和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都本コーナー。

2020-03-31 | 京都
グレゴリー青山著「深ぼり京都さんぽ」(集英社インターナショナル)
を、あらためて本棚からとりだす。

はい。くりかえし読んで面白い漫画の京都案内。
そこに、古本まつりを描いた箇所がありました。

「京都には≪三大古本まつり≫というものがある。
夏は下鴨社の『糺の森』
春は岡崎の『みやこめっせ』
秋は『百萬遍知恩寺』で開催される。
なかでも夏の古本まつりは春・秋よりもセール感があって
・・ワクワクする」

解説文の間に漫画が描かれていて。古本祭の一角に
『京都コーナー』という横看板を掲げた本棚がならび
お客が立ち読みしてる。そこにあった説明はというと
「大量の京都本が集められた≪京都コーナー≫」
(p117)。

うん。私はいったことない(笑)。ですが、
古本まつりの「京都本コーナー」というだけで、
なんだか、はっきりと夢にでてきそうです(笑)。

またp24~25では、東本願寺近くの『法蔵館書店』
のお店の中に、二人してはいっておりました。
そこでの解説と二人の会話とをごっちゃに紹介。

「わー お経のCDがいっぱい売ってる」
「お経のCDって聴くとすごい落ち着くねんなー」
「持ってるんや・・・」

広く明るい店内にはぎっしりと仏教関連本が
学術的な専門書はもちろん
初心者向けや子ども向けの絵本
手塚治虫『ブッダ』などの漫画
仏像や仏教美術の本など
ありとあらゆる関連本があって

「へー 精進料理のレシピ本も売ってる」

仏教を知らないグレゴリーにも新鮮で
仏教に興味のある人なら1日いても飽きないだろう

p130から、古本屋さんの紹介もあります(笑)。

はい。古本まつりの「京都本コーナー」って、
これはいつか夢に出てくるだろうなあ(笑)。






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不知不識(しらずしらず)の間に。

2020-03-30 | 本棚並べ
産経新聞。産経抄(3月30日)のおわりを紹介。

「・・・・まあ、いいや。
大量の情報や映像が瞬時に流れようとも人類は、
目に見えないウイルスに翻弄されるほど脆い。

外出がままならぬ今こそ、
古今東西の名著を読まれるようお勧めしたい。
武漢発新型コロナの長いトンネルを抜けると、
どんな国が待っているのか。
本にヒントが書いてあるはずだ。」

うん。本の話を、こういう時だからしましょう。
まず、「古今東西の名著」は敬遠して、本棚から
森銑三・柴田宵曲「書物」(岩波文庫)をとりだす。

こんな箇所はどうでしょう。

「端本(はほん)、欠本などの、前後の揃わない
不完全な書物もまた一つの題目となる。

昔江戸の増上寺に、勧玄(かんげん)という坊さんがいた。
学問好きで、書物を買込むのに、安物ばかり買う。
残欠本だろうが不完本だろうが、
廉(やす)ければ何でも構わずに買う。
 ・・・・
一緒にいる坊さんたちがそれを嗤(わら)って、
もっとよい本を選んで買うことにしたらどうか
といったら、わしだって書物好きなのだから、
よい本のよいくらいのことは知っているが、
わしらのような貧乏人がよい本を狙ったら、
点数では幾らも備付(そなえつ)けられはせぬ。
仕方がないから安物で我慢するのだ。
けれどもこれだっていっぱし役には立つし、
端本だろうが、欠本だろうが、
それでもないよりはましなのだから、
それらもやっぱり棄てられぬ、といったそうである。」

これは「不完全」という題で、森銑三の昭和23年の文。
そう、『徒然草』にでも、すべりこませたくなるような文。

はい。端本や欠本。不完本ではなしに、
それでは、いっぱしの教科書はどうか?

わたしに思い浮かぶのは、「中学の歴史教科書」。
産経新聞3月25日一面には、令和3年度中学校の
「教科書に『従軍慰安婦』復活」と、見出しがありました。

うん。『書物』からあらためて引用。
題は「青年図書」。

「現今の中学校は、高等学校に入るための予備校たるの
観を呈している。学生はただ学科の復習予習を強いられ、
試験で追い立てられて、余暇に読書に親しむことに依って、
自発的に己を豊かにして行こうという気風に乏しくなっているらしい。
 ・・・
少くも中等学校の上級生にもなったならば、ただ学校において
授けられるものを、受動的に受入れるだけに甘んぜずに、
己の求めようとするものを自ら得て行く習慣を養うべきではあるまいか。」
(p119)

このあとに「・・青年たちの読書のことを考えてみたい」と
つぎをはじめておられるのでした。

この「青年たち」を、私は
「武漢新型コロナウイルスで学校へ行けない青年たち」
と、つい言い換えてみたくなります。
では、引用をつづけます。

「しからば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、
それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えること
なども考慮せられるべき・・・・・・・

そしてまた小学校などにおいては、あまり学習科目を
多岐にわたらしめずに、まず第一に読解力の養成に努めしめて、
卒業後各自が自発的に自己を養って行かれるだけの
基礎を作らしめむべきである。・・・」(p120)

「私は以前、大隈侯爵家において編輯せられた『国民講習録』
というものをまとめて買って読んだことがある。
その編輯者は桜井鷗村氏で早稲田大学系の学者が多く執筆していて、
内容の相当によいものだったことを覚えている。そうしたものが
更に大規模に作られるようにしたいものである。」(p121)

「講義録といえば勢い、知育が主となろうが、青年たちの読物として
・・・健全にして興味の豊かな通俗図書が多く作られねばなるまい。
  ・・・・・・
それらの書物には、政治色のない、教訓の意の表立たないもの
の方がむしろ好ましい。時局に対する認識を徹底せしむるには、
なお他の方法があるであろう。

娯楽図書は純然たる娯楽図書たるべきであり、
ただそこに不健全な低劣な分子を持たしめず、
不知不識(しらずしらず)の間に情操の陶冶(とうや)に
資せらるるものがふさわしかろうと思う。・・・」
(~p122)

はい。これが昭和23年の文なのでした。
現代では、中高の歴史教科書には、
『不知不識の間に情操の陶冶に資せらるるもの』
こういう手腕をかねそなえた教科書を
つくる大人は望めないのでしょうか。

はい。もどります。
古本の『書物』(ワイド版岩波文庫)は、
200円にて、購入してあったものです。
文庫解説は中村真一郎。その解説に

「今日のジャーナリズムの傾向は、
一般に長く誇るべき人類の古い文化遺産を
忘却し、目前の流行のみを追おうとしている。
そうした際に、このような、近世の書物の塵に
生涯を愉しく埋もれさせた先達の貴重な書物が
甦って、陽の眼を見ることができるのは、
何たる快挙であろう。・・・・」(p336)

はい。古今東西の名著ではないけれど、
こういう本もあるのでした(笑)。




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事実を報じないウイルス。

2020-03-29 | 産経新聞
産経新聞の日曜日は、連載コラム「新聞に喝!」。
数名が持ち回りでの署名コラム。3月29日は門田隆将。

うん。せっかくですから、引用することに

「新聞は『事実』は報じなくてもいいのである。」

はい。『良薬は口に苦(にが)し』。
ふたつの例を示しておりました。
両方引用したいのはやまやまですが、
ここでは、2つ目を引用してみます。

「自殺した近畿財務局職員の妻が当時の
財務省佐川宣寿(のぶひさ)局長と国を提訴し、
夫の手記を週刊文春に発表したことに・・・」

ここでの朝日・毎日新聞の印象操作に触れながら、
事実を、産経新聞紙上に記すのでした。

「佐川氏が自ら犯した答弁ミスを糊塗しようとしたことや、
当の改ざん前の財務省文書には鴻池祥肇(よしただ)氏、
平沼糾夫氏、鳩山邦夫氏といった政治家から財務省への
働きかけ有様(ありさま)がしっかり記述されており、
財務省では『鴻池案件』と呼ばれていたことなど、
肝心なことには一切触れず、あたかも
『安倍首相の関与』があるかのように印象操作するのである。
ここでも新聞は事実とは『関係がない』のだ。
自分たちの使命は『印象操作である』と考えている
としか思えない。・・・・」


武漢新型ウイルスの自民党内部の対応に関しての、
『事実』は報じられないのだろうけれど、
それでも、東日本大震災の際の民主党とは違い、
いまは、安倍晋三首相が差配しておられる。
うん。そう思えば、混乱のさ中であっても、
曙光がさすような安心感が湧いてくる。

はい。そう思うのは私だけでしょうか。

朝日・毎日新聞もそうなのですが、
それにしても、事実を率先解明しようとしないばかりか、
数値報道さえも、まずは疑ってかからなければならない、
慎重を強いられる、武漢コロナウイルスの中国報道です。




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バイバイキン。

2020-03-28 | 先達たち
土曜日は、産経新聞3月28日の読書欄。
「花田凱紀(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。

うん。最初を引用。

「・・『週刊ポスト』(4・3)、石戸諭さんによる
120分インタビューのタイトルが
『百田尚樹「安倍さんには失望したわ」』。
百田さん、ツイッターで・・見出しがひどいと怒っている。
たしかにインタビューの中で百田さんはこう語っている。

『安倍さんは今のところ、私が見る限りベストに近い総理です。
これ以上の政治家は今の日本では見あたらないでしょう』

そう前置きして、『その安倍総理でもこのくらいの対応しか
できないのか、という失望がありました』
が、まぁ、こういうタイトルをつけたくなる
編集長の気持ちもわかる。」


はい。具体的になればなるほど、専門家でも
『暗黙の前提』をもとに、語ることはよくあります。
前置きは、ちょくちょくはぶかれ、誤解を生みやすい。

まあ、わたしは本を読むのは、前書きと後書きだけ、
ちっとも内容に分け入って読むことはありません(笑)。

さてっと、新型コロナウイルスにも
『暗黙の前提』があるのじゃないか?
ひょっとすると、そんな視点があるのじゃないか?

そう思えてきたのは、年の功でお婆さん。
月刊誌WILL5月号の曽野綾子の文を
読んだからでした。

うん。意地悪ばあさん曽野さんは言います。

「つまり世の中が、論理ではなく、
予想しがたい現実によって或る決着を見ると、
私の本性の一部はいきいきと反応した。・・・・
こんな愚かしい逸話を思いだしたのは、
やはりコロナ騒ぎのおかげである。
文学とは荒々しい状況を好むものだ、
ということは、カミュの『ペスト』によっても
表わされている。穏やかな日常より、
如何ともしがたい運命の荒波の中に
置かれた人間の方が、より明晰な
人間らしさを見せるものだ。・・」

こうして曽野お婆さんは、文の最後のほうで
こう指摘するのでした。

「コロナは呆気なく終わるだろうが、
日本人は時々、日常性の範囲にない
暮らしをする方がいい。・・・・」(p32)


はい。アンパンマンでは、
その都度、バイキンマンが登場して、
アンパンマンをやっつける。やられても、
アンパンマンは立て直し、バイキンマンに
むかってゆく。やがてバイキンマンは
バイバイキンといって、遠くに飛ばされて、
その回は終ります。

うん。この非常事態にあって、
『コロナは呆気なく終るだろう』という
曽野お婆さんの言葉に希望を託して、
無事の解決を祈るばかりです。

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バイキンマンの話。

2020-03-27 | テレビ
月刊Hanada5月号は、総力特集「武漢肺炎、日本は負けない!」。
うん。ひとつだけ紹介することに。
ブローガー藤原かずえさんの「テレビで政治運動を展開」
「詭弁、逆ギレ羽鳥モーニングショー玉川徹は何様のつもり」
P106~115。
コメンテーターのコメントを時系列で、活字におこし、
それに注釈をほどこしてゆきます。場当たり的な
テレビのコメントは、そのつど拡散して消えてゆくものと思いきや、
藤原さんから、まるで、古典の注釈の授業をうけているような、
日常的で時系列のきめ細さでもっての圧巻の指摘なのでした。
うん。読めてよかったと思っております。

つぎいきます。
月刊WILL5月号の巻頭随筆というのか巻頭コラム。
そこに日下公人の連載があります。
え~と。どこから語ればよいのか。
同じ雑誌に曽野綾子の「若者に『非常事態』の体験を」
という文もありました。
曽野綾子さんと、日下公人さんは
曽野さんが1931年生れ。日下さんは1930年生れ。
はい。お爺さんお婆さんの知恵を教えて下さっている。
ここでは、日下さんのコラムから、そのはじまりは

「何百年か昔、海外から病気が入ってくるときは港からきた。
アジアからの船と乗組員が病原菌をもってきた。そこで・・・
安政条約による開港地では、明治になってから検疫所が
つくられたのだった。その近くの医科大か専門学校の学生が
アルバイトに動員されたが、一体どんな病気が入ってくるのか
わからなかったから、時には命がけのアルバイトだったと言える。」

こうはじまり、田舎出の日下さんが、東京での下宿で
慈恵医大の学生との付き合いでじかに、知ることになります。
日下さんは、その経験を書いたあとに、自身が生まれる前の
母親のことを思い出しておられます。
うん。そこも引用しちゃえ。

「第一次世界大戦で日本が戦勝国のひとつになったとき、大蔵省の
神戸関税長は『これからは外国船が神戸にも入ってくる』と考えた。
・・そのときは女性の公務員がついていた方がよいと考えたのは
さすが神戸で、たくさんの女性が大蔵省を志願したが合格した
二人に母が入っていた。
しかし、たちまち熱帯病に感染して生死の境をさまよった・・・
と聞いたことがある。まだ結婚前だから私はこの世に生まれていない
・・・原因不明なままの一週間だが、そんな話を聞いていたので
何となく、流行病はいずれ治るとか、若ければ治るとか、
手を洗えとか、そんな思い出がわが家に残った。」

うん。2頁の文なのに、内容は豊富、できればね
全文読んでいただきたいのでした。
ここでは、あとは最後を引用。

「清潔とは、単に衛生用語ではなく、
心のもち方や日頃の生活態度や行為にまで
広げて用いられるのが日本である。

テストや試合でインチキをすると『キタナイゾ』といわれ、
くりかえすと『バイキン』といわれて、『ノケモノ』になる。

日本外交は相手国を『A級ノケモノ』とか、『B級バイキン』
とかに指定して広く世界に同調を求めるべきである。すぐやろう。

衛生には巨額の費用がかかる、ということもわかるだろう。」

はい。これが2頁の文の最後の箇所でした。

うん。バイキンといえば、アンパンマンに登場するバイキンマン。
そんなふうに、私の連想はひろがります。
板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)
という新書サイズの本が1998年に出ておりました。
ちなみに、板坂元氏は1922(大正11)年生まれ。
この本におもしろい場面がありました。
そこを引用。

「私が学徒出陣で入営したときの班つきの
『柳瀬軍曹殿』から法定伝染病の講話を受けた。

そのとき『コセチパトホシジリペ』と教わった。
それを今でも覚えている。コはコレラ、セは赤痢、
チが腸チフス。以下パラチフス、痘瘡、発疹チフス、
猩紅熱、ジフテリア、流行性脳脊髄膜炎、ペストの頭文字だ。

ほかには何を話されたかは忘れても、
この言葉だけは今でも覚えている。
柳瀬軍曹殿は漫画家の『やなせたかし』氏である。
・・・・」

はい。いま『バイキンマン』といえば、
日本中、誰でもが、知ってますよね。









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令和3年度の歴史教科書。

2020-03-26 | 産経新聞
昨日の産経新聞(3月25日)の一面は
「教科書に『従軍慰安婦』復活」という見出し。
つぎに、こうありました。

「文部科学省は24日、令和3年度から中学校で使われる
教科書の検定結果を公表した。合格した社会科の歴史教科書では、
平成16年度検定以降は使われなくなっていた『従軍慰安婦』の呼称が
復活。先の大戦で日本軍が『沖縄を「捨て石」にする作戦だった』などの
記述もあり、一部の自虐色が強まる傾向がみられた。」

以降には「つくる会など4点不合格」として書かれておりました。

さてっと、今日の産経新聞(3月26日)一面コラム産経抄。
そのはじまりから引用。

「何度も書いてきたことだが、
『従軍慰安婦』は戦後の造語である。
慰安婦が従軍記者のように、直接軍の管理下に
あったかのような誤解を与えてきた。
このいかがわしい呼称が、中学校の歴史教科書で
使われるようになったのは、平成9年からだ。
  ・・・・・・
教科書の記述の偏りに危機感を強めていた言論人は、
『新しい歴史教科書をつくる会』を発足させた。
自民党の若手議員も立ち上がった。
『歴史教育のあるべき姿は、自身が生まれた郷土と国家に、
その文化と歴史に、共感と健全な自負を持てるということだ』。
その一人だった安倍晋三首相の発言である。

平成16年度の検定以降は使われなくなっていた
『従軍慰安婦』が、令和3年度の教科書で復活する。・・
一方で、『つくる会』が執筆する教科書は不合格となった。
一体、何が起こっているのか。・・・・・・」

はい。新聞をよくは読まないのですが、
今日の産経新聞は、ついつい拾い読み。
まずは、一面の見出し。
「都、週末の外出自粛要請」

「感染拡大を続ける新型コロナウイルスをめぐり、
東京都は25日、新たに41人の感染が確認されたと
明らかにした。感染者の急増を受け・・・・
平日はできるだけ自宅で仕事を行い、
夜間も外出を控えるように求めた。・・・」

「阿比留瑠比の極言御免」は、
加戸守行前愛媛県知事の訃報に触れて、

「加戸氏といえば県知事としての体験を通し、
学校法人加計学園の獣医学部新設計画を
めぐって認可手続きの正当性を訴え、
次のような論陣を張ったことが印象深い。

『日本獣医師会に一切メスを入れないというのは、
不思議な国会だ。徹底的な「悪」は、既得権益を死守
するために獣医学部の新設をつぶしてきた獣医師会
なのだが』

このあとに阿比留さんはつづけます。

「・・・記事によると加戸氏は昭和57年、
マスコミが一斉に文部省が教科書検定で
日本の『侵略』を『進出』に書き換えさせたと
大誤報した『教科書誤報事件』(産経新聞は訂正)の
際の官房総務課長だった。

加戸氏はマスコミ各社に
『こんな誤報を流してあなた方は恥ずかしくないんですか!』
と迫ったが、記者たちは産経新聞を除いて
口を拭って間違いを正そうとはしなかったという。
その結果・・・・・・・」

うん。今日の産経新聞は月刊Hanadaの全面広告。
その広告の左側見出しは「詭弁、逆ギレ玉川徹は何様だ」
その脇にこうありました。
「当て推量で、口から出まかせ、事実に基づかない
政府批判を繰り返すテレビ朝日社員の大罪!」。

うん。月刊誌が間違いのルーツを探っております。
新聞は隅から隅まで読まない私ですが、オピニオン欄の
西岡力氏の正論欄の文章も読めてよかったです。

あなたは、どんな記事を読みますか。
今日の産経新聞は読みどころ満載。
こういう、コラム・連載・オピニオンを
読めることのしあわせ感があります。
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図録全集重要文化財。

2020-03-25 | 本棚並べ
自分の本棚ではなくって、他人の本棚の整理。
あるじ亡き後の、本棚のある居間の整理でした。
そして、もらってきたのが、図録全集でした。

毎日新聞社の「重要文化財」文化庁監修
絵画・彫刻・建造物などがはいっている全集で、
一冊ごとに函入で、中身はきれいそうです。
うん。無料で頂いてきたので、
お気楽に、思いついたらめくろうと思います。
でも、開かなければ、宝の持ち腐れに
なりそうでもあります。

帰ってからお風呂にはいって、
この全集は、そのまま置いてある。
うん。とりあえず、
「重要文化財15建造物Ⅳ寺社」を
ひらいてみる。この巻は昭和49年とある。
冊数は第一期の17巻まで。

うん。建造物の写真というのがいいです。
はじめの「刊行のことば」に

「文化財保護法は、重要文化財を知ることが
わが国の歴史文化の正しい理解に不可欠で、
かつ将来の文化向上の基礎だとのべている。」

うん。活字本を最後まで読むのも面倒ですが、
こうした、写真の図録全集をひらくのも億劫。
ですが、ブログを書いていると、ひらくのが
楽しみになりそうな気がします。
持ち主は、本棚に大切に並べてあったのですが、
どうやら、開かずじまいだったような気がします。

こういう時は、無料ということもあいまって、
全集をとりあえず、最後までめくれますように、
乱雑に汚してもいいや。という気持ちでおります。

この巻は、原色図版が10枚。
京都から4。滋賀が3。東京1。愛知1。奈良1。

ほかに白黒図版で
門、鳥居、廻廊、廊堀、垣、拝殿、幣殿が
いろいろと京都からはじまって、各地へとわたります。

はい。パラリとでも、見ているのは楽しいのですが、
本棚に置かれると、そのままに、忘れそうな気がしてきます。
そうして、また、誰かが、この全集を譲り受ける。
その時に、まだ本の頁は、開かれずきれいなまま。
なんてことを思いながら。そうなってもいいか(笑)。

置かれていることが大切なこともあります。
そして、誰かがその本をひらく。う~ん。
その図録全集をひらく誰かが、わたしでありますように。
という気構えでもって、頂いてきました。

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ミラノ。17世紀の混乱。

2020-03-24 | 産経新聞
3月24日産経新聞一面。
右見出しは、「五輪延期 首相が容認」。
そのわきに、「IOC『4週間内に結論』」。

さてっと、一面コラム「産経抄」は
21日悪性リンパ腫で93歳で亡くなった
宮城まり子さんをとりあげておりました。
うん。コラムのはじまりだけ引用(笑)。

「男女間の性の深淵を描き続けた作家、
吉行淳之介さんの全集(新潮社)の最終巻に、
人生のパートナーだった女優の宮城まり子さん
に送った13通の手紙が収録されている。」

うん。これだけじゃ、コラムの魅力を伝えられないなあ。
宮城さんが肢体不自由児療養施設『ねむの木学園』を
設立する際、吉行さんに相談すると

「『3つの約束が守れるなら』とOKが出た。
『愚痴はこぼさない、お金がないと言わない、途中でやめない』
静岡県掛川市にある学園が今年創立52年を迎える。・・・」

はい。産経新聞今日の一面紹介は、ここまで。

気になっていたのが、産経新聞3月19日の文化欄でした。
そこに「コロナ渦中 古典に学ぶ」とありました。

ミラノのボルタ高校の校長は2月下旬、公式サイトで
イタリア文学『いいなづけ』を紹介しているというのでした。
作家アレックサンドロ・マンゾーニ(1785~1873年)が
書いたこの小説には、17世紀のペストの流行に伴い
社会が不安に襲われる様子も描かれ、現代に通じる
描写や教訓が多いと話題に・・・・

ボルダ高校の校長のサイトでの言葉が引用されてます。

「外国人を危険だと思い込むこと、
感染源の(執拗な)捜索、専門家の軽視、
根拠のない噂話、必需品の買いあさり・・・。
(同作に記された)17世紀の混乱は、
まるで今日の新聞のページから飛び出したようだ」。

はい。この本は平川祐弘氏が訳されておりました。
以前、平川祐弘氏の本を、勢いで翻訳本も買っておりました。
それでもって、本棚を探すとある。
厚さ5センチの一冊本が安かった。
古本は、当時函入1000円+送料300円。
2013年に買ったまま本棚に眠っておりました。
とにかく、手元にあった。ある以上は、
紹介しなさいと言われているみたいです(笑)。

題名「いいなづけ」。副題に「17世紀ミラーノの物語」。
目次のあとに、当時の北イタリアの地図と1頁の説明。
その説明の後半を引用してみると

「1629年9月、ドイツ軍はスイスのグリゾン地方から
ヴァルテイㇽリーナを通過、コーリコからミラーノ侯爵領に侵入
・・・・
1629年10月、このドイツ軍南下の直後、ペストがその道筋に
沿って発生し、翌1630年の初めにかけて事態は緩慢に悪化、
5月になって爆発的にひろがる。・・・

なお・・・マンゾーニの国葬にちなんでヴェルディが作曲した
鎮魂曲が有名な『レクイエム』である。」

はい。これは小説なので、私は読みませんが、
幸いなことに、目次には全38章ごとに簡単な説明が
付してあるので、ペストの箇所は簡単に探せました。
目次の31章にはこうあります。
「ペスト。その原因、当初の論争。
ペストをひろめるといわれた『塗屋』。」
以下の数章にわたって、ペストが中心となります。
わたしが案内するのは、この第31章だけ(笑)。
はい。31章のはじまりを引用。

「ドイツ軍の侵入とともにミラーノ領に侵入するのではないか
と衛生局が警戒していたペストは、実際、はいって来た。
 ・・・・・・・
なおここでミラーノ領とはいうもののもっぱらミラーノ市のみを
指している。というのも当時の記録はもっぱら市中のことだけを
記しているからである。理由は善かれ悪しかれさまざまあるが、
こうした事はどこの国でも、いつの時代でも起こりがちなことである。

さてここでの話の狙いは、有体(ありてい)にいえば、ただ単に
われらの作中人物が落ちこんだ事態を描くことにあるのではない。
登場人物の運命についても書くけれども、それとともに限られた
本書の紙面内と筆者の能力内で、有名な割にはその実体が
まだよく知られていないミラーノの郷土の歴史の一齣を
世に知らせたいと思うのである。」

「さて同時代の数多(あまた)の記録を検討してみると、
どれか一つの記録だけでそれで当時の様子が
首尾一貫して明確にわかるというものではない。
しかしどの記録にしても当時の歴史を再構成する上で
なにがしかの貢献をしないものはない。
 ・・・・・・・・・
ところで後代の人士でそうした一連の記録類を吟味照合し、
あのペストの歴史について、事件を追って整然たる通史を
書こうと試みた人はいなかったようである。」

こうして、筆者が以下に、通史を書いてゆくのでした。

はい。これから具体例に分け行ってゆくのですが、
ここまで(笑)。まことに興味深いのですけれど、
「続き希望」が多ければ、そのときあらためて、
当時のミラノのペストを書きこみしたいと思います。
あとは、このブログを読んで下さる方へと一任(笑)。




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みちのく。桜・葉桜。

2020-03-23 | 産経新聞
長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月25日発行)
に桜の歌がありました。

 人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線
 
 葉桜を吹きわたる風よ記憶せよ
        ここにみちのくといふ国のありしを

2020年3月23日の産経新聞一面コラム産経抄
は、こうはじまっておりました。

「新型コロナウイルスの発生地となった
中国湖北省武漢市にあたる武漢大学は、
桜の名所として知られる。
キャンパス内に約千本の桜は、もともと
1930年代に武漢を占領した旧日本軍に
より持ち込まれたのが始まりだ。

72年の日中国交正常化の際には、
田中角栄首相から周恩来首相夫人に
贈られた桜も植えられた。もっとも
都市封鎖となって以来、住民の自由な
外出は禁止されてきた。多くの人は、
武漢大学が始めたネット上での桜の
動画配信で、花見を楽しんでいる。

米首都ワシントンに春の訪れを告げる
桜の苗も、日本から贈られたものだ。
20日に開会されるはずだった『全米桜祭り』
の3月中の行事は、すべて中止となった。
ウイルスの感染拡大の防止が理由である。
花を愛でる人の姿もまばらだという。

東京都心で昨日、桜が満開となった。
例年より12日も早い。東京都台東区の
上野公園では、大勢の人が桜の木の下で
談笑したり写真を撮ったりして、
花見を満喫していた。ただマスク姿が目立ち、
宴席が禁止された。例年とまったく違う光景である。
・・・・」

ユーチューブの文化人放送だったかで、
阿比留瑠比さんが、ネットでの産経新聞の
購読を毎回呼びかけていらっしゃる。
ぎこちない、勧誘なのですが、
だんだんと、吹っ切れたように慣れてきております。

うん。門田隆将著「新聞という病」じゃなくって、
新聞という『産経』。これならば、
私も産経新聞を購読しているので、この機会に、
このブログで、その都度紹介していけたらと思います(笑)。
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ほんの数歩のところにも。

2020-03-22 | 京都
アマゾンで、ネットの古本を注文することもあります。
そのうち、関連本として、買い手の本の嗜好を
判断して、画面の広告上で教えてくれることがあります。

はい。田舎に住んでおりますから、こういう、
ちょっとしたことが参考になることもあります(笑)。

さてっと、その参考になった本が届きました。
アレックス・カー著「もうひとつの京都」(世界文化社)。
古本601円+送料330円=931円(BUY王 メディア店)。

「はじめに」から、ここを引用。

「京都は世界的な観光地ですから友人がよくやってきます。
京都に住む人は来客を連れて、しょっちゅうお寺めぐりをする
ことになります。私もそのような案内ツアーがあまりに多かったので、
『三対一のルール』というものを作りました。

それは観光に行く時に友人が見たいと言う三ヶ所、
そして私が興味をもっている一ヶ所を回るというものです。

私の行きたい場所は、どこかで読んだあまり知られていない
お寺だったり、名所の敷地内にある隠れた庭だったりしますが、
大勢が押し寄せる観光ルートからほんの数歩のところにも、
素晴らしいものはあるのです。

『三対一のルール』は、何度も見た定番の観光地を
訪れる退屈さを紛らわせる手段でしたが、長年
続けているうちに分かってきたことがあります。
それは、わざわざ観光ルートから外れて
珍しいものを探す必要はないということです。

観光客だらけの清水寺や金閣寺の見慣れた景色でも、
少し違った視点で眺めると新鮮なものに変わります。
・・・・・・・・

京都のお寺などを何度も繰り返し見ていると、
その中に秘められた知恵が伝わってきます。
孔子の『論語』に『六十にして耳順(みみしたが)う』
という言葉がありますが、『目順(めしたが)う』
ということもあるかもしれません。

大徳寺や銀閣寺は百回以上訪れて、
ようやく分かってきたような気がします。

大徳寺の場合は、写真を現像する暗室の中で
現像液に浸された白い紙に画像がジワーッと
浮かび上がってくるような感じでした。
銀閣寺の場合は、ある日突然
『ああ、そうだったのか!』と一瞬にして閃きました。」
(p7~8)

アマゾンの本の広告で、
『ああ、そうか。こういう本もあったのだ』と
教えられた一冊でした。
たしか、この人の『美しき日本の残像』というのは
読んだことがありました。その印象は鮮やかだったのですが、
その内容は、もうすっかり忘れちゃいました(笑)。

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鎮花祭(やすらい花)。

2020-03-21 | 京都
産経新聞3月21日。はい、今日の一面は

「政府は20日、首相官邸で新型コロナウイルス感染症対策本部
会合を開き、全国の小中学校などに対する春休みまでの休校要請を
延長しないことに決めた。・・・」

一面上の小さな写真は「聖火到着」。
「ギリシャで採火された東京五輪の聖火が20日、
航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)に到着した。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、到着は地元
小学生の参加をとりやめるなど、規模を縮小して実施・・」

一面真ん中へんの記事は

「米国務省は19日、新型コロナウイルスの世界的な
感染拡大を受け、すべての国・地域への渡航警戒レベルを
4段階で最も高い『渡航中止・退避勧告』(レベル4)に引き上げた。」

そして、一面コラム産経抄は、
こうはじまっておりました。

「政府は皇位継承順位1位の秋篠宮さまが、
自らの立皇嗣(りっこうし)を国の内外に宣明される
『立皇嗣の礼』の招待者を減らし、賓客と食事をともにする
『宮中饗宴の儀』は中止することを決めた。・・・」

あらためて、京の疫病と祭とを思いながら、
守屋毅著「京の芸能」(中公新書)をひらく。

「祇園会に劣らず華やかな風流の行進で知られたのが、
紫野(むらさきの)のやすらい花であった。

紫野は、長保3年(1001)疫病が蔓延して街路に
おびただしい死骸が横たわるなか、御霊会が催されたのを機に、
今宮社が造営され、以後も寛弘5年(1008)、長和5年(1016)など、
たびたびにわたって御霊会が営まれた場所であった。

その紫野今宮社の祭礼がやすらい花で、
桜花の飛散に疫病の予兆を見て、
花の安泰を祈る鎮花祭の一つであった。」(p9)


もうすこし、引用しておきます。


「・・『百錬抄』に、久寿元年(1154)4月のこととして、
『近日、京中児女、風流を備え、鼓笛を調らべて
紫野社へ参る。世にこれを夜須礼(やすらい)と号す』
とあるのが文献上の初見である。

この年のやすらい花は朝廷の関与もあって、
ことに盛大であったとみえ、『梁塵秘抄口伝集』にも、
詳しく言及されている。それによると、

花をあしらった風流傘を押し立てて数十人が乱舞し、
『やすらい花や』の今様がこだまするなかを、
鬼に扮した者が叫び暴れながら今宮社に詣でたという。

鬼を疫病神にみたてて、それを追いながら
今宮社に練り込む光景は、御霊会の特色をよく示すもので、
それは花傘を中心とする風流の伝統とともに、
今日のやすらい祭に再現されている。」(p9)

ニュースでは、上野公園の花見の宴は自粛。
明日で終りの、大相撲テレビの無観客中継の
ようななかで、上野では桜並木を見れるのでしょうか?

それにしても、鎮花祭(やすらい花)。
『桜花の飛散に疫病の予兆を見て、花の安泰を祈る鎮花祭』
という意味合いが、京都のあの時代にはあったのですね。

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色彩の拒否。水墨画。

2020-03-20 | 京都
ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)の
副題は「日本美の発見」とありました。

鷲田清一著「京都の平熱」(講談社)で、
鷲田さんの子ども時代の、西本願寺と島原界隈を
ふりかえった場面がありました。そこで芸妓さんとお坊さんを
とりあげた箇所に、「祖母から聴かされていた」というのが
私に印象に残ります(笑)。

「この世でもっとも深い色、黒に身を包んだ男たち。
この世でもっとも鮮やかな色、赤を・・あしらったおんなたち。」
(p219)
そこでお坊さんのことを

「その色のなさすぎるひと、この世のいちばん低い
場所に身を置くひとは、わたしら凡人が知らない
幸福にふれているのだと、祖母から聴かされていた。
その色のありすぎるひと・・・・」(p219)

ここでの色の対比が、鮮やかで印象に残りやすかった(笑)。
さてっと、それがあったのでドナルド・キーンの「足利義政」を
パラパラ読みしていたら、気になる箇所が盛りだくさんです。
う~ん。途中から引用するのは気がひけますが、
しかたない、一部分だけ引用(笑)。

「水墨画は特に重要で、それは水墨画が日本絵画の新しい
分野を切り開いたからだった。
そもそも水墨画の起源は、色彩の拒否であった。
つまるところ、これは老荘の思想から出たものだった。
老子は、『五色は人の目をして盲ならしむ』と言っている。

色彩に気を取られると、物の真の姿を見つけることができなくなる
という意味である。一方、墨一色で描かれた絵には、
すべての色彩が含まれていると考えられた。

日本における水墨画の最も初期の例は、宗教的な絵画だった。
達磨の肖像は、日本で最初に中国の水墨画の模倣を試みた
のが禅僧であったことを示している。禅僧たちは、宗教的信念を
表現する手段として水墨画を描いたのだった。禅僧たちは
絵師としてもかなりの腕前で、おそらく中国の水墨画の技術を
模倣するのにさしたる困難を感じなかったのではないだろうかと
思われる。禅僧たちが描いた作品は、少なくともそれなりの
域には達していた。」(p143~144)

はい。「その色のなさすぎるひと」から、
禅僧の水墨画へとつながりました(笑)。

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天災や疫病を

2020-03-19 | 京都
このところ、毎日ユーチューブで、
文化人放送局や虎ノ門ニュースを見ております。

今日3月19日産経新聞一面も
新型コロナウイルス感染症対策本部会合の指示を伝えております。

手にしたのは、
守屋毅著「京の芸能」(中公新書・昭和54年)。
そのはじまりに『天災や伝染病』という指摘があります。
そこを引用することに。

「・・・そしていつしか、
平安京の住民たちは、政情の緊迫と天変地異との間に、
ある種の因果関係を考えるようになっていた。・・・・

それは、天災や伝染病を怨霊(おんりょう)の仕業と見なす
御霊(ごりょう)信仰の成立であった。人々は御霊を畏怖し、
これを慰撫しようと努める。その祭りが御霊会である。
今日に伝わる鎮花祭(やすらい花)や祇園祭など、
いずれも平安時代の御霊会に端を発した行事である・・・」

以下には、疫病の頻発と御霊会に関する記述があります。
うん。引用をつづけます。

「御霊会といえば、貞観5年(863)、神泉苑で行なわれたそれが、
つとに名高い。平安遷都より70年ばかりの歳月を経たこの年の
5月20日、朝廷は禁苑の四門を開放して、盛大な御霊会を修したのだった。
都鄙の群集の見守るなか、読経の声が流れ、華やかな歌舞に彩られた
御霊会の模様は、『三代実録』が詳細に記録に留めている。

しかし重要なのは、これより先、疫病が頻発し、天下こぞって、
この災いは『御霊の生ずる所なり』として、
『夏天秋節』ともなれば、京畿はむろんのこと、その外にまで
御霊会を催す風が拡大しつつあったという同書の指摘であり、
この神泉苑での盛儀も、こうした民間の御霊会盛会を見かねた
朝廷側の対応にほかならなかった。

朝廷が自ら御霊会を行わなければならぬ事態とは、
よくよくのことであったと考えねばなるまい。

なぜならば、そもそも御霊会は、たびかさなる都市災害の
被害をもろに蒙る民衆の側の発想による祭礼であって、
朝廷の鎮護を祈る官祭とは、基本的に性格を異にする
ものであったからである。・・・・・
    ・・・・・・・・・・・

御霊会に際して疫神を流し去る風は、先記の舟岡山の場合でも、
人々はそれを遠く難波津へ流していた。そういえば、神泉苑といった
祭場の設定も、水辺の祓との関係を暗示するようである。

一方、御霊会の祭場としてしきりに使用された
舟岡山・花園・衣笠山といった地域、そして
御霊神社の鎮座する出雲路の地は、いずれも都城の
外縁に位置しており、御霊の発する厄災の都への侵入を阻み、
かつ都中のそれを外へ追いやる、格好の場所ということができよう。

こうした御霊会の盛行を背景に、京都およびその周辺には
次々と御霊を祭る社の創設を見るに至った。現在、京都市内の
神社で、なんらかの形で御霊信仰と関係をもつものは、
少なく数えても30を下らない。・・・・・・」(p4~6)


うん。このあとに祇園祭への言及があるので、
さらに引用を続けます(笑)。

「御霊社のあとを追うように、
やがて北野の森の天神が、大宰府に憤死した
菅原道真をいただいて、御霊の社として登場するし、

東山山麓には、牛頭天王(ごずてんのう)なる
耳なれない祭神を祭る祇園社が営まれる。

北野の天神は、もともと農耕神としての雷神を祭る社で
あったらしく、道真の怨霊と雷をオーバーラップさせることで、
折からの御霊信仰の波に乗じたのであった。
一方、祇園社も同様に、八坂農民の奉祀する古社であった
と考えられるが、新たに播磨国広峯より動座してきた
牛頭天王を据えて、これまた御霊信仰のメッカで
あるかの観を呈しはじめるのである。
後世、御霊会といえば、誰しも祇園社のそれを
思い浮かべるほどに、祇園社のそれは盛大をきわめ、
下京商工業者の経済力にも支えられて、今日におよんでいる。」
(p6)

はい。これが新書のはじまりの箇所。
ここから、守屋毅著「京の芸能」がはじまります。


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つとめだにすれば。

2020-03-18 | 京都
芳賀幸四郎著「東山文化の研究」(河出書房・昭和20年)。
その序文を読み始める(笑)。

さて、芳賀幸四郎は33歳で卒業論文
「東山文化の性格とその成立・・・」を書く。
昭和20年は37歳でした。
その序に「うひ山ふみ」からの引用をする箇所が
わかりやすかったので、ここに引用してみます。

「・・・学問の道の嶮しさと厳しさは、
菲才晩学の私にはまことにたへがたいまでであった。
しかし、そうした時、恩師友人の激励とともに、
私を勇気づけてくれたのは、本居宣長の

 『詮ずるところ学問は、ただ年月長く、
倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて・・・

不才なる人といへどもおこたらずつとめだにすれば、
それだけの功は有物也。又晩学の人も、つとめはげめば
思ひの外功をなすことあり・・・されば才のともしきや、
学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて思ひくづをれて、
止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば
出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるるは、
学問に大にきらふ事ぞかし。(うひ山ふみ)』

といふ・・・・
また、60年にわたる日記を通して泌々と感得される、
三條西實隆のおそるべく根気づよい学的態度であった。
強靭な粘りであった。ひしひしと迫ってくる社会不安や
戦乱による流離困窮のさなかにあって、荒涼とした現実に
直面しながらも、いささかもたじろぐことなく、忍苦と耐乏に
よって自らを鍛錬し、却ってそこに悠久な独自の文化を創造
した当代文化人の逞しい生活態度もまた、
私にとって無言の教訓であった。

師友の激励に力をえ、かうした聲ない聲にはげまされ、
『つとめだにすれば出来る』との先覚の言葉にすがり、
幸ひにめぐまれた頑強な体力と東北人的なねばりを
唯一の武器として、研究法への顧慮もなく、ただがむしゃらに
史料を読みあさり、東山文化と対決してきたのが、
いつわらぬ私の現実であった。そしてこの体力とねばりで
僅かにかちえたもの、それが即ち粗雑ながらこの書である。」
(p7~8)

はい。私はこの序文で満腹(笑)。
とりあえず、本棚にもどす。
気になれば、本の方から呼んでくれる(笑)。

そういえば、三條西實隆。原勝郎著の
「東山時代における一縉紳の生活」(筑摩叢書)には、

「当時の京都の文化が、その本質において
縉紳(しんしん)の文化であるとすれば、京都にあって、
文壇の泰斗と仰がれて居った一縉紳の生活を叙述することは、
日本文化史の一節として決して無用のことではあるまい。
しからばその叙述の対照たるべき縉紳として次に選択された
者は何人か。三條西實隆正にその人である。
三條西實隆の生活を叙するにあたって・・・・」
(p25)

うん。この本もいっしょに本棚へ並べおきます。
ちなみに、原勝郎氏は大正13年に亡くなられておりました。
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芸妓さんも、お坊さんも。

2020-03-17 | 京都
古本をパラパラ読みして、
しばらくすると、気になる箇所が浮かびます。
多読なら、どこにあったか探し出せないのですが、
少読なら、ああ、あの本にあったなあと探せます。

その思い浮かび方は、というと、
お風呂にはいって、気が緩んでプクプクと、
オナラが出るような感じで浮かびます(笑)。
はい。人それぞれだとは思います。

さてっと鷲田清一著「京都の平熱」(講談社)を
パラパラ読みして、その最後の方に、こんな箇所が
あって、気になっていたのだと思います。
その箇所がプクプクと思い浮かびました。

鷲田さんの子どもの頃の遊び場だった
話のところでした。西本願寺と島原界隈。

「聖と俗の極まるその場所は、異形の場所でもあった。その一角で、
普通のひととは違ういでたちのひととしょっちゅうすれちがった。

近くにお寺の本山や頭塔が山ほどあり、さらにその向こうに
島原の遊郭があり、花魁で有名な『輪違屋』という茶屋や
『角屋』という揚屋(円山応挙や蕪村が襖絵を描いた揚屋建築・・)
があり、そこに暮らすひとたちだった。

頭を丸刈りにしたうえ、この世でもっとも深い色、黒に身を包んだ男たち。
この世でもっとも鮮やかな色、赤を顔や着物のあちこちにあしらったおんなたち。
ドレスアップの上限とドレスダウンの下限がそこにあった。

その色のなさすぎるひと、この世のいちばん低い場所に身を置くひとは、
わたしら凡人が知らない幸福にふれているのだと、祖母から聴かされていた。

その色のありすぎるひと、この世でいちばん艶やかないでたちをしているひとは、
夜もしずまって、化粧を落としたあと、近くのお宮で遠く離れた故郷をおもって
願をかけているのだと聴かされていた。

幸福と不幸。華麗と質素。それがくるくる裏返る・・・・。
この二重性のせいもあろう、芸妓さんもお坊さんも、
わたしにとってはけっして虚構の世界の住人なのではなかった。
去る日のことばかり考えていたこの町・・・
そんなひとたちとすれちがっても、
幼いわたしはさすがに気づきはしなかったのだが。

そんなふうに世界を二重に見るくせ、それが
ひょっとしたら子どもの頃についたのかもしれない。」
(p219)

う~ん。これをどう考えればよいのでしょうね(笑)。
ことわざに、「京の昼寝 田舎の学問」とあり、
三浦隆夫著「京都ことわざ散歩」(京都新聞社)には

「『いくら田舎で勉強しても京の昼寝にかなわない。
京都にいるだけで知識と情報が楽々と得られる』
という意味。・・・・都の人が田舎の勉強を軽く見ている
ことわざだろう。お山(比叡山延暦寺)の昼寝ともいい。
本山のそばにいることの有利さを暗示する。・・・・」

「江戸後期の大国学者本居宣長は三重の松坂から
医者になるべく京都に遊学。23歳から28歳までの
『在京日記』を読むと宣長は毎日のように
寺社仏閣を観光し夜も昼も酒びたり。
この下地があってこそ・・・・・」(p64~65)

ふ~ん。わたしといえば、
ゴチャゴチャしている活字でも、
寝てさめると、印象深かった箇所が
ふと思い浮んだりします。

「 京の昼寝 田舎のオナラ 」
と、わたしならいいたくなる(笑)。



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