座間コミニティー

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◆私たちは、この御子のうちにあって、

2017年11月27日 18時58分19秒 | 聖書
御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ一・七)
どの国語でも、「赦し」という語が罪人の耳に響く時ほど、快いものがあろうか。それは、捕われのイスラエル人に対して釈放の喜びを告げる銀鈴のようである。まことに、永遠に賛美すべきは、刑罰の監房の中にさし込む赦しの星明かりである。それは失望の真夜中に、滅びようとしている者に希望の光を与える!
罪、しかも私のような者の罪が赦され、全く永遠に赦されることがあり得るのだろうか。罪人である私にとって、地獄こそ相続分である。罪が私から離れない以上、地獄から逃れ得る可能性はない。罪の重荷を取り除き、深紅のしみを取り去ることができようか。主はあなたもきよめられると、私に告げられる。贖いの愛の啓示こそ、とこしえに賛美すべきものである。それは私に、赦しが可能であることを告げるだけでなく、イエスに憩うすべての者に対してそれが保証されていることを告げる。
私は、神が定められたなだめの供え物、十字架にかかられたイエスを信じた。それゆえ私の罪は、この瞬間にもまた永遠にわたっても、主の身代わりのご苦難と死によって赦されている。これは、なんという喜びであろう! 完全に罪赦されたたましいの幸いよ! 私のたましいは、すべての力を主におささげする。
主は金銭で買えない愛をもって、私の保証人となり、御血によって私を贖われた。この代価の赦しは、なんと豊かな恵みを示していることか! ここに美しくきらめく驚異の集まりがある。さらに私が自分の罪の大きさを思い、それをきよめられた血潮の尊さを思い、赦しが確保された方法がどんなにあわれみに満ちているかを思う時、私は驚嘆し、崇拝の思いに自らを忘れる。
私は、自分を赦された主の御座の前にひれ伏し、私を解放した十字架を抱き、この後の生涯をささげて、受肉された神にお仕えしたい。今夜、私は主によって赦されたたましいである。
 
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「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ・・

2017年11月27日 18時57分16秒 | 聖書

いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)

私たちは、皆、主によって罪が赦された。
しかし、まだ肉の性質があり、主に拠り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。
血潮により罪赦されているが、今後いっさい罪を犯さなくなるわけではない。

私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。
ある著者は、その罪を私たちが他人の中に見つけるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にあると気づく人はほとんどないと言っている。

その罪とは、高ぶり、プライドといったものだ。明けの明星が天から落ちたのは、この高ぶりだった。
高慢はサタンの最たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢だ。
カインはアベルの献げ物だけが受け入れられた事に嫉妬し、弟を殺害した。プライドが傷ついたためだ。

人々が「天に届く塔を建て、名をあげよう」とバベルの塔を建てたのも高慢のゆえだ。
サウルがダビデをつけ狙ったのも、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との女達の言葉がプライドに突き刺さった。

プライドは神を愛する事の対極にある。プライドは自らを高め、自らを神とし、人より上でなければ気が済まない。
自らの破れた状態を知り、無力を認め、へりくだり、ただ神の愛ゆえに今ある事を知る人は、神を「愛して」行く。
「プライド」と「愛」は、決して相容れないものだ。

-------------
プライドでしか生きる事の出来ない者を、まず主が愛して下さった。
ご自身を卑しくし、死にまで、十字架の死にまで従い、贖って下さったご愛、自分を捨てられない者のために「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」をじっと見つめよう。


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おはようございます。

2017年11月27日 07時25分16秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年11月27日 07時24分29秒 | キリスト教

聖ヤコボ・インテルチーズス

5世紀

 ヤコボは、ペルシャに生まれ、信仰深く育てられた。ペルシャ国王エディゲルド1世に仕えていたが、420年ころから王がキリスト教を迫害し始めると、王の信頼を失うことを恐れて棄教した。王の死後、ヤコボの両親は、信仰を捨てたことで彼を責め、彼との関係を断つという手紙を送った。ヤコボは、大きな衝撃を受け、宮廷を去って、回心することを誓った。それを聞いた次の王バーラムは、ヤコボが棄教しないなら彼を処刑せよと臣下に命じた。

 しかしヤコボは、決して信仰を捨てようとせず、「この苦しい死も、永遠の生命を得るためならば比べることなどできない」と言った。そのため、刑を執行する者たちは、王の命令通りに彼の体を切り始めた。多くの信者たちから見守られ、ヤコボは苦痛に耐え祈りながら、殉教した。「インテルチーズス」といわれるのは、「細かく切り刻む」という意味からである。

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◆国を建てる王・滅ぼす王

2017年11月27日 07時23分18秒 | 聖書

王は正義によって国を建てる。
しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。(箴言二九4)
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言一四34)と聖書にありますが、それは、世界の歴史が裏書きしていることだと思います。
「重税を取り立てる者」=「貪欲な王」(D・W・トマス)、「金で動く王」(リビングバイブル)。つまり、自分の欲望の満足のためにのみ治める王は、国を滅ぼします。何億円わいろを受けとっても、「記憶にございません」「私を育てるための献金」などと平気で言える政治家のことを思い出します。こんな人は「国を滅ぼす」と、聖書は言います。
「王は正義によって国を建てる。」……そんな理想的な支配者の姿が、イザヤ書一一章に記されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(1―5節)。
これは、じっくりと勉強するなら、最高の帝王学です。神に立てられて王となったという深い自覚のもとに、神を恐れる精神。神に従って、正しく真実に生きる人格と生活。何が人民のために正しく幸福なことかを悟る知恵。将来を見通して計画を立てる能力。物事の表面でなく、深いところにある真実を見極めてさばく政治。貧しい者・寄るべのない者への行き届いた思いやりのある政治。信賞必罰のはっきりした政治。……ここには、実は、メシヤとして来られるイエス・キリストご自身のイメージが預言されているのです。
 
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◆主の使いの前に立っている大祭司ヨシュア……。

2017年11月27日 07時22分23秒 | 聖書
(ゼカリヤ三・一)
「大祭司」ヨシュアの中に、神の子らの絵を見る。彼はキリストの血によって近づけられ、聖務に携わることを教えられ、幕の中に入る。イエスは私たちを神の前に祭司とし、王とされた。私たちは、地上においても、聖い生活と尊い奉仕によって祭司の務めをなす。
この大祭司は「主の使いの前に立っている」と言われているが、これは奉仕のためであった。これはすべての真の信者がとるべき態度である。すべての場所が今や神の宮であり、神の民は彼らの日々の仕事において、神の家におけるように真実に神に仕えることができる。彼らは常に祈りと賛美の霊の犠牲をささげて仕え、彼ら自身を、「生きた供え物」としてささげなければならない。
しかしヨシュアが仕えるために、どこに立っていたかに注意せよ。それは「主の使いの前」であった。私たちのように、あわれな汚れた者が神の前に祭司となることができるのは、ただ仲保者を通してのみである。
私は自分のもっているものを、使者であり契約の使いであられる主イエスの前にさし出す。私の祈りは主の祈りに包まれて受け入れられる。私の賛美は、キリストご自身の花園から取り出された没薬、アロエ、肉桂の袋に包まれて、尊い香りを放つ。もし私が涙のほかに何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをご自分の涙とともにその皮袋に蓄えられる。かつて主は涙を流されたからである。もし私がうめきと嘆息のほかは何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをみこころにかなう犠牲として受け入れてくださる。主はかつて断腸の思いをし、たましいの苦悩を経験されたからである。
私自身も主にあって立ち、愛する者によって受け入れられている。私のなすすべての汚れたわざは、それ自体は神の憎まれるものであるが、神はそれを受け入れ、それに良い香りさえつけてくださる。主は満足され、私は祝福される。それゆえ、「主の使いの前に立っている大祭司」であるクリスチャンの立場を考えよ。
 
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詩篇78篇9-16節

2017年11月27日 07時20分48秒 | 聖書


78:10 彼らは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、
78:11 神の数々のみわざと、神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった。


エフライムのことを語って、彼らの不信仰の姿勢を非難してしています。

エフライムというのは、部族名です。

しかしここでは、この名は北イスラエルの民全体のことを語って、こう言われています。

そして、この民のことを思って、作者はここで語っているのです。

彼らは主との契約を破り、その求めに従って歩もうとはしなかったというのです。

偶像礼拝に走り、主をのみ神として礼拝しようとはしなかったというのです。

 その原因はどこにあったのでしょうか。

それは彼らが「主が見せてくださったくすしい御業を忘れてしまった」事にあると言っています。

大事なことは主のみことばを学び、日常の生活を通して主の恵みを知ったならば、それをしっかりと心に留め忘れないことだというのです。

つまり、喜びに満ちた信仰は、主の恵みを「味わい、知り、忘れない」ことにある、と言っているのです。

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ヤコブの手紙5章8節

2017年11月27日 07時18分20秒 | 聖書


★あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。


■O:今日のコラム
先日、小1の息子が学校の漢字テストでうまく書けなかった漢字を家で練習しているのを覗くと、「雨、雨、雨、、、」とひたすら「雨」を書いていました。ふと窓の外を見ると、雨、雨、雨。洗濯物がなかなか乾かないので「は~、また雨か。」と、ついつぶやいてしまう今日この頃ですが、「雨」は主の祝福の証拠です。

イスラエルにおいては、新年を迎え、「大贖罪日」「仮庵の祭り」が終わると、一年で最初の雨が降ります(この秋は仮庵の祭りの期間中に大雨が降りました)。日本においても、この秋のシーズンに、毎日のように恵みの雨が降り注いでいます(神様、雨を感謝します!)。今年(5778年)、エルサレムと日本に特別なリバイバルの大雨が降ると信じ、宣言します。

主の日が近い今、自分の立つべき場所にしっかりと立ち、耐え忍び、心強くありましょう。日々の忙しさや繁栄、この世の心遣いによって、神様のご計画から外れることがあってはなりません。

耐え忍ぶことについて学ぶために、ヤコブは農夫のたとえを使っています。イスラエルの土地は、地中海性気候なので、雨は貴重な資源です。乾季の間は、どんなに空を見上げても絶対に雨は降りません。ひたすら雨の季節の到来を待つばかりなのです。

「見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7b)

このように私たちも、これまで霊的乾季のような状態だった自分自身の内側に、家族の問題の中に、日本に、リバイバルの到来を宣言し続けましょう。涙と叫びをもって祈る聖徒たちの祈りの声は天に届いています。

「主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:3b)

主が戻って来られるのは、私たちが思うよりももっと早いことを覚えます。日々目を覚まし、主の戻って来られる道備えをしていきたいと願います。

主の再臨に貢献する、最もシンプルな備えを見てみましょう。今日の箇所の続く節にあります。

「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」(ヤコブ5:9)

日々、つぶやきたくなる状況はたくさんあると思います。終わりの時代は悪い時代なので、ますますその誘惑は増してくるでしょう。

しかし、そのような戦いの中にあっても、絶えず私たちの口がイエス様の血潮によって聖められ、神様への感謝、賛美、神様の素晴らしさを告白するなら、私たちは神の栄光の現れを見るようになります。神が神であり、神が義であること、私たちの口をもって神の偉大さを証ししていくことは、再臨につながる、いと高き召しです。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:13-14)

どのような状況にあっても、私たちの口をもって神様に愛を表していきましょう。




■A:考えてみよう
主の日に備えて、つぶやきを捨て、神の証人として真理のみことばを宣言していきましょう。
私たちの口の告白を意識して変えましょう。





■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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11月26日(日)のつぶやき

2017年11月27日 02時41分26秒 | 仏教
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