そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

7月10日(金)

2009年07月10日 | 昔日記
 いま「ギャラリー坂」で「tenugui exhibition '09 sarasa textile」をやっているので、授業の前に寄ってみた。板橋美紗子さんという作家の、捺染による作品展だが、一枚一枚微妙に色合いが違う。両三枚求めた。布地自体なかなかのスグレモノで、肌触りと吸湿性が何ともいえない。

 ふと見ると、白磁の面白い容器があった。フランスの古いヨーグルト容器だという。蕎麦猪口に使えそうだし、酒器にもいい感じだ。中に1本、縦に稲妻様のキズが入っているのが、景色と言えぬこともない。「青天の霹靂」という銘にしようと、衝動買いに及ぶ。

 花札演習は、十二月桐を終えた。発表チームは丁寧なプレゼンテーションをしてくれたが、鳳凰と桐を詠んだ和歌についての調査が不十分だった。そこで補足資料を配布して、説明する。

 『枕草子』の「木の花は」の段に出てくるのは有名だが、和歌には西暦1200年くらいから見えてくる。「鳥」の題が設定された『正治院初度百首』(1200)に、

  ふるさとの桐の梢をながめても
    棲むらん鳥を思ひこそやれ(家隆)
  ももしきや桐の梢に棲む鳥の
    千歳は竹の色も変はらず(寂蓮)

それから、源光行が源実朝のために著した『百詠和歌』(1204)の「鳳」の項にも、
  
  山風のねぐらの枝も鳴らさぬを
    のどけき世とや鳥は出づらん
  深き山の桐の梢に棲む鳥の
    心の花は一つ色かは

という作が載る。鳳凰は政治的な瑞祥となるわけだから、

  蔭高き桐の梢に棲む鳥の
    声待ち出でん御代のかしこさ(新続古今集)
  名ぞ高き棲むてふ鳥の姿まで
    今朝たぐひなき桐の木立は(雅世集)
  桐の葉は秋にぞ落つる棲む鳥も
    あらはれぬべき君が世の蔭(碧玉集)

竹の実を食べるというので、

  玉敷の砌の竹に食む鳥の
    静かなる代は今ぞ待ちみん(春夢草)

とも詠まれている。江戸時代の作例では、「梧桐鳳凰」の題で田安宗武が詠んだ、

  御園生の青桐咲けり香をとめて
    うづのさか鳥今か来啼かむ(悠然院様御詠草)

がありますな。そんな話をし続けたら、これはもう完全に古典文学の授業になってしまいましたがな。ホントは「言葉とイメージ」という演習なんだけれど、まあ、そんなに逸脱しているわけではありません。

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