情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

知らなきゃ判断できないじゃないか! ということで、情報流通を促進するために何ができるか考えていきましょう

「沖縄ノート」訴訟、控訴審判決に感動!

2009-02-21 05:26:39 | メディア(知るための手段のあり方)
 昨日、あの「沖縄ノート」訴訟を担当した近藤卓史弁護士、秋山淳弁護士による地裁・高裁判決の説明会が弁護士会館で開かれた。この訴訟は、沖縄ノート(大江健三郎著)などにおいて、集団死を命じたと記載された旧日本軍隊長及び遺族が名誉を毀損されたなどとして、提起したもの。地裁での出版社側勝訴に引き続き、昨年末、高裁でも、出版社側勝訴判決が下された。

 この訴訟で興味深いのは、当初出版されたとき以降、現在までの間に、隊長の命令について否定的な情報が新たに流れているため、現時点での出版が、真実相当性(真実であると信じることが相当であること)が失われ、名誉毀損が成立してしまうのではないか、ということだった。

 一審の大阪地裁は、現時点でも、真実相当性があると言い切った。しかし、一審段階で、文科省がいったんは、集団自決に日本軍が関与したとの記述を削除するよう修正意見を求めたことがあり(その後、軍の関与を認める方向に再度修正)、単純に「現時点でも真実相当性がある」と言い切るだけでよいかという疑問もある。

 そこで、控訴審は、当初の出版時に真実相当性があることを前提としつつ、版を重ねる過程で新たな情報が加わった場合について、

1:高度な公共の利害に関する事実に関する記述であること
2:もっぱら公益を図る目的であること
3:公務員に関する事実であること
場合には、

不法行為を形成し、出版差し止めができるのは、

1:新たな資料によって内容が真実ではないことが明白となり、
2:名誉などを毀損された者がその後も重大な不利益を被っており、
3:発行を継続することが社会的な許容の限度を超える

場合に限定されると判示した。

 このうち、公務員に関する事実であることを要件の一つとしていると見るかどうかは争いがあると思うが、もし、大阪高裁がそのような判断をしたとしたら、これは、これまでの最高裁判例(公務員を公共性の一要素と考えており、公共性とは別の要件とはしていない)から一歩踏み出したものであり、非常に評価できる。すなわち、公務員=公人であることが名誉毀損の成立を妨げる条件ともなりうることは、公人に対する批判をしやすくするものであり、より民主的な社会になるということだからだ。

 もっとも、高裁が「公務員」とひとくくりにしたのは非常に残念で、ここは、「命令強制を伴う公権力を行使する公務員」などに限定してほしいところではある。

 とはいえ、この判決が、米国のように、公人に対する批判は、それが真実ではないこと及び執筆側に害意があることを書かれた公人側が立証しない限り、名誉毀損にはならないという方向に動いていくきっかけとなることを大いに期待したい。

 末尾に該当部分を引用するので、興味ある方は、私の個人的な期待が的を射ているかどうか、検討してほしい。

 ところで、この判決に感動したのは、上記のような判断基準を導くに当たって、

「特に公共の利害に深く関わる事柄については,本来,事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ,それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ,更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして,その時代の大方の意見が形成され,さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくというような過程をたどるものであり,そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。特に,公務員に関する事実についてはその必要性が大きい。そうだとすると,仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も,言論の場において無価値なものであるとはいえず,これに対する寛容さこそが,自由な言論の発展を保障するものといえる。」

としている部分だ。

 公共の利害に関わる主張は間違っていても、それに対する寛容さが必要だ…という議論こそが、表現の自由の重要性のためには、必要であり、「間違ってはならない」という永田議員事件のような批判は、言論を萎縮させてしまう。ここも、この判決の重要なポイントの一つだ。

この訴訟を担当された近藤弁護士らだけでなく、このような判決を下した大阪高裁の裁判官にも敬意を表したい。


■■大阪高裁判決一部引用開始■■
 人格権としての名誉権に基づく出版物の印刷,製本,販売,頒布等の事前差止めは,その出版物が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価,批判等に関するものである場合には,原則として許されず,その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって,かつ,被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り,例外的に許される(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。
 本件では,既に出版され,公表されている書籍の出版等差止めを求めるものであるが,表現の自由,とりわけ公共的事項に関する表現の自由の持つ憲法上の価値の重要性等に鑑み,原則として同様に解すべきものである。さらに,本件のように,高度な公共の利害に関する事実に係り,かつ,もっぱら公益を図る目的で出版された書籍について,発刊当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ,長年にわたって出版を継続してきたところ,新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだというような場合にあっては,直ちにそれだけで,当該記述を改めない限りそのままの形で当該書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当でない。そうでなければ,著者は,過去の著作物についても常に新しい資料の出現に意を払い,記述の真実性について再考し続けなければならないということになるし,名誉侵害を主張する者は新しい資料の出現毎に争いを蒸し返せることにもなる。著者に対する将来にわたるそのような負担は,結局は言論を萎縮させることにつながるおそれがある。また,特に公共の利害に深く関わる事柄については,本来,事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ,それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ,更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして,その時代の大方の意見が形成され,さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくというような過程をたどるものであり,そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。特に,公務員に関する事実についてはその必要性が大きい。そうだとすると,仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も,言論の場において無価値なものであるとはいえず,これに対する寛容さこそが,自由な言論の発展を保障するものといえる。したがって,新しい資料の出現によりある記述の真実性が揺らいだからといって,直ちにそれだけで,当該記述を含む書籍の出版の継続が違法になると解するのは相当でない。もっとも,そのような場合にも,①新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白になり,他方で,②当該記述を含む書籍の発行により名誉等を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり,③当該書籍をそのまま発行し続けることが,先のような観点や出版の自由などとの関係などを考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超えると判断されるような場合があり得るのであって,このような段階に至ったときには,当該書籍の出版をそのまま継続することは,不法行為を構成すると共に,差止めの対象にもなると解するのが相当である。
■■引用終了■■






【PR】




★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
※このブログのトップページへはここ←をクリックして下さい。過去記事はENTRY ARCHIVE・過去の記事,分野別で読むにはCATEGORY・カテゴリからそれぞれ選択して下さい。
また,このブログの趣旨の紹介及びTB&コメントの際のお願いはこちら(←クリック)まで。転載、引用大歓迎です。


最新の画像もっと見る