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◆このしもべが何者だというので、

2017年05月27日 16時20分01秒 | 聖書
あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。(Ⅱサムエル九・八)
メフィボシェテでさえダビデの親切をこれほど恐縮して受けたとすれば、私たちは恵み深い主の前にどうすればよいのだろう。恵みを多く受けるにつれて、私たちは自分のことを小さく考えるようになる。恵みは光のように、私たちの汚れを明らかにするからである。有名な聖徒は、自分を何に比べたらよいかほとんど知らなかった。自分が無価値であるという意識がきわめて強く、かつ鋭かった。聖徒ラザフォードは言った。「私は枯れはてた枝、一片のしかばね、乾いた骨、一すじのわらも踏み越えることができない者」と。そして「外に現れていなくても、私はユダやカインがもっていた悪をすべてもっている」と記している。
自然界の最もいやしいものも、へりくだった心の持ち主には、自分よりはるかにすぐれたものに見える。それが決して罪と関係することがないからだ。犬は食いしんぼうであり、時にはどう猛であり、不潔である。しかし犬は良心を汚すことも、聖霊に逆らうこともしない。無価値な動物かもしれないが、少しかわいがれば主人になつき、死ぬまで忠実に仕える。しかし私たちは、主の善を忘れ、主の呼ぶ声に従わない。
「死んだ犬」とのことばは、最も軽蔑的な響きをもつが、神の教えを受けた信者の自己嫌悪を表すのに、いささかも強すぎることはない。彼らはありのままを表明し、自分を聖所のはかりにかけ、その真の状態がむなしいことを見いだす。私たちは土くれであり、生きているちりにすぎない。罪人として見るならば、私たちは全く怪物である。そのような私たちに、主イエスが心からの愛を注がれるとは! これは驚嘆すべきこととして、天において公表されるべきではないか。
私たちはちりや灰のようであるが、主の恵みの絶大さをたたえるべきである。また私たちはそれを必ずたたえるであろう。主がケダルの天幕を訪れて配偶者を求め、日に焼けている花嫁を選ばなければならないとは。おお。天よ、地よ。賛美の声を高く上げ、一切の栄光を私たちの尊い主イエスに帰せよ。
 

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