和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と牛乳の国・安房郡③

2024-04-27 | 安房
安房に鉄道が開通してゆくのが大正の中頃でした。
大正6年に保田駅と勝山駅開業。
大正7年に那古船形駅開業。
大正8年に安房北条駅(現在の館山駅)開業。
大正10年に南三原駅開業。

歩調を合わせるように、安房の生乳の輸送が盛んになってゆきます。
以下には、「安房酪農百年史」より引用してゆきます。

ここには、大正9年に北条町で開催された千葉県畜牛共進会と、
もう一つ、東京菓子株式会社と、極東煉乳株式会社を紹介します。

大正8年に、安房北条駅が開業し、
大正9年に、北条町で千葉県畜牛共進会がありました。
安房郡と君津郡、山武郡から出品されております。
入賞した牛の種類に、所有者氏名と住所が載っていて、
それが安房郡の広範に及んでいるのがわかります。
ここには、入賞者の1等~4等までの町村を並べてみます
(同じ町村で、2回以上登場するのですが、ダブらないように省きました)。

安房郡冨浦村・八束村・吉尾村・丸村・曽呂村・平群村・田原村・
岩井村・東条村・七浦村・主基村・稲都村・館野村・勝山町・
保田町・富浦村・北三原村・那古町・国府村・大山村・瀧田村 
  ( 安房以外にも、君津郡豊岡村・環村とが入賞しています )。

こうして入賞牛の一覧表の順位が示されたあとに、こうありました。

「・・・優良の成績を獲得したものはすべて優秀な種牡牛の
 交配によって生産された乳牛で占めたこと及び管理手入等もよく
 行届いていることが記録されてあったことは括目に値する。
 更に之の共進会を機会として他府県よりの購買者が相つぎ、
 特に農商務省が優秀牛の買上げを行ったことは
 酪農振興上裨益するところが多かった。
 殊に他府県よりの来観者の多かったことは
 酪農安房の名が漸く昂まったことを意味するものである。 」(~p154)


つぎには、2工場会社をとりあげてみます。

〇 東京菓子株式会社

大正9年に安房煉乳株式会社が、東京菓子株式会社へと合併され、
東京菓子株式会社は、事業を継承して主力を房州に置きます。

菓子製造原料として勝山工場から毎日冷蔵貨車によって
東京に生乳輸送すると共に、滝田、主基、館山の三工場では
煉乳製造に力を入れておりました。


〇 極東煉乳株式会社

「金鵄印ミルク、金線印バターでその名が売れていた、
 三井系極東煉乳株式会社は大正11年南三原村海発に、
 乳製品工場を設置して初めて安房に進出、
 続いて12年勝山町にも工場を増設した。
 
 南三原の安房工場では煉乳、バターの乳製品を製造、
 勝山工場は主として東京への生乳輸送に当る傍らバターを製造した。」
                        ( p178~179 )

ちなみに、生乳輸送専用貨車の写真があり、その下に説明があり、
「牛乳缶の上に氷を入れて冷却して腐敗を防止した」とあります(p182)

関東大震災が起こるのが大正12年9月1日。
その数年前の「生乳輸送」の活況を最後に引用しておくことに。

「・・大正9年5月安房煉乳株式会社は・・・
 勝山駅から東京牛乳小売業組合長飯村某に送乳して
 漸く本格的な生乳輸送が始められた。

 先づ最初は客車便で送乳したが同年9月16日より
 送乳専用貨車で輸送する様になって漸くその量を増し、
 その後同社が東京菓子株式会社に合併・・・・・

 ・・大正9年5月より安房畜産株式会社が勝山工場を設置して
 牛乳の貨車輸送を開始したが大正11年12月から
 極東煉乳株式会社が其の工場を引受けてこれ又東京への
 生乳輸送に専念し1日10数石から需用期に至れば20数石の牛乳を
 勝山駅より冷蔵貨車で東京へと送った。

 このように・・両社によって日々数十石の生乳が
 専用の冷蔵貨車で輸送されたことは他の地方では
 見られない状景であった。・・・        」(~p182)

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大震災への『座右の書』

2024-04-26 | 地震
『安房郡の関東大震災』の講座までに、身近に置いときたい本が曽野綾子著
「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」(扶桑社・2011年9月10日)

これを座右の書に、関東大震災から東日本大震災へ、視野をひろげられれば、
さまざまな切口で、講座時間内に重層的な話題を提供できそうな気がします。

さてっと、直接に関係しないのですが、触発される箇所もいろいろあります。
たとえば、『田舎』というキーワード。そこを引用しておくことに。

「 自分の一存でやるべきことをやって、
  それがいけなかったのなら責任をとって野に還る、
  浪人をするなどという覚悟が昨今のエリートには全くない。

  昔は実際に親たちが田畑を耕している家庭があった。
  勤め先の世界が理不尽だと感じる時は、
  職も地位も捨ててとにかく田舎に帰れば食えたのである。

  今でも過疎になった農村に入ることを覚悟しさえすれば、
  農業一年生として生きることはできるだろうと、私は思うのだが
  ・・・・・
  とすると、いかなる事態になっても、紙に書いてある自分の任務以外は
  何一つできない役人が、緊急事態の被災地のあちこちにいて、
  その活動の邪魔になっても不思議はないのである。」 ( p196 )

今回、この箇所をパラパラとめくって思い浮かんだのは、柔道でした。
私の高校時代の体育の授業では、選択制で柔剣道を選んで受ける時間が
ありました。そこで選んだ柔道は、まずは受け身からはじまりました。
テレビで観戦する柔道は、倒されたら負けになるのですが、
あくまで、柔道の基本をはじめる際には、受け身からでした。
その『受け身』が思い浮かびました。
話しがそれました。

ここには、『田舎』という言葉があるのですが、
『田舎』と同時に『覚悟』という言葉もここにありました。
本の最後に方に『覚悟』という言葉がでてきておりました。
ということで、最後にそこを引用。

「東日本大震災の後すぐ、個人的な事情で
 私は被災地に入れない状況にあった。 」(p266)

そして四カ月目に現場に行くことになります。

「それでも私はでかけることにした。
 だから私は四カ月目の被災地の現場のほんの一部の大地に、
 たった2日間立たせてもらったに過ぎない。
 私は全体像どころか、私が見た限りの狭い断片的光景しか書けない。

 たぶんそれは、ほとんどいつも、記録者について廻る宿命のようなものである。
 つまり私たち記録者は、常に巨象を撫でる盲人で、
 ほかの印象を持つ多くの人の違和感を覚悟の上で
 書かねばならないのである。  」(p268~269)


はい。百年前の『安房郡の関東大震災』を
今度語ろうとするのですが、何だか背筋を伸ばしてくれる
そんな言葉をいただいているような気になります。
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講座予定の紹介文

2024-04-25 | 地震
一年に一度。一時間ほどお話をさせてもらっています。
地域の公民館講座のひと枠です。昨年は8月だったので、
今年もその頃になるかと思います。南房総市公民館だよりに、
講座の連絡が掲載されて参加者募集します。

早いですが、まずは、その参加者募集の紹介文を
考えることに。以下の内容を予定しております。

「関東大震災後、創立すぐの安房農学校で『復興の歌』が
 歌われておりました。それから百年後の昨年。同じ場所で、
 その同じ歌詞を歌う講座がひらかれました。

 その際のアンケートで、『郷土歴史』への興味の項目に、
 全員が〇をつけていました。またコメント欄に
『 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
   地域の受災状況をくわしく知りたかった。 』とありました。

 今年の講座は、このコメントをテーマに語ります。
 題して『 安房郡の関東大震災 』
 副題に『 安房郡長大橋高四郎 』
 大正時代の安房郡を視野に、安房郡長を主軸に、
 震災を時系列でたどります。  」

 はい。昨年は15人ほどの参加者を前にかたって、
 参加者の皆さんとで『復興の歌』を歌いました。
 高校の許可があればまた同じ場所での開催です。

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困った時の神頼み。

2024-04-23 | 地震
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)を
そばに置いているので、この機会にパラパラとめくります。

東日本大震災に遭遇して、マスコミや各種雑誌は、
曽野綾子氏に誌面を提供しておりました。
その曽野綾子氏は聖心女子大学卒のカトリック教育を受け
育っておりました。この本にも聖書からの引用がところどころに
出てきております。

「東日本大震災による困難に直面しながら、
 今日私が書くことは不謹慎だという人もあろうが、
 やはり書かねばならぬと感じている。・・・・

 ・・・それでも人間は今日から別の道を見つけて
 前に歩き出さなければならないのだ。

 新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、ところどころに
 実に特殊な、『 喜べ! 』という命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『喜べ!』と命令されることはない。
 感情は、具体的な行動と違って、外から受ける命令の範疇外のことだからだ。

 だが聖パウロの言葉は、
 人間が命令されれば心から喜ぶことを期待しているのではないだろう。
 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。
 しかし今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは
 意外と上手ではないのだ。    」(p28~29)


ここだけを引用してもはじまらないのが、この本の特徴なのですが、
ここは、東日本大震災直後に書かれていることを念頭におくと分かりやすい。

また、こういう箇所もありました。

「 聖書は『使徒言行録』(20・36)で
 『 受けるより与える方が幸いである。 』といっている。
  これは人間の生甲斐というものをごく普通の言葉で表した名言である。
  ・・・・・
  人間を失わないのは、ほとんど人間性を失いかけているように
  見える不幸や貧困の中ででも他者に与えるものを持っている場合である。
  それは、物やお金ではない。その人が人間であることの
  尊厳を示せる機会を残しておくことなのである。   」(p124)

聖書を引用したあとにつづくのは、東日本大震災の事例でした。
たとえば、こんな箇所。

「 私は今回ほど、我が同胞に誇りと尊敬を持ったことはない。
  人々は配給の食料を整然と列を作って受け、量が十分でない場合には、
  簡単な合議制で公平に分け合った。
  運命を分け合う気力はすばらしいものだ。

  事件直後では産経新聞の3月14日付の記事が、
  宮城県下で窃盗事件が相次いだと報じただけだ。
  もちろん災害の中心地は破壊が烈しくて盗むものもなかっただろう。

  盗まれたのは塩釜、多賀城などの食料品店で、総額わずか40万円。
  休業中のガソリンスタンドで、ノズルに残っていた1リットルの
  ガソリンを盗もうとした24歳の会社員まで入れてである。

  あってはならない災害だったが、今回の事件で、
  日本と日本国民に対する評価は世界で一挙に高まると思われる。
  厳しい天災の中にあって、このような静謐を保てる気力は、
  世界にそう多くはないからだ。  」(p131~132)


パラパラとめくっていると、
関東大震災で曽野綾子さんの両親が遭遇したエピソードが語られています。
そこを引用しておきたいと思いました。

「一昔前の日本は、貧しい国であった。
 しかし社会は当時から折り目正しく公平だった。
 私は援助を受けた日本の歴史的な姿を、一市民の姿から書いておきたい。

 1923年の関東大震災の時、東京に二人の平凡な市民の女性たちが住んで
 いた。共に20代半ば、共に幼い娘を持っていた田舎出身の主婦であった。

 大震災の後、この女性たちは、アメリカからの贈り物という毛布をもらった。
 一人の女性は、後年生活が楽になって、義援の毛布より少し上等な毛布を
 自分で買えるようになっても、もらった毛布は大切に仕事場で使っていた。

 その二人とは、夫の母と私(曽野綾子)の実母である。
 当時二人はまだお互いの存在さえ知らず東京の下町で暮らしていた。

 後年、震災後に生まれた息子と娘が結婚した後、
 二人は震災の話をして、二人とも公平に同じような
 アメリカの毛布をもらったことを確認し合った。

 日本の町方の組織は、当時からそれほどにしっかりしていて、
 しかもフェアーだったのである。誰か顔役がいて、被災者の
 毛布を横流ししたことはなかったのだ。まだ若い妻たちが、
 何も言わなくても毛布はもらえた。これはすばらしい記録である。」(p139)


ここに『東京の下町で暮らしていた』という箇所があります。
東京の下町といえば、現在、江東区・東京15区補欠選挙があり、
選挙演説期間で、日本中の注目を集めております。
どうしても、選挙演説を聞いている江東区民のことが
今は思い浮かんできます。『喜べ!』江東区民の方々。







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2024-04-22 | 地震
今年は、『安房郡の関東大震災』と題して、
1時間程度の講座をひらきたいと思っております。
昨年は、『関東大震災と「復興の歌」』というテーマで語りました。

それに関連して、資料を読み返しながら、当ブログでは、
すぐに忘れてしまう私のために、その資料をピックアップして、
あっちこっちと脱線して不連続ながらも書き込みをしています。

差し当たって、語るための資料はこの程度にして、
あとは、これを1時間の中にゴチャゴチャしない程度に
まとめてみたいのですが、さてどうしたらよいのか、と思っておりました。

まずは、『 安房郡の関東大震災 』に関する資料が豊富にあったことを
歓びたいと思い。その嬉しさを記しておきたくなります。

こういうのは、比較すると浮き上がってくるものですね。
ここには、東日本大震災のある箇所を比較してみることにします。

曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)から引用。小見出しに、「組織における記録という武器」とある箇所を引用してみます。

「 地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、
  喧嘩か責任のなすり合いが始まった。

  東京電力福島第一原子力発電所の事故後、
  第一号機への海水注水を行うことについて、
 
 『 言った 』『 言わない 』『 知らない 』
 『 伝えた 』『 連絡を受けていない 』式の

 なすり合いが始まったのである。
 ことがこれほど重要でなければ、
 世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。 」(p162)

はい。ここでは、時間が限られた講座の話と違いたっぷり
引用しておきたいと思いますので、さらに引用を続けます。

「 会社や組織の中での喧嘩は、いつも
  『 自分は連絡を受けていなかった』
  『 そんなことはない、ちゃんと伝えてある 』の形式を取る。

  いつか親しいカトリックのシスターが、
  『 修道院の中でも喧嘩するのよ 』と言うので私は嬉しくなり、
  『 シスターたちの喧嘩の原因てなんです? 』と尋ねたら、
  『 連絡した 』『そんな知らせは受けていない』ということなのだという。
  『 なあんだ 』と私は少しがっかりした。修道院の中なのだから、
  もう少し神学的高級な問題の対立か、それとも好きなお菓子を
  あの人が食べてしまったというような動物的な対立かと期待したのに、
  これでは世間の会社と同じだ。

  しかし組織が喧嘩をしないためには、
  記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。
  
  私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、
  何か少しでもおかしいと感じたら、
  その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。

 『 〇月〇日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、
   根掘り聞くという感じの電話を受ける 』から始まって、
  その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、
  とにかく記録しておくのである。
  これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。」
                  ( p162~163 )


引用しながら、思い浮んでくるコラムがありました。
竹内政明読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集(中公新書ラクレ)。
この第二十集は、2011年1月~6月までの一面コラムが載っております。
その5月18日のコラムの後半を最後に引用しておくことに。

「 『 さしたる用もなけれども・・・ 』
  何の用があったのか―――菅首相が野党から責め立てられている。

  震災翌日に原発を視察した判断をめぐって、である。
  首相は格納容器が破損している可能性を認識していながら、
  指令本部の官邸を留守にしており・・・・・

  そういえば、政府と東京電力が一体となって
  原発事故のあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
  蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)の
  ほうが先というのも、ピントがぼけていた。

  拍手をもらえそうならば無理にでも『出る幕』を
  つくってしまう≪ 興行師 ≫のような最高指揮官では困る。

  視察は意義があったと首相は言う。
 『 さしたる用もなけれども・・・ 』と言うはずもないが。 」(p196~197)


さて、『安房郡の関東大震災』を指揮したのは安房郡長大橋高四郎でした。
その記録となる『安房震災誌』(大正15年3月発行)には
前安房郡長大橋高四郎という肩書で「安房震災誌の初めに」という序を
書いております。その最後を引用しておくことに。

「 ・・が、本書の編纂は専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。そして
 
  編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、
  その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶すれば、
  身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  」


『安房震災誌』の編纂に基づいて私は今年、
1時間の講座を、受け持つことにしています。

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普通の暮らしの空気

2024-04-21 | 地震
本棚から、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)
を取り出す。題の脇には小さく「東日本大震災の個人的記録」とあります。

最後には、書下ろし原稿と、新聞、雑誌に寄稿した原稿を加えたとあります。
その次に、産経新聞・週刊ポスト・新潮45・修身・WILL・本の話・SAPIO
文藝春秋・あらきとうりょう・オール読物と寄稿誌などを明記しております。

そうだった。あの大震災の直後から、新聞雑誌で曽野綾子さんの文が読めた。
そうこうするうちに、この単行本が出たので買ったのでした。
今になって、あらためてパラパラひらいてみることにします。

どうして、曽野綾子氏の文がちょくちょく見れたのか?
という疑問に答えているのはここらあたりでしょうか

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
 私はいつも周囲の情況が悪くなった時に思い出される人間なので
 はないか、と思う時がある。」(p27)

「約40年間、私はアフリカの貧しい土地で働くカトリックの修道女たち
 の仕事を支援してその結果を確認して歩く仕事をするようになった。」(p29)

こうして「アフリカの田舎の暮らしの実態と今の日本を比べ」る視点で
箇条書きに示しておられました。その中からこの箇所を引用。

「 泣きわめくような、付和雷同型の人は、被災地にはほとんどいなかった。
 感情的になっても、ことは全く解決しないことを日本人の多くは知っている。
 風評に走らされた人は、むしろ被災地から離れた大都市に見られた。」(p30)


うん。引用してみたい箇所が多いので、ここではさわりだけにします。
あと一ヵ所引用。

「 私が地震の日以来たった一つ心がけていたのは、
  普通の暮らしの空気、つまり退屈で忙しくて、
  何ということもない平常心を失わないことだった。

  いくつかの理事会などが延期になったので、
  私は外出しなくてよくなり、退屈のあまり
  簡単な料理ばかり作っていた。冷凍庫や冷蔵庫の
  中身をきれいに整理するための絶好の時と感じたのである。」(p97)

「 4月7日になって起きた宮城沖の大きな余震の時、
  仙台放送局内に設置されたカメラが、報道の威力を発揮した。
  人々は机の上のコンピューターを手で抑え、金属戸棚は
  後ろにひっくり返って散乱した。

  揺れがひどくなければテレビの絵にならないだろうから、
  これでよかったのかもしれないが、なぜこの放送局は
  1回目の地震の後、局内の戸棚や機器を、あり合わせの
  ビニールひも、布製の包装用テープ、新聞紙(の折りたたんだもの)
  などで止める配慮をしなかったのか。

  地震以来テレビ局員は、最高に忙しい人たちだということは
  よく知っている。しかし、どんなに疲れ切っていても、
  余震は予期されていた。僅かの補強で落ちるものも落ちず、
  倒れるものも防げるのだ。後かたづけに時間も取られない。

  阪神淡路大震災の時も、電気と水道はすぐに止まった。
  ということは、電気掃除機と水雑巾が使えないということだから、
  危険なガラスの破片など、昔ながらの箒と塵取りがないと
  始末に困ったという。 ・・・・         」(p99)

はい。最初の方には、1930年生れの曽野さんが
「私と私の世代は、この世に安全があるなどと信じたことがなく育った。」(p19)


はい。あらためてひらくと、あれもこれもと、
この世代の謦咳に接している気分になります。
傾聴したい言葉なのでひと呼吸して開きます。
  





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『安房酪農百年史』の序文

2024-04-20 | 安房
昭和36年発行の「安房酪農百年史」(安房郡畜産農業協同組合・金木精一)
という本がありました。その序文を水田三喜男氏が書いておりました。
ここには、その序文を引用しておきたくなりました。
序文は昭和36年1月とあり、大蔵大臣水田三喜男となっております。

「 待望されていた『安房酪農百年史』が漸く刊行されることになりました。
 安房畜協金木組合長によって、8年の年月を費し、資料をととのえられた
 だけあってまことに立派な編纂であり、貴重な業績であります。

 嶺岡は私の生れ故郷であると同時に、安房酪農の発祥地です。
 百年史の中に私の祖父竹蔵と、父信太郎が嶺岡牧場に関係が
 あったことを書かれていますが、ゆかりの三代目として私に
 序文をかく様金木氏から求められました。

 酪農家としては不肖の三代目ではありますが、
 昔懐しさに欣然として御引受けした次第です。

 私が3才か4才の頃ではなかったかと思うのですが、
 今はない畜産会社の庭に咲いていた赤い木瓜の花をむしり
 取って叱られたことをかすかに覚えています。
 会社の事務所で北三原の相沢林蔵さんという人から、
 三角の袋に入っている落花生を貰って嬉しかった記憶も
 まだ私の頭に残っています。

 あの山の上に芝居小屋がかかり、
 物売りが沢山出た記憶もかすかに残っています。
 あの山の上の有名な馬とり場の跡に立って周辺を
 見下しますと何里四方か人家は一軒も見えません。
 50年の転変を思うと懐旧の情に耐えません。

 嶺岡山を中心とする房州酪農の歴史が本書によって
 はっきりとここに残されますことは何といっても嬉しいことの限りです。

 ・・・・・・        」


はい。本文をめくっていると、大正12年の関東大震災前の
安房酪農の様子が、工場の立地とともに、よくわかります。
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水田三喜男の関東大震災。

2024-04-19 | 安房
戦後の大蔵大臣で、安房郡出身の水田三喜男氏(1905~1976)に、
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日経新聞社昭和46年)があります。
そのはじまりは、ちょうど安房郡の山間部の曾呂村からはじまっております。引用。

「明治38年千葉県の南端、曾呂村に生まれた。・・・

 旧曾呂村は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる一本道を
 中心とした500戸余りの山村である。火成岩の風化した
 粘土層におおわれていて、いわゆる『水持ち』がいいために、
 200メートル以上の高いところまで水田化されている。
 その代わり絶えず地すべりを起こして、
 役人泣かせで有名な地帯となっている。

 嶺岡山は『東西四里、春草繁茂、処々に清水を生じ牛馬飢渇の患いなし』
 と古書にもいわれているとおり、わが国酪農の発祥地として知られている。

 国主里見氏によって牛馬の放牧地として開かれ、
 のちに徳川幕府の管理するところとなり、
 八代将軍吉宗によって、オランダ牛やインド白牛など、
 初めて外国からの種牛が放牧されるようになった。・・・

 毎年5月、馬捕りの行事が行なわれ、山の上には
 遠近の人々が集って大変なにぎわいであったといわれている。
 幕府の役人が来て、牛馬の売買を見定めする場所を陣屋と称した・・
 ・・・・・・

  みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも

  と古泉千樫が詠った嶺岡山はこの陣屋からわずかばかり東へ寄った
  ところである。春になって柔らかい草を得るために、
  冬山は今でもよく焼かれている。・・・・      」(p11~12)


この水田氏が北條にある旧制安房中に入学しております。

「・・中学の1年生になった。大正8年の4月であり・・
 この年、今の館山市に初めて汽車が開通し・・・  」(p20)

その安房中の寄宿舎にいた水田氏ですが、
関東大震災を、ここで経験しております。

「大正2年9月1日、関東地方一円は大震災に襲われた。
 房総半島の西南側、特に北条、館山を中心として、
 およそ建物と名のつくものはことごとく倒壊した。

 寄宿舎も校舎も一瞬のうちに倒れたが、  
 小山内という博物の先生が一人身代わりとなられたためか、
 生徒の全員は奇跡的に無事だった。

 北条の海岸にあった堀田伯爵の別荘から救援の依頼があり、
 渡辺勇君と私と4人の寄宿生が駆けつけて、
 天井や壁の下敷きになっている人たちを助け出し、
 代わる代わる人工呼吸を行なったが、若い伯爵夫人のみは
 とうとう息を吹き返さなかった。・・・・

 夜中になって津波が押し寄せるという情報が伝わってきたので、
 寄宿生はその晩みんなで山の方へ逃げ出した。
 嶺岡山の生家は幸いにも倒れていなかった。・・・
 
 戸外に仮寝の小屋をみんなで作っている最中であった。
 その翌日からこの山の中にも流言蜚語が飛ぶようになり、
 男たちは日本刀をもち出して自警団をつくった。
 隣村を社会主義者らしいものが通ったというような
 情報が伝わるたびごとにわけもわからず色めき立ったものである。
 こんな騒ぎのなかで私は最愛の祖母をなくした。・・・・  」


最後に、関東大震災後の水田氏を語っている箇所を引用。

「・・震災のあと、5年生は連日先頭に立って、
   跡片付けや復旧工事の手伝いをしたので、
   満足な授業もなく受験勉強もできないままに
   卒業するはめとなった。果たして
   上級学校への受験生はこの年枕をならべて討ち死にした。
   私もその一人であったが、全員の討ち死にによってあきらめられた。

   5月ごろから東京に出て受験生活にはいるつもりで
   身辺の整理をしているところへ或日突然郡役所から
   辞令が届いてびっくりした。代用教員に任命され、
   郡内の千歳村小学校に勤務を命ずるというのである。

   私が高校受験に失敗したことを知って、
   父が私には無断で郡長に頼んだ結果であることがわかった。
   父は一学期だけでもいいから赴任してくれという。
   いろいろな事情をきいて父の顔を立てないわけにもいかなくなった。
   ・・・・・・・

   わずか8カ月の勤務ではあったが、私には月給をもらって
   世の中に出た初めての経験であり、貴重な体験であった。

   最初は、関係者の顔を立てればいいと思ったまでのことであり、
   受験勉強を主として生徒に教えることを従とするつもりで赴任
   したのであったが、実際に子供を預かってみるとそんな無責任
   なこともできなかった。

   教えることの興味が少しずつ出てくることに伴い、
   責任感も次第に強まっていくことを意識して私はおそれた。

  『このままでいけば来年も落ちるに違いない。やめるなら早い方がいい』

   と決断して、中学の先輩である堀江さんというお寺の住職に
   相談し、私の後任となることも承知してもらってから辞表を出した。」


「 大正14年4月、水戸高等学校に入学した。・・・
  特に代用教員の時、陰になり陽になって私を庇護し、
  励ましてくれた先生方が、よかった、よかったと
  祝福してくれたことが身に沁みてうれしかった。
  中学の同級生たちもこの年は一斉に上級学校へ入学した。 」(~p38)


注: ちなみに、年代からして、登場する郡長は大橋高四郎。




 

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飯山あかり選挙演説。

2024-04-18 | 道しるべ
16日・17日とユーチューブにて、
飯山あかりの選挙戦演説から目が離せませんでした。

ちなにみ、酒井なつみさんの応援演説には、蓮舫さんの笑い顔がありました。
さっそく、長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月25日初版)を
取り出してくる。そこに、忘れないように短歌で蓮舫が歌われておりました。

  高飛車に津波対策費仕分けせし蓮舫が『節電してください!』だなんて

p61にありました。その前の方には、菅直人首相も登場しております。

  かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸

  おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ

  顔見せぬ菅宰相はかなしけれ1億2000万人のみなし子

p45~47にありました。


ついつい忘れっぽい私なのですが、
印象鮮明な保守党選挙演説の3名。
飯山あかり・有本香・百田尚樹。


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人を得なけりゃ優駿も只の奔馬。

2024-04-16 | 短文紹介
何か、久しぶりに月刊雑誌『文芸春秋』を
買ったので、何だか新鮮な気分になります(笑)。

今日になって、雑誌を2冊本棚からとりだしてくる。

文藝春秋発行の『諸君!』2009年6月号。
隣に並んでた、『新潮45』2013年12月号。

『新潮45』のこの号には、
田中健五の「池島信平と『諸君!』の時代」が掲載されておりました。
はい。8ページほどですから、すぐに読みかえせました。
その最後の方に、こんな箇所がありました。

「 この雑誌(注:「諸君!」)が今はもう存在しないことを、
  私は悔しく寂しく思う。
  『 人馬一体 』という言葉がある。
  編集者と雑誌も同様である。『人馬一体』が求められる。
  人を得なければ、優駿も只の奔馬にすぎない。     」(p91)


さてっと、『諸君!』2009年6月号の表紙にはこうありました。
「 最終号 特別企画・日本への遺言 」。
その特集の一つ「『諸君!』と私」には、
佐々敦行氏の次に曽野綾子氏の文がありました。
はい。短文なので好きなように引用してみます。

曽野さんは、沖縄渡嘉敷島でのことを、
紀元1世紀にローマ軍に囲まれたイスラエルのマサダ要塞での
出来事をもって比較されておりました。

「私は『 ある神話の背景 』という題で、
『 諸君! 』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。」

うん。そのあとの最後の箇所はきちんと引用しておかなきゃ。

「『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
 沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
 反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
 姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
 
 田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。
 或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『 多分ご迷惑をおかけしているんですね 』と言ったことがある。
 すると村田氏は
『 社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ 』
 という意味のことを言った。
 反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。

 田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
 ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。

 私は『諸君』の終巻を心から悼むが、
 経済的な理由で終わりを告げることには、
 むしろ自然なものを感じる。
 これが思想的な弾圧でなくて良かった、と喜んでいる。
 と同時に歴代の編集者たちの苦労を深く労いたい。  」(p165~166)


久しぶりに『文芸春秋』を買って、私が読みかえして
みたかったのは、この曽野綾子さんの短文なのでした。

せっかくなので、曽野綾子氏が
『経済的な理由で終わりを告げることには、むしろ自然なものを感じる』
という『自然さ』を田中健五氏の文にもとめるとなると、
この箇所なのかなあと思う健五氏の言葉を最後に引用しておきます。

「 まだ戦後10年足らずの日本には、
  活字に飢餓感をもつ国民が多く、
  雑誌界は沸き立つような活況を呈していた。
  今では信じられない話しだが、
  一出版社の出す一月刊総合雑誌にすぎない
 『 文藝春秋 』編集長が社会的にも大きな存在を持つ時代だった。 」
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友人への手紙

2024-04-15 | 新刊購入控え
久しぶりに「文芸春秋」を買う。
はい。5月号。読んだのは
北原百代(ももよ)さんの「カイロで共に暮らした友への手紙」。
はい。10ページほどの文です。

「 日本人で初めてカイロ大学を卒業した、
  大東文化大学名誉教授の小笠原良治さんは
  留学生の中では抜群の語学力だと言われましたが、
  彼でも卒業までに7年かかったほどでした。 」(p112)

「 あなたは、冗談を言って人を喜ばせたり、
  驚かせたりすることが大好きだし、得意でした。・・  」(p114)

「 〇〇さんの顔写真が大きく載っている記事を読み始め、私は驚きました。
『 カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した 』
  などと紹介されていたからです(「サンケイ新聞」1976年10月22日)。

  私は思わず尋ねました。
『 そういうことにしちゃったの? 』
  あなたは、 『 うん 』と、屈託なく言いましたね。  」(p114)

うん。丁寧に引用していると、全文引用したくなりますので、
最後は、ここを引用。

「 久しぶりに帰ってきた日本のメディアの報道を見ていると、
  不思議に思うことばかりでした。

  テレビは政治家の政策や人となりを調べて報じるのではなく、
  ファッションや、面白おかしいエピソードや
  駄洒落を取り上げてばかりいました。    」( p117~118 )


そういえばと、曽野綾子さんのエッセイをひらいて見たくなりました。
とりあえず、ひらいて見たページにはこうあります。

「テレビやインターネットでは
『 紙に印刷された文字から思考するという上等の間 』がもてない。
 新聞には時々、すばらしい写真が載る。写真は真なることを写す
 ことになっているから私は好きなのだが、
 写真なら信用していいというわけでもない。  」

  ( p195 曽野綾子著「不幸は人生の財産」小学館 )

さて、これからテレビやネットに写り映えする小池都知事なのでしょうが、
『文芸春秋』5月号では、こんな言葉が拾えましたという紹介をしました。

コメント (2)
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講談の魅力と『プロジェクトX』

2024-04-14 | 古典
きさらさんから、コメントをいただき、あらためて
初回の新プロジェクトXを、取上げたくなりました。

新番組は東京スカイツリーから始まっていました。
思い浮かんだのは、幸田露伴著『五重塔』でした。

そういえばと『幸田露伴の世界』(思文閣出版・2009年)をひらくと、
すっかり忘れてたのですが、佐伯順子さんがとりあげておられました。
「 『五重塔』という『プロジェクトX』ー前進座『五重塔』と・・ 」
というのが題名です。

はい。今回はこの佐伯さんの文を紹介したくなりました。
ここで、はじまりに佐伯さんは目的を掲げておりました。

「 今回の考察の目的は、主に三つあります。
  一つめは、明治文学の昭和・平成期における受容、
  二つ目は、小説と舞台の比較、
  三つ目は、文学と社会との相関関係です。    」(p124) 

うん。端折っていきます。
はじめには今までの舞台公演の回数が一覧できるようになっていました。
つぎに、

「露伴の原作『五重塔』のプロットの特徴は・・・この物語は
 現代風にいえば、建築コンペの話という見方もできるかも 」(p127)

肝心な箇所はここかなあ。と思えるのを少し長く引用。

「・・・建築家の名前は残るけれど、
 現場で力仕事に携わる土木マンの固有名詞は普通残らない。
 ・・・そもそも、名を残したいという意識が希薄です。
 
 けれど、その≪ 無名 ≫の現場の人々にスポットをあて、
 固有名詞として物語化してメディアにのせたのが『 プロジェクトX 』であり、 
 それと共鳴する舞台『 五重塔 』は、いわば無名の土木マンの
 集合名詞のような形で十兵衛(露伴の五重塔の主人公)という
 キャラクターを突出させたといえないでしょうか。

『 社史や資料を見ても、事業の規模や開発のプロセスはわかっても、
  個人がどの場面に取り組んだとか、まして、
  ≪ どのような思いを抱いて取り組んだ ≫ 
  といった記録はほとんど残されてい 』ないので、

『 著名人が登場しない地味な番組 』でも、
『 一般人が歩いた軌跡を追う 』ことを意図したという
『 プロジェクトX 』は、
 高度成長期を支えた多くの≪ 十兵衛たち ≫に光をあてたのです。

 この舞台が『全国の建築関係者』に
 共感されるのも自然ななりゆきかと思われます。 」(p152~153)

はい。ひきつづき引用をしておきます。

「 一時期、教科書にも採用されていた露伴の『五重塔』は、
  明治の文明開化期以降の日本の近代化、さらには、
  戦後の日本社会の成長の原動力となったメンタリティを体現しており、

  それゆえに、名作として評価され、舞台化でも好評を博して
  現在にいたっています。

  私自身、日本文学の講師として勤めた最初の職場で、
  一回生向けの基礎ゼミで『五重塔』を講読し、
  その流れるような文体の妙に魅せられました。

  また、私利私欲をのり越えて同じ仕事をまっとうしようとする源太や、
  職人肌の十兵衛の人物造型も巧みで、名作であるには違いないと思います。
  特に暴風雨の場面は、講読すると圧倒的なリズム感でとても感動的です。

  『プロジェクトX』の、田口トモロオさんのナレーションや
  中島みゆきのテーマ音楽が人気になりましたが、形式は違えど、
  耳に訴える感動話という意味では、現代の講談ともいえます。

  特に前進座の舞台は、原作中の登場人物の格差や
  ジェンダー・ステレオタイプを視聴覚的な形で
  より印象づけ、感動的なアーキタイプに近づけて、
 『 五重塔 』の名作としての普及に貢献したといえます。

  アーキタイプの造型は舞台という芸術形式自体の傾向でもありますが、
  幅広い層に≪ 名作 ≫として支持されるに欠かせない条件ともいえます。
  ・・・・・・・・・      」  ( ~p153)





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3冊

2024-04-13 | 三題噺
① 「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)
② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1984年)
③ 「竹中郁詩集」(思潮社・現代詩文庫・1994年)

① せっかく、「編集者 齋藤十一」をひらいたので、
あらためて、パラパラめくりをしてみる。
この本は、追悼文集なので、さまざまな方の文があります。
石井昴氏の文に「次から次に熱い思いを我々若輩にかけられた。」とあります。
どんな言葉の断片だったのか?

『 俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ 』(p182)

そういえば、奥さんの齋藤美和さんの談話に

「 何か事件が起きるたびに、
 『 こういう切り口だったら読みたくなるね 』
  などと、言いつづけていました。 」 (p283)

その美和さんの談話に、写真週刊誌ブームのことが出て来ます。

「 昭和56年(1981)10月23日、日本初の写真週刊誌
 『 FOCUS 』が創刊されました。・・・・

  そして『FOCUS』は大ヒット。・・・
 『 これまでで一番の仕事だったなあ 』と本当に嬉しそうでした。

 ただ、それからしばらくして、誌面が齋藤の思っていたのとは
 別の方向へずれていったようです。
 もちろん雑誌は生き物です。
 後発のライバル誌が芸能スキャンダルに力を入れて
 部数を伸ばせばそちらもケアしなければならなかったでしょうし・・。
 晩年、ちょっとこぼしていましたね。

『 よい素質を持った雑誌だったのに、残念だ。
  もうちょっとタッチして、雑誌の方向性を
  しっかり根付かせておけばよかった。  』  」(p281~282)

そのあとに、何だろう、こんなことがでてきておりました。

「 ・・やっぱり教育だよ。教育というのは
  一度駄目になると元に戻すのに百年かかる。 」(p283)


② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」の目次をひらいたら、
  この詩集にも「三いろの星 組詩のこころみ」が入っていました。
  はい。この詩集でも詩「地上の星」を読むことができます。

 この詩集の最後には足立巻一の「竹中先生について」があります。
 そのはじまりを引用。

「竹中郁(たけなかいく)先生は、1982年3月7日、77歳でなくなられました。
 この詩集は、先生が日本の少年少女に贈り遺された、ただ一冊の詩集です。

 なくなられる10年ほど前、竹中先生はこの詩集の原稿を作っていられました。
 これまでに書いた詩のなかで、特に少年少女に読んでほしい作品ばかり
 を選び、むつかしい文字やことばは子どもでもわかるように書きなおし
 ていられました。・・・」


③ 現代詩文庫1044「竹中郁詩集」には、竹中氏の短文も掲載されてます。
  そこに「坂本遼 たんぽぽの詩人」がありました。そこからも引用。

 「 『 きりん 』に集まってくる小学生の詩と作文は、
   詩は私(竹中郁)が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、

   各々が3日くらいかかって選んだ。
   坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
   5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。
   日本の子供のためなら、死んでもいいという気概をかんじた。
  『 きりん 』はいろいろな人の助力で200号を越える長命をした。 」
                              (p123) 
  



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竹中郁の詩と『 地上の星 』

2024-04-12 | 詩歌
NHK新プロジェクトX。録画して初回を観ました。

あたまライト・尾っぽライト。
じゃなかった、中島みゆきのヘッドライトテールライト。
その歌詞は『 語り継ぐ人もなく 』とはじまってます。

『語り草』も60~70年をめどに、曖昧となり忘れらてゆくそうです。
ということで、関東大震災も、百年過ぎました。
新関東大震災の方が、やけに身近に感じられる。

ここでは中島みゆき『地上の星』と、
竹中郁『詩集 そのほか』との比較。

竹中郁は、戦後の月刊児童詩誌『きりん』を刊行しつづけておりました。
足立巻一は、それを指摘してこう書いております。

「 子どもの詩を読むことが自分の詩を作るよりも
  しあわせだったといわれます。戦後30数年間・・・・

  先生は第8詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自作の詩は余分の
  ことだという考えから名づけられたのです。・・・  」

     ( p163 竹中郁少年詩集『子ども闘牛士』理論社 )

この『詩集 そのほか』(1968年)を今回とりあげます。
その詩集のなかに、『地上の星』と題する詩があります。

この詩集のはじまりは、詩『考える石』でした。
その詩の最後の数行を引用してからはじめます。

「  點(つ)きにくいマッチをすって
   きみに近ずける
   きみの石英質は 長石は 雲母は
   かがやいた まばたいた そしてもの云いたそうだった 」

二番目の詩は「見えない顔」。戦後のラジオの
『尋ね人』の時間をとりあげた詩でした。その最後の2行。

「 ラジオの『 尋ね人 』の時間のなかの
  あの 見えない顔 顔 見えない顔   」

この詩集の三番目の詩はというと
『 三いろの星  組詩のこころみ 』となっており、
はじめが『 押入れのなかの星 』
二番目が『 地上の星 』
さいごが『 夜の星 』でした。

うん。竹中郁の詩『地上の星』を引用したいのですが、
それは最後引用するとして、その前に詩集のなかにある詩『別世界』。
ここには、『つばめ』が出てくるのでした。
ここには、断片的に引用しておきます。

  ゆきずりの郵便局の窓口で
  はがきを求める

  ・・・・・
  さて どこといって差出す目当もない
  それなのに はがきに書く
  佇ったまま 手当たり次第の台にもたれて

  『 つばめになれ 鳩になれ 』と
  ・・・・・
  ただ なんとなしに書く

  俗事にかまけたおれの躰から
  俗事一ぱいのおれの脳みそから 
  ・・・・・・

  ポトリと落しこんだ投函口の奥は暗いが
  そこは果しのない大宇宙
  そこには行ってみたい星もある


はい。最後になりましたが竹中郁の詩『 地上の星 』の全文。

     地上の星    竹中郁

  こちらで振る
  踏切番の白いランプ
  あちらで答える
  もう一つの小さな白いランプ
  どしゃぶりの雨のなか
  話しあっているようだ
  うなずきあっているようだ
  やがて来る夜更けの電車を
  夜更けて帰りの人人のいのちを
  いのっているようだ

  ね ここに一人のぼくがいるよ
  雨とくらやみとにまぎれて
  それとなく見つめているぼくだよ
  ぼくも振っているんだよ
  ランプの話しあいに加っているんだよ
  ランプのいのりに加っているんだよ
  黒い蝙蝠傘を
  大きく大きく打ち振っているんだよ
コメント (2)
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谷内六郎の房総。

2024-04-11 | 安房
谷内六郎といえば、わたしには、
週刊新潮の創刊号からの表紙絵が思い浮かびます。

カタログ「誕生80年記念 絵の詩人 谷内六郎の世界」2001年を
ひらいていると、海の絵がさまざまに登場していることに
あらてめて気づかされます。

さてっと、ここには『表紙の言葉』を引用。
創刊号の絵には、絵の中に言葉があります。

『 上總の町は 貨車の列 火の見の髙さに 海がある 』

表紙絵ばかりが有名で、ご自身が書いていた
『表紙の言葉』を、ついぞ読んだことがありませんでした。
この創刊号の『表紙の言葉』の全文を引用してみます。

「 乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、
  雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。

  兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳におぐれるよ、
  上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻の匂がひろがって、

  タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。

                   房州御宿にて    」
                      ( p62 カタログより )

鯨の姿をグランドピアノにたとえた絵がありましたので、
その『表紙の言葉』も引用してみます。


「 学芸会で先生がひいてくれたピアノは、
  『 青い月夜の浜辺には 』浜千鳥の曲です、
  音が月の光といっしょに波の面からだんだん
  海底に向って幕のようにさがって行くと

  先生もピアノも生徒もさがって行って海底につきました、
  先生は鯨のおなかをピアノのかわりにしているのです。

  鯨は先生がおなかをアンマしてくれてるのだと思って
  静かに眼をほそめていると、どうもアンマにしては
  たたきかたが変だぞと思って、

  いきなり大声で杖をおもちですか!! とどなりました。

  駅員の人がパスおもちですかというのに似ていたので、
  先生はびっくりして、いきなり運動会のピリピリの笛を
  ピーッと鳴らしたので、

  鯨は安心してこうつぶやきました
  『 やっぱり専門のアンマさんだ 』      」

        ( p 64  「青い曲 1956年」 カタログより )


カタログをパラパラとめくっていると、牛も登場しておりました。
カタログにある、谷内六郎の年譜のはじまりにはこうありました。

「1921(大正10)年 0歳
    父久松と母しげとの間に、12月2日、
    渋谷・伊達町で生まれる。9人兄弟の六男。

    当時、父は東京高等獣医学校の寄宿舎を恵比寿で経営。
    理想主義的な思想の持ち主で、リベラルな性格。
    ・・・鈴木農牧場でかつては主任を務め・・・   」(p160)


絵と文谷内六郎の「わが幼年時代」から、牛が登場する場面を引用。

「 (五) 乳牛の白と黒のまだらを見て
     ぼくは世界地図に見たてておりました。

  (六) 母はよく乳をしぼっていました。
     そんな姿が乳色のユリカゴのように
     よみがえって来るのです。        」(p137)


さて、谷内六郎が週刊新潮の表紙絵を担当するに際しての
きっかけは、ここいらあたりかなという箇所がありました。

「編集者 齋藤十一」(齋藤美和=編 2006年・冬花社)の
最後の方に、「齋藤美和・談」という談話が活字になっておりました。
そこから引用。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。
 どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。

 編集長の佐藤亮一さんから
『 出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で 』と言われて、
 作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、

 いくら立派な顔であっても、しょせんは
≪ おじさん、おばさんのアップ ≫で、あまり面白くない。

『 やっぱり絵にしよう 』と、そのころ若手から
 中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
 描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。

 そんなとき齋藤(十一)が
『 こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか 』
 と教えてくれたのが、おりしも第一回文藝春秋漫画賞を
 受賞したばかりの谷内六郎さんでした。

 『週刊新潮』の誌面には、一癖も二癖もある連載が並んでいました。
 ・・・・          」( p280~281)

この齋藤美和さんの談話に、家出の話がありました。
房総に関連なので最後にそこも引用しておくことに。

「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。
 理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったことも少し
 影響していたのかもしれません。
 
 大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。
 月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた
 方ですが、その白井さんが、授業中に隣の席で文庫本を読みふけっていて、
 余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。

 ・・・・・・
 そのうちに、大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、
 どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。
 ・・・・・・
 お父さんの月給袋をちょっと拝借して、家出をしてしまいました。

 目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で
 内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、
 土地勘があったのです。

 中学生のころには保田から外房の鴨川まで
 下駄で歩き通したこともあって、その途中の
 吉尾村(現・鴨川市吉尾平塚)という集落が
 心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。

 結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されて
 ほぼ一年の間、昼間は近所のお百姓の畑仕事の手伝い、
 夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。・・・・    」
                        ( p272~273 )

 
 

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