和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

読書の蓄積の細道

2023-10-31 | 道しるべ
津野海太郎の本のはじまりを引用。

「3年まえに70歳をこえた人間としていわせてもらうが、
 60代は、いま思うとホンの短い過渡期だったな。

 50代(中年後期)と70代(まぎれもない老年)のあいだに
 頼りなくかかった橋。つまり過渡期。
 どうもそれ以上のものではなかったような気がする。

 読書にそくしていうなら、50代の終わりから60代にかけて、
 読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性(しょう)に
 あった本だけ読んでのんびり暮らそうと、
 心のどこかで漠然とそう考えている。現にかつての私がそうだった。

 しかし65歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち70歳。
 そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、
 本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうから
 バンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。

 のんびりだって?じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、
 いまはただ考えてもいないだろうと、60歳の私をせせら笑いたくなるくらい。 」

      ( p7  津野海太郎著「百歳までの読書術」本の雑誌社 )


はい。最後まで読んでから、この本のはじまりの、
この言葉をあらためて噛みしめることになります。

うん。今まで津野海太郎さんの本は読めなかったのですが、
この本を、あらためてもう一度パラパラとめくってみます。

たとえば、『渡り歩き』にふれてから、津野さんはこう語ります。

「・・・・・『老人読書』とは・・・
 高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。

 なぜ高齢者特有というのか。
 少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、
 それから『何十年かの時間が経過した』といえるだけの
 時間の蓄積がないからだ。・・・   」(p172)

さて。この本で『老人読書』は、どのような道筋だったのかと、
再度ひっくり返し読みたくなります。これも年齢の通り道かも。
老人読書の細道。どっこい。よろけながら踏み固め照らします。
コメント (4)
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なんじゃ、これは?

2023-10-30 | 幸田文
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)を
途中からひらき、最後まで読んでしまう。

あとがきの一行目は、

「 齢をとれば人間はかならずおとろえる。 」

あとがきの7行目は、

「 ――なんじゃ、これは? 」


俳優・斎藤晴彦さんを語った文の最後は、

「 『 せっかく生きてるんだから、ときどき会って話しましょうよ 』

 ところが、こんどはこちらが入院したこともあって、
 とうとういちども会えないままに斎藤さんは死んだ。

 したがって、これが私の最後にきいたかれのことばということになる。

 人はひとりで死ぬのではない。
 おなじ時代をいっしょに生きた友だちとともに、
 ひとかたまりになって、順々に、サッサと消えてゆくのだ。

 現に私たちはそうだし、みなさんもかならずそうなる。
 友だちは大切にしなければ。  」(p229)


ああ、この本は読書がテーマでした。
そこからも引用しておかなければね。

「 私は幸田文の随筆にえがかれた露伴像が好きで・・ 」(p235)

とあります。それに関連した箇所がp153に拾えました。
幸田文対談集にふれた箇所です。

「 山本健吉との対談で、文さんが、父は日ごろ
 
『 一つのことに時間をとって、まごまごしていては損だ 』

 とよく口にしていました。と語っている。
 それが『父』こと幸田露伴の読書法、もしくは勉強法だった・・

『・・・一つのところばかりに専念するのでなく、
 八方にひろがって、ぐっと押し出す。・・・・

 知識というのはそういうもので、一本一本いってもうまくいかない。
 ・・八方にひろがって出て、それがあるときふっと引き合って結ぶと、
 
 その間の空間が埋まるので、それが知識というものだという。 』

 本を読んでいて、これこそ、まさしく私はこういう文章が読みたかった
 のだと、感じることがよくある。このときがそうだった。そうか、

 露伴先生の読書は八方にひろがってパッと凍るのか。すごいね。

 もちろん露伴もだが、むかし父親が語ったことを、
 かくもキリリとひきしまったコトバで思いだせてしまう娘もすごいや 」
                    ( p153~154 )


はい。この本自体が、八方にひろがっていって、パッとつながっている。
そんな惹かれるものがありました。最後まで読めてよかった。
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読書も食欲も。

2023-10-29 | 短文紹介
はい。パラパラ読みです。
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に

興膳宏・木津祐子・齋藤希史「『朱子語類』訳注」(巻10~11・読書法篇)
からの引用があるのでした。

「おおくの弟子たちのメモによって再現した先生のおことばが245篇――。

  読書も食欲にまかせて

『 雑多なものを、時節もわきまえず、一気に食べれば、
  腹が突っ張って、どうしようもなくなる 』とか

『 いまの人の読書は、まだそこまで読んでもいないのに、
  心はすでに先に行っている(略)。
  気分がせかせかして、いつも追い立てられているようだぞ 』とか、

 どのおしえも身につまされ、どことなくユーモラスで、
 キビキビと気合がはいっている。
 とうてい800年もまえのものとは思えないくらい。 」(p67)


はい。よくぞ引用してくださいました。この頃、めっきり
食が細くなったのを実感してる当方としては、これで満腹。



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旅絵師安野光雅。

2023-10-28 | 絵・言葉
安野光雅さんの対談は楽しく読みます。
けれど、安野さんの絵は、おぼろげで、
こちらの興味も何だかボヤケがちです。

安倍謹也対談集「歴史を読む」(人文書院・1990年)に
対談相手として安野さんが出てきておりました。
その対談の最後には、こんな箇所。

安野】 ・・ところが旅絵師というのは私みたいなもので、
    言われれば何でも描く。いわゆる雀百態ですよ。

阿部】 それが本当の絵師じゃないですか。

安野】 江戸時代まで、昔の概念の絵描きはそうだった。
    何でも描かなければならない。因果な商売ですよ。(笑) p119

この対談は、題して『中世の影』。
対談で興味深い箇所も引用しておきます。

安野】 阿部さんのご本を読むと、昔は文字はあまり重要視されていなくて、
    絵でいろんなことを伝えたとありますが、あれはどの時代までですか。
阿部】 どの時代までということはありません。今だってそうです。
    ・・・・・

阿部】 教会が主な舞台ですが、当時の教会の祈祷書を見ると、
    文字は中心にちょこっと書いてあるだけで、
    まわりに絵がいっぱい描いてある。・・・・・・・

    司祭の説教が教会に来た農民にはわからないんです。
    今、われわれがお坊さんのお経を聞いてもわかりませんが、
    あれと同じで、退屈して一時間もたないんです。

    その時に絵を見る。それで退屈をまぎらすと同時に、
    イエスの一生、つまり救済の歴史を教えるために、
    教会の周りの壁にゴルゴダの丘までの歴史を描く。

    だからコミュニケーションの手段として、
    絵は非常に大きな意味を持っていたんです。
    それから合唱、身振り、手振り、行進とかね。

安野】 そうすると、教会のお抱え絵師みたいな人がいるんですか。(~p118)


はい。このあとも、興味深い会話がつづき、そして最後に、
旅絵師の安野光雅というお話で、対談が終了するのでした。




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徒然草の第141段。

2023-10-27 | 古典
西尾実著「つれづれ草文学の世界」(法政大学出版局・1964年)。
この注文してあった古本が届く。
雑誌や論文集に発表された22篇をまとめた一冊でした。
はじまりが昭和2年の文ですが、最初から読む気にならなくて、
まず開いたのは、戦後はじめての論文
「ひとつの中世的人間像」(昭和25年2月号「文学」)でした。

そのはじまりはというと、

「『つれづれ草』が、中世文学の一作品としてすぐれているひとつは、
 著者の人間把握の確かさに応じて、史上の、また、同時代の、
 さまざまな人間を把え、みごとな造型をしていることである。・・」(p109)

はい。この文でとりあげてるのは、堯蓮上人(第141段)でした。
うん。端折って引用してゆきます。

「堯蓮上人の印象について、『声うちゆがみ、あらあらしくて』
 とあるのを見ると、いかにも、坂東武者らしい風貌が髣髴される。」

うん。この第141段を紹介するのには、
安良岡康作著「徒然草全注釈下巻」(角川書店)から引用してみます。

「本段の前半は、上人の郷里の人が、

 『吾妻(あづま)人こそ、言ひつる事は頼まるれ、
  都の人は、ことうけのみよくて、実なし』

 と言ったのに対する、上人の吾妻人と都の人との比較論であるが、

 まず『 それはさこそおぼすらめども 』と一応相手の言を認めた上で、
 『己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに』と、
 自己の長い間の経験と観察とに立脚し、
 『人の心劣れりとは思ひ侍らず』と、都の人を認め、その理由として、
 『なべて心柔かに、情ある故に、人のいふほどの事、
  けやけく否び難くて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ』と述べて、

 都の人の心情の柔和さ・人情ぶかさを第一に指摘している。次には、
 『偽りせんとは思はねど、乏しく、叶わぬ人のみあれば、
  おのづから、本意通らぬ事多かるべし』と述べ、
 経済力の伴わないことが、約束を守りぬけない因由であることを指摘し、
 内・外から都の人の立場を理解し、弁護しているのである。
 ・・・  」

 このあとに、兼好の感想が述べられてゆくのですが、
 長くなるのでカットして、
 西尾実氏の文の重要な箇所の引用をすることに。

「古代から中世へと時代を転換させたのは、
 主として庶民的な、また、地方的なエネルギーであったに違いないが、
 その庶民や地方の社会的、文化的未成熟は、自主的な庶民社会を実現
 することもできなければ、健康な地方的文化を発展させることもできなかった。
 ・・・・・・

 だが、そういう中世文化は、
 基本的にいうと、ふたつの構造を示している。

 ひとつは、『つれづれ草』のこの人間像が示しているように、
 地方的、庶民的なものと、都市的、貴族的なものとの緊張した対立が
 生んだ止揚的発展であり、

 ひとつは、・・『義経記』や『曽我物語』における牛若丸や曽我兄弟が 
 貴族の公達化し、さらに、遊治郎化してさえいることの上に看取せられる
 ような、庶民的、地方的なものの貴族的、都市的なものへの
 安易な妥協であり、安価な屈伏である・・・・

 そのそれぞれの関係には、
 緊張した対立の止揚発展による新しい価値の創造もあれば、また、
 安易な妥協による成り上がり・頽廃もあるということになる。・・」(p114)

 こうして、西尾実氏が書かれた徒然草のことを思っていると、
 昭和25年の戦後統治下のことがダブって思い浮かぶのでした。

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おれも おめも

2023-10-26 | 詩歌
はい。パラパラ読みには、安い古本が何より心強い。

草壁焔太編「五行歌の事典」(東京堂出版・2001年)が古本200円。
さて、五行歌ってどんなのだろうと、ひらきます。
編者草壁焔太氏は「五行歌の会主宰」とあります。
まえがきをひらくと、こんな箇所がありました。

「五行歌という新しい詩型の抽き出したテーマも多い。
 つまりいままで歌われなかった詩歌で、この様式によって
 初めて書かれたものがある。

 妊娠、出産の時期の歌、孫の歌、自己に関する歌などは、
 ジャンルとして新成立のもの、現代を反映して生まれた
 ジャンルとしては、介護、高齢、国際世界などがある。」

「 最も簡単に言うと、五行歌は、①五行に書く、
  ②一行は一息の長さで、という二つの制約に尽きる。 」

「 メロディ、リズムというよりは、自分自身の呼吸が大切で、
  それが書く人の息、つまりいのちを伝える。・・・     」

「その結果、方言の歌が標準語以上の力を持ち、
 女性が男性以上に活躍し、幼児が大人を教え、
 九十過ぎの人が少年少女の憧れとなるような
 ・・・・・・・世界が生まれてきたのである。 」

今回、引用したくなったのは、
「方言の歌が標準語以上の力を持ち」という方言歌の例。

    おれも
    おめも
    自分だげ えばえ
    そただ生き方
    してねよなあ      (菊江寛 p156) 
 
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3冊

2023-10-24 | 絵・言葉
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)の
カバーの折り返しにあるところの著者略歴。
( ちなみに、カバーの絵は安野光雅 )
その最後に、

「・・2001年3月開館の津和野町立『安野光雅美術館』館長。」

とあったのでした。
うん。ここは『あとがき』から引用してみることに

「一人の編集者として、40年近く黒子の役割に徹してきて、
 今まさにその役割を終えようとするとき、はからずも
 この一書を書くことになった。・・・・・

 心惹かれる4人の画家と改めてじっくりと向き合い、そして
 『父との夏』で内側から見つづけた制作の現場を回想してみた。
 改めての父との対話である。・・・    」(p276~277)


そして、「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)の中の
大矢鞆音「安野光雅『絵のまよい道』を読みながら」は、こうはじまって
おりました。

「随分昔、夏休みはいつも父とともにあった。
 日本画家だった父は、冷房もない夏の日の一日を
 背中いっぱい、びっしりの汗をかきながら、
 秋の展覧会めざして描き続けていた。・・・ 」

こうして始まる回想は、安野光雅さんの若い頃の
油彩作品の個展にまつわるアレコレへとつながっておりました。

うん。その次に、安野光雅著「絵のまよい道」を購入。
「絵のまよい道」は1998年7月発行とあります。
司馬遼太郎は、つい1996年2月に亡くなっております。

年譜を比べると、
司馬遼太郎は1923年8月生まれで、
安野光雅は、1926年3月生まれでした。

安野さんは早生まれですから、学年でいうと2学年違い。
安野さんが、司馬さんが亡くなると同じ72歳の年齢まで、
きゅうきょ連載され、それが一冊の本になったのでした。

あらためて、『絵のまよい道』をゆっくりとひらきます。
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西尾実と大村はま。

2023-10-23 | 本棚並べ
長野県で、私が思い浮かべるのは、
大村はま、藤原てい(夫・新田次郎)の師弟関係です。
ということで、そこらですっかり忘れていたのですが、

先頃パラパラとひらいていた
西尾実著「作品研究つれづれ草」(学生社・1955年)の
著者略歴は、こうはじまっていたのでした。
「明治22年5月14日、長野県生まれ・・・」

ここは、西尾実年譜をひらき、はじまりの方
出生地の長野の関連を引用しておきます。

  明治22年(1889)長野県下伊那郡・・・生まれ。

  明治36年(1903)15歳大下条尋常高等小学校補習科を卒業、
  同郡下条村合原の医師、中島定雄方の薬局生となる。
  8月、兄寿太郎死去、その後、薬局生をやめ、
  豊村和合尋常小学校の代用教員となった。

  明治39年(1906)18歳長野市の長野県師範学校に入学。
  明治40年    夏、2年生の戸隠高原植物採集旅行に参加した。
  明治41年    秋、浅間山・〇氷峠・妙義山・下仁田鉱山・
          大日向峠へ、学年全員で鉱物採集旅行をした。
  明治42年    春、4年生の関東管外旅行で、東京・横浜・
          鎌倉・江の島に行く。
          『 信濃博物学雑誌 』編集員となる。
  明治43年    3月、長野県師範学校を卒業し、
          下伊那郡飯田尋常小学校訓導として赴任した。

  明治45年(大正元年)24歳6月農事休暇を利用して上京し、
          東京帝国大学文学科選科(国文学専攻)・・願書提出。
          9月13日、明治天皇御大葬の当日、入学試験・・・
          9月30日付で大下条尋常高等小学校を退職、上京して、
          ふたたび学生生活に入った。中途退学しようとして
          ・・たしなめられて、思いとどまった。

  大正3年(1914)26歳『信濃教育』の雑誌編集主任になった
          長野師範時代の恩師からの依頼で、東大で聴講した
          講義を整理したものや、提出したレポートを投稿する


ということで、また、大村はまを、西尾実との関連の視点で
読み始めたら、楽しめるような気がしてきました。

ということで、徒然草→西尾実→大村はま。
また、『大村はま』を楽しめますように。
なんせ、あれからちっとも開いてないけど、
私は古本「大村はま全集」買ってあります。

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皮肉なようで親切、平凡なようで深遠

2023-10-22 | 地域
徒然草第39段の解説で興味を惹かれたのは、
安良岡康作(やすらおか・こうさく)著「徒然草全注釈上巻」(角川書店)でした。その説明の最後に、西尾實著「作品研究つれづれ草」(学生社・1955年)からの引用があって、それならばと、西尾實氏のこの本をひらいてみる。

はい。安良岡氏が引用していた箇所がありました。
徒然草第39段を、西尾氏は3つに分けて説明をしておりました。引用。

「①では、ある人の問と上人の答とを具え、
     それに対する著者の感歎語を加えているのに、
 ②と③とでは、上人の答と著者の感歎語だけを掲げて、
     問の言葉を省略して、結構の緊縮を計っている。・・」

「 『 念仏の時、睡におかされ行をおこたり侍る事、
    いかがして此のさはりをやめ侍らん 』

  問者にとっては、問になっている問のつもりであることが、
  調子に出ていて興味が深い。そして、それがまた、だれでも
  自分の場合は気づかない、人間通有な弱点であることが注目せられる。

  『 目のさめたらんほど念仏し給へ 』

  問によって生じた人間共通の弱点を、
  簡勁な一語で衝いて餘すところがない。

  人間というものは、可能なところを捨てていて、
  しかも不可能なところばかりを数えていたがるものだから。

  皮肉なようで親切、平凡なようで深遠な答語である。  」(p196~197)


この徒然草第39段は、たとえば、岩波文庫では行をわけて原文が
6行です。短い箇所なのですが、さらにそれを三等分して西尾氏は
説明しており、その最初の①を、ここに引用してみました。

この第39段の法然上人が登場する箇所を、西尾氏は別のページで
吉田兼好が、わずかな行で上人を取り上げたことへと言及されておりました。

「・・およそ、すぐれた人間を、その人間らしい言葉において
 生かし得る作者(兼好)は、非凡な作者である。

 一人の人物について、その思想を把え、
 行動を叙することはさして難事ではない。

 けれども、その人の言葉をもってただちに
 その人物を描出することは、至難である。

 この意味において、法然上人ほどの人物を、
 わずかに三つのこの短章によって浮き彫りにし得た著者は、
 まさに、作家としての自在境に入ったものであるといわねばならぬ。」(p221)

はじめてひらいた西尾氏のこの本なのですが、
パラパラ読みらくし、ここでは、本文の最後を引用しておくことに。

「・・・そういう仏教的教養や王朝文化主義をかなぐり捨て、
 彼自身の本音を吐露しないではおかない人間兼好の真実さを示している。

 彼の中世的人間像の創造や中世的様式美の発掘は、
 むしろ、彼の教養や尚古主義をかなぐり捨て、
 自由人らしい人間兼好の本音を傾けているところにおいて、
 形成されているというべきではないだろうか。

 武家北條時頼への人間的同感(215)、
 新興仏教家としての法然に対する讃仰(39)など、

 新しい時代に対する、また、革命的な原理に対する、
 衷心からの承認がある。彼の反時代的性格は、
 
 それが頽廃に陥っている古代貴族である公家階級に
 向けられたものであっただけに、それの否定的勢力として登場した、
 新興貴族である武家の革命的文化は、解放された人間兼好の本音に
 つながる可能性をもつものであったにちがいない。

 ここに、つれづれ草に示された兼好の
 人間像が認められ、作家像が見出されるのではないだろうか。」(p262)


はい。パラパラ読みですが、読めてよかった。
まるで、ジグソーパズルの途方に暮れるような煩雑なピースが、
確実に組み合わさってゆくようで西尾實氏の本読めてよかった。

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徒然草の第39段

2023-10-21 | 古典
徒然草は、ちくま学芸文庫の島内裕子訳・校訂「徒然草」(2010年)を
パラパラと現代語訳を通読したくらいのものでした。
それもすっかり忘れてしまっていて、
どなたかが、徒然草の一節を引用してくださっていたりすると、
あれ、そんなのあったけかなあ、ともう一度めくりなおしてみたりします。

それでも、何だか気になっているせいか、本の題名に徒然草とあると、
それが古本でしたら、つい買ってしまうことがあります。
最近は、生形貴重著「利休の逸話と徒然草」(河原書店・平成13年)
というのがあり、買いました。はい。読みましたと言わないのがミソ。

親鸞の「歎異抄」がらみで、読み直した徒然草の第39段が、
にわかに興味をひき、あらためてそこだけに注目してみたら、

島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」(ミネルヴァ書房・2005年)
が興味をひきました。
島内さんは、その前の第38段からのつながりを重視しております。
ここには、島内さんが説明している第38段を紹介することに。

「第38段には、兼好の精神の危機がはっきりと表れている。
 ・・・書物からの知識の限界性が露呈し、人生いかに生きるべきか
 がわからなくなってしまった八方ふさがりの状況に彼は立たされて
 いるのである。」

このあとに、島内さんはこう指摘されておりました。

「徒然草の冒頭部から窺われる兼好は、
 この世の理想と現実の越えがたいギャップに悩み、
 自分自身の置かれた貴族社会での位置付けに息苦しさを感じる
 一人の孤独な青年である。その苦悩が書物の中に理想を見出し、
 すぐれた表現力を獲得させるという成果を兼好にもたらした。

 ところがその成果が、今度は限りなく彼の精神の呪縛となってくるのである。
 そのことに、まだ本人は気づいていない。
 その顚倒したありさまを描き出しているのが、第38段である。」(p192)

うん。もうすこし、島内さんの語る第38段を聞いていたくなります。

「第38段は一読すると格調高い文体なので、自信をもって兼好が
 世俗の人々に教訓を垂れているような印象を受けるかも知れない。

 だがこれを書いた時の兼好は、そのような余裕のある精神状況ではない。
 それどころか、いったい何を人生の目標とすべきかわからなくなって、 
『 精神の袋小路 』に陥っているのだ。

 世間の人々が現実社会の中で求める目標や価値観は、
 兼好が身に付けている広く深い知識と教養によって、
 やすやすと否定されてしまう。しかしすべてを否定し去った後に、

 兼好が踏み出すべき第一歩は、いったいどこに存在するのか。
 しかも『 伝へて聞き、学びて知るのは、まことの智にあらず 』
 とはっきり書いているにもかかわらず、
 ここで兼好が世間の価値観を否定する根拠とした言葉は、
 すべて兼好が文字通り『伝へて聞き、学びて知』った言葉や思想ではないか。
 これが矛盾でなくて何であろう。・・・・

 兼好が身に付けてきた書物からの知識と教養は、
 遂にこのような荒涼たる精神の荒野に彼を連れてきてしまった。・・

 徒然草をここで擱筆(かくひつ)してもおかしくないほど、
 兼好は断崖絶壁に立たされている。 」(p196~197)

この後に法然上人が登場する第39段がひかえておりました。
島内さんはつづけます。

「結果的には、ここで徒然草が中断することはなかった。
 徒然草は荒野ではなく、その後の日本文学の肥沃な土壌として、
 生き生きと蘇った。
 
 第39段以後の徒然草が書かれたことによって、
 どれほど豊饒な文学風景が私たちの目の前に広がったことだろう。」(~p198)

はい。その蘇りの地点に、法然の登場する第39段が位置していたのでした。

島内さんは、第38段をこうして説明したあとに、
その割には、サラリと第39段を通り過ぎてゆきます。

はい。次回は、別の方の説明を聞くことにします。

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親鸞と吉田兼好

2023-10-20 | 重ね読み
はい。先頃、現代語訳ですけれども、歎異抄をはじめて読みました。
うん。はじめて浮かびあがる、年齢相当の連想と感想がありました。

忘れないうちに、記しておくにことにします。
親鸞の『歎異抄』から、吉田兼好の『徒然草』へと連想はつながります。

実際は吉田兼好(1283~1352)誕生の、21年前にもう親鸞は没しており、
吉田兼好誕生の、71年前に法然は没しています。世代は違っていました。
ただ、唯円による『歎異抄』の成立は、1290年頃となっておりました。

『歎異抄』は、「おのおの方が、はるばる十余カ国の境をこえ・・
 訪ねてこられ」。その質問に答えているのでした。
そこでの親鸞は、こう答えておりました。

「わたくし親鸞においては、ただ念仏を申して
 弥陀にたすけていただくがよいと、
 よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
 そのほかにはなんのいわれもないのである。

 ・・・・・・・・

 法然のおおせもまた、そらごとではあるまい。
 法然のおおせがまことならば、親鸞の申すことも、
 また、うそのはずはなかろう。つまるところ、

 わたしの信ずるところは、かようである。このうえは、
 念仏を信じようと、また、捨てようと、すべては、
 おのおのがたの考えしだいである。・・       」
              ( 現代語訳・増谷文雄 )

つぎに、思い浮かんだ徒然草の第39段の現代語訳を引用。

「ある人が、法然上人に向かって、

『 念仏を唱える時に、睡気(ねむけ)におそわれて、
  念仏の行を怠けますことがございますが、
  どうして、このさまたげをやめましょうか 』

 と申し上げたところ、上人は、

『 目のさめている間は、念仏を唱えなさい 』

とお答えになったが、これはたいへん尊いことであった。
また、ある時は、

『 往生は、きっとできると思えばきっとできることであり、
  できるかどうか確かでないと思えば、不確かなことになるのである 』

と言われた。このことばも、尊いことである。
さらにまた、

『 往生できるか、どうかと疑いながらでも、
  念仏すると、往生するものである 』

とも言われた。このことばもまた尊いことである。 」

( p191~192 安良岡康作著「徒然草全注釈 上巻」角川書店・昭和42年 )

ちなみに安良岡康作(やすらおかこうさく)氏の
本の第39段解説(p193~195)は読めてよかった。

ここには、最初の方にある、2箇所を引用しておわります。
はじまりにはこうありました。

「この段は、三つの段落より成り、いずれも、
 法然上人の語を挙げて、それを
 『 いと尊かりけり 』『 これも尊し 』『 これもまた尊し 』
 と讃嘆しているのである。・・・ 」

その少し後には、こうもありました。

「第一の『 目の醒めたらんほど、念仏し給へ 』は、
 他書に出典の見いだされぬ語である。

 しかし、自己に可能なることを自覚せず、
 不可能事ばかりを障碍として考えたがる人間の
 心の弱さ・安易さを鋭く指示しているところに、
 この答語の輝きが認められる。そして、
 それは、念仏の行を強調した法然の信仰につながっている。」   
                           (p193)


この関連本として、わたしに興味深い指摘が読めたのは、

   西尾實著「作品研究 つれづれ草」(学生社・1955年)
   島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
             (ミネルヴァ日本評伝選・2005年)

うん。これらを、つなげてゆくと奥行きがでるのでしょうが、
今回はこのくらいで。最後に、おのおのの年齢を記しておきます。

法然 ( 1133年~1212年 )80歳
親鸞 ( 1173年~1262年 )90歳
兼好 ( 1283年~1352年 )70歳?

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今、会いたい人はいますか?

2023-10-19 | 本棚並べ
「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)の表紙の題名の下に
副題らしき小文字で「 思い出を語る人たち 伊藤元雄 編 」とあります。

あとがきにかえてには、こんな箇所

「2020年・・福井さんは打ち合わせが一段落した時に安野さんに
『 今、会いたい人はいますか 』と聞いたら

『 司馬さんだなあ。司馬さんと会っていると楽しいのよ。
  いつも前向きで、同じことを言わない人だった 』と、

 なつかしそうに語ったといいます。 」(p218)

今日になって安野光雅著「絵のまよい道」(朝日新聞社・1998年)が届く。
うん。本の帯に「週刊朝日連載」とあります。
おわりの方をひらくと

「書きながら、司馬さんは毎週この三倍もの長さの『街道をゆく』を、
 一千回以上書いてきたんだからな、などと思った。

 そもそもこの連載は司馬さんが亡くなったときの
 精神的空白のためにスタートしたようなところがある。・・ 」(p258)

「これを書いているいまは、司馬さんが亡くなってから二度目の
『 菜の花忌 』をむかえようとしている一月末である。 」(p259)

「・・・72歳だった。司馬遼太郎が亡くなったのも72歳である。
 『街道をゆく』の題字を書いた棟方志功も72歳だった。
 そしてわたしの父も72歳だった。  」(p260)

ということで、本の最後には

「 いま気がついた。72歳というのは一種の還暦で、
  12で割り切れる。格別の意味はないが・・・。  」(p261)

うん。本は、わたしにはお薦めの本といえるようなものではないのでした。
そうそう、『若い頃の自前の個展』にふれた箇所がすぐに見つかりました。
最後にそこを引用。

「まず会場を借り、案内状を刷り、作品を搬入してそれを飾り、
 サイン帳や茶菓子などを用意して、
 ふりかかる針のような視線に耐える期間のことである。」(p13)

「・・・個展は表現というものの宿命的な祭りなのである。
 だから、何を言われてもしかたがない。・・・・

 むろん絵が売れるということは奇跡に近い。
 しかしその頃は、どんなに純粋に、はるかな芸術の姿を
 夢みていたことだろう。

 その個展というパフォーマンスは、作品の良し悪しは別にして、
 いじらしいまでに感動的なものなのである。 」(p14)



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画家の職業分野?

2023-10-17 | 絵・言葉
注文してあった古本が、今日の午後届く。その中の一冊
伊藤元雄編「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)をひらく。

2020年12月24日に94歳で亡くなった安野光雅氏への追悼集でした。
パラリとひらいて読んだのは、
津和野安野光雅美術館館長・大矢鞆音氏の18ページにわたる文。
ご自身と、安野さんとの思い出が語られていきます。
うん。とりあえずは、この箇所を引用しておきたくなりました。

「安野さんとの付き合いが始まって35年が過ぎた。・・
 絵描きの何気ない日々の営みを話題にできることがうれしかった。・・
 若いころの個展の話があった。

『 毎年毎年、個展を開いた。自分で案内状をつくり、発送し、
  会場で一人ぽつんと来場者を待ち受ける。

  お客さんなんてほとんど来ない。
  それでも会期中は毎日詰めて、一人自分の絵と対峙する。

  そうすると、自ずと自分の絵のことがわかってくるし、
  見えてくる。そして来年はもっと良い絵を描こうと思う。
  終わると次の年に向けて必死に努力する 』。

 安野さんのこの個展は絵本画家としてのそれではなく、
 二紀会での油彩作品を描いていたころのことである。 」(p81)

この大矢鞆音氏の文には、こんな箇所もありました。

「安野さんの『絵のまよい道』は私にとって胸の奥に沈めていた
 感情を揺さぶるような、思わず涙してしまうような話が満載である。」(p83)

はい。さっそく、ネットで注文しました。ちなみに、
大矢氏の文の題は「安野光雅『絵のまよい道』を読みながら」とあります。

うん。そうだ、最後に、ここも引用しておかなければ。

「 小さいころから画家の職業分野を分けるとき、
  社会科の授業では、自由業と分けられる。・・・・

  安野さんは
 『 自由業は一生懸命やっても誉められない
   かわりに、怠けても叱られはしない。

   その自由のためなら、馬鹿にされても食えなくてもいい、
   という前提で絵描きという仕事がなりたっている、
   と思ったほうがいい。

   ある日、それが淋しくて、
  『 ああ、わたしは美神の使徒なのだ 』と、
   独りよがりに自分に言い聞かせてみるのは
   これもまた自由である 』と。      」(p86)
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76歳の、親鸞と増谷文雄。

2023-10-16 | 古典
筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」を編集した
増谷文雄氏のことが気になる。
はい。親鸞集は読み進めていない癖して、脱線します。

増谷 文雄 (ますたに ふみお、 1902年 2月16日 - 1987年 12月6日)。

「増谷文雄著作集11」(角川書店・昭和57年)のはじまりは
「道元を見詰めて」でした。そのはじめのページを引用。

「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
 従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
 もしくはその流れを汲む曹洞宗門にたいしては、
 あきらかに門外の漢である。

 だが、門外にありながらも、
 わたしはたえず道元禅師を見詰めてきた。・・・

 いったい、わが国の生んだすぐれた仏教者たちのなかにあって、
 今日すでに宗門の枠をとおく越えて、その徳を慕い、あるいは、
 その思想と実践を研究するということのおこなわれている仏教者
 としては、親鸞聖人と、そして道元禅師とをあげることができる。
 ・・・・   」(p11)

はい。このようにはじまっておりました。
私は講談社学術文庫の増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻を
持っているのですが、いまだ数冊をパラパラめくりの初心者。

増谷氏は、親鸞が「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」とを
成立させたのが76歳の春のことと指摘されておりました。

そういえばと、講談社学術文庫の「正法眼蔵(一)」の
はじまりには、増谷松樹の「刊行に当たって」という文。
そのはじまりを引用することに。

「四半世紀ほど前のことである。
 父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、はるばる訪ねてきた。

 私は驚いた。父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
 机の前に正座して原稿を書いているもの。そして
 それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。

 その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
 『 正法眼蔵 』を完成したところであった。

 父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
 多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は現代語訳であった。

 仏教を現代人のものとすることを、課題としたからである。・・・ 」


なんてこった。そういう方がおられるのに、その方の本を持っているのに、
ちっともはかどらず、読み進めていない私がこうして、ここにおります。
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太宰治の『人生ダ』。

2023-10-15 | 詩歌
松下緑著「『サヨナラ』ダケガ人生カ」(集英社・2003年)
を本棚に見つけたので紹介。
井伏鱒二著「厄除け詩集」を思うと、この本を思い浮かべます。
読みたかった箇所をひらく。

「『サヨナラ』ダケガ人生ダの一句は、
 井伏さんの弟子、太宰治が愛誦して世に広まった。

 太宰は戦後、無頼派文学の旗手として、
 生の破滅をテーマに多くの作品を発表したが、
 朝日新聞に連載小説『グッド・バイ』を書き出してまもなく、
 心中して果てた。

 まさにサヨナラダケが彼のテーマだった。しかし、
 一期一会とは言っても一期一別とは言わない。

 人は生まれて誰と出会うか、その出会いこそがその人の生涯を決定する。
 サヨナラダケが人生ではない。その出会いには
 古今東西の書物や音楽、信仰なども含まれよう。

 于武陵(うぶりょう)の詩の後の二句は
 『 花が咲くと雨風がそれを散らしてしまうことが多いように、
   人は生きてゆく間に多くの別離を経験する 』
 ということであろう。

 私は自分なりにこの詩を訳してみて、サヨナラダケガ人生ダ
 という断定的な表現をいぶかしく思うようになった。・・・」(p96~97)

はい。ここでは、最後に漢詩と3人の現代語訳を引用しておきます。
まずは、于武陵の読み下し

      君に勧む金屈巵(きんくつし)
      満酌辞するを須(もち)いず
      花発(ひら)けば風雨多し
      人生別離足る

つぎに、井伏鱒二訳、松下緑訳、潜魚庵訳とならべてみます。

     コノサカヅキヲ受ケテクレ
     ドウゾナミナミツガシテオクレ
     ハナニアラシノタトヘモアルゾ
    「 サヨナラ 」ダケガ人生ダ


     金ノサカズキヒトイキニ
     ホシテ返シテクレタマエ
     花ガヒラケバアメニカゼ
     人ハワカレテユクモノヲ

    
     サラバ上ゲマシヨ此盃ヲ
     トクト御請(おう)ケヨ御辞退無用
     花ノ盛リモ風雨ゴザル
     人ノ別レモコノ心(ここ)ロ      ( p94~95 )

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