」PHP新書p216)

(ちょっとそれますが、竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」の中に「ローマ衰亡から見る命の水道」という魅力的な文があるのです。引用新書の続く箇所などは、それとうまく呼応しておりまして、養老・竹村対談が楽しめるのでした。)


さてっと、現代詩を、現代という水道水をつかった、活字というイメージでとらえと、すっきりとします。そして、新美南吉の詩を、この文庫で読むとですね。あらたに詩の源泉に口をつけているような錯覚を覚えるのでした。と、ここまでが前口上。では、ついこんな連想をしてしまった、きっかけになった新美南吉の詩を引用しましょう。

   泉(A)

 ある日ふと
 泉が湧いた
 わたしの心の
 落葉の下に
  ×
 蜂が来て
 針とぐほどの
 小さな泉
  ×
 しやうもなくて
 花をうかべて
 ながめてゐた

  この詩が、最初の方のp40にありました。
  この文庫詩集の最後p217、に登場していた詩はというと、

  泉(B)

 この泉の水を汲んでくれ
 これはささやかな泉だ
 恰度茶わんに一ぱいほどの水だ
 だが見てくれ
 この水は清冽で
 ま新しいのだ
 無限の青空が
 そのはりつめた方寸のおもてに
 くつきりうつつてゐるではないか
 しんと動かないが
 耳を近づけてきいてくれ
 その底にしんしんと
 力のみなぎるつぶやきが
 聞こえるではないか
 この泉は四方の大きい岩を
 じみじみと永い日夜をかけて
 絶えずしみとほつて来た水が
 一切の汚辱を去り、
 みぢんのにごりもとどめず
 今朝ここに充ちたものだ
 見てくれ、底の砂粒の一つ一つが
 宝石のやうにきらきらしてゐる
 塵一つ、枯葉の片(かけ)一つ
 沈んではゐない
 もつと頬をその表面に近づけて
 見てくれ
 水のやうな息吹が
 泉からたちのぼる冷気が
 君の感覚をさしはしないか
 さあ
 この泉を汲んでくれ
 もろ手を出してすくつてくれ


南吉の詩のフトコロが広いので、ここでは、まずは2篇をもってきました。
文庫最後の「編者解説」は谷悦子氏でした。
そこには、こうあります。
「・・所収されている詩・童謡275篇の中から126篇を選び、作品の特質によって全体を6つの観点に分けて編んだ。通史では見え難い南吉の詩の多様性と豊かさ、民話的と評されがちな童話とは異質な、絵画・音楽・ヨーロッパ文学に精通した南吉の、あまり知られていない世界を開示できるように心がけた。」

その谷悦子氏の「心がけ」がみごとに生きた文庫になっております。
新美南吉詩への門戸が開かれた、そんな絶好の幕開けの一冊となっております。
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ないことの偉さ。

2008-11-22 | Weblog
徳川家康・明治天皇・道元と三人へ補助線をひきたくなりました。

まずは徳川家康。

1590年、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に転封を命ぜられた。関が原の戦いがはじまる10年前のことであった。・・彼らが江戸に入ったときに眼にしたもの、それは何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景であった。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸城の本格建築に着手するのは関が原の戦いの後であり、五層の天守閣の江戸城が完成するのは三題将軍家光の時代である。(昨日のブログからまた引用)


つぎは明治天皇。
これは鼎談「同時代を生きて」(岩波書店)から引用。
それは石川啄木についてドナルド・キーン氏が語っている箇所でした。


 彼は、岩手県の山奥で育った人間ですが、どうしてかわかりませんが、そんな辺鄙なところの小学校を出たばかりなのにワーグナーの音楽を知っていたし、ワーグナーに歌を捧げています。また、イプセンも訳していました。すごい教育だったと思います。世界で、特に中心から遠いところであんな教育をしていたのは、日本だけだったかもしれません。アメリカは決してそうじゃなかったし、フランスもそうでなかったと思います。そういうところで、英語もけっこうできるようになっています。短いものだけですが、英語でものを書いています。文法の誤りはありますが、きわめて面白い、味のある英語です。その頃まで、日本の教育はたいへん進んだものでした。あらゆるところに小学校ができ、中学校ができ、特定のところに高等学校もできました。そして、一流の教育がなされました。日本の政府に、そんなにお金がなかった時代でしたけれども、外国人の教師を呼んでいます。
変な言い方ですが、それは投資として最高のものでした。そういうふうにお金を使ったことが、日本のためになったのです。もし、そのときに同じお金で、たとえば皇室が素晴らしい宮殿を造ったとすれば、ぜんぜん違っていたでしょう。しかし、明治天皇は新しい宮殿建造を断っています。皇居が火事で焼けたのですが、新しい皇居を造るという話が出るたびに、いつも断っていました。それは、ほかの国の歴史にちょっとないことです。また、明治天皇の立像がどこにもないとうのも偉いと思います。
ヨーロッパのどんな小さな国へ行っても、君主の立像とか、乗馬姿の像などが必ずありますが、明治天皇にはそれがまったくないんです。それはたいしたものだと思います。・・・なかったのはそうとうのものだと思います。(p180)


つぎは道元の「正法眼蔵随聞記」の5-10「楊岐山の会禅師」
水野弥穂子の現代語訳から

示に云く、楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらひ有りし時に、知事申して云く、『修理有るべし。』
会云く、『堂閣やぶれたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方やぶれてもらば一方のもらぬ所に居して座禅すべし。堂宇造作によって僧衆得悟すべく者、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず。ただ座禅の功の多少に有るべし。』と・・・


    そして、こう云うのでした。

ただ仏道のみにあらず。政道も是のごとし。太宗は【居家】をつくらず。


ちなみに、「正法眼蔵随聞記」に唐の太宗が登場するのは

  1-10  3-3  4-6  5-6  5-10  と数えられます。

この道元・家康・明治天皇という補助線の先には
どうやら「貞観政要」がある。
ということで、
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)
のはじまりを引用。

「この本は唐の太宗が諌議大夫(かんぎたいふ)や諌臣(かんしん)たちと交わした対話をまとめた本です。貞観というのは唐の太宗が在位していたときの年号ですね。・・・この『貞観政要』は遅くとも桓武天皇の時代には日本に入っていたようです。それが藤原南家と菅原家というふうに別に伝わってきて、当時の歴代天皇、あるいは北条、足利、徳川といった為政者たちがこの本を学んでいます。そのことからもわかるように、『貞観政要』には『皇帝・帝王とはどうあるべきか』あるいは『政治とはどうするべきか』が極めて具体的に記されているんです。」(p21)

この対談本には、徳川家康についても、語られておりますので、引用。

【渡部】それから徳川家康も読んでいたと。徳川時代は儒教の時代といいますが、本当は孔子よりも『貞観政要』のほうを重視していたような感じを受けますね。家康も『論語』を一生懸命勉強しましたが、本当に役に立つと思ったのは『貞観政要』のほうだったのではないかと。
【谷沢】家康の命令で慶長年間に木版の『貞観政要』が出ていますからね。駿河版と言いますが、それが出版された年は関ヶ原の戦いより前なんです。家康はすでにその時点で天下を治めるための心がけをちゃんと考えておったわけですね。
  ・・・・・・・・
【渡部】『論語』や『孟子』は家来が読んでもいいものですが、『貞観政要』は君子、殿様でないとあまり関係ないんですよ。だから、徳川家とか上杉鷹山とか、ああいう人たちは一生懸命読んだと思います。(p30~31)






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雨やどり。

2008-11-21 | Weblog
  沼波瓊音著「柳樽評釈」(彌生書房)をパラパラめくっていたら、こんな川柳。

  本降りになつて出て行く雨やどり

沼波氏の解説は、「夕立の雨やどり。直き晴れると思って、待つても待つても晴れぬ。だんだん落着いて、普通の雨になって来た。これじゃ、いつ迄待っても駄目だと、あきらめて出て行く所。」


ああ、そういえば、松井高志著「江戸に学ぶビジネスの極意」(アスペクト)のはじまりは、こんな和歌からだと思い出したのです。


  急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

松井氏の解説は、
「太田道灌(江戸城を築いた武将)が作ったといわれる有名な歌。災難に遭ったりして、苦しい時に、ちょっと辛抱すれば状況が好転する(待っていればはげしいにわか雨もすぐにやんで晴れる)のに、旅人は先を急ぐあまり賭けだしていき、ずぶ濡れになってしまう。短気を戒め、辛抱の大事さをたとえる教訓和歌。困った時もまず慌てるな、という教え。・・・」

松井氏はこの教訓和歌の使い方も、つけ加えております。その例

 『部長、どうしましょう、エライことになりました』
 『慌てるな。急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨、だ。慌てれば事態はますます悪化するぞ』


さてさて、「慌てるな」と、いつまで言い聞かせてよいのやら。
ここが、辛抱と思案のしどころ。
そうそう、太田道灌といえば、「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」という無名の少女とのエピソードが思い浮かびます。

それでは、ここに、辛抱ということで、徳川家康にご登場願います。
竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」(清流出版)の最初の方に、こんな箇所がありました。

「1590年、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に転封を命ぜられた。関が原の戦いがはじまる10年前のことであった。・・・室町時代の1456年、上杉定正がこの地を制し、その家臣、太田道灌が江戸に城郭を築造した。そこは武蔵野台地の一番東の端の海に面した小高い丘の上であった。現在の皇居の場所である。そこは江戸湾の一番奥まった入江で波も穏やかであった。太田道灌はこの地が港に適していると目をつけたのだ。・・・・湿地に囲まれた江戸は歴史街道から外れた寒村であった。1590年、家康が江戸城に入ったといってもそれは荒れ果てた砦で、人家もまばらであった。・・江戸城郭から見渡す風景は凄まじいものであった。見渡す限りヨシ原が続く湿地帯であり、雨になれば一面水浸しになり人を寄せつけなかった。」

うん。太田道灌の歌にまつわるエピソードが生れた背景として、この湿地帯の雨を思い描かないと、どうやら、その重要性が見えてこないようです。
引用を続けます。

「彼らが江戸に入ったときに眼にしたもの、それは何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景であった。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸城の本格建築に着手するのは関が原の戦いの後であり、五層の天守閣の江戸城が完成するのは三代将軍家光の時代である。また江戸の町づくりに本格的に着手するのも関が原の戦いの後である。では、1590年、江戸に入った家康はいったい江戸で何をやっていたのか?・・・今この地には利根川、荒川が流れ込み、水はけが悪く雨のたびに冠水してしまう。しかし、この川を遠くへバイパスさせ、水はけを良くさえすれば、類を見ない肥沃な水田地帯となる。・・・戦うべき新たな敵、それは利根川であった。・・・1594年、江戸から北へ60キロメートルも離れた田舎の川俣で人知れず着手されていた。それは『会の川締め切り』と呼ばれる河川工事であった。家康はこの工事をきわめて重要なものと認識していた。その証拠に、家康は四男・松平忠吉を工事責任者として今の行田市にあった忍城の城主に据え、利根川の治水と関東平野の新田開発に専念させる体制を構えた。・・湿原の関東を乾陸化する第一歩であった。」


雨やどりとは、ほど遠い、辛抱の始まり。
ここからはじまる「日本文明の謎を解く」が、これまた面白いのでした。
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対談本3冊。

2008-11-20 | Weblog
そういえば、この頃、対談本を3冊読んでおりました。

養老孟司・竹村公太郎「本質を見抜く力」(PHP新書)

岡崎久彦・渡辺利夫「中国は歴史に復讐される」(育鵬社)

日下公人・高山正之「日本はどれほどいい国か」(PHP研究所)


どれも、私には手ごたえがありました。
対談本は、すぐに本題にはいるような気分がいいですね。
ちょっと、わからなくても、次々に話題が生れてくる。
そばで聞いているような臨場感。
すこし、引用しましょう。渡辺利夫氏が「あとがき」を書いておりました。
その雰囲気が伝わります。

「ここでそう言っては身も蓋もないが、私は岡崎久彦先生と対談するのはできれば避けたいと思っていた。先生は稀代の戦略思想家であり、博覧強記の知識人である。何を議論しても私の及ぶべきもない論客である。今までにも、先生との対談の企画が雑誌社や出版社から何回か持ち込まれたが、言を左右にして私は逃げ回っていた。今回は、私が『新 脱亜論』(文春新書)を上梓したのを機に、畏友・真部氏が岡崎先生との対談を、先生の承認を得て日時まで設定し私に提案してきた。もう逃げる場もなく、7月中旬の二日間を虎ノ門の岡崎研究所に閉じ込められてひたすら議論する羽目となった。しかし終わってみれば、岡崎先生の吐く魅力この上ない言説にすっかり酔わされて、私も自分の唄を唄ったような気がしている。」


こういった対談本を読める醍醐味。
うん。カラオケを聞かされるのと違って、
この唄は聞いていて損がありませんね(笑)。
3冊それぞれ魅力があります。
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空襲と15歳。

2008-11-19 | Weblog
梯久美子著「散るぞ悲しき」(新潮社)に東京空襲への書き込みがあります。
ちょっと以前の書評から引用してみます。

硫黄島は米海兵隊員たちによって「ブラック・デス・アイランド(黒い死の島)」と呼ばれ、米兵の発狂者を続出させたとあります。

そこに上陸するに際して、アメリカは昭和19年12月8日の一日だけで、戦闘機と爆撃機でのべ192機、投下された爆弾は800トン。また艦砲射撃が6800発。そしてその日から上陸までの74日間で、投下された爆弾は6800トンとあります。歩いて半日で回れる島に、上陸前にそれだけの爆撃をしてから、上陸は開始されました。上陸の20年2月19日午前8時の艦砲射撃は第2次世界大戦間で最大だった。とあります。


栗林忠道は、もしここを占拠されれば、次は東京を、この爆撃が襲うのだと確信しておりました。

それでは、昭和20年3月10日の東京大空襲。無差別戦略爆撃とされる絨毯爆撃はどのようなものだったのかというと、

「焼失面積は江東区・墨田区・台東区にまたがる約40平方キロ。まず先発隊が目標区域の輪郭に沿って焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民が逃げられないようにした上で、内側をくまなく爆撃した」(p212)

そこに使われたM69焼夷弾というのは、どのようなものだったかというと「日本の木造家屋を焼き払うために実験を重ねて開発されたもので、屋根を貫通し着弾してから爆発、高温の油脂が飛び散って周囲を火の海にする。これを都市に投下することは一般市民を無差別に殺傷することであり、それまでは人道的見地から米軍も使用をためらってきた」という焼夷弾でした。


じつは、日下公人・高山正之対談「日本はどれほどいい国か」(PHP)を読んでいたら、最後の方に、日下氏ご自身が、空襲体験を語っている箇所があり、思わず、梯久美子の本を思い浮かべたというわけです。では、日下氏の対談での言葉。


日下】・・・私も15歳のとき、『死んでもいいから、オレにも戦闘機を一機くれ』と思った記憶がある。敗戦間近、その頃は大阪の外れに住んでいましたが、一週間に一度は空襲に遭った。もう逃げるところがありませんから、いつも『今夜は焼け死ぬのかな』と思っていた。母も、妹も同じ思いだった。爆弾を投下しながら街を焼き払って悠々と飛び去るB-29を見上げながら、新聞に出てくる『神風特攻隊』が羨ましくて仕方なかった。この思いはいまの日本人に言ってもわかってもらえないかもしれないが、『戦闘機を一機もらって、敵に一矢報いて死ねる人は幸福だ』と思っていた。犬死するのを待ちながら暮らしていたからです。『一億総特攻』なんていうのは、いまの人にはまったく現実感がないだろうけれど、あの時代を生きた私にはあった。・・・(p190)

いきなり、引用すると誤解を生むかもしれませんが、この日下氏の対談を最初から読んでいると、納得できる展開としてあります。
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武玉川選釈。

2008-11-18 | Weblog
「読書で日暮らし」さんのブログを読んでいたら、
森銑三著「武玉川選釈」(彌生書房)を紹介しておりました。
興味深くて、さっそく古本屋へと注文。
その本が届いたというわけです。

まずは最初の箇所を引用。

「俳諧が一変して、雑俳が生まれ。雑俳は江戸の特産物ではないが、雑俳の内でも量の大きいことに於て群をぬいてゐる武玉川の一書は江戸の産物・・・・」

ということで、それでは引用。

  口留めに知つた話のはがゆくて

【解釈】人にいっちゃいけないよと、口留をせられた話というのが、特種ともいうべきもので、人に話したくてたまらぬのであるが、いはない約束で聞いているのだから、口を割るわけには行かない。そのもどかしさ。


 

 雑俳を見ていると、自然と現在との対比が思い浮かぶのでした。
たとえば、「オレオレ詐欺」は新しけれども、子を思う母親が登場する江戸はどうだったか。


   母の小判の詫びごとに出る

解釈】息子が不始末を仕出かして、のツ引きならぬことになった。母はそのために秘蔵している小判を出して来て、これでどうか何とかして下さいませ、と差出す。山内一豊の妻の金は、馬の代金となったのであるが、この母の金は、息子の尻拭いのために使われる。

今は、電話口の息子のニセモノに「秘蔵の小判」が出ていってしまう。


  拝み倒しにまだ懲りぬ母

解釈】いがみの権太型の息子から、母親が金をせびられ、せびられ、外の人だったら懲りに懲りてしまうところを、自分の生んだ子には目がなくて、あの母親は、まだまだ今後も、拝み倒しにせられ続けるのであろうと思う。



さてっと。これで、終らせるとしめっぽくなる。
テレビなどで、「オレオレ詐欺」に、だまされるのを聞くと、気持ちが滅入ります。ここでは、武玉川の、名脇役が登場する箇所を少し並べておきましょう。乳母だったり、伯母だったり、仲人だったりと、脇役の活躍に活気があります。では、引用。


  乳母の問ふまでは思いに蓋をして

解釈】お嬢さんが、自分だけの問題に屈託している。ばアやが聞いてくれるなら、打明けるのだけれどもと、ばアやを頼みに、その思を秘めている。ばアやさんというものは、坊っちゃんやお嬢さんが、年頃になってからも、まだ必要な存在だったのである。


  娘の謎を伯母が来て解く

解釈】どうしてというのか、娘の素振がここのところおかしい。妙にふさいだり、しょげたりしている。思案に余って、伯母さんに来て見て貰うことにした。伯母さんは、気軽にやって来て、娘の様子を見るなり、分っているじゃないか、何々なのだよ、と説明してくれる。


  異見の状に筆もくたびれ

解釈】伯父同格の人であろう、親から頼まれでもしたのか、離れた土地にいる息子に異見をする長文を書く。書終らぬ内に、すっかり疲れてしまった。


 
オレオレ詐欺から、はじめてしまったので、どうしても、湿っぽい。
最後は、すこし華やいで、仲人の登場ということで、終わりにしましょう。


   一段聞いて帰る仲人

解釈】仲人が縁談の進んでいる娘の方の家に行く。けふは是非娘の琴を聞いて行って貰いたいといはれ、上手でもなさそうな琴を一曲、辛抱して聞いて、言葉巧みに褒めそやして帰って行くという。何れその話は、男の家で、尾鰭が付いて話されることであろう。

   裸でよいと伯母がまた来る

解釈】伯母が仲に這入って、姪の縁談を纏めようとして、やっきになっている。それだのに親達の態度が煮え切らなくて、よそ様のように、支度らしい支度も出来ないのだからなどという。伯母はもどかしくて、裸でよいと、先様ではおっしゃるのだよと、またしても説得にやって来る。『また』の二字が、いかにもよく利いている。


   裸でといへば娘はをかしがり

解釈】『裸でよいと伯母がまた来る』という句が前にあったが、この句はそれから思いついたのではなかったかと思われる。裸のままでいいんだよ、とばかり繰返されて、当人も娘もおかしがるという。この句はこの句でいい。


また、伯母が登場してしまいました。仲人関連の雑俳はまだつづくのですが、この辺で口留めといたします。楽しく読みましたので、今回は、その楽しみのお裾分けでした。

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タダなのです。

2008-11-17 | Weblog
本を読んで、本の要約をしようとすると。どうしても、こぼれ落ちてしまうものがある。私などは、どうも、こぼれた話のほうが重要だったと、しばしば思うわけです(たいていが忘れてしまうのですけれども)。

ところで、養老孟司・竹村公太郎対談「本質を見抜く力」(PHP新書)に
これはこれで、書き置きしておきたい箇所がありました。

【竹村】そういう意味で本当に隠されています。この国について言えることは、個人が社会とまじめな会話をしないことです。仲間内で仲良くするシステムはいくらもありますが、個人が社会に向かって何かを訴えるトレーニングがされていません。
【養老】クラウゼヴィッツの『戦争論』に、『戦争は武力をもってする政治の継続である』という意味の言葉があります。これをひっくり返せば、政治は武力を使わない戦争だということになります。果たして我々はそういうつもりで生きているか。学問も根本は同じです。やはり『社会の偏見』と戦っています。自分が間違っている可能性はあるのです。戦争ですから、勝ち負けもやってみないとわかりません。しかし、そのつもりで学問をする人が少ないわけですよ。若い人はよく『人を傷つけたくない』と言います。でも相手が間違っていたらどうするのでしょう。間違っている人を訂正できないということになります。


というのが新書のp92~93にありました。
また鼎談の箇所のp191~192には養老さんが語っております。

 僕は何でもやってみなければわからないという立場ですし、だいたい素人ですからね。いわゆるベンチャーの人も同じことを言うと思いますが、個人が考えこれは上手くいくと思ってやってみて、上手くいくのはだいたい10に1つだと思います。おそらくほとんどのビジネスがそうではないかな。ですからその『1』に当たるまでに辛抱があるかないかで違ってきます。その余裕が必要ですね。・・・・そういう時に嘘をつく人が一番困る。ある意見を言うと、とんでもないなどと言う。何で言っちゃいけないのか。言うのと考えるのはタダなのに。ですから、いまの若い人たちで気になるのは『傷つく』という言葉です。言うことによって傷つく。その『傷つく』という言葉で人を黙らせる。出版社も気にしています。僕はいつもそれがひっかかる。『言う』ということは、いま言ったようにタダなのです。根本はモノにあるのだから、何を言ってもいい。つまり言論というのは空気です。空気がどこへ行ったって構わないではないですか。それを『そんなことを言ってとんでもない』などと言う。いまはそういう原理主義が強くなってきている。だから、こういう意見は聞かないなどというのは、とんでもない話です。

これに対して鼎談の神門善久さんは、どう答えていたか。も引用しておきましょう。


『言えない』というよりも『無反応』です。僕にはもともと発言の機会が少ないですが、まれに発言の機会があっても、『そうですか、じゃあその話は終わりにして、別の話題にしましょう』という対応を受けます。問題の核心を議論すると面倒くさいから、肯定も否定もしないで、ただちに話題から外すのです。そしてスローガン的なお気楽な議論に興じるのです。・・・




さて、神門氏の言葉を引用していたら、田母神俊雄・前航空幕僚長の論文問題が思い浮かびました。志方俊之(しかたとしゆき・元陸将・帝京大教授)が朝日新聞11月13日に意見を書いておりました。題して「隊内の長年の鬱屈示した」。
はじまりは「この論文は不適切である。第一に、時が悪い・・・第二に、手続きに問題がある・・・」と前置きしたあと、後半にこういう言葉がありました。

「もし彼が官房長に文書で届けていたら、次官、大臣と上がっていく間のどこかで『これはまずい』となって、待ったがかかっただろう。彼はそれをわかっていたのではないか。空幕長を辞めたあとに投稿していたら問題はないが、世の中は相手にしないだろう。現役のトップの今だから、注文を集める。その意味で、彼は切腹する覚悟だったのかもしれない。
自衛隊にとっては、迷惑千万だろうが、一部には、よくぞ言ったという評価もあったのではないか。では、どうすればいいか。そもそも自衛隊員には長年にわたり鬱積しているものがある。それを払うようにしてほしい。歴史観については、まず政治家が自分の言葉で語ることだ。首相が交代するたびに『村山談話を踏襲します』としか言わないのではだめだ。・・・空幕長だった個人の問題として弾劾するのはたやすいが、それでは自衛隊の中にある鬱屈したものは消えない。問題の背景、根底をよく見てほしい。・・・」



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