和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

西陣の織元と下駄屋。

2019-12-31 | 京都
きになるので、今西錦司の紹介文を読もうとする。
桑原武夫氏の『今西錦司論序説』(1966年)をひらく。
そこから、すこし引用。

「サル学での世界の先進国、アメリカの学者が
近ごろよくやってくる。・・・・
京都のサル学者たちにぜひ会いたいと言う。
・・・カーペンター博士が来たとき・・・・
博士は今西グループの仕事を最高に評価したが、
自分たちアメリカの学者は、霊長類の研究で、
論理を通して推論することでは、率直のところ、
日本人にはけっして劣るとは思わない。しかし、
今西や伊谷の示すあの洗練された微妙な発想は、
これは驚くばかりだ。どうしてそうなのか、
日本人全体の性質か、それとも今西、伊谷などという
個人のパーソナリティの問題だろうか。
あなたはこの学者たちと親密らしいので、
ちょっと聞いてみたい気がするのだが、と言った。

私は、今西家は代々西陣の有名な織元であり、
伊谷の父は一流の洋画家だ、artということと
無関係ではないというような話をすると、
彼はひどくよろこび・・・・・」
(p200~201・「桑原武夫集7」岩波書店)

うん。ここだけ引用すると片手落ちになる
恐れがあるので、いそいで追加の引用を(笑)。


「学者としての、登山家としての、あるいは
市井人としての彼(今西)の生活のなかで、
快楽のしめる位置はきわめて高い。
『艱難汝を玉にす』とは正しいことばであって、
霊長類研究の今西グループの日本ないし
アフリカの原野における艱難は、筆紙を絶している。
しかし大切なことは、その艱難が同時によろこびであり、
それゆえに彼らの研究は生産性が高いという事実である。
つまり、今西の学問にはつねに『あそび』の要素があること、
それは勉強のあとに遊びというのではなく、勉強即快楽であり、
しかも勉強が快楽と思い定めて努力するというのではなく、
進んでしたいのでなければ勉強はしない。
その勉強には渾身の力をかけるという意味である。」
(p196~197・同上)

うん。こうして引用していると、
途中で引用を止めるのが罪悪であるように
感じるのですが、あえて罪悪をするつもりで、
引用はここまで(笑)。
この人物論に腕を振るった桑原武夫にして、
『今西錦司論序説』といって『序説』しか
書けなかった、そのスケールをただ思ってみる。

それはそうと、『西陣』。

「今西が生まれたのは1902年で、
梅棹が生まれたのは1920年である。

この職住一致の西陣の、頂点にあるのは織元たちであり、
そんな織元の一つ『錦屋』の長男だから錦司と命名された、
それが今西錦司である。・・・・
梅棹忠夫もまた京都西陣の生まれではあるが、
実家は織元ではなく、そして織り子でもない。
家業は下駄屋であった。小間物屋も営んでいた。
  ・・・・・・・
戦争中に下駄屋は閉業し、借家業が営まれていたところ、
梅棹の母は、夫の死後、新刊書籍店を開業した。
梅棹によれば、弟や妹たちの面倒をみる余裕が
彼にはなかったので、母が書店を経営して弟妹たちを
養ったという。・・・・」(p24~31・小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」ミネルヴァ書房)






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京都の名産?

2019-12-29 | 京都
桑原武夫氏は、ある講座の内容紹介プログラムに
こう書いておられました。
はじまりは、こうです。

「京都には優れた新しい学問がよくそだつ、と言われる。
それは間違っていないようだ。・・・・
公平に見て、京都は学問の名産地だといえるのである。
・・・・」

こうして講座のトップランナーは桑原武夫氏の
講話からはじまっておりました。
それに対する感想を、鶴見俊輔氏がしております。
そこをすこし引用。

「東京では学問をとおして銀時計をもらって
卒業するとかして権威と大きな金に近づくことができる。

京都では不可能です。
日本最高の権力を、京都で勉強して
京都で住みつづけて得ようなんていっても、
それはできない。
それには、もういっぺん王政復古をやる以外にない。
金もそうです。財界的な力ですね。
金力として日本最高の金を京都でつかむ
ということは不可能です。
はじめからその望みは断たれているわけですから、
そのことをあらかじめあきらめたうえで
京都に来て勉強します。

東京の大学出の人たちの間で育って、
それとの比較で京都を見ていますと、
昭和23年以後のことですが、
京都の秀才と東京の秀才とでは、
同じくらいの秀才であるとしても
一つ違いがある。

京都の秀才は欲がない。
欲のある秀才は必ず東京へ行きます。
欲のない秀才は何をするか・・・・」(p22)


もどって、桑原武夫氏の講話から
ちょっと一カ所引用しておきます。

「京都は・・・明治以後、
詩人と小説家はほとんど出ていない。
これは驚くべきことです。
石川啄木、宮沢賢治、萩原朔太郎、
夏目漱石、森鴎外、みな京都でない。
 ・・・・・
なぜそうなったか、これは
私が前から考えているテーマですけれども、
だれも正確に答えた人がいない。
私の考えでは、京都でいちばんのけなしことばは、
『アホ』ということです。
『あれはアホでっせ』という。
そして、詩を書いたり小説を書くというのは、
どこかアホなところがなければ
恥しくて書けないものです。
ところが京都はアホというものを、
全然、尊敬しない(笑)。
そういうことと関係があると思います。」(p14)

うん。面白いのでもう一カ所引用。

「もう少し立ち入っていえば、
これも例外がありますけれども、
京都の学者の多くはヨーロッパだけしか
知らないという人ではありません。

この次やってもらう今西錦司君などは、
京都の新しい学風に大きな刺激を与えた人
でありますけれども、この今西君、
そのお弟子さんの伊谷純一郎君、河合雅雄君、
そういう人たちに見られるアジア・アフリカ体験ですね。

ヨーロッパだけ見ていると地下鉄があり、
物はいくらでもあり、飢え死にする人などいない。
そういうヨーロッパの、しかも文明都市にしか
興味のなかった人が多いのですけれども、それは
私は日本の社会科学の基本的な弱みだと思っています。
・・・・」(p17)

以上は
「創造的市民講座」(小学館・1987年)から、
ちなみに、講座の顔触れは
 桑原武夫
 今西錦司
 福井謙一
 梅原 猛
 伊谷純一郎
 河野健二
 司馬遼太郎
 河合隼雄
 永井道雄
 山崎正和
 広中平祐
 鶴見俊輔

うん。いつもですが、私は最初の箇所しか
読んでおりません(笑)。


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日めくりカレンダー。

2019-12-28 | 一日一言
日めくりカレンダーを壁にかけています。
今年も、めくり忘れて、数日分をまとめて、
切り取ることが、多かったなあ(笑)。
日めくりに書かれた日々の短い格言も、
もう読まなくなって久しくなりました。

来年も、日めくりカレンダー掛けます(笑)。
ちゃんと一枚一枚、めくっていけますように。

一枚といえば、
以前読んだ箇所で、
「図書館の、一枚の紙切れ」というのがあり、
それが、いったいどの本にあったのか、
探し出せないでいたのが、
忘れた頃に、見つかりました。

「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三・日経プレミアシリーズ文庫)
そこに、ほんのちょっと出てきます。

そこを引用。

小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、
そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館は
ペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しよう
とかっていう重要な情報だったりするんですな。
それがきちっと揃っている。 (p80)

来年も日めくりのページをめくり忘れ、
数日分をまとめて抜き取ることがあるのだろうなあ。
このブログも、書かずにいることがあるだろうなあ。
それでも、当ブログの一日分のページが、自分にとって、
『重要な情報』だったりすることがあることを、夢見て、
来年も、当ブログを続けてまいります(笑)。

ご訪問くださり、ありがとうございました。
数日早いのですが、過ぎ去る前のご挨拶。

来年も、よろしくお願いいたします。
よいお年でありますように。

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因果な「読めない」。

2019-12-26 | 京都
うん。今年は、京都についての安い古本を
意識して購入していた一年でした(笑)。

今は少子化で、しかも若い人は本を読まない。
しめしめ。よい古本が、しかも安く手に入る。
高齢化で自宅の本を泣く泣く手放す方もおられる。
こと古本購入に関しては、よい時代なのでしょうね。

来年は、古本のお宝がザクザクと・・・。
そんな楽しい初夢をみるのか。
もう十年ぐらいしたら、家にたまった古本を
処分する日がくるのかと、嫌な初夢になるのか(笑)。
うん。鬼さん笑っておくれ。

さて、今年は、12月24日で古本購入はおしまい。
そこから、京都関連本を2冊紹介。

秦恒平著「京のわる口」(平凡社ライブラリー文庫)。
単行本も、古本で買ってあったのですが、文庫も購入。
どちらも、200円なり(笑)。

さてっと、文庫本の解説は、酒井順子さん。
解説のはじまりを引用。

「20代後半から30代前半にかけて、やたらと
京都のことが好きになった時期がありました。
入り口は、名所旧跡、美味しい食べ物、
楽しいお買い物・・・といった魅力の数々。
しかし、一通り見たり食べたり買ったりした後、
さらに奥の方に引っぱられるような気がしたのは、
物や場所でなく、京都に住む人々の
精神のありようを、垣間みた時でした。
・・・」(p249)

うん。もっと引用したいのはやまやまですが、
それ、秦恒平さんの言葉も引用したい。
ということで、「単行本あとがき」から
秦さんの言葉を引用。

「人間の『ことば』で興味深いのは、
批評に用いるそれである。
人間とは批評する生きもの、
批評せずにはおれない生きもの、だからである。
ことに『わる口』をつかう人間は、
品性や倫理を問わないかぎり、
またその場かぎりのことにせよ、
奇妙に生き生きしている。」(p240)

真ん中をカットして

「京都は、好むと好まぬとにかかわらず、
久しく『日本』の皇都であった。
千年の長きにわたってそうであった。
否も応もなくその間の『京都』が『日本』に
及ぼした感化の力は莫大であった。
過ぎ去った昔のはなしでは、ない。
たとえば『京都』の人は分りにくくて
腹が読めないと大勢の日本人はボヤイているが、
その一方で『世界』が『日本』を指して、
分りにくく腹が読めないとナゲイているのも、
おそらく一連の因果なのであって、
 ・・・・・
愚劣であれ、その通りであるならば京都の
『ことば』は、その機能と素質は、もっと
もっと注目され理解されねばならない。・・」
(p241)

はい。本文は未読です(笑)。
つぎ。2冊目にいきます。

写真集でした。
浅野喜市「昭和の京都」(光村推古書院)。
題の脇に「回想昭和20~40年代」とある。
はい。古本で300円でした。
17.5センチ×15.5×2.5。と小さめですが、
ステキな写真集です。
「著者紹介」をひらくと、さまざまな
京都の写真集を出されている方なのでした。
大正3(1914)年京都下京区に生まれる。
とあります。息子さんによる『あとがきに代えて』は
こうはじまっておりました。

「父である浅野喜市は菓子職人で、生菓子を作り、
母が駄菓子屋を兼ねて、それを店販していた。
その頃の父は映画を見るのが好きで、映画を見た
帰りに現像処理が出来るカメラ付きの機材を
買った事が写真との出会いであった。
菓子作りを終えると・・・・・」(p238)


この写真集に昭和25年ごろからの祇園祭の
四条通の巡行が、何枚もあるのが私の目をひく。

そういえば、梅棹忠夫の
「モゴール族探検記」(岩波新書)と
「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)とが
出たのは1956(昭和31)年でした。

岩波写真文庫「アフガニスタンの旅」を
ひらくと、監修・梅棹忠夫。写真・梅棹忠夫と
最初のページにあります。

アフガニスタンの旅の途上で
思い浮かべていた祇園祭の光景が
この浅野喜市の写真にあるのでした。
ということで、

「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)と
「回想昭和20~40年代 昭和の京都」(光村推古書院)。
この2冊を並べて本棚にでもおきましょう。
ちなみに、梅棹忠夫は
1920(大正9)年京都市上京区生まれ。

今年後半、京都関連の古本を
ワクワクして毎週集めました。
来年、京都の古本のお宝が、
安く手に入りますように(笑)。
あれこれ結びつきますように。
鬼さん、笑っておくれ。









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とくに中京(なかぎょう)・西陣は。

2019-12-25 | 京都
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)の
まえがきに、

「京都のひとが京都のことを、
他郷のひとにあまりかたりたがらぬというのは、
そういうことをすればついつい他郷のひとに対して、
心の底にもっている気もちがことばのはしばしにでてしまい。
相手の気もちをさかなですることがあるからだろう。」

とあります。それでは、
さかなでするような箇所を
すこし引用してみましょう(笑)。
祭について

「祭といえば賀茂の祭、5月15日の葵祭・・・
葵祭が王朝貴族の祭とすれば
祇園さんの祭は、近世における町衆の祭である。
・・・・こういう祭にくらべたら、
平安神宮の時代祭なんかは、
上っ調子でみられたものではない。
神田祭や天神の祭も、
その土地のひとには失礼ながら、
ただのいなか祭ではないかというのが、
京都人の正直な感想であろう。」

「東京あたりの神社は、
規模は狭小、チャチでやすっぽい。
お寺ばかりか、お宮もまた関西か、
京都が家元である。
下鴨神社は、そういう雄大で気品のある
社(やしろ)のひとつである。」
(以上p49~50)

うん(笑)。
もう一度「まえがき」から引用しておくと

「この本の内容も、
京都の市民には常識であり、
共感をよぶ部分もおおかろうが、
他郷のひとにはかならずしもこころよく
ひびかぬ部分もあろうかと案じている。
そこは、京都の人間の度しがたい中華思想の
あらわれと、わらってみすごしていただきたい。」
(p4)

はい。この機会に本文から、もう一カ所引用。
それは梅棹忠夫氏が昭和29(1954)年の秋、
同志社女子大学の講演依頼に対して
「わたしはこの際、ひとつの実験を
おこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。
そのつもりで草案をつくった。
その草案がのこっていたので、ここに収録した。」
(p216)

この講演のなかに『訓練のたまもの』
という箇所がありました。
最後にそこからの引用。

「・・・さきほど、フランス語がうつくしいのは、
訓練のせいやともうしましたが、京ことばも、
やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、
どういうもののいいかたをするのか、
挨拶から応対までを、
いちいちやかましくいわれたもんどした。
とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。

口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。
そもそも、京ことばは発音がむつかしゅうて、
ちょっとぐらいまねしても、よっぽどしっかりした
訓練をうけへなんだら、でけまへん。
完全な、京都の人間になろおもたら、
三代かかるといわれております。」(p221)

はい。梅棹忠夫といえば、
西陣育ちの四代目。







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やがてまたもどってくる。

2019-12-24 | 京都
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に、
こんな箇所。

「・・・・・京都の生活はじつに
たくさんの年中行事でかためられている。
たとえば8月。
8月はお盆である。
上(かみ)は閻魔堂、下(しも)は六道さんへ
お精霊(しょうらい)さんをむかえにいく。
16日は大文字。地蔵盆に六地蔵まわりに
六斎(ろくさい)念仏とくる。

すべて、いつ、どこで、なにをするかが
きちんときまっている。
お上りさん用の観光地はしらんでも、
こんなことならみなしっている。
いちいち何百年の伝統をもつ。
おそろしき文化である。

わかい世代は、こういうものに反発して、
一時とおざかるが、やがてまたもどってくる。
そして伝統の継承者となる。」(p80)

ここに、「やがてまたもどってくる」とありました。
そこで、連想したのが
小長谷有紀さんの文章でした。

「私は学生時代、日本のように
人間関係がからまりあうのはうっとうしいと
感じてモンゴルに留学したのだったが、
かの地ではモンゴルの良さを知ると同時に、
ひるがえって日本を再評価するようにもなった。
かつて短所だと感じていたことを
長所だと思うようになっていた。
それぞれの良さが見えてきたとでも言っておこう。

狭いところに大勢が住む。
そんな街の暮らしには、きっとなにかしら
協調のための文化的なしかけがあるにちがいない。
そんなふうに考えるようになり、
京都の地蔵盆を調べ始めたのだった。」

これが語られているのは小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)。
そのp23~25。つづけて引用したいのですが、
ここまでにして、簡潔につぎにいきます(笑)。

「やがてもどってくる。」と、
「ひるがえって日本を再評価するようにもなった。」
という文を並べてみました。
そこで、あらためて、思いかえすのは、
梅棹忠夫著「モゴール族探検記」(岩波新書)での
祇園祭とハモの切りおとしの幻影でした。

小長谷有紀さんの、この本には、
1955年のカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に
参加し、モゴール族の調査をおこなった。
その翌年の日記からの引用がありました。

「・・(梅棹忠夫の)日記で注目すべきは、
1956年4月16日の記録である。
『桑原(武夫)さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。」(p56)

もどって、梅棹忠夫著作集第四巻の
「第四巻のまえがき」を引用すると、

「アフガニスタンのモゴール族の調査は・・・
わたしにはまったくあたらしい視界をもたらした。
わたしはイスラーム文明およびインド文明に
いやおうなしに目をひらかされた。わたしが
比較文明論などという、とほうもない領域に
足をふみいれることになったのも、
この旅行がきかけである。」

年譜をおさらいすれば、
1955年 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検
1956年 「モゴール族探検記」(岩波新書)
1957年 「文明の生態史観序説」(中央公論2月号発表)

天秤でいえば、もともと片方にあった京都を、
もう片方の、イスラーム文明とインド文明が、
京都の存在の大きさを、浮かび上がらせた。
こんな、すんなりとした仮説をたててみると、
梅棹比較文明論での、京都のポジションが、
より鮮明になってくる気がしてくるのでした。













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梅棹忠夫の京都案内。

2019-12-23 | 京都
古本の「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)が
200円であったので、買ってしまう(笑)。

全集でも読めるのですが、単行本は
カバーの「都錦織壁掛『山鉾巡行図』」が
明るくってきれいです。

さてっと、

「梅棹忠夫著作集」第17巻には、単行本の
「梅棹忠夫の京都案内」「京都の精神」「日本三都論」。
この3冊がまとめられた巻です。
その「第17巻へのまえがき」から引用。

「・・わたし自身は京都にうまれ、京都にそだった。
幼稚園から大学院までの全教育課程を京都でうけた。
わが家の先祖は、もともと近江湖北の出身であるが、
初代は文政年間の生まれで、天保年間に京都にきた
ものとおもわれる。わたしが四代目で、すでに京都に
150年間すんでいたことになる。京都にはもっとふるい
家がいくらでもあった・・・自慢にならない。しかし、
それなりに都市生活にまつわるさまざまな伝承が
うけつがれてきた。そのような民俗学的背景のもとに、
わたしの知識と意識は形成されているのである。・・」

ここに四代目とある。
そういえば、「梅棹忠夫の京都案内」に

「完全な、京都の人間になろおもたら、
三代かかるといわれております。」
(p216~227「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)

という箇所があるのでした。
それはそうと、「京ことば」について、
梅棹さんは、こう指摘されております。

「町衆文化の系譜をひく京都市民の言語生活について、
いくらかその特徴のようなものをさぐってみましょう。

第一にあげるべき特徴のひとつは、
京都のひとはたいへんおしゃべりだということでしょう。
京都の人たちは、男性も女性も、
じつによくおしゃべりをします。
ほうっておいたら、いつまででも、
ながれるような調子でしゃべっています。

このことは、日本文化のなかでは、
あまり一般的とはいえない特徴です。
日本全体をみますと、やはり
武家の文化的伝統がつよいものですから、
多弁というのはむしろいやしめられていたようです。
おしゃべりというのは、京都のように、
武家の文化が完全に欠落した都市において
発達した文化的特徴であるといえるでしょう。

京都では、じょうずにしゃべれるということは、
あきらかにひとつの美徳になっています。
口べたのひと、訥弁のひと、寡黙のひとは、
『どこぞおかしいのとちがうやろか』
ということになります。
不言実行のひとなどというのは、
いつ不意討をくわせられるかわからない
油断のならぬ人物として、警戒されるだけです。

京都では、とにかくつねに流麗で
豊饒な会話をたのしむことが肝心です。
ここで、
じょうずにしゃべるとはどういうことか、それが問題です。
京都の場合、じょうずなしゃべりかたというのは、
論理的に相手を説得するとか、ことばたくみに同調させるとか、
そういう実用的効果を問題にしているのではありません。
むしろ、内容よりは外面的な美学を優先します。
会話は、なめらかでないといけません。
ことばにつまったり、とつとつとしゃべるのではだめです。
よどみなく、リズミカルで、十分に抑揚をつけて
はなさなければなりません。」

これを引用していると、わたしなど
『油断のならぬ人物』の典型です(笑)。

さてこのあとに、祇園の舞妓さんの
ゆっくりとした京ことばは、お座敷における
お客をよろこばせるために特別に発達をとげた
ものであると、指摘しております。
まだ続きます。
こんなことは、他では聞けないかもしれないので
まだまだ引用していきます(笑)。

「京都市民の言語生活における特徴のひとつとして、
外交辞令の発達ということをあげなければならないでしょう。
京都においては、つきあいは、すべて外交なんです。
むこう三軒両どなりといえども、けっして
なれなれしいことばをつかってはいけません。
それらの人たちも、無限にとおい距離にあるひとと
おもってつきあわなくてはなりません。
ことばづかいはどこまでもていねいでなければならないのです。」

ながいので、すこしカットして、
ここは引用しておきたいという箇所を以下に、

「ていねいなことばづかいは、
ふつうは身分の上下関係とむすびつけて
かんがえられることがおおいのですが、
京都の場合はそうではないようです。
身分の上下に関係なく、
市民のあいだの対等のつきあいにおいて、
ひじょうにていねいなことばづかいをします。

もともと京都の市民は、むかしからの
町衆社会における対等性を前提にしていますから、
身分の上下関係なんか、あるわけがないのです。
ことばづかいのぞんざいなひとは、
市民社会における基本的なルールをしらぬひと、
つまり行儀しらずということになって、
うとんじられることになります。

ことばづかいのていねいさは、
日常の家庭生活においてもみられます。
親子、兄弟、夫婦のあいだでも、
よそのひととはなしているのとおなじくらい、
ていねいなことばではなしていることもまれではありません。
よそのひとがきいていたら、とてもひとつの家庭内の
会話とは信じられないようなことばづかいをしている
ことがおおいのです。

もうひとつ、京都市民の言語生活の特徴をあげますと、
ステロというのでしょうか、紋きり型というのでしょうか、
会話において型のきまった表現が
ひじょうに発達していることです。・・・・」

はい。全文引用したくなりますが(笑)、
このくらいにとどめておきます。
これは『京ことばと京文化』という題で
ありました。
(p168~176「梅棹忠夫の京都案内」角川選書より)

この「梅棹忠夫の京都案内」の「まえがき」で
最初のページに、こうあります。

「『京都案内』のたぐいは、数百年のむかしから、
それこそ数かぎりもなく出版されている。
そのうえにさらに一冊をくわえるわけだが、
この本はその風味において、他のものとは
ひとあじちがうものになったのではないかとおもっている。」

はい。一回では、この風味を味読できず、
読み返すのが、たのしみな一冊です(笑)。











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梅棹忠夫のアフガニスタン。

2019-12-22 | 京都
梅棹忠夫著作集第4巻(中央公論)。
ここにある著者による
「第四巻へのまえがき」には、

「1955年、
わたしは京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の
一員として、パキスタンおよびアフガニスタンにおもむいた。

西ヒンズークシ山中にすむモゴール族とよばれる人びとの
村にすみこんで、調査研究をおこなった。そののち、
アフガニスタン領トルキスタンをとおって、首都カーブルに
かえった。カーブルからは、ふたりのアメリカ人とともに、
一台の車でパキスタンおよびインドを横断して、
カルカッタまで旅行した。

アフガニスタンのモゴール族の調査は・・・・・
その戦後における最初のエクスペディションの経験は、
わたしにまったくあたらしい視界をもたらした。わたしは
イスラーム文明およびインド文明に
いやおうなしに目をひらかされた。
わたしが比較文明論などという、とほうもない
領域に足をふみいれることになったのも、
この旅行がきっかけである。・・・」

梅棹忠夫年譜によると
1955(昭和30)年。梅棹忠夫35歳のとき、
5月にこの学術探検隊出発、11月11日帰国。
とあります。
この第4巻に「モゴール族探検記」があります。
ちなみに、この本は岩波新書として手軽に手に入ります。

さてっと『モゴール族探検記』のなかに、
「祇園祭・ハモの切りおとし」の幻影が語られる箇所がある。

第六章「作戦会議」の小見出し「わたしは日本人になった」
というなかにありました。以下に引用。

「・・そのころは、わたしは日本食をたべたい
などとはすこしもおもわなかった。・・・・・・
しかしこんどはどうしたのだろうか。
わたしはあきらかに日本食をこいしがっている。
・・・・このあいだ、祇園祭もすんだなとおもったとたんから、
ハモの切りおとしの幻影がちらついているのだ。
それから、じゅんさいのおつゆ。

・・・・10年まえ、あのころわたしはまだ二十四、五歳だった。
わたしはまだ、完全な日本人にはなりきっていなかったのだ。
・・・・状況しだいでは、わたしは世界じゅうの
どこの国の人間にもなることができただろうし、
コスモポリタンにさえ、なれたかもしれない。
その後10年のあいだに、
わたしはすっかり日本人になったのだ。
わたしの趣味、わたしの価値体系は、いまや
日本的なものに固定してしまっているのに気がついた。
わたしはこの10年間に、日本文化を身につけたのだ。」


はい。梅棹忠夫35歳。
それでは、ここに、
秋山十三子さんの短文「はも」の
ほぼ全文を引用しておきます(笑)。

「けんらんとした鉾が四条通りにたち並び、
祇園ばやしが夕風に流れだすと、
わたしはじっとしていられない。

17日の前夜が宵山で、京都中のひとが浮き足立って、
鉾と山をまぐりそぞろ歩く、赤い長刀鉾のおもちゃを
だきしめ、人波のなかをはぐれまいと、小走りに歩いた
幼い日の耳に残る鉦の音。涼しげに、
  『コンコンチキチン、コン、チキチン』

祇園祭のごちそうは、はも・はも・はも。
はも一色である。お膳の上には切り落とし、
はも焼き、はもの子と落ちこの炊きあわせ、
はもまき、はもずし、はものお吸物。はもきゅう等々。

はもの切り落としというのは、
骨切りしたはもの切り身を、
熱湯のなかへ落とし、湯通ししたもの。
白いぼたんの花弁が、重なって
こぼれたような風情がある。
つめたい防風か、穂紫蘇を添え、
二杯酢か、わさびじょうゆで、梅肉を
つけるのが好きやというひともある。
京都では普通ただおとしとだけいう。

はも焼きにつかうはもは、おとしのより大きい。
丈を半分に切り、金串を四本うつ。
地焼きをこんがりとしてから、
かけじょうゆを二度かけて、香ばしく焼きあげる。
これに添えるのは、薄紅のはじかみか、
青とうがらしの小ぶりなもの。

このはも焼きを細かく切って、
芯にして巻いた卵のだしまきが、はもまき。
うまきよりあっさりして、夏祭りでは
子どもが一番好物である。

  ・・・・・・・・

京の夏は、しっかりと暑い。
暑いけれど気持ちよい。

鉾は夏空にシャンとそびえている。
汗くさい気配など、みじんもみせないように、
かいがいしく表に打水し、
お祭りのちょうちんに灯を入れるのである。」
(p170~171・「京のおばんざい」光村推古書院)

うん。これだけで終わってもいいのですが、
もどって、
「梅棹忠夫著作集」第4巻の最後には
コメント1・コメント2が載っておりました。
そのコメント2は板垣雄三氏の
「『モゴール族探検記』の語るもの」という題の文。
そのはじまりは

「光のあて方や見る角度をほんのすこし変えるだけで、
宝石からは違った輝きがほとばしり出る。それと同じように、
時や環境の移り変わりにつれて新しい魅力が湧きだし、
人々に味読の驚きを与えつづけるのが、名著だとすれば、
梅棹忠夫『モゴール族探検記』は、まさしく名著の名にあたいする
作品だと言ってよい。もし仮に、梅棹のあまたの著作の中から、
どうしてもただ一点だけを選ばなければならぬ羽目になったら、
私はあれこれ思いめぐらしたあげく、結局は、やはり
『モゴール族探検記』が好きだ、と言うだろう。」(p621)

はい。こう言い切る板垣雄三氏の文から、
以下の箇所を、最後に引用しておきます。

「『モゴール族探検記』は人間探求の書であった。」(p627)

「・・・・冷静な観察眼のほうは、
外部のものになどなかなか窺い知ることのできぬ
『しがらみ』でがんじがらめになったいる上に、
利害と打算と反目とだまし合いで動いている
人々を相手とする以上、いやが上にも用心深くなる。
非友好的態度の奥に潜む人間的親切は
見きわめなければならないが、たえずどこかで光っている
敵意に満ちた冷たい目を意識しないわけにはいかない。

ユーラシアの歴史を貫く残忍さ、酷薄さをおもえば、
なおさらだ。闇から突然現れた一行の中の兵士に
ひっぱたかれて道案内させられる男もあれば、
結婚式の翌晩に夜警にかり出される花婿もある。
だから、ジャポニの探検者も、いったん買い取った
腕輪の値上げ要求は断固はねつけるし、
休み休みで日当かせぎをねらう馬方たちには
月夜の行軍を強いるのだ。村民大衆には、点が辛い。
 ・・・・・・
もちろん、孤島のような村落にも、すぐれた人々がいる。
神学論争で梅棹をうち負かし、広い世界に聴き耳を立てて
いるハジの息子ゾバイル『僧正』が、そうだ。
山崎さんの仕事を脇で見ていてローマ字を覚えて
しまったアブドル・ラーマンの長男も、そうだ。
 ・・・・・・・
きびしい部族間の対抗や軋轢をかいくぐり、
みずからの未来をきりひらいていくのは、
彼ら自身でなければならないのである。
梅棹は、局外者としての自分をつよく自覚している。
住民たちの複雑な心理関係の渦の中で、
政府がわの人間と通じ、それに守られている以上、
ごくごく初歩的なこともまだ分からないでいるはずだ。
パシトゥーンのインテリ、通訳のアーマッド・アリだって、
梅棹のつかみ得た内幕を教わる始末である。
非情なまでの距離感を維持しつつ認識にはげむ、
そこからこそ逆に人間的共感が強まったということを、
『探検記』は証言している。」(p628~629)









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町衆の系譜をひく市民感覚。

2019-12-21 | 京都
今年は、エイヤアと
梅棹忠夫著作全集を古本で購入しました。
よし。読むぞ。と意気込んだのですが、
けっきょく数冊どまり。
もう12月も21日(笑)。

エエ~イ。こういうときは、
しなかったことを語るよりも、
ちょっと知りえたことを語りましょう(笑)。

そういえば、梅棹忠夫著作集第22巻の巻末コメントに
小山修三氏の文「ゲゼルシャフトへの志向」があった。

その小山氏の文の最終頁に、

「梅棹は学問遍歴以外の個人史を語らない。
だから私的な生活についてはほとんど
うかがい知ることができないのである。
しかし、人間の精神形成にとって、
幼・少年期の家族や友人との社会生活の
ありかたは青年期以後の外からの刺激を
受け取るためのプレコンディションとして
重要だと思う。

わたしは、・・・志向の源として、
梅棹が西陣の商家の出であることが
大きな要因となっていると思う。
 ・・・・・・・・
マスコミへのデビュー作が日本人の
笑いの意味についてであったことを思いだす。
愛嬌を擁護する学者などあまりきいたことがない。
この町衆の系譜をひく市民感覚が
つちかわれたのは幼少期以外にないと思う。

梅棹が日本を代表する思想家の一人として
大きな位置を占めることになった現在、
個人史を欠落したままおくわけにはいかないだろう。

いつか誰かが手をつけるはずだ。
梅棹の哲学はよくわかるのだが、
それでも私的な部分はまずその人自身に
語ってもらいたいと思うのはわたしだけだろうか。」
(p572)
 
こう小山氏は文章を結んでおりました。
うん。『いつか誰かが手をつけるはずだ』
というのが、気になった一年でした(笑)。

さてっと、これに関する資料ということなら、
ちょこっとですが、すこし引用できそうです。
『いつか誰かが』の手助けになるように。

たとえば、梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)
には、小山修三氏との対談があり、そこに

梅棹】・・・わたしも、子どもの時から、
その洗礼を受けています。うちの親父が
修験道の先達(せんだち)でした。
先達というのは山ゆきのリーダーで、
二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。
うちの玄関を入ったところの上に、
先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。
親父は大峰山へせっせと行っていました。

小山】お父さんから、山登りの話を聞いていましたか。

梅棹】聞いています。
誰もそうは思ってないだろうけれど、
わたしにはそういう『血統』があるな。

小山】ああ、そうか、
山伏の養分も入っているのか(笑)。

梅棹】中学校時代は、日本アルプスには行きません、
という方針でした。それで近畿の山ばっかりせっせと歩いた。
大峰山は、中学四年生の時に仲間と縦走した。
大峰山の奥駆けというのがありますが、
南の熊野から入って、大峰山脈にとりついて、
縦走して、最後が山上ケ岳。そこから、
洞川(どろがわ)へ降りる。
奥駆けを一回やると、先達の位が上がる。
わたしらは高見山から大台ケ原山、
それから大峰山系にとりついた。
たいしたもんやろ、大先達や。

小山】何考えてるんだろう、この中学生は(笑)。

梅棹】親父に言ってたんです、
わたしの方が偉いんやぞって(笑)。

小山】困ったガキだな(笑)。

梅棹】ほんまにそうや。よう行けたもんやと思う。

(p317~318)

さてっと、
当ブログは、今日から数日数回にわけて、
年末マイブーム特集、『梅棹忠夫の京都』。
ということでいきます(笑)。








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鏡餅と、新しい年。

2019-12-21 | 京都
「京のおばんざい」(光村推古書院)は3人のリレー随筆。
秋山十三子・大村しげ・平山千鶴の3人が交代で、
四季の味を紹介しておりました。

この本のはじまりに松本章男氏が
「復刻のうれしさ」と題して書いております。
そのはじまりは

「昭和の戦後以来、京都の食文化を語る
さまざまな書物が世に出ているが、なかで、
この『おばんざい』を私は抜きんでた好著
だと思っている。・・・」


さてっと、本文のなかで、私は、
秋山十三子さんの文を選んで
読み印象に残りました(笑)。
そうすると、つぎにはこの方は、
どんな人なのだろうと思うのでした。

まあ、結局「日本の古本屋」さんで
古本を注文することにしました。
秋山十三子著「私の手もと箱」(文化出版局・昭和59年)
カバー帯付きで500円+送料360円=860円なり。
愛知県尾張旭市の永楽屋さんから送られてきました。
その本には著者の写真。その下に著者紹介。

秋山十三子(あきやま・とみこ)。
「1924年、京都祇園近くの九代続いた造り酒屋
『金瓢』に生まれる。京都府立第二高等女学校
高等科卒業。・・・」とあります。

はい。随筆の視点の位置関係がこれでわかる(笑)。
さっそく、この本の「冬 年の暮れ」の章をひらくと、
こんな場面がありましたので引用。

「・・・花街では今でも、お師匠さんに
二重ねの鏡餅をお届けして、あいさつをなさると聞く。

ずっと前の話やけど、まだわたしが小学生の頃、
たった一度だけ大きな大きなお鏡さんが、
事始めの日に届いたことがある。
お仏壇の前に、でんと供えられたお鏡さんは、
ある別家さんが持って来ゃはった。
そのお家では年々店も繁昌し、子どもも元気に育ち、
順調に発展していたのに、どういう風の吹きまわしか、
その年いっぱい悪いことばかり続いたという。
おまけにふと手を出した株で大損して、
それを気にやむ奥さんは病気になり、
二人顔を合すとけんかばかりしてはったそうな。

ところが十二月を迎えて二人とも気がつき、
来年こそ、もう一度、いちからやりなおすほかない、
と決心した。
『主家(おもや)から別家さしてもろたときの気ィで、
力いっぱい二人でがんばります』
言うて持って来ゃはったんや。
祖母はひそひそ声でわけを話してくれた。

そうか。大人の世界では
決心をお鏡さんの形にして表すのか、と、
幼いわたしはなっとくしたらしい。

今でもうちでは毎年お餅つきをする・・・・
何べんでも決心して、新しい年を迎えたい。」

はい。「年の暮れ」という文の最後を引用しました。
筆者のポジションがわかると、
坐りのよい読書になります(笑)。

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国会の値段。

2019-12-20 | 数値・資料。
月刊Hanada2月号届く。
1カ所だけでも、引用。
石橋文登氏の文から。

「・・では、国会の運営に
どれだけの費用がかかっているのか。

平成31年度の
衆院(定数465人)の予算は735億7000万円、
参院(定数248人)は489億4000万円で
計1225億1000万円。

これには議員歳費や公設秘書の給与も含まれる。

国会図書館の186億4000万円、
政党交付金317億7000万円を加えると、
1729億2000万円に膨れ上がる。

これを365日で割ると、
国会に1日当たり4億7000万円
の税金を投じていることになる。

国会が開かれるのは
年180~200日間(土日祝日を含む)だとすると、
実際には1日あたり9億円前後となる。

つまり、・・桜を見る会の馬鹿騒ぎで、
国会は国民の税金を連日9億円ずつ
浪費したわけだ。・・・・

それにも飽き足らず、
立憲民主党など野党四党は
臨時国会会期末の12月9日、
衆院議長の大島理森(ただもり)に
40日間の会期延長を申し入れた。

急を要する法案審議や外交案件があるならば分かる。
与野党は夜を徹して審議を尽くすべきだ。
だが、政府の政策・法案に何の対案を示すことなく、
『桜を見る会』を追求するためだけに
国会延長を要求するのは正気の沙汰とは思えない。」
(p285)

はい。一日4億7000万円の国会。
と忘れないようにします。



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たばこ屋の看板娘。

2019-12-18 | 京都
定価が1800円+税。その古本が600円でした。
「京都いきあたりばったり」(淡交社・2000年発行)。
うん、見れてよかった(笑)。
じっさいの題名は長くって
「ほんやら洞と歩く 京都いきあたりばったり」。
写真が甲斐扶佐義。文は中村勝。
むろん文もなんだけど、写真がいいんだなあ。
京都の町中の人たちが被写体となっているのですが、
すっかり、写す側と、写される側との境がない感じです。

たとえば、
「たばこ屋には看板娘がいた」に登場する、
藤本しなさん(85)のセリフはというと、

『昔は、たばこと文房具なんかを売って、
子供たちも学校いかして、やってこられたんですがねえ。
今はもう、たばこ喫う人も減ったし、
また今度の値上げどっしゃろ。
先日もおなじみさんに会うて、
近ごろちっとも見えまへんなあ言うたら、私やめました。

若いもんが店番するような商売やないですわ』(p14~15)

「看板娘」には、ほかに、
同じ人を撮った2枚の写真が載っていて、
これがいいんだなあ。ここでは、とりあえず、
2枚の写真につけたコメントを引用。

「いまもしゃきっとして、売り場に座る中井スエさん、93歳。
『もう、娘たちの助けがないと、あきません』というが、
やはり、ここに座っているのが一番落ち着くようだ。
座っているだけで、みんなを元気づけていますよ、きっと。」

「出町界隈を散歩する
『中井タバコ店のおばちゃん』(1976年)
のリンとした風情が甲斐さんの目にとまった。
70歳のころのスエさん。」(p16)

うん。甲斐さんの写真の秘密の種明かし、
でもあるようなコメントがありました。

「70年代の後半、甲斐さんは出町で
大規模な青空写真展を3年間で19回開催した。
鴨川べりの『タネ源』はんの板塀に展示された
写真を見る人たち。最終日に映っている人には
タダであげることにしていた。」

うん。すごいすごい。タダの空気が、まるで、
撮る側と撮られる側の微妙な境界をとりはらって、
街中を包みこみ浮かび上がらせる。そんな写真集。
切り取られた普段着の京都人の、その時のその姿。

私は何を言っているのやら。でもね、浮き浮きと、
何か語りたくなるような、そんな写真集です。
こうした写真との、出会いがうれしい一冊。

ちなみに、本のはじめには、序文として、
鶴見俊輔の「この本に寄せて」と、
井上章一の「街の記憶」とがあります。

はい。このくらいにしておきます(笑)。
この人の何冊か写真集があるようですが、
また、古本で出会えることを期待して、
ここまでにします。
私はこの一冊でじゅうぶん満腹。








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戒厳令下の中国。

2019-12-17 | 数値・資料。
今年は、本棚が雨漏りで、何冊か
本の底がフニャフニャになりました。
それでも、本を捨てない私です。
ということで、
底のフニャフニャ本をとりだして、
その一冊を紹介。

「紳士と淑女 人物クロニクル1980-1994」(文芸春秋)も
そのフニャフニャ本の一冊でした。

フニャフニャは、本の下だけでしたので、読むのに支障なし(笑)。
せっかくなので、その本からの引用。

1989年8月号(89年6月)「誰に煽動されることもなしに」。
ここから一部引用。

「戒厳軍司令部は、はじめ
天安門広場の学生死者を23人だと言っていた。

中国政府は6月4日虐殺から1日おいて6日には
『兵士、暴徒および野次馬』の死者は300人だと言った。

また7000人が負傷し、うち兵士の負傷者5000人、
それとは別に行方不明が400人だという。

しかし10カ所の病院に電話で問い合わせた
1医師の話では、少なくとも500人が死んでいる。
紅十字の情報は死者2600人。

戒厳軍戦車隊がバリケードを破って広場になだれ込んだとき、
現場には10000人弱しか人がいなかったのは事実である。
だが自由の女神像の前でスクラムを組んでいる学生はいた。
彼らはどうなったのか?

いまでは中国政府スポークスマンは、
学生の死者はゼロだったと言っている。
では一挺の銃も一台の戦車も持たない者が、
いかにして多数の解放軍兵士を殺し得たのか?
・・・・・・
あの国では、数字は著しく伸び縮みする。
いったん中国政府の数字の詐術を見た者は、
どうして南京虐殺30万説を信じ得よう。・・・」
(p510)

うん。フニャフニャになっても、まだ読めます。
また、読みかえす時のために、本棚へ。


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「ぜいたくなもんえ」

2019-12-16 | 京都
ネットでの座談を聞いていたら、
こんな箇所がありました。
それは、
『年を取るにしたがって、記憶力は減る。
そのかわりに、連想力はひろがる。』

なんだか、そんなような内容でした
(具体的な言葉は、もう忘れています)。

うん。連想力でいきましょう(笑)。
たとえば、
岩村暢子著「普通の家族がいちばん怖い」(新潮文庫)
の「単行本あとがき」にあった、この言葉

「・・理由は大きく二つあり、近年多くの対象者が
『本当にそうであること』より、
『そう答えるのが正解だと感じること』を
答えるようになってきているという事がひとつ。・・・」
(p268~269)

うん。いけません(笑)。
年をとったからか、ここから連想がひろがります。

ということで、本棚から出してきたのは
小林秀雄の対談「人間の建設」でした。

小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。

いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
答えばかり出そうとあせっている。
  ・・・・・・・・・
たとえば、
命という大問題を
上手に解こうとしてはならない。
命のほうから答えてくれるように、
命にうまく質問せよ
という意味なのです。

うん。私は、『命』を『京都』と、
いれかえてみたくなる。
ということで、

『たとえば、
京都という大問題を
上手に解こうとしてはならない。
京都のほうから答えてくれるように、
京都にうまく質問せよ
という意味なのです。』

こういう質問項目があったら、
さて、どのような答えがあるのか?
小林秀雄いわく。
『問題をうまく出せば即ちそれが答えだと』。

う~ん。小林秀雄といえば、たしか
私の高校時代の国語教科書の
監修者欄をみたら、そのなかに
小林秀雄の名前が、ありました。

国語の教科書に、どんな文をいれるのか?

わたしなら、京都のこの短文をいれたい。
そんなことを思い描きながら、以下全文。


   「ひねこうこ」  秋山十三子

しわしわの古漬けたくあんを薄切りにし、
け出しして煮たものを、京都の人は
『おつけもんの炊いたん』という。

先日、東京の人に食べさしたら、
『ひやっこればかりはどうも・・・・』と、
ひとくち食べておうじょう(閉口)しゃはった。
独特のにおいがあって、
切り干し大根ともちょっと違う。
おいしいとも、あじないともいいようのない味だが、
ふしぎに京都人の口にあう。

雪も降らず、ただシンシンと底冷えする冬の夜、
表を通るげたの音を聞きながら、
これでお酒をチビチビのむのが、
京都にうまれた男のしあわせという人さえある。

漬けもの桶の底に、はりついたように残り、
すてるよりほかないひねこうこを、煮て食べさせるなんて、
京都人のけちんぼの標本だと思う人も多いやろ。
しかしわたしたちは子どもの頃から、
『これはぜいたくなもんえ』と、教えられてきた。

そのままでもおいしく食べられるおだい(大根のこと)を、
お漬けものにするのが第一のぜいたく。しかも
一家中が毎日食べて、まだまだ残るほどたくさんに
用意できるという暮らしが存外のしあわせ。
それをまた塩出しして、おだしやら、手間やら入れて、
おいしいおかずに炊くのはぜいたくと思わならん・・・と。
以上がだいたい祖母のお説教の大要であったかと思う。
これを大名だきともよぶそうな。

人間が、三度三度のごはんを思う存分食べられることを幸せ
・・と思うて暮らした歴史はずいぶん長いことに違いあるまい。

ーーーさて、おこうこは、ていねいに薄切りする。
つぎに水に漬けて塩けを抜く。台所のはしりの隅に鉢を置いて、
立ったついでに何度も何度もてまめに水をかえる。

そして、だしじゃこと、種を抜いたタカノツメを入れて、
酒塩と、薄口をさし、たっぷりのだし汁がなくなるまで
コトコトと炊きあげる。

たくさん炊いて歯にしみるような冷たいのがおいしい。
今はやりの即席食品とは似ても似つかない
しん気くさい煮物である。

しかし、ごちそうを食べあきた中年の人たちが、
必ずおいしいとほめるのやから、
やっぱりぜいたくな京の味だろうか。



はい。以上が全文(p40~41)です。
『京のおばんざい』(光村推古書院)から引用しました。

はい。ここには
『京の味』のぜいたくを語るのに、

『京都人のけちんぼ』
『祖母のお説教』
『子どもの頃から』
『京都にうまれた男』
『一家中が毎日食べて』
『ふしぎに京都人の口にあう』
『中年の人たちが』
 ・・・
と、語られてる。
その、ぜいたく。





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お正月の「宿題」。

2019-12-15 | 前書・後書。
本棚から、以前買った文庫本をとりだす。
岩村暢子著「普通の家族がいちばん怖い」(新潮文庫)。
副題は「崩壊するお正月、暴走するクリスマス」。

この本は、自分で文章を組み立てようと思うなら、
置き場に迷い、消してしまいたくなるそんな一冊。
本棚なら、どこに置いてよいのやらと困惑する本。
何を言っているのやら(笑)。

とりあえずは、岩村暢子さんのこの文庫から引用。
「単行本あとがき」にこうあります。

「・・私は対象者の回答(発言・記述)内容も
あまり信じてはいない。対象が虚偽の回答をする
と思っているからではない。理由は大きく二つあり、

近年多くの対象者が『本当にそうであること』より、
『そう答えるのが正解だと感じること』を答えるように
なってきているという事がひとつ。

二つ目に人は自分の行ったことに対して、
そんなに自覚的ではないものだという事がある。
人が『している』と回答することと
『実際にしている』ことの間には、
調べると大きな乖離があるものだ。

そこで私たちの調査では、
対象者が『行った』と言うことについては、
必ず『写真』記録を求めることにしている。
無論、本調査でもそうだった。

特に多くの人がまだはっきりとは捉えていない
新しい変化を調べるとき『写真』は欠かせない。
自覚せずに行い始めている人たちにいくら言葉で
『行っていること』を尋ねても、出てくるはずがないからだ。

正月元旦の殺伐としたバラバラ食光景などは
その好例でもあったと思う。しかも写真は、
『お屠蘇』『御節料理』『クリスマスケーキ』などと聞いて、
私たちが暗黙の内に思い描くイメージさえ、
時に大きく裏切ってくれる。そして、その言葉の示す
『現実』も突きつけてくれるものだ。
だから、『写真』データは、やはり欠かせないと思う。

では、語られた『言葉』は軽く扱うのかと言えば、
それも軽視はしない。
実はインタビューはすべてテープに録り、いつも
『一言一句漏らさず、すべてベタで起こしてください』
とテープリライターに頼むことにしている。
しどろもどろで堂々巡りの発言も、
神社の『境内』を『場内』と言い誤ったのも、
ひとこと言いかけてやめた沈黙も、
自分にいちいち相槌を打ちながら話す人の癖も、
すべて・・・・」(p268~270)

うーん。マスコミ関係者のための宣言
のようにして読めるのでした(笑)。

こうして調査された、その肝心の本文は、
私には、どう扱ってよいのやら始末に困ります。
はい。困惑するので、引用はしません(笑)。

そのかわり、『文庫版あとがき』から引用。

「たまたま、私は毎年御節を作るのだが、それは
小さい時分から長年母親に手伝わされてきたため、
すっかり身体に染み付いて、年末になると
『作らずには居られない』状態になるからだ。
いわば条件反射みたいなものであって・・・・
確固たる信念や思想ゆえのことではない。

第一、私の実家にも婚家にも、
守り伝えなければならないほど立派な御節料理が
あるわけでなし。雑煮にいたっては、私の母の味と、
夫のために姑に習った味とが渾然一体となり・・・
夫とは縁が切れた後も元には戻せなくなっている。
食べ物とは、面白いものだとつくづく思う。

近年は娘が率先して御節を作るようになったが、
台所で黙々とやっているので声をかけると、
辰巳芳子先生の本と首っ引きだったりする。・・・・
訳を聞けば、『お母さんの健康のためには、辰巳先生
の作り方のほうが身体にいいんじゃないかと思った』
とのことだった。
家庭の中の伝承とは、そんなものかもしれない。・・・・
家族の関わりと時の流れの中で・・・・・
だから、それが無くなるとしたら、そのような暮らしや
そんな家族の関わりが無くなったことを意味している
に違いない。・・・・」(p275~p277)


はい。また引用ばかり(笑)。
この宿題の、ひとつの答えとなるような文として、
この次に、『京のおばんざい』の中の、
秋山十三子さんの文を引用します。
条件反射の、ルーツをたどる試み。
それに、京都が答えてくれるのかどうか?

こんかいは、ここまで。


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