和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

孫悟空と如来の掌(てのひら)。

2022-04-29 | 他生の縁
私にとって、今年が俳諧記念日。
うん。思いうかぶこと書きます。

ちっとも読んだこともないのに、
孫悟空と如来の掌が浮かびます。
うん。その場面を引用するのに、
小杉未醒著「新釈絵本西遊記」
(中公文庫)をひらいてみる。

『・・そうか、さらば試みに我が掌(たなぞこ)の上に来て、
 掌から外へ来てみい、出得たなら・・・』

悟空心中に嘲笑(あざわら)って、
如来の掌に跳り上り、一気に
觔斗雲(きんとうん)を放って飛び去った。
まさに十万八千里を飛ぶと、

前面に五ツの赤柱が立って居る、その真中の柱へ、
斉天大聖此処に一遊すと書いて、
又十万八千里を飛び帰って

如来の掌の上へ来た。
大威張りで見廻すと、驚く可し
(斉天大聖此処に一遊す)は、
ツイ足の下の中指に書いてある。

呆れ怕(おそ)れて逃げんとするを
逃がしもあえず、如来は掌に摑んだまま・・・」
         ( p42 )

はい。どう思いうかべようとも、そこは俳諧の掌。
ということで、寺田寅彦も夏目漱石も正岡子規も、
丸谷才一も菊池寛も柳田国男もどなたも俳諧の掌。
これならお気楽に楽しくブログ更新できそうです。


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細部にやどる。

2022-04-28 | 前書・後書。
講談社学術文庫に、尾形仂の本があり、
きちんと読まない癖して、「座の文学」と「歌仙の世界」
この2冊が気になって単行本を注文。古本で安かったし。

単行本もだと、読む楽しみに弾みがつきます。
なんといいましょうか。本文は読まない癖に。

さてっと、単行本「座の文学」(角川書店・昭和48年)
箱入りでした。題字は先輩の加藤楸邨氏による揮毫。
その題字の紙の裏。左下に小さく記されていたのが、
「本書を空爆の犠牲となった両親の霊にささぐ」。
これは、文庫本にはありませんでした。かわりに
文庫本の解説で触れられておりました。

つぎは、「歌仙の世界」(講談社・昭和61年)。
これは、「詩歌 日本の抒情」全8巻の7巻目として出されております。
函入りで、本には月報が挟まっておりました。大岡信・飯田龍太対談。
対談の、はじまりが忘れがたいので引用しておくことに。
対談の題は「連歌の面白さと室町の時代背景」でした。

大岡】 ・・・勅撰和歌集は21代集のところでおしまいになってしまった。
   鎌倉、室町時代は、勅撰集はそれを編纂する地下(じげ)の、
   プロの歌人達の争いの場にもなって、誰々が撰者になって自分が
   なれないのはけしからんとか、そういう争いが絶えずあるわけです。

   それで肝心のいい歌が少なくなってくる。・・・・実際にはもう
   いい歌もないから歌集を編むわけにもいかない、一人で全巻、
   自作でうめるわけにもいかないと。

   そこで連歌に新たな意味が出てくる。一人で出来ないなら
   二人ないし三人でやったらどうかというわけですね。
   そういう意味では連歌は、一種の緊急の和歌救出手段として
   価値を再発見された大変な代物だったと思いますね。
    ・・・・・・
    ・・・・・・
   たった一人の作者ではもうもたなくなっているんですね。
   それは『玉葉集』『風雅集』の、すぐれた、するどい
   感受性の歌が、同時にとてもさみしい歌であるという
   ことからもはっきりうかがえると思うので、
   これが室町の連歌の発生にとって必然的な時代の
   動きだったような気がします。


はい。月報の対談は、このようにしてはじまる8ページ。
うん。読ませます。
はい。これで楽しく本文が読みすすめられますように。

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国の文芸を楽しくした。

2022-04-26 | 柳田国男を読む
うん。『菊池寛の救命ボート』の話をしたかった。けれど、
ここはまず、柳田国男の『女性と俳諧』のはじまりを引用。

「こなひだから気を付けて見て居ますが、もとは女の俳人といふ
 ものは、絶無に近かったやうですね。

 芭蕉翁の最も大きな功績といってもよいのは、
 知らぬうちに俳諧の定義を一変して、幅をひろげ、
 方向と目標を新たにし、従ってその意義を深いもの
 にしたことに在ると思ひますが、そうなって始めて

 多くのやさしい美しい人たちが、俳諧の花園に
 遊ぶことが出来たのです。国の文芸を楽しくした、
 この親切な案内人に対して、まづ御礼をいふべきは
 無骨なる我々どもだったのです。・・・・     」

芭蕉では、いまひとつわからない。
それでは、菊池寛ならどうなのか?

『菊池寛の救命ボート』ということで3冊。

①長谷川町子著『サザエさんのうちあけ話』(姉妹社)
②長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』(朝日出版社)
③石井桃子談話集『子どもに歯ごたえのある本を』(河出書房新社)

①には、東京へ出て来て転覆寸前の「長谷川丸」へと
    救命ボートを漕ぐ菊池寛の姿が小さく描かれておりました。

「・・思いがけない方角から、突如、救命ボートが現れたのです。
 知人の紹介で絵を見て下さった菊池寛先生が、
 『ボクのさし絵を描かしてあげよう』つるの一声です。
 『女性の戦い』という連載小説です。・・・
 キモをつぶした姉は40度からの熱を出し、
 ウンウンうなりながら仕事に取りくみました。・・・」

はい。①と②と、菊池寛の箇所を拾い出すと面白いのですが、
どんどん長くなるので、ここまでにして、③へといくことに。

③は、インタビューに答える石井桃子さんでした。

川本】 ご卒業が昭和3年で、文春に入られたのはどういうきっかけで?

石井】 ・・菊池先生に『仕事ください』って言うと
   『こういう仕事したらどうだ?』なんてくだすった時代ですから、
   いつから社員になったということをはっきりと覚えていないんです。
   アルバイトでお手伝いしてたんです。
   学校の先生をするのが嫌なもんだから。そしたら、
   『丸善にいろんな本があるだろ?
    通俗小説でいいから読んであらすじを書いてくるように』
   なんて、そういう仕事をいただいていたんです。・・・・

   菊池先生が、仕事をくださる機会が減るようになると、
   『社へ来て校正を手伝ったらどうだ?』と言ってくださいまして、
   なんとはなしにお手伝いみたいなことをするようになりました。 
   男の人も女の人も。
   そのころ、文芸春秋社には、
   本当に妙な人が『勤めているかのごとく』来ていまして、
   月給なしで働いているなかには蘆原英了さんなどもいました。
   あの人は慶応の学生で、毎日文芸春秋へ来て
   校正でも何でもやってるんです。( p231~232 )

もどって、①の「うちあけ話」に洋子さんが勤める箇所が、
ひらがなと漢字のかわりに絵が描かれた文にありました。

『いまどこにいってるの?』と、菊池寛
『ハ、東京女子大でござい』と、まり子姉の顔絵
『やめさせなさい ボクが育ててあげる』
妹はすぐ退学して、ご近所の先生宅にかよいだしました。
名もない女学生のために、西鶴諸国ばなしの講義をして下さるのです。
 ・・・・・・

このあとに、姉達が、洋子に質問する箇所が印象的でした。

『ネエ どんな先生?』
『どんなお話?』と、
根ほり葉ほりききますと、
かまわない方で、オビを引きずりながら出てこられる。
時には、二つもトケイをはめていられる。

汗かきでアセモをポリポリかかれる。
胸もとがはだけると、厚い札束が、かおを出していた。
ポツリポツリ話をしてくれたのはこれだけ。・・


この「札束」の場面は、石井桃子さんも語っておりました。

石井】 お給料はね・・・とてもキテレツな理屈なんですけど、
   「石井さんは困らない家だから」って、私は安いんですよ(笑)

  「困る」人にはたくさん「払って」いたんじゃないでしょうか。
  月給というのが決まっているようでいながら、
  少しお金が足りないと言われると、
  菊池先生が袂(たもと)から出して永井さんたちに
  あげてた時代ですからね(笑)
  経理とは言えなかったんじゃないですか。
  菊池先生のアイディアのおかげで雑誌が売れて、
  お金がどんどん入ってきたんですね。

川本】 最初はどんぶり勘定だったんですね。

石井】 ええ、ほんとに。で、私たちは記事を書いていただいた人に
    お金を払わなくちゃならないでしょう?それだのに、
    経理の人がちっとも出してくれないんですね。・・・・・
                 (p236)

うん。長くなりますが、さいごに、
『クマのプーさん』と石井桃子さんを引用。

川本】 犬養家のクリスマスパーティのときに出会ったと・・・

石井】 私は、犬養健さんのところにもよく文藝春秋で
    原稿をいただきに通ったんですね。それで、
    健さんよりも家族と仲よくなってしまって。
    道子さんなんかは、まだ子どもでした。そのプーの本は、
    クリスマスに西園寺公一さんが、道子さんの弟・・犬養康彦さん
    にクリスマスプレゼントに贈ったものだったんです。

    ちょうど、私がよばれていったクリスマスに、その本が
    クリスマスツリーのところに立てかけてあったんです。
    そのときに『読んで!』と言われて、そのとき初めて
    プーにめぐり会ったんですね。そのときは・・・・

    『クマのプーさん』のことも何も知らなかったんですけど、
    二人に読んで聞かせたら二人が喜んで転げ回ったんです。
    あまり面白いから『貸してちょうだい』といって、
    その晩私は借りてきて家で読んできて、一つひとつの
    お話を道子さんに話したわけなんです。
    それを原稿にまとめたら、友人で肺病で寝ている人が
    その原稿を読んで、ぜひ本にしなさいと言って・・・・(p238)


はい。菊池寛の救命ボートに乗ったのはひとりじゃなかった。
さいごにまた『女性と俳諧』の箇所を繰り返して置くことに。

『 多くのやさしい美しい人たちが、 
  俳諧の花園に遊ぶことが出来たのです。
  国の文芸を楽しくした、この親切な案内人に対して、
  まづ御礼をいふべきは無骨なる我々どもだったのです。』


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いいなあと思って読んで。

2022-04-24 | 本棚並べ
藤原和博「僕たちは14歳までに何を学んだか」(SB新書)の言葉、

『・・・キミの存在そのものが自分にとっての喜びなんだ。
 生きて、世の中の常識と戦ってあがいてくれているだけでいい。
 そんなふうにドーンと構えていること』(p196)

うん。この箇所が印象深いのだけれど、
ここだけを引用しちゃうと分からない。
それでもいいやと、また引用しました。

そういえば、本の常識との闘いなら、
いろいろと、思い当ることあります。

丸谷才一著「思考のレッスン」(1999年・文藝春秋社)
には、本の好き嫌いに、エールを送る言葉が並びます。
たとえば、

――今回は、本を読む上で具体的なテクニック、
  コツについておうかがいします。・・・・・・

丸谷】 たとえば『古今』を読むなら、
    窪田空穂の本で読むのが僕は一番好きです。

    岩波の『日本古典文学大系』版の『古今』は、
    どうも読みにくい。活字の組み方も悪いし、
    注釈も何だか事務的な感じで、
    簡単すぎてよくわからない。

    それにくらべると窪田空穂の注は、
    心がこもっているようでいいなあと思って読んでいました。 
               (p163・単行本のレッスン4 )

うん。『事務的な感じで、簡単すぎてよくわからない』文章もあれば、
『心がこもっているようでいいなあと思って読んで』いる文章もある。

本は、こちらが好き嫌いを言っても文句は言わないからいい。
丸谷さんの、本を読む常識とのあがきあいは、読んで楽しい。

うん。もうすこし引用。

丸谷】・・・・・それは極端な例として、文庫を読むときなどは、
   心置きなく破って、必要なところだけ切って読む。
   軽くて持ち運びにも便利だし、どこでも取り出して読める。

   とにかく本というものは、読まないで
   大事にとっておいたところでまったく意味はないんです。
   読むためのものなんだから、読みやすいように読めばいい。
                 ( p169~p170 )


はい。本を読む常識との闘いやあがきなら、
これは楽しくひろがっていきそうな気がします。

ということで最後は、丸谷さんのレッスン3のはじまり。

「まず第一に、本を読む上で一番大事なのは何でしょう?

 僕は、おもしろがって読むことだと思うんですね。
 おもしろがるというエネルギーがなければ、本は読めないし、
 読んでも身につかない。無理やり読んだって何の益にもならない。
 本の読み方の最大のコツは、その本をおもしろがること、
 その快楽をエネルギーにして進むこと。これですね。    」
              ( p103~p104・単行本 )


ちなみに『思考のレッスン』には、ちりばめられるようにして、
10数冊の本が、さり気なくお勧めで取り上げられておりました。

それを私は読もうとも思わなかったのでした。不思議とそれを、
読もうとしなかったことに罪悪感がなかったという良い読後感。

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自分にとっての喜びなんだ。

2022-04-23 | 柳田国男を読む
柳田国男『故郷七十年』に、ご自身の13~14歳の頃が語られておりました。

うん。気になったので、さっそく古本で注文した新書が届く。
藤原和博『僕たちは14歳までに何を学んだか』(SB新書・2019年)。

その『はじめに』から引用。

「・・・・よく現場を知らない教育評論家が、
 学校をもっと自由にクリエイティブにとか、
 創造性教育をやらない学校はいらないなどと 
 高邁な理想論を鼓舞することがある。

 しかし・・・・
 アインシュタインは言葉の発達が遅く家政婦から
 おバカさん扱いされることもあったというし、

 エジソンは今でいう不登校だった。
 ビル・ゲイツもよく知られているように
 アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)で
 人付き合いが下手だったと聞く。

 オリンピックで活躍するフィギュアスケートの
 羽生結弦くんも体操の内村航平くんも、 
 将棋の藤井聡太くんも卓球の張本智和くんも、
 学校がその特色を育てたわけではないだろう。

 才能を突出させるキッカケはいつも家庭環境だったり、
 ストリートだったりで、のちに少年たちが夢中になって
 自覚的に突っ込んでいったときに邪魔しないのが一番なのだ。
 ・・・・・          」( p9~10 )

この『邪魔しないのが』が気になり『あとがきにかえて』
の方をパラりとめくると。この新書の4人へのインタビューを
ふりかえって、藤原さんはこう書いておりました。

「もう一つの特筆すべき共通点は、
 『根拠のない自信』を持っていることだ。・・・・

 それが母親でなくともいいのだが、 誰かに無条件に愛された経験は、
 わからない世界に向かっていく『根拠のない自信』の基盤になってい
 るような気がしてならない。・・・・

 子どもが何かに没入し、集中して向かっていくときに邪魔しないこと。
 できたら、その突進を応援してあげること。・・・・

 キミの存在そのものが自分にとっての喜びなんだ。
 生きて、世の中の常識と戦ってあがいてくれているだけでいい。
 そんなふうにドーンと構えていること。・・・  」( p195~196 )

この『根拠のない自信』というキーワードが気になる。
それを普段の生活のどこで養うのか?
思い浮かんだのは俳諧のことでした。

「 たとえば俳諧の主題としては、
  俗事俗情に重きを置くことが、
  初期以来の暗黙の約束であるが、
  これがかなり忠実に守られていたお蔭に、
  単なる民衆生活の描写としても、
  彼(芭蕉)の文芸はなお我々を感謝せしめるのである。」
      ( p203 「新編柳田国男集第九巻」 )

不安の増殖をはぐくむ記事には事欠かないご時世に、
『我々を感謝せしめる』ほどの自信の創造の現場が、
どうやら、芭蕉俳諧のなかに探せそうな気がします。

はい。ちなみにこの新書の、本文は読んでいません。

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芭蕉俳諧に、司馬さんの書庫。

2022-04-21 | 柳田国男を読む
柳田国男の「生活の俳諧」。そこに
芭蕉一門の俳諧へと言及する箇所が印象深い。

「 豊富な資料は我々のために取残されている。
  この翁一門の俳諧に感謝しなければならぬことは、

  第一には古文学の模倣を事としなかったこと、
  ロマンチックの古臭い型を棄て、同時に
  談林風なる空想の奔放を抑制したことである。

  そうしてなお凡人大衆の生活を俳諧とする、
  古くからの言い伝えに忠実であったことである。

  それから最後には描写の技術の大いなる琢磨、
  ことに巧妙という以上の写実の親切である。

  彼の節度に服した連衆の敏感を利用したとは言いながらも、
  とにかくに時代の姿をこれほどにも精確に、
  後世に伝え得た者も少ない。

  西鶴や其磧(きせき)や近松の世話物などは、
  共に世相を写し絵として、くりかえし引用せられているが、
  言葉の多い割には題材の範囲が狭い。

  これと比べると俳諧が見て伝えたものは、
  あらゆる階級の小事件の、
  劇にも小説にもならぬものを包容している。
  そうしてこういう生活もあるということを、
  同情者の前に展開しようとする、作者気質には
  双方やや似通うた点があるのである。・・・・」
        ( p213~214 「新編柳田國男集」第九巻 )

そういう芭蕉俳諧の説明を理解しようとせずに、
なあに、かまうことはない、現代へと飛躍して、
ここに、司馬遼太郎の書庫を思いうかべてみる。

谷沢永一氏に「司馬さんの書庫・蔵書を探検する」という文。
そこに指摘されている書庫への谷沢さんの眼差しが気になる。
まずはここいらあたりから引用。

「 戦後の百科事典はすべて偏向している上に、
  事実を明細に押さえた記述に乏しいから頼れないと、
  つねづね洩らしておられて由・・・」

こうして、谷沢さんは地方誌へと言及してゆくのでした。

「 書庫を通覧したあとようやく悟ったのだが、この廊下の
  両面を占める壮観が、司馬蔵書の眼目であり臍であった。
  すなわち日本全国すべてにわたる地方誌の一大蒐集である。

  長澤規矩也の『図書学辞典』は地方誌を
  『全国的な通誌に対して一地方の地誌』、そして、
  地誌を『人文地理の書』と簡潔に説明している。
  ・・・・・

  地方誌の模範は幸田成友を編纂主任とする
  『大阪市史』(大正2~4年)であるとされているが、
  これ以後というもの堰を切ったように、各府県市町村が
  競争で地方誌の刊行に血道をあげるようになった。
  ・・・・・・

  このように地方誌と地方叢書が一体となって、
  歴史と文化の事績が明細に伝えられるようになったのは、
  近代期の熱意が結晶した修史の一大成果と言えよう。

  これが日本民族の足跡を如実に伝える宝庫であると眼をつけ、
  縦横に活用した恐らく最高の実例が司馬さんの諸作品なのである。」
      ( p23~24 谷沢永一著「読書人の点燈」潮出版社 )

はい。
芭蕉の時代の俳諧のつぎに、
司馬遼太郎の時代の書庫の、
地方誌の宝庫を置いてみる。

べつに、かまうことはなく
俳諧のように、楽しみます。

ひとりは、芭蕉で
『 そうしてなお凡人大衆の生活を俳諧とする、
  古くからの言い伝えに忠実であったことである 』

つぎには、司馬遼太郎の書庫。
『 これが日本民族の足跡を如実に伝える
  宝庫であると眼をつけ、縦横に活用した・・ 』

うん。こうして芭蕉門人たちが俳諧をしている場面が、
いつのまにか、司馬さんの書庫に並ぶ地方誌の場面に。
はい。おそるおそる、連想の場面転換をひとり楽しむ。



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『中二病』と、柳田国男。

2022-04-20 | 柳田国男を読む
あれ。たしか、中学二年生について、
小田嶋隆さんの本にあった気がするのですが、
探せなくって、かわりにこんな箇所がありました。

「 記憶は、輪郭が薄れて、ほかの記憶とまぜこぜになった頃
  になってはじめて、利用可能なネタになる場合が多い。

  ということはつまり、若い頃の読書が収穫期を迎えるのは、
  40歳を過ぎて以降なわけで・・・・・

  読書の記憶は、20年の熟成期間を経て、まったく別の文脈の
  中によみがえる、よみがえるのは、必ずしも正確な記憶ではない。
  が、かまうことはない。記憶の混濁は、別の見方をすれば、
  オリジナリティーだからだ。  」
      (p132 「小田嶋隆のコラム道」(ミシマ社・2012年)


もう40年くらい前になるかなあ、小林秀雄の「信ずることと知ること」
という講演に基づく文を読んだことがあります。
その中で、柳田国男の「故郷七十年」が紹介されておりました。
はい。せっかくなのでその箇所を長めに引用してみます。

「この間、こちらへ来る前に柳田国男さんの『故郷七十年』といふ
 本を読みました。前から聞いてゐたのですが、まだ読んでゐなかった。
 この『故郷七十年』といふ本は、この碩学が八十三の時の口述を筆記
 したもので、『神戸新聞』に連載された。昭和33年の事です。

 その中にかういふ話があった。柳田さんの十四の時の思ひ出が書いて
 あるのです。その頃、柳田さんは茨城県の布川といふ町の、長兄の
 松岡鼎さんの家にたった一人で預けられてゐた。その家の隣に小川と
 いふ旧家があって、非常に沢山の蔵書があったが、身体を悪くして学校
 にも行けずにゐた柳田さんは、毎日そこへ行って本ばかり読んでゐた。」

このあとに、旧家の庭の小さな祠の話となります。
その祠と柳田さんの体験をとりあげた小林秀雄さんは、

『私はそれを読んだ時、感動しました。
 柳田さんといふ人が分ったといふ風に感じました』

と、どうやら講演で語ったもののようです。
そのあと続く箇所では、こうあります。

「もっとも、自分には痛切な経験であったが、
 こんな出来事を語るのは、照れ臭かったに違ひない。
 だから、布川時代の思ひ出は、
 『馬鹿々々しいといふことさへかまはなければいくらでもある』
 と断って、この出来事を語ってゐる。
 かういふ言ひ方には、馬鹿々々しいからと言って、
 嘘だと言って片付けられない、といふ含みがあります。

 自分は、子供の時に、ひときわ違った境遇に置かれてゐたのが
 いけなかったのであろう、幸ひにして、其後、実際生活の上で
 苦労をしなければならなくなったので、すっかり布川で経験した
 異常な心理から救はれる事が出来た、布川の二年間は危かった、
 と語っている。」

小林秀雄さんは、この「故郷七十年」をきっかけにして、
柳田国男の「山の人生」やら「遠野物語」、「妖怪談義」と、
結局のところ、この講演は、柳田国男の話が続いて終わります。

さてっと、布川時代の2年間は、柳田国男が13歳と14歳のときでした。
うん。今でいえば中学生の頃のことになります。
小林秀雄は、柳田国男を語るのに、その年齢の柳田国男を起点として
語り始めていたのでした。
だれでも経験する中学二年生なのですが、
柳田国男にとって、布川時代がどうやらそれにあたるようです。

う~ん。中学二年生のころの私はというと、
寝過ごしたように、ちっとも思い出せなく、
情けないやら、哀しいやら、味気ないやら。

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人生の笑いを清くする。

2022-04-19 | 柳田国男を読む
『清く』ということで、
柳田国男の「女性と俳諧」が思い浮かぶ。
この文の中に出てくるのでした。

「小さな素朴な何でもないやうな言葉でも、心の底から
 ほほゑましく、又をかしくもなることは幾らもあるのです。

 女がその群に加はるといふことは・・・・・
 人生の笑ひを清くする為にもしばしば必要でありました。
 ・・・・・・
 私の見やうが偏して居るかも知れませんが、
 俳諧に女性の参加することを可能にした、
 芭蕉翁の志は貴く、又仰ぐべきものかと思って居ります。」

うん。先を急ぎすぎました。
『女性と俳諧』のはじまりから引用してみます。

「こなひだから気を付けて見て居りますが、
 もとは女の俳人といふものは、絶無に近かったやうですね。

 芭蕉翁の最も大きな功績といってよいのは、
 知らぬうちに俳諧の定義を一変して、幅をひろげ、
 方向と目標を新たにし、従ってその意義を深いものに
 したことに在ると思ひます・・・・・

 いはゆる蕉風(せいふう)の初期に於ては、
 女性の俳諧の座に参加した者は、伊賀に一人、
 伊勢に一人、それから又大阪にも一人といふほどの、
 至って寥々たるものではありましたが、それすらも
 談林(だんりん)以前の文化社会では、殆と全く
 望まれないことでありました。

 理由は至って単純で、つまり俳諧は即ち滑稽であり、
 その滑稽は粗野な戦国時代を経過して、堕落し得る
 限り下品になり、あくどい聞きぐるしい悪ふざけが
 喝采せられ、それを程よいところに引留めることに、
 全力を傾けるやうな世の中だったからです。
 
 女がその仲間に加はろうとしなかったのは
 当り前ぢゃありませんか。            」

はい。はじまりのところが肝心かと思いますので
もうすこし引用におつきあいください。

「それが芭蕉の実作指導によって、天地はまだこの様にも
 広かったといふことを、教へられたのであります。

 連歌(れんが)の一座はいふにも及ばず、
 前の句の作者までが予測もしなかったやうな、
 新しい次の場面が突如として展開して来るのを見て、

 思はず破顔するといふ古風な境地に、やや軽い静かな
 笑ひを捜し求めることが勧誘せられました。

 是だったら女にも俳諧は可能である、といふよりも
 寧(むし)ろ慧敏なる家刀自(いえとじ)たちの、
 それは昔からの長処でありました。

 歴代の女歌人などは、簾や几帳を隔てた応酬を以て、
 よく顎鬚の痕の青い連中を閉口させて居たのです。

 清少和泉の既に名を成した領域に、未来の閨秀(けいしゅう)
 たちが追随し得ない道理は無かったのであります。」


うん。だいぶ引用をしちゃいました。
最後の、『清少和泉(せいせういづみ)の・・領域』といえば、
思いうかべるのは、古今和歌集の仮名序でした。
うん。最後も古今和歌集の仮名序から引用。

「 和歌(やまとうた)は、
  人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。
  ・・・・
  花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、
  生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

  力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、
  目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
  男(をとこ)女のなかをもやはらげ、
  猛き武士(もののふ)の心をもなぐさめるは、
  歌なり。                   」

そこでですが、柳田国男は、
芭蕉がどこまで成就したか、
それを正確に推し量ります。

「 翁の願ひはそれが成就するならば、
  俳諧がもっと楽しいものになるやうな願ひでありました。
  そうしてそれは十分に成就しなかったのであります。   」

「 芭蕉が企てて五十一歳までに、為し遂げずに終ったことを、
  ちっとも考へて見ようとせぬのは不当であります。
  俳諧を復興しようとするならば、先づ作者を楽しましめ、
  次には是を傍観する我々に、楽しい同情を抱かしめる
  やうにしなければなりません。・・・         」
 
          ( 柳田国男「病める俳人への手紙」から )


うん。どうやら、芭蕉の成就目標はというと、

「  力をも入れずして天地を動かし
   目に見える鬼神をもあはれと思はせ
   男女のなかをもやはらげ
   猛き武士の心をもなぐさむる    」

そんな芭蕉の俳諧だったのだとするならば、
一代では、とうてい成就は無理だったのだ
そう柳田国男は推し量っていたのでしょう。
この感触で、また柳田国男を読んでみます。



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柳田国男の曖昧模糊。

2022-04-18 | 柳田国男を読む
桑原武夫は、亡くなる5年ほどまえに、
『柳田さんと私』という講演をしておりました。
そのなかに

「柳田さんは83歳になって『故郷七十年』という
 一種の自叙伝を口述筆記でお書きになっております。
 
 ・・・柳田さんはそこで、自分の一生はいわば
 一つの大きな川の流れであるといっています。

 ・・・あの文章(故郷七十年)は曖昧模糊として
 ちっともわかりません。井上ひさしさんも柳田さんの
 文章は読みにくい、何が書いてあるのやらさっぱりわからない
 と書いている。井上さんはそれは、先生が俳諧を体得されて、
 それを自分の民俗学にたくさん使っていらっしゃるのが癖に
 なったからではないかという解釈をしておられます。・・・・・

 (柳田国男の文章を)読んでいると、
 私などはもう相当年のいった人間ですから、そこから
 自分の幼いときのことがいろいろ思い浮かびます。

 友だちのことをツレと言うとか、お茶の子さいさいとか、
 女の人が好きな男の人にお酒を差すことを思い差しというとか、
 ・・・・・
 そういう私どもが幼いときに使っていた言葉がつづってあって、
 そこから一つの世界が出てくるのですけれども、しかし、
 それではどういうことを相手に訴えようとなさっているのか、
 それが必ずしも全般的にはわからないところがあるのです。

 柳田国男における文体の研究を、ぜひどなたかに
 やっていただきたいと思うのです。・・・・」
   ( p14~16「日本文化の活性化」岩波書店・1988年 )

ちょっくら、引用が長くなりましたが、ここに
『 自分(柳田国男)の一生はいわば一つの大きな川の流れで・・ 』
とある。
そういえば、柳田国男の『故郷七十年』(朝日選書)のはじめの方に、
『布川時代』と題して利根川のことが出て来ておりました。

「私は13歳で茨城県布川(ふかわ)の長兄の許に身を寄せた。
 兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にいるという
 寂しい生活であったため、私はしきりに近所の人々とつき合って、
 土地の観察をしたのであった。布川は古い町で・・・」(p37)

その利根川について、一読忘れられない箇所があるので、
うん。この際、何度でも引用しておくことに。

「さて益子から南流する小貝川は泥沼から来るので、
 利根川に合流すると穢(きたな)くもあるし、臭くもなってしまう。

 ただ一つ鬼怒川だけは、実にきれいな水の流れであった。
 奥日光から来るその水は、利根川に合流しても濁らなかった。

 舟から見ても、ここは鬼怒川の落ち水だという部分が、
 実にくっきりと分かれていてよく判る。・・・・・・

 布佐の方ではあまり喧しくいわないのに、布川では、
 親の日とか先祖の日には、このきれいな鬼怒川の水をくみに行った。

 布川は古い町なので、一軒一軒小さな舟を持っていて・・・
 こういうものの日には小舟で行ってくんできて、
 その水でお茶をのむことにしていた。

 普段は我慢して、布川の方へ寄って流れている
 上州の水をのんでいるのである。
 上州の水が豊かに流れているその南側を
 小貝川の水が流れ、それを通り越して千葉県によった所に、
 鬼怒川の流れが、二間幅か三軒幅に流れているのであった。
 ・・・・・   」( p55~56 )

うん。『大きな川の流れ』から
『実にきれいな水の流れ』が思い浮かびました。

那珂太郎の「尾形仂と『歌仙の世界』」に
昭和20年のことが書かれております。

「 3月9日には東京に大空襲があり、死者七万をこえる
  惨状の詳細は伝えられていなかったが、予備学生出身で
  江田島にいた仲間の一人のところに、
  ≪ 家族ミナ爆死ス ≫という電報がとどいた。・・・

  その電報の受取人が他ならぬ尾形氏だったのだ。
  当時彼の御両親の家は東京の下谷区谷中三崎町にあったのだが、
  家もろとも文字通り家族全員が爆死されたのである。
  (  彼の第一著書『座の文学』扉裏には 
     『本書を空爆の犠牲になった両親の霊にささぐ』
     との献辞がしるされてゐた。  )

  その後彼の(私も同じ)赴任先の海軍兵学校は
  長崎県針尾から防府へ移るが、そこで彼の属していた
  生徒館は米軍の焼夷弾攻撃のために焼亡してしまふ。・・・
  焼跡から軍刀を下げて一人歩いてくる尾形氏の姿が、
  今なお私の脳裡には焼きついてゐる。
  ・・・・・・・・・・

  ・・・尾形氏の経歴をしるしたのはこの温厚篤実な学者が、
  弱年期の戦中から少からぬ悲運や労苦をかさね、決して
  坦々たる平穏無事な学究の道を歩いたのではないことに、
  大方の注意を促したかったからに他ならない。

  尾形氏の学識の広さと、緻密で隙のない研究態度は
  よく知られてゐるが、俳諧といふ専門領域ばかりではない、
  よりひろやかな文学の世界に関心を保持し、つねにその
  人生的意味を問ひつづける彼の志向の根柢には、右に見たやうな
  尾形氏自身の経験的素地があったのだといはなければならない。」

     ( p277~278 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )


うん。『大きな川の流れ』と『実にきれいな水の流れ』。
那珂太郎さんのこの解説を読んだあとでした。
その流れのことを、思い浮かべておりました。




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連想くらべ。

2022-04-17 | 前書・後書。
わたしは、本を読んだ後より、読む前の方がいろいろ思い楽しめるタイプ。
ということで、尾形仂著「歌仙の世界」(講談社学術文庫)を語ることに。

本文を読む前に、あとがきと、文庫版あとがきをひらく。
そして解説、那珂太郎氏の「尾形仂と『歌仙の世界』」を読む。

はい。これで私は満腹。もう本文は、
あとまわしにして語り始めることに。
『あとがき』には重要なキーワード。
まずは

「・・明治以来久しく文学史の裏通りに追いやられ、
 高校の教科書からも姿を消してしまった現在、
 連句の存在やそのおもしろさを知っている日本人は、
 はたしてどれぐらいいるだろうか。・・・・

 本書は、そうした状況の中で、一人でも多くの日本人に
 連句のおもしろさについて知ってもらえたらと、まったくの
 初心の読者を対象に想定して執筆したものである。 」(p272)


『あとがき』は2㌻で、次のページに
重要なキーワードが書かれております。
はい。おもむろに引用することに。

「 連句はつまるところ、連想くらべの遊びである。
 
  なぜ芭蕉はその遊びに生涯を賭けたのか。
  『余興 四章』では、連句が日本人の感性や
  美意識や構想力の特性に裏うちされながら、

  いかに深く日本人の生活の中に根をおろしてきたか、
  そして芸術としてどんな特性や新しい可能性を秘め 
  ているかについて、考えてみた。

  ・・・・・初めはこの仕事に必ずしもそれほど
  乗り気ではなかった私を叱咤督励し、はからずも
  連句鑑賞の楽しさを十二分に満喫する幸せを与え  
  られた講談社出版研究所の中野景好さんに、
  今となっては心から感謝したい。       」(p273)

ちなみに、これは昭和61年5月に刊行されたもので、
1989年12月に、講談社学術文庫に入っております。
那珂太郎氏の解説も読ませます。解説のさわりを引用。

「生真面目な碩学である尾形氏は、自分から私生活や私的経歴
 について書くやうなこともあまりなさそうに思はれるので、
 私の知る範囲のことを・・略記しておきたい。」(p277)

はい。こういう本は、きっと読了後は
咀嚼するのに精一杯で、おいそれとは
語り始められず黙ってしまうのが落ち。
読む前の方がお気楽に語れるのでした。

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あえて好意ある誤解を加える。

2022-04-16 | 本棚並べ
尾形仂(つとむ・1920年1月28日~2009年3月26日)の
「俳句往来」(富士見書房・平成14年)を古本で取り寄せる。

そのなかに、講演要旨とある「連句の鑑賞法」を読む。
座に連なる連句の作者が最初のページに語られてます。

「・・連句の場合、作者と読者の関係は・・・
 連句は作り手が同時に読者でもあります。

 座に連なる連句の作者は、前句の最初の読者なのです。
 しかも前句の作者の意図とは違った解釈を施し、
 あえて好意ある誤解を加えることによって自分の句を付け、
 それによって・・新しい意味を帯びることになるわけです。」(p131)


この講演要旨に『最も思い出に残ったことが、二つあります』とある。
うん。この個所を引用しておきます。

「一つは、私の勤務先、東京教育大では昭和30年代末から40年代末にかけて
 筑波移転をめぐる学園紛争が続きました。そんな中でも学問の火を消しては
 ならぬと教官有志といっしょに芭蕉連句を読む会を始め、月一回、十年間で
 ほぼ読み終えました。・・・・専門が異なると、発想と論理も変わります。
 ですから常に一つの解釈に落ち着くということがありません。

 ああも言え、こうも言え、いろんな説が成り立つのです。・・・・
 それまで国文教師としての私は、おびただしい学説を種々に分類していき、
 これこそがただ一つの正解であるというところまでたどり着くことに
 腐心してきたのですが、実はその態度は文学に携わる者として
 まちがいであったことに気づきました。いろんな解釈があってよい。
 連句も、まさにそれなのです。・・・・・
 そういうことを教わったのもこの会のおかげでした。

 連句は作るほうも共同なら、読むほうも複数のほうがよいと、
 そのとき思いました。・・・・・・・

 もう一つはこの会の少し後になりますが、
 裏千家で俳諧を読む会が始められ、そこでも仲間に入れてもらいました。
 ・・・・
 最初はそれを知るために古文書を読む会が持たれたのですが、
 そのうちに古俳諧に着目されたのです。

 俳諧は文書に比べれば、より直接的に
 風俗・人情を映しているからでしょう。

 柳田国男先生も、そういう立場から
 民俗学の資料として俳諧を材料にしておられます。

 ・・・・参会者には、多田侑史、芳賀幸四郎、小西甚一、
 鈴木棠三、角川源義らの碩学がおり、こういう碩学との
 集いに加わり俳諧を読むことは、すこぶる有益でした。・・」(~p135)

こうして、尾形仂氏の二つの会を引用して
≪ あえて好意ある誤解を加えること ≫という言葉を反芻していると、
あの、第二芸術を戦後すぐに書いた桑原武夫氏のことが思い浮かびます。

「一連の京大人文研究の共同研究がずーっとシリーズであります。
 桑原さんがいる時は、みんなが生き生きとしてるんです。

 つまり桑原さんにはみんなをインスパイアする力があった。
 桑原さんが定年退職してから、目もあてられない。
 なんと人文研というのは頭の悪い連中の集まりか、
 ということになり、日文研に引き抜かれるわけです。

 だから、日文研ができた時から、京都では
 人文研から日文研に引き抜かれたやつと、
 引き抜かれなかったやつという二つの階層ができたわけです。」
             ( p106~107 )

はい。この辛口の視点が語られているのは、
谷沢永一著「人の器量(うつわ)を考える」(PHP研究所・1998年)。

もどって、尾形仂さんの講演要旨には、こうあったのでした。

「連句は、このような意味での作者・読者によって
 構成された一次的な座の文学であります。

 そこでは執筆(しゅひつ)の読み上げる音声を通して
 作品が鑑賞、制作され、進行してゆく、
 その緊張した時間こそ連句の命である、
 というところから芭蕉は
 『文台下せば即ち反古也』という・・言葉を残しています。
 ・・よく連句の本質をついた至言といえるでしょう。   」(p132)

 芭蕉のファンだという柳田国男さんは、『生活の俳諧』のなかで

「もともと俳諧の連歌は、ただ俳諧をまじえた連歌でよかったのである。
 それを心得ちがいして・・どこまでも駄洒落と警句との
 連発でなければならぬと、思っている人ばかり多かった際に、
 わが芭蕉翁だけが立ち止まった、もう一度静かに考えられたのである。
 それが今我々を感動せしめる正風の俳諧であったように、
 私たちは思っている。」


「宗匠(芭蕉のこと)は意外に早く世を去り、
 旧式の教育を受けた俳諧師はなお国内に充ち溢れていて、
 いずれも自分自身の器量だけにしか、これを
 解説し敷衍することができなかったのである。
 これが一つの未完成交響楽、余韻はなお伝わって嗣いで起る者なく、
 あたかも花やかな花火の後の闇のように、
 淋しいものとなった原因のようである。

 この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから、
 方面を転じて少しく実例をもって説明する。
 七部集は私がことに愛読しているので、この中から例が引きやすい。
 ・・・・以前はいわゆる一波万波で、ちょうど子供がふざけ始めると、
 止めどもなく昂奮して行くのとよく似ていた。

 これに反して七部集の歌仙などは、句ごとに聯絡にポウズ(停止)があり、
 また苦吟がある。それを一概に小味という名で片付けられぬわけは、
 後代の復興期などと言われる天明の俳諧と比べてみても、
 なお元禄だけの特徴ははっきりとしているからで、

 つまり芭蕉翁の企図していたものは、
 前のものとも後のものとも違っていた。
 完全に成功しなかったかも知らぬが、
 とにかく全体としての調和を志していたように思われる。

 同じ滑稽でも幾つかの階段を認めて、そのもっとも高調したものは、
 かえってそのあと先を静かな淋しいもので包もうとしている。
 変化を主とすることは古今同じでも、
 毎(つね)に均整に注意し偏倚(へんい)を避けていた。
 起伏高低が大きいだけでなく、波動の中をできるだけ広い区域に、
 数多く設けようとした。それゆえにまた
 その波紋の綾がまたなく美しかったのである。・・・」





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『星の王子さま』の『箱』

2022-04-15 | 道しるべ
尾形仂著「座の文学」(講談社学術文庫)の
あとがきに、教官たちが月に一度集まって
『芭蕉の連句を読む会』を、かれこれ十年ほど続けたとあります。
同人には、独文・仏文・国文・東洋史・日本史・英文・漢文と
尾形氏を入れて10名の名前が並んでおりました。
そのメンバーに外山滋比古の名前があります。

そういえば、外山滋比古に『俳句的』(1998年・みすず書房)
という本がありました。短いエッセイがまとめられた一冊。
たとえば、『よむ?』と題する文は4㌻ですぐに読めてしまいます。
その最後は、こうあるのでした。

「活字印刷になれきってしまったわれわれは、
 詩歌に対してあまりにも近代読者的でありすぎるように思われる。
 ・・・・・
 詩歌では心に響くものがなければ、何もならない。
 ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。」(p78)

うん。これだけじゃわからない。
その、すこしまえからも引用。

「俳句の表現そのものは、きわめて、小さな音しかたてないが、
 享受者の心を共鳴箱にして、ちょうど、ヴァイオリンのかすかな
 絃の音がすばらしい豊かな音になるように、増幅される。

 たとえ、絃がよい音を出しても、
 共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生れない。

 散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現は
 むしろ邪道であるが、詩歌では共鳴を無視するわけには行かない。

 もっとも深いところに眠っているわれわれの共鳴箱を
 ゆり動かしたとき、ことばは力なくして鬼神を泣かしめることができる。
 ・・・・  」

もどって、尾形仂氏のあとがきにあった『芭蕉の連句を読む会』。
そのことを、尾形氏は語っておりました。
「 談笑の間に、その座から受けた学恩ははかり知れない。
  私が座という問題に関心するようになったのも、
  一つはそういう座の体験からきている。・・・・ 」(p370)

うん。外山氏の『俳句的』の本も、あるいはその副産物なのかも
しれないなあと思ってしまいます。

共鳴箱といえば、
サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(内藤濯訳)が浮かんじゃう。
砂漠の真ん中に不時着した、ぼくは『ヒツジの絵をかいて』という
ぼっちゃんと出会います。
『 ふしぎなことも、あんまりふしぎすぎると、
  とてもいやとはいえないものです。 』
こうして、ぼくは、ヒツジの絵を描く羽目になるのでした。
けれども、どうしても、ぼっちゃんには、気に入ってもらえない。
最終的にどうしたのかというと、ここに箱が登場しておりました。

「『こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ』
  ぶっきらぼうにそういいましたが、見ると、ぼっちゃんの顔が、
  ぱっと明るくなったので、ぼくは、ひどくめんくらいました。 」

うん。この空気穴をあけた箱は、じつは共鳴箱だった。
そう。今になって、やっと氷解したような気がします。

もどって、講談社学術文庫『座の文学』には、
さいごに、大岡信の解説が載っておりました。
その解説の最後ページから引用して終ります。

「 私は十年も先輩の尾形さんに対して、
  随分勝手な放言に類することもぶつけるのが常だった。
 
  そして、それが常に確実な手応えで受けとめられ、
  何倍も深く重い答えとなって返ってくる快感に酔わされたのだった。

  これは作り話ではない。『芭蕉の時代』をもしどこかで
  見つけることができたら、ぜひそれを手にとって中を読んで
  もらいたいものだと思う。

  そこには、座談特有の親しみ深さで語られた、
  芭蕉とその時代を口実とする≪座の文学≫俳諧についての、
  実に興味津々たる大学者の炉辺談話があるのを人は見るにちがいない。」
                           ( p380 )

ふ~う。またしても手元に置きたくなる本がふえそう。
王子さまなら、こう言うのだろうか。

『 うん、こんなのが、ぼく、ほしくてたまらなかったんだ。 』




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ランドセルとリュックサック。

2022-04-14 | 本棚並べ
一年ぶりかなあ。昨日は東京へゆく。
年末から年始にかけて、引越ししたのを拝見がてら、
引っ越し祝いという名目でゆく。といっても、
途中で弁当を買ってゆき、そこで食べるのが目的。
せっかく出かけるので、一日楽しめるように、
午前5時の高速バスを予約。目的地は葛飾四つ木。
東京で地下鉄に乗り換えて、四ツ木駅で下車。
それから引越し先までは徒歩で15分くらい。
歩いていると、ちょうど、歩道橋を渡る時に、
小学生の通学児童の列にはさまっての上り下り。
はい。小学生はランドセルをしょっている。

脇道を通っていると、新中学生らしき小さな男の子が、
大きなリュックを制服の後ろにさげて登校中の姿をみかける。

はい。地方にいると過疎化でね。
地域の小・中学校が閉校となり、
園児や小・中学生は、通学バス。
並んで小学校へゆく生徒の姿や、
バラバラと学校帰りの生徒が寄り道しながら帰って来る姿を
そういえば、最近とんと見かけなかったことが、思い浮かぶ。

さてっと、夜になって家へ帰ってきて。
ランドセルとリュックが印象に残ったとみえて、
今日、目が覚めると思い浮かんだのが、
中村草田男の俳句と、それにまつわるエピソードでした。
以下に司馬遼太郎の言葉を引用。

「 『降る雪や明治は遠くなりにけり』
 草田男は明治34年の生まれでしたが、松山の人であります。
 大学生であることを30歳ぐらいまで続けていた暢気な人でして、

 たしか私は草田男の文章で読んだ記憶があるのですが、
 青山付近を通っていて、青山南小学校の生徒たちがランドセルを
 背負って校門から出てくるのを見ながら、この俳句が浮かんだと。
 それ以上のことはよくわかりません。・・・・  」
       ( p163 「『昭和』という国家」NHK出版 )

背負うといえば、徳川家康遺訓とか、二宮尊徳像とか、
読んだこともない強力伝とかが、思い浮かぶのですが、
はい。重くならないようにここでの引用は変化球です。

林望著「ついこの間あった昔」(弘文堂・平成19年)に、
行商のオバサンを思い出している箇所があるのでした。

「私は東京で生まれ、東京で育った。 生まれは亀戸という下町で、
 まもなく大田区の石川町というところに引き移った。ここで
 小学校の4年生まで過ごし、その後は武蔵野市に開かれた
 大きな住宅公団のアパートに引っ越したのだが、
 それがちょうど昭和の34年だったかと思う。

 この海からは相当に隔たった武蔵野の団地までも、
 海辺のオバサンたちはやってきた。

 千葉の岩井のあたりから電車に乗って、まだのんびりと
 蒸気機関車なども走っていた中央線の線路の上を、
 たぶん総武線の各駅停車に乗って、彼女たちは
 はるばると海の幸を運んできたものだった。

 一週間に一度くらいの割合だったろうか、
 まっくろに日焼けして、約束事のように
 手ぬぐいで姉さん被りをし、モンペに割烹着、
 それに前掛けをかけてというような姿で、
 いつも同じオバサンがやってきた。

 こういう都会の家庭相手の行商では、
 オバサンの籠のなかには、海の幸山の幸が
 あれこれ混在して詰められている。・・・

 彼女たちの場合は担い籠を三つも四つも重ねて、
 その全体を大きな風呂敷で包み、さらにそれを
 背負子(しょいこ)のようなものに帯のような
 紐で括り着けてやってきた。

 玄関先で、よっこらしょっ、と背から荷を下ろすと、
 たいてい『やーれやれ』というようなことを言った。

 子供心に、こんな小さなしなびたようなおばあさんが、
 背丈ほどもある大荷物を背負って歩くんだから、
 なんだかかわいそうな気がした。おそらく、
 そういう同情もいくぶんあって、
 行商のオバサンがやってくると、
 母などは、ずいぶんあれこれと買ってやるのだった。
 ・・・・            」( p215~216 )

このあとも、オバサンと母との会話やら、トコブシやら
棒秤の使い方やらが林望さんの記憶から引き出されてゆきます。
うん。そちらも、ついつい引用したくなるのですが、ここまで。

え~と。小学生とランドセルから、中村草田男の句。それに
小さな中学生の大きなリュックから、林望の「オバサンがやってくる」。
という連想でした。リュックサックといえば、もうひとつ、
思い浮かんだ場面があるのでした。最後にこちらも引用。

それは梅棹忠夫著作集第16巻の月報19に載っている
四方治五郎の三高の頃の思い出のなかにありました。

「この年の夏の登山で彼は南アルプスに一ケ月近く登って来て、
 その後で我々の北アルプスのパーティに加わったのである。
 
 上高地の河童橋付近で落ち合ったのであるが、
 彼の60キログラムのリュックサックは彼の背丈近くあり、
 彼(梅棹)がそれをかつぐにはまずリュックサックを
 地面に背側を上にしたおき、その上に彼が仰向けにのり、
 リュックサックの紐に肩を通した後立ち上がるといった光景で、
 道行く人も目を見張って見ていたことを思い出す。・・・」(p7)


はい。本の中なのですが、どの場面も印象に残っておりました。
う~ん。こういう連想をただ羅列するだけじゃなくって、こんな、
連想の転換の妙を、これから私は俳諧に学ぼうとしているのかも。
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振り出しに戻っての『俳句』。

2022-04-12 | 本棚並べ
丸谷才一著「思考のレッスン」のレッスン②に
中村さんに教わったこと、というのがあります。

『 既成の約束事にこだわらない、
  すべて振り出しに戻って考えるという、
  それが僕が中村さんから教わったことです・・ 』
              ( p79・単行本 )

はい。それでは、『俳句』の振り出しに戻ってみることに。
分かりやすかったのは、柳田国男の第一高等学校での講演。
その『生活の俳諧』の、はじめの方にありました。

「 俳句という言葉は、明治以来の新語かと思われる。
  日本では第一高等学校を一高という類の略語が通用しているから、
  『俳諧の連歌の発句』を略して俳句というのも気が利いている。
  しかしそのためにわが芭蕉翁の生涯を捧げた俳諧が、
  一段と不可解なものになろうとしていることだけは争われない。 」
                ( p196・新編柳田国男集第9巻 )

ほかには、重複するかもしれませんが
尾形仂(つとむ)氏の、文からも引用。

「近世を通じて、俳諧といえば主として連句をさしていたが、
 正岡子規は、本来連句の巻頭の句という意味でそう呼ばれ
 てきた発句を独立させて≪ 俳句 ≫と呼称を改め、

 これをかれの理解した西欧流の文学観にもとづいて、
 個人の感情を表現する文学として新生させるに際し、
 『発句は文学なり、連俳は文学に非ず』(「芭蕉雑談」明治26)
 と言って、連俳つまり連句の文学性を否定し、これを切り捨てた。

  ・・・・・・・・

 だが、≪ 連俳非文学論 ≫の提唱者である子規自身、
 実際には明治23年から同32年にかけて鳴雪や虚子・碧梧桐
 その他と20点以上に上る連句を試みており・・・

 『自分は連句といふ者余り好まねば古俳書を見ても 
  連句と読みし事無く又自ら作りし例も甚だ稀である。
  然るに此等の集にある連句を読めば
  いたく興に入り感に堪ふるので、終には、
  これ程面白い者ならば自分も連句をやって見たいと
  いふ念が起って来る』(「ほととぎす」明治32・11)
 
 と言うに至っている。」( p360~361「寺田寅彦全集第12巻」解説 )


漱石と子規との関係では、
尾形仂・大岡信の『芭蕉の時代』(朝日新聞社)のなかで
大岡さんが面白い指摘をしておりました。
最後は、そこを引用しておきます。

大岡】松山にいる漱石が東京の子規のもとへ、
   ちょうど月並の宗匠のところへ送るようにして、
   句をつくっては送りますね・・・・・・

   漱石はときどきわざとふざけたような句をつくって、
   子規に怒られるだろうことを見越した上で送っているふしがありますね

   それは子規にとってずいぶんプラスだったのじゃないかな。
   突っぱって一直線にどこかへ行きそうなときに、
   横合いから漱石みたいな、わりと余裕のある友だちが
   妙ちくりんな句を送ってきたりする。

   子規は病床でたぶん笑いながらその句を直したりするんでしょう。
   そういうことがあって、子規自身のつくる作品がよくなっていく
   んですよね。

   短歌についても、明治33年前後、びっくりするぐらい
   月々よくなっていく、写実的なんだけれども、
   その写実のなかにいろんな要素がはいってくる。・・・

   ああいうものの養いになっているのは、
   虚子や碧梧桐のような後輩、中村不折のような画家の友人、
   そしてもちろん漱石など、親密な交わりの友人たちを
   通して子規が感じている感触だったのではないか。

   子規はそういうものを知らず知らず自分のなかに溶けこませ、
   そして自分がどんどんふとっていく、そういう友だちづきあいが、
   あの当時にはありえて、それがちゃんと詩の問題に結びついていた。
   ・・・・

尾形】 自分の作品を受けとめてくれて悪口なりなんなり
    言ってくれる人がいることを前提に詠むということは、
    詠むほうにとってもうれしいことです。

    だから子規は漱石の俳句を臆面もなく批評する。
    先生づらして・・・・・。(笑)
                    ( p217~218 )
    
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芸術などと、気負わず

2022-04-11 | 本棚並べ
けなし言葉の連発は、顰蹙を買いますが、
ほめ言葉の出し惜しみは人を萎縮させる。
『感動』という言葉は、どう使えばいい?

ちょうど、手元に置いてあった
谷沢永一著『いつ、何を読むか』(ロング新書・平成18年)から。
うん。谷沢さんは、そんなに褒めない方なのですが、
そういう方が、効果的にでも褒めるのは印象的です。
桑原武夫氏を語って

「・・・桑原武夫は統率者(オルガナイザー)および
 随想家(エッセイスト)としてひときわ秀れていた。

 ・・・先達および知友の肖像(ポルトレ)は・・・
 やはり人物描写を支える清純な畏敬の念は常に感動を誘う。
 その最高傑作が、材に人を得た『西堀南極越冬隊長』では
 なかろうか。・・・」(p46)

これは西堀栄三郎氏を紹介するために、ちょっとその
出だしで登場する桑原武夫です。さらりと『感動を誘う』
という言葉を書きこんでおりました。

そういえば、と本棚から取り出したのは、
桑原武夫の七回忌の集まりの記録を一冊にした本でした。
杉本秀太郎編『桑原武夫 その文学と未来構想』(淡交社・平成8年)

その中で杉本氏は15分ほどの話しをしておりました。
その中から引用。

「・・『詩(ポエジー)は人間の神話をつくる。
    散文は人間の肖像(ポルトレ)をつくる』と。

 ・・・・桑原先生が・・・とりわけ散文の機能として
 人間の肖像というものを描く、そのための散文が
 とりわけ優れた作品として先生のお仕事の中に
 残っているし、光っていると僕は思うんです。

 ・・・中でも光っていると僕が思うのは
 狩野君山(直喜)先生について書かれた二つの文章、
 それと『西堀南極越冬隊長』という西堀さんについて
 書かれた相当長い文章、この三つがとりわけ光っているし、
 何度読んでも感動する文章です。・・・・」(p79)

はい。杉本秀太郎氏の『感動』をつづけます。
杉本秀太郎著「ひっつき虫」(青草書房・2008年)。
この中に「この一冊」という箇所があって、その中に

「柳田国男『なぞとことわざ』(・・1952年10月初版)。
 手もとにあるのは四版、55年6月の刊行。
 新刊書店でこれを買った当時、私は京都の古本屋を
 毎日のように回遊しては柳田さんの本を片はしから
 買い集めていた。たちまち百冊を越えたが、やがて
 『定本柳田国男集』(31巻、別巻5、筑摩書房)の
 刊行がはじまった。

 『なぞとことわざ』一冊は『中学生全集』中に収められてはいるが、
 けっして程度を下げて書かれたものではない。初めてこの一冊を読んだとき
 私はすでに24歳だったが、感動にはいまもおぼえがある。・・・」(p221)

はい。
『清純な畏敬の念は常に感動を誘う』、
『何度読んでも感動する文章です』そして、
『感動にはいまもおぼえがある』と、三つを引用しました。

つぎへ行きます。杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)。
ここに「第二芸術論のあたえたもの――桑原さんのこと」と題する
6ページほどの文が載っておりました。こちらは、『感動』はなし。
うん。ここを引用して、おしまいにします。

「桑原さんは芭蕉と蕪村を好み、このふたりの俳句なら
 立ちどころに30くらいは口をついて出る程度によくご存じだった。
 
 昔の俳句はもう少しましなものだったのに、
 言葉の芸として当節の俳句はあんまりひどすぎる。

 芸術などと気負わずに、傍目(はため)にももう少しは
 見やすい遊びを見せてくれるならまだしもだが―――
 第二芸術論の手きびしい調子のかげに隠されている桑原さん
 の心を取り出せば、おそらくこういう独白になっただろう。

 1982年の9月、私は・・出かける用があり、たまたま
 パリ滞在中の桑原さんと何度かお会いした。10月に入ったのち、
 帰国直前の桑原さんをホテルにたずねていくと、
 トランクのうえに一冊の岩波文庫が投げ出してあった。

 『この文庫、ほしかったら君にあげるよ』と言われて
 手にとると、それは『芭蕉七部集』だった。

 『あれ、ぼくもこれを持ってきています』と答えると、

 驚いたような、咎めるような、しかしまた安堵したような、
 照れたような、微妙な表情が、桑原さんの顔にしばらく浮かんでいた。」
    (p199)

ここには、『感動』の言葉のかわりに『芭蕉七部集』がありました。

ちなみに、桑原武夫氏は1988年4月に亡くなっております。
杉本氏の、この文は1988年7月20日「アサヒグラフ」に掲載。
この文は、桑原氏への追悼文として書かれたもののようです。
追悼文の、題名を『 第二芸術論のあたえたもの――桑原さんのこと 』
としたことを、岩波文庫『芭蕉七部集』とともに思い浮べてしまいます。



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