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◆いま私が、この世に生きているのは、

2015年12月28日 07時34分53秒 | 聖書
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ二・二〇)
 
かつてあわれみに富む主が通られた時、倒れて死に瀕している私たちをご覧になって、まず第一に「生きなさい」と言われた。なぜなら、いのちは霊の世界において絶対に欠くことのできないものの一つであって、いのちが与えられていなければ、人は神の国のもろもろの祝福にあずかることができないからである。
聖徒たちが生かされる瞬間に、恵みによって与えられるいのちは、キリストのいのちにほかならない。それは幹から流れる樹液のように、枝である私たちに流れ込み、私たちのたましいとイエスとの間に生きた結合をもたらす。信仰はこの結合を実現する恵みであって、恵みの初穂として出たものである。それは、教会のからだを栄光のかしらに結ぶ首に当たる。
 信仰よ。あなたは私たちを主に結ぶきずな
 それがあなたの務めだ
 あなたにふさわしい名は教会の首
 意志とその働きにおいて
 教会を、天に上られた主と同じにする
信仰とは、主イエスをはっきりと知り、主にふみとどまることである。教会は主のすばらしさや価値を知り、どんな誘惑に会っても、心を移そうとしない。キリスト・イエスはこの天来の恵みを喜ばれ、愛の抱擁と永遠の御腕をもって常に教会を強め、支えてくださるのである。ここに、活気にあふれた、明確に感知することのできる喜びに満たされた結合が確立され、そこから愛と、信頼と、同情と、満足と、喜びの流れがわきいで、新郎と新婦は喜びつつ、これを飲むのである。
たましいが明確に自己とキリストとの一致を見ることができる時、両者の脈は共にうち、同一の血液がそれぞれの血管を流れるのを感じる。その時、心は地上にありながら、あたかも天国にあるようであり、最も崇高な、霊的な交わりに入るために備えられるのである。
 
 

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