和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

夕べの雲。

2008-08-30 | 安房
庄野潤三著「夕べの雲」。
講談社文庫は、最後に小沼丹の「庄野潤三の文学」が載っておりました。
講談社文芸文庫の最後には、4~5ページの文「著者から読者へ」があり、
また解説は阪田寛夫、作品案内は助川徳是。

興味深かったのは、その「著者から読者へ」という庄野潤三の文でした。
そこから印象深かった箇所をつないでみたいと思います。
庄野潤三著「夕べの雲」は昭和39年9月~昭和40年1月まで日本経済新聞夕刊に連載されております。そして昭和39年というのは、東京オリンピックの年でした。こう書かれております。「毎日、一回分の原稿を書くと、封筒に入れて、『下の道』の菓子屋さんの横のポストまで入れに行ってた。・・ポストの口から原稿の入った封筒を落し込む。私は家へ戻って、テレビのオリンピックの体操競技の実況中継を見た。」

題名については、こう書かれておりました。
「夏の日に私は家のすぐ向いにある浄水場の敷地内に入って、いちばん高い、小山の上のようなところ・・・で、芝生の上に寝ころがっていた。・・寝ころんで空を見上げると、―――といっても寝ころがっているのが丘のいちばん高いところで、目を遮るものが無いから、空がひとりでに目に入る。雲が浮かんでいるのだが、夕映えできれいな色をしている。それがちょっと目を離して、今度そちらを眺めてみると、もうさっきの色と違っている。もう別の雲になっている。あるいは、今の今まであったものが無くなっている。刻々、変わるのである。」


小説の第二章「終りと始まり」に、
小学三年生の夏休みの宿題をしている場面があります。
「何しろあと二日で学校が始まるのだから、ぐずぐずしていられない。」
理科の宿題で、海草の整理を細君と小学生でしている。その話し声が聞こえている場面でした。「外房州の海岸へは、毎年行く。二晩か三晩泊って、帰って来る。・・・その海岸は静かであった。・・・・有難いことにその漁村は、十年前もいまも殆ど変わりがなかった。色の黒い村の子供も、家族連れで来ている客も同じ磯で泳いでいて、人数はそんなに多くならないのであった。夕方になると、浜には誰もいなくなった。この村へ行くようになったのは、ひとつ隣の海水浴場のある町に大浦(主人公の名前)の友人が住んでいて、『いいところだから、来ないか。子供がきっと好きになるところだ』といって、誘ってくれたのであった。彼の話によると、その海岸にはお宮さんの下にいい泳ぎ場がある。まわりに岩礁(がんしょう)があって、そこだけ特別に波が静かで、泳ぎよい。岩礁の上を伝ってどこまでも歩いて行くことが出来て、危くない。岩の間の窪みにいるダボハゼを取るのに絶好の場所で、魚取りに夢中になっていて、顔を上げると、眼の前は太平洋だ。海の色が違うーーー
と、そういうのであった。」


オリンピックと、夏休み最後の二日間と、房総と。
ただもう、四十年以上前の小説での話なのでした。
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とんでもない漫画家。

2008-08-29 | Weblog
朝日の古新聞をもらってきました。
2008年8月5日の文化欄に、鶴見俊輔氏が「赤塚不二夫さんを悼む」として、「生命力の無法な羽ばたき」を書いておりました。
そういえば、鶴見俊輔氏は以前に赤塚不二夫を取り上げていたかなあ。
と思ったわけです。
ちなみに、鶴見俊輔集7「漫画の読者として」(筑摩書房)の目次を確認したのですが、赤塚不二夫の名前はありません。気になるから鶴見さんの著作「書評10年」「回想の人びと」「らんだむ・りいだあ」の目次を見てもナシ。鶴見俊輔書評集成にも見あたりません。ということは、亡くなられて、堰(せき)を切ったように、ほとばしり出た感慨を書きとめているのかもしれないと、そう思ったりするのでした。

ということで、朝日新聞の鶴見さんの追悼文を、紹介しておくのも無駄ではないでしょう。

はじまりは「一代の奇才、赤塚不二夫の逝去を惜しむ。赤塚不二夫を見るようになってから四十年あまり、まだその影響の渦の中にいる。」
おわりは「敗戦後の日本を代表する、とんでもないマンガ家だった。」

これだけじゃいけないかなあ。もうすこし引用しておきましょう。

「中国大陸の東北部、旧満州に育ったこどもが、せまくるしい日本に引き揚げてきて、理由のわからないせまくるしさに悲鳴をあげて、自分を息苦しくしている塀にわが身をぶつけている。そのあがきに、彼のマンガは根ざしている。根があるから、どんどん育ってやむことがない。赤塚不二夫は、それまでの日本のマンガに天窓をうがつ働きをした。」

もう一箇所。新聞の題名にも使われている言葉がつかわれているところ。

「馬が跳びはねる情景を『パカラン、パカラン、パカラン、パカラン』と三ページにわたって何十コマも描いて、読者を引きずりこむ、この作者の筆力は、ゼロ歳児にもどった生命力の裏づけによるものだ。その生命力の無法な羽ばたきが、今も私の耳にある。・・・」

四十年あまりの裏づけを語る鶴見節は、いまだ健在。
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昭和ひとけた。

2008-08-28 | Weblog
読売新聞2008年8月25日の「くらし・家庭欄」に
植田いつ子さんが向田邦子さんについて語っておられました。
「育った環境は違ったものの、同じ昭和一けた生まれ。すぐに気が合った。
『背負ってきた時代が同じで、渋好みの趣味も不思議なほど似ていました』」
「互いに一人暮らしで、年の暮れには、『何も持ってこなくていいから』と
食事に招いてくれ、心のこもった料理で一緒に年を越した。」

そういえば、「向田邦子鑑賞事典」というのがあって、そこの
向田邦子語彙ワールドという箇所に『昭和ひとけた』を説明した短文がありまして、一読印象に残ります。ということで引用。

「大正十五年・昭和元~九年頃に誕生した日本人の世代。
確たる性質定義は発見し難いが、『小學國語読本』で学び、戦前教育の中で初等教育を終了、学徒動員の中で自己形成を果たした点、などを心性の基盤とする戦中世代として語られることが多いようである。向田は昭和四年生まれ、終戦までに高等女学校を卒業している。澤地久枝氏は、向田を『昭和ヒトケタの長女』と評し、向田の葬儀において『私たちは生き残ることが卑怯であり恥とされた戦争の時代の娘、奮励努力が身についた学徒動員世代であったと思います』と遺影に語りかけたが、『昭和ひとけた』世代は、向田自身もエッセイその他において、しばしば強調したところであった。」
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読書日記。

2008-08-25 | Weblog
注文してあった森銑三著「読書日記」が届いたので、パラパラとめくっておりました。日付がある日記なので、それならばと、はじめから丁寧に読む気がない私は、8月の日付の箇所を拾って読んでみました。

 市のなかの竝木のもとの朝顔のちひさき花に秋風ぞふく (都秋風。中西文子氏)

これは昭和13年8月24日の読書日記にあります。
「遠藤二郎氏より石榴会選歌集来る。和装本にて本文194頁あり。用紙にも特に意を用ひて簡素ながらもいと美し。」とあり、9首が引用され、そのはじめに引用してあった歌です。

もう一か所引用。

昭和9年8月30日。
「・・・漱石の『坊つちやん』を読んだ。
この小説はあまりに面白過ぎ、感じが明る過ぎ、狸や、赤シャツや、野だや、中學生などがあまりに滑稽的に扱はれ過ぎてゐて、作者の正義観の迫真を弱めてゐるのが惜しい。山嵐と坊つちやんとが赤シャツと野だとに加へた制裁が是認せられるなら、五・一五事件や血盟團事件の人々の行動も、一概に否定すべからざることになりはせぬであろうか、といふやうなことが考へられた。『坊つちやん』では、やはり清やが類型的でも一番自然に描かれてゐる。清やのところは、けふもまたほろりとさせられた。それにつけても漱石は立派な作家であつたと思ふ。」


いくらなんでも、事件と「坊っちゃん」とを結びつけるのはどうも
いただけないなあ、と思ったのですが
年譜としてみれば、血盟團事件と五・一五事件とは、
ともに昭和7(1932)年の2~3月と5月とにあったのでした。
その記憶が生々しく残っていれば、その結ぶつきは、
不自然じゃないところの連想なのかもしれませんね。
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大学院生物語。

2008-08-25 | Weblog
雑誌「WiLL」10月号がポストに届いておりました。
堤堯氏の連載「ある編集者のオデッセイ 文芸春秋とともに」は、
今回も池島信平氏について書いていたので、まずはそれを読みました。
池島氏からこう語られたそうです。
「いいか、堤。重いことを重く書くのは誰でも出来る。
 それを軽く書くのが大事なんだ。
 文章は軽ければ軽いほどいいんだよ。 」

もちろん。軽い内容を軽く書けとは言ってないわけです。


bk1のブックレビューで、初書評の「ぜのばす」さんの文に惹かれて、
伊良林正哉著「大学院生物語」(文芸社)を読んでみました。
書きたいことがあり、書いたのだという意味合いの本。
タイムリーな手ごたえの本が出たのだという読後感がありました。
この頃めずらしく、薦めたくなる人の顔が浮かんできたりしました。
軽く書いて小説仕立てなのですが、大学院生の生態を
軽々と眼前に浮かび上がらせてくれるエッセイとして読みました。
コメント (7)
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読書名人伝。

2008-08-23 | Weblog
雑誌「ノーサイド」1995年5月号の特集「読書名人伝」。
数人の方が手分けして各読書名人の人となりを、半ページ~2ページの分量で紹介しております。なかに、名人を一人だけ紹介している方がおられるので、それだけでも、ここに引用しておきましょう。そうしましょう。

   幸田露伴 を 井波律子
   森銑三  を 谷沢永一
   内藤湖南vs津田左右吉 を 高島俊男
   清水幾太郎 を  狐

と、私が気になった名前はそれでした。
すこし紹介。高島俊男氏は比較してこう書いております。

「湖南はB29絨毯爆撃方式である。和漢のありとあらゆる書物を、沈着に、重厚に、かつ組織的網羅的に読んでゆき、それがすべて、鋼鉄のごとく強靭でコンピューターのごとく精密な頭脳にインプットされる。津田左右吉は気まぐれ原始人方式である。今日ちょっとゲーテを原書で読みかけたと思ったら、つぎの日は賀茂真淵にとりかかっている。そのつぎの日は何が何でもフランス革命の研究だと意気ごみ、またつぎの日は史記精読の志をおこす。支離滅裂である。気まぐれ原始人が、木にのぼって木の実を一つ二つかじったとたんに魚が食べたくなって海へとびこみ、底へもぐって一匹つかまえたかつかまえぬうちに、いややっぱり兎の肉にかぎると山へ駆けこんで兎を追っかけ、走っている途中でハマグリが食いたくなってまた海へはせもどり・・・といった恒常的逆上状態。それも読むはしからみんな忘れてしまう。しかしだからと言ってそれが無駄とは言えず、そうした読書をつうじて、世の中の誰にも似ないまったく自分独自の思想が形成されてきたのだ、と後年の津田はいばっている。どちらもスーパークラスの学者になり大業績をのこしたのだから、つまり読書法というのはこれがいいときまった方式はないので、絨毯爆撃もよし気まぐれ原始人もまたよし、それぞれ性格にあった読みかたが一番、ということらしい。」

こう引用すると、もう一箇所。
森銑三を紹介する谷沢永一の文の最後の方にこうありました。

「独壇場である人物研究と一味違う読書随筆として私は『書物』(柴田宵曲と共著)及び『読書日記』を他に例を見ない逸品として懐しむ。後者に脈々と流れる官学批判は当時これだけ見事に学閥の生態を衝いた証言が他に見当たらないという意味でも天晴れである。その態度を剛毅にして清潔、些かも物欲しげな湿気がない。世にはこの爽快な文章を『グチ』(柳田守『森銑三』)と読みとる感覚もあるらしく、人の立場と神経はまことに多種多様であるなあと感じ入る。」


まあ、そういうわけで、『書物』の読後感が爽やかだったのを思い出したので、森銑三著『読書日記』を古本屋へと注文したのでした。
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漢文講義。

2008-08-21 | Weblog
原田種成著「私の漢文講義」(大修館書店)を読んでいるところ。
原田種成氏は明治44(1911)年、東京に生まれ。平成7(1995)年84歳で亡くなっております。「貞観政要の研究」の著者ということで、私は読み始めました。「漢文のすすめ」(新潮選書)につづいて、この本を読んでます。
論は明快です。たとえば「創造力を養うための糧となる文学は、やまとことばで書かれた『源氏物語』や『枕草子』の中にはない。高校生にもわかるスケールの大きな文学といえば漢文のほかにはない。」(p17)
また、こうも指摘しております。
「漢文の文章は論旨が簡潔明快で首尾の照応がはっきりしているから、これを学ぶとわかりやすい文章が書けるようになる。作家の海音寺五郎氏は、『昔の人の消息文は現代人にはわかりにくいと言っても、人によっては実に明快な文章を書く。学者といわれるほどの人のものは皆わかりやすい・・・日本語は漢文の骨格を借りなければ、散文として成立し得ない宿命があるのかも知れない。江戸時代の国学者より、儒者である、たとえば新井白石、たとえば室鳩巣などの方が、はるかに見事な和文を書いている事実をみても、こういえるかも知れない。漢文を中学校で教えることをやめたのは大失敗であったと思う。」(昭和41年7月27日、朝日新聞『古文書いじり』)」(p37~38)

そして、「国文と漢文との交渉  方丈記を例として」(p61~)が
その明快さを印象づけます。

「国文の中には漢文の影響を濃厚に受けているものがある。方丈記などはその一例であり、漢文脈の理解の上に立たなければ正しい解釈ができないところである。」とはじまって、某大学の入試問題を取り上げて、書きすすめられており、読みごたえありました。
その文章の後半にはこうあります。
「平安時代の懐風藻や本朝文粋の作品は、なんといっても外国の文学を学んで日が浅く、模倣の域を脱せず、稚拙極まりないものである。が、江戸時代には伊藤仁斎・荻生徂徠・栗山潜峰・安積澹泊・佐藤一斎・頼山陽など、すぐれた大家が輩出しており、それら当代第一流の文化人が書いた第一級の文章があるのに、江戸文学といえば、西鶴・近松・馬琴等々に限られているのは、まことになげかわしいことである。これらは、今でいえば週刊誌連載の大衆小説の類である。庶民文学もけっこうではあるが、その当時の一流文化人の書いた文章を、ただむずかしいからというだけで捨て去っていてはならない。・・・・・かつて、ある若い国文学の研究者と語ったとき、鴎外の研究をしているが、漢文のところはわからないから飛ばしているといっていた。そんなことで真の鴎外研究ができるのであろうか。どうか日本文学の研究を不完全なものにしないでほしいものである。」

いたってわかりやすく、漢文に関する具体的な指摘は、高校の先生などに読んでもらうのが一番よいような印象を受けましたが、今の先生は忙しそうで読まないだろうから(きめつけてはいけませんが)。興味ある方は、どなたが読んでよい一冊なのじゃないでしょうか。丁寧に読めば、高校生でも分かりやすい講義文章だと思われます。

ちなみに、この本は、亡くなってから、いろいろなところに書いた文を集めたもののようです。序は石川忠久。
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本と地震。

2008-08-19 | 地震
雑誌「ノーサイド」1995年5月号は特集「読書名人伝」でした。
困ったことに一読圧倒され。それなら、ちょっと冷却期間を置こうと本棚へしまったのが運のつき。そのままに忘れておりました。昨日思い出して取り出すと、新しく読むような新鮮さ。隠し味に「大震災と読書人」という特集が組まれておりまして、まずは谷沢永一の「阪神大震災 わたしの書庫被災白書」が圧巻の4ページ。そして坪内祐三による「関東大震災は焚書だった」が1ページに大曲駒村著「東京灰燼記」(中公文庫)からはじまって内田魯庵の「典籍の廃墟」や柳田泉の自伝「明治文学研究夜話」をとりあげておりました。そして山口昌男・池内紀の対談にも坪内祐三が話の輪に入っていて、たとえば坪内氏はこう語っております。「・・博文館にしても、春陽堂にしても、実業之日本社にしても、震災までの出版社というのはかなり面白い雑学的なものを出していたんですけどね。」(p24)
ここから、読書名人伝ということで、読書家がズラリと写真入で並びます。そこにはいっている岡本綺堂は、坪内氏が書いておりました。そこからも少し引用してみましょう。震災で蔵書一切を焼き失った綺堂。「この恨みは綿々として尽きない」という昭和8年の文を引用したあとに、「しかし蔵書を失ったからといって、綺堂は、放心状態になることはなかった。震災に遭ってからの日記は『岡本綺堂日記』として公刊されているが、そこで見られる綺堂の本の買いっぷりがすごい。例えばその年の12月16日、快晴の日。まず電車を乗り継いで目白に出て、『女子大学前の前田といふ本屋に立寄る。ここに東陽堂出版の【東京名所図会】のあることを額田から聴いてゐる・・・ほかに古本六冊をかひ』、次に『音羽の古本屋で又もや三冊の古本をかひ』、伝通院の友人を訪ねたあと、『更に神田へ出て神保町辺を散歩。バラック建がやうやく整つたが、とても昔のおもかげは見られない。ひどく寂しい心持になる。ここでも古本四五冊をかひ』、帰宅する。しかもこの前日や翌日も、四谷や古河橋、六本木の古本屋で、それぞれ数冊ずつ本を買っているのである。」

ちょっと、私はこれだけでまたもや満腹感。それでは、と本棚へとしまうことになるのでした。
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代表的日本人。

2008-08-18 | Weblog
齋藤孝の新書2冊を読んでから思ったのですが、
どこかの雑誌で「あなたが選ぶ代表的日本人」という特集をしてくれないかなあ。
「現代版代表的日本人」「近代の代表的日本人」「戦後代表的日本人」というのでもいいいでしょうし。お一人が3~10人ぐらい各自が思い浮かぶ日本人をあげてもらう、という特集を読みたいなあ。

というのは、齋藤孝著「代表的日本人」を読んだら、
そういえば、勢古浩爾著「新・代表的日本人」というのがあったなあと思い出したのでした。
ちなみに、勢古浩爾氏の新書の「まえがき」はこうはじまっておりました。
「本書は、いうまでもなく内村鑑三の名著『代表的日本人』を念頭においている。内村が選んだのは西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の五人である。・・」
それでは、勢古氏が選んだ「新・代表的日本人」はというと、

    広瀬武夫
    石光真清
    中江丑吉
    小倉遊亀
    笠智衆
    須賀敦子
    白川義員
    陽信孝

そして、齋藤孝の「代表的日本人」は

    与謝野晶子
    嘉納治五郎
    佐藤紅緑
    斎藤秀三郎・秀雄
    岡田虎二郎

私など横着で、名前を知っていても、ちっとも人となりを知らないという場合が多いのに、ここでは、名前も知らない。どこの誰だか知らないけれど~。
誰でも知っているかも知れない人を知る楽しみがあります。
ということで、どこかの雑誌で、代表的日本人特集をしてもらえると楽しいだろうなあ。おっと、そういえば、「ノーサイド」で確かそんなような特集をしたことがあったような。でも平成20年版代表的日本人というのがあってもよいですよね。

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原田種成。

2008-08-17 | 地震
谷沢永一・渡部昇一著「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)を読んでから、貞観政要を買ったのですが、そのまま(笑)。いまは原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書・古本)を読んでいるところ。そこに「『貞観政要』の研究」について書かれた箇所があるのでした。興味深いのは諸橋『大漢和辞典』編纂秘話。そして半生記では「関東大震災の日」。「勤労動員日記抄」と読み甲斐があります。淡々とご自身が書き残しておいてくれた「プロジェクトX」という感じです。

ここでは、「大震災のあと」を少し引用しておきます。

「ひとまず上野の山を後にして、・・・一週間ほどして鉄道が開通したので土浦市の郊外、新治郡栄村字吉瀬の父の長姉の家へ移った。姉の息子の保さんが叔父の身を案じて、徒歩で東京の我が家の焼け跡に行って来たという。保さんは私の従兄に当たるわけだが、伯母は父より13歳も年長であったから保さんは叔父さんのような感じであった。・・私は父の従兄である大村の豊かな農家にあずけられた。13歳であった私は、具体的にどんな扱いをされたのかよく覚えていないが、焼け出され(震災に遭った者を当時こうよんでいた)の私に対してなにか温か味に欠けていたらしかった。私が父に話したのかどうかはわからないが、次に、私は父の従弟の源さんという家へあずけられた。源さんは家は小さく、あまり豊かではなかったが心の温かい人だった。小母さんもいい人で、娘が近くの医院の看護婦をしていた。私はここに落ちつくことになった。源さんは私によく言った。『種成は土浦藩の士族の子だ。村の子に対して卑屈にならず堂々としていろ』と。焼け出されて、東京から逃げて来た私を励ましてくれていたのである。私は震災に遭ったおかげで、金持ちの心は冷たく、豊かでない人に心の温かい人がいることを知った。父の会社は震災の打撃で再建できなかった。・・・」(p31)

たんたんと書かれていながら、どれもが貴重な証言になっています。
いったいどれを引用しようか、迷う豊饒な内容となっております。
ということで、とりあえずここには地震を引用してみました。
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柔道といえば。

2008-08-10 | Weblog
谷亮子さんが銅メダル。お疲れさまでした。
ところで、柔道といえば、嘉納治五郎。
齋藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)をひらくと、五人の日本人が紹介されておりました。
  与謝野晶子の女性力
  嘉納治五郎の武道力
  佐藤紅緑の少年力
  斎藤秀三郎・秀雄の翻訳力
  岡田虎二郎の静坐力

どなたも、少年少女の偉人伝には出てこない意外な人選です。
(ちなみに、先に出た齋藤孝著「日本を教育した人々」(ちくま新書)では、
よく御存知の四人が登場してます。吉田松陰・福沢諭吉・夏目漱石・司馬遼太郎)
その中で、私が興味を持ったのは嘉納治五郎でした。
齋藤孝はこう書いております。
「さまざまな方法を追求し、伝統的な価値観を世界標準につくり直した根本精神や根本原理を、日本人の中に心の財産として引き継がせようとしました。私にとっては、治五郎は理想の教育者であると同時に、私自身のめざす人物像でもあります。私としては『心の師』として仰いでいるこの人物の生涯がもっと多くの人に知られ、ロールモデルとなってほしいと思っています。」(p88)

そういえば、嘉納治五郎なら、ひょんなところで登場しておりました。
それが、勝海舟の「氷川清話」。
舞台は本屋でした。
「若い時分のおれ(海舟)は非常に貧乏で、書物を買う金がなかったから、日本橋と江戸橋との間で、ちょうど今、三菱の倉がある所へ、嘉七という男が小さい書物商を開いていたので、そこへおれはたびたび行って、店先に立ちながら、並べてある色々の書物を読むことにしておった。すると向こうでもおれが貧乏で書物が買えないのだということを察して、いろいろ親切にいってくれた。」
その嘉七の紹介で、同じ店に来る北海道の商人・渋田利右衛門と親しくなります。渋田も大の本好き。
「おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報ゆるだけのことはしようと思っていたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。こんな残念なことは生れてからまだなかったよ。長崎へ行く前、渋田と別れるときに渋田は、『万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては』といって、二、三人の人を紹介してくれたが、その一人は嘉納治右衛門、これは治五郎(柔道・講道館の開祖)の親に当たるので、灘の酒屋をしていたのだ。後におれが神戸へいったときには、機械の類はみんなこの人に買ってもらったのだ。・・・」

このように「氷川清話」の最初の方に出てきます。
齋藤孝著「代表的日本人」を読んでいたら、ちょっと勝海舟のその後が語られているのでした。こうあります。

「嘉納治五郎は勝海舟にも相談しています。勝海舟と嘉納治五郎の親が知り合いだったことから、治五郎はある時、自分の将来について勝のもとへ相談に行ったのです。そのころ、治五郎は学問の道に進むかどうか迷っていました。それに対して勝海舟は、『学問のための学問になってしまうのはよくない。実地のなかで、学問するようにしなさい』とアドバイスしています。勝海舟は講道館の道場開きにもやって来るのですが、あまりに見事な道場なのに感動して、揮毫(きごう)しています。『無心而入自然之妙、無為而窮変化之神』すなわち『武術の極意は心技体を究めることにある』という意味です。いつも実践体験に即した学問をせよというこの言葉は、自分が行動するうえでの大切な指針となったと、治五郎はのちに振り返っています。明治という時代は、人的なつながりがとても密接です。治五郎と漱石がつながり、治五郎と勝海舟がつながり、間接的には治五郎と吉田松陰もつながっている。・・・・」(p90)

まあ。というわけで嘉納治五郎を少し読んでみたくなりました。
うん。北京五輪の柔道も目が離せないのですが。
そう。それはそれとして、柔道を観戦しながら、
同時進行で読む贅沢。

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山本善行。

2008-08-08 | Weblog
岡崎武志・山本善行著「新・文學入門」(工作舎)を読んで、興味をもったので山本善行著「古本泣き笑い日記」(青弓社)と山本善行著「関西赤貧古本道」(新潮新書)を買いました。

たとえば、「関西赤貧古本道」にこんな箇所がありました。

「私は学生のころ、谷沢永一の『紙つぶて』(昭和53年)に感服して、彼が教える大学の大学院を受けようと考えたが、調べてみるとそのときまで誰ひとり合格者がいなかったので、恐れをなして逃げたという経験がある。」(p145)

「・・何冊あってもいい、買っておく。開高健の『あかでみあめらんこりあ』はたしか四冊持っている。四冊並んだ書棚を見るとさすがに自分でも不可解だ。」(p46)とは「古本泣き笑い日記」に書き込まれております。

そういえば、関西では、古本屋が舞台になって人の交流が生まれるという構図があるのでしょうか。谷沢永一と山野博史もそうだしなあ。その谷沢氏が語ろうとしない。大阪の古本屋の気分というのが山本善行さんには、身近な雰囲気としてよく出ているのじゃないでしょうか。

「新・文學入門」で岡崎さんが
「東京に来て分かったけど、東京の読書人は基本的にほとんど関西の書き手に興味がない。地図の上では東京から新幹線で三時間のところにあるのに、気持ちとしては沖縄より遠い感じ。」(p267)とありますから、これからは大阪の古本屋の雰囲気を、山本・岡崎のお二人がぐっと身近なものにしてゆくのかもしれませんねえ。

京都の古本屋さんへの言及もありました。これも岡崎さん。
「そう言えば、京都の古本屋では、どこも詩集を大事に置いてたなあ。けっこうな値が付いてて、ちょっと無理して詩集を買ってジャズ喫茶で開く。これが何よりのぜいたくやった。」(p347)

東京の古本屋もよく知らない私には、まるで夢のような関西古本屋事情を聞いている気分で、そういえば、こういうのは谷沢氏の文では出せない味わいだなあと、何やら納得するのでした。
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怪談・内閣支持率。

2008-08-06 | 朝日新聞
8月3日の読売新聞と朝日新聞。どちらも一面で福田改造内閣の支持率を取り上げておりました。これは是非とも比較しておきたくなります。

  内閣支持率
     読売新聞調査 41.3%
     朝日新聞調査 24.0%

  麻生太郎幹事長起用を評価する
     読売新聞調査 66%
     朝日新聞調査 51%


学校の夏休みの宿題に、NIEと銘打って、この支持率の違いを検討する論文を、テーマとして取り上げる学生はいないものか?出来うるならば、さらに一歩踏み込んで、この違いについて、学生に調査して、どちらの新聞を支持し、信頼するかの調査もすればよし。さらには、学校の先生に調査の手を広げてみるのも、一考。その際、どの先生が忙しくて調査拒否をしていたかというのも汗をかきかき調査の甲斐がありそうです。そんな新聞支持率調査があったら、読んでみたいなあ。うん。各学校別の新聞支持率というのもいいなあ。ちなみに夏の甲子園で聞く新聞支持率というのは、ちょっと偏るかもしれませんね。もちろん。そうして調査した新聞支持率は、多数派を出した新聞にリストを送れば記事掲載をしてくれるかもしれませんよね。朝日新聞が多数派ならば、きっと教育欄に載せてもらえます。載せて欲しくて新聞社支持率の数値を改ざんすることは、学生としてあるまじきことですから、注意しましょう。それから、質問項目は、漠然としないように、質問が肝心です。それによって%が大幅にかわることだってあります。そのさじ加減が、学生の腕のみせどころ。質問項目の言葉を「福田内閣」とするか「福田改造内閣」とするかの微妙な差でも%は違ってきます。それはそうと、たしか大宅壮一氏でした。新聞記者がどちらの意見を望んでいるのかをまず聞いてから、それにそった回答をしたというエピソードがありました。そういえば、大宅壮一氏は学生時代秀才だったそうです。だからといって、くれぐれも先生の傾向を読んでの調査などをしようとしないでください。あなたは大宅壮一氏みたいな秀才じゃないのですから、コツコツと正攻法で学生らしく調査をしてみてください。

学生のみなさん全員が、この調査をしなさいといってるんじゃありません。全国で一人だけでもいいのです。司馬遼太郎は世界に一人しかおりませんでした。あなただって世界に一人しかいないのです。ガンバってください。

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明治だ。

2008-08-04 | Weblog
齋藤孝・梅田望夫著「私塾のすすめ」(ちくま新書)の対談のはじまりは、梅田氏からでした「『日本を教育した人々』の『はじめに』で齋藤さんは、みんなが不安になって方向を見失っている今、日本人が基本としてどこに立ち戻るのか、それは『源氏物語でもないし、大化の改新でもなくて、明治だ』ということをお書きになっていますね。僕も、ちょうど同じときに『ウェブ時代をゆく』を出したのですが、この本を書いていくうちに、期せずして、明治という時代の骨格を作った『自助』の精神を再建しないといけないな、というところに行き着きました。・・」

え~と。対談の最初に紹介されていた本。齋藤孝著「日本を教育した人々」(ちくま新書)が気になるので読んでみました。ここには4人が取り上げられておりました。吉田松陰・福沢諭吉・夏目漱石・司馬遼太郎。夏休みに小学校の図書館にある偉人伝の大人版といった感じで簡単に読めます。さらりとした紹介ですが、4人の人選に意味がある。といった感じです。

気になったのはたとえば、こんな福沢諭吉を語るこんな箇所
「翻訳についても、それまでは漢学者のように文体を整えることが求められていたが、『自分は緒方洪庵の教えを忘れずに終始平易であることに努めた』ことが指摘されている。」

たしか司馬遼太郎は、ある手紙で教育者の第一を緒方洪庵としていたと思いだしました。でも、こうした平易な語り口で緒方洪庵を取り上げるは難しいから、福沢諭吉の箇所で、ちょっと触れて置くぐらいになっちゃうのかもしれないなあ。と思って読みました。

その同じ福沢諭吉を語っているところで齋藤さんはこう指摘しております。
「学問がこれほど馬鹿にされている状況のなかで、日本は危機に陥っていると私は思う。なぜなら日本は、向上心や向学心を中心にして国をつくってきたからだ。読書をするのは尊敬されることであり、みんながやりたいことだった。・・・・しかしいつの時代からか、リーダーに学問は必ずしも必要ではなくなってしまった。それは日本人が直面する大きな不幸である。なぜなら学問をおさめようとする向学心は、幸福につながるからである。人間は、ひとつでも多く知識を得たい、あるいは一歩でも先に進みたいという気持ちになっているときは、気持ちが盛り上がっているので幸福感を得やすい。一番楽しいときとは、何かをやり遂げてしまったときではなく、『これからたくさん学べるんだ』と思うときだ。その興奮状態がずっと続くような人は、一生幸せに過ごせるものである。・・向学心を『技化(わざか)』していたところが、日本人が幸せでいられた秘密だったわけである。・・・『学問を活用し、それを支えとして生きていくのだ』ということを、それぞれが身をもって示してきた。近代日本においては、向学心という集団的な心性が、社会が乱れないための一つの装置になっていた。」(p100~)
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雑書雑本。

2008-08-02 | Weblog
岡崎武志・山本善行著「新・文學入門」(工作舎)の中に、京都の古本屋を語りながら、こんな箇所がありました。「昔の京大の先生たちは、またみんな本が好きやった。これは森毅さんなどにも受け継がれた気風で、京都の古本屋さんはそれで成り立っていたようなところがあるやろ。」と岡崎さん(何か、昔というのが意味深い)。それに山本さんが答えます「・・雑書を読むことが、それがどんな研究であっても大切やと思う。どんな大論文でも言葉、言語で書くのやからな。だから100円均一台が大好きな京大名誉教授は信頼できる。・・」(p280)

ここに、雑書という言葉が出てきており、
それじゃ、これから「雑書」連想。

板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)に「雑学のすすめ」という箇所(p61)があります。
「雑学といえば、わたくしが卒論のために俳諧の資料を集めていた頃、天理図書館の一室で中村幸彦教授(当時は古義堂文庫主任)から突然『雑書をたくさん読みなさい』といわれたことがある。おそらく、そのころ自分のやっている主題を、文字通り重箱の隅を楊枝(ようじ)でつっつくようなことしかやっていなかったので、見かねてそう忠告されたものと思う。なにしろ、江戸時代の雑書ときたら、何百何千とあるので、その当時は「これは困ったことになった』と心の中で思ったものだ。卒業をしてからも、江戸時代の雑書をたくさん読んだとはお世辞にもいえないけれども、暇にまかせて自分の仕事に関係のない本を読むクセだけはついたつもりである。・・・・まったくの好奇心でのぞいた本に興味がわけば、その本に引用されている文献や、参考文献としてあげられている本を買う、そしてまたその本にある参考文献から別な本を、というふうにして連鎖的に拡張して行けばよい。飽きてきたら、そこで中止するし、飽きが来なければどんどん深入りする。そういうふうにして、あるものは生涯のつれ合いとなったものもいくつかはある。新聞雑誌の新刊案内や書評の類を読んでいて、きっかけをつかんだり、書店をひやかしていて拾い上げたり、要するに犬も歩けば棒に当たる式に読書するわけである。・・・」

もう一つ引用。
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文芸春秋)のp441。
「膝栗毛」を取り上げて、中村幸彦氏のことが書かれておりました。

「中村幸彦は随分若い時から、近世文芸のどんな領域でも注釈できるように、解釈の根拠となる資料を蒐めた。それらは一般の学者が振り向きもせぬような世に知られていない雑本であった。だから自然に古書価も高くない。しかし肝心の問題は、それらがいったい何の役に立つかを見抜く眼力である。中村幸彦は古典研究の究極は生き届いた注釈にありと信じていた。それゆえ他人の持っていない一風変った書物を蒐めていなければ本当の学者とは言えないと訓した。古書店の持て扱いかねている本のなかから掘り出す俊敏がモノをいうのである。」

ちなみに、せっかく谷沢永一の名前が出てきたので、
谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社)から「鬱の淵からの生還」という箇所を引用してみます(ちょっと、もう少しマシな引用をしたかったのですが、ここしかちょっと探し出せなかったのでした)。

「昭和40年の夏、ほとんど読み書きのできない窮状のなかで漸く思い至ったのは、専攻の分野における仕事を諦めて、堀だか壁だか私を囲っている限界線から外へ逃げ出す身の処し方である。・・それ以後の私は日本近代文学に関する文献を念頭から捨て去り、気の向くまま好みに惹かれて他の分野に属する書物を順序もなく読み漁った。理由の説明はつかないのだけれど、いったんそういう姿勢で臨んだら大抵の本が読めて頭に入ってくるようになる。さらにはあれも読みたいこれも入手したいと好奇心を唆されて古書を漁る楽しみが増えた。大阪ではすべての職業をひっくるめてショウバイと呼び、したがってある人が従事している仕事を特定する場合に、あいつは何屋さんやねん、と聞く。私はとうとう何屋さんにもなることができず、むかし地方のバス停につきものだった生活雑具の万屋(よろずや)みたいに正体不明の流れ者になった。もし学問専一の固い信念に生きる決意を持っていたら、後半生の不毛を嘆いてみずから人生の終幕を期するに至ったかもしれない。性格がチャランポランで大きな望みを抱く資格もないと自認していたから、私は生まれつきの怠け根性に従うと決めて漂流の日々を苦にせず悩まずに済んだ。」(p95~96)


ということで、雑書から思い浮かんだ、板坂元・中村幸彦・谷沢永一でした。


そういえば、「新・文學入門」のなかで、「出会えて感激した詩集20冊」というリストで岡崎武志は、3番目に飯島耕一の詩集「ゴヤのファースト・ネームは」(青土社)をあげておりました。その詩「ゴヤのファースト・ネームは」のはじまりは、こうでした。


  何にもつよい興味をもたないことは
  不幸なことだ
  ただ自らの内部を
  眼を閉じて のぞきこんでいる。

  何にも興味をもたなかったきみが
  ある日
  ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
  隣の部屋まで駈けていた。


こうはじまっておりました。
「駈けていた」といえば、「新・文學入門」に全力疾走という言葉がありました。
最後は、その引用。

【岡崎】・・山田稔いわく、『天野忠は詩とエッセイを書くときの違いを訊ねられて、詩は全力疾走、エッセイはジョギングと答えたそうである』と。
【山本】分かる分かる。おれの場合は古本屋は全力疾走、新刊書店はジョギング。
【岡崎】よう分からん譬えやなあ(笑)。まあまあそういうこと。・・(p269)
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