そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

11月14日(土)親友の死

2020年11月14日 | 公開
  学部生時代の親友が死去した。11月7日の早朝息を引き取ったそうだが、告別式は本日、行われた。

  訃報を得たのが昨日の18:00だった。思いつく関係者に知らせ、私自身は学会の例会があるため、式には行けないと思い弔電を打った。しかし、思い返して、学会をパスして、告別式に赴くことにした。



  学部生時代、1年の同じ基礎演習を登録し、登録したつもりが、全く同じマークシートの間違いをして、青ざめて担当教授の研究室に駆け込んだのが発端。その先生に顧問になっていただき、研究会を立ち上げた。それは今でも隣の研究室のT教授が引きついて、継続している。一緒に中国へ二回行き、北朝鮮へも行った。

  R高校の専任を経て、大学附属高校の教諭となった。同じ専修同期から大学院へ進学したのは、私とKの2人だけで、二人とも母校の教授になった。そのほか、専攻科を出たNと、このたび死去したTの4人が、同一学校法人の教員になったから、我々の専任着任率は200%だ(大学院進学者+被進学者)と豪語していたが、Nは自殺し、Tは21年前、JR駅ホームで接触事故に遭い、そのまま植物人間状態に近くなってしまった。その後、ある程度回復し、自立歩行もできるようになったが、会話は不可能だった。

  研究会の後輩と結婚したのが1988年、1999年に事故に遭い、この間、お連れ合いの苦労、苦衷はいかがかりであったことか。

  弔電は届いていたが、喪主に弔辞を頼まれ、引き受けた。短歌一首をもって、弔辞に替えた。

    点鬼母に 名はしるすとも ドラさんの かの面影は 消ゆることなし
  
  綽名を「ドラさん」と言った。体形がドラえもんに似ていたからだが、遺体も往時そのままに、ふっくらとしてよい顔をしていた。学部同期生が、岡山からH、神奈川からSが駆けつけた。この3人とTが、親友4人組であったことは、確かである。

合掌。




11月8日(日)存外忙しい日々

2020年11月08日 | 公開
  歌集を上梓してから、講演やら原稿執筆依頼やら、存外忙しい。土曜に400字詰10枚の原稿を頼まれ、夜、編集事務担当から正式依頼がきたから、すぐに書き上げて本日(日曜)の午前中には送信した。『汲古』の編集後記は400字詰1枚程度なので、これは簡単、一瞬で脱稿。新しい論文の執筆にもとりかかったが、5000字ほど書いて、ちょっと疲れた。

  菊花サラダというのを作ってみた。レタスとキャベツを千切りにして水に晒し、残ったところてんを混ぜて水を切る。三彩の鉢に持ってから、食用菊を振り掛け、豆腐屋で売っていた「黒トリュフ」のドレッシングを、ぽたぽたっと掛け回した。色合いがよい。


  拙歌集、新宿紀伊国屋の歌集コーナーに並んでいたと聞いて、土曜に見に行ったら、無かった。売れたということならむ。出版元花鳥社のH社長に連絡したら、結構なこととの返事がくる。花鳥社といえば、ロゴの文字は、なんとなんと、立川「無庵」の、竹内洋介さんのお嬢さん美帆さんのご揮毫なのだそうである。知らなかった!

  六大学野球早慶戦は、早稲田が逆転優勝。私も私的領域で敵慶應と戦闘状態に入ったから、こいつは縁起がよい。今に見ておれ。