和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都の都市と年中行事

2023-12-21 | 京都
中央公論社の「日本絵巻大成」8は、「年中行事絵巻」。
その「年中行事絵巻」の巻末解説が、吉田光邦氏でした。

そこから引用したいのですが、そのまえに、
吉川英治著「宮本武蔵」の最初の方でした
(はい。私は最初の方しか読んでいません)。
うる覚えなのですが、武蔵が枝だか竹だかの切り口を手にとり、
この切り口は、ただ者ではないと指摘する場面があるのでした。

はい。切り口ということで、この吉田光邦氏の解説を読むまで、
私は、お祭りと年中行事との切り口を思ってもみませんでした。
ということで、引用をはじめます。

京都の年中行事を語る吉田光邦氏は、都市の指摘をしております。

「それはまた、中国の都城にならって人工的に設計され、
 建設された京都の市民においても同様であった。

 宮廷と政府という機関を中心として成立したこの都市は、
 純然たる消費都市であり、あるいは『延喜式』の語るように、
 官営手工業の都市であった。

 そこでは、農業を中核として成立した社会集団とは違って、
 四季は生業の基本たりえない。農業にあっては、いつも
 四季の動向が生産を左右する。そこで生産のプロセスの中に
 季節は存在し、生産を完全にするために、
 多種多様の呪術的儀礼、祭儀も生まれてくる。
 祭式はいつも生産を完成するために存在する。

 けれども、手工業の場合は、ほとんど四季に左右されることはない。
 生産は季節の条件を組み込まずとも、そのプロセスは成立する。

 この四季の変化を基礎としない生活様式が、
 じつは京都の市民たちのありかただったのである。

 ・・・・・しかも、都市という集団生活は、
 農村とは違った異質の災害をも生み出す。
 たちまちに多くの人家を灰にしてしまう火災、
 また多くの人命を奪っていく疫病の流行、
 地震・雷火などの損害は、すぐに増幅され拡大される。

 そこで、これらの災害のもととなる超越者、すなわち
 御霊(みたま)を鎮めて災害から逃れようとする行動が生まれてくる。
 いわゆる御霊会(ごりょうえ)の発生である。

 これらは・・・・きわめて人工的なものであり、人工的なドラマであった。
 年中行事が、宮廷人や官僚ばかりか、庶民の間にも強く意識されていたのは、
 こうした都市生活の性格からである。しかも、
 いきなり人工都市として生まれた京都において、それはことに強かった。

 この意識と性格は今も京都の伝統として残り続けている。
 京都では、季節の変化があって年中行事があるのではなく、
 年中行事が正確に行われてこそ、四季はめぐっていくのある。」(p131)


はい。なんだか見事な切り口を見せて頂けたようで、
ちょっと忘れられないだろうなあ。

ちなみに、切り口といえば思い出すのは、徒然草でした。

    徒然草 第229段

 良き細工は、少し鈍き刀を使ふ、と言ふ。
   妙観(めうくわん)が刀は、いたく立たず。

訳】 すぐれた細工師は、少し鈍い刀を使って細工すると言われている。
   妙観の刀は、それほど切れ味がよくはない。

ちなみに、島内裕子訳・校訂「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
『評』は、こうでした。

「 小林秀雄のエッセイ『徒然草』で引用され、有名になった段である。
  切れ過ぎると、つい道具に頼って、じっくり自分の力で
  着実に行うことを怠ってしまう。兼好は、それを戒めたのだろう。」
                            (p436)


はい。吉田光邦氏は日本の職人を語っている中に、徒然草のこの段を
引用されていたので、すぐに思い浮かびました。

はい。こういう切り口につい味をしめて、
では、東京の年中行事は、などとスッパスッパと
つい、切ってみたくなることの戒めとして『すぐれた細工師』の職人の例。

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海溝と海図。

2023-12-04 | 京都
テレビ天気予報で、日本全図が画面に表示されます。たしか、
東日本大震災の後、その画面に海溝が示されるようになった。
以来、日本の沿岸の海中に、黒い深淵があると毎日実感する。

吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社・昭和51年)の
あとがきは、こうはじまっておりました。

「 チャートとは海図である。海図をご存知だろうか。
  それは陸地については、海上の船から目標になるような
  山、岬、立木などが描かれるにすぎぬ。
  そして等高線は海についてはくわしく描かれ、
  海中の岩、岩礁のたぐいも細密である。

  陸地を精細に描いたマップと海にくわしいチャート、
  その対比はいえばネガとポジの関係にある。

  わたしが描こうとしたのはマップではなかった。

  マップは京都を客観視しうる立場の人びとによって、
  すでにいくらも書かれている。しかし京に住むものならば、
  そのマップと対照的に視えるものがいくつもある。
  そこから描きだしてみたチャート・・・      」(p283)


このあとがきに写真家・遠藤正さんのことが書かれておりました。

「 半年をこえた連載は忙しかったけれども、
  わたしの30年をこえる京での生活をふりかえってみるいい機会であった。
 
  写真の遠藤正さんもずいぶん熱心に、はじめての京都を
  縦横にとらえられた。テーマをめぐってたえず議論を
  遠藤さんとくりかえした。いい思い出である。・・   」(p284)

うん。この『京のちゃあと』はのちに、
朝日選書215の吉田光邦著『京都往来』(1982年)と題名をかえて出版。
朝日選書には、残念ながら遠藤正さんの写真は載っておりませんでした。

はい。私はどちらの本文も読んでおりません。おりませんが、
単行本に載る45枚の遠藤正さんの写真はめくっておりました。
その印象は鮮やかでした。

ここでは一点の写真を紹介。『節分の日の京大前のにぎわい』とあります。
奥に大学の時計台がみえます。時計下に「竹本処分」と少し文字がみえる。
前景は道路に面してテキヤの屋台。たこやき・とうもろこしと横幕がみえ、
瀬戸物屋も出ているようです。学内からは高々と大学のサークルの立看板
「OPEN SKI 場所信州戸狩・・・」「京大スキーフレンズ」などがある。

さて道路の人ごみをけちらすように、学生運動でしょうか、
赤に白い色がまじった旗を掲げ、赤ヘルメット・黒ヘルメットに
タオルで鼻口を隠した学生の一団が通り過ぎてゆく。

まるで、京のにぎわいの中に、僧侶の一団が恣意運動をくりひろげている。
はたまた、武士団が威圧ぎみに通り過ぎてゆく、一瞬覚えるそんな味わい。

はい。吉田光邦の本文は気が向いたらひらくことに。
  

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埼玉県吹上と京都。

2023-05-26 | 京都
須田剋太と京都。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」(新潮文庫)の目次をひらくと、はじめに
「 出離といえるような ( 須田剋太『原画集街道をゆく』) 」があり、
その目次の、最後の方に「 旅の効用 」がありました。

どちらも、『京都』が出てくるので興味深い。

「 『 京都の坊さんは変っている。あの連中、
    平気で法衣(ころも)姿で街を歩いているんだ 』

  と、私にいった東京の町寺の僧侶がいる。
  東京じゃたとえば地下鉄のなかで坊主姿の人なんか居ないよ、
  と、やや首都の風(ふう)を誇るかのようにいった。

  東京のお寺さんは逮夜(たいや)まいりにゆくときは背広でゆき、
  檀家で法衣に着かえる。帰りは背広姿にもどって、あらたに
  形成された大衆社会の中にまぎれこむということであった。

  ・・・この傾向は、首都においてもっともつよい。・・ 」
              ( 文庫p455~456 「旅の効用」 )


はい。ここで詳しく引用していると捗らないので次にゆきます。
須田剋太は、明治39年(1906)、埼玉県吹上町に生まれ。
終戦のとき、昭和20年(1945)は39歳で、京都・奈良にいます。
司馬遼太郎の『出離といえるような(須田剋太「原画集 街道をゆく」)』
に出てくる須田画伯と京都の結びつきがきになりました。

司馬さんはこう指摘しております。

「 もし、あるひとが、
  『 京都にゆかないか 』といってくれて、
  切符を買い、汽車に乗せてくれなかったとしたら、
  生涯、樹木のように浦和の一角に生えたまま動かなかったにちがいない。

  それまで、京都についての想念は、画家にはあまりなかった。・・・
  そのあと、画家にとって、京都の町は、一歩ごとに驚きを生んだ。

  日本にこういう文化があったのかと思ったという。・・・
  京都に流れついたとき、画家にはすでに母君がなく、
  どこへゆこうと運命の動かすままになっていた。・・・・

  画家には、尋常人のもたない幸運があった。
  40歳前に京都や奈良に現われたとき、この人にとって、
  そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
  とほうもなく新鮮だったことである。

  かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
  さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた一個の
  ういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての
  平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
  奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。  」(文庫  ~p19)

食レポというのが映像でも花盛りの現代ですが、
司馬さんは、美術レポをしておられたようです。

「私(司馬さん)は、昭和29年から3年ばかり、
 展覧会に出かけては美術評を書くしごとをした。 
 ときに抽象絵画の全盛で・・・
 須田剋太氏など数人の画家のしごとは、見るたびに、
 圧倒する力をもっていた。しかし他者を圧倒することが
 芸術なのかという疑問が、つねに私の中に残った。・・・  」(~P25)


うん。もどって「旅の効用」から最後にこの箇所を引用しておきます。

「 自分が属する社会の本質など、常日頃は気づかない。
  何かで気づかされたとき、突とばされたような驚きをおぼえる
 
 ( そういうことが、私が小説に書く動機の一つかもしれない )。 」
                       ( 文庫 p457 )


うん。さりげないのですが、司馬遼太郎の『 小説を書く動機 』が
かっこ入りで語られている場面でした。


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老いた蓮月。若い鉄斎。

2022-07-10 | 京都
ここ数年、地元の神輿渡御がないので、
なんか、すっかりお祭りとは縁のない
生活が常態となってしまっております。

そんな中、京都の祇園祭が今年はあるそうで、
その祇園祭のことを、思い描いてみることに。
取り出したのは、杉本秀太郎著「洛中生息」。
そこから引用することに。

「 七月はいうまでもなく祇園のお社、
  八坂神社の祭礼月である。・・・・・・・

  八坂神社の氏子であれば、七月になると気もそぞろ、
  祇園囃子の楽の音に、胸がときめくのを常とする。 」
           ( 「梛(なぎ)の社」 )

「 七月一日は祇園祭の吉符(きつぷ)入りであり、
  二階囃子がはじまっていた。・・・・・・

  今年も二階囃子の時候になった。
  わたしは毎夜、鉾の立つ町(ちょう)、
  曳き山の出る町をめぐり歩いて、祇園囃子を聴く。

  鉾立てがおわり、京都の町がざわめく十日すぎには、
  こうまで存分に、心ゆくまで囃子を聴くことは、
  とてもできない相談である。

  わたしの信じる限り、モーツァルトのあの祈りのような
  音楽に比べてみるのも決して身勝手でないような曲がある。
  装飾がそのまま本質であり、本質が装飾に一致してしまった曲がある。
   ・・・・・

  山の飾り付けは、近年は十四日である。
  町内の会所にお飾り付けをする町(ちょう)では、
  その日から、会所は聖別された場所となる。
  
  普段はそうとは少しも見えない路地が
  会所に通じているとき・・・・・・

  霰天神山、占出山、鯉山、孟宗山、八幡山、油天神山の
  お飾りを見にきた人が、もしも普段の路地を知っているなら、
  われとわが目を疑うかもしれない。・・・・・    」
                ( 「会所」 )

うん。これで終わらせるのも勿体ない。
はい。杉本秀太郎著「洛中生息」をひらいたので、
最後に、こちらも引用しておくことに。

「職人」と題する3ページほどの文の最後でした。

「 手仕事というものは、もはや才気や器用では何とも仕様がなく、
  そんなものが何の役にも立たなくなったところから始まる。

  このあいだ、老いた蓮月が若い鉄斎にあてた手紙に

  『何ごとも気ながく、あまりせかぬがよろしく候』

  とあるのが目にとまった。
  手仕事には、開運ということがる。

  『 三十、四十で運のひらけるもあり、
    六十、七十でひらけるもあること故、
    ご機嫌よくご長寿あそばし 』云々と、

   蓮月は別の手紙に書いた。
   こういえるだけの蓮月は、埴(はに)の職人として、
   優に第二流の腕前を示した人であった。       」




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83歳の富岡鉄斎。

2021-05-13 | 京都
加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社・1992年)。
そのはじまりは『富岡鉄斎の芸術』でした。
とりあえず、パラリとひらいた箇所を引用。

「鉄斎は83歳の時、唯一人の子謙蔵を失った。
この時の老爺の姿は非常に印象的である。

謙蔵なき跡には嫁のとし子さんと三人の孫が残っている。
この人たちがすべて最晩年の鉄斎の肩にかかって来た。

この状は、ちょうど80余年の昔、
一子宗伯を失った滝沢馬琴の運命によく似ている。
馬琴は傷心の暇さえなく、嫁女のお路を唯一の頼りとして、
『八犬伝』を書き進めて行った。

同じように鉄斎もまた、とし子さんを唯一の助手として、
批評家の言葉を借りると、『ベートーベンの交響楽』のような
最晩年の傑作を次々とかいたのである。

この間鉄斎の口からは一語の悲愁ももれていない。
ストイックな諦念(ていねん)の言葉さえもれていないのである。
そしてただ彼の絵のみが蒼勁(そうけい)の美しさをいよいよ
深くして行く――この間の鉄斎の姿は、とし子さんの筆によって、
優しくも生々と描き出されている。・・・・・・
あの白髪白髯も美しい、右眼の少し斜視の、不思議な気魄にみちた
老人の顔を加えたら、この希有の大才の姿は大体遺憾なく出てくる
だろうと思う――
ただし、これに聾疾をもつけ加えてもらいたい。
鉄斎は幼時から耳が遠かったのである。・・・・・」(p34)

「鉄斎の伝記を書くどんな筆者も
『彼は儒者であって、画家ではない』、と書いている。
  ・・・・・
読書博渉は死にいたるまで鉄斎が一日も止めなかったところであり、
筆をとって記録することは異常なまでに好きだった人である。
断簡零墨は膨大な量に達するという。 ・・」(p35)

はい。ここから本文は深まってゆくのですが、
私はここまで。

あと、ちょっと加藤一雄氏の指摘を引用しておきます。

「彼の絵は、どちらかというと、農村の素封家に愛されるよりも、
都会の商人たちに愛されてきた傾向がある。あの強さ、あの濃厚、
ことにあの賑わしさは、寂莫とした農村のものではなく、
都会的商業的なのである。ここに近代から現代への急激な
移行に際して、鉄斎の価値が飛躍する重要なモメントがある
のではなかろうか。」(p37~38)


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上手過ぎて。

2021-04-09 | 京都
杉本秀太郎編「桑原武夫」(淡交社・平成8年)。
この本は、桑原武夫の七回忌の集まりの記録でした。
その「むすびに」で上山春平氏は、こう話しております。

「今までずうっと聞きほれていました。
今日のもよおしは多田(道太郎)さんのデザインですね。
じつによくできている。先生のお人柄の幅を最大限にとらえて、
しかも要所要所に私たちの心を打つ言葉が散りばめられている。
隣の川喜多二郎さんが
『今日の対談はすばらしい、すばらしい』
と何度もつぶやいていました。全く同感です。・・・」(p137)

「六年前に黒谷の金戒光明寺で告別式があったときも
今日のように桜が満開で、それがずっと京都の町を包んでおりました。
・・・・・・
どうも本日はありがとうございました。」(p138)

この集まりは、三部構成となっており、
さまざまな方が話されていたのでした。
まずはじまりの一部は、落語でいえば前座です。
山田稔・杉本秀太郎のお二人でした。ここには、
三部の梅梅対談(梅棹忠夫・梅原猛)から引用。


梅原】 じつは私は今日の講演会を計画した一人でございますが、
最初、誰に講演してもらうかと相談をしていましたところ、

多田さんが、『講演は下手な人のほうがよろしい。
上手な講演というものはどこかいやしいのだ。
多田道太郎や梅原猛は上手過ぎていやしい』と。

それで、下手なほうがいいんだというので
山田さんと杉本さんが選ばれた(笑)。・・・」(p112)


うん。ここでは、『上手過ぎていやしい』
そんな例を引用しておくことにします。

梅原】・・・・
フィールド・ワークということではやはり今西さん。
梅棹さんもフィールド・ワークの人なんですね。
桑原さんにはやはり教養主義というのが片一方にあったと思いますね。
そこで吉川さんや貝塚さんと親しかった。

暴露しますけど、いつか祇園でお酒を飲んでいました。
そしたら吉川先生がぐでんぐでんに酔っ払ってやって来て、
私の隣へ坐って、『梅原、お前はだめだぞ』と言われたのです。
吉川先生は飲むとちょっと酒乱みたいになりまして、
僕は、これは今日は危ないからといってちょっと逃げたんです。

そしたら梅棹さんが隣になった。梅棹さんと吉川さんは学風が全く違う。
吉川さんは『本の中に真実はある。本以外には真実はない』という考え方。
梅棹さんは『本なんてあてにならない』という考え方です。

そういう考え方が、いつかどこかでぶつかったことがあって、
吉川先生がちょっと見たら隣に梅棹さんがいた。

『お前が梅棹か。ばかな梅棹か。お前は古典を知らないからだめだ』
と言う(笑)。それで、
『真実は本にはありはしない』と梅棹さんが言うと、
『そんなことを言うやつは無学だ』と言って二人で大喧嘩になった。

私はそばで楽しく両雄の決闘を見せていただいていたが、
あんまりひどくなって、最後は吉川さんがつかみかかっていく。

それで困って、ちょうど福永光司さんは腕力抜群ですから、
福永さんが掲げて担いでいった。

その後から梅棹さんが『この馬鹿じじい』と(笑)。
この言葉は今でも思い出す。・・・・・」(p126~127)


うん。ここにちょい役で、福永光司氏が登場している。
うん。わたしは福永氏の本を古本で買ったままなのを、
その未読本を、あらためて思い出してしまいました。


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『糸ざくら』散歩の道すじ。

2021-04-07 | 京都
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)。
その最後の方でした。短文で見逃しやすいのですが
『糸ざくら』という文。4月15日のこととあります。

「近衛邸あとの糸ざくらは折しも満開だった。
すこし風がある。なびきみだれ、ゆれやまない
糸ざくらに、傾いた春の日が差している。

私は瞑想という言葉をこれまで使ったことがない。
しかし、このときの糸ざくらは私の瞑想裡に咲き充ちていた、
と言うしかないように思う。

弧座していたベンチの近くに立て札があり、
・・・歌一首がしるされていた。」

 昔より名には聞けども今日みれば
    むべめかれせぬ糸ざくらかな  孝明天皇

「安政二年、近衛邸遊宴のみぎりの詠という。
いかにもこれは儀礼としての和歌にすぎない。
しかし、歌ぐちの当たり前な、ととのったこういう歌は、
しずかな水面が物の影を映すように心の影を映して、
心をなだめ、なぐさめることがある。・・・」(p221~222)


ここを引用できれば、私は満足。以下、蛇足。
というか、司馬さん風にいうならば「以下、無用のことながら」。


この「洛中通信」は、新聞・雑誌・月報などに掲載された
短い文をまとめた一冊。1980年から1992年までの文です。

今回パラパラとめくっていて気がついたことがありました。
杉本氏の師・桑原武夫が、亡くなったのが1988年4月10日。
期せずして、その頃の文がところどころに読めるのでした。

副題に「桑原さんのこと」とある文は、
1988年7月20日に雑誌に掲載されたもの。そのはじまりは。

「桑原さん、とそう呼ぶことであとをつづける。
桑原さんは私にとってはフランス文学の先生であり、
文学研究、文明論、日本文化論、人生論の先生であり、
文章術の二人とない師だった。けれども、
桑原さんは私を弟子として扱われたことは決してなく、
つねに若い友人として遇された。
えらそうにする人を桑原さんはもっとも軽蔑された・・・」(p195)

こうして、はじまるのでした。
最初にもどって、短文「糸ざくら」は、
地理的な記述がはじめにあるのでした。
その箇所を引用。

「京都御所の今出川門を入って南に歩くとすぐ右手に、
近衛邸の築山が残っている。いまも蒼古とした木立に掩われ、
泉池もわずかにあとをとどめる。

築山の裏にまわると、かつて近衛邸の広い庭だったあたりは
林間の空地の趣を呈していて、まんなかに数株の糸ざくらが、
背高く、枝しなやかに立っている。

4月15日。桑原武夫先生の初七日。
お宅にうかがっての帰るさ、塔ノ段から薩摩藩士墓地の
まえを通り、相国寺を抜けて、今出川門から御所に入った。
生前、先生の好まれた散歩の道すじ。」(p221)

はい。このあとが、今回の
はじまりに引用した文へと、つながっておりました。





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六角堂の池の坊。

2021-04-06 | 京都
京都の芸事について、梅棹忠夫氏は指摘しておりました。

「京都は、芸事の中心地である。
諸芸の家元はひととおりそろっている。
お茶にお花に、能、狂言に謡(うたい)、仕舞(しまい)、
おどりに書道。絵には家元というものはないようだが、
大先生の塾がある。
それぞれのジャンルに、いくつもの流派があり・・」
(p71「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)

この本の1ページ前に「池坊」とある。

「六角烏丸(からすま)には六角堂がある。ほんとに六角のお堂・・
ここはまた池坊、お花の家元である。」

宮本常一「私の日本地図14 京都」(未来社)に
書かれている六角堂はというと、

「六角堂・・・この寺の20世の住持専慶は
山野をあるいて立花(りっか)を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、
26世専順はその奥義をきわめた。

堂のほとりに池があったので、この流派を池坊とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち立花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀礼が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には『都鄙の門人万丈に
集り、立花の工をあらわすなり。見物の諸人、群をなせり』とある。

このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p118~119)

うん。これだけでも足利義政・鎌倉時代・室町の頃と
六角堂の時代背景が見てとれるのでした。

さて、松田道雄は1908年生まれ。
「京の町かどから」で、子どもの頃の『六角さん』を
書き残してくれておりました。

「西国18番頂法寺は六角通り烏丸東入ったところにある。
本堂が金色の擬宝珠(ぎぼし)を頂上にした正六角の建物
であるところから六角堂の別名がある。
京都のものが呼ぶときは六角さんという。

六角さんは、私たち中京(なかぎょう)の子どもには、
その境内であそべる唯一のお寺であった。・・・・・・

何といっても六角さんの記憶は夜とむすびついている。
毎月17日と18日とに、ここに京都でいちばんたくさん
露店がならぶ夜店がでたからである。」

こうして、露店のうんちくを4~5ページしたあとに

「本堂の裏になっている『池の坊』では活け花がいくつも
ならべられて、それを活けた人の名札がたてかけてあった。

家元に花をならいにいっているお弟子さんたちの作品展だった
わけだ。何もわからないのだけれども、いつもしまっている門が
あいているので、はいって一まわりした。

そこを出て本堂の裏のくらいところへくると、
人山ができていて、なかでバイオリンがきこえる。
艶歌師が人のたくさん出たころを見はからってやってきたのだ。
『熱海の海岸散歩する』の歌をきいた覚えがある。
長髪で袴(はかま)あをはいた人が、歌がすむと
うすっぺらな小冊子を売ってまわった。・・・」(p215)

はい。とりあえず、3冊から引用してみました。
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『茶花をいけなさい』

2021-04-04 | 京都
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)の
最後のほうに、『京都本の10冊』という箇所がある。
その始まりは、

「『本の雑誌』の名物コーナー『この作家この10冊』に
あやかって、京都本を10冊選んでみた。すなわち、これらを
読めばたちまち玉虫色の京都の魅力が理解できてしまうという
« 解放のテクニック »みたいな10冊である。けれど、これら
を読んでも決して『京都検定』には受からないが。・・・・」

はい。軽快なはじまりで紹介されている10冊のなかの一冊に、
堀宗凡著『茶花遊心』(マフィア・コーポレーション・1987年)。
これが古本でも、なかなか出ない一冊で。
こまめにネット検索していると、ある時、
古本でふらりと出ており。はい。買いました。
写真は、西山惣一。あとがきのはじまりは

「老 西山氏は近くの茶店での偶然の出会いの人である。
彼の手持ちのモノクロのネガはちょうどこの茶花遊心を
とるだけ残っていた。

何もない茶室で彼は『茶花をいけなさい、私がうつします』
といい出した。且つて雑誌『主婦の友』のいけ花専門のカメラマン
であったから、その後一年、彼とは活花をおいて
『イエス、ノー』の外にはいつも何も語っていない。
かくとり終って三月後他界された。すべては彼の胸中に
秘められていた人生仕上げであった。・・・・」

1ページに茶花の白黒写真一枚と、著者による一首と文。
私は、パラパラと読まずにめくるだけ。でも、楽しめる。
花を生けるのは、花瓶とはかぎらないことを知りました。
p331には一升徳利に花が活けてある。

添えられた文はこうはじまります。

「こんな一升徳利、まして寅とかいてある。
必ず呑みほせば管を巻かれてごてごてもつれるであろう。

好きなものは仕方がない。お茶室ではこまりもの、
お寺の本堂でのめば、あばれても大丈夫。
襖絵にも虎がよくかいてあり、堂々と酔う時は
男らしい、大人である。・・・」

ここには、徳利の豆知識もありました。

「この徳利は歳暮に酒屋がその得意先に
自分の商号を自筆でかいて送ったものである。」


そういえば、古い家には、陶器の火鉢があって、始末に困って、
そこへメダカをおよがせたりで、今も見かけることはあります。
そしてたまには、一升徳利を見かけたりしました。
ああ、あの徳利に書かれた文字は、自筆でかいた商号なんだ。
知らずにおりました。こんどは、その徳利に花でも活けましょう。

p309にも、『酒とくり』と題して、その下には
『造り酒 あるじはそれと かきつけて とくりくばりし 先の先代』
とある。
そのあとの文のはじまりはというと

「私の友人に相国寺御出入の酒屋がいた。
この徳利の字は先の先代が書いた字也と説明して、
徳利の来歴をしる。
今でも河原町仏光寺に古道具屋がある。・・」

このページの写真の徳利には
火の用心と書かれているようです。

「この火の用心は古丹波であり、
資料館に出品出来る位と聞いて常住としている。
何でも火事計りではない。熱心すぎると身をこがす。
『火廼要慎』つつしみが必要となるいのちあっての
もの種は身にうまく成長する也。・・・・」


はい。花を見ながら、お酒でも。


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京都らしい知性。

2021-03-30 | 京都
杉本秀太郎氏が、気になるので、
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社)を
あらためてひらく。この本には、巻末に索引があり
重宝します。関連の場所を読み直す。

「本書には幾人もの嵯峨を京とも思わぬ(笑)
ケシからん京都人が登場するが、
やはり特別に印象的なのはフランス文学者の杉本秀太郎と
国立民俗博物館顧問だった梅棹忠夫だろう。
このふたりに今西錦司を加えた三人をわたしは
《京都らしい知性》・・を備えた智力御三家と呼びたい。
・・・・
杉本秀太郎の名著『新編 洛中生息』(ちくま文庫)・・・」
(p194~195)

「京都の言葉は大きく四種類ある。
 公家が起源の【御所言葉】。
 芸妓さん舞妓さんでお馴染み【花街(かがい)言葉】。
 職工たちが交わした【西陣言葉】。
 商人たちの【室町言葉】。

杉本ら室町言葉を話す京都人が、
西陣言葉の梅棹の言葉遣いが京都語をリプレゼント
するものとして記録されたと知ったら、
そりゃあ反駁もしたくなろう。

室町のほうが上品で、それこそフランス語的な
なめらかな美しさのある京言葉だけれど、
ストーリーを読むのであればリズミカルで表現力に富んだ
英語的な西陣のほうが向いているだろうとわたしは考えるが。
ちょっとラップに近いのだ。

そのせいか文章も杉本より梅棹のほうが、ずっと読みやすい。
平易だからではない。言葉を綴るときに音を意識しているからだろう。
彼は86年に失明しており、学術系でない本はそれ以降に書かれている
ものが多数だから、そのせいもあろう。

杉本の『洛中生息』に相当する梅棹の著作が
『京都の精神』と『梅棹忠夫の京都案内』(ともに角川ソフィア文庫)
だろうか。前者は66年と70年に催された講演をまとめたものなので
書籍としては後者のほうがまとまりがある。しかし案内といいなが
内容は彼の第一言語である民族学的な京都人へのアプローチだったりする。

・・・・・・・後者の白眉は、それこそ京言葉についての省察。
たとえば京都人が誰に向かっても、それが年下や身内、ときには
敵や犬猫にさえ敬語表現を使うのは無階層的、市民対等意識という
基本原則があるからではないかとする推測には感動した。

ああ、この都市の言葉はそんなふうに考えていけばいいのか
という指針にもなった。

・・・三人目の今西錦司。
・・・やはりここは今西でなければならぬ。
なぜならば京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
命題を探る手段として今西錦司という知性は
自然科学にも社会科学にも人文科学にも均等に接することができた。
学問の世界でかくも京都人的であれたのは、すんごいことである。」
(~p199)

読み返して、あらためて知ったのは
京都の智力御三家のはじまりが、杉本秀太郎氏だったこと。

そうそう『京都夢幻記』も紹介されていたのでした。

「『京都ぎらい』のなかで井上(章一)は京大建築科ゼミ生だったころ
調査に訪れた彼の住まい、重要文化財杉本家住宅での会話を紹介している。

『君、どこの子や』と訊かれ、嵯峨だと答えたところ、
それは懐かしいと感想が返ってきたという。
『昔、あのあたりにいるお百姓さんが、
 うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや』と。

これがイケズかどうかは断言できないけれど、
充分にイケズになり得る言い回しではある。
しかし同時にすべての京言葉はイケズになり得るのだ。
晩年の『京都夢幻記』などを繙くと、
イケズの達人だったのは明白だ。・・・」(p195)

はい。入江敦彦によるイケズ入門テキストに、
杉本秀太郎氏の本が、登場していたのでした。
うん。京都らしい知性の3人を視野にいれて、
京都への思いを馳せてゆくことにいたします。

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売立目録からの京都。

2021-03-29 | 京都
杉本秀太郎さんのことを、塚本珪一氏はこう指摘したのでした。

「本業はフランス文学であるが、立派な博物学者である。
彼のエッセイには『博物学者』の称号を与えたい。
 『洛中通信』(岩波書店、1993年)、
 『青い兎』 (岩波書店、2004年)、
 『京都夢幻記』(新潮社、2007年)などがある。」
    ( 「フンコロガシ先生の京都昆虫記」p196~197 )

この指摘は、ありがたかった。
杉本秀太郎氏は、フランス文学者というイメージが、
私に固定観念として、もう出来上がっておりました。

『家』というイメージならフランス文学は玄関。
杉本家の表玄関は、わたしには敷居が高すぎる。
けれども、路地のウラ木戸からならばはいれる。
そんな、気楽な3冊を塚本氏が紹介されていた。

『京都夢幻記』に「一冊の売立目録」のことが出て来ます。
そこをお気楽に引用してゆきます。

「昭和12年2月に大阪北浜の道具商、植村平兵衛と磯上青次郎が
札元となり、大阪美術倶楽部を会場として売立て目録がある。
所蔵品を処分に附した家は名を伏せて記されないこともまれではない。
これも京都某家とある。」(p183)

ここから、杉本氏は語り始めます。

「打明けると、『京都某家』は私の家である。
手許のこの『目録』は父の書き入れを伴っている。
総品数は1340点、そのうち最も主要な124点は写真版で掲載
されているが、そのすべてに落札価格が父の手でしるしてある。
売立は2月1日、2日を下見に当て、3日を入札日として行なわれた。
・・・・

父は別に『売立日記』をしるし、また、土蔵四棟のうち
一棟をすっかり空(から)にした大売立がいかなる事情に
迫られてのことだったか、『杉本同族整理顛末』と題して、
これを詳しく分析記述したのち、売立を決断した日のことにおよんでいる。

父は34歳、家督相続して2年目であった。
売立の出来高は27万4千円に達した。これが
同族の分家を高利貸の魔手から脱出させ、
本家の危難を払うことに用いられた。

いまもときどきこの売立目録をながめる
( 渡仏のときも荷の中に収めていた )。
かような品々を家蔵していた時代があったことの不思議が心を動かす。
そして青年時代のある日、売立目録を持ち出してきた私に、
胸の内を洩らして語った父の俤(おもかげ)を目録の
写真版のページにかさねる。

―――大売立のときの見納めた逸品は、全部よくおぼえているよ。
上物(じょうもの)はあらかた手放したが、手放してから、
かえって血となり肉となったものが、ほんまもんだ。
あれから以後、何ひとつ、欲しいとおもう絵も無し、道具も無し。
良いものはもう見てしまっている。それだけのことだよ。

旧蔵品に対して私が未練がましい気持を抱くことなしにきたのは、
父のことばがよくわかったからであり、それは私もまた
あのときに手放したことを意味する。・・・・・」(~p185)


うん。路地からはいった、京都を見ていると、
何気にフランスへとつながっていたりします。
杉本秀太郎のフランスの随筆を読んでみても、
いっこうに、とりとめもなかったわけですが、
ここからなら、理解の糸口がつかめたような、
そんな気がしてくるのでした。
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詩仙堂。

2021-03-22 | 京都
古本をめくりながら、京都にいる気分を味わう。
ということで、京都関連の安い古本があればと、
そのつど、買うようにしてます。

竹村俊則著「昭和京都名所図会・洛北」
古本で300円でしたので、買いました。

まったく、お寺というか、京都の神社仏閣などは、
今でいう美術館ですね。襖に絵や書が描かれてはいる、
なかには、天井にまで龍がのたくっているのですから。

はい。パラリと、ひらいた箇所は「詩仙堂」。
その解説をたのしみます。

「・・・左京区一乗寺門口町にある。
正しくは詩仙堂丈山寺(じょうざんじ)といい、
曹洞宗に属する寺であるが、石川丈山隠栖の山荘址として世に名高い。」

ご本人の紹介ははぶくことにして、その家の様子は

「詩仙堂と号したのは、その一室(詩仙ノ間)に
漢・晋・唐・宗の詩人36人の肖像をかかげるによる。

それより寛文12年(1672)5月23日、90歳で没するまでの
30余年間、ここで煙霞(えんか)にうそぶき、風月に吟じ、
琴を撫してゆうゆう自適の生活をすごした。
かつて後水尾天皇の御招をうけたことがあったが、

渡らじな瀬見(せみ)の小川の浅くとも老の波そふ影もはづかし

との一首の歌を奉って拝辞したという。
丈山の没後、詩仙堂の管理は在住者のしばしばの変遷によって
堂宇は廃頽し、庭園も荒廃するに至った。・・・・
すでに邸内は草ぼうぼうと生え、ようやく荒れようとしていた・・
その後・・尼僧潜山(せんざん)禅尼が寛永元年(1748)閑院宮家の
庇護によって再興し、さらに昭和42年(1967)に至って現在の如く
改修された。

竹藪におおわれた境内は隠者の家にふさわしく草庵風とし、
入口の表門には『小右洞(ゆうどう)』、中門には『梅関(ばいかん)』、
路地には『凹凸窠(おうとつか)』としるした丈山筆の額を掲げる。

建物は仏間と居間(詩仙ノ間)と
屋上の嘯月楼(ちょうげつろう)からなっている。
仏間は玄関を入った右手にあり、
居間はその左手にあって、丈山自筆の『詩遷堂』の額を掲げ、
四方の長押(なげし)上には丈山が詩を、
狩野探幽・尚信が肖像を描いた三十六枚の詩仙の額を掲げる。
・・・・・・

建物の南にひらける枯山水の庭園は、東に滝をつくり、
水の流れに沿ってツツジやサツキの刈込みがあるが、
その他は一面に白砂を敷いて、
青山(せいざん)と海洋の景趣(けいしゅ)をあらわしている。

僧都(そうず)は庭の奥にある。添水とも記す。
一本の竹筒が、筧(かけひ)の水の重さであふれ落ちると、
筒が下の石につきあたって音を発し、これによって
しのびよる鹿猪(ろくい)を逐(お)いはらったといわれ、
丈山の考案によるとつたえる。」(p41~42)

43ページには、俊則画による白黒の詩仙堂の風景がある。

はい。「肖像を描いた三十六枚の詩仙の額を掲げる」
とあるのは、まるで学校の音楽教室にならんでいた作曲家の
顔絵なんかを思い描いてしまいます。詩人の肖像が並ぶ部屋
ならば、今なら「詩仙教室」とでも呼びましょうか。

はて、丈山筆の額というのは、どんななのだろう、
どんなふうに詩仙堂になじんでいるのでしょうね。

これだけで、まるで300円の拝観料で、
見てきたような気分にひたるのでした。
ということで他のページはそのままに、
またあらためてと、本棚にもどします。

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ヘルマン・ヘッセの自然。

2021-03-13 | 京都
塚本珪一著「フンコロガシ先生の京都昆虫記」(青土社・2014年)
の目次のなかに、ヘルマン・ヘッセとある。何となく、なつかしい。
うん。そういえば、この頃、ヘルマン・ヘッセなんて聞かないなあ。

はい。わたしは小説は読まないので、ヘルマン・ヘッセと
あっても名前でしか知らないけれど、中学国語の教科書に、
ヘッセの少年期の頃の蝶に関する文が、あった気がします。

塚本珪一氏の本には「ヘルマン・ヘッセの自然の記号」
と4頁ほどの文でした。そこにも、塚本氏の昆虫の京都が
書かれていきます。

「春の御苑は成虫で越冬していたチョウと
春に現われるチョウが飛び始める。・・・・・・

御苑、糺の森、府中植物園、そして私が毎日犬と歩いていた
鷺森から雲母坂入り口あたりのチョウの記録を数年間続けて
いるが、いろいろなものが見えてくる。」(p182)

はい。このあとのヘッセを語る箇所が印象的です。

「ヘッセは『自然のものはすべて絵であり、
言葉であり、色さまざまな象形文字である』と書いている。

今日、私たちは自然からの音信である絵や文字を読み取ることを
忘れているが、出来なくなっているようである。

このことは、私は自然の『記号』として受け止める。
その記号はチョウだけではなく、花にも、カメムシにも、
チビクワガタにも、無数にある。

その解読のために御苑を歩き回る。昆虫がいっぱいいる
御苑の自然は私たちにとって『知の風土』であると思う。

菌類・植物・昆虫・野鳥・・・・・・
とそれぞれが美しく、その全体がすばらしい。」(p184)

ちなみに、この本の『はじめに』は、
こんな風にして、はじまるのでした。

「京都の虫=昆虫について語る。地球は虫の惑星であるが、
このことはまず理解されていない。ほとんどの人たちは、
地球はヒト種のものであると考えている。
私の言動は『人類の敵』である。それでも良い、
虫を守ることが地球を守ることと考える。・・・・・」


はい。ここはひとつ、腰をすえ、
「京都昆虫記」という惑星探索
へ誘われている気分となります。

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祇園祭の山鉾『蟷螂山』。

2021-03-06 | 京都
京都関連の古本を買います。最近購入したのは、
塚本珪一著『フンコロガシ先生の京都昆虫記』(青土社・2014年)。
はい。フンコロガシには興味がないのですが、
京都昆虫記というのに惹かれました。

表紙カバーには、祇園祭りの『蟷螂山』のカバー写真。
はい。素敵です。これだけ見れて私は満足(笑)。

カバー写真は、著者撮影とあります。その下に
「蟷螂山は中京区西洞院通四条上ルにある。
祇園囃子とともに年に1回現れるカマキリ。」

目次には、「今西錦司先生の自然学」という箇所もある。
けれども、今回は蟷螂山の箇所を引用してみることに。

「祇園祭りの山鉾巡行に蟷螂=カマキリが
からくりで動くという。これは役(えん)の行者による
疫病人搬送に始まるという祇園祭にふさわしく、
京都文化の恐ろしいまでの創造である。」(p195)

はい。ここを引用すれば、私はもう満足。
古本を買った甲斐がありました。こうもあります。

「これはオオカマキリである。『蟷螂山』はすばらしい。
私たち虫屋のシンボルだ。カマキリはその姿から日本では
古くから『おがみ虫』の名がある。・・・・」(p196)

そのあとに、杉本秀太郎氏が登場しておりました。

「このあたりの文化財家屋に住む杉本秀太郎さんは
中学の同級で、共に昆虫少年をやっていた。
杉本秀太郎さんの住む谷田町には祇園会・白牙山がある。
・・本業はフランス文学であるが、立派な博物学者である。」
(p196)

はい。楽しい古本を手にしました。





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今西錦司の生れた頃。

2021-03-01 | 京都
河合隼雄著作集12「物語と科学」(岩波書店・1995年)。
この巻に、今西錦司と題する20ページの文が載っていました。
この巻の、巻末に著者自身による解題があり、今西錦司の文
についてでは、こうあります。

「今西錦司先生は、私の兄雅雄にとってはもちろんだが、
私にとっても大切な人である。私の考えている『人間の科学』
の研究に関する方法論という点で、先駆的な業績をあげ、
それを世に認めさせた人である。・・・・」(p333)

はい。ここには、河合隼雄氏による文「今西錦司」の
はじまりの箇所だけを引用してみることにします。

「今西錦司は京都の西陣の織元『錦屋』の長男として、
1902年1月6日に生まれた。錦司という名は屋号の一字を
とってつけられたものだが、それには当時織元のトップクラス
として栄えていた家の誇りと、家を継ぐべき長男への期待とが
こめられている。・・・・・

織元『錦屋』では、今西の生れた頃は、祖父母、父母、
その他の親類、店の人たちを合わせて30人ぐらいの大家族が
一つ屋根の下に住んでいた。このような大家族のなかで、
しかもその総領となる地位にあって育ったことは、
今西の学問形成に大きい影響を与えている。・・・・

『・・・
たとえばかれ(フロイト)の説だと、子どもが成長してゆく過程で
父親が母親を独占していることに反抗心を起こす、それによって
いままでの親への一方的な依存から独立心を持つようになる
というのだが、これは核家族を前提としたものであり、私(今西)
のように大家族で育った者には、そういうことは起っていない
のではないか』と述べている。
この指摘はたしかに重要なことである。

・・・極めて日本的な西陣の大家族のなかで育ったことは、
今西の学説に後述するような『日本的』な性格をもたせる要因と
なったことと思われるが、祖父は若いころに織物研究のために
フランスに行ったりして『進取の気性』に富んでいたとか、
父親は息子に対して『芸者の腰に巻くようなものを作らずに
もっと気のきいたことをしろ』などと言って、
老舗を継ぐ必要のないことをほのめかしたりしたとか、
・・・・・・

大家族と共に暮らしながらも、『そこからしばしば抜け出せる
場所の用意されていたことは私にとってしあわせであった』
と今西は語っている。

座敷に続いた庭で、幼い今西はヒキガエルの棲み家や
コオロギの隠れ家捜しに熱中した。また、上賀茂には
祖父の建てた別宅があり、そこは庭が広かったので、そこで
『人工の加わらない自然の片鱗』に接することもできたのである。

・・・・・中学時代に母親と祖父が相ついで死亡し、
父親は病気におかされたこともあって、織元の職をやめる。
今西は第三高等学校にすすむが、その卒業前に父親がガンで死亡する。
・・・・」(p241~243)

はい。これが河合氏による文のはじまりでした。
わたしは、もうここまでで満腹。
20ページの文は、ここからが本題にはいるのですが、
私の引用としては、ここまででいいや。

話題はかわるのですが、この河合隼雄著作集12の
月報のはじめに日高敏隆氏が文を書いておられて、
こちらも読ませるのでした。


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