座間コミニティー

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◆そそぎの油とかおりの高い香のための香料……。

2017年11月29日 16時00分35秒 | 聖書
(出エジプト三五・八)
この注ぎの油は律法の下で多くの用途をもち、福音の下でも最も重要なものを代表している。もし私たちが受け入れられる奉仕をしようとするならば、すべての聖い奉仕のために油を注がれる聖霊は、私たちにとって欠くことができない。聖霊の助けがなければ、私たちの信仰上の奉仕はむなしい儀式にすきず、私たちの内なる経験は死んだものである。聖霊の油を注がれない時、私たちの伝道はなんとみじめなものになることだろう!
私たちの祈り、賛美、黙想、クリスチャンとしての個人的努力においても同様である。聖い油を注がれることは、敬虔への道のたましいであり、いのちである。それを欠くことは、すべての不幸のうち最大の不幸である。油注ぎを受けないで主の御前に出るのは、あたかも普通のレビ人が祭司の務めをするようであり、それは奉仕というよりむしろ罪である。どうか、私たちが聖なる油注ぎを受けずに、あえて神聖なるわざに携わることのないように。油は私たちの栄光のかしらなるお方から、私たちの上にしたたる。主に油が注がれることにより、主の衣のすそである私たちも、その豊かな油注ぎにあずかる。
精選された香料は、薬剤師の巧妙な技術によって調合されて注ぎの油となり、私たちに聖霊の感化の豊かさを示す。すべてのよいものは、神である慰め主の中に見いだされる。たぐいない慰め、誤りない教え、不滅のいのち、霊の力、神の聖潔、これらのすべてが、他の高貴なものと結合されて、聖霊の天来の注ぎの油の中に見いだされる。これを注がれる人は、その品性の上に快い香りを受ける。富む者の財宝の中にも賢者の知恵の中にも、これに比すべきものは見いだされない。それは模倣できるものではない。それは神のみから来て、イエス・キリストを通して、すべての待ち望むたましいに無代価で与えられる。
私たちは、それを求めようではないか。なぜなら私たちはそれをもつことができるからである。今夜でも、おお主よ。あなたのしもべに油を注いでください。
 
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「あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、

2017年11月29日 15時59分27秒 | 聖書

あなたは人であって、神ではない」(エゼキエル28:2)

私たちの信仰生活から、平安と喜びを奪うのが、プライドという罪だ。
隠れているのでわからないし、気づかない。種々の問題の根にプライドがある。

エデンの園で、アダムとエバは、サタンに誘惑されたが、その誘惑はプライドに触れて来た。
それを食べると、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになると、神は知っている。
神はそれが嫌なのだとのニュアンスだ。

何で、神に言われなきゃならない?命令されなくてはならない?
サタンは挑んで来た。あなたが神になれば?
神になど命令されずに、自分の事は自分で決めたらよい。
プライドだ。プライドは人の上に立ちたい、支配したい。
自分が上でないと気が済まない。

サウルは、女たちが歌った言葉に、プライドがひどく傷ついた。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」「サウルは千を打ち」だけなら良かった。
何もどうもなかった。
「ダビデは万」が入ったことで、比較となり、自分が一番でない事に、自分が劣ることに、まして女たちに、それも笑いながら言われた事に、激高

プライドが赦さない。妬みは激しい憎悪となり、実際に殺害行動へと発展して行く。
あなたの怒り、妬み、憎しみ・・よく心を御霊に照らされるなら「プライド」へと行き着く。
根にプライドの問題がある。まず自分の姿を知る事が平安への一歩だ。
それを認めて悔い改める時、自由にされる。
---------------
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせ・・・わたしはあなたを地上の灰とした。と続いて記されている。
私達の中に高慢な自我が強く生きている。
何に満足しているのかを神様によく示されますように。


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おはようございます。

2017年11月29日 06時41分16秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年11月29日 06時40分13秒 | キリスト教

聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

3世紀

 セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。

 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人びとを信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人びとがセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。

 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。

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◆喜びの三条件

2017年11月29日 06時38分53秒 | 聖書

悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)
世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。
 
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◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。……

2017年11月29日 06時38分00秒 | 聖書
あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)
人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。
 
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詩篇78篇23-31節

2017年11月29日 06時36分19秒 | 聖書


78:30 彼らがその欲望から離れず、まだ、その食べ物が口にあるうちに、
78:31 神の怒りは彼らに向かって燃え上がり、彼らのうちの最もがんじょうな者たちを殺し、イスラエルの若い男たちを打ちのめされた。


イスラエルの民が主の守りと導きを信頼しないで、パンを求めたり肉を求めた時、主はその彼らの願いを聞き入れて、それらを与えてくださいました。

そして、そうした欲に心が満たされている時、主はそのイスラエルの中の強靱な者、また若くて元気な人々に対して怒りを発せられて、彼らの内に病をもたらして、裁きを行われました。

 彼らが食べ物がない時や飲み物がない時に、それを主に求めたことは、悪いことではありません。

主が問題とされたのは、主が願いをお聞き下さった時、彼らがお腹を満腹にしてそれに満足して、主に対する信頼と誠実さを思い起こそうとはしなかった、そうした姿勢を裁かれたのです。

主の民は、主に感謝をし、たえず主を心に留め、主と共に歩む民であるからです。

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ダニエル書1章8節

2017年11月29日 06時33分42秒 | 聖書


★ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。


■O:今日のコラム
終わりの時代に私たちにやってくるチャレンジの大きなものは、自分のために生きるか?神のために生きるか?であると思います。初代教会の使徒たちも教会に対してこう警告していました。

「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』」(ユダ1:17-18)

ダニエルやシャデラクたちは、終わりの時代のクリスチャンがどう生きるかを教えている信仰者たちです。彼らはネブカデネザルの金の像を拝まず、ただ主を拝み続けました。それは黙示録に出てくる獣の像を拝まない信仰者の姿です。黙示録においては獣の像を拝まなければ買い物ができませんでした。ダニエル書では金の像を拝まなければ生きていけませんでした。

私たちも「自分のために生きるならもっと楽ができるのに」と思うような場面に出くわすでしょう。しかし主のために生きることの小さな積み重ね、主を愛することを選ぶ小さな積み重ねが、重大な決断の場面でも主を選び、愛し続けることにつながっていくと信じます。普段できていないことが大事な場面で急にできることはあまりないでしょう。
 
ここにその決断の場面に向かうまでのダニエルたちのプロセスが描かれています。彼らは主の前にきよく生きるために食べ物に気を付けたのです。何を食べて過ごすか?は私たちがきよくあることと密接な関係があります。それは霊的には何を聞いているか?何を見ているか?何を楽しんでいるか?なのです。

TVドラマを楽しみにして見ている人は、会話の中にもドラマの話が出てくるでしょう。鼻歌で出てくる歌は、いつも聞いている音楽ではないでしょうか?私たちは、入れたものが出てくるようになっています。入っていないものは出てきません。何を入れているか?が私たちから何が出てくるのか、つまりどう生きるかを決めるのです。

御言葉を聞き、また見つめ、思いめぐらす習慣をつけましょう。これは霊的な食物です。良い食べ物は健康にとって大切なのです。悪い食べ物は健康を害します。

「口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。」(ヨブ12:11)

「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」(箴言18:8)

また、王の食べるごちそう、王のぶどう酒は、世の楽しみ、快楽ということもできると思います。この「ごちそう」という語はダニエル書だけで使われる語でへブル語で「パグサグ」という語ですが、他のごちそうという語とは区別してあります。その意味は、王のごちそうなのです。世の王、世の支配者が「美味しい」といって食べる物です。それは贅沢を楽しむここと関係があります。

私たちは、世において多くのものを楽しむことが出来ることを感謝します。それらは良いものです。しかし、それらに心が支配され、中毒になり、なければ不幸だと考えるなら悪いものになってしまいます。あれば主に感謝、なくても主がおられることに感謝です。

主のために生きるのであれば、むしろ主の喜びのために何を食べるか?ではないでしょうか?



■A:考えてみよう
御言葉を朗読し、自分自身に聞かせ、語られた御言葉のともしびを昼に夜に口ずさみ、思いめぐらし、その成就を期待し、感謝を捧げましょう!
また、悪い言葉、想像、感情を握ることを拒みましょう。



■P:祈り
以下の祈りを捧げましょう。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1篇) 



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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11月28日(火)のつぶやき

2017年11月29日 02時36分41秒 | 仏教
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