座間コミニティー

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おはようございます。

2017年11月14日 07時44分22秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年11月14日 07時43分17秒 | キリスト教

聖ヨセフ・ピニャテリ

1737年-1811年

 ピニャテリは、スペイン、サラゴサの貴族の家に生まれ、幼いころに両親を亡くし、姉のもとで育てられた。15歳でイエズス会に入り、1762年に司祭となって幼児教育や、慈善事業に携わった。特に、死刑を宣告された人びとを慰め、回心に導くなど「犯罪人の父」と呼ばれた。

 当時、ヨーロッパでは啓蒙主義が盛んであった。それに基づいて社会を改革しようとした国王カルロス3世は、カトリック教会を破壊することを企て、今まで教育などを指導してきたイエズス会を国外追放処分にした。ピニャテリは同僚とともに船に乗り、飢餓、病気などの苦しみに遭いながら、なんとか教皇の領土に着いた。そこでも苦しい生活を強いられたが、ピニャテリは、皆を励まし会員をまとめる人物となっていった。彼は、その間イエズス会の歴史を研究し、収集した文献は3000点にも及んだ。

 しかし、6年後教皇はブルボン王家の権力に屈し、やむなくイエズス会に解散を命じた。その日から25年間ピニャテリは、イエズス会会員を物質的にも精神的にも支え保護した。その後、教皇の許可がおりてイタリアの地にイエズス会が復興すると、彼はイタリアの管区長を勤めた。ナポレオン時代になると、ピニャテリは、ナポリに移ったが、教皇が追放されるとともに彼も同地を追われ、ローマで亡くなった。彼は、イエズス会の復興の父として尊敬されている。

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◆き よ い 良 心

2017年11月14日 07時41分38秒 | 聖書

悪者は追う者もないのに逃げる。
しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言二八1)
国会に引き出された疑惑の証人たちが「さあ、忘れました。記憶にございません」と、のらりくらり答弁する苦渋に満ちた顔を、私たちはテレビで見ました。しかしペテロとヨハネは、七十人議会に引き出されても堂々としていました。悪びれた様子もなく、臆することもありませんでした。無学のガリラヤの漁師にすぎないのに、なぜかとみながあやしみました。そして、ああ、やはりイエス・キリストといっしょにいた人たちだったと言ったと、聖書にあります。
宗教改革者マルティン・ルターも、大勢の告発者の前でウォルムスの会議の真ん中に立ち、「私と私の良心がここに立っています。神よ、助けたまえ。アーメン」と言ったといいます。若獅子のように雄々しい姿です。
良心に責めを持つ人・ゆるされていない、きよめられないままの人はどうでしょう。
第一に、いつも不安で、人の顔を恐れ、神の顔を恐れて逃げまわります。ねたみから弟アベルを殺したカインは事業には成功しましたが、一生恐れに満ちたさすらいの人生を送りました。第二に、けがれた良心からは、人生の力は少しもわいてきません。第三に、けがれた良心のままでは、人生は破船します。罪は、必ず最後に、あなたを見つけ出すのです。
どうしたらきよい良心を持つことができますか。イエス・キリストを銀貨三十枚で敵の手に売り渡したイスカリオテ・ユダは、その金を返そうとしました。受けとってもらえないと知ると、金を捨てました。きよめられずに不安な彼は、首つりして死んだのです。良心のきよめは、どんな努力やささげ物でも買えません。イエス・キリストの血潮の中に、悔いたくだけた心を投げ出すほかに道はありません。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一7)。
 
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◆(わたしは)主に誓いを立てて礼拝しながら、

2017年11月14日 07時40分48秒 | 聖書
ミルコムに誓いを立てる者ども……を断ち滅ぼす。(ゼパニヤ一・五、六)
この種の人々は、二つの道を兼ねているから安全だと思っている。彼らは主に従う者と行動を共にし、また同時にミルコムにも頭を下げている。しかし、神は二心の者をいとい、偽善を憎まれる。偽りの神に傾倒している偶像崇拝者は一つの罪を犯すだけである。しかし、汚れた忌まわしい犠牲を主の宮に携えてきながら、他方では世と世の罪に心を傾けている二心の者は、二つの罪を犯している。だから、彼らよりもさらに罪深いのである。日常生活においても、二心の者は軽蔑される。そして信仰においては、これは極度に嫌悪されるべきものである。
今朝の聖句に宣言されている罰は恐ろしいものであるが、それは当然の報いである。なぜなら、正しいと認めてそれに従うことを公言しながら、他方において悪を愛してそれに心をゆだねている罪人を、神の義が赦すはずがないからである。
私のたましいよ。今朝おまえ自身を探り、おまえが二心の罪を犯しているかどうかを見よ。おまえはイエスに従うことを公言しているが、真に主を愛しているか。おまえの心は、神と正しい関係にあるか。おまえはあの『天路歴程』の中の「正直氏」の家族か。または「二心氏」の家族か。血筋や家系も、もし私が咎と罪に死んでいたならば、何にもならない。片足を真理の地に置き、他の足を偽りの海に置けば、恐ろしい倒壊と破滅の危険を招くことは間違いない。キリストは私たちにとって、すべてか無かのどちらかである。
神は全宇宙を満たしておられる。だから他の神を入れる余地はない。もし神が私の心を支配しておられるなら、他の支配力を入れる余地は全くない。
私は十字架にかかられたイエスのみに憩い、主のためにだけ生きているか。そうしたいと願っているか。そう決意しているか。もしそうであるとすれば、私を救いに導いた力強い恵みはほむべきかな。しかし、もしそうでないなら、主よ、私の悲しむべき罪を赦し、私の心をしてあなたの御名を恐れる者としてください。
 
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詩篇75篇2-5節

2017年11月14日 07時38分22秒 | 聖書


75:2 わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。
75:3 地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。


 混沌と混乱が世界を支配し、歴史が流れていくように感じられます。

しかし、違います。

世界の歴史を導き、又そこに目的をもって行動するお方がおられるのです。

それは、この宇宙と地球を造られた、主なる神ご自身です。

このお方が、歴史の主です。

このお方によって歴史は導かれ、このお方の目的のために、この世界の歴史は営まれているのです。

では、その主のご計画の実現はいつなのでしょう。

それは「わたしが、定めの時を決め」と語っておられるように、主がそのご計画の実現の時を決められます。

私たちには、それがいつであるのかわかりません。

しかし主は、必ずそのようになされると言われるのです。

それはこの世の終末の時、終わりの時です。

終わりというのは、通常は悲劇です。

しかし、私たちにとっては勝利の時、主の御心の完全な実現の時なのです。

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第一テモテ1章15節

2017年11月14日 07時36分05秒 | 聖書


★「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。


■O:今日のコラム
今日の箇所にはイエス様がこの世に来られた目的が書かれてあります。イエス様は文字通り罪人を救うために世に来られました。パウロはイエス様のこの言葉を聞いていたのでしょう。

「すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(マタイ9:11-13)

私たちが罪という病にかかっていることを悟るときに、初めて医者であるイエス様が必要になるのです。そして、イエス様が私たちと一緒に食事をしてくださり、親しい関係を築いてくださるのです。

時に信仰生活が長くなると、クリスチャンの内側に喜びが無くなり、十字架の恵み、感動が薄れてしまうことがあります。なぜでしょうか?それは、私たちが罪人であるということを忘れてしまうからです。罪人であるとの自覚があるところにイエス様との関係が生まれます。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:8)

恵みを受けて私たちクリスチャンは救いを受けました。しかし、私たちの古き罪の性質は相変わらず残ったままなのです。クリスチャンになった後でも罪を犯してしまうことがあります。救いの一番最初に悔い改めたことに満足して、日々の悔い改めを忘れてしまうのです。いつの間にか罪を持ち続けることの恐ろしさを忘れてしまいます。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10:26-27)

厳しい御言葉ですが、これが罪を持ち続ける恐ろしさです。罪を犯すところに平安はありません。喜びは消えてしまいます。クリスチャン生活に命が無くなってしまいます。日々の生活の中で罪を悔い改めることによって、イエス様との関係が生きたものとなります。

サタンは、クリスチャンを悔い改めに進ませないように偽りを入れて来ます。どのような偽りでしょうか?
「恵みを放縦に変えること」によってです。ユダの手紙に詳しく書いてありますが、恵みを罪を犯す機会にしてしまうのです。
「恵みによって罪赦されるから、何度でも罪を犯しても大丈夫」
「恵みだから、自分は変わらなくてもありのままで大丈夫」
このような考えです。

神様の御心は私たちが聖くなり、イエス様の似姿へと成長することです。恵みを受けた私たちが罪を犯し続けることは決して望んではおられません。

もし私たちが罪を犯したならば、すぐに悔い改めましょう。イエス様の十字架の血潮によって悔い改めるならば、どんな罪でも必ず赦されます。もし100回罪を犯したならば、100回十字架の元に走りより、血潮を宣言して悔い改めをしましょう。そして、何度でも罪の赦しの恵みを受け取るのです。

罪を犯したら、自分を責める思いがやって来るのも事実です。責めの思いをいつまでも持ち続け、自分を懲らしめたとしても、そこには何の解決を得ることは出来ません。

罪を犯した事実よりもさらに大きな十字架の贖いの事実に目を向け、すぐに悔い改めに入ることです。サタンは私たちが罪を犯したら訴えて来ます。私たちはサタンの訴えに耳を貸さず、ただ十字架の血潮だけを宣言するようにしましょう。

罪人であることを悟り、悔い改めに入ることは簡単なことではありません。大変惨めで辛いところを通ります。なぜなら、自分のプライドが折られるからです。私たちの自己中心の性質は根強いからです。

だからこそ悔い改めには聖霊様の力が必要なのです。私たちは祈り求め、聖霊様の力を体験しましょう。聖霊様の力の真髄は、私たちではどうすることも出来ない、古い肉の性質を造り変えるところにあるからです。

「私たちはみな、 顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

私たちの内側に聖霊様がおられることが希望です。日々の悔い改めを通して、新たにイエス様の十字架の恵みを体験し、命溢れる豊かなクリスチャン生活を送っていきたいと思います。

皆様の上に、イエス様の豊かな恵みが今日もありますように。



■A:考えてみよう
日々の生活の中で、習慣的に犯してしまう罪があるでしょうか?もしあるならば、十字架の血潮を宣言して悔い改めに進んでいきましょう。
あきらめないで悔い改め続けるならば、必ずその罪に勝利する力を神様は恵みによって与えてくださいます。



■P:祈り



愛する、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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11月13日(月)のつぶやき

2017年11月14日 02時36分38秒 | キリスト教
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