和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

富士正晴、道元を読む。

2023-09-01 | 正法眼蔵
富士正晴評論集「贋・海賊の歌」(未来社・1967年)が届いている。
「小信」と題する詩からはじまっておりましたので、その詩のはじまりを引用。

「 数え五十三になった
  なってみれば さほど爺とも思えず
  思えぬところが爺になった証拠だろう
  他の爺ぶりを見て胸くそ悪くてかなわず
  他の青春を見て生臭くてかなわず
  二十にならぬ娘たちをながめて気心知れぬ思いを抱く
  爺ぶるのが厭で しかも爺ぶってるだろう
  やり残している仕事が目につく
  日暮れて道遠しか
  ばたついて 仕事はかどらず
  気づいて見れば ぼおっと物思いだ
  数え五十三になった
   ・・・・・・


はい。4ページある、これが最初のページの活字。
もとにもどって、目次を見ると『道元を読む』というのがある。
うん。富士正晴氏は道元をどう読むんだろうという興味がわく。
それじゃあと、そこから引用しておくことに。

「・・・わたしは道元の書いたものを読むことが好きであった
 ( 道元の思想を研究していたとか、禅に志したというような点は
   少しもなくて、道元の文章を享楽していたのだろう )。

  そして又、20年近く振りに今それを引っぱり出して読んで見ても  
  一種の爽快さと、一種の困惑と、一種の尊敬とを感じることは同じだ。
  ・・・・

  わたしは美しい自然や、美しい詩や、美しい音楽に
  接するような気持で道元の文章を読むだけだ。
  ひどく難解なために退屈するところがある・・・
  
  あちこちすっとばしながら目をさらしている内に、
  ひどく純粋な感動を受けるところに突き当ればわたしは幸福なわけである。

  ・・・道元の文章の中で、一つの言葉は使用されている内に
  実に多くの面に向って輝いて展開する。その輝きの交叉のなかから
  浮び上ってくるものを感じることが好きだからわたしは時々道元を
  読みたくなるのだろうと思う。思いはするが必ずしもその本を開かず、
  その輝きの交叉を頭に思い浮かべていい気持でいるだけで
  済ますことが多い・・・・・  」

こうして8ページの文は、後半をむかえます。

「 一つの言葉が次々に新しい面を現わしながら、
  展望を広く深く組み上げてゆく有様は、わたしに
  何か一つの透明で巨大な詩が現われてくるような感じを与える。

  その論法のスピードの緩急の良さが
  どうして現代日本の評論のやり方にこれが取り入れられて
  生かされないかいつも不思議である。・・・・・

  ・・道元の文章を読んでいても、
  その感動させるもの、刺激してくるものの質が詩に近くて、
  小説に実に程遠い感じがしてならない。・・・

  わたしは道元を読んで、実は道元の文章の中の
  詩を一、二、つまんでいるのにすぎないようだ。

  道元の散文に詩が含まれているほどには、
  彼の作った歌には詩がない。

  散文に於いて詩的であり、歌に於いてははなはだ散文的だった・・
  全く奇々怪々な奥知れぬ魅力を感じずにいられない。・・・ 」
                  ( p44~51 )


うん。道元を自分の言葉にしてしまう妙技に
思わず拍手したくなりました。

はい。富士正晴の雑文集が5冊揃いました。
読んでも読まなくてもとりあえず本棚並べ。
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草は嫌でも繁りはびこる。

2023-06-10 | 正法眼蔵
平川祐弘氏は1931年7月11日生まれ。現在91歳。

産経新聞2023年6月6日正論欄に、その平川氏の文がありました。
そのオピニオンの最後の方を引用。

「 ・・・世界を広く見渡して、こう述べたとき、
  教室ですぐ反応した内モンゴル出身の留学生がいた。

  ・・・あれから30年、そのテレングト・アイトル氏が
  大著『 超越への親密性――もう一つの日本文学の読み方 』を
  北海道学園大学出版会から出した。比較文化を日本語で雄弁に論じる

  ・・・アイトル教授は敵味方の戦没者に対する
  日本人の『 怨親平等 』の心にふれる。

  ・・・仙台市にある善応寺の『 蒙古の碑 』の献句碑には、
  大陸にはおよそ見られない。こんな句もある。

    蒙古之碑囲み花咲き花が散る。

  もし今後、新しい『 江南軍 』が九州南西へ襲来したらどうするか。
  
  文学・俳句は現実・歴史を超え、より超越的なものを求めると教授はいう。
  戦士の散華をいとおしむ里言葉の句を読むうちに、
  有事の際は敵味方の差別なく平等に死者を葬りたい。
  私はそう感じた。  」


うん。ここでテレングト・アイトル氏の大著を読めばよいのでしょうが、
それはそれ、私はいつ読むのやら。

ここは、葉を繁らせるように、思いを馳せます。

献句碑の『 蒙古之碑囲み花咲き花が散る 』から
わたしに思い浮かんできたのはというと、

道元の現成公案にある言葉でした。

「 華は愛惜(あいじゃく)にちり、
  草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。 」

はい。増谷文雄氏の現代語訳では

「  花は惜しんでも散りゆき、
   草は嫌でも繁りはびこるものと知る。 」

      ( p41 講談社学術文庫「正法眼蔵(一)2004年 」

『 超越への親密性――もう一つの日本文学の読み方 』を
きちんと根をはるようにして読み、当ブログで紹介できますように。
 
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自在とは本来、禅語だった。

2023-05-25 | 正法眼蔵
講談社学術文庫に、増谷文雄全訳注の「正法眼蔵」全8巻がある。
すぐ飽きる私は、これが読み続けられない。
読めないながら、本棚に鎮座しております。
はい。いつかは、読もうと思うばかり(笑)。

ですから、道元と聞くと、ちょい気になるのでした。
すぐ飽きるのですが、それなりに興味がわいてくる。

司馬遼太郎に「道元と須田さん」という文がありました
(「司馬遼太郎が考えたこと 12」新潮文庫)から引用。

司馬さんは、道元についてこう簡単に記しております。


「 24歳で入宋し、26歳でかの地の天童山で如浄(によじょう)に会い、
  28歳で帰国し、30歳をすぎたころ『正法眼蔵』の著述にとりかかっています。

  しかしながら、その文章はまことに独自なもので、しばしば、
  道元が手作りで創りあげた勝手な言語表現ではないか、
  と溜息が出るほどのものです。
  道元は、漢文で書かず、日本文で書いたのです。

  当時の日本語の文章は、叙情や叙事においては
  すでに何不自由ないものとして発達していましたが、
  
  抽象的な観念を表現するには、言語として未熟でした。
  というより道元以前に、日本語によって大規模に
  思想を表現した例はないにひとしかったのです。

  本来、中世日本語が思想表現にむかなかったのに、
  道元がそれを思いたったのが『正法眼蔵』の
  企(たくら)まざる雄図でありました。

  その上、道元は、その文章でもわかるように、
  うまれついての思想家であり、
  それを思索しつづけるほど、
  強烈な英気を持っていました。
  かれは思索しぬいた人です・・・・

  かれは、未熟な段階の日本語に、
  豊富で綿密な思想をのせてしまったのです。

  道元の言語は掠奪者のように、古い漢文や仏典から
   ――古い建築から古いレンガを外すように――
  その場その場の思索の表現にもっともふさわしい言語を
  ひつ剥がしてきて、しばしば意味まで自分流に変えて、
 
  いきいきとした新品のことばとして再生させました。
  それでも追っつかず、中国留学中に耳目に入った当時の
  現代中国語まで日本語に仕立てなおしてつかったのです。
  ・・・・・・

  道元の表現者として勇敢さは、
  技巧上の大胆さということではありません。

  おそらくいのちを言語に叩きこんで、
  叩きこむことで自分の思索をたしかめたい、
  という切迫した動機から出たものだと思います。

  十に三つぐらいは他者にわかるように、
  という願いも感じられます。
 
  あと七つはわからなくてもいい、
  という思いつめも感じられます。・・・・   」(p413~415)


この文を、引用してパソコンに打ち込んでいると、
ああ、司馬さんは須田剋太さんのことを語っているのだなと
つい、須田剋太画伯の装画を思い浮べながら引用しています。

「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫に
『真の自在(「須田剋太展」)』(平成元年)と題する文が載っております。
その文の最後も引用したくなりました。

「この人(須田さん)は曹洞禅の道元に参じ入って半世紀ちかいが、
 すでにひたるようにして道元の世界にいる。

 刻々矛盾の中にいながら、刹那に矛盾を解きあかし、
 つねにあかるく自己を解放している。
 自在とは本来、禅語だった。・・・・     」(p289・文庫)



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諸山雲にのり、天をあゆむ。

2021-02-28 | 正法眼蔵
「正法眼蔵」の山水経の巻をひらいたので、
山水経における、大宋国についての記述も言及しておきます。

はい。もちろん増谷文雄氏の現代語訳から

「・・・いまの宋土の諸方におおく、
わたしも目のあたりに見聞したことがある。かわいそうに
彼らは、思惟(しい)は言語であることを知らないのであり、
言語が思惟をつらぬいていることを知らないのである。

わたしはかつて宋にあったころ、・・・・
誰がそんなことを彼らにおしえたのか。
本物の師がなかったから、おのずからにして
外道(げどう)の見解におちたのであろう。」(p28~29)

「いまの大宋国には、一群の杜撰(ずさん)のやからどもが
はびこっていて、すこしばかり本当のことをいっても、
いっこうに打撃をあたえることができぬ有様である。

彼らは・・・・もろもろの思惟にかかわれる語話は、
仏祖の禅話というものではなく、理解のできない話こそ
仏祖の語話だというのである・・・・

そのようなことをいう輩(やから)どもは、
いまだかつて正師(しょうし)にまみえたこともなく、
仏法をまなぶ眼もなく、いうに足りない小さな愚か者である。

宋国では、この二、三百年このかた、
そのような不埒なにせものの仏教者がおおい。
こんなことでは仏祖の大道はすたれてしまうと思うと悲しくなる。

彼らの解するところは・・・・
俗にもあらず、僧にもあらず、人間でもなく・・・
仏道をまなぶ畜生よりも愚かである。

汝らがいうところの無理会話とは、
汝らにのみ理解できないのであって、
仏祖はけっしてそうではない。
汝らに理解できないからとて、
仏祖の理路(りろ)はまなばねばならないのである。

もしも畢竟(ひっきょう)するところ
理解できないものならば、汝がいうところの
『理会(りえ)』ということもありえないのである。」(p28)


この箇所について増谷文雄氏は、開題でこう指摘しておりました。

「この巻において特に注目していただきたいことがある。
それは、この巻の前半、雲門のことばの『東山水上行』なる句
を釈する条(くだり)において、

禅話の理会(りえ)・無理会(むりえ)について論じていることである。
理会とは、今日のことばをもってすれば、おおよそ理解というにあたる。

しかるところ、今日もなおしばしば聞き及ぶところであるが、
仏祖の禅話はもともと判らないものであるという。
それが禅家の常套語(じょうとうご)である。

それに対して、道元は、そのような言説は
『杜撰(ずさん)のやから』どものいうところであって、
『禿子(とくし)がいふ無理会話(むりえわ)、なんぢのみ無理会なり。
仏祖はしからず。なんぢに理会せられざればとて、
仏祖の理会路(りえろ)を参学せざるべからず』という。

そこには、世のつねの禅家とは、まったく異なれる
道元の立場があることが知られる。」(p15)

以上。講談社学術文庫「正法眼蔵(二)」(増谷文雄全訳注)
からの引用でした。

はい。道元が『かつて宋にあったころ』のことが、
その状況を、見聞とともに語られているのでした。
そして、このあとに
「『東山は水上を行く』とは、仏祖の心底だと知らねばならぬ」
として山水経へと踏みこんでゆくのでした。

ということで、次の箇所は原文から引用。

「しるべし、この東山水上行は、仏祖の骨髄(こつずい)なり。
諸水は東山の脚下に現成(げんじょう)せり。このゆゑに、
諸山くもにのり、天をあゆむ。・・・・・」(p26)


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「東山は水上を行く」

2021-02-27 | 正法眼蔵
本のネット検索は、『日本の古本屋』をよく使います。
昨日も、今西錦司で検索すると、著書以外にも、
対談本や、意外な本がでてきたりします。
たとえば、
「不滅の弔辞」(集英社・1998年)というのが出てきた。
うん。これならば、本棚にありました。
はい。未読本で、ねむっておりました。
ひらくと、今西錦司氏への3人の弔辞が載ってる。
ここには、谷泰氏の追悼の言葉のはじまりを引用。

「それは、まだわたしが20代後半のことでした。
京都の北山での山行に誘われ、野宿した晩、
焚火を前にして、先生はふと、

『大きな岩でもな、根気ようなん度でも
 押したり引いたりし続けたら、
 動きだして、転がせるもんや』

と言われました。それは、若いものへの
ひとつの人生知の教えという響きをもってはいました。
ただ、どこかで聞いたことのある格言や警句の引用ではなく、
その表現の生々しさは、山かどこかでのご自分の経験に照らしつつ、
自分の人生を語ったものという印象をあたえました。

・・・・行動的ナチュラリストとして、
先生の生物的自然についての言明は、直接的観察にもとづきつつ、
強靭な思索に裏打ちされており、それを理解するのに、だれか
他人の理論や主張を想定しても無駄でした。

そして、それに太刀打ちするには、わたしたち自身、
自分の眼をもって直接経験の世界に向かう以外にはない、
そんな力をはらんでいました。
もしかしたら、そのとき先生は・・・・」(p72)

はい。弔辞ですから、居並ぶ方々が、聞いていたことでしょうね。

「大きな岩でも…動きだし」といえば、
そういえば、『正法眼蔵』に山水経という巻があるのでした。
講談社学術文庫の増谷文雄訳『正法眼蔵(二)』に載っております。
うん。ひらいてみると、こんな箇所がある。
『東山水上行の句を論ずる』を、現代語訳で引用してみます。

「雲門匡真(うんもんきょうしん)大師は、
『東山は水上を行く』といった。・・・・・
 ・・・・・・
さて、この『東山は水上を行く』とは、
仏祖の心底であると知らねばならぬ。
もろもろの水は諸山の脚下に現われる。

だから、諸山は雲に乗って天をあゆむのである。
もろもろの水の頂きは諸山である。のぼるにも、くだるにも、
その行歩(ぎょうほ)はともに水上である。

諸山の爪先はよくもろもろの水を踏んであるき、
もろもろの水はその足下にほとばしり出(い)でる。
かくてその運歩(うんぽ)は縦横自在にして、
もろもろの事が自然にして成るのである。・・・・」(p29)

もう少し先をいそぐと、こんな箇所もあります。

「さて、世間にあって山を眺める時と、
 山中にあって山と相逢う時とでは、
 その顔つきも眼つきもはるかにちがっている。
  ・・・・・・
 『山は流れる』という仏祖のことばをまなぶがよいのである。
 ただ驚き疑うにまかせておいてはならぬ。」(p43)

ちなみに、この巻の巻頭に増谷氏の解説がつくのですが、
そのかなでは、こうありました。
 
「なるほど、道元の文章はむつかしい。
特にこの『正法眼蔵』は難解至極である。・・・・

だが、わたしどもは決して、ついに理解しがたいものを
読んでいるのでも、訳しているのでもない。
道元その人もまた、なにとぞして理解させようとして、
語をかさね句をつらねているのである。
繰り返し繰り返しして読んでいると、
その気持がよく判かるのである。・・・・

そのような仏教の見地から、凡情をとおく越えた山の見方、
水の考え方が、つぶさに解説される。・・・・

さらに、山水が大聖の居ますところであることが、
事例をもって語られたのち、『かくのごとくの山水、
おのづから賢をなし聖をなすなり』と結語せられる。
それがすなわち、山水こそ経であるとする
この一巻の趣としられるのである。」(~p16)

うん。引用を重ねるたび、伝えにくさが加わる感じですが、
谷泰氏の弔辞の言葉から、正法眼蔵の山水経が思い浮かびました。

もどって、『不滅の弔辞』には、各方々の弔辞の前に、
その「人と功績」が記載されております。
今西錦司のページは、「人と功績」の下に、
「山を愛し、自然から学問を学んだ独創性の学者」とありました。
最後に、そこからちょっと引用。

「今西は京都・西陣の織元『錦屋』の跡とり息子として生まれる。
幼いころから自然の魅力にとり憑かれ、旧制京都一中に入学するや、
同級生らと登山のグループ『青葉会』を結成、これがのちの
〈 アルピニスト・今西 〉の原点となった。

京都帝国大学に進むと、『趣味と学問を一致させられる』と
農学部で昆虫学を選ぶ。最初の研究テーマは水生昆虫の調査だった。
このとき、彼は研究室から飛び出し、谷歩きの中から調査と研究を
重ねている。後年、今西は『学問は人からではなく、自然から学んだ』
と語っているが、その最初が水生昆虫の調査だった。・・・・」(p67)


うん。『凡庸をとおく越えた山の見方』というのは、
そのままに、83歳で1500登山を実現したという今西錦司の
山の見方でもあったかのようです。

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千載(せんざい)にあひがたし。

2021-02-21 | 正法眼蔵
道元著「正法眼蔵」のなかの、
「仏道」巻をせっかくめくったので、
興味ぶかい箇所をとりあげてみます。まずは、
その前に、道元が宋に渡るまでを順をおって辿ります。

「道元は、14歳にして叡山で剃髪したが、
その翌年にはもう山を降りた。・・・・
『正法眼蔵随聞記』の第4巻によれば、
『終に山門を辞して、遍く諸方を訪ひ、道を修せしに、
建仁寺に寓せし中間、正師にあはず、善友なく故に、
迷て邪念を起しき』とみえる。・・・・

その迷える道元を救ってくれたのは、栄西の法嗣明全との出会い
であった。その時、道元は、はじめて、仏祖正伝の仏法を語る
禅のながれに触れることを得たのである。

そのころ、彼が明全によって伝え聞くことをえた建仁寺の
故僧上すなわち栄西の言行は、しばしば、若くして求道の
志にもえる彼の心をうった。・・・・・

おなじ思いの師の明全をうながして、直往して宋に渡った。
明全は40歳、そして、道元はなお23歳であった。
・・・・『・・五宗の玄旨を参究せんと擬す』・・・・
彼が入宋以来その時まで参究せんとしていたものは『五宗の玄旨』
であったと知られる。・・・・

いうまでもなく、ここに『五宗』といい、かしこに『五門』というは、
おなじく、いわゆる『五家』を指さすものであって、しかも、そのなか
においてもっとも大いなるものは、ほかならぬ臨済宗であった。

『・・・・いはゆる法眼宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。
見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、
ただ一仏心印なり』それが、道元の見たかの地における禅の現勢
であったといってよろしい。

しかるに、道元は、はからずも、やがて『先師古仏』すなわち
天童如浄にまみえて、参学の大事を了得し、故国に帰ってきた。
つまり、彼は、臨済のながれではなくて、曹洞のながれを汲ん
だのである。『いささか臨済の家風をき』いてここに到った彼が、
いまは曹洞のながれのなかに立つこととなったのである。」
( 増谷文雄著「臨済と道元」春秋社p17~20 )


こうして、曹洞宗の道元なのですが、
『正法眼蔵』の第49『仏道』をひらくと、
仏法としての、視界がはれてゆき、
ひらけてゆくのを覚えるのでした。


『仏道』から、天童如浄のことばを引用している箇所。

「先師なる如浄古仏は、上堂して衆に示していった。
『このごろ、そこらあたりのあれやこれやが、しきりと、
雲門(うんもん)・法眼(ほうげん)・潙仰(いぎょう)
臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)など、
いろいろ家風のわかちがあるというが、
そんなのは仏法ではない、祖師道でもない』

このようなことばは、千歳にも遇いがたいものである。
先師にしてはじめていいうるところである。
ほかではとても聞きえないところで、
この法席にしてはじめて聞きうるところである。

だがしかし、その席につらなった一千の雲水のなかにも、
そのことばに耳をそばだてる者はなかった。
それを理解するだけの眼識ある者もなかった。
ましてや、心をそそりたてて聞く者もなく、
ましていわんや、その身をこぞって傾聴する者もなかった。
・・・・・・・
わたしもまた、まだかの先師なる如浄古仏を礼拝しなかった以前には、
かの五宗の家風を学び究めたいと思っていた。・・・・」
     (講談社学術文庫「正法眼蔵(五)」p90~91)

はい。如浄古仏の言葉の次からを原文で
あらためて引用してみます。

「この道現成(どうげんじょう)は、
千載(せんざい)にあひがたし、先師ひとり道取(どうしゅ)す。
十方にききがたし、円席ひとり聞取す。しかあれば、
一千の雲水のなかに、聞著(もんじゃく)する耳朶なし、
見取する目睛(がんぜい)なし。いはんや心を挙してきくあらんや。
いはんや身処に聞著するあらんや。たとひ自己の渾身心に
聞著する億万劫にありとも、先師の通身心を挙坫(こねん)して、
聞著し、証著し、信著し、脱落著するなかりき。
あはれむべし・・・・・」(p88~89)

この『仏道』巻を増谷氏は、原文・現代語訳してゆくまえに、
「開題」と題して、ていねいに解説しております。
そこからも引用して終ります。

「この一巻(仏道)の内容とするところは、
かなりながいものであるが、しかし、
そのいわんとする趣きは、きわめて明快である。
つまり、仏道には宗派の称などあるべからざるものだ
ということをずばりと説いているのである。

・・・・仏祖正伝の大道を、ことさらに禅宗などと称するのは、
それは仏教そのものがまるで解ってはいないのだというである。
・・・・
そのことを道元は、それぞれの祖師がたについて一人ずつ
証(あか)ししてゆくのである。ともあれ、まったく
至り尽したことであるというのほかはあるまい。」(p70)







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ヨーガと禅。

2021-02-20 | 正法眼蔵
増谷文雄著「臨済と道元」(春秋社・1971年)に
ちょっと、禅とヨーガに触れた箇所がありました。
そこを紹介。

「禅とは、梵音〈ディヤーナ〉を音写して〈禅那〉となし、
さらにそれを省略して〈禅〉となしたものである。
意訳すれば、定もしくは静慮である。

それは、かの『ヨーガ・スートラ』に説くところの
ヨーガの支則の一つであって、『そこにおいて
意識作用が一点に集中しつくす状態が静慮である』
と定義されている。

その『ヨーガ・スートラ』の説くところは、
インドの思想家たちの諸派に通ずる実践論であって、
仏教もまたはやくからその修行法を採用していた。・・・」
(p52)

この箇所は、増谷文雄氏が『正法眼蔵』の第49『仏道』の巻
にふれながら指摘されているのでした。
それならばと、講談社学術文庫の『正法眼蔵』の目次を
さがしてみると『正法眼蔵(五)』に『仏道』があります。
そこの増谷文雄氏の現代語訳で、この箇所を引用。

「石門の『林間録』にいう。
『菩提達磨は、はじめ梁から魏にいたった。
崇山(すうざん)のふもとをあるいて、少林寺にいたり、
そこに杖をおいたが、ただ面壁して端坐するのみであった。
それは習禅ではなかった。だが人々はひさしくその故を
測りしらなかったので、達磨をもって習禅の人となした。

いったい禅那とはもろもろの行の一つにすぎない。とうてい
それをもってこの聖人のことごとくを尽くすことはできない。

だが、当時の人はそれを知らないから・・・
達磨をもって習禅の列につらね、枯木死灰(こぼくしかい)の
やからにいれてしまった。

しかしこの聖人はけっして禅那にとどまるものではなかった。
しかもまた禅那にたがうものでもなかった。・・・・』」
(p77)


このあとの、禅への考察には、惹かれるのですが、
煩雑にわたりますし、わたしはもう満腹です。
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初めての坐禅。

2021-02-19 | 正法眼蔵
家で、とりあえず数分坐禅をしてみる。
お尻の方に座布団をおいて、坐りやすくする。
ときどき、思いついてするので、たよりない。

さてっと、そういえば、道元の正法眼蔵に、
坐禅についての箇所があるに違いないと、
まあ、そんなことを思うのでした。

講談社学術文庫の増谷文雄全訳注『正法眼蔵』の
目次をパラパラとひらいてゆくと、『正法眼蔵(三)』の
目次に『坐禅箴(ざぜんしん)』とある。
はい。そこだけを、それも現代語訳だけをめくってみる。
数分坐禅と、一部分のパラパラ読みと、
こういうのを、ちかごろ恥としないのは、
これはもう、年をくったということでしょうか。

さっそく、興味をひく箇所がありました。

「南嶽(なんがく)はまた示していった。

『なんじは坐禅を学んでいる。それは坐仏を学んでいるのだよ』

そんなことばをよくよく思いめぐらして、
仏祖の教えの機微を学びとるがよい。・・・・・・

正伝につながる仏者でなかったならば、とてもとても、
このような学坐禅は学坐仏なのだといい切ることはできまい。

まことにや、初心の坐禅は、初めての坐禅であり、
初めての坐仏であると知るがよろしい。」(p189)


はい。わたしは、これだけで満腹。
これ以上、読めなかったりします。

「坐禅箴」のすこし先の方には、こうもあります。

「仏の光明というのは、
 一つの句を聴いて忘れないのがそれであり、
 一つの教えを保ち守るのがそれであり、
 坐禅を直々に伝授するのがそれである。
 
 もしも仏の光明に照らされるのでなかったならば、
 それらを保ちつづけることも、信じ受けることも
 できないのである。

 そういうことで、古来からのことを尋ねてみても、
 坐禅の坐禅たるゆえんを知るものは少ない。・・・・」
 (p198)


うん。このくらいにして、さて、今日は、
我流の坐禅を、何分ぐらいできるかなあ。

コメント (2)
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禅の、くさむら。

2020-08-26 | 正法眼蔵
「増谷文雄著作集⑨」に
中国民族と禅宗の関連を指摘した箇所があり、印象深い。

「・・・インド=アーリアンの思想的特色は、
分析的であり、論理的であることにある。したがって、
本来の仏教は、そのような傾向がつよい。
人間を分析して考える。認識の過程を分析して考える。
あるいは、修行の道程を幾段階にもわかって考える。
その仏教をそのままに受けとってみると、それは、わたしどもにも、
名目法数(みょうもくほっすう)のくさむらであるかに思われる。
しかるに、中国民族の思想的特色は、具体的であり、直観的であり、
また現実的である点に存する。その思想的特色をもって、かれらは、
しだいに、仏教を自己にふさわしいものに変容せしめた。
その傾向を端的にしめしているのは、ほかならぬ禅なのである。」
(p291)

「名目法数のくさむらであるかに思える」とあったのでした。
そうそう、「くさむら」といえば、
道元の現成公案(げんじょうこうあん)のはじまりの方に
忘れられない言葉がありました。

「華は愛惜(あいじゃく)にちり、
草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。」

この原文の、増谷文雄訳は

「花は惜しんでも散りゆき、
草は嫌でも繁りはびこるものと知る。」

増谷文雄氏は、「現成公案」の巻を説明するにあたり、
こう指摘されておりました。

「この一巻は、別に衆に示されたものではなく、ただ書いて、
これを『鎮西の俗弟子柳光秀』なるものに与えたものと知られる。
・・・・おそらくは、『正法眼蔵』の数多い巻々のなかにあっても、
まさに白眉となし、圧巻のものといって、けっして過言のとがめを
受ける懼(おそ)れはあるまい。」
(p38「正法眼蔵(一)」講談社学術文庫)

ちなみに、増谷文雄氏は「正法眼蔵(二)」で、
こんな指摘をしております。

「道元がこの『正法眼蔵』の巻々において、
しばしば試みている手法をあかしておきたいと思う。
道元は、まず、その冒頭の一節において、ずばりと、
そのいわんとするところを凝縮して語りいでる。・・・

幾度もいうように、この『正法眼蔵』の巻々は、総じて、
まことに難解である。まさに難解第一の書である。だが、その
難解にめげずして、さらに幾度となく読みきたり読みさるうちに、
ふと気がついてみると、その難解さは、しばしば、その冒頭の
一段において極まるのである。何故であろうかと思いめぐらして
みると、結局するところ、そこに、いまもいうように、もっとも
凝縮された要旨がずばりと語りいだされているからである。」
(p198~199・講談社学術文庫)

はい。ここでは現代語訳は避けて
現成公案の冒頭の一段を原文で引用しておきます。

「諸法の仏法なる時節、すなわち
迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、
華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」

増谷文雄氏は、その凡例で指摘されておりました。

「かならず原文を読んでいただきたい。
朗々と吟誦すべき生命のことばは、あくまでも
原文のものであることを、わたしは声を大にして
言わねばならない。」

はい。これであなたも、
道元の『正法眼蔵』の原文に、
わずかでも触れたことになり、
わたしは、ここからスタート。

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物にはなりませんわい。

2020-08-25 | 正法眼蔵
「それは貞応2年(1223)の春のこと、
道元は、師の明全にしたがって、宋に渡った。
なお23歳のころのことであった。・・・
そのころの彼には、『この国の大師等は土瓦のごとく』
におぼえて、ひとえに、『唐土天竺の先達高僧』たちに
ひとしからんとする念がもえていた。それは、つまるところ、
ほんとうの仏教とはなにかと訊ねいたる心であって、
その一心のゆえに、万波を越えたのである。」
(p82「増谷文雄著作集⑪」)

こうして、碇泊した船に、かの地の僧が椎茸を
買いにやってくる。その僧はことし61歳だという。

「その時、道元はまだ23歳の若僧であった。その若僧が、
すでに60歳をこえる老典座に向かって、

『座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人の話頭を看せずして、
煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚の好事か有る』

と詰問した。まさに、青年客気のことばである。
その詰問は恥ずかしいものと思えば思うほど、
忘れることのできないものであったに違いあるまい。
かの老典座は、呵々(かか)として笑っていった。

『外国の好人、未だ弁道を了得せず、
 未だ文字を知得せざること在り』

日本からおいでのお若いのは、まだ仏教というものが
おわかりになっていないようだ、というのである。
それを聞いた道元は・・・・心が仰天するような思いをして、
では、いったい、仏教とはどんなことでありましょうかと、
取りすがるようにして問うた。すると、かの老典座の答えは、

『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈(あに)その人に非ざらんや』

というのであった。蹉過というのは、躓(つまず)きころんで
通りすぎるというほどのことであろう。そこのところは、
躓きころんで自分で越えてみなければ、物にはなりませんわい、
というほどのことであったが、その時の道元には、その意味すらも、
よく合点がゆかなかったという。だがそのことばは、いつまでも、
彼の耳の底にあってとどろきつづけたにちがいない。そして、
いま彼は、それをそのまま、中国語のままにここに再現している
のである。この一節は、そのような一節であって、わたしどもが
読みなれた日本人の漢文の行文とは、
まったくその類を異にしているのである。」(p340~341・同上)

この『典座教訓』の箇所を増谷文雄氏は
あらためて、こう記しておりました。

「それは、すばらしい場面であり、また、すばらしい文章である。
わたしもまた、幾度となく読み、幾度となく味わいいたって、
いまでは、ほとんど諳んじるまでにいたっている。時におよんでは、
その幾句かを暗誦して思うことであるが、この一節のなかにみえる
道元とかかの老いたる典座との対話の部分は、おそらく、その時の
中国語による対話を、ほとんどそのままに再現したものであろうと思う。
道元がこの『典座教訓』一巻を制作したのは、嘉禎3年(1237)の春、
・・・興聖寺においてのことである。・・すでに足かけ15年の歳月が
ながれている。だが、道元にとっては、その出会いとその対話とは、
生涯わすれえぬものであったにちがいないであろう。」(p340・同上)

う~ん。躓(つまづ)くといえば、
大谷哲夫全訳注「道元『宝慶記』」(講談社学術文庫)の
「はじめに」で、大谷氏は

「道元の仏法を学びたいと思いながら、
『正法眼蔵』『永平広録』に挑戦し、
躓き、それに頓挫し、あるいはそれを諦めている人びとに、
筆者は、まずは『宝慶記』の精読をすすめたい。

それは、若き道元の熱き求道の志が、そこに展開している
からである。さらにいえば、後の、現代にいたる日本が矜持すべき、
日本人たるきわめて鮮烈な精神の原点がそこにあるからである。
日本の新しい文化の展開は、道元の飽くなき求道の志気にこそ
あるのである。
『宝慶記』は、わが高祖道元が如浄に実参実究した室中の奥書である。・・・」
(p12~13)

ちなみに、道元が会った如浄の年齢は65歳でした。

はい。すぐつまづき、読むのを忘れているのですが、
このブログへと、引用を通じて読み進めますように。


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いうことなかれ。

2020-08-22 | 正法眼蔵
道元の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読んでみたい。
そう思って本は買えど、未読のままになっておりました。

それはそうと、講談社学術文庫に
大谷哲夫著「道元『永平広録・上堂』選」がありました。
そのはじまりは
「わが国で初めての上堂(じょうどう)が行われたのは、
嘉禎2年(1236)陰暦10月15日、道元が京都深草に建てた
観音導利興聖宝林禅寺、通称興聖寺においてであった。
・・・・・
ところで、この上堂というのは、住職が法堂の上から
修行僧たちに法を説く禅林特有の説法形式で、多くの
禅者の『語録』はこの上堂語を収録している。・・・・」

この文庫の目次をパラパラとめくっていると、
「天童和尚忌の上堂」というのがある。
「天童和尚は道元の本師、天童如浄(にょじょう)のこと」
なので、気になってそこをひらいてみる。

現代語訳を以下に引用。
「天童和尚忌、寛元4年(1246)7月17日の上堂に、
道元は次のように偈頌(げじゅ)をもって示した。

 私が宋に留学して先師如浄のもとで仏道を学んだのは、
あたかも『邯鄲(かんたん)の歩』ということわざのように、
地方から大都市の邯鄲に出て、やがて都会風の歩き方をするうちに
田舎風の歩き方を忘れるのに似ている。

私は、如浄のもとで、日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に真実の仏法を見いだした。

それは、如浄が、修行者である私にたいして、
仏法とはこういうものだ、と欺いたのだなどと言ってはならない。
師の天童和尚こそが、私道元に欺(あざむ)かれて
真の仏法を教え示してくれたのである。」

原文は

「入唐学歩邯鄲に似たり
運水にいくばくか労し柴もまたはこぶ
いうことなかれ先師弟子を欺むく、と
天童かえって道元に欺かる。」

ここに、
「日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に
真実の仏法を見いだした。」

うん。学者肌で中国文献に通じ、
中国会話もペラペラだった道元が
水汲みや柴運びをしているのがわかります。

嘉禎3年(1237)の春、興聖寺において記された
『典座教訓(てんぞきょうくん)』があります。
ちなみに、典座とは禅院の台所方を務める者のことです。

ここは、増谷文雄氏の文から引用。

「船は商船であった。3月の下旬に博多を出て、
4月のはじめには無事に慶元府についた。・・・・
船は積んできた商品を売りさばくために、なおしばらく
碇泊していた。その船に、5月のはじめのこと、
ひとりの僧が椎茸を買いにやってきた。それは道元にとっては、
はじめて見るかの地の僧であったかもしれない。彼はよろこんで、
かの僧を自室に招じいれ、お茶をふるまって話をした。
聞いてみると、かの僧は、そこから程遠からぬ阿育王山で
典座の職にあるということであった。
『わたしは西蜀のものであるが、郷里を出からもう40年にもなる。
ことしは61歳ですよ。その間いろいろの禅林を訪れて修行したが、
いっこうに大したこともなかった。しかるに、去年の夏安居(げあんご)
あけに本寺の典座をうけたまわった。ちょうど明日は5月5日なんだが、
なんのごちそうもない。麺汁なりとと思うけれども、椎茸がない。
それで、わざわざやって来たのは、椎茸をもとめて、
雲水どもにごちそうをしたいからですよ』・・・」

このあとに、道元が御馳走するからとひきとめようとすると、
老典座は、どうしてもわたしが司(つかさど)らねばならぬという。

「そこで若い道元は、ずばりと遠慮のない問いをこころみる。
いや、それは詰問といったほうがよいであろう。・・・
あなたはもうお年である。それなのに、なぜ坐禅弁道にも専念せず、
古人の語録を読むこともせず、わずらわしい食事係などをひたすら
に努めて、なんのよいことがあるか、というのである。
ところが、それを聞いて、かの老いたる典座は、呵々大笑して
・・・・『外国からきたお若いかた』と呼びかけて、
あなたはまだ仏教のこともご存じないとみえる、といったのである。
・・・道元はもう必死にならなければならなかった。
『如何にあらんかこれ文字、如何にあらんかこれ弁道』と、
とりすがるようにして問うた。だが、そのとき、
かの老典座がいったことばは、
『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈その人にあらざらんや』
・・・・蹉とはつまずくということば。そこでじっくりと取り組んで、
つまずいてみるのもおもしろい。それではじめて物になるのだ。
そんな意味のかの老典座のことばであったと思われる。・・・」
(p82~85「増谷文雄著作集⑪」角川書店)

増谷文雄著作集⑨からの、引用。典座について。

「『・・・・・禅苑清規にいわく、衆僧を供養す、
ゆえに典座ありと。いにしえより道心の師僧、
発心の高きをあてきたるの職なり』

世の常識においては、賄方(まかないかた)などという食事の
ことをつかさどるものの地位は、けっしてたかいものではない。
しかるに、禅宗においては、それは六知事の一つとして、
きわめておもい役目である。そこには、中国人の仏教の把握のしかたの、
本質の一端があらわれており、また道元がかの地で学びえたいわゆる
『仏祖正伝』の仏法のかなめが存するのである。
 ・・・・・・
 そのなかにも流派を生じた。そのあるものは、
直観に重点をおいて、道場における坐禅修行に全力を集中する
傾向をしめした。臨済のながれがそれである。
また、あるものは、生活実践に重きをおいて、行住坐臥における
綿密な作法をもってゆかんとする。曹洞のながれがそれである。
そして、道元がこの国にもたらし、この民族のなかに
移し植えたものは、その後者であった。」(p290~292)


はい。正法眼蔵を読めなかった。
こうして、つまづいた場所からなら
正法眼蔵に、ゆっくりと取り組める気がします。
はい。発想だおれにならないよう、注意します。



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しかもその上書いて、成長する。

2018-03-23 | 正法眼蔵
竹中郁著「子どもの言いぶん」(PHP・昭和48年)をひらく。
まえがきには、こんな箇所。

「書くという作業は、もちろん
他人につたえるのが半分以上の目的ではある。
しかし、子どもの場合は必ずしも、
そうとばかりは限らない。
ひとりつぶやきのようなものを書くことが、
刺激となって、心が応じて成長するのだ。
躰はたべることで成長する。
たべて躰を動かすことで成長する。
精神の方は感じて考えて、
しかもその上書いて、成長する。

ここに集めた子どもの詩のようなもの・・
子どもが読んでも、大人が読んでも
感銘ふかい作が多いと思う・・・」

う~ん。
「子どもの詩なんて」という大人が、
思わず読みながら食いつきそうな箇所もあります。
それは(笑)。

「大正の子」という章。
大岡昇平・木俣修二・岡本太郎・田中英光
の子どもの頃の詩が掲載されているのでした。

うん。私には、興味がないので
そそくさと、次へ(笑)。

さて、この本の最後を引用しておきます。

「日本の子どもの作文能力、あるいは文学能力は、
アメリカやイギリスやフランスをさぐってみての上でいうと、
格段に優れているようだ。
日本には『ひらかな』という便利なものがあって、
その四十八文字をおぼえただけで、
口にのぼってくる言葉を書きつけることができる。
西洋の方はABCをおぼえても、それを綴りあわせて
一つの単語にし、それをまたセンテンスにしなくてはならない。
それが辛いかして、低学年では書きたがらないのだ。
大たい、どんな子どもでも、書く欲望はもっているものだ。
その口火を上手に切ってやるように仕向けるのは、
教師や父兄の責任である。同年輩の子どもの作をみせてやって、
はじめは真似ごとから出てもよいのだ。
子どもが書いたなら、その欠点をほじくらないで、
よいところを認めてやる方へ重点をおくのだ。
それが教育のこつである。

できれば、教師の場合なら、
毎日のように子どもと食事を一緒にするとか、
一緒に入浴するとかいうようにするのだ。
信頼と敬愛は立ちどころに子どもに湧いて、
子どものこころも口もほぐれるのだ。

そんな状態の中でなら、
詩文の教育はみごとな成果を挙げること、まちがいない。」


ちなみに、
杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)に
竹中郁への言及があります。

そうそう、その本の巻頭の写真には
杉山平一・竹中郁・足立巻一が並ぶ
素敵な写真が載っておりました。

さて杉山平一氏は、こう紹介しております。

「竹中郁が、二十歳そこそこでフランスに留学し、
マン・レイに会い、ジャン・コクトオを
わが国で最初に翻訳した人であり、
そのためフランス文学に傾倒していた堀辰雄と
親交があり、堀が主宰する『四季』に
竹中を最初から仲間として迎え入れた・・・」
(p194)

その竹中郁が書いた「子どもの言いぶん」。

杉山平一氏の文でもって、大人にも、
ちょっと興味を持ってもらえるなら、
引用した甲斐があるというもの。
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