和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京の街の夏のにぎわい。

2019-06-30 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「モゴール族探検記」(岩波新書)。

はじめに、梅棹忠夫年譜をひらくと、

1955年(昭和30年)35歳
 5月~11月 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。
ヒンズークシ支隊人類学班に属し、モゴール族の調査研究を中心におこなう。
自動車でカブールから北インドを横断してカルカッタまでもどる。

1956年36歳 『モゴール族探検記』
      『アフガニスタンの旅』(岩波写真文庫)


(「梅棹忠夫のことば」小長谷有紀編・その年譜を参照)


さてっと、
パキスタンとイランの間ぐらいの地域への探検記を読んでいると、
どういうわけか、京都が登場する箇所がある。

「このあいだ、祇園祭もすんだなと思ったとたんから、
ハモの切落しの幻影がちらついているのだ。
それからじゅんさいのおつゆ。
 ・・・・
食べものばかりではない。着るものだってそうだ。
カーブルまではゆかたを持って来た。
それが、十年まえのくせで、現地では現地ふうにという
考えが頭をもたげて、おいて来てしまった。
おしいことをしたと思う。
ゴラートの高原、サンギ・マザールのふもとを、
ゆかたがけで散歩するそう快さを味わいそこねた。
価値体系をまったく異にする異民族の中にいて、
そういうことをするのが、いかに愚劣な行為であるかは、
人類学者であり探検家であるところのわたしは、
よく知っている。しかし、それにもかかわらず、
わたしの中に成熟してきた日本人が、
そういう欲求をおこすのである。」
(p107~108)

はい。35歳の梅棹忠夫が、そこにいました。
本は、このすぐあとにゾバイル僧正との宗教論争
という印象的な場面となります。
まあ、そこはここではカットして、
その宗教論争の考察がある第七章の最後でした。

「夜、自分のテントに帰って、
日記の日付を書いたとき、まったく突然に、
京の街の夏のにぎわいの、はなやかな情緒を思い出して、
すこしせつない気もちになる。
今日は大文字の日なんだ。ゆかたの人の群れとうちわの波。
もう大文字山にはほのおが上っている時分だろう。
しかしここ、テントの外には、くらやみの中に
ジルニーの村は静まりかえっている。・・・・」
(p130)


はい。梅棹忠夫
「成熟してきた日本人」の京都。

せっかくなので、もうすこし(笑)。

ゾバイル僧正が「あなたは神を信ずるか?」
と質問してきた109ページの、
同じページの最後の方に梅棹さんは
こう記しておりました。

「・・わたしは自分自身の心の中を分析してみて、
やはりある種の神さまが躍動しているのを感じている
・・・」

うん。ここでは、ちょうど
「自分自身の心の中を」のぞきこんでいる場面でした。
「ある種の神さまが躍動している」京都が、そこには、
映し出されていた。ということでしょうか。


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梅棹忠夫と、良寛さま。

2019-06-29 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
その第四章「きりぬきと規格化」は、
こうはじまっておりました。

「小学校のころ、新聞に『良寛さま』という
連載小説がのっていた。わたしたちは、
担任の先生から、毎日その一回分をよんできかせて
もらうのがたのしみだった。先生は、
その小説をきりぬいて、ながくつなぎあわせ、
まき紙のようにまいて保存しておられた。
良寛和尚の人がらとともに、新聞にはきりぬいて
保存するにたる部分があるものだという事実が、
ながくわたしの記憶にのこることとなった。
・・・・」(p65)

この引用文の後半の着眼点がいいですね。
ちなみに、「知的生産の技術」の
第一章「発見の手帳」では、
高等学校の学生の時に読んだ『神々の復活』
の中にあった記載で、ダ・ヴィンチの手帳があり、
『この本をなかだちにして、レオナルド・ダ・ヴィンチ
から「手帳」をもらったのである。』(p22)
という箇所もあったのでした。

さてっと、ここでは新聞の『良寛さま』について。
梅棹忠夫は、1920年生まれ。

相馬御風は、『良寛さま』を新聞連載したのが
昭和3年(1928)。
ちょうど、小学生の梅棹忠夫が担任の先生から
読んで聞かせてもらってたのが、どうやらこれらしい。

古本で、簡単に購入できたのは、
子どもむけに書かれた相馬御風著『良寛さま』。
こちらは平成19年の地域の復刻本とあります。

そのはじまりの一回目には、こんな箇所がある。

「・・良寛さまは、とうとう・・・あちこちの国々を
まわって歩いて・・いろいろと教えをうけて学問をつづけました。
・・野原の木のかげで寝たこともあります。
どろぼうとまちがえられて、さんざんなぐられた後に、
土の中に生き埋めにされかけたこともあります。
・・・それでも良寛さまは、少しもへこたれないで、
あちこちと・・何年もの間学問をつづけました。
そしてしまいになつかしい故郷の越後の国に帰ってきました。」

はい。『生き埋めにされかけたことも』で、思い浮かぶのは、
たとえば、梅棹忠夫著「モゴール族探検記」の、まえがきに
こうあります。

「・・日本国内の農村調査などでもしばしば経験することだが、
風俗・習慣・ものの考え方のちがう人たちの中へ入って行って、
うまく仕事をすすめるのはなかなかむつかしいものだ。
言語がちがい、宗教が異ると、ますますやっかいなことになる。
ずいぶんおかしなトンチンカンがおこるし、わるくすると
生命の危険をさえまねくおそれもある。そういう人たちと
どんな接触の仕方をすればよいか。それは理論や観念、
あるいは単なる善意で片づく問題ではない。
やはり具体的な経験の蓄積が必要なのだ。・・」


はい。梅棹忠夫と良寛さま。
というのもありですね。そうだとすれば、
小学校の先生が『良寛さま』を語る場面が、
海外探検の途次、浮んできたのじゃないか。

それを反芻しながら、『知的生産の技術』は、
構想されていたのだと、私に思えてくる(笑)。


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地蔵盆。

2019-06-28 | 本棚並べ
小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」の
最初の方に、京都の地蔵盆への言及がある。

「1989年の夏だったように思う。
当時、私は西陣の一角にある公団住宅に住んでいて、
アパートの管理人をしているお宅の子どもたちと一緒に
上京区のお地蔵さんを毎朝たずねあるいた。
 ・・・・・
私は学生時代、日本のように人間関係がからまりあうのは
うっとうしいと感じてモンゴルに留学したのだったが、
かの地ではモンゴルの良さを知ると同時に、
ひるがえって日本を再評価するようにもなった。
かつて短所だと感じていたことを長所だと思うようになっていた。
それぞれの良さが見えてきたとでも言っておこう。

狭いところに大勢が住む、そんな街の暮らしには、
きっとなにかしら協調のための文化的なしかけがあるにちがいない。
そんなふうに考えるようになり、
京都の地蔵盆を調べ始めたのだった。
 ・・・・・
江戸時代に創業した老舗は通りに面して店を構えている。
 ・・・・・
路地の奥には必ずと言っていいほど、
小さな地蔵たちが鎮座していた。
それらはたいてい大日如来さまで、
通りの地蔵たちがたいてい阿弥陀如来さまで
あるのとは異なっていた。
仏さまがちがうのだから、まつりの日程もややずれる。
大日如来は真言密教において最高位の仏である、という。
より大きな救いの力が路地コミュニティにこそ
必要なのかもしれない。・・・」
(p23~24)

そういえば、
松田道雄の本に地蔵盆にふれた箇所がある。
パラパラひらくと、とりあえず2冊あります。

「京の町かどから」は目次の3番目に「地蔵盆」とある。
そのはじまりは

「大文字がすむと京の町の地蔵当番は、いそがしくなる。
大文字というのは、8月16日の夜、東山三十六峰の一つの
如意ケ嶽の山腹に大きくほった大の字のザンゴウにマキを
たいてする送り火である。東山だけでなく、
北山にも西山にも・・・・送り火がたかれて盆の最終の
夜空をかざる。
けれども京の盆はこれでおわるのではない。
もう一つ地蔵盆がある。地蔵盆は子どもの祭典である。
・・・・
鐘をカンカンたたきながら、
『お供養どっせ、お供養どっせ』と
町内をふれてあるく。
そしてパン供養のときはパンを、
菓子供養のときは菓子を、くばってあるく。
子どもたちにとって、こんな祝福された日はない。
朝から晩まで大っぴらに遊べるし、
おやつはひっきりなしにもらえるし・・・・」


松田道雄の「花洛小景」にも
「地蔵盆」と題する文がはいっしているのでした。
こちらは、滝沢馬琴の文を引用してはじまっております。
その文を引用した後に、

「京の地蔵盆は昔から子どもを参加させていた
とかんがえてまちがいなかろう。・・・・
おとなにとっては重要な地蔵祭だが、
子どものことを忘れない。
子どもを忘れないということは、
昔の日本人のいい風習であった。・・・

この地蔵盆も、実際にはだんだんとやりにくくなってきた。
町のなかでは、子どもがへってしまった。
結婚したわかい夫婦が、その親と同居しないで、
町からでていってしまう。町のなかの人口は
だんだん老年のほうにずれていく。・・・

いちばんこまるのは、まる二日子どもに
サービスするために、仕事を休めるおとながへって
しまったことだ・・・
また、ふるい家がなくなり、かわってきた人が
ビルをたてて会社をつくったりする。
そういうところは地蔵盆とは関係ありませんという態度をとる。
近代産業が町にはいってくるほど地蔵さんは圧迫される。」

こちらは4頁ほどの短い文なのですが、
最後も引用。

「だが、子どもの意見はそうでない。
近所の小さい人にきいてみたら、こういう返事だ。
『地蔵盆待ってんね。
いつもおこらはるおっさんかて、
やさしゅうしてくれはるやろ。
一年にいっぺんだけでもそうしてほしいわ』」

最後の引用は、昭和44年8月に新聞掲載された文でした。
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しかし文章をお書きにならない。

2019-06-27 | 三題噺
西堀栄三郎に関する3冊。

「桑原武夫集5」(岩波書店)
「梅棹忠夫著作集第16巻」(中央公論)
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)

まずは、司馬遼太郎の講演から。
「週刊誌と日本語」という講演。

「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。
探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。

桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
南極探検から帰ってきて名声とみに高し
という時期の話です。

西堀さんはすぐれた学者ですが、
しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。
自分の体験してきたことを
文章に書かないというのは、非常によくない』
 ・・・
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うから
すごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
 ・・・・・・

だれもが簡単に書いていることに
驚きを感じたらどうだろうか。
それができずに苦労していた時代もあったのですから。
この時代に共通の日本語ができつつあったのでは
ないかと桑原さんに言ったところ、
桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろうか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと
言われるものですから、私も意外でした。
・・・・・
それから西堀さんは一年間で、
文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。」

はい。ここから
「桑原武夫集」の「西堀南極越冬隊長」を引用して、
「梅棹忠著作集」から「西堀栄三郎氏における技術と冒険」
のなかの「南極越冬記」を引用して、
最後に岩波新書「南極越冬記」の「あとがき」を引用。


桑原武夫の「西堀南極越冬隊長」のなかの、
この箇所を引用。

「彼(西堀)は戦後、推計学を勉強した。そして
日本へもよく来たアメリカ第一の推計学者、
デミング博士の一の弟子である。もっとも西堀は、
ものを書くことが何よりきらいで、著書は一つもないから、
すべて本がなければ信用せぬ日本の学界では、そんなに
評価されていない。しかしデミング博士に推計学者の
評価をきくと、日本では西堀が一番だと答える。
日本の学者はみな論理家的すぎる。
しかし肝腎なのは現実を推計しうるか否かにかかる。
西堀はこの理論、あの理論などということは一切いわぬが、
問題を解決するのが一ばん早くて正確だ、というのである。
彼はつねに実践家たらんとする。そして推計学をふまえた
品質管理において、彼は日本の工業界に大きな実際的貢献を
している。その一番有名なのが、旭化成の延岡ベンベルグ
工場での硬糸防止の仕事である。・・・」
(p30~31・1957年)

つぎの梅棹忠夫の文は以前に引用したので、
ここでは、カット(笑)。
そして、最後は、
西堀栄三郎著「南極越冬記」のあとがき。

「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。熱心な声援を送って下さったたくさん
の人たちに対して、わたしは自分の得てきた体験を
報告しなければならぬだろう。

しかし、いったいどうして本をつくるのか。わたしは生来、
字を書くことがとてもきらいである。この年になるまで、
本というものをほとんど書いたことがない。桑原君は
『南極越冬中にすこしずつ書きためればよい』といった。
わたしはそうする約束をした。

桑原君はわたしの日ごろを知っているから、
あぶないと思ったのだろう。越冬中に、
NHKの南極向け放送を通じて、
『原稿は書いているだろうね!』とダメをおしてきた。
しかし、そのときまではまだ、ざんねんながら
原稿らしきものは一字も書いていなかったのだ。
わたしは、電報で『努力する』と返事してやったが、
心に大きな負担を感じるばかりで、ちっとも実行は
できなかった。『帰ったら、あやまるまでだ』と、
おうちゃくな気もちにでもならなければ、
この心の重荷にたえられなかった。
・・・帰ってきたとき、
『西堀はやはりまとまった原稿は書いていなかった』
のだ。・・しかし、わたしがほんのメモがわりに
毎日つけていた越冬個人日記があった。また、
断片的に書きちらしたノートや原稿があった。
これに若干の私見を書き加えて一書にし、
国民に対する責をはたすべきだと力説した。
かれの意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君の
いうようなことができようはずがない。
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。
本つくりは進行をはじめた。

だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、
わたしの本の完成のために、ひじょうな
努力をしてくれたのであった。
桑原・梅棹の両君の応援がなかたならば、
この本はとうてい世にあらわれることが
できなかったにちがいない。・・・」
(p267~268)


はい。司馬遼太郎の講演と、
そして、この3冊とで見えて来るものがある。

そういえば、
「梅棹忠夫語る」に
こんな箇所がありました。

小川】民博をつくるとき、
梅棹さんは一人ひとりの論文を読んで、
学会に行って発表を聞いて、これはいい
だろうと採ってきたと言わています。

梅棹】そうやった。当時は山椒大夫です。
人買い稼業。それで、これはっていうのを買ってくる。

 ・・・・

小川】ところが梅棹さんは、それだけ選びながら、
『おまえら新聞に書け』と連載か何かさせたでしょう。
そしたら、書けないやつがいっぱいいて、
『これはひどい』ってやめたって。

梅棹】そういうことがあったな。全然だめやった。

(p143~144)

はい。『これはひどい』引用を重ねております(笑)。

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京都の雨は縦に降る。

2019-06-26 | 本棚並べ
奈良本辰也著「京と綴って」(駸々堂)を
古本で380円(送料共)で購入。

昭和45年発行で、写真も随所に挿入されているの
ですが、その当時のもの。

さてっと、未読なりに、はじまりだけは
引用しておきます。

「京都の雨は縦に降る、というふうに言われている。
南をわずかに開いて、東と北と西の三方を、
起伏する山脈によって囲まれた小さな盆地の感じを
よく表わした言葉だと思う。

たしかにここでは、自然の風物は、
いかにも物腰がやさしいのである。
『ふとん着て寝たる姿や東山』という
句があるように、比叡山を主峰として、
北から南に連なる東の山々はいうまでもなく、
愛宕山を西にみて、比叡からその愛宕にかけて
北の壁をなす北山連峰にしたところで、
恐らく800㍍をこす高さの山はないだろう。

西山に至っては、もっとのんびりとした姿で、
ゆるやかにうねって淀川の彼方に消えていく。
しかも、それらが東・北・西と吹き通しの
風をふせいで、横なぐりの激しい雨を
他所のものとしているのだ。」


はい。これがはじまりの1ページ全文です。


今日は草刈りでした。
台風も近づいているようだし、
これからは、雨が続くのでしょうか。


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水の流れと、梅棹忠夫。

2019-06-25 | 三題噺
水の流れと、梅棹忠夫。
ということで、
三冊の本の、ある箇所をつないで引用。
こういう思いつきは、すぐに忘れるので、
忘れないうちブログへと記入しておこう。

「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)
「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)
「知的生産の技術」(岩波新書)

この3冊を順をおって引用。
はい。水が印象に残ります。
そこから、補助線でつなぐ。

1冊目は

「・・・大きな川の写真があり、
続いて川面を映した写真があった。
よく見ると川面には小さな白い点々が
ゴミのように写っている。何だろう?
と思っていると谷(泰)先生はすかさず
『単語カードではないか』と言う。
そう言えば『実戦・世界言語紀行』(岩波新書)に
そんなエピソードがつづられていたっけ。

『ポー川の紙吹雪』というタイトルで、
イタリア調査で使っていた単語カードを
もう要らないからポー川をわたったときに捨てた、
という話がつづられている。・・・・」(p61)

2冊目は
元岩波書店編集者・小川壽夫氏の1頁の文。
岩波新書「知的生産の技術」を発売するまでの
経緯を書いておられます。途中から

「最初に、社全体の編集会議に企画提案したとき、
知的生産とはいったい何だ、ハウツー物じゃないか、
ときびしい批判を浴び・・・
そこから、いわばゼロからのスタートになる。・・
先生は『これはわたしの学問研究の一環です』
と強調されていた。
・・・・くりかえし話題になったのは、
秘書の重要性、日本語タイプライター、
個人研究の共有化、だったと思う。

対話しながら自問自答し、
迷ったり横道に入ったり、
だんだんと考えを煮つめていく。」

はい。ついつい余分な引用をしました。
水が出てくるのは、この次なのでした。

「原稿はあらたに書き下ろす形になったが、
なかなかスタートしない。お宅にうかがうと、
先生は、トイレの水の流しかたをどう書いたら
お客さんにわかってもらえるか、苦悶されている。
できるだけ短く、ひらがなで二行。何度も書き直す。
その日は、督促のしようもなかった。」
(p102)

はい。3冊目は、よくご存じの「知的生産の技術」から


「これはむしろ、精神衛生の問題なのだ。
つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、
何が必要かということである。かんたんにいうと、人間から、
いかにして いらつきをへらすか、というような問題なのだ。
整理や事務のシステムをととのえるのは、
『時間』がほしいからでなく、
生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。


水がながれてゆくとき、
水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。
水全体がごうごうと音をたててながれ、泡だち、
波うち、渦をまいてながれてゆく。
こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。
ところが、障害物がなにもない場合には、
大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。
みていても、
水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。

知的生産の技術のひとつの要点は、
できるだけ障害物をとりのぞいて
なめらかな水路をつくることによって、
日常の知的活動にともなう情緒的乱流を
とりのぞくことだといっていいだろう。
精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
(p95~96)


ゆく河の「ポー川の紙吹雪」と
お宅の「トイレの水の流し方」と
そして「知的生産の技術」の水と。
この3枚のカードをならべてみました。

きっと、わたしが、
「知的生産の技術」の水の箇所を
いつか、読み直すことがあったら、
『情緒的乱流』のように、すぐに、
トイレが思い浮かぶのだろうなあ(笑)。

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そういうことになったんねんけど。

2019-06-25 | 本棚並べ
そういえばと思いうかんで、本棚から
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文芸春秋)をもってくる。

司馬遼太郎氏と関係があった方々との、
見えにくい交流を、中心にまとめた本。

海音寺潮五郎・源氏鶏太・今東光・藤沢桓夫とはじまり
富士正晴・吉田健一と並んでおります。

その目次の最後の3人はというと、
桑原武夫・足立巻一・田辺聖子でした。

たとえば、桑原武夫について、

「昭和63年4月10日、桑原武夫の訃報をきいて、
翌日の読売、朝日、毎日、産経各紙の大阪版朝刊の
すべてに追悼談話を寄せているのは司馬遼太郎だけで、
話の中身をふりわけつつ、思考の衰えを知らぬ、
文章のいい人だったと語っている。
同じ日の読売新聞大阪版夕刊に書いた『鋭い言語感覚』は
桑原武夫評の総仕あげだが、しめっぽいところがなく、
とてもすっきりしている。・・」(p168~169)

こうして、ひきつづく引用が冴えます。


うん。最後は田辺聖子さんが知る司馬サンを引用。

「およそ司馬さんぐらい、話していておもしろい
男性はないであろう。座談の妙手というか天才というか、
司馬さんのお話を聞いているだけでも面白いのに、
こちらの話を巧妙に引き出す能力も抜群である。

インタビュアーとしても一流である。
だから対談していると、思わず時のたつのも忘れ
ご迷惑かけることになってしまう。司馬さんの対談を
本で読んでも面白いのは当然だが、ナマで向き合ってると、
一そう迫力が出て面白い。
『そやねん、そやねん、そういうことになったんねんけど、
ほんまはな・・・』とやわらかいトーンの大阪弁で、
歴史の秘密をたぐりよせてゆく、その耳あたりのいい声と
大阪弁は、やっぱり、ナマ身できいたほうが、
よりおもむきふかいであろう。・・・」(p215)

これは、司馬遼太郎全集第一期第16巻月報(昭和47・12)
の田辺聖子さんの文「司馬さんのこと」を
山野博史氏が引用しているのでした。

山野博史さんは、推薦文などの細部を見逃さずに、
「発掘 司馬遼太郎」を組み立てております。

「桑原武夫集」全10巻(昭和55・4~56・2)の
発刊時の内容見本に寄せた司馬さんによる推薦文を
引用するその前に、山野博史氏は、こう指摘しております。

「・・・司馬遼太郎の陣構えも周到で、
桑原武夫のために書くべきときに書くべき文章を
こしらえて、寸分のすきも見せなかった。」


うん。この本、何年かたってから、
ふと、取り出しては、はじめて読むように
読み返す本となっております。

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東京と京都。京都と東京。

2019-06-24 | 本棚並べ
今日届いた古本に
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)。

その解説は、原武史。
その解説のはじまりは、

「京都で生まれ育った梅棹忠夫は、
着任した大学や博物館を含めて、90年もの生涯の間、
全くと言ってよいほど関西の地を離れなかった。」

とこうはじまります。
すこしあとに、ご自身を語っておりました。

「東京に生まれ育ち、
東大大学院で政治学を専攻した私にとって、
学問とは何よりもまず専門的なテキストを読むことであった。
ゼミや研究会などで『わかりません』『知りません』と
発言することは、教授や他の院生から注がれる侮蔑的な
眼差しを覚悟しなければならなかった。・・・・
梅棹に代表される京大系の学問を、
東大の教授たちは明らかに一段低いものと見なしていた。

しかしいまになって・・・・
梅棹の著作をきちんと読んでこなかったことを後悔している。
その平仮名を多用する平易で明晰な文章にせよ、
世界に眼が開かれていながら片仮名や横文字を極力使わず、
権威ある学者の文章からの引用にも依存しない方法にせよ、
それでいてきわめてオリジナリティの高い仮説をごく自然に
提示してみせる発想力にせよ、もし東大時代にじっくりと
読んでいれば、視野狭窄になりがちな官学アカデミズムを
より相対化するのに、どれほど役立ったかわからないからだ。」

解説は、「京都で生まれ育った」と「東京に生まれ育ち」と
並べながら、はじまっているのでした。

さてっと、「ウメサオタダオと出あう
  文明学者・梅棹忠夫入門」(小学館)は、
追悼の「ウメサオタダオ展」で、来場された方が、
アンケートがてら書き残した『はっけんカード』を中心にして、
各ページを、それで埋めるようにして並んでいる本でした。
そこから(44歳男)の方の文を引用。

「44歳。焼鳥屋のおやじです。
知的生産の技術を読んで以来、
梅棹ファンで、著作集22巻すべて読みました。
こんな焼鳥屋のおやじでも読める文章を
書ける学者はいません!
今回私のほとんど知りえなかった
写真や原資料はたいへんおもしろく見てまわりました。
梅棹さん、絵がうまい!
あれだけ描けたらおもしろいだろうなあ。
・・・・」(p135)

ハハハハハ。
還暦すぎてから、
梅棹忠夫著作集(全)を、古本で掛け声かけてからでないと
買えないような自分が、いかにも、もったいぶったことでも
しているようなそんな気がしてきました(笑)。


そうえいばと、思い浮かんだ新聞のコラムがある。
産経新聞2019年6月22日「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」。


「・・にしても、このところ週刊誌がつまらない。
部数トップの『週刊文春』からして大人の視点を欠き、
読むべき記事が少ない。今週号(6月27日号)の左柱は
またもや『小室圭さんが眞子さまに打ち明けた「隠し録音」』
・・・単なる匿名の証言。・・記事にするまでもあるまい。」

うん。そんな週刊誌事情を調べたあとに
最後にこうありました。

「『ニューズウィーク日本版』(6・25)の特集は
『弾圧中国の限界』。香港200万人デモを報じている。
『文春』もこういうテーマを取り上げなくては。」


うん。視野狭窄の官学アカデミズムを卒業した方が、
各週刊誌のトップをしているかのように思えてくる。
それより、「世界に眼がひらかれて」いる週刊誌を。


もどって、
原武史氏の解説の最後も引用しておきます。

「梅棹によれば、
『日本という国は、二重構造がすきな国である』。
具体的には、アマテラスとオオクニヌシ、
天皇と出雲国造、伊勢と出雲、東京と京都
といった関係があげられるだろう。
けれども両者は非対称の関係にあり、
梅棹は常に後者から前者を、
さらに日本全体を見ていたところがある。
『日本探検』が、今日なお類例のない文明論
としての輝きを失わない所以である。」


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あっぱれなひらめき。

2019-06-24 | 本棚並べ
昨日は、寝床でひらいていたのは、
「ウメサオタダオと出あう」(小学館)。
帯には、梅棹さんの斜め横顔の写真、
それに、「特別展で出あったみんなのカードから
梅棹思想の魅力を再発見」と書かれています。

梅棹忠夫の没後、大阪の国立民族学博物館で開催された
ウメサオタダオ展のアンケート『はっけんカード』を
たたき台にして、小長谷有紀さんが書いております。

1つ引用するとしたら、私は、ここかなあ。

17歳女性の『はっけんカード』。

「今はなんでもパソコンやケータイに思いついたことを
書き留められる反面、データをボタン1つで一気に削除
することができるようになってしまった。文と文の間に、
後から思いついたことを挿入できるようにもなった。
けれどそうではなくて、『考え』はその時々まとめて、
後で思いついたことはそれだけでまとめておく方が、
後で振り返ったときにその時々の自分と向き会える。
そして紙に残しておけば一生消えない」

これを引用した小長谷さんは、後にコメントして、

「何でも書きとめていた証拠が残されている展示を見て、
現代がデジタル機器に依存していることを指摘する人は多い。
しかし、その先の、ボタン1つで削除されることや、
容易に改変できてしまうことについて、
哲学的に思案をめぐらしている人はきわめて少ない。
あっぱれなひらめきであるとわたしは思う。」
(p81~82)

寝床で、この本をひらいていたら、
そのまま、寝っちゃうのでした(笑)。
朝起きたら、気になっていた
この箇所が浮んでくる。

順をおって引用。
「まえがき」は、こうはじまります。

「『知的巨人』や『知のデパート』と称せられた
梅棹忠夫が、2010年7月3日に亡くなった。本書は、
没後に大阪の国立民族学博物館で開催された
ウメサオタダオ展で、人びとがどのように
彼と出あったかという記録である。」(p2)

「・・太陽の塔がそびえる万博公園で、
国立民俗博物館主催のウメサオタダオ展を
2010年3月10日から開催した。

開幕翌日、宮城県沖で大地震が発生した。
未曽有の放射能被災を含む、
東日本大震災に見舞われ、
展示を企画した一人としてわたしは、
そもそも混迷の時代にこそ梅棹忠夫を読み解く
必要性を強く感じていたから、
こうした艱難辛苦の時に至ってなおのこと、
より多くの人びとにウメサオタダオと
出あってもらいたいと望んだ。」(p4)

は~。「ウメサオタダオ展」開催の翌日に、
東日本大震災があったのでしたか。知らなかった。

それはそれとして、朝起きて気になったのは、
日付でした。この「まえがき」には、
2010年7月3日に梅棹忠夫氏が亡くなり、
没後開催した「ウメサオタダオ展」は、
2010年3月10日に開催したと書いてある。
あきらかに、2010年は2011年の誤りで、
本のp8には展示会の看板も写真入りで
はいっている。その展示看板は、読める
「特別展ウメサオタダオ展
 2011年3月10日(木)~6月14日(火)」
とある。

う~ん。
デジタル機器ならば、こういう記入ミスは、
間違いを正すということで、
すぐに訂正して削除・改変できてしまう。

ところが、本では、そうはいかない。そういう、
本のふところの奥行きを感じさせる一冊です(笑)。
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あれは、東京で偉いんやぞ。

2019-06-23 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の
第6章「読書」。そのはじめのページに

「・・すぐ手にはいる本で、もっとも正統派的なのは、
小泉信三『読書論』(岩波新書)であろう。
記述のスタイルは、ややクラシックだけれど、
さすがに耳をかたむけるべき内容にみちている。」

 はい。私は読んでおりません(笑)。
そのすぐ次に、こうありました。

「また、大内兵衛・茅誠司他『私の読書法』(岩波新書)
が役にたつ。・・・」(p97)

あれれ、この『私の読書法』をひらいてみると、
そこに、梅棹忠夫も「行動中心の読書」と題して、
10頁ほどの文を書いているじゃありませんか。
せっかくなので、そこから、この箇所を引用。

「・・本は、いやになればさっさと閉じてしまえるから、
まだよい。閉口なのは、講演だ。途中で逃げ出すわけにも
ゆかない。まず、たいていの話は、聞いているうちに
イライラしてきて、居たたまれなくなる。
それは、講演というものは、一方交通だからだとおもう。
向うのお話を拝聴するばかりで、こちらは何も口出しできない。
対話にならないのだ。学生時代は、講義がいやで、
卒業したときときはホッとした。
いまは反対に、講義をする側になってしまったが、
これも、じつにいやな仕事だ。やっぱり一方交通で、
こちらが一方的にしゃべるだけで、
向うからは何も返ってこない。
いまの職は悪くはないと思っているが、
講義だけが苦痛の種である。」(p57~58)


はい(笑)。そうえば、
小山修三が聞き手の「梅棹忠夫語る」。そこに
丸山真男氏が語られている箇所があり、印象に残ります。

小山】梅棹さんには常識がなかった(笑)。
それは、そうですよね。丸山眞男さんが
京大に講演に来られたとき、
途中で席立って出てしまって・・・

梅棹】ああ。『こんなあほらしいもん、
ただのマルクスの亜流やないか』って。
そのときも桑原さん、
『ああいうことやっちゃいかん。
あれは、東京で偉いんやぞ』って(笑)。

実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。
ものすごく陽気でいい人物だった。
おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。
あんなものは、理論的にただマルクスを
日本に適用しただけのことで、何の独創もない。
(p183~184)

梅棹ご自身が講義を苦手としたようです。
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)に
こんな引用がありました。

「吉良(竜夫)と梅棹はともに
1949年から大阪市立大学に勤務した。
よく知られているように、梅棹は
大阪市立大学での授業を苦手としていた。
鶴見俊輔は
『自分でおもしろいと思っていることに学生は
乗ってくれないからだろう。明日は講義だと思うと、
胃が硬くなる。胃潰瘍になるかもしれないと言っていた』
と回想している。」(p138)

ちなみに、このすぐあとも引用しておかなきゃね。

「大阪市立大学時代、梅棹は1957年から58年にかけて
東南アジア学術調査隊を成功させ、1960年、今の
ミャンマーにあるカカボ・ラジ山の登山計画に失敗し、
翌61年、第二次東南アジア学術調査隊に出かけた。
海外出張でしばしば不在となる梅棹に代わって
(吉良が)授業をしたり、会議に出て弁明したり
していた、という。」

う~ん。こうして読んでゆくと、
だんだんと『知的生産』に味わいがでて、
匂いまで嗅げる気がしてきます(笑)。

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喜寿と米寿と、伝習録。

2019-06-22 | 本棚並べ
「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社・2008年)のまえがきは、
梅棹氏本人が書いておりました。そこに、

「・・わたしの米寿に際して、
わかい友人たちがおいわいの会をひらいてくださるという。
それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。・・・」


そういえば、と本棚から「桑原武夫傅習録」(潮出版社・1981年)
を出してくる。この序文を梅棹忠夫が書いておりました。
そのはじまりは

「桑原武夫先生は、ことし(1981年)の五月に、
喜寿の賀をむかえられる。第七十七回目のお誕生日の当日には、
友人・弟子たちがあつまって、祝賀会をひらく。その日を目標に、
この本・・の刊行計画はすすめられたのである。
桑原先生の人となり、行状、業績について、
たくさんの文章が知人たちによってかかれている。
それをあつめて、一冊の本にまとめようという企画である。
これは、賀の記念としては、まことにふさわしい計画であった。」


この「傅習録」に司馬遼太郎氏の文も掲載されており、
そこにある司馬さんの文に一読、ちょっと飲み込めない
と思えるような箇所があって、かえって印象に残っておりました。
その箇所というのは

「桑原氏の異常さは――といったほうがいい――対談のはじまる前に、
場面構成をすることである。いきなり始めればよさそうなものが、
諸役(編集者、速記者、そして話し手など)のざぶとんの位置を
決めなければはじめられない。・・・・
『速記の方はそこ。編集部はあちらに』と、氏は登山隊長のような
表情になった。さらに氏は小机の角度をすこし曲げ、
司馬サンはそこです、といた。それによって氏と私との位置に、
適当な角度ができ・・ひどく楽な気分になった。

同時に桑原氏の学問の方法の一端がわかったような気がした。
このことは、人文科学の分野は成しがたいとされていた
共同研究というものを氏が一度きりでなく幾度も成功させた
という記録的な業績の秘訣にもつながっているようにおもえる。」
(p156~157)


なぜ、こんな引用をしているのか?

昨日、「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」という
国立民族学博物館から出ていた図録をひらいて
いたら、小長谷有紀さんのモンゴルに関する文に
こんな箇所があったからでした。
それは、梅棹氏が1975年の教養講座での話の一部でした。

「民族学はたのしいが、時間のかかる仕事だと講演し、
『かなりながく現地につかっていた経験』として、
モンゴルを例につぎのような話をしている。

『まず第一にウマにのることからおぼえるわけです。
ウマにのれなければ、隣のうちへゆくこともできませんから。
もちろんモンゴル語がわからなければ、どうにもならない。
それからイヌにかまれないですむ法とか、
ヨーグルトのなかにガとはハエがはいっているので、
それを唇でこしながらヨーグルトだけのむ法とか、
へんな技術をいっぱいおぼえなければならない。
そういうことをさんざんやって、二年たって・・・』

ここでいう『へんな技術』とは、いずれも
現地の人びとのふだんの生活にあみこまれている
身体的な技法のことである。・・・」
(p40)

さて、ここまで引用を重ねれば、
なんら不思議にも思わないだろう、
京都の共同研究という『へんな技術』を
回顧した文を、ここに引用させていただきます(笑)。


加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社C・BOOKS)に
「京都文化のなかで」という章があるのでした。
そこから、ちょっとだけ引用させていただきます。

「研究会といっても、人文のそれは、
しかつめらしく肩を怒らせたむずかしいものではない。
むしろ、そのスタイルは、非公式の座談、といった
おもむきであった。職階上の差別はいっさいしない、
という原則は、まえにもいくたびか紹介したけれども、
なにしろあちこちに話題が展開し、時間はいちおう
1時から5時まで、といったふうに掲示されてはいるものの、
それが7時になり、9時になっても、えんえんと果てしなく
研究会がつづくこともめずらしくなかった。そして、
その間、大きなヤカンからそれぞれに渋茶を注いで
飲むのはともかくとして、腹が減ると、自由に出前の
ドンブリものや、うどん、そばのたぐいを電話で注文し
て食べるのであった。報告者にあたった人が、
古今東西の文献を引用して名論卓説を展開しているのに、
そのとなりにすわっている参加者がきつねうどんを食べ、
そこから立ちのぼる醤油の匂いが会議室に充満している、
といった風景も、わが人文の研究会ではごく日常的であった。

わたしは、はじめて研究会に出席したときには、
こういう光景にただびっくりするのみであったのだが、
これが人文科学研究所の『文化』であることを知るに
およんで、だんだん、その習慣をみずから身につける
ようになった。そして、うどんをすすりながらでも、
じゅうぶんひとの話をきき、かつ、ときには、箸を置いて
発言しうるものだ、ということを体験的に知った。」
(p98~99)

う~ん。このあと肝心な「京都」の地の利へと、
ひろがる箇所なのですが、今回はここまで。

うん。今回は
「知的生産の、へんな技術」の紹介でした。





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レッスン『梅棹忠夫』。

2019-06-21 | 本棚並べ
小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)。
この本が気になったので、
小長谷有紀さんの本をネット注文。
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)
が、今日届く。

はい。序章をひらく。
気になったのは、この箇所

「ちなみに、出勤前に美容院へ行くのは
決してさぼりではないことをお断りしておきたい。
フレックスタイム制で時間の使い方は自由なのである。

実は、研究者にとって休みなどない。
とりわけ人文系の場合、実験系の理系とはちがって、
家で休むときこそ、論文を読んだり、書いたり、
まさに『書き入れ時』となる。・・・」(p3)

梅棹忠夫氏が亡くなって、
半年後くらいに追悼展示をすることとなり、
その展示の実行委員長に指名された小長谷さん。
まずは、梅棹氏との距離。

「私は決して梅棹忠夫の弟子ではない。
彼がまだ目の見えるうちには一度しか会ったことがなく、
彼から指導を受けた経験がないからである。
しかし、『梅棹忠夫著作首』の編集者たいのなかで
・・・私がもっとも若かった、それで白羽の矢が立ったのである。」
(p7)

「まず、一カ月かけて著作集全22巻を読んだ。
おもしろいと思うところに線を引きながら。
そして、私が線を引いたところを、
アルバイトの方にワープロでタイピングしてもらう。
これによって、濃縮版デジタル著作集のできあがり。
ファイル名は『梅棹忠夫のことば』とした。
以後、この『梅棹忠夫のことば』テキストを使って
展示場のキャプション等を作ることになる。

わずか一回かぎり、しかも読み飛ばしにすぎないけれども、
そうやって最小限の知識を脳みそにたたきこんでから、
私は『梅棹アーカイブズ』の資料と対峙した。
・・選び出してゆく作業は、私にとって
『梅棹忠夫との出会い』そのものだった。・・」
(p8)

はい。序章だけで、私は満腹。
それにしても、
小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」には、
そういう、いきさつがあったのだ。


はい。
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)と
「梅棹忠夫のことば」(小長谷有紀編)と
二冊のガイドブックが付きました。
著作集の脇道、枝葉末節に迷い込んだら、
この二冊が指示してくれる筋道を辿れる。
なんとも、贅沢な気分になります。
ありがたい。
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雨のあと。

2019-06-21 | 詩歌
理論社の少年詩集シリーズ。
牧野文子少年詩集「あめんぼのゆめ」を古本で購入。

はい。余白がたっぷりしていると、
ぜいたくな気分にひたれます(笑)。
せっかくですから、一篇の詩を引用。



  雨のあと(二)

 雨のあと
 蜘蛛の巣の真ん中で
 蜘蛛が
 ぴょいぴょいと水をはじくのを見た
 雨のあと
 くつぬぎ石の脇に置いていた
 古い木箱を取ったら
 がまの息子が
 もっそもっそと動くのを見た
 草をひく私の脚をさす
 ぶゆはいるし
 蛾は飛び回っているし
 蟻は動き回っている
 ばらの花の中には
 うずくまるのが好きならしい
 かなぶんがいる
 杉の枝に屋根びさしに
 蜂の巣がぶら下がっていて
 蜂が出たり入ったり
 てんとう虫
 毛虫
 あぶら虫
 根切り虫
 夜盗虫(よとうむし)
 小さい家の小さい庭に
 なんと無数の生き物が同居していることか
 そしてみんな生き物には
 踊り出す時間がある
 雨のあとはなおのこと
 戦争があって
 人間だけが
 踊る気になれない時間が
 こんなに続いていてよいものか・・・

ほぼ、一篇の詩にひとつの絵。
夫の牧野四子吉氏の絵が、
余白の中にしめる確かさ。


最後にある短い著者紹介の一行目は

「1904年大阪市に生れる。神戸女学院卒業。」


さてっと(笑)。
この古本の話。
広島県安芸高田市の古本屋さんから購入。
送料共で499円。カバー付きで、きれいな一冊。
カバー見返しに
「戸河内町松原PTA」とハンコが押してある。
検索すると、もう町村合併でこの町名はなくなって
おりました。本の背にはラベルなし。
きれいに、読まれないままに、
そのまま古本屋へと。
そんな流れを思ってみる古本でした。
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京都は日本ではない、といってもよいほど。

2019-06-20 | 本棚並べ
この4月に、縁あって、二泊三日の京都旅行。
帰ってきて、読んだ3冊のなかに
「梅棹忠夫の京都案内」がありました。

さてっと、それから「えい、やあ」と
梅棹忠夫著作集全23巻を、古本で注文。

昨日は、あらためて古長谷有紀編
「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)を
最初からひらく。

目次のあとに

「本文の右ページは梅棹忠夫自身のことば、
左ページは古長谷有紀の解説である。・・

梅棹忠夫のことばは、主として
『梅棹忠夫著作集』(全22巻+別巻1
 1989~94年 中央公論新社)から選んだ。

それぞれのことばには、著作集収録ものは
巻数とページを記した。さらにその先見性を
理解するために、いつ・どこで発せられたかを
示す初出を加えた。書誌情報としての詳細に
ついては、著作集を参照いただきたい。
・・・」
こうあります。

この第一章のはじまりの、「梅棹忠夫のことば」は
著作集第7巻「日本探検」より引用されていました。
その左ページ、古長谷有紀さんの解説が気になりました。

ところで、私なのですが、京都旅行の後、漠然とですが、
京都はどう語られればよいのか、と思っておりました。
それでなのでしょう。解説のはじまりに、
京都という言葉が、登場しているのにハッとしました。
それでは、
古長谷さんは、はじまりの解説をどう書いていたか?
その解説の、最後の4行を引用。

「梅棹忠夫は、京都生まれの京都育ちで、
京都を身体で理解していた。
しかし、京都は日本ではない、
といってもよいほど他の地域とは異なっている。

だから、
ほとんどの日本については知らない、と感じていた。
広島の福山誠之館に始まる、一連の『日本探検』の
記録は、京都育ちの日本知らずによる、
『未知への探求』の果実なのだった。」

はい。この本を水先案内人として、これで、
梅棹忠夫著作集の森へと、踏みこめる。
そんな気がしてきます。
これで、著作集第7巻「日本探検」のキッカケが
つかめた。うん。こいつは、ありがたい。
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あんたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや。

2019-06-19 | 本棚並べ
本棚から、司馬遼太郎の追悼文集
「司馬遼太郎の世界」(文藝春秋編)をとりだす。

司馬遼太郎の小説は数篇しか読んでいなくて、
エッセイの方のファンの私です。
それはそうと、「司馬遼太郎の世界」。

弔辞を、田辺聖子さんがしている。
田辺さんのは他にも追悼文として、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」も掲載されている。

「浅葱裏」のはじまりは田辺さんの全集の月報を
司馬サンが書いていることから始まっております。

そこにこんな箇所、
「この全集(田辺聖子全集のこと)の月報や解説は
『女の華やぎ―――田辺聖子の世界』としてやはり
文芸春秋から刊行されている。」とある。
田辺聖子の小説はきれいに読んでいない私。
でも、この『女の華やぎ』は本棚にありました。
この箇所が、気になって、古本で買い、それっきり
読まずに本棚で眠っていたに違いない。

今回、あらためて『女の華やぎ』をひらく。
そこに、虫明亜呂無さんが書いていました。
虫明さんの文のはじまりはこうです。

「田辺聖子さんは、この全集の第一巻の月報の中で、
『花狩り』『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』
『私の大阪八景』の三作は、現在では
『とても書けないように思われる』と述べている。―――
【『感傷旅行』のあと私は殻の中に入って苦しんだことがあった。
あのままだと、私はもう、何も書けなかったかもしれない】--
という記述が後につづく。
僕はなんとなく、そうだろうな、と、思った。」

こう、書き出されておりました。
そういえば、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」には
こんな場面があったのでした。

「司馬サンとは、『花狩』(私の最初の本)の
出版記念会に出席して頂いたとき以来のおつきあいだが、
それは昭和33年である。
その後、芥川賞・・・そのころ、雑誌の何かの企画で、
司馬サンのおうちを訪問する、ということになった。
・・・べつにインタビューでも対談でもない、
二人でしゃべっているところをカメラにおさめてもらう。
というだけの趣向だから、私は匆々にプライベートな
愚痴をこぼした。

『いやー、賞もろて、ほんまは困ってますねん。
書けるやろか、思(おも)て心配で心配で・・・』
   といったら、司馬サンは破顔され。
『小説なんてもんはなあ、
注文されたら手習いや思て書いたらええねん』
 と朗々としてあったかいお顔と声であった。

司馬サンは昔から講演や放送という公的な営為のときは、
はっきりした共通語を採用された。多分
大阪弁に対する偏見や先入観で、意図・内容を
誤解されるのをおもんぱかられたのであろう。
しかし、氏は大阪人だから同じ大阪人同士でしゃべるとき、
あるいは他国人あいてのときでも心ゆるしたプライベート
な場では、柔媚で滑脱で緩急自在な大阪弁を用いられた。

『出版社(むこう)が練習さしてくれはる、
思(おも)たらええねん。そのうち、
だんだん巧(うも)うなるやろ』

『いつまでもヘタやったらどうしょう・・・』

『あンたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや、
いうて足立サンいうてはったデ。
好きで書いとったら読者がついてくるわ』 」
(p30~31)



あんまり、いい例ではないかもしれないのですが、
思い浮かんだのは、
桑原武夫と司馬遼太郎の対談
「人口日本語の功罪について」

司馬】・・・話し言葉は自分の感情のニュアンスを
表わすべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい。
ですから、生きるとか死ぬとかの問題に直面すると
死ぬほうを選ばざるを得ない。生きるということは、
非常に猥雑な現実との妥協ですし、そして猥雑な現実
のほうが、人生にとって大事だし厳然たるリアリティを
ふくんでいて、大切だろうと思うのですが、しかし
純理論的に生きるか死ぬかをつきつめた場合、
妙なことに死ぬほうが正しいということになる。
『そんなアホなこと』とはおもわない。
生か死かを土語、例えば東北弁で考えていれば、
論理的にはアイマイですが、感情的には
『女房子がいるべしや』とかなんかで済んでしまう。
なにが済むのかわからないけど(笑)。

桑原】なるほど。


このあとに、司馬さんの桑原武夫論みたいな場面が
ありますので、最後にその個所を引用。


司馬】・・・わたしが多年桑原先生を観察していて
の結論なのです(笑)。
大変に即物的で恐れいりますが、先生は
問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。

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