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◆油そそがれた者は断たれ、

2017年01月16日 17時05分32秒 | 聖書
彼には何も残らない。(ダニエル九・二六)
御名はほむべきかな。主イエスに死を与えるものは何もなかった。原罪も、現実に犯す罪も主を汚さなかったので、死は主の上に何の権利も主張することができなかった。何びとも正当な手段で主のいのちを奪うことはできなかった。主はだれにも悪をなさらなかったのだから。主が喜んでご自分を死に渡されるのでなければ、だれも主を無理に害することはできなかった。
しかし、見よ。一人が罪を犯し、そのために他の者が苦しんでいる。正義は、私たちのゆえに壊された。しかし、私たちは主のうちに罪の贖いを見いだした。涙の川、ささげ物の山、雄牛の血の海、香料の丘……これらは、罪を除くことができなかった。しかし、イエスは私たちのために断たれ、神の怒りの原因はただちに除かれた。なぜなら罪は永遠に清算されたからである。ここに知恵がある。それによって代償――贖いの確実な方法――が案出された。ここにへりくだりがある。神のひとり子、メシヤがいばらの冠をかぶって十字架の上に死なれた。ここに愛がある。その愛は救い主に、彼の敵のためにいのちを捨てさせた。
しかし、罪のないお方が罪人のために血を流された光景に、目を奪われているだけであってはならない。私たちがその中にもつ権利を、確かなものにしなければならない。メシヤの死は、主の教会の救いを目的とした。主は贖いとしてご自身を人々に与えられたが、私たちはその中に入っているであろうか。今、主イエスは私たちの代表であられるか。私たちは主が打たれた傷によっていやされているか。もし主の犠牲にあずかっていないなら、それは実に恐るべきことであり、私たちは生まれなかったほうがよかった。
これらは厳粛な問題であるが、いずれもはっきりと答えられることは喜ばしい。主イエスを信じるすべての者にとって、現に主は救い主であり、信じる者の上に和解の血が注がれている。メシヤの死のいさおしに信頼するすべての者に、主の心を喜ばせよ。彼らが聖なる感謝の心によって、主への全き献身に導かれるように。
 

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