和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

例えば『民主主義』

2024-03-03 | 書評欄拝見
本を読んでも、積読で、さらっとしか読めない私にとって、
書評の楽しさは、本文へといざなう貴重な入口となります。

といっても現実に、さまざまな書評を読めるわけでもなく、
身近な書評欄だけを窓口に『井の中の蛙』で満腹してます。

さてっと、産経新聞2024年3月3日(日)の読書欄拝見。
そこから、適宜引用してゆきます。

「話題の本」欄では、外山滋比古著「新版思考の整理学」(ちくま文庫)を
紹介しながら、最後をこうしめくくっておりました。

「 著者は特別講義で『自分にとって
  【意味のあるもの】と【意味のないもの】を区別し、
  意味のないものを忘れていく。ここに個性があらわれる。
  これはコンピューターには、できない機能である  』
  と語る。・・・このメッセージは重く響く。」( 海老沢類 )

え~と。花田紀凱(かずよし)の「週刊誌ウォッチング」。
ここは、はじまりの2行を引用。

「 週刊誌の不倫報道にはいささかうんざり。
  わが身を省みて言え。・・・・     」

はい。書評欄にとりあげられていて気になったのは、
福田恆在著「福田恆存の言葉」(文春新書)でした。
そのはじまりは

「 戦後日本を代表する保守派の論客、福田恆存(1912~94年)は
  著述の他に、多くの講演も行った。本書は昭和51~52年になされた
  8回の連続講演録の初の活字化だという。
  没後30年の今年に出るべくして出た一冊といえる。・・・ 」

うん。せっかくなので、もうすこし引用。

「 例えば『民主主義』『平和』『人権』といった
  明治期にできた『ネオ漢語』を論じる第5章
  『 言葉という道具 』は必読だろう。

 『 (日本人に意味が染み込んでいないネオ漢語があったからこそ)
    近代化も成し遂げられたけれども、
    そのためにまた混乱も起きている(中略)
    反省期、調整期にそろそろ入らなければならない  』と説く。


ちなみに、この本の評者は、文化部の花房壮とあります。
産経新聞1月28日(日)の「ロングセラーを読む」で
福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)を紹介していたのも
( 花房壮 )と最後にありました。
うん。これからは、この方の名前を見たら書評を読むことに。

もどって、今日の産経書房の『 聞きたい。』欄には
田原史起著「中国農民の現在」(中公新書)がありました。
そのはじまりは

「 急速な経済発展を遂げた中国では都市と農民の間で
  格差が生じ、都市への出稼ぎに行く『農民工』や
  両親が出稼ぎ中の『留守児童』がしばしば話題になる。 」

「 農民は特権的な都市民と自分たちを引き比べるより、
  村内部での格差を気にすると指摘する。 」

あとは最後を引用。

「 2012年に習近平政権が発足した頃から外国人への警戒が強まり、
  『 ホストファミリーに迷惑をかける可能性 』が生じた。
  18年を最後に現地を訪れていないが、
  『 資料や文献を読んで研究することはできる 』。
  インドの農村にもフィールドを広げ、比較研究を行っている。 」
                        ( 寺田理恵 )


はい。産経新聞の日曜日の書評欄が楽しみになりました。




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『読んで損はない』

2024-01-31 | 書評欄拝見
私の本読みは、パラパラ読み専門。
それも、最初から読まずに、勝手口から読み始めるような変則。
それでも、印象に残る箇所があれば、そこだけ読み返してみる。
その本に、印象深い箇所がたび重ると、あらためて読み始める。
うん。最近はそんな感じの読書をしているような気がしてます。


せっかく、藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)を
ひらいたので、パラパラとめくってゆくと、こんな箇所がある。

「 推敲は必ず紙にプリントアウトしてから行います。  
  不思議なものですが、同じ文章にもかかわらず、
  紙で推敲すると画面で見た場合と比べて何倍もの粗(あら)が見えてきます。・・・
  文章そのものの稚拙さも紙のほうがはっきりと浮かび上がる気がします。」(p128)


あれれ~。こうしてブログに打ち込んでいると、すっかり忘れてしまってますが、
たしかに、文章を書こうとした場合に、私も紙にプリントアウトして推敲します。

うん。読む。打ち込む。書く。というのを
『推敲』という視点から考え直してみたい。
まあ、そんなことがふと思い浮かびました。

そういえば、ちっとも読まずにいた積読本にも、
あらためて、光をあてる一手間作業が必要かも。
書評を読んでいると、推敲とはちがうのですが、
新しく本を掘り返してくれている気になります。


くだくだ能書きをつらねました。こんな書き出しは、
はじめから読まなくてもよい見本みたいなものです。

福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)というのを
だいぶ以前に購入してありました。私のことですから、
おそらく、何かの書評で興味をもって、購入したはず。
ですが、ひらかずそのまま本棚にしまってありました。

産経新聞の読書欄「産経書房」(2024年1月28日)の
『ロングセラーを読む』で「私の幸福論」が取り上げられてました。

はじまりの方にはこうありました。

「・・・令和の時代まで読み継がれている。
 それが今回紹介する福田恆存(つねあり・1912∼1994年)の
 名著『私の幸福論』だ。平成10年にちくま文庫になり、昨年で23刷に。・・・」

はい。この文の最後が引用しておきたくなるのでした。

「 ・・・腹が決まったとき、
  やるべきことをやりきったとき、
  人は凛とした、落ち着きを覚えるはずだ。
  多くの情報に翻弄されがちなSNS全盛時代、
  自分の道を一歩踏み出すためにも読んで損はない。 」


はい。福田恆在氏の文は、以前に読もうとしたのですが、
私は読めなかった。読めなくても名前は気になっていた。
おそらくそこで簡単に読めそうな文庫『私の幸福論』を、
買ったのだろうと、忘れていた購入動機を思うのでした。

この機会でもって未読本を既読本へと置き換えるチャンス。
未読なので読書本の推敲をしているような気分になります。






 
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書評の中の財務省。

2024-01-27 | 書評欄拝見
月刊Hanada令和6年3月号の書評欄をひらく。
「堤堯の今月の1冊」は
田村秀男×石橋文登著「安倍晋三vs財務省」(育鵬社)。
うん。どうせ私のことだから興味があっても読まないだろうと思っていた。
気になっていたけれどの一冊。それを書評で語っていただける有難さ。
うん。後半のここを引用。

「たとえば東日本大震災のおり、
 民主党の菅直人(かんなおと)政権は
 復興特別所得税(所得税の2・1%を徴収)を定めた。

 国家的規模の大災害なら、国債発行(国の借金)
 をもって対応するのが常識だ。

 なのに、民主党政権は被災者にも課税した。
 被災者にすれば踏んだり蹴ったりだ。
 振り付けたのは財務省で、このとき安倍(晋三)の胸に
 財務省への疑念が生じたという。

 昭和恐慌を高橋是清(これきよ)は国債発行で乗り切った。
 その高橋は大蔵(財務)では忌み嫌われている。
 高橋は軍事費削減を主張し、2・26事件で最も残酷な殺され方をした。

 高橋は日露戦争のおり、戦時国債をロンドン市場で売りさばき、
 戦費を調達した戦勝の大功労者だ。・・・・・

 救国の功労者を理解できない。令和のいま、
 財務省は安倍晋三を死んでもなお忌み嫌う。
  ・・・・・・・

 いままた岸田政権は財務省べったり。
 防衛費43兆円を増税で賄う。
 防衛は国のインフラだ。
 なのに建設国債で賄うとは考えない。
 これも財務法第四条の縛りから来る。 」(p165)


うん。読まないとしても、
対談で分かりやすそうだし、この本買っとくことにします。
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本への『ほめ言葉』

2023-11-30 | 書評欄拝見
落語関連の本を読みたくなる。
さっそく思い浮かんだ本が2冊。
まだ、読んでいないので誰かの『ほめ言葉』を
まず、聞いてみることに。

そういえば書評っていうのは、
本への『ほめ言葉』ですよね。
『けなし言葉』なら読まない。
本をほめるから読みたくなる。

ということで落語本で気持ちよくほめられている2冊。

① 安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(ちくま文庫・1993年)
② 桂米朝著「落語と私」(文春文庫・1986年)

①には、福原麟太郎氏の4ページの文が付いている。
そこから引用。

「・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、
 それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、
 実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、
 この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。
 それは家内も覚えているし、私も覚えている。・・・  」(p483)

うん。私の興味も、やっと落語関連本に及びました。
それならばと、読みたい本が安藤鶴夫と桂米朝の2人。

②の巻末解説は矢野誠一。
あれ、ここにも安藤鶴夫が登場しておりました。
うん。その箇所を引用してみることに。

「・・おつきあいのできた桂米朝さんを東京に引っぱり出して、
 紀伊國屋ホールで『桂米朝上方落語会』というのを催して・・

 なにしろ、プレイガイドの女の子が、持ちこんだポスターを見て、
 『ドカタ落語って、なんですか?』といったのだから、
 上方落語も東京では未だしの時代だった・・・・

 いまは亡き安藤鶴夫さんが、『地獄八景亡者の戯れ』をきいて、
 『 大阪にも、素晴らしい落語家がいるね 』と、
 感動のあまり声をふるわせていったのを思い出す。・・・・ 」(p220)

「 そんな活字による『桂米朝作品群』のなかにあって、
 この『落語と私』は、ひときわすぐれた名著で、
 桂米朝の著作ばかりか、こと落語について記された
 多くの類書を圧する存在のものである。

 10年前。『ポプラ・ブックス』の一巻としてポプラ社
 から出たとき一読して、すぐそう思った僕は、
 江國滋と三田純市に電話をかけたものである。

 10年ぶりに再読して、あのときの新鮮な印象が
 少しも失なわれていないことにおどろかされた。・・・ 」(p221)

うん。最後に、向井敏さんの『落語と私』の書評を引用しておきます。

「体裁はジュニア向きでも内容はきわめて高く、
 眼の肥えた大人にこそ読んでほしい本がある。・・・・

 桂米朝の『落語と私』。
 中学生向けの啓蒙書として書かれ、
 文体はやさしく語り口は具体的、

 気軽に読めるように工夫されているが、
 落語という話芸の本質をこれほど的確に把握し、
 鮮明に説いた本はざらにあるものではない。

 わけても注目されるのは、落語を単なる伝統芸能としてでなく、
 生きた通俗社会学としてとらえたことである。

 落語にはほんとうの悪人はめったに出てこない。
 といって、世人の鑑となるほどの大人物も見当らない。
 みんなそのあたりにいそうな人ばかり。

 つまり、落語というのは
『 大きなことはのぞまない。泣いたり笑ったりしながら、
  一日一日がぶじにすぎて、なんとか子や孫が育って
  自分はとしよりになって、やがて死ぬ 』と観念した、
 ごくふつうの世間を描く芸であることを桂米朝は強調する。 」


はい。向井敏さんの書評の半分を引用してしまいました。
さあ。この2冊。私にとってやっとこ読み頃を迎えました。
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書評百年のスタンス。

2023-11-16 | 書評欄拝見
朝日文庫の鶴見俊輔著「期待と回想 語り下ろし伝」を
せっかく古本で買ったので、本文をめくってみる。

その第9章「編集の役割」だけを読むことに。
なんてね。私はこの章だけで満腹でした。
9章の最後を引用することに。

「私は本を読みながら青線・赤線を引くんです。
 それが編集だという考え方もできるでしょうね。
 そうすることでもう1つの本をつくっている。

 スキー場で上から下を見下ろすと、凸凹が見えるでしょ。
 その凸凹をどうやって走り抜けるかを考えるように、
 本を読むこともその凸凹を走り抜けることなんだね。

 あらゆる言葉が均等に並んでいたら、本なんて読めるわけないんです。

 ・・・・もとのテキストのどの箇所をこう解釈したと明示すれば、
 ゆがめたということにはならない。
 たとえゆがめたとしても、ゆがめた証拠はのこる。 」(p526~527)

はい。目からウロコ。
「 本を読みながら・・・線を引くんです。それが編集だ
  という考え方もできるでしょうね。 」

はい。そういうことから編集がはじまっているんだ。
うん。鶴見さんの語りの身近さワクワク感がでます。

書評についてもありました。
新聞の書評委員をしていた経験を話したあとでした。

「・・問題は時間なんです。
 本が出てから、二週間のあいだに書評を書かなければならないでしょう。

 読んでみて重大な見落としは、10年、20年の幅をもって現れるんです。
 その期間に重大な見落としがあったといえるような、
 そんな自由を与えてくれる書評欄がほしいですね。・・」(p523)

「原因は時間だと思います。
 百年の幅をもって書評をしてもいいという欄ができればいい。

 それも旧著発掘だけじゃなくて、新解釈を混ぜたようなかたちで。

 いまの短い書評でも『この本おもしろいよ』と
 責任をもっていえますが、その程度のことです。・・ 」(p524)


なんだか、70歳からの読書の腰の据え方を聞いているようです。
津野海太郎著「百歳までの読書術」を読んでるような気になる。
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カルチャーの語源。

2023-09-23 | 書評欄拝見
カルチャーの語源は『耕す』だと教わったことがありました。

井波律子著「書物の愉しみ」(岩波書店・2019年)を
パラパラとめくっていたら
堀田百合子著「ただの文士 父、堀田善衛のこと」(岩浪書店)の
書評がのっていました。
そこから引用。

「堀田善衛は『 原稿を書くということは、
 原稿用紙の升目に一文字ずつ田植えをしているようなものだ 』
 と言いながら、深夜、トントン、トントントンと万年筆の
 音を響かせて、ひたすら原稿を書き綴っていたという。

 そんな父の姿を幼いころから見てきた著者が、
 ときにユーモアをまじえつつ描く素顔の堀田善衛は、
 著者自身『 文句言いでもなく、気難しいわけでもなく、
 コツさえつかめば扱いやすい家庭人です 』と、

 娘ならではの率直さで述べているように、
 迫力あふれる著作とはうらはらに、ノホホンとした風情があり
 ・・・   」(p515)

うん。それならと古本で安くなっていそうなので注文することに。
ちなみに、この書評で井波律子さんは、もう一度『田植え』を出してきます。

「 いかなる大作、大長編も、田植えをするように
  一字一字、原稿用紙を埋めてゆく日々の積み重ね
  からしか生まれない。

  本書の著者は、いつどこにいても、倦まずたゆまず、
  原稿用紙に向かいつづけた父、堀田善衛の姿を・・・
  ・・・思いをこめて記している。 」(p517)


はい。この頃、ブログ更新を怠っているせいか、
こういう言葉に、つい目が止まります。

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大正15年の『一読する必要があります』

2023-07-04 | 書評欄拝見
ネット注文した古本、新潮文庫の『注文の多い料理店』が
今日あたり届く頃です。

はい。手にする前に大正14年・15年の草野心平さん。
もう、今から百年ほど前の草野心平さんの言葉を拳拳服膺しとかなきゃ。

「・・なかには草野心平のようなひともいることはいた。
 当時、まだ中国広州嶺南大学在中であった草野は、後輩から贈られた、
 刊行されて間もない『春と修羅』を読んで深い感銘を受け、
 翌14年、日本に帰国するやいなや賢治を、自らが主宰し創刊した
 同人誌『銅鑼』の同人に勧誘したのである。賢治もその勧誘に応じ、
 詩作品二篇を草野の許に送ったが、草野は草野で、賢治から送られてきた
 二篇を『銅鑼』第4号(大正14・9)の巻頭に据える・・・ 」

さてっと、それでは、草野心平さんは、賢治の童話を、どう評したのか?

「・・・童話についても、童話集刊行の約一年半後――
 大正15年8月号の『詩神』の詩壇時評で、

 『 童話界に於いても、最近すばらしい収穫として、
  【 注文の多い料理店 】を一読する必要があります。
   今後どんな仕事をして行くか、恐るべき彼の未来を想ふのは
   私にとつて恐ろしく、よろこびである  』

 と書いたが、当時まだ学生であった草野の、この最大級の賛辞も、
 詩壇や文壇あるいは一般大衆に影響を及ぼすまでにはいたらなかった。 」

  ( p196~197 萬田務著「孤高の詩人宮沢賢治」新典社・1986年 )


はい。草野心平氏が約百年前から
『 一読する必要があります 』と語っていたのに、その百年後、
ようやく、私は文庫で『注文の多い料理店』を手にするところです。

ということで、郵便はたいていお昼ごろ配達されるので、
今日届きますかどうか(笑)。

はい。古本が届くまでの待ち時間。


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書評で新刊を買う。

2023-06-06 | 書評欄拝見
産経新聞を購読してます。といっても、テレビ欄中心(笑)。

6月2日(日曜日)の産経読書欄に、酒井信が
福田和也著「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」(河出書房新社)
の書評を載せておりました。

はい。私は、どちらの方の本も読んだことはありません。
それでも、この書評がよかったので、新刊を注文することに。

うん。酒井氏の書評だけで、私は満腹感がありました。
短い書評に、元気が出そうな言葉のてんこ盛り。
ここは、書評の紹介にします。

「 ・・・・・時代と対峙し、自己の価値観を
  批評として切り出す時に、ユーモアを忘れないこと。

  不景気な時代に、景気の悪い生き方をしないこと。

  福田恆存(つねあり)は『 伝統にたいする心構え 』で、
  文化とは生き方であり、狂気と異常から身を守る術だと述べている。

  ・・・・『 日常の精神の安寧 』に関わる共同体主義だと言える。

  ・・日本の保守思想は、日常の安寧を『文化』として尊ぶ点で、
  思いの外、臨床心理学と近い関係にある。・・        」

ちなみに、書評の最後はというと、

 「 ・・『 日常の精神の安寧 』を尊ぶ福田らしい
  『 生きた文学 』で、彼の弟子であることを誇らしく思う。 」


このキラキラする言葉の断片を、さあ、どう組み立てればよいか
わからないままに、それではと、新刊を注文することに。
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新聞の書評欄。

2023-05-07 | 書評欄拝見
読売の古新聞を、数か月分もらってきた。
とりあえず、日曜日の読書欄をひらくと、
欲しい本が数冊できてしまう。

うん。買おうかどうしようか。
と迷っていると、思い浮かんできたのが
桑原武夫の「書評のない国」という2頁弱の文でした。
はい。こういうときは話題をかえて、
違うことを考えるにかぎります(笑)。

「書評のない国」は1949年12月の雑誌に掲載された文でした。
そのころは、今みたいに、書評が盛んになる前の時代でした。
こうあります。

「書評というもののないことが、日本の出版界の特色である。
 フランスでもアメリカでも、雑誌には毎号必ずガッチリした、
 つまり漫評でなく、内容を分析した上で批評を加えた書評欄があり、
 それが全誌の五分の一、さらにそれ以上を占めている。

 民衆も学者もそれによって本を選ぶのだが、一流の雑誌に
 取上げられたものは、ともかく一応の本だという安心感があるのである。

 日本では広告によるのみだが、広告活字の大きい方がいい本
 というわけにはゆかず、デタラメで買っている。
 用心ぶかい人は著名書店の有名著者の本を、という卑屈な態度になっている。

 かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、
 唯一の雑誌『書評』も廃刊した。

 これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを
 分析してみる必要があるだろう。

 よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、
 学界、文学界の前近代性が公平な批評を忌避すること、

 インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、
 大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、
 ともかく書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。 」

         ( p568~569 「桑原武夫集 2」  )


はて。74年前のこの言葉を、現代ではどのように読むのだろう?

私が小さいころには町に映画館があった。
近くの市にいけば、そこにも映画館通りがあった。
いまは、町にも近くの市にも、映画館がなくなり、
映画を観に行くにも、旅行気分となります。

ということで、映画館で映画を観るのは、
地方にいると、それは贅沢体験になります。

最新映画の紹介で、『銀河鉄道の父』を紹介しておりました。
そのなかに、原作の紹介があったので、さっそく古本で注文。

ぱらりと後半をひらいてみる。
うん。最後はそこから引用。

「  夕方になった。みぞれがふっている。
   古新聞を燻(くす)べたような青みがかった灰色の空から、
 
   白い雪と、銀色の雨がもみあいつつ降りそそいでいる。
   この気候ないし落下物を、花巻のことばで、

   ――― あめゆじゅ。

   という。
  『 あめゆき 』のなまった言いかたなのだろう。・・・ 」

   ( p287 門出慶喜著「銀河鉄道の父」講談社・2017年 )






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簡単明瞭な。

2022-12-11 | 書評欄拝見
福間良明著「司馬遼太郎の時代」(中公新書・2022年10月発行)
副題には「歴史と大衆教養主義」とあります。

私は、産経新聞と、最近はそれに夕刊フジをとっております。
その両方に、この新書の書評が載っておりました。

夕刊フジ11月19日(18日発行)の
鎌田浩毅さんへのインタビュー記事の下に小さく
この新書の書評がありました。まずはそこから引用。

「 『司馬史観』と称された司馬の歴史の見方は、
  1990年代に『新しい歴史教科書をつくる会』へ影響を与え、
  歴史学でも大きな論争となった。

  本書は、『二流』の学歴、兵士としての戦争体験、
 『傍系』の新聞記者から国民作家へ駆け上がった生涯を、
  まず、たどる。・・・・     」


つぎに、産経新聞12月10日の「土曜プライム」に著者の写真入りで
この本がインタビューで紹介されいる。こちらは(横山由紀子)と
署名の書評でした。そこには、著者略歴も小さく載っております。
そこを紹介。

福間良明(ふくまよしあき)昭和44年熊本市生まれ。
「『働く青年』と教養の戦後史」で平成29年、サントリー学芸賞受賞。
「『勤労青年』の教養文化史」「『戦争体験』の戦後史」などが
著書としてあるようです。

はい。私にははじめて知る名前なので、興味津々。
まず、書評されていた新書を注文。
それが届いたので、パラパラとひらく。

第4章は「争点化する『司馬史観』」となっております。
ちょこっと、ここを引用してみます。
「坂の上の雲」の表紙カバーの写真が載っている箇所でした。

「司馬は、自らの作品が『小説らしさ』から逸脱していることに自覚的だった。
 司馬は『小説とは要するに人間と人生につき、
     印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもので、
     それ以外の文学理論は私にはない。以前から私は
     そういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた』
  と・・・・  」( p200 )

はい。この新書。もうちょっと丁寧に読んでみます。
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本の読みたくなり方。

2022-11-24 | 書評欄拝見
新聞は見出ししか読まないし。
本は表紙に目次にあとがきに、
せいぜい書評と解説チェック。
ハウツウ本で育ってしまった、
ハウツウ本に足むけ寝れない。

そんな横着者にも、何か楽しみがあるはず。
本は楽しまなくちゃいけないとは丸谷才一。

『 僕はおもしろがって読むことだと思うんですね。
  おもしろがるというエネルギーがなければ、
  本は読めないし、読んでも身につかない。
  無理やり読んだって何の益にもならない。 』
  ( 丸谷才一著「思考のレッスン」そのレッスン3の最初のページ )

このレッスン3は「思考の準備」でした。
そのなかに「本をどう選ぶか」があります。

「 問題は『どういう本を読みたくなるか』
  というところにあるんじゃないでしょうか。

  要するに『本の読みたくなり方において賢明であれ』
  と言うしかない。  」 ( p113 単行本 )


寝て起きたら、この『思考のレッスン』が思い浮かびました。


夕刊フジ( 2022年11月19日〈18日発行〉 )にあった
新刊の鎌田浩毅氏の角川新書の紹介文。
インタビューのようです。その最後の方を引用。

―― 2035年プラスマイナス5年で南海トラフ巨大地震が起きる予測が

『 日本人の半数にあたる6000万人が被害を受け、
  被害規模は東日本大震災の10倍で、国も自治体も頼れません。

  だから自力で生き延びる方策を立て、今から準備する。
  自立と自律が大事。地球科学の知識を得て、
  人生の知恵と教養で乗り切ろう、という発想です。 』


いちばん最後の質問に、『体の知恵を駆使する』という言葉が出てくる。
そこも引用。

――今後は新しいテーマも

『 通産省地震調査所時代が第一の人生、
  次の京大教授が第二の人生。

  ここまで研究という頭脳の世界で
  学問に没頭しましたが、今度は
  体の知恵を駆使する身体論。

  野口晴哉が編み出した整体の勉強をずっとしていたので、
  地球生命とか身体の研究もしたい。
  
  地震予測、噴火予知には限界があり、
  危険が迫ったら逃げ出す動物的な身体能力も必要なんです。
  まだ研究は緒についたばかりですが・・・ 』

はい。これがインタビューの最後の箇所。
ここに、野口晴哉という名前が出てくる。

鎌田浩毅著『揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義』
をさっそく買ったのですが、まえがきだけ読んで、後でまたと本棚へ。

そうして、あたらしく野口晴哉の本をひらいてみたくなる。
まったく、横着者の王道を突き進んでゆくような開き直り。
 


 
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読まない本の夢。

2020-07-05 | 書評欄拝見
本を読めないからでしょうね。
本の紹介文を読むと、夢を見るような気がします
(じっさいに、本を読んでいる方には笑われるかな)。
というので、私は書評本を読むのが好きです(笑)。

何でこうして、はじめるかというと、
向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社1986年)を
本棚から取り出してきたから思うのでした。
向井敏さんのこの本には150冊の本が紹介されている。
それなのに、私はそのなかの、数冊しか読んでいない。
うん。これからも読まないのだろうなあ(笑)。
けれども、この本の紹介本は好きです。
ああ、世の中には、こんな本があるのだと教えてくれる。
うん。それが本の夢を見るような気になるよろこび。

はい。梅雨時は、なんとなく本棚が黴臭くなります。
こういうときは、楽しい話をつづけます(笑)。

「書評史上まれに見るすばらしい言葉」と向井さんが
指摘しておられる箇所があるのでした(p143)。

うん。短い文なので引用します。向井敏さんが
中野重治著「本とつきあう法」を取り上げた箇所です。
まずは、中野氏の言葉の引用からはじまっておりました。

「歩きまわったからといって遍歴したということにはなるまい。
四国西国とか、学問上・宗教上の問題とか、何かそこに目安が
なければ遍歴といえぬという気がするが、その気持ちからいうと、
わたしなどは読書遍歴はしなかった、いくらか歩きまわったことは
歩きまわったが、コースはなかった、札所もなかった、さらにいえば、
歩きまわるところまで行かなかった、まずはぶらついたという
ところだという気がする。」

はい。枕言葉のようにして、引用からはじまっているのですが、
2頁の短い文の、最後の箇所でした。

「・・集中の圧巻『旧刊案内』のなかに、芳賀矢一、杉谷代水の
共著になる『作文講話及文範』、『書簡文講話及文範』に触れた
章がある。文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本の
ために、中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、
書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。
その頌辞に親しく接するだけのためにも、
この本はひもとくに値する。いわく、

 ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、
 手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた
 通俗の本というものは何といいものだろう。        」

はい。これを読んだ私はといえば、
ネット古本屋に、出品されるのを待って
「作文講話及文範」上下巻と
「書翰文講話及文範」上下巻との
両方を揃えました。あとは、パラパラとひらいて、
いつかは、読もうと本棚へ並べたのでした(笑)。

ちなみに、
「作文講話及び文範」はその上巻だけですが、
講談社学術文庫(1993年)にはいっております。
あと、中野重治著「本とつきあう法」(ちくま文庫・1987年)。

うん。講談社学術文庫の「作文講話及び文範」をひらいて、
第一講話の前のページに引用された漢書を読む。

 智者千慮、必ず一失有り。
 愚者千慮、また一得有り。

文庫の最後には索引があって、その次のページに
こんな引用がありました。最後にそこを孫引き。

「汝(なんじ)文に堪能なりと思ふや、そを信ずるなかれ、
そを信ずること遅かれ。天の汝に命ずる所のものは、
語ることにあらず、書くことにあらず、唯々行ふことにあり。
                  カーライル   」
(p480)


はい。このついでになんですが、
GOOブログで毎日更新されているのを、
見させて、読ませていただいて、おかげで
楽しませてもらっております。
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梅棹忠夫の一冊。

2019-03-29 | 書評欄拝見
「もったいない本舗」へ古本を注文。
梅棹忠夫著作集第4巻「中洋の国ぐに」。
アマゾンからの注文でした。
送料共で1457円。
中古品で可の表示でしたが、
函入で月報もあり、しかも、
新刊本屋で購入したような、
きれいな一冊が届きました。


この第4巻に「モゴール族探検記」が
はいっております。
この全集本には巻末にコメントが、
載っているので、ありがたい(笑)。

さてっと、そのコメント2に
板垣雄三氏が
「『モゴール族探検記』の語るもの」
と題して書いているのが魅力です。
もったいないので、引用(笑)。

「・・もし仮に、梅棹のあまたの著作の中から、
どうしてもただ一点だけを選ばなければならぬ
羽目になったら、私はあれこれ思いめぐらした
あげく、結局は、やはり『モゴール族探検記』
が好きだ、と言うだろう。『モゴール族探検記』は、
一度読んだら忘れられぬ、詩情あふれる書物だった。
繰り返し愛読した人は多いと思う。
・・・・」

「・・そればかりでなく、同書は、書斎の人々に
『実地の』学問の目的・方法・技術・効果を
するどく問いかけるものでもあった。著者は
『まえがき』のはじめに、『これは学術報告ではない』
とことわっている。しかし、それは新しいスタイルの、
社会に開いた(ただし啓蒙的であるよりは挑発的な)
学術報告であった。」


「・推理小説を地でゆくようなものだった。・・
とりとめもない点景と断片的事実の積み重なりが、
判断のための精妙な伏線を形づくる。
身近でごくありふれた事実が意外にも
決定的な鍵だったのだということがつかめた瞬間、
全体が一挙に理解されるようになっていく
『氷解』のおもしろさ。これは、こたえられない。」

はい。
まだまだ、引用をしたいのですが、
私などは、このコメントだけでも、
古本を買った価値が十分あります。

これが著作集刊行時では、
6200円だったのですから、
古本は、ありがたいです。

ちなみに、「モゴール族探検記」は
岩波新書にあるので、新刊で864円なり。
でも、このコメントは読めません(笑)。

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書評欄から本を選んで。

2019-03-02 | 書評欄拝見
鶴見俊輔の文「めだかの学校」に、
桑原武夫氏との出会いの箇所がありました。


「昭和23年に、私は桑原武夫に初めて会った。
・・のびやかなつき合いの開ける可能性がわかり、
数か月で気が楽になった。

その予感をもったのは、昭和23年の秋のある日
(ことによると夏だったかもしれない)、
日比谷のビルの一室で、人文科学研究所に集めるための
英語の新刊書のリストを作ったときで、かなりの分量の
ある英語の雑誌類を積み上げて、そのうちの書評欄を見ては、
目ぼしい本をいっしょに選んでいた時からである。
4~5時間つづけて、いっしょに仕事をしたことになったが、
私はそのころ26歳になったばかりだったが、
さらに20歳も年上の教授が私と同じように雑誌類を
ひっくりかえし、書評欄から本を選んでいく手早さに感心したし、
目ぼしいものとして選ばれた本が結果としてかなり
一致したのを見て、うれしかった。

それ以前10年近く、京大の人文科学研究所は英語の
新刊書を買っていなかったと思うので、このときに
選んだものが、戦後の再出発のときに
(とくに新設の西洋部にとって)大切な役をになった。

・・・・・・
京大の人文科学研究所の共同研究は、
教授が制度上の権威によって班員に仕事を割り当てる
という方式からはほどとおい、指導者が自分で人一倍働き
他のものも日本人らしい勤勉な習性を刺激されて自発的に
働きはじめるという方式の積み重ねでできたものである。」


うん。このあとも肝心なのですが、
つい、引用が多くなるのでこのくらいで(笑)。


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わくわくしてくる。

2019-01-27 | 書評欄拝見
読売新聞の読書欄がいいですね。

はい。私は一月の一ケ月だけの試し購読。
うん。読売新聞の読書欄はいいなあ(笑)。

今日も今日とて、
読売新聞の読書欄をひらいて、
二冊注文してしまいました(笑)。

一冊は
加藤徹氏が書評をしている西村智弘著
「日本のアニメーションはいかにして成立したのか」
(森話社)。
はい。加藤徹氏の書評の最後はこうでした。

「漫画アニメとアート志向のアニメーション作品に
対する位置づけが、日本と世界で逆転している、
という著者の指摘は興味深い。アニメも日本文化も、
過去100年、予測不能の進化を続けてきた。
さて次は。本書を読むと、わくわくしてくる。」


はい。どう逆転しているのか?
さて、どうわくわくしてくるのか?
気になるじゃありませんか(笑)。

あと一冊は
藤原辰史氏が書評している
多田朋孔、NPO法人地域おこし著「奇跡の集落」
(農山漁村文化協会)

さてっと、書評のはじまりとおわりとを引用。

「新潟県十日町市の池谷集落の『奇跡』を描いた本である。」

書評の終わりは、というと

「ところで、私が本書を選んだ最大の理由は、
彼の配偶者の秀逸なエッセイである。
『猛吹雪、虫刺され、無謀、話すのも嫌、
外堀固められる、迷惑な話』・・・・・
移住先と夫への反発や違和感を、
この集落の魅力とともに妻が淡々と書く。
この作業が実は最も大事なのかもしれない。」

はい。
最も大事な「この作業」を読んでみたくなりました(笑)。


新年のひと月は、新刊本代を気にもせず。
晴れ晴れと(笑)。


コメント (2)
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